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遠賀町誌 第二編 水に生きる 第一章 遠賀川

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第二編 水に生きる 第一章 遠賀川 [PDFファイル/4.98MB]


第一節 近世以前の流域

 遠賀川は嘉穂郡嘉穂町と甘木市との境の馬見山(標高九七八メートル)に源を発し、穂波川、英彦山川、犬鳴川、西川など多くの支川を合せて北流し、芦屋町で響灘に注いでいる。幹川流路延長六一・〇キロメートル、流域面積一〇三二平方キロメートルに及ぶ九州有数の一級河川である。流域内には、第2-1図・第2-1表の通り飯塚市、直方市、田川市、北九州市、遠賀町など五市二一町と、山田市、岡垣町など一市四町一村もその一部が含まれている。

 遠賀川は上流の一部を除いて、流れが極めて緩やかで、梅雨期や台風季節には氾濫を繰り返す。川沿の住民は農耕が始まって以来、川から多くの恩恵を受けた反面、数知れない水害になやまされながら、生命や生活を守るため治水と利水の事業が今日まで、営々と続けられている。

 縄文時代までは芦屋から海が大きく湾入し、直方・鞍手地区にまで達していたと思われる。上流よりの流砂などで、次第に埋没してゆき、低湿地と川ができた。川は浅く狭く蛇行した流れで、堤防は低い自然堤防であった。幾度もの洪水で流路は何度も変ったことと考えられる。

 近世以前の遠賀川自体については文献的な資史料は殆どないに等しい。考古学的な考察と地質学的な研究に待つほかはない。第一編、及び第三編の概略的な記述はそれ等によっている。

 中世末期頃までは、遠賀郡水巻町の三ツ頭から猪熊附近まではまだ深い海が残っていたことが「筑前国続風土記」の次の記述より知られる。

 文禄元年(一五九二)秀吉公朝鮮に軍勢を渡し玉ひける時、此港に船をあつめて、渡海させらる。池田備中守長吉其事を司とれり、
 此港近き世まで三ツ頭の上、猪隈の辺まて入海ふかくして、
 今は然らず。
 大船滞なく上下せしといふ。

 その後遠賀川の流域が、どのように変化していったかを知ることは困難であるが、江戸時代になって開拓と治水のため、河道を変える大工事が行なわれている。それを「筑前国続風土記」「岡郡宗社志」等から、工事以前の遠賀川の流れを「元禄十四年筑前国図」の上で考えると第2-2図のように推定される。

遠賀川水系図流域内市町村江戸時代初期の遠賀川水流推定図

第二節 江戸時代の開拓と治水

 中世の戦乱の時代が終り、関ケ原の戦の後、慶長五年(一六〇〇)十二月、黒田長政が豊前中津より筑前に入部した。新らしい政治の中心となる居城の築造を行い、城下町の建設を進めながら、年貢の確保と増収を図るための政策を積極的に推進した。長政は早くも慶長八年には底井野村の内上村・中村・下村の開田を底井野村の杉又左衛門に命じている。

 此の頃の遠賀川の下流域は広大で肥沃な平地をなしていた。旱年は穀類も豊作であったが、土地が低く霖雨のときは河水が夥しく海のように広がるため雨年は甚だ不作となることが多かった。御牧川(遠賀川)の水運を確保し、広域の新田開発と増産を図るには、治水・利水の工事が急務であった。

一 慶長、元和、寛永の普請

 慶長十七年(一六一二)長政は遠賀川治水の大計画を樹て、鞍手郡奈良津(小竹町)より芦屋の河口までの築堤、開削、浚渫を命じた。夫役一二万八九二〇人という大工事である。その内容は「竹森家文書」によると次の通りである(43上)。

遠賀川御普請人高注文写
芦屋・はふ・ならつ其外川筋の分
宗像・御牧・鞍手・かま・穂波以上五郡
一 二千五百五十坪 人数五千百六人
 奉行人 芦屋新堀
一 二千百坪 人数一万五百人
 奉行人 はふ(垣生)
一 二百拾坪 人数八百四拾人
 奉公人 同所うらの山堀切り
一 三百坪 人数干弐百人
 右五郡百姓 そこいの(底井野)山の堀切り
一 千七百四拾坪 人数三千四百八拾人
 右五郡を引残る拾郡に而正月五日より可申付候 植木前堀川
一 千三百四十坪 人数五千三百六拾人
 右五郡の百姓 あかちノ前堀切りの時、あけ置土取の一日分
一 五千八百五拾坪 人数一万千七百人
 五郡の百姓 おさきのまる山堀切りの上より、たうれん寺(東蓮寺)前までの新堀
一 千百坪 人数三千三百人
 奉公人 ひやうたん橋より、山崎迄の間こむ田
一 二千九百坪 人数八千七百人
 奉公人 山崎のいけより、ならつの古川まて
一 六百坪 人数千八百人
 奉公人 ならつのいけの間
一 三百坪 人数九百人
 ならつの上いけの間
一 千九百五抬坪 人数五千八百五拾人 ならつの大まかりより、いけまての間
 十二口人数拾万七千七百弐拾六人の内
五千三百六拾人は十郡の百姓仕分
〆拾万千三百六拾六人 定役
右之人つもり
一日之出人千八百三十人 御牧・鞍手・宗像・かま・穂波以上五郡
十三日半の分
人数弐万三千九百弐拾人 右之百姓役
一日之出人五百人 但七力(日)分
人数拾万五千人 奉公人
二口合拾弐万八千九百弐拾人内
拾万弐千三百六拾六人 役有
但あかちの前あけ候、取のくる役は十郡の百姓に申付間、此人数つもりの内不入
〆弐万六千五百五拾四人余
以上
慶長十七年
後十月十九日 長政 印
竹森清左衛門(貞幸)との
黒田長政判物写
御牧郡即ち後の遠賀郡の河筋之普請、総国中百姓、此跡之夫役算用候て、正月五日より可申付事付、上座・下座両郡、右普請免置候条、其郡之河普請可申付事(節略)
慶長十七
霜月三日 長政 書判
竹森清左衛門殿

