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遠賀町の偉人(明治のテクノクラート 添田 寿一)

ページID:0001495 更新日:2024年2月19日更新 印刷ページ表示

 テクノクラート=技術官僚。技術者・科学者出身、または高度の専門知識を持った行政官や高級官僚。

幼少の添田寿一さん

 元治元(1864)年8月遠賀郡島門村老良(現 遠賀町老良)に、添田新三郎(そえだしんざぶろう)の8人兄弟姉妹の5番目として生まれました。幼少から能筆で顕吾であったため、神童と呼ばれていました。明治2(1869)年、父母に連れられた京都で、伏見の宮家などから揮毫を求められました。京極の妙心寺蛸薬師堂に、「薬師如来」と書かれた扁額が現在も掲げられています。
 注記:揮毫(きごう)=書画を描くこと。
 注記:扁額(へんがく)=建物や門などの名前を書いて掛けてある顎。

諸国行脚

 明治7(1874)年、父新三郎の無欲で慈悲心に富む性格のため、家産が傾いたので父と諸国行脚に出かけることになります。大阪天満宮(大阪市北区天神橋)では揮毫を求められ、「修成」(雅号を筑紫山濤)(がごう ちくしさんとう)と大書した扁額が、今なお文化財として保存されています。この時、臨席していた渡辺昇(わたなべのぼる)大阪知事から、「君は優れた才能がある人物である、本日以降は断然今の生業を廃して、正式の教育を受け、将来国家有爲の人材たるべく心掛けて、専念せよ」と忠告されました。その心からの諭しに深く感銘を受けたそうです。
 その後、明治8(1875)年から、添田さんは日本橋の同郷の老良出身である竹内彌右衛門(たけうちやえもん)の鰹節問屋に居候となり、店を手伝いながら鮫島武之介(さめじまたけのすけ)に英語を学ぶことになります。
 注記:雅号(がごう)=書などで用いるペンネーム。

大学時代 その1

 明治9(1876)年、父の司法省就職に伴い、東京英語学校に入学、その後、大学予備校に入ることになります。
 明治13(1880)年には大阪専門学校に転校。明治15(1882)年藩主黒田家の貸費生になり、黒田長成(くろだながしげ)の学問所に住み込み、東京大学政治経済科に入学しました。
 明治17(1884)年7月、同政治経済科、現在の法学科を卒業し、大蔵省主税局に入省しました。しかし9月には退官し、黒田長成の随行として英国に渡りました。渡英後はケンブリッジ大学に入学し約二年半在学、政治経済を修めました。明治20(1887)年ドイツや欧州各地を遊学し、8月に帰国すると大蔵省主税官になっています。

大学時代 その2

 内外の大学では、講義書は参考程度にし、講義を聴くよりも自由研究を主として、信念をもって自己の政治経済研修に専念しました。ケンブリッジ大学でアルフレッド・マーシャル(イギリスの大経済学者)から学んだ添田さんは、彼から日本の海外通信員に任命され、以後30年余にわたって、王立経済学会誌「エコノミック・ジャーナル」に通信を送り続けることになります。この通信を送り続けたことで、日本の政治経済社会の広範囲にわたる情報交換が世界に向けて行われることになり、日本の発展に多大の貢献をしました。

貨幣法発布へ

 明治23(1890)年には大蔵省参事官、明治24(1891)年5月には大蔵大臣秘書官を務め日本の会計法案、国立銀行法、勧業農工、興行など銀行金融に関する法令の立案成立に苦心しました。
 明治26(1893)年10月、貨幣制度調査員として、これまで銀が通貨として主流だったのを、金を主流とする「金本位制」を採用し、明治30(1897)年4月、明治天皇の判断で「貨幣法」の発布をすることになりました。

