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遠賀のむかしばなし(六話 底井野姥さん 虫生津)
このお話は、底井野の上、中、下(浅木)と虫生津、それに木守の五つの里がまだ一緒だった頃のことです。
田や畑を開こうと思えばどこまでも開くことが出来るほど、ひろいひろい葭の原っぱが広がっておりました。
この村にとても頭のよい元気もののおばあさんが住んでおりました。おじいさんは何年か前に死んでしまい、のこされたおばあさんがたった一人で大勢の人達を雇って田や畑でやさいやお米などを作っておりました。
人々の中には、いろいろな人がいて、おばあさんが思っているようにはなかなか働いてはくれません。
そこでおばあさんは知恵をしぼりました。
まず、田を耕すとき、要領のよい人は土がやわらかくて、近いところばかりを耕します。
おばあさんは一番遠いところに酒樽をドンとすえました。そこまで耕していくとお酒を飲むことができるのです。みんなは喜んで耕していきました。
また、刈った草を束ねて荷物にして、おうこ(竹の両はしをするどくとがらした棒)と呼ばれる棒でかついで帰るのですが、要領のよい人は、ほんとうは前と後に二つの束を掛けるところを、一つずつしか、かついで帰ってまいりません。これでは一向に能率はあがりません。
そこで、おばあさんは知恵をしぼりました。
まず、家の前に溝を堀り、細い板を渡しました。こうすると、おうこの両端に一束ずつ下げないと、細い板の上をなかなか渡ることができません。
刈草の荷はこうして倍運べるようになりました。
また、こんな知恵もありました。
夕方お腹をすかして帰ってくる人達のために、砕米で作ったシトギモチ(糠のついたままの米をひいて団子にしたもの)という餅を出しました。
その餅を自分の使った鍬でそいで食べるようにいいました。帰りに鍬をよく洗わない人はその餅にありつけません。
あくる日からは皆、鍬をきれいに洗ってから、喜んでお餅をいただくようになりました。
ある日、おばあさんはあちらこちらに、こんなことをいいふらしてまわりました。
「もうこの世がいやになってしもうた。わたしや天に登りますばい。」
そしてひろいひろい葭の原っぱのまん中に、高いやぐらを組みました。
その日はどんよりと曇った日でしたが、おばあさんの天登りをひとめ見ようと、あちらこちらから大勢の人達がどんどん集まって来ました。
いまかいまかとまっていると、おばあさんは「きょうは天気が悪いので、天登りは出来まっせんばい。」といってやめてしまいました。
そしてまたある日、同じことをくり返し、とうとうそのあたりの蔑の原っぱは見物の人々が踏み固めてしまい、立派な田になったということです。
こんなこと、あんなことがたくさんあって、おばあさんはその後も農業に精を出し、女軍師とまで言われるようになりました。
そして虫生津の地でその一生を終えたということです。おばあさんのお墓は虫生津の工場団地を造るときにこわされてしまって、いまでは残念なことになくなってしまったそうです。
歩いて見ようおはなしのふる里
現在の虫生津のバス停
両端に荷を下げて運んだオーコ
底井野姥さんの墓