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遠賀町の偉人(幕末維新の志士 早川 勇)
幼少期
早川さんは天保3年(1832)年7月23日、遠賀郡虫生津村(現遠賀町虫生津)に、嶺直平(みねなおへい)の三男として生まれました。少年時代は病気がちで気弱だったため、隣近所の子どもと遊ぶこともできませんでしたが、長楽寺の和尚に目をかけられ、長楽寺の境内で遊ぶことが多かったそうです。弘化元(1844)年、赤痢に感染。数か月間、回復の兆しが見られなかったため、子どもながらに死を覚悟しました。しかし、見舞い客の勧めで念仏を一心に唱え続けたところ、それまでの病状がうそのように回復したと言うエピソードがあります。その後、弘化3(1846)年に福岡へ赴き、月形漪嵐(つきがたきらん)の塾で学びます。このとき、天皇を尊敬するべきであることを教えられ、後年、勤王に励むことになります。
注記:勤王=天皇に忠義を尽くすこと。
上京
嘉永2(1849)年、早川さんは藩医の板垣養永(いたがきようえい)に就いて医学を学び、養永に従って江戸におもむくと、佐藤一齋(さとういっさい)、藤森弘庵(ふじもりこうあん)、大橋訥庵(おおはしとつあん)と様々な人のもとで儒学を学びました。
嘉永5(1852)年、福岡に帰って来ると、翌年のペリー来航で世の中が騒然とする中、月形洗蔵(つきがたせんぞう)ら福岡藩の勤王党の志士と交わり、勤王討幕の志士として活躍しました。
安政元(1854)年に結婚。翌年、現在の宗像市吉留の医師、早川元瑞(はやかわげんずい)の養子になりました。
五卿の西遷
その後、早川さんは当時二大勢力であり、対立していた薩摩・長州藩を連合させて、行き詰った政局を打開させようとしていました。元治元(1864)年長州藩の高杉晋作(たかすぎしんさく)、薩摩藩の西郷隆盛(さいごうたかもり)を下関の対帆楼(たいはんろう)で秘密のうちに会談させることを命を懸けて成功させました。この会談によって、それまでの対立を解消させ、倒幕への道筋をつくりました。近代日本の夜明けとなった、両雄の会談をうたった漢詩が、早川さんの直筆で掛け軸に残っています。そして、山口長府の功山寺に都落ちしていた三条實美(さんじょうさねとみ)ら五卿を大宰府に迎えました。
薩長連合そして倒幕
徳川幕府を倒し、維新の偉業を成し遂げたのは、薩摩、長州の連合が実現したためです。これを実現したのは土佐藩の坂本竜馬(さかもとりょうま)、中岡慎太郎(なかおかしんたろう)の活躍によるものですが、実はその2年余前に早川さんが、薩摩、長州連合の必要性を提唱していました。それに中岡慎太郎が共鳴したことが原動力になりました。このように、早川さんはその先駆者として、近代日本の進路に大きく関わっていたのです。
乙丑(いっちゅう)の獄
大役を果たして帰郷してみると、福岡藩の佐幕派が勢力を得て、早川さんたち勤王党は手の施しようがない状態でした。慶応元(1865)年『乙丑の獄』で佐幕派は、総崩れ状態になった勤王党の全滅を計画。勤王党の志士は投獄され、同志の月形洗蔵たちは斬首されてしまいます。早川さんも勤王党ということで慶応元年6月に入獄させられました。
福岡藩ではこの時、維新で活躍する人材をほとんど失ってしまいます。『乙丑の獄』は、長州再征のあわただしさの中で起こった悲劇でした。
注記:佐幕=幕府を補佐すること
大政奉還そして明治へ
早川さんが入獄させられている間、討幕の世論はいよいよ高まってゆき、慶応3(1867)年10月、薩長両藩に対して討幕の命がくだります。十五代将軍、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は大政を奉還、同年12月にはついに『王政復古の大号令』が発せられました。これにより、摂政・関白などの官職や、幕府という旧朝幕体制は廃絶、総裁・議定・参与の三職を中心とした新政府が発足しました。
この政変で早川さんもようやく解放、明治元(1868)年元旦には、2年半ぶりに吉留の自宅に帰ることになります。同年、監禁生活をしている間に衰えてしまった体を故郷で養っていた早川さんは、奈良府権判事を経て、奈良府藩事に任命されました。しかし、明治3(1870)年、故郷である福岡藩は最大の難関を迎えることになります
福岡藩贋札事件
福岡藩で贋札事件が発覚、藩の会計官史が国法を犯したことが明らかになりました。贋札を作って奥尻で海産物を買い取り、それを函館で売って藩の収入にしていたのです。早川さんは、贋札事件の処理のために、寝食を忘れて取り組んでいましたが、廃藩置県の直前に、藩は取り潰されてしまいました。
