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遠賀のむかしばなし(九話 今古賀の義人 今古賀)
このおはなしは、今から三百二十年も昔に、ほんとうにあった悲しいおはなしです。
寛文三年、遠賀の今古賀での出来事です。
その年は、二年続きの日照りによる凶作のため、どの家も充分に食ベるだけの米や野菜が、ほとんどありませんでした。
そのために、村人達はどうしても年貢を納めることができずに困り果てていました。
「田んぼも、畑もまったくお米ができません。どうか年貢をお許しください。」とお上に申し出をすることを、皆で相談して決めました。
そういうわけで、お役人がお調ベのために、村に、やって来ることになりました。
この村の中で、一束の稲も見つかっては、大変なことになりますので苦心して、わずかばかりの稲をかくすことになりました。
いよいよ、そのお役人がやって来る日になりました。村人達は、皆びくびくしていました。
役人達は、家の中や土蔵の中、いなやの中と、すみずみまで調べてまわりましたが、そこには、一束の稲も見つかりませんでした。
田んぼはどこも不作で、稲株どころか草も見えないほどの凶作でした。
しかし、最後に見てまわった土手ぞいの畑の中で、少しばかりの刈り株を見つけられてしまいました。
これは陸稲といって、むかしは、田んぼだけでなく、畑にも稲を植えて、洪水などの時の食糧として備えたものでした。
お調の役人達は、これを見て、おおいに怒って、引きあげていきました。
これでは、年貢を許してもらえるどころではありません、大変なことになってしまいました。
そこで、村の人達が集まり、話し合って、代表として、組頭の柴田次左衛門、林総右衛門の二人がお役人をおいかけて行くことになり、ようやく、宗像まで行った時に、追いつくことができました。
そうして、二人は、お役人に、何度も何度も、許してもらおうと、あやまりましたが、聞き入れてはもらえませんでした。
この時二人は、どんな思いをしたのでしょうか。その上に、村を代表した二人は、無惨にも、打ち首にされてしまいました。
どんなにか、残念な思いを残していったことでしょう。この話を知った村人達は、つらく悲しい気持ちになりました。
そこで、村人達は、この二人の勇敢な心と、村の犠牲になったその労苦をとむらうために、義人碑を建て、今日に至るまで、その日には心のこもった供養がなされているということです。
その義人碑は、今古賀の宝樹庵というお寺にあります。一度みなさんも、たずねてみてはいかがですか。
昔の人の気持ちが伝わってくることでしょう。
歩いて見ようおはなしのふる里
義人2人をたたえる碑
宝樹庵別名中ノ堂の境内にある義人碑
県道遠賀線より歩いて3分