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遠賀町誌 第一編 うぶすなの姿 第二章 町勢のうごき

ページID:0026894 更新日:2024年2月26日更新 印刷ページ表示

第一編 うぶすなの姿 第二章 町勢のうごき [PDFファイル/2.14MB]


第一節 大字と小字

一 大字の境域と分画

 位置的には遠賀町は東経一三〇度四一分三七秒(極東)、東経一三〇度三八分一五秒(極西)、北緯三三度四八分一九秒(極南)、北緯三三度五三分一一秒(極北)の中にある。

 藩政時代にはこの中に虫生津、下底井野、木守、別府、今古賀、広渡、島津、小鳥掛、鬼津、尾崎、若松の一一か村が存在したが、慶応二年(一八六六)十月に小鳥掛村が鬼津村に併合され一〇か村となる。

 明治二十二年の町村制施行に際し、鬼津、尾崎・今古賀・広渡・島津の五か村と別府村字本村が合併して嶋門村を形成する。若松村は明治八年、地租改正に際して鬼津村と合併している。同時に、虫生津・木守・下底井野の三か村と別府村の内、高家・花園・尾倉が合併して浅木村を構成、昭和四年四月の両村合併、遠賀村誕生まで存続する。遠賀村は昭和三十九年四月に町制を施行し遠賀町となる。

 その間、町域には変更はないが、明治四十年(一九〇七)に始まる遠賀川改修工事により、島津・広渡の一部が河川敷となり潰地となっている(委細第二編参照)。大字の分画も行われる。昭和四年四月一日、遠賀村発足と同時に老良が大字広渡より分離して大字老良となり、同年八月一日には上別府が大字別府より独立して大字上別府となる。この両者の分画には遠賀村発足に伴う小学校の校区再編成の問題が契機となっている。大字上別府の誕生と期を一にして大字下底井野が大字浅木と名称を変更する。遠賀町時代の昭和四十六年五月には大字鬼津より若松が独立して大字若松となる。若松区は藩政時代には、尾崎村・小烏掛村とともに、鬼津村の枝郷ではあったが、行政的には独立していた。明治八年の地租改正に際して鬼津村に併合され、町村制施行に際して大字鬼津に統一されていたが、行政的には若松区として独立していたため、形式的にも大字若松として独立させたものである。大字若松の地番は大字鬼津時代のものをその儘継承しており、地番の改訂は行われていない。そのため大字鬼津には一番地より三二二番地の一までの地番はない。地番は各村東端より押番されており、東部は若松に属しているためである。

二 小字と地番

 各大字には小字(小名)と一筆ごとの地番が存在する。小字は藩政時代には、筑前ではホノケ(甫野名)と呼ばれていた。田字である。藩政時代には地番が存在しないので、位置を表すにはホノケが用いられた。そのためホノケは細分され、現在の地籍地名となっている小字の二倍、ないし、三倍程度は存在したと推定される。現在の小字として残っていないものでも、多少は私称地名として現在も一部では用いられている。

 小字やホケには、地形や地区の成立を示すものが少なくない。目標物や位置を示すものも多い。それ等の多くは、地区の過去の状況や成立を知る上で、書かれない貴重な史料をなしている。行政当局が使用の現行の小宇より一部挙例すると次の通りである。

(1)地形・地質を表わすものの例
 砂ヶ原(島津)、砂田(今古賀)、竹ノ鼻(別府)、蟹喰(尾崎)、日焼(別府)、尾倉(上別府)、八久保(上別府)、ナギノ(虫生津)、屋戸(虫生津)、猿渡(虫生津)、野間(木守)、桶渕(老良)
(2)成立を示すものの例
 川ノ洲(若松)、金屋分(島津)、正堺(今古賀・木守)、十人開(島津)、古川(若松)、阿弥陀畑(鬼津)、末国(鬼津)、千代丸(別府)
(3)目標物に因むものの例
 堂塔寺(若松)、杉ノ木(鬼津)、儀王(浅木)、貴船元(鬼津)、塞ノ本(上別府)、城ノ越(上別府・尾崎)、宮ノ前(浅木・別府・虫生津)、柿ノ木(木守)
(4)位置・方向を表すものの例
 向原(尾崎)、川端(虫生津)、捶場ノ元(島津)、北浦(別府)、左山(虫生津)、土手ノ内(木守)、上段(鬼津)、東(木守・島津)、西(木守)、南(別府)

