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遠賀町誌 第一編 うぶすなの姿 第一章 遠賀町の自然

ページID:0026893 更新日:2023年6月27日更新 印刷ページ表示

第一編 うぶすなの姿 第一章 遠賀町の自然 [PDFファイル/2.51MB]


第一節 遠賀町の位置

 遠賀町は、遠賀川の河口近くの西岸に位置し、東西五キロメートル、南北九キロメートル、総面積二二・四二平方キロメートルの町である。遠賀川は、嘉穂郡と甘木市の境にある馬見山を源とする嘉麻川に、冷水峠に発する穂波川が合し、田川郡英彦山に発する彦山川を合流し、更に植木町の北で犬鳴川を合わせて芦屋町で響灘に注ぐ。流域面積は一〇三〇平方キロメートル、九州直轄河川二〇水系中、流域内人口では筑後川に次ぐ一級河川である。遠賀町はその最下流に位置する。町域はこの川により形成された沖積層よりなる遠賀平野の中心部に当っている。そのため、町域の七〇パーセントは平坦部に属する、断面図を作るにも、東西・南北ともに等高線のない部分である。遠賀町で自然の落差を利用しての下水道敷設などが困難な原因もここにある。遠賀川河口より約八キロメートル離れた浅木区の三角点でも僅かに三・四メートルの標高であり、西川の大潮の満潮時の潮先は、遠賀町を通過して、鞍手町木月の浮殿附近にまで達する。このことは、一方では、地域に有史以来、水との闘いを余儀なくさせている。

 町域の西端部を南北に遠賀山系が走っているが、北端部の城之腰で標高一〇八・一メートル、宗像市と鞍手町、及び、岡垣町に境する南端部(極西)で二〇七・一メートルに過ぎない。この山陵を抱えている尾崎・別府・虫生津以外には山らしい山はない。藩政時代以来、平野部の村で石炭が燃料として用いられていたのも割り当てられた山が遠かったせいであろう。第5-9表にも示されているように、藩政時代には、鬼津村と若松村では燃料の小木(こぎ)や柴を現岡垣町の戸切村と海老津村で、小鳥掛村では上畑村と海老津村で調達している。大字戸切字檞原・石仏の戸切共有林はその名残といえる。農村では不可欠の牛馬飼料の「草かしき(刈敷)場」(後の秣場)も同様で、鬼津村では海老津・戸切・上畑の三村が割り当てられていた。海老津・戸切は二里の距離、上畑は二里七歩の道法である。若松や小鳥掛は薪取りと同様である。

 町域の中央を国道三号と国鉄鹿児島本線が東西に横断している。鹿児島本線遠賀川駅は明治二十三年に設置以来、当町の交通の中心をなしている。遠賀川駅よりは芦屋と遠賀川を結ぶ芦屋線、及び、鞍手町室木とを結ぶ室木線が分岐していたが、前者は昭和三十六年六月一日に廃止、後者は昭和六十年三月三十一日をもって廃止され、乗り替え駅としての役目を終っている。第1-1表に示すように、道路網の整備は両鉄道の廃止を充分に補塡しており、北九州・福岡両都市の中間地帯として発展の兆しを見せている。第1-2表の通り、鹿児島本線より北の中央部地区、及び、浅木地区の人口の増加は目立つ。近隣でも、八幡西区の馬場山・小嶺・町上津役・下上津役・永犬丸・引野・本城、若松区高須、岡垣町海老津・山田などの各地区が同様な傾向を辿って、既に住宅地と化している。しかし、遠賀町の場合、それ等のいずれの地区とも契機や趣を異にしている。遠賀町の地理的条件や産業的条件に基き、それ等各地区との違いに適切に対応・対処するところに、遠賀町の将来の発展がかかっている。

遠賀町の位置 遠賀町の都市計画街路 芦屋線と室木線の跡

第二節 風土と気候

 風土が人間の生活に与える影響は極めて大きい。遠賀川の西部に位置することから、藩政時代より西郷(にしごう)とも呼ばれていた地域に属する遠賀町域の歴史は水との闘いの歴史ではあるが、その気候や風土が、いわゆる川筋の気質を生み、農業を主体とした産業を育くみ、今日の基礎を築いている。農業の歴史は、遠賀勤労者体育センターの対岸が、弥生時代の農耕遺跡として著名な立屋敷遺跡であることよりも知れるように極めて古い。