 黒田長政によって計画されたこの普請は、慶長十八年(一六一三)正月に着工され、一五年の歳月をかけて寛永五年に完成した。広渡と立屋敷の間の川の拡幅、浚渫が行なわれ、左岸は垣生から広渡まで、右岸は中間から古賀まで堤防の構築も行なわれた。これによって、前図に示した下大隈村近くから分流して西川筋に注いでいた遠賀川の本流は、広渡と立屋敷の間を流れる現在のコースに改められた。

 このとき広渡村に所属していた立屋敷村は大きな川で隔てられることになり、元和九年(一六二四)に分村された。「筑前国続風土記」には「東は中間村より古賀まで、西は土生(垣生)より広渡迄、大河の両わきに五十町許の土堤あり。寛永五年に国主忠之公の命をうけて、下見孫左衛門、馬爪源右衛門是をつけり。此堤の間を大河流る」とある。

 「岡郡宗社志」にも、「三底井野、木守、今古賀、広渡、及垣生村等ハ勿論古来之大川筋には東付キ村なりしか、此度御堀通之遠賀川よりは右何レも川西二附属仕候。乍併、当立屋敷村ハ古来広渡村之内二て候処、此度御堀通し之遠賀川にも東ニ附属仕候ニ付、広渡・立屋敷は川を隔東西両村と相分レ候」と記している。

 広渡から下流の状況については「筑前国続風土記」に「芦屋の東十町許に遠賀川の西の方芦屋に流るゝと、東の方洞の海東若松の方へ行との東西二方にわかるゝ所、河上の流れと三のつじあり是を三ツ頭と云」とあり、寛永五年に普請が終った頃の水流は第2-3図のようであったと推定される。

 下大隈近くから西に流れて西川に注いでいた川は洪水時の荒水吐川となり、さらに西川下流の開削も行われたので、西川流域の排水事情は大きく改善された。

 遠賀川、西川の治水工事と前後して、流域で多くの開拓工事がはじめられた。その頃開拓されたのであろう村々は第2-2表の通りである。

寛永5年改修工事完成後の遠賀川水流推定図

二 延享の普請

 遠賀川の下流、広渡、三ツ頭、芦屋の区間は川幅も狭く、又大きく湾曲しており、治水上大きな障害となっていた。これを解消するため、古賀村前より直接芦屋の河口に流す水路の開削浚渫も行われていたが、充分なものでなかった。延享年間(一七四四-四七)になって三ツ頭に流れていた本流を、猪熊、島津間を通り芦屋河口に直流する現在の水路に変更する大工事が行われた。

 この工事は猪熊、島津の間で河の両側に土手を築き、今までの本流を古賀村前で堰止めて流れを変え、三ツ頭に流れていた元の本流は、川東地区の排水路(現在の曲川)に変更するものであった。「岡郡宗社志」は次の通り記している。

 (前略)甲子年(寛保四年四月延享改元)、右御願申受候処之古賀村前大川口御築切、猶又古賀村より猪熊村(註記略)迄千二百三十五間(内千間ハ猪熊村之内也)大土手御築立被仰付候二付、当四月御郡代山中甚六殿御出郡ニて......(中略)......御普請御取掛り、廿八・九両日ニ夫五千人程二て右千二百三十五間(内二百三十間古賀村抱)古賀村より猪熊村下ニ至ル大土手、東之方ニ六十間引取御築立」が行われた。此以後猪熊村をも川東水下村となる。五月朔日より三日の間に古賀前大川口をも出夫一万人余にて築切りになる。「喜太郎土手」とか「首土手」とか呼ばれる工事である。

 この工事により、これ迄は広渡村下、古賀村の辺で二つに岐れていた遠賀川のうち、浅川村三ツ頭を経て洞海湾に注いでいた分が閉鎖され、寛永五年(一六二八)に掘り通された島津・猪熊間の流れが大川洪水引と定められた。この流れは貞享二年(一六八五)に拡幅され、平水での川幅八~九間であったが、度々の洪水で川幅はかなり広くなっていた。東側の猪熊・古賀両村間の大土手構築に伴い、西側の広渡・島津両村間にも大土手築立が延享元年(一七四四)八月に行われる。これにより遠賀川は芦屋洲に直流することになる。

 下流の本流変更により、鞍手郡下大隈村抱の白水道口も閉鎖される。白水道を閉鎖すると、洪水の節などに遠賀川東西両土手に負担がかかるため、白水道口、古賀村築切箇所、及び、広渡・島津両村間の三か所は「洪水之節ハ洗越」にすることにしていたが、洪水切の被害もあり、程なく補強工事により築留となる。この工事の完了により、遠賀川は現在のコースに確定する。最後に行われた古賀村前の築留工事は寛延三年(一八五〇)に竣工する。

