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遠賀町の偉人(力のない者のためにパンドラの箱を開けた官僚 高崎 節子)

ページID:0001493 更新日:2024年2月19日更新 印刷ページ表示

力のない者のためにパンドラの箱を開けた官僚

 高崎節子を知っていますか。
 高崎節子は遠賀町にゆかりのある女性です。若いころから作家を志し、文学者たちと交流を深めつつ培ってきた執筆力で、戦中・戦後の激動の時代に女性や子どもの人権保護に尽力しました。その魅力あふれる、生涯の軌跡をたどります。

高崎節子特集号表紙
高崎節子特集号表紙​[PDFファイル/504KB]

高崎節子特集号1ページ
高崎節子特集号1ページ​[PDFファイル/411KB]

高崎節子特集号2ページ
高崎節子特集号2ページ​[PDFファイル/1.08MB]

高崎節子特集号3ページ
高崎節子特集号3ページ​[PDFファイル/465KB]

高崎節子特集号4ページ
高崎節子特集号4ページ​[PDFファイル/672KB]

高崎節子特集号5ページ
高崎節子特集号5ページ​[PDFファイル/875KB]

高崎節子特集号6ページ
高崎節子特集号6ページ​[PDFファイル/459KB]

高崎節子年表

明治43年(1910年) 東京都文京区小石川で生まれる
大正5年(1916年) 福岡県遠賀郡島門村の島門尋常高等小学校へ入学
大正11年(1922年) 父の転勤に伴い朝鮮・仁川小学校へ編入し、その後、大邱高等女学校へ進学
大正12年(1923年) 帰国し大分県別府市に居住
別府高等女学校へ編入
大正15年(1926年) 別府高等女学校を卒業
福岡県女子専門学校へ入学
昭和4年(1929年) 福岡県女子専門学校を卒業
九州帝国大学法文学部聴講生となる
昭和5年(1930年) 朝鮮平安北道新義州高等女学校で教壇に立つ
家庭の事情により帰国その後一時行方不明となる
昭和6年(1931年) 「女人芸術」8月号で「支那との境」を発表
昭和7年(1932年) 大阪で危篤状態となるが奇跡的に回復
昭和8年(1933年) 福岡へ戻り、高崎印刷所で勤務
昭和10年(1935年) 機械工学専門エンジニアの山下利助と結婚
昭和14年(1939年) 「婦人公論」6月号で「山峽」が入選
昭和17年(1942年) 福岡女学校で教壇に立つ
昭和20年(1945年) 朝日新聞西部本社企画部・婦人部嘱託となる(九州タイムズで女性労働関係を執筆)
昭和21年(1946年) 朝日新聞・婦人政治推進委員となり、朝日婦人文化創立会長に就任
自由人協会常任理事、雑誌「自由人」編集委員に就任
昭和22年(1947年) 福岡県婦人団体協議会の発足に尽力
衆議院議員福田昌子と婦人児童問題研究所を設立
日本国憲法施行日に夫・山下利助氏と離婚
筑紫海会(福岡女子大学同窓会)の初代会長に就任
昭和23年(1948年) 福岡女学校退職
労働省福岡婦人少年室主任に就任
昭和24年(1949年) 労働省神奈川婦人少年室長に就任
この頃、エリザベス・サンダース・ホームの沢田美喜を支援
昭和25年(1950年) 筑紫海会会長を辞任
昭和27年(1952年) 著書「混血児」発表。その後映画化
昭和28年(1953年) 労働省東京婦人少年室長に就任
昭和29年(1954年) 著書「人身売買」発表
昭和30年(1955年) 女性・児童問題視察のためブラジルを訪問
昭和32年(1957年) 「新聞を配る少年保護育成の会」を設立
昭和33年(1958年) 有栖川宮記念公園で「新聞を配る少年の像」除幕式を行う
昭和36年(1961年) 労働省婦人少年局・婦人少年行政監察官に就任
昭和39年(1964年) 法務省東京婦人補導院へ異動となり、その後院長に就任
昭和46年(1971年) 法務省東京婦人補導院を退職
昭和48年(1973年) 病死(享年63歳)
昭和51年(1976年) 高崎節子追悼集「むらさき」が出版
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