 これ等も一つのみを示すとは限らない。「竹ノ鼻」は高地の先端を意味し、位置をも示す。「川ノ洲」は旧状を示すが、地質をも示す。「正堺」は庄境であり、旧庄園の境界を意味する。山鹿庄と遠賀庄の境であろう。位置でもある。「城ノ腰・上ノ腰」は城砦に因んでおり、成立をも示している。

 遠賀町域の現行小字には他地区と比較して地域の特性を推測させるものがある。即ち、

(1)開作地を意味する原(ハル)や堀(ホリ)が全くない。吉原(若松)・芝原(若松・木守)は文字通りヨシハラ、シバハラでハルの転訛とは考え難い。
(2)湿地や泥田を意味する牟田が多い。地形と地質に由来している。
(3)浮洲(フシュウ)が多い。明治末より大正時代にかけての改修工事以前より、遠賀川の河川敷を称していたが、遠賀川沿いの老良・広渡ではなく、西川沿いの虫生津・浅木・木守に現れている。西川自体の浮洲よりも古川時代の浮洲の名残りとも考えられる。
(4)町域の大部分が平野部であり、当然のことではあるが、虫生津・上別府・別府・鬼津以外には「谷」が全くない。
(5)他地区に比べて小字が少ない。水路に囲まれた平野部が主体となっているため、一筆が広いこともあるであろうが、細分する必要が少ないことも考えられる。

 明治維新を迎え、壬申戸籍が作製されるにあたり、屋敷地には「何番屋敷」と番号が付されたが、田畠・山林等には付されず旧前のままであった。地租改正に際し、すべての土地に押番されることとなる。福岡県では、明治七年の「地図引立方心得規則」の第一〇条に「田畑ヲ初、一切耕地等一筆別字反別記載シ、一村限リ番号打込可申事。但番号打初之儀ハ其村之東方ヲ首ト可致事」(37)と通達されたのに始まる。この通達は更に同七年十二月の「地租改正二付布達」第八条に於いて、「番号ノ儀ハ従来本田畑・宅地・大縄場等ハ勿論、試作地、或ハ社寺境内地・墓地・堤外不定地等、其外池沼・山林・秣場・野地・諸物干場等ノ類ニ至ルマテ、一村所有ノ地ハ其村東方始トシ、新規押番ニ致シ一筆限リ番付可致事」と敷衍して布達される(42)。これにより、すべての土地に地番が付されることになる。地番が付されると、藩政時代のホノケは多過ぎる。極端な場合には一筆、ないし、数筆にホノケが付されている場合もある。そのため、現行の小字にホノケを整理し、小字ごとに一連番号になるように地番が付けられた。地番は各村とも東端より打たれている。町域の現行小字配置は第1-11図に記入の通りである。島津に一~三一〇番地までがない。第二編で述べる通り、遠賀川の改修工事により河川敷となっている。老良も同様であり、ともに東端に属する。大字若松は三二二ー一までの筈が、鬼津・若松ともに末番が四〇〇〇代になっている。国土調査により、道路・水路などの長狭物に一元的に地番を新設したためである。

 小字は卒直に土地の状態を表している場合が多く、使用には配慮の必要性もなくはない。現在では山を削り、谷を埋めて土地の改変をする場合が多く、都市化が進むとなお更、地籍地名としては存在意義を有するが、現状と一致しない場合も生じて来る。都市化が進み、住居表示制が実施されるとそれにとって代られるであろうが、現段階では未住居表示地区であり、必要性も少なくないので現行を示すと第1-16表の通りである。