 遠賀町域は、北は芦屋町を隔てて響灘に臨み、東は遠賀川に接し、西は遠賀山系により岡垣町と境をなす。南は遠賀川沿いの遠賀平野が続く。町域の過半は、先史時代の遠賀潟の中にある。

 遠賀町の気象を、芦屋航空自衛隊提供のデータでみる。芦屋飛行場での観測であり、遠賀町との間には標高三〇~四〇メートルの粟屋台地が横たわっているが、気温・降雨量は大差はないであろう。風速は山陰の鬼津・小鳥掛・尾崎地区では多少異なる所があるかもしれない。湿度は、西川・遠賀川を抱え、泥炭層が散在する遠賀町では、地区によっては多少高い所があるかもしれない。これ等微細な条件の違いはあるが、町の中心部まで僅かに二キロメートルの位置のデータであり、そのままを適用しても殆ど違いはないであろう。他地区の数字はすべて「理科年表」一九八五年版によっている。

遠賀町の人口

一 遠賀町の気温

 昭和四十九年より五十八年までの一〇年間の気温は第1-3表の通りであり、一〇年間の平均気温は一五・七度、平均気温のみよりすれば、浜松・神戸・大分・宮崎(一五・六)より高く、徳島(一五・八)より低い。同じ対馬暖流の影響を受ける福岡、佐賀(共に一六・〇)よりは低い、緯度と河川の差であろうか。

 月間の最高気温(極大値)と最低気温(極小値)は第1-4表の通りである。日間温度の極値の平均ではないので、一〇年間の平均値は出していないが、月間の両者の温度差の極大値は二〇度を越している。海岸に近く、川と農地に囲まれた町域では微細ではあるが違いが出るかもしれない。この点のみよりすると、山陰型気候区の内、筑豊盆地型気候区に属するともいえる。農業面で影響があるかもしれないが、現在特に対策は施されていない。過去の経験に基く対応がなされており、その必要がないこともあるであろうが、月間の差であり、それ程の影響はないとも考えられる。最近漸増しつつある麦の作付では、日間の温度差は却って好結果となっているかもしれない。

 年間の降水昼は第1-5表の通りである。一〇年間の平均年間降水量は一八七四・八ミリメートル。年間降水量では浜田・彦根・下関・徳島が似た位置にある。降雪量は第1-6表の通りであり、極めて少ない。表中TはTraceの略で微量を意味し、6Tは痕跡はあるが微量にて計測できない程に六回降ったことを意味する。EはEstimateで概算を意味し、9Eは月間に合計九センチメートルの積雪を意味する。降雪回数ではない。例えば、五十六年一月の14E10Tは二センチメートルと一二センチメートルの積雪が二回と10Tで、回数としては一四回の降雪となる。翌五十七年の18E6Tは、三センチメートル、一〇センチメートル、五センチメートルの積雪の合計の18Eと、6Tで、降雪回数としては九回である。

 降雨日数は一〇年間平均では、年間一五一・八日、約一五二日である。月平均一二・七日に当たる。九州では最も多い部類に属する。

 気温、降水量の似た浜田、下関、及び、県内の福岡市の気候をクライモグラフにすると第1-7~10表となる。他地区の数は「理科年表」一九八五年版の数で、一九五一年より一九八〇年までの三〇年間の平均値である。いずれの地区とも似て非なところがある。一月と九月の降水量が少なく、四月の降水量が多い。