藩政初期の開作

第三節 遠賀川と水害

一 近世の水害

 藩政時代の水害については、第五編第五章第二節に天保十一年(一八四〇)と嘉永三年(一八五〇)の大洪水の様子が示めされているが、その他にも少なくない。「年暦算」に示されている範囲でも、元文三年(一七三八)・昭和四年(一七六七)・安永八年(一七七九)・寛政二年(一七九〇)・寛政四年・文化元年(一八〇四)・文化八年(一八一一)・天保九年(一八三八)・天保十一年・嘉永三年(一八五〇)・嘉永六年・安政二年(一八五五)などの洪水で遠賀町域にも大きな被害が生じている。それ以前にも、享保五年(一七二〇)や享保十七年(一七三二)にも洪水が発生し、流域に大きな被害を与えている。享保十七年は享保の飢饉で知られる年であるが、雨がちにて、「同日(閏五月十日)洪水二て大川筋東西本土手惣越シ、子刻ニ至り二村抱土手切、扨頃日之洪水二て所ゝ、破損(中略)長ゝ之雨天ニ付、川筋村ゝ田方根付不相成、僅宛根付いたし候分も水腐仕、兎ヤ角と相凌居申候(中略)(六月)十日前後ニ至大凡植渡シ申候」と「岡郡宗社志」は記している。この稲に蝗がつき大飢饉へと発展する。これ等水害のうち、判明している主要なものを表示すると第2-3表の通りである。

 藩政時代の遠賀川の水害の様子は第五編に譲り、本編では明治期以降の水害について述べる。

藩政時代の遠賀川の水害延享年間工事完成後の遠賀川水流推定図

二 近代の水害

1 明治二十四年の水害

 川は流砂により河底に土砂が堆積し、護岸の浸蝕も進むので常に保守が要求される。藩政時代遠賀川本流と、彦山川など支流の一部は、国普請と称し郡奉行が管理し関係村々に出役を命じていたが、小規模の工事に止り、幕末維新頃には、内外多難の時代で治水も顧みられなかった。そのために河川は次第に荒廃し洪水が多発するようになった。

 明治新政府は早くから治水事業の重要性を考え、海外の新技術の導入に努め、明治初年にオランダ人技師団を招き、その指導により、明治七年から淀川、利根川などの主要河川で直轄工事を行ったが、ほとんどの河川の管理は地方税で賄われていたので、大きな河の下流地帯の、水害の常襲地は復旧改修費が厖大にすぎ、当時の地方予算では維持費の支出も困難であった。このような条件のもとで、遠賀川は明治十九年、二十二年、二十四年と大洪水に見舞われた。とくに明治二十四年は長雨のため、直方で水位が三丈二尺(九・七メートル)に達し、各所で堤防が壊れ、氾濫は数千町歩に及び、二日間も減水せず、田畑の荒廃、家屋の流失倒壊等その損害は二三〇万円に及ぶ莫大なものであった。広渡の長岸寺横の本川の堤防が決壊したのはこの時のことである。

 「遠賀郡誌」の長岸寺の項には「明治二十四年七月の大洪水に、本堂全部庫裡及び境内地大半流失せしが、鐘楼は幸ひに大破に至らず又寺内に観音堂ありしが、本堂其他と洪水の為め流失せり」とある。長岸寺の記録にも「遠賀川洪水の為堤防決潰し、為に本堂と庫裡の過半を流失して、境内又洗はれて、其の大半は池と化し、水深実に七尋に及ぶ」とあり、村内各地で大きな被害を受けたことが伺われる。その後も復旧は捗らず、「島門村是」は明治末期の状況を「明治二十四年ノ水害ノ為メ一時反歩減少セシカ今尚不毛荒廃ニ帰シタルモノハ拾弐町九反七畝ニシテ地価金参千五百六拾参円参拾九銭ナリ此ノ荒地ノ多クハ遠賀川筋ニシテ中ニ島津地区最モ多ク広渡区之レニ亜キ老良区ハ比較的僅少ナリ」と記している。

2 昭和期の水害

 昭和十年六月二十二日より断続的に降り続いた雨は豪雨となり、六月二十七日より七月二日までの六日間で六一九ミリメートルを記録、遠賀川流域に大きな被害をもたらした。殊に金剛川(笹尾川)の決潰により木屋瀬地区は大きな被害を蒙っている。遠賀村一帯も濁流で覆われ、湖と化し、甚大な被害が発生。丁度田植期にあった稲苗は腐蝕し、急遽、宮崎、鹿児島方面より苗を移入し急場を凌いだ。遠賀村では七月十二日に宮崎県西諸県郡野尻村にて補給苗を採苗し、翌十三日小林駅より貨車で輸送している。

 遠賀町に被害をもたらした豪雨は少なくはない。昭和十六年六月二十五日より二十九日にわたる豪雨は県下に甚大な被害を与え、上流の田川では八六四ミリメートルを記録。遠賀村役場では庁舎の基礎の嵩上げを余儀なくされている。昭和二十六年七月一日西日本一帯を襲ったケイト台風に続いて七月七日より十五日までの連続豪雨は県下平均でも六〇〇ミリメートルに及び、全県下に災害救助法が発動された。この前線による雨により、七月十五日、西川控堤防(常貞地区)が決潰し遠賀村に多大な被害を与えている。

