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遠賀町の偉人(力のない者のためにパンドラの箱を開けた官僚 高崎 節子)
力のない者のためにパンドラの箱を開けた官僚
高崎節子を知っていますか。
高崎節子は遠賀町にゆかりのある女性です。若いころから作家を志し、文学者たちと交流を深めつつ培ってきた執筆力で、戦中・戦後の激動の時代に女性や子どもの人権保護に尽力しました。その魅力あふれる、生涯の軌跡をたどります。
高崎節子年表
明治43年(1910年) | 東京都文京区小石川で生まれる |
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大正5年(1916年) | 福岡県遠賀郡島門村の島門尋常高等小学校へ入学 |
大正11年(1922年) | 父の転勤に伴い朝鮮・仁川小学校へ編入し、その後、大邱高等女学校へ進学 |
大正12年(1923年) | 帰国し大分県別府市に居住 別府高等女学校へ編入 |
大正15年(1926年) | 別府高等女学校を卒業 福岡県女子専門学校へ入学 |
昭和4年(1929年) | 福岡県女子専門学校を卒業 九州帝国大学法文学部聴講生となる |
昭和5年(1930年) | 朝鮮平安北道新義州高等女学校で教壇に立つ 家庭の事情により帰国その後一時行方不明となる |
昭和6年(1931年) | 「女人芸術」8月号で「支那との境」を発表 |
昭和7年(1932年) | 大阪で危篤状態となるが奇跡的に回復 |
昭和8年(1933年) | 福岡へ戻り、高崎印刷所で勤務 |
昭和10年(1935年) | 機械工学専門エンジニアの山下利助と結婚 |
昭和14年(1939年) | 「婦人公論」6月号で「山峽」が入選 |
昭和17年(1942年) | 福岡女学校で教壇に立つ |
昭和20年(1945年) | 朝日新聞西部本社企画部・婦人部嘱託となる(九州タイムズで女性労働関係を執筆) |
昭和21年(1946年) | 朝日新聞・婦人政治推進委員となり、朝日婦人文化創立会長に就任 自由人協会常任理事、雑誌「自由人」編集委員に就任 |
昭和22年(1947年) | 福岡県婦人団体協議会の発足に尽力 衆議院議員福田昌子と婦人児童問題研究所を設立 日本国憲法施行日に夫・山下利助氏と離婚 筑紫海会(福岡女子大学同窓会)の初代会長に就任 |
昭和23年(1948年) | 福岡女学校退職 労働省福岡婦人少年室主任に就任 |
昭和24年(1949年) | 労働省神奈川婦人少年室長に就任 この頃、エリザベス・サンダース・ホームの沢田美喜を支援 |
昭和25年(1950年) | 筑紫海会会長を辞任 |
昭和27年(1952年) | 著書「混血児」発表。その後映画化 |
昭和28年(1953年) | 労働省東京婦人少年室長に就任 |
昭和29年(1954年) | 著書「人身売買」発表 |
昭和30年(1955年) | 女性・児童問題視察のためブラジルを訪問 |
昭和32年(1957年) | 「新聞を配る少年保護育成の会」を設立 |
昭和33年(1958年) | 有栖川宮記念公園で「新聞を配る少年の像」除幕式を行う |
昭和36年(1961年) | 労働省婦人少年局・婦人少年行政監察官に就任 |
昭和39年(1964年) | 法務省東京婦人補導院へ異動となり、その後院長に就任 |
昭和46年(1971年) | 法務省東京婦人補導院を退職 |
昭和48年(1973年) | 病死(享年63歳) |
昭和51年(1976年) | 高崎節子追悼集「むらさき」が出版 |