 昭和五十三年は六月の三七八・五ミリメートルを除くと、極めて少なく、異常渇水である。七月の三六・五度は昭和十四年八月一日の福岡の最高気温三六・八度に近い。五十五年は梅雨に雨が少なく、七、八月に異常に多いが、気温は冷害を示している。それを雨温図で示めすと、第1-3~5図となる。五十七年は空梅雨である。藩政時代より、遠賀地区は、洪水には弱いが、旱天には強いとされ、嘉永六年(一八五三)の旱魃に際しても、「同月(五月)廿三日より天気能相成、夫より照続キ、八月朔日迄凡七拾日之旱魃也。二日より雨少し降出し、三日二懸潤ふ程雨降ル。此邊(鬼津村)は旱中大川水ニて養水ニハ仮成取続、干し付ニならす。西郷ハ大干シ付ニて、高倉・野間・松原・吉木・三吉・手野・内浦・原・波津、右之村ゝ不残大痛ニて稲枯る」と「年暦算」は記している。現在の岡垣町域に比し、遠賀川の恩恵が大きいことを示している。現在では上流での取水に加え、遠賀川河口堰の完成により、灌漑用水利の条件は変って来ているかもしれないが、降水に対する適切な対応が町にとって不可欠であることには変りない。

 湿度は第1-11表の通りである。年平均で七四・六パーセントとかなり高い。殊に、夏季の高さが目立つ。前出の諸都市のいずれの場合よりも高い。地勢が影響しているのであろう。五十五年八月の八九パーセントはそれにしても高い。不快指数=0.81T+0.01U(0.99T-14.3)+46.3の式(「理科年表」)で計算すると、気温二七・九度で「暑くて汗がで」八〇、三〇・八度で「暑くてたまらない」の段階である八五に達する。三三・八度では九〇を超す。平均湿度でそれである。早天の五十三年八月の最高気温は三五度、湿度八〇・八パーセントである。不快指数は九一・一で「暑くてたまらない」を通り越している。アスファルト・ジャングルの熱帯夜とは異る熱帯夜が存在するであろう。

年間の月別平均気温 最高気温と最低気温 月間降雨日数と月間降雨量月別降雪量 遠賀のクライモグラフ(10年間平均) 浜田のクライモグラフ

下関のクライモグラフ 福岡のクライモグラフ 気温と降水量(10年間平均)

昭和53年の気温と降水量 昭和55年の気温と降水量 月別平均湿度

二 西風の多い気候

 航空自衛隊芦屋基地で計測された最大瞬間風速は第1-12表の通りである。単位はノットで示されている。一・九四四で割ると秒速(m)を知ることができる。約二分の一である。一〇年間の最大瞬間風速は昭和五十三年九月の七四(秒速三八メートル、時速一三七キロメートル)である。九月十五日の台風七八一八号で、福岡では最大瞬間風速(秒速)四六メートルを記録している。風速三四ノット(秒速一七・二メートル)以上が台風である。

 第1-12表の風向を図示すると第1-6図となる。左欄の数字が月別、右欄が回数を意味する。この図のみより結論は出し得ないが、西が最も多く、西北西、北北東、北西と続く。東北東の風は最大瞬間風速としては一度も記録されていない。計測地芦屋飛行場の南に芦屋台地があり、計測器の高さが地上二メートルであることよりすると、あるいは台地が影響しているかもしれないが、年間を通じて、西~北北東の間の風が、殊に、西・西北西・北西の風が多いことは推測することができる。

 遠賀町は東の遠賀川、西の遠賀山系に挟まれた中にある。北~北東の風は遠賀平野に吹き込むが、西~北西の風は山に遮られる可能性が強い。殊に、冬季の寒風を遮る可能性が強い。尾崎・別府・上別府・虫生津地区がその対象となる。北北東よりの風は遠賀平野一帯に吹き込むことになる。第1-11表より一般的な傾向を結論づけることはできないが、表の範囲で風向を出すと第1-13表となる。

最大瞬間風速 最大瞬間風速の方向  月別最多風向

第三節 遠賀町の地質

 遠賀町は芦屋町の響灘岸より内陸部へ約三キロメートル、若松・鬼津・小鳥掛と東西に連なる芦屋台地を迂回して、南へ大きく湾入した沖積低地が大部分を占めている。この入江は古遠賀潟ともいうべきもので、縄文時代遺跡の分布や地質よりすると、鞍手町古月・新延や直方市附近まで湾入していたと推定されている。遠賀町の中央を通る南北の断面図をとっても、芦屋台地以外はすべて等高線以下(一〇メートル以下)の地帯であるのもそのためである。