 これ等の水害は遠賀川が直接に与えたものではないが、昭和二十八年六月の水害は遠賀川が決潰し、未曾有の災害を全村域にもたらした。母なる河の怒りの姿である。

 昭和二十八年は全国的に水害が多発した年であった。六月末北九州に梅雨前線が停滞し二十五日から二十八日にかけて、記録的な豪雨となり、福岡、熊本両県下で大小河川の氾濫、堤防決壊、が多発し災害史上に特筆される大惨事が発生した。

 数日来降り続いた豪雨で、六月二十六日、遠賀川の水位が急上昇し、午前一〇時には直方の日の出橋水位標が警戒水位を越し五・三三メートルに達した。午前一〇時五〇分頃植木町字中之江の堤防決壊が始まり、一一時三〇分頃には決壊の長さ三〇メートルとなり、最終的には延長一八〇メートルに達した。

 濁流はまたたく間に鞍手町に広がり、午後一〇時頃には三軒屋の一部で軒下まで浸水した。遠賀村では二十六日午後一時避難命令が出され、村内の平坦地は水浸しとなり、一面泥海となった。二十六日午後五時から急速に水位が増し、遠賀村役場(旧役場、現在遠賀川郵便局の場所)前の国道上で、二十七日午前四時には水位は一・七五メートルとなったが、その後次第に低下して二十八日午前二時には一度一・二メートルまで下がった。その後上流で豪雨があり、二十九日午前四時には最高二・五五メートルに達した。

 出水後遠賀川駅附近、木守、浅木、広渡地区で孤立した家に取り残された人もあり、駐留軍のボート、曽根保安隊の救助艇、川船や波津・鐘崎の海難救助隊の伝馬船などの援助により罹災者の救出や物資の輸送が行なわれた。この洪水で西川左岸の堤防も、花園橋、木守橋附近で損害を受け、下流の島津橋、道管橋が流失した。遠賀川の本流だけでなく彦山川、中元寺川、犬鳴川、笹尾川筋でも計八か所の堤防が決壊し、流域は広範囲にわたり大きな災害となった。この時の被害情況を「遠賀川の概況」から拾ってみると第2-4表の通りである。

 六月二十九日午前四時を峠に、水は次第に減少し、七月三日午前三時には全く平常に復した。鹿児島本線も六月二十六日より遠賀川附近が不通となり、七月三日に八日振り開通をみた。

 このときの遠賀川上流の降雨量は第2-5表の通りであった。

浸水した広渡付近宮崎県野尻村での採苗風景浸水した新川鉄橋付近濁流に浸った遠賀村役場浸水した遠賀村昭和28年6月の水害被害状況昭和28年6月降雨量

第四節 遠賀川改修工事

一 明治三十八年の水害と改修工事

 明治三十八年七月にも大洪水が起った。水位は明治二十四年の洪水に匹敵するものであったが、二十四年のときにくらべ、流域で炭坑、鉄道、住宅などの建設が進んでいたため、被害総額は六二〇万円という莫大なものとなった。そのうち炭坑関係の損害が最も多く、川岸に近い多くの炭坑が水没し損害額は三一〇万円に達した。

 この水害が引き金となり、水害の直後の七月二十四日直方町で関係四郡の代表者、炭坑主などにより、遠賀川改修期成同盟会が組織され、国費による改修工事を促進する陳情運動が政府に対し繰返しおこなわれた。

 一方、明治二十九年に政府は河川法を制定し、重要河川は内務大臣の直轄事業として、治水事業が施行されることになっていたが、日清戦争直後のことでもあり、財政的に治水事業の大巾な拡大は望めず、明治三十五年頃までに直轄事業が着工された河川は淀川、利根川下流、筑後川など全国で僅か数河川にすぎなかった。

 遠賀川は明治三十八年十二月十一日河川法の適用が認定され、改修工事計画も明治三十九年三月国会を通過し、国直轄事業として施行されることとなった。

 内務省告示によると、改修工事は予算総額四三九万五〇〇〇円で、明治三十九年より一〇か年の継続事業で、次の区間が工事対象となった。

(1)遠賀川本川、嘉穂郡笠松村より河口(芦屋町)まで
(2)支川泉河内川、嘉穂郡穂波村より遠賀川との合流点まで
(3)支川彦山川、田川郡大任村より遠賀川との合流点まで
(4)支川中元寺川、田川郡糸田村より彦山川との合流点まで
(5)支川犬鳴川、鞍手郡新入村より遠賀川との合流点まで

 改修の内容は河積の拡大、堤防の増設・拡築などを主とした高水工事で、「遠賀川改修工事概要」によれば次の通りである。

改修計画(一部省略)
 洪水流量明治廿六年以降調査実測ノ結果ニヨリ傍ラ流域内ノ降雨量幷二洪水氾濫区域等ヲ参酌シテ次ノ如ク推定セリ河川ノ幅員ハ此等ノ流量ヲ安全二疏通スルニ足ル河積ヲ具備シ且ツ水位ハ三十八年ノ洪水以上二昇騰セシメサル方針ヲ以テ定メタリ、
 本川 直方以下 洪水流量一五〇、〇〇〇(毎秒立方尺)幅員二〇〇間
 本川一里一四町以下ハ既定流量ヲ疏通セシムルニ不足ナルヲ以テ以下漸次幅員ヲ拡メテ二五〇間ニ至ラシメ尚ホ河身掘削浚渫ヲ以テ之ヲ補足セントス(中略)。
新堤ノ高サハ洪水位上三尺馬踏幅三間内外法二割ヲ以テ最少限度トシ