 現行の小字を、遠賀川や西川が改修される以前の小字と比較すると多少の相違がある。明治十五年の小名調(57)と対比すると第1-17表となる。失われた小字の大部分は西川、及び、遠賀川の改修工事により河川敷となったものである(委細第二編参照)。大字島津の「黒方」は大正四年に芦屋町と交換されたもので、芦屋町よりは「東」が島津に編入されている。地番は一度改訂されている。一部はその節に復活されたものであろう。

 地名の文字は適当な当て字が少なくない。そのため、同一の地名に対して別字を当てたり、転訛している場合を散見する。現行と前出小名調で文字遣いの異なるものに、射場ノ元(島津)→居場の元、内善(鬼津)→内膳、先野々(尾崎)→先之野、二又(尾崎)→二亦、観ノ目(広渡)→勧ノ目がある。同一地名に異字を当てた例は多い。城ノ越(上別府)→上ノ越(尾崎)→城之腰(上々津役)、正境(木守)→正堺(今古賀)、井料(島津)→井龍(鬼津)、浮洲(木守)→不州(古門)、長始(鬼津)→長初(小嶺)などである。転訛も少なくない。前出の井龍も、低湿地に多い地名イラが井良→井龍(いりょう)→井龍(いりゅう)と転訛したものと推察される。第1-16表の範囲で、全く変っているもののみでも、カイヅクリ→カジサク、ハト場ノ元→トバノ元、ノノウシロ→ノノゴ、タンノエ→タルノエ(島津)、タカクロ→タカアゼ(同)、エノカミ→エノウエ(木守)、キリト→キレト、クロバサミ→クロハザ(浅木)がある。捶場ノ元は埵場ノ元の誤記が習慣化し、固定したものかもしれない。地元ではジョウバノモトと現在は称しているが、埵の音はショウ、訓はクロ・ツツミである。島津の南端、古川沿いの地である。行政の現行では、道管→道官(島津)、竹ケ鼻→竹ノ鼻(別府)と改められており、エビス→ヒルコ(鬼津)、フナゴウ→フネゴワ(同)、オグマ→コグマ(老良)と改変されている。

第1-16図32-1遠賀町大字図失われた小字

第二節 市町村界の変更

 明治二十二年の町村制の前段階は、十七年七月一日の町村分画改正に始まる。関係地区では、戸切・尾崎・鬼津・今古賀・別府・広渡の各村が鬼津の戸長役場の傘下に入る。木守・下底井野・中底井野・上底井野・虫生津・垣生の各村が合して戸長役場を中底井野村に置いた。明治二十二年四月に前者の内、戸切村を分離して島門村が誕生、後者よりは木守・下底井野・虫生津の各村に、別府村の内の現在の大字上別府部分を合して浅木村が誕生した。昭和四年にはこの両村が合体合併して遠賀村が誕生、昭和三十九年四月に旧遠賀郡としては最後に町制を施行し遠賀町が誕生した。明治二十二年以後、遠賀町の町域の大字単位での変更は皆無であるが、市町村界の変更は次の通り行われている。

一 芦屋町との境界変更

 大正四年二月、遠賀川改修工事を機に、島門村大字島津の字黒方と字石縄手・樽ノ江に挟まれていた芦屋町の字東を黒方と交換、とび地を解消し、字東を大字島津に編入した。

 昭和五十七年十月一日にも芦屋町との間に境界変更が行われる。芦屋ボートレース場の南隣接地区は境界が入り組んでたが、ボートレース場の新設や同地区の発展により、日常生活を主に芦屋町に依存している地区住民一六世帯・五二人にとって、通学や生活面で不便が生じて来た。遠賀町域の北端はボートレース場用地に入り込んでいた。一方、芦屋町の南端は遠賀町域に入り込んでいた。それ等を改めるするため、交換が行われ、遠賀町大字鬼津字北ノ浦・字観音堂・字栗原の一部、及び大字鬼津の一部、合計三万四五八六平方メートルが芦屋町に編入され、芦屋町より大字芦屋字下ノ辻・字栗原の一部、及び大字芦屋の一部、合計三万四二七一平方メートルが遠賀町に編入された。編入された地区の大部分は鬼津字大城道に編入され、極く一部が字久保尻に加えられている。