 その後、遠賀川、西川、戸切川などの諸河川の河川堆積物や葦などの有機堆積物で平地部が形成され、肥沃な遠賀平野が生ずる。町域は、西側の三郡山塊の一部に属する遠賀山系の丘陵性台地を除いては、この遠賀平野の中にある。台地は第三紀層や中生層で構成されて南北に連なり、北は三里松原で芦屋台地に接している。

 遠賀町、及び、その周辺の地質図は第1-7図の通りであり、沖積層、第三紀層、及び、中生層よりなっている。それ等の地質年代区分はおよそ第1-14表の通りである。

遠賀町および周辺の地質図 地質年代区分 

一 沖積層

 町内の諸土木建設工事に際してのデータより知り得る地質の内、第1-8図の(1)~(14)の地点の地層の状態は第1-15表の通りである。ここでも圧倒的に沖積層が多いが、堆積状態や深度は各々異っている。それを柱状図にしたのが第1-9図である。

 図よりも知れるように、遠賀町域の平野部は砂、泥土、シルト(砂と粘土の中間のもの、砂泥)の各層、および、俗にソーラ層と呼ばれる泥炭層が主体であり、いずれも堆積層であり、水平層である。

 砂層は鬼津・尾崎・若松一帯の低丘陵地では砂丘をなしている。砂丘は芦屋町の飛行場一帯の海岸に広く分布しており、その南辺の一部に当たる。

 砂層も第1-8図に見られるように広く分布している。殊に島津・道官・広渡などの北半に多いが、その状態は一様ではない。町庁舎の所では深度一・六メートルより一・九メートルの層、二三メートルより七メートルの層が存在する。広渡公民館の所では地下四・五メートルより一四・三メートルの層が現れ、二〇・七メートルより再び八・一メートルの層が現れる。道管橋地点では地表より四五センチメートル下には一二メートル余の砂層が存在する。砂の厚層や砂礫層が存在するのは、洪水や氾濫により、上流より大量の土砂が運ばれてきたことが推察される。その上、海岸近くでは冬季に北西の風が強いことも影響しているかもしれない。芦屋が遠賀川の河口に位置し、水運上絶好の地の利を占めていながら、少くとも藩政期以後、良港として発展し得なかった一因に冬季の北西の強風が挙げられている(26)。強風が砂を吹き寄せ、港を埋め、水深を浅くしたという。

 砂や砂礫の層に対して、シルトは、上流より流されて来た土砂が海底に静かに沈澱したものであろう。シルト(silt)を於泥(おでい)・沈泥などと訳すことがあるのはそのためであろう。シルト層の形成も地区により一様ではない。第1-9図で明らかなように、基盤近くにある地区、砂礫混り、砂混り、泥炭混合等種々の場合がある。その深度も地区によって異なる。その層や泥土層には貝殻や腐植物を含む場合があり、多層にわたっており、遠賀潟より遠賀平野への過程を示めしている。駅南進入仮橋工事の試錐では深度二八・六メートルで第三紀層に達し、その上にシルト層が現れているが、至近距離にある国鉄橋梁橋台近くの河床に第三紀層が露出しており、両地点の間に断層の存在を推察させる。

 俗にソーラ層と呼ばれる泥炭層は、腐朽した植物遺体が厚く堆積し、褐色、または、黄褐色を呈し、原植物の組織を肉眼で見ることができる、海浜・水辺の芦などの植物が腐朽し、堆積したもので、低位泥炭とも呼ばれるものである。第1-8図に見るように町内広範囲に分布している。地域で示すと、尾崎(内牟田・宮ノ沖・白草沖・郡田・北牟田・下牟田・岸添・舟川)、別府(千代丸下・鶴塒・新道下)、今古賀(新川)、木守(南溝端)、上別府(上牟田・上中牟田・片牟田・八久保・高屋下・汐井掛・梅ヶ鼻・山ノ神・土取・尾倉下)、虫生津(半田崎・宮ノ前)地区に広く分布している。他の地区にも、宅地造成や鉱害復旧事業で地表の状態は変っているが、泥炭層は散在する。

 泥炭土は農耕地として利用されるが、普通八〇~八五パーセントの水分を含み、無水物の過半は有機物で、強酸性を呈する。排水もよくない。そのため、排水と客土を要する。水を含めば重量が増し、排水や堆土で加圧され、脱水すれば地盤降下や隆起現象を起す厄介な地層でもある。