 河身の屈曲を撓正し河積の不充分なところは堤外地を拡張掘削することで計画が進められた。

 明治四十年より遠賀郡内の土地調査が行われて、引続き拡幅のための土地買収が始められた流域全体の収用面積は八四六町歩(八三九ヘクタール)に及んだ第2-6表は地目別と、各郡別の面積および買収金額などを示したものである。遠賀郡内の土地収用反別、及び、島門村のそれを第2-7表に示す。資料により数値に違いがあるがそのままに示している。

 島門村は遠賀川の最下流に位置しており、たび重なる遠賀川の氾濫になやまされ、国による抜本的な改修工事を強く望んでいた。明治四十年六月八日、改修工事について現地で説明が行なわれ、島津地区では耕地の半数以上にあたる四六町四反九歩(四六ヘクタール)が収用されることとなった。当時島津地区は戸数六八戸で一戸平均一町三反余の耕地であったのが、収用後の一戸平均の耕地は六反三畝一〇歩に減少し、生活に困窮することが予想されたので、六月二十四日には計画の再検討と収用面積の縮少を要望する嘆願書が出された。それについて「島門村是」は「遠賀川改修工事ノ為メ本村ノ耕地約六拾五町九反弐畝弐拾歩収用セラレツ、殊二六拾餘戸ヲ有スル鬼津区(島津区の誤)ノ如キハ耕地七拾町餘ノ全面約六歩ハ不毛川敷地トナリ損害尚一区二止ラサル事ヲ鑑ミナバ本村ノ前途大二劃策スルハ最緊ノ要務トス」と述べている。

 島門村の内、島津地区は、拡幅に伴い旧河岸より約二〇〇メートル~二五〇メートル幅で、細長い土地が収用されることとなった。島津区文書「遠賀川改修工事川敷潰地反別名寄帳」によれば「渋シャ」「石荒手」「四反間」「御漁分」「野間ノ元」「笠松」「中須」「渡上リ」「横川」より合計二十九町六反三畝、「京瀬」「砂ヶ原」「江通」「丸ノ内」「川成」「塚ノ元」「毛地」「山ノ下」「十人開」「樽之江」「牟田口」「井料」「八丁縄手」「高畔」「石荒手」「黒方」より合計二十三町三反、「硲」「小熊」「江ノ上」「横川」「安丸」より合計五反八畝、など広い範囲の買収が行なわれている。

 改修工事前の古地図にみられた「横川」「渡上リ」「中須」「笠松」「京瀬」「川成」「牟田口」「八丁縄手」「御漁分」「四段間」「石荒手」「シブシャ」「野間の元」「江ノ上(広渡区)」の字名は工事によって永遠に川底に没し去った。

 芦屋町と島門村は境界のうち、遠賀川と西川に挟まれた地区は飛地があって境界が複雑になっていた。明治の中頃から土地の交換が懸案となっていたが、改修工事中(大正四年二月)芦屋町に所属していた字東は島門村へ、島門村の所属であった字黒方は芦屋町へとそれぞれ交換編入された。

 潰地の内、横川・渋シヤ・安丸・高畔などには宅地もあり、艜業や漁業関係の人が利用していたと考えられる。又笠松には古池と笠松神社があったことも広く知られていたが、笠松神社は明治十五年四月伊豆神社境内に移転し、その後大正十三年五月伊豆神社に合祠された。「遠賀郡誌」には「笠松神社石祠入八寸横九寸祭神鵜萓不合葺命、祭日不定」とあり、古池については「遠賀村誌」に「古書に島津東南三丁にあり、昔遠賀川中の洲にて蟒蛇住みける由言ひ伝ふと。今は二間許りの池となれりとある。近来迄毎年三月三日祭檀を供へ神職の秡などなし池祭りを行ふて居た」と記されている。

 用地買収も終り、明治四十一年四月二十六日直方町で起工式が行なわれ、直ちに工事が開始された。「遠賀川改修工事概要」によれば、可能な限り機械力を導入する事になり、淀川の改修工事が完了したので、主として同工事に使用した当時としては最新鋭の機械類が移用されることになった。島門村地内は人力掘りで、土砂運搬には二〇屯機関車が配属された。

 この工事は掘削不要土砂が余るので当初は其の捨場に苦慮していたが、工事が始まると、炭坑の陥落地の復旧や、湿地を乾田に改良するもの、この機会に耕地整理を行うもの等多く争って土砂投棄を出願し、運搬費用の一部として石炭、車軸油等の寄付の申出や、土建器具などを提供するものもあり、剰土処分は順調に進められた。

 尾崎、鬼津地区も土砂投棄を出願し、大正二年には尾崎区下牟田・舟川、鬼津区古作・中牟田・丁口一帯の耕地一三町歩の嵩上げを行っている。その間の事情を「遠賀村誌」は「尾崎下牟田、舟川及び鬼津古作、中牟田、丁ロ、一帯は低湿にして、年々水害を蒙る事不尠、故松井忠作、中西弥平、吉浦兼蔵、松井政次郎、畑生団次郎五氏は大正元年遠賀川改修工事堀削土砂の棄捨方を其筋に出願した。村長松井実太郎氏の尽力により之が認可を得るに至り、翌年二月より地上げ工事に着手し半ケ年後関係耕地十三町歩の地上げ竣工した。其後水害なきのみならず若松堰を止むれば百余町歩の灌漑水を貯へ得るに至ったのは前記有志者の努力の結果である」と述べている。