後半生

 明治30(1897)年大蔵監督局長、台湾銀行創立委員、学習院や東京帝国大学などの財政経済の講師嘱託をし、明治32(1899)年3月に法学博士号を受けられました。そして、同年6月台湾銀行頭取、明治35(1902)年3月興業銀行総裁に就任しました。また大正4(1915)年9月には、大隈重信(おおくましげのぶ)首相から鉄道院総裁を任せられ、御大典輸送、大演習行幸を行うことになり、大正天皇から勲一等を授与されました。その後、大正4(1915)年には中外商業新報(現 日本経済新聞)社長に就任、大正6(1917)年に報知新聞社長を歴任しました。
 大正8(1919)年に報知新聞社長を辞任した後は、パリ会議の視察など、ヨーロッパ諸国を回っています。大正10(1921)年ワシントン軍縮会議にオブザーバーとして出席した後は、大正14(1925)年9月貴族院議員に勅撰され、12月には台湾銀行監査役になりました。
 注記:御大典=先帝の大喪が明けた年の秋に執り行われる一連の儀式。
 注記:パリ会議=第一次大戦終結のための講和会議。

海外からの追悼文

 添田さんは、昭和4(1929)年7月、享年64歳で亡くなりました。死後、英国の「エコノミック・ジャーナル」に経済学者「J・M・ケインズ」が書いた追悼文が載ることになります。日本のエコノミストで同誌に追悼文が掲載されたのは、添田さん唯一人です。

 「追悼文(訳)添田寿一博士 この度、王立経済学会海外通信局の最も古い会員の一人である、添田寿一博士の御逝去を、深甚なる哀悼の意をこめて皆様にご報告申し上げます。同会の発会直後、氏は日本通信員に任命され、最初の記事を1893年の会報に掲載されました。それ以来今日まで、氏は日本における「金融」や「経済学の進歩」に関する貴重な論文を大変な規則正しさと誠意をもって送り続けて来られました。氏の論文記事にみられる謙虚さとその魅力は、長年に亘るその親しみやすく優美なる御筆跡によるほかに、添田氏を知ることが不可能であった同会報出版局の同僚達に愛され続けています。J.M.ケインズ」

遠賀町民への貢献

 添田さんは、遠賀郡出身の学生に便宜を図るために、東京市小石川区(現、東京都文京区)に「東筑学生宿舎」を建設し、就職活動など十年一日のごとく人材育成に尽力しました。特に、遠賀町の教育助成として、明治35年に開校になった「老良尋常小学校」(現、老良公民館)では、添田さんの出身地である老良の学生に、教科書やノートなどが6年間、無料で支給されていました。この教育助成は、昭和4年に亡くなった後も、小学校が昭和8年に廃校になるまで行われました。
 また、この「老良尋常小学校」が火災にあい、校舎が使えなくなった時にも、教育助成資金とは別に資金援助をして、開校させたそうです。この内容は、老良公民館にある記念碑にも記されていますが、黒田長敬が書いた碑文にも「老良小学校の今日在るは、全く君の賜物である」と記されています。
 遠賀町には、添田さんの遺品として、大正時代に各地で行った講演の録音盤や、鉄道院総裁就任時に着用した大礼服や儀礼刀、東筑学生宿舎の食堂に掲げられていた「學且勤」の扁額が寄贈されています。

添田寿一 年表

元治元年(1864年) 遠賀郡島門村老良(現、遠賀町老良)に添田新三郎の第5子として生まれる
明治7年(1874年) 父新三郎と上京する
明治9年(1877年) 東京英語学校に入学、その後、大学予備校に入学
明治13年(1880年) 大阪専門学校に入学、黒田家の貸費生になる
明治15年(1882年) 帝国大学文学部政治経済科に入学
明治17年(1884年)7月 帝国大学を卒業、それと同時に大蔵省に入省
同年9月 大蔵省を退官後黒田長成の洋行に随行し、英国へ
同年11月 ケンブリッジ大学へ留学し、マーシャル講師に師事
約2年半在学後、ヨーロッパ諸国を訪問し帰国
明治26年(1893年) 貨幣制度調査会に政府委員参事官として参画貨幣金本位制の採用を促す
明治29年(1896年) 大蔵省主税局長として、第1回農商工会議で工場法賛成を主張する
明治31年(1898年) 大蔵次官として、第3回農商工会議で富国策論を説く
明治32年(1899年) 法学博士号を授けられる
台湾銀行初代頭取になる
明治34年(1901年) 台湾銀行頭取を辞任
明治35年(1902年) 日本興業銀行初代総裁になる
大正2年(1913年) 日本興業銀行総裁を辞任する
大正4年(1915年) 中外商業新報(現 日本経済新聞)の社長になる
同年9月 鉄道院総裁になる
大正5年(1916年)10月 鉄道院総裁を辞任、正四位勲一等に叙される
大正6年(1917年) 報知新聞の社長になる
大正8年(1919年) 報知新聞の社長職を辞任する
大正10年(1921年) ワシントン軍縮会議にオブザーバーとして出席する
大正14年(1925年)9月 貴族院議員に勅撰される
同年12月 台湾銀行監査役になる
昭和4年(1929年)8月 病没64歳