遠賀町土性構造図  沖積層の厚さ調査(町建設課の資料による) 沖積層柱状図(1)

沖積層柱状図(2)

二 洪積層

 遠賀町若松・鬼津より芦屋町粟屋にかけて標高二〇~四〇メートルの台地が東西に横たわる。粟屋砂丘とも呼ばれる。若松の三角点で一九・三メートル、小鳥掛北の三角点で四二・七メートル、粟屋の標準点で三三・五メートルである。この丘陵の鬼津付近の段丘面に洪積層がみられ、第三紀層を不整合におおっている。石英質の砂層を主とし、シルトや礫質砂をはさむ未固結層である。厚さ約一五メートルの水平層で鬼津砂礫層とも呼ばれる。シルト中には有孔虫類や海棲二枚貝の化石を含んでいる。第三紀層の上を覆っており、第四紀更新世末期の海面上昇時に海中で堆積した層といえる。鬼津砂礫層と表層の大城砂層との間に鳥栖ローム層がはさまっている。降下火山砕屑物(テフラ)の層で、黄褐色オガクズ状の地層である。熊本県の阿蘇山が大噴火をしたとき墳出物が飛来したものという。

鬼津砂礫層

三 第三紀層

 町域の大部分に第三紀層が存在する。沖積層や洪積層の下盤をなしている層で、島津地区附近、及び、尾崎・別府地区附近で地表に露れている。岩質は砂岩・頁岩が主であり、まれに礫岩もある。第三紀層のうち、直方層群、大辻層群に相当する。

 第三紀層は、中生代白亜系の基盤の上に、新生代第三紀に堆積した層である。新生代古第三紀の頃(約三五〇〇万年前)、北九州は古有明湾入と呼ばれる内湾の中にあり、そこに陸地より多量の木材が流入して筑豊炭田を形成した時代でもある。そのため、第三紀層には夾炭層を伴っている。夾炭層は主要な露出地の地名を冠して、各層群ごとに、直方層、大辻層、芦屋層と呼ばれている。直方層は基盤を覆う最下層の地層である。大辻層は直方層の上層で、その下層を出山層、上層を遠賀層ともいう。芦屋層は遠賀層の上層をなすが、北部にのみ限られて発達している層である。これ等の層はおおむね北北西に走向し、東に約一八~二〇度傾斜している。遠賀町域の様子を図示すると第1-10図となる。

 町域の層群は直方層と大辻層である。

 かつて、遠賀中学校敷地内で別府炭鉱が稼業していた炭層は直方層群の内の竹谷層中の針金層といわれる。岡垣町の海老津炭坑や高陽炭坑も直方層群の炭層を対象としていた。

 大辻層群は出山層と遠賀層に分けられる。遠賀町に見られるのは出山層である。この層は下部は礫に富む厚い砂岩層で、僅に頁岩をはさみ、上部は砂岩、頁岩の互層で礫も多い。他の層に比べて最も厚い層であるが、稼業に耐える炭層が皆無に等しい。大辻層の主要炭層である遠賀層は水巻町に露頭を有し、遠賀町にはない。遠賀町に炭坑が発達しなかった原因もそこにある。

別府鉱業所 出山層遠賀地区露頭想像図

四 中生層

 遠賀町域には中生代前期のジュラ紀や三畳紀に属する地層はない。第三紀層の基盤をなしているのは中生代白亜紀後期の堆積層である下関亜層群に属する岩石である。この岩石は下関市・北九州市・宗像市にかけて広く分布する関門層群の上部をなす。その下部をなす脇野亜層群は北九州市・直方市・鞍手郡にかけて見られるが、町域には出ていない。

 下関亜層群は目立つ火山性砕屑物からなり、火山質礫岩、凝灰質砂岩、頁岩、凝灰岩、安山岩類よりなっている。町域では尾崎に始まり、遠賀バイパス(現国道三号線)切通し、三牟田、上別府、虫生津大坪一帯に分布している。特長的に赤紫灰色をした緻密な岩層をはさんでいる。古来有名な赤間関硯はこの石材(輝緑凝灰岩)で作られたものである。

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