 芦屋町も広渡地区の排土利用による耕地整理が行なわれた。「芦屋町誌」には、広渡から島津を経て現地にいたる約五キロの土運び軌道を敷設し、大正二年十二月から大正五年三月まで二年四か月に亘って排土が運ばれ、柳ノ丸、実蒔、高浜の民有地約二〇町歩の地上げと整地が行なわれ、中でも実蒔、柳ノ丸の西の方は約七メートル近くも埋築されたことが記されている。

土地反別並買上料郡別表改修工事土地収用反別遠賀川改修工事川敷潰地反別名寄帳明治末期改修工事以前の遠賀川流域の図

二 鉱害と昭和の改修工事

 遠賀川は第一期改修工事竣工後は県営河川となり、福岡県が維持管理にあたっていた。

 大正時代は第一期改修工事の効果が発揮され、特筆すべき水害もなく、小康状態が保たれていたが、昭和時代にはいり石炭採掘に依る鉱害が出始め、堤防護岸の沈下、坑内排水や洗炭の微粉に依る河床の上昇が目立ち、河川の荒廃が進む。その結果、昭和十年六月、昭和十六年六月、昭和二十八年六月と相ついで洪水が起り、堤防が決壊し、家屋、道路、耕地、炭坑などに莫大な損害をもたらした。明治以降の主な洪水による災害の被害額は第2-8表の通りである。

 終戦直後、昭和二十年十月遠賀川は再び国直轄改修河川に指定され、永らく中断されていた改修工事が再開され今日に至っている。

 明治二十九年に制定された河川法は治水事業に重点が置かれていたが、その後の社会変化、水需要の増大、河川に対する要請の多様化等に対応するため、昭和三十九年七月河川法は大きく改正された。従来の区間主義の河川管理体系は、水系を一貫した管理体系に改められ、河川は水系別に区分され、重要度に応じて一級河川、二級河川等に指定される事となった。

 遠賀川水系は昭和四十一年三月一級河川に指定された。昭和五十六年度、遠賀川工事事務所刊行の「遠賀川」によれば、最近の改修費、鉱害復旧費、災害復旧費等の予算、建設省管理区間、改修計画の経緯、計画河道配分流量、利水状況、高水敷利用実態は第2-1図・第2-6図・第2-9~12表の通りである。

明治以降の主な洪水による損害予算計画河道配分流量改修計画の経緯利水状況髙水敷利用実態

第五節 遠賀川の利用

一 多目的ダムと遠賀川河口堰

1 遠賀川よりの取水

 宝暦十三年(一七六三)に遠賀堀川が完成して以来、遠賀川よりの取水は下流の遠賀町域にとっては重大な問題であった。殊に、文化元年(一八〇四)に堀川の惣水取口が中間より楠橋村寿命に移転されて以後の水争いは旱魃の度に繰り返えされている。水争いは遠賀勢対鞍手勢、堀川水下対二村井手水下等、の間で繰り返えされており、堀川川口でのネコ懸けの争動は語り草ともなっている。正に死活の問題である。明治三十四年に官営八幡製鉄所が操業を開始し、同三十九年の開発計画により、現中間市一本松に水源が求められて以来は、北九州工業地帯と下流地域の間で水利権に関する折衝が繰り返えされて来た。河口堰は、遠賀川よりの大量の取水については最後のものともいえる。遠賀町としては、湛水による被害が心配されることより、慎重な検討を重ね、関係者の理解を得て、漸く契約にこぎつけたものである。

2 遠賀川河口堰の計画

 遠賀川河口堰の計画については、北九州都市圏の中で、工業開発と住宅計画に基づく将来の水需用に対処して水源開発の必要性と、治水面においては、昭和二十八年の水害を教訓に遠賀川の計画的疎通能力の増大をはかるための河道掘削(伊佐座固定堰の撤去含む)を行い、遠賀川河口附近に可動堰を設け、洪水調整を目的とした多目的ダムとしての設置の必要から、国において調査費の計上となったものである。

 その調査の内容は、昭和四十二年度に国土総合開発事業費と、翌年度には、河川総合開発調査費が、また、昭和四十四年度と四十五年度には多目的ダム建設事業実施調査費がつけられ、治水、利水の両面からの検討を行うための予備調査であった。

 一方、昭和四十二年の春から夏にかけては近年にない異常渇水で、北九州市をはじめとする西日本一帯は深刻な水不足に直面し、工業用水はもとより、生活用水も極度に不足し、時間給水の制約と相まって市民生活が脅かされた年で、用水源の確保が当時としては最大の懸案事項となっていたので、遠賀川河口堰構想が世論の喚気をあおり、関心を集めた。この様な状況のなかで、遠賀川河口堰の計画が福岡県・北九州市・建設省サイドで口火が切られたところに事後むづかしい原因をつくりだしたとも云える。

3 遠賀川河口堰対策協議会の発足

 昭和四十四年六月十一日に建設省遠賀川工事事務所主催により第一回遠賀川河口堰説明会が芦屋町で開かれた。これに先立ち遠賀郡町長会、議長会の場に河口堰計画の話はあったが、一般関係者を対象とした説明会は当日が最初であったので、関係四漁業協同組合(芦屋、柏原、波津、岩屋)を中心とした河口堰反対の空気は異常に強いものがあり、建設省サイドで一方的に現地調査をしたことに強い不満の意が述べられた。その後、四漁業協同組合からは、河口堰の建設を前提とした実地調査に対し、強い反対の抗議行動が行われるなど空気は険悪なものになった。