添田寿一の画像

添田寿一 肖像画
添田寿一博士の正装写真。享年64歳

修成の画像

修成
寿一氏幼少時(明治7年、10歳)に、大阪府天満宮で揮毫(きごう)。
 揮毫(きごう)=書画を描くこと。

薬師如来の画像

薬師如来
「薬師如来」寿一氏幼少時(明治2年、5歳)京都市妙心寺蛸薬師堂の天額として奉納されたもので、現在も掲示されている。

直筆の書の画像

直筆の書
「君子正身以明道直己以行義」寿一氏(筑紫山濤)の遺墨

老良尋常小学校 記念塔の画像

老良尋常小学校 記念塔
老良小学校跡地に建つ記念碑。遠賀町老良区に建立。地方教育に尽力された業績が刻まれている。

生誕の地の画像

生誕の地
添田寿一博士の生誕址跡。遠賀町老良区に建立。
「筑紫山濤 添田寿一 生誕址跡」

「学且勤」扁額 添田寿一筆の画像

「学且勤」扁額 添田寿一筆
寿一氏が東京の大学で学ぶ北九州市や遠賀・中間地区出身の男子学生の便宜を図るため、明治35年(1902年)私財を投じて東京市小石川区(現・東京都文京区)に建設した『東筑学生宿舎(東筑学舎)』の食堂に掲げられた扁額。書には“青雲の志を抱いて励め”という想いが込められており、学舎で学んだ元寮生の中からは政治家や俳優も誕生しています。学舎の取り壊しに伴い、平成26年に出身地である遠賀町に寄贈されました。

古野矢八郎翁碑(虫生津高田神社近く)添田寿一筆の画像

古野矢八郎翁碑(虫生津高田神社近く)添田寿一筆
明治維新後に郡村の公吏・議員総代として耕地整理や産業組合の組織など、経済の向上に大きく貢献した功績を顕彰して大正8年(1919年)に建立された石碑。

村田登七郎君ノ碑(別府公民館隣)添田寿一筆の画像

村田登七郎君ノ碑(別府公民館隣)添田寿一筆
戸長、村長、郡会議員として土木水理などの公益事業における功績を顕彰して建立された石碑。

勅任文官大礼服・大礼帽(上)の画像

儀礼刀(中)鞘の画像

儀礼刀(下)刀身の画像

勅任文官大礼服・大礼帽(上)と儀礼刀(中:鞘、下:刀身)

寿一氏が大正4年(1915年)9月に、第2次大隈内閣で鉄道院総裁に就任した際に着用したと言われる大礼服と儀礼刀です。大礼服は当時の日本における最上級の正装で、フランスの服制を参考に作られたものですが、日本では随所に桐唐草や菊の文様が用いられています。明治には太政官布告として大礼服制が制定され、官報に詳細な服制表や図が掲載され、位によって色や文様が定められていました。勅任文官は最上位の文官で、黒羅紗製(くろらしゃせい)の上下衣や釦には五七の桐や桐蕾草が刺繍されています。この大礼服や儀礼刀は、関東大震災や第2次世界大戦の戦火を逃れて東京の寿一氏の子孫によって保管されてきたものを、遠賀町に寄贈していただいたものです。

老良添田博士記念碑公園の画像

法学博士添田寿一君寿碑(老良添田博士記念碑公園)従四位子爵黒田長敬撰併書
老良出身の寿一氏が日本の政治経済や社会において幅広く活躍したことや、郷里の人材育成に尽力したことを後世に伝えるため、旧秋月藩黒田家13代当主・黒田長敬(ながあつ)が功績を撰書して大正9年(1920年)に建立された寿碑。この石碑の前では、ほぼ毎年地元住民による祭典が行われています。

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