二 鞍手町との境界変更

 遠賀町虫生津の大谷に源を発する大谷川が倉谷池を経て白水川となり、西川に合流する約半キロメートル程手前の地区は、白水川の北岸を越えて、鞍手郡鞍手町古門の領域が入り込んでいた。西町と東町の南端に属する部分である。同地区の発展に伴い、そのままでは通学や日常生活に不便を生ずるため、昭和五十三年十二月一日、大字古門字五反田の一部、字白水の一部、及び水路である国有地の一部、合計九三一一平方メートルが遠賀町に編入され、大字虫生津字鳥喰、及び字打越に加えられた。境界変更は通常、等積交換が多いが、この場合は一方的な編入である。

三 中間市との境界変更

 圃場整備を目的とした耕地整理は明治三十三年に制定の耕地整理法に始まる。遠賀町域に於いても、既に明治三十八年に当時の浅木村虫生津で四一町六反歩の耕地整理が行われている。一月に起工し、六月に竣工、一万一〇〇〇円を要している。その後、虫生津、上別府、島津、下底井野(大正十一年、一一〇余町歩)、今古賀(大正十三年、四〇余町歩)、尾崎(昭和二年、一〇町歩余)で土地改良事業が行われるが、これ等は耕地整理法に基くものである。昭和二十四年に土地改良法が施行され、土地改良事業となる。近年では米の生産過剰による水田利用再編対策の実施に伴い、水田農業振興地域を中心に汎用耕地を造成する圃場整備に重点が置かれている。遠賀町は昭和四十七年十月に農業振興地域に指定されている。

 これ等の土地改良事業とは別に、昭和二十七年制定の鉱害復旧法に基く鉱害農地の復旧も進められている。中間市中底井野地区で行われた土地改良事業はそれに当たる。遠賀町でも一部に鉱害が発生している。遠賀町の場合、坑道掘削による被害は少ないが、それによる地下水の変動は、地質的に特性を有する町域の地盤に影響を与えている。

 中間市中底井野地区の土地改良事業に伴い、中間市との間で二件の境界変更が生じている。ともに等積の換地処分である。

1 浅木における市町界変更

 昭和五十九年一月一日、中間市大字中底井野、及び、遠賀町大字浅木の桶渕地区の土地改良事業に伴い八六七一平方メートルの等積換地処分が行われ、大字中底井野字桶渕、ならびに大字中底井野の一部が遠賀町に編入され、代りに、大字浅木字桶渕と大字浅木の一部が大字中底井野に編入された。

2 老良における市町界変更

 昭和六十年一月一日、前項と全く同一の理由により、中間市大字中底井野字木屋瀬田の一部、及び、大字中底井野の一部が遠賀町に編入され、大字老良字中島、ならびに大字老良に加えられている。遠賀町よりは大字老良字中島の一部と大字老良の一部、合計四〇二平方メートル余が中間市に編入された。等積の換地処分である。

第三節 遠賀村より遠賀町へ

一 島門村と浅木村

 明治二十二年四月、町村制の発足により、遠賀郡島門村と浅木村が発足する。遠賀町の母体の誕生である。当時は、第6-4表他の通り、両村合わせても、一〇七三戸・五六一〇人、一七一三町歩余の村であった。明治期に於いては、人口の変化は6-7表の通り極めて少ない。明治四十四年の両村の状態は第1-18表の通りであり、専業職業の八九・七パーセントが専業農家、兼業の五五・一パーセントが農業で、全体の八二・一パーセントが農業に従事している。浅木村の場合も専業の九四・一パーセントが農業、兼業の四七・七パーセントが農業で、全体の七四・九パーセントが農業に従事している。殊に、別府地区では専業の一〇〇パーセントが農業であり、尾崎地区でも専業七二戸中、七一戸が農業である。当時、虫生津に調諫平外一名を採掘権者とする浅木炭坑が開坑していたが、地区の趨勢に影響を与えるまでには至っていない。農家戸数で田畑数を割った一戸当りの平均田畑数は島門村が一町三反余、浅木村が約一町八反歩であり、農業が主体とならざるを得ないであろう。