 遠賀郡町長会、議長会においては、そうした地域の実情のなかで、利水、治水面と併せ地元民への悪影響は許されないとした立場から、昭和四十四年十一月十九日遠賀川河口堰対策協議会(水巻町長西尾司会長)の発足となり、関係市町(遠賀郡四町、中間市)で河口堰を設置した場合の問題点を集約し、持ち寄ったものの、影響調査をしないことには具体策が樹てられないことから、昭和四十六年三月影響調査の実施を了承することになった。

 調査員には、農業関係に九州大学教授伊藤健次、田辺邦美の両氏が、漁業関係には九州大学教授塚原博氏が当り、約一年余の調査期間をもって昭和四十七年七月影響調査の結果が纏まり、説明会が行われた。建設省遠賀川工事事務所並びに福岡県側からも、各市町毎に集約された河口堰問題に対する回答が出された。

 遠賀川河口堰対策協議会は、これら影響調査の結果と建設省側から示された回答内容を基礎に、部会組織(漁業、農業、利水)に分かれ、多角的に内容の検討を行い、その結果を各市町の対策特別委員会にはかるなど、ひん繁に会議が開かれ河口堰対策についての議論が交された。

4 農業団体の反撥

 かねてから遠賀川河口堰対策協議会の組織内に四漁業協同組合と二農業協同組合(遠賀郡農協、中間市農協)の参加を呼びかけていたが、なかなか加入が得られないままに四か年が経過、昭和四十九年一月、遠賀川河口堰対策特別委員会と農業団体との会合の席上農業団体側の不満が噴出した。漁協関係者との交渉が妥結したのに反し、農業団体側との交渉は解決のないままに、昭和四十九年六月水巻町立屋敷の遠賀川河川敷で農民大会が開かれ河口堰反対の火の手があがった。

 亀井光福岡県知事は、農業団体の同意なしでは工事着工はできないとの判断から、町内出身の三原朝雄衆議院議員をはじめ、地元選出の松岡功、浜中茂足、助信幸雄の各県議会議員を通して地元との接渉や、遠賀川河口堰懇談会を開いて調整に努めるなど、交渉も大詰を迎えた昭和四十九年十月十五日、福岡市城山ホテルで、農業団体側代表八名に、亀井県知事、地元選出県議会議員、九州地方建設局長、建設省県関係部課長、北九州市長及び地元関係市町長、議会議長の面々が夜を徹し、交渉を重ねた結果、農業団体側提出の七項目は大綱において了解点が得られたので、遠賀川河口堰建設計画はこの日を境に大きく前進をみることになった。

5 遠賀川河口堰の着工

 農業団体との基本的要求事項が結着をしたので、利水部会は広域水道の見地から将来計画の策定を手がけ、農業部会においては、農業振興対策としての近代化施設の調査研究に取り組み、また、河口堰建設にかかわる具体的諸問題の検討については、各市町間で事情が異なるため、窓口を各市町単位に移し処理することとなり、地元の事情を考慮して、施設の改善、対策工の詰めを行い、ほぼ了承が得られた昭和五十年一月遠賀川河口堰は着工となったのである。

 こうして幾多の段階を経て、着工をみた遠賀川河口堰は、昭和五十五年三月本体工事の完成を見るに至る。これは予備調査から起算して十三年の歳月と三百十一億円の巨費を投じた世紀の大事業でもあった。

 主対象である北九州市では、昭和五十八年八月一日に八幡西区の本城浄水場が完成し、取水準備が完了した。

6 遠賀川河口堰の概要

 遠賀川は上流にいくつかの井堰を持つ。犬鳴川の花ノ木堰や彦山川の岡森堰は藩政時代より著名な井堰である。堀川の寿命の唐戸や中間惣社山唐戸も同様である。遠賀川河口堰が影響を与える範囲内だけでも第2-7図に示すように多くの水利権が関与している。河口堰はその最下流に位置する。影響は取水のみならず漁業にも及ぶ。それ等の問題を止揚しての着工であった。

 河口堰の諸元と上流の既存の水利権は第2-14表の通りである。

関係河川使用者の取水量略図農業用水上水及び工業用水

二 災害の予防

1 曲手排水機場

 木守・老良・浅木地区の湛水防除のため、特別鉱害復旧事業で、昭和三十一年曲手自然排水樋門が設置され、湛水のおそれがあるときは、干潮時に遠賀川の水位が下がるのを待って、水門から排出して、その益するところ大であったが、河口堰の完成に伴い、遠賀川の水位が上り自然排水樋門は使用できなくなり、内水問題が心配されるため、昭和五十五年建設省に依って第2-15表の曲手排水機場が建設されている。

曲手自然排水樋門曲手排水機場

2 前川排水機場

 前川排水機場はその周辺に低平地が多く、前川の流末処理が不充分で内水に依る農作物の被害が多いため、昭和五十五年建設省に依って第2-16表の前川排水機場が設置された。

前川排水機場曲手排水機場前川排水機場

3 洪水の予報

 水害のない社会をめざした長期計画に従い、治水設備の整備拡充が続けられているが、過去の記録より見て、遠賀川は梅雨期に暴れ出す典型的な梅雨型河川で、洪水は六月末から七月初めの梅雨末期に集中している。

 防災上洪水の予報は一刻も早く知らすことが要求される。管理上重要な地点に設けられた水位観測所・雨量観測所よりのデーターは遠賀川工事事務所・河口堰管理事務所に集められ、検討され、洪水予報は水位の上昇予想に随い待機・準備・出動の三段階で関係市町村の水防団に通報される。

