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遠賀のむかしばなし(十話 おきよ地蔵 尾崎)
今からちょうど二百年前の寛政六年のことです。遠賀地方は、近年ない日照りが続いていました。
前の年は大水害がありました。そのため、蝗の大発生や稲の病気などで稲作は、ほとんど全滅に近い状態でした。
それでも、領主様への上納米は、例年通り取りたてられますので、お百姓さん達の暮しは苦しさを増すばかりです。
その頃は、遠賀川の洪水などや、治水が悪いことなどで、島門や浅木地方では、三年に一度位しか収穫できないようなありさまでした。
その上に、色々な決め事がありました。
たとえば、雨の日は筵何枚、夜なべで縄何尋作ること(一尋は両手を左右にのばした長さ)とか、これに従わない人には、きびしいお仕置きがありました。
ある村では、庄屋以下の人がみんな夜逃げしたこともありました。そんな状態でも村役人に訴えることはできませんでした。
お殿様に直訴すれば、打ち首にされるという時代でした。
尾崎村の庄屋徳七には、おきよさんという母親がいました。
おきよさんは、大変しっかりした人で、近くの村々のうわさやお百姓さんの暮らしの苦しさを見るに忍びず、
何かよい考えはないものかと、思案を重ねておりましたところ、たまたま藩主の黒田のお殿様が遠賀の地を通られるのを知り、ある決心をしました。
その日は、数日前からのもどり寒で、道は凍りつき冷たい風が海の方から吹きつけてくる大変寒い日でした。
長井原附近をえらんで、おきよさんは道の端に座り込み、お殿様の通られるのをじっと待っておりました。
寒さは一段ときびしさを増し、時々、風に混って白い雪も吹きつけ眼の前を暗くするようでした。
やがて芦屋の方からお殿様の行列が近づいてきました。
おきよさんは、「お願いです。お願いです。お殿様にお願いします。何とぞこれをお読み下さい。」と一通の訴状を手に、お殿様のおかごに向って飛び出していきました。
驚いた家来たちは、たちまち訴人のおきよさんを捕えました。
お殿様は、一身をなげだして死を覚悟した老母の心中を思い、直訴の内容を調査するように命じました。とはいえ、刑をまぬがれるわけにはいきません。
もとより刑は承知のおきよさんでしたから、動じることもなく落ち着いて刑に服したということです。
でも当時は村人たちの犠牲になって刑を受けたおきよさんのお弔いをすることも、お墓を作ることも許されませんでした。
時はうつり、明治になってから村人達は相談して、屋敷の中に地蔵菩薩さまの像を建て、おきよさんの霊を慰め弔いをしました。
以来、毎年八月二十三日の地蔵盆には近くの村々から大勢の人達が出て、お地蔵さまの前で盆踊りをし、おきよさんの供養を続け、感謝の心を表わしていたということです。
歩いて見ようおはなしのふる里
畑生半一氏宅庭の地蔵堂
おまつりされている地蔵菩薩さま
地蔵堂