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遠賀町の偉人(原田賞の創設者 原田 隆)
原田賞=その年の成績が優秀だった卒業生と在校生に授与される原田氏寄附により創設された褒賞
幼少の原田隆さん そして産婦人科医への道
原田さんは明治14(1881)年8月27日、遠賀郡広渡村(現、遠賀町広渡)の村議だった父喜一郎と母カツの3番目の子(次男)として生まれました。
広渡尋常小学校を卒業後、明治34(1901)年に修猷館中学校、明治37(1904)年に第七高等学校(現、鹿児島大学)、明治41(1908)年11月には京都帝国大学医学部(現、京都大学)をそれぞれ卒業しました。
このころ、勉強をしているときに眠くなると自分の太ももに針を刺して、眠気を凌いでいたそうです。
その後、明治42(1909)年1月に産婦人科教室で助手をした後、講師なりました。明治45(1912)年2月には日本赤十字社滋賀支部病院副院長と婦人科医長を兼任しています。
医学博士第一号に
大正3(1914)年と大正9(1920)年の2度にわたり、それぞれ1年以上の欧米視察をしています。この欧米視察のときに、黄熱病などの研究で有名な細菌学者野口英世にも会ったそうです。
大正5(1916)年12月15日には専門だった産科婦人科学で、医学博士号を取得します。このときの提出論文は、ドイツ語で書かれた「胎盤ノ化学的集成ニ関スル知見補遺」。
医学博士号を取得することは、島門村(明治22年町村制施行により広渡村ほか5村が合併)では初めてのことでした。
「原田賞」誕生
原田さんは、医学博士第一号になったことを記念して、島門小学校に奨学金を寄付し、「原田賞」が誕生しました。
この「原田賞」は、その年の成績が優秀だった卒業生と在校生に授与され、初期のころは賞品として「すずり箱」が贈られていたそうです。
「原田賞」は、初期のころは「特別(特等)賞」とも呼ばれていたそうです。
また、島門村が浅木村と合併し、遠賀村になった昭和4(1929)年。このとき原田さんは、追加の寄付とともに、浅木小学校でも「原田賞」を創設しました。
そして、第二次世界大戦の影響による混乱期にも、原田さんは遠賀の児童育成のために、追加の寄付をし、「原田賞」は昭和34(1959)年まで続きました。
原田病院開設
大正10(1921)年に、大阪南区塩町通りに原田病院(産婦人科)を開設しました。この原田病院は、唐津出身の村野藤吾さん(日本芸術院会員)が建設した物で、当時は大阪南区に診療所を開設することは、医者のステータスシンボルでもあったそうです。
また、原田病院の開設と同時に看護婦養成所、助産婦学校を併設し、数多くの医師、看護婦、助産婦を育成しました。このとき使用した教科書は、原田さんが自ら作成した物を使用していました。もちろん、指導も熱心に行っていたため、生徒の国家試験の合格率も高く、大阪周辺はもちろんですが、遠賀からも多くの生徒が学びに来ていました。卒業生の中には「遠賀の産婆」として、最近まで活躍していた人もいるそうです。
この他にも、渥美尋常小学校(大阪市南区)の校医として勤め、太陽橙(医療器具)などを寄付するなど児童たちの発育にも貢献しました。
晩年の原田さん
昭和20(1945)年、第二次世界大戦の空襲のため原田病院は焼失してしまいました。そのため、昭和22(1947)年からは滋賀県能登川病院長として勤務しています。
そして戦後の混乱、秩序が復興した昭和26(1951)年5月2日に、再び戦前の位置に原田産婦人科医院を再興し診療に従事しました。
しかし、心身の苦労の積み重ねが影響したのでしょうか、その3年後の昭和29(1954)年9月11日、74歳で亡くなりました。原田さんは、京都の知恩院の望月信成管長の主治医をしていたこともあり、戒名は「院殿」となっています。大阪で診療していた原田さんでしたが、死後お骨は家族によって分骨され、広渡にある原田家のお墓に眠っています。
故郷を愛した原田さんは、今でも故郷である遠賀町の事を見守ってくれています。
原田隆 年表
明治14年(1881年)8月27日 | 遠賀郡広渡村(現、遠賀町広渡)に生まれる。 |
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明治34年(1901年) | 修猷館中学校卒業 |
明治37年(1904年) | 第七高等学校(現、鹿児島大学)卒業 |
明治41年(1908年) | 京都帝国大学医学部(現、京都大学)卒業 |
明治42年(1909年)1月 | 産婦人科教室で助手をした後、講師になる。 |
明治45年(1912年)2月 | 日本赤十字社滋賀支部病院副院長と婦人科院長を兼任する。 |
大正5年(1916年)12月15日 | 産科婦人科学で、医学博士号を取得する。 ※その後、これ記念して「原田賞」を創設する。 |
大正10年(1921年) | 大阪南区塩町通りに原田病院(産婦人科)開設する。 |
昭和20年(1945年) | 空襲のため原田病院が焼失する。 |
昭和22年(1947年) | 滋賀県能登川病院長として勤務する。 |
昭和26年(1951年)5月2日 | 原田産婦人科医院を再興する。 |
昭和29年(1954年)9月11日 | 没 享年74歳 |
原田隆 肖像画
産婦人科学で医学博士号取得後、遠賀町に「原田賞」を創設
享年74歳
原田賞賞状
昭和30年に贈られた原田賞の賞状
原田賞賞品
原田賞では、賞品として「すずり箱」や「紙入れ」などが贈られていました。
写真は戦時中に贈られた「紙入れ」
原田病院
大阪市南区塩町通り(現 大阪市南船場)にあった「原田病院」
第二次世界大戦中に焼失
原田家のお墓
遠賀町広渡に眠る原田隆さんは、今でも故郷である遠賀町を見守ってくれています。