 明治四十年十月一日に隣村の矢矧村と岡県村が合併して岡垣村が誕生した。島門・浅木の両村でも明治四十二年九月に合併に関する協議が行われ、大正八年八月には両村村会の議決にまで至ったが合併の機が熟せず合併は成立しなかった。大正九年十月に第一回国勢調査が行われた時の人口は九五九世帯、五六二一人で人口は却って減少している。

 両村時代の明治三十年と大正五年の人口は第1-18表の通りである。島門村の場合、明治三十年の本籍人口と現住人口は同一であり、出人・寄留人はない。浅木村でも男女とも四名の減少がある。出人の場合、陸海軍部隊への入隊者や海外在留、その他が考えられるが、女性には入隊者は少ない筈である。看護婦があるので無いとはいえない。明治三十年より大正五年の間の人口は第1-19表に示す通りであるが、大正五年の場合、本籍人口は増加しているにも拘らず、戸数は減少しており、浅木村では女性の現住人口は減っている。本籍人口と現住人口の差は島門村で六三二人、浅木村で四九三人と大幅に減少している。前者は八七・一五パーセント、後者は八一・三二パーセントである。寄留者よりも出人が極めて多いことを示している。人口の停滞状況は昭和初期まで続く。地域内に農業以外の産業が発達しなかったことを示している。

明治44年の遠賀地区本籍人口と現住人口

二 遠賀村より遠賀町へ

 昭和四年四月一日、島門村と浅木村が合併して遠賀村が誕生する。遠賀は古代の「崗の水門」・「岡の県」のオ力の転訛でもある。

 昭和十年代になり遠賀村の人口が漸増し、昭和十五年には合併時の二倍近くまで増大する。昭和十年代前半の石炭景気により、周辺では既存の炭坑の他に、日炭第二高松(昭和十年十一月)・戸切炭坑(同十三年四月)・西山鉱業野間炭坑(同十六年一月)などが開坑。町域でも、既存の虫生津炭坑が野上鉱業に経営移管したのをはじめ(同十四年三月三十一日)、十五年一月二十六日には佐貫耕一による鬼津炭坑が開坑する(46)。これ等、既存・新設の炭坑の労働者の流入が人口増加を招いている。

 昭和三十七年よりの炭坑閉山は、居住者の町外移住を招き、人口は漸減、旧に復するのに一〇年余を要する。

 その間の昭和三十九年四月一日、遠賀村は遠賀郡で最後に町制を実施し、遠賀町となる。当時の人口は一八九三世帯・八五九二人である(四十年十月一日数)。

 昭和四十四年五月、遠賀町全城を都市計画区域(建設省告示二二六二号)と定め、昭和四十八年十二月、都市計画用途地域の指定を受け、昭和五十一年一月には都市計画道路計画が決定、同年八月に計画変更はあったが、これ以後「緑と自然」を背景とした「生活を楽しむ町」「生産をになう町」「明るく住みよい町」の創造を目指した町づくりが進められている。「遠賀都市計画」は昭和四十八年十一月の中牟田第一土地整理組合の設立に始まり、五十四年四月には連角土地整理組合、五十六年二月には今古賀土地整理組合と設立され、区画整理が進められ、あわせて民間開発により、第1-20表の通り宅地開発が行われている。これにより、緑光苑、東和苑、蓮角、芙蓉、松の本(ダイヤニュータウン)、尾崎(パスコタウン)などの住宅地が出現している。

 第1-21表は遠賀町の農地と宅地の割合を示したものである。宅地造成が始まり、人口が増加し始めた昭和四十九年より農地が減少し始め、それに反比例して宅地面積が増加している。

 新しい住宅地の人たちは、主として、北九州方面、博多方面へ勤める人や自衛隊芦屋基地関係の人々である。

 今後ますます人口は増加するであろう。

 農業も種々の面で新しい発想や対応を余儀なくされるであろう。

 「生活を楽しむ町」「生産をになう町」とするための努力と対応が町政の課題とされるゆえんである。

宅地開発の状況

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