この贋札事件のため、当時の藩知事黒田長知(くろだながとも)は奈良県大参事となった早川さんを呼び出して解決にあたらせました。早川さんは、弾正台(だんじょうだい)(現在の検察)の糾問(きゅうもん)に応じ、何度も福岡藩の危機を救ったのです。
晩年の早川さん
明治17(1884)年に元老院大書記官になった後、本人の希望で官職をやめることになりましたが、県知事から在職中の苦労をねぎらわれました。明治24(1891)年、東京で『宗像会』を発足。福岡、宗像、遠賀の後進の育英に勤め、上京者の宿泊や就職などの世話をし、若い人たちの育成に貢献しました。この「宗像会」には、添田寿一さんの名も残っています。
そして明治32(1899)年、享年68歳で亡くなりました。早川さんの銅像は宗像市吉留にあります。皆さん、休日にちょっと足を伸ばして、遠賀町の偉人に会いに行ってみてはどうでしょうか。
- 参考文献「雷鳴福岡藩草莽早川勇伝」栗田藤平著「維新の志士早川勇傳」桧垣元吉著
早川勇年表
天保3年(1832年) | 遠賀郡虫生津村(現遠賀町虫生津)に嶺直平(みねなおへい)の三男として生まれる。 |
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嘉永2年(1849年) | 藩医板垣養永(いたがきようえい)に従い、江戸に赴く。そこで佐藤一齋(さとういっさい)の塾で学び、勤王党の志士と交わる。 |
嘉永5年(1852年) | 江戸から帰国、藩の同志月形洗蔵(つきがたせんぞう)ら勤王党の志士と交わる。 |
安政2年(1855年) | 宗像市吉留の医師早川元瑞(はやかわげんずい)の養子になる。2年後元瑞死去勇24歳。 |
文久3年(1863年) | 筑紫衛と長州に赴き、外国船砲撃を見る。 |
元治元年(1864年)11月 | 箱崎茶屋で、西郷吉之助(さいごうきちのすけ)と会談し、五卿の下行の協議をする。 西郷を訪い薩摩・長州連合の下協議をなし、下関対帆楼(たいはんろう)で西郷・高杉会談に成功、五卿西下で藩に協議し小倉に西郷を再訪する。 |
慶応元年(1865年) | 藩命を受け、長州から五卿に従い赤間、福岡を経て大宰府に移転する。 |
同年3月 | 上京するも藩論一変し帰藩する。 |
同年4月 | 佐幕党のため退けられ、吉留に退く。 |
同年6月 | 福岡六本松の早川重五郎宅で座敷牢に監禁される。乙丑の獄に連座。 |
慶応3年(1867年)12月 | 罪を許され出獄する。 |
明治元年(1868年)1月 | 吉留の自宅に帰る。食禄返還される。 |
同年5月 | 徴士として、明治政府の待詔院に出任する。 |
同年7月 | 奈良府権判事になる。 |
明治2年(1869年) | 奈良府権判事になる。 |
明治3年(1870年) | 福岡藩贋札事件解決のため奔走する。 |
明治7年(1874年) | 司法省出仕。 |
明治8年(1875年) | 司法権大丞になる。 |
明治13年(1880年) | 元老院小書記官になる。 |
明治17年(1884年) | 元老院大書記官になる。 |
明治20年(1887年)1月 | 元老院退官。 |
明治22年(1889年)1月 | 正五位に叙せられる。 |
明治24年(1891年)10月 | 宗像会を発足し、同郷の学生などの面倒をみる。 |
明治32年(1899年)2月 | 病没68歳。従四位勲四等を贈られる。 |
早川勇肖像画
早川勇、元老院大書記の晩年の油絵写真。明治22年60歳。
吉富旧邸(早川勇氏旧邸)宗像市赤間町吉留に現在もそのまま保存されている。
早川勇と三条實美(さんじょうさねとみ)
五卿の三条實美卿との御写真。
慶応3年。右から早川勇、三条實美、左端は野村靖(和作)で、入江九一の実弟。後に逓信大臣などを歴任した。
五卿碑
五卿が赤間宿にて仮泊された地に建立された記念碑。宗像市赤間宿にある。
「五卿西遷之遺跡」
早川勇掛け軸
薩摩の西郷隆盛、長州の高杉晋作を下関料亭にて薩長連合の会談を成功させた業績を早川勇氏が遺墨として残している。
「苦辛緩解腹心披時日恩讐彼一時誰料狭斜絃鼓裏半宵樽爼決安危」
※樽俎(そんそ)=国家の運命をかけた談判のこと
早川勇掛け軸(獄中)
黒田藩の勤皇の志士が乙丑の獄にて投獄処刑されたのを早川勇氏が獄中より慙愧の情を書き残している。
「旧朋屈指悉豪雄半向黄泉半獄中却喜狂愚披連逮不教平日誓盟空為孫恭造録旧作春波勇」
注記:春波勇=早川勇の号