 遠賀川水防警報対象の量水標のうち、中間、「日の出橋」の基準水位は第2-18表の通りである。指定水位を、一・三メートル超過すると水防警報の対象となっている。潮の干満も影響するであろう。直方市知古の三角点で標高六・九メートル、木守の三角点で一・六四メートル、ダイヤニュウタウンの中央で三・九メートル、直線距離約八キロメートルで三メートルの標高差である。水流は必ずしも速くはない。戦後の主な洪水の水位と流量は大略第2-19表の通りである。

遠賀川水防警報対象量水標戦後の洪水表

三 流域の発展と水運

 遠賀川は流れが緩かで、古い時代から上流まで水路が開けていたので、水運を利用して内陸部の奥深い地域など流域の各地で同時に石炭の採掘が始まり、他地域に先がけて国内最大の産炭地となった。特に増産の隘路となっていた湧水の処理も明治二十年頃には蒸汽ポンプの導入で解決し、出炭量も急増した。三井、三菱、住友など大手資本の進出もあり、筑豊炭の産出額は、明治十八年二三万トン、明治二十五年一〇〇万トン、明治三十年三〇〇万トン、明治三十五年五〇〇万トン、と増加して全国出炭量の五〇パーセントに達した。それにともない遠賀川の水運も空前の活況を迎えたが艜の輸送力も限界があった。筑豊興業鉄道会社の設立に依って、鉄道の敷設も進み、明治二十四年十月若松-直方間が開通した。引続き直方より飯塚、田川へと路線は延長された。明治三十四年には官営八幡製鉄所が創立され、急速に膨張する北九州工業地帯をはじめ、全国のエネルギーの源として、筑豊炭の使命はますます重要性を増した。鉄道による送炭も増加していったが、明治後期は川艜で若松、芦屋に運ばれる石炭は、年間一〇〇万屯にのぼり、遠賀川は水運の大動脈として、依然として大きな役割を果していた。

遠賀川を下る川ひらた石炭送出髙

四 遠賀川の産物

1 遠賀川のサカナ

 遠賀川には江戸時代には河魚が多かったことが「筑前国続風土記」に述べてあり、又同書の「土産考」には鯉や鰻などの他に、遠賀川には河鱸(すずき)や河鯔(ぼら)などがいて、味も海の鱸やぼらにまさること、また鱠残魚(しろうを)を増殖のため忠之公の時(一六二三~一六五四)上方から稚魚を取りよせて芦屋川(速賀川)、那珂川・早良川などに放流したことが記されている。

 鱖魚(さけ)についても「鱖魚、遠賀川、早良川、宗像川に上る事有。極めて稀也。頃年まれに大なるさけをとる事有。肉の色味ともに関東におとらざるもあり」とある。

 昭和五十三年十一月に遠賀川の河口から約七キロ上流の水巻町伊左座で全長八〇糎もある大きな鮭が、又四年後の五十七年十一月には西川の河口から約五キロ上流の国鉄の鉄橋近くで、体長六七糎重さ約二キロの大きな鮭が獲れて、新聞にも報道され人々を驚かせた。

 遠賀川のはるか上流の嘉穂町上大隈には鮭神社が祀られており、昔から川を昇る鮭は海神の御使いとして、鮭神社に向うものと言い伝えが広く信じられていた。この地方では神罰を信じて鮭を捕って食べない習慣が今でも残っている。

 昭和の初めごろまでは時々鮭が昇っていたそうだが、炭坑のため川の汚れがはげしくなり鮭が全く来なくなっていたのに、久々に鮭が帰って来たことを聞き、大隈町の人達が早速この鮭をもらいうけ、神社に奉納し盛大な「献鮭祭」を行ったとのことである。大隈町ではこれを機に「遠賀川に鮭を呼び戻す会」が結成されており、昭和六十年十二月には北海道広尾サケマス増殖振興協会より受精卵(発眼卵)二万粒が寄贈された。大隈町でふ化させ、六十一年春に遠賀川に放流する予定となっている。成功すれば、四、五年先には遠賀川に維の回帰が見られる可能性もある。

 江戸時代後期には鰻もたくさん獲れるようになり、大阪からも漁師が獲りに来ていた。そのようすが「高瀬日記」に次のように記されている。

 のぼりゆく川の左のかたに、広さ五六間にして、めくりに竹の垣して中に筥をうけたるあり。船人にとへば、是れなん難波より来りて物すなるむなぎのいけすといふものなりと云ふ。かたはらにあやしげなる家つくりて、
あしふけるあり。俊良
難波よりたが夏やせのためにとて
つくしのむなぎとりに来つらむ
このわたりに、ちひさきふねをうかべて、むなぎをとるもの、こなたかなたにみゆ。

 「高瀬日記」は伊藤常足翁が天保十五年(一八四四)に歌道の門人達に送られて、芦屋から川船で今の西川を遡って古門に帰った折のことを書いた伊藤保親の紀行文である。

 昔の漁獲高を正確に知ることはできないが、明治時代となって河漁はますます盛んになっていった。

 明治初年と末期の漁獲高は第2-21表・22表の通りである。

 明治末期には生産高も約四〇〇〇円となり重要な産業となっていたが、上流で炭鉱が次々と開発されて水の汚染がはげしくなり、その対策が必要になった。「島門村是」には「本村ハ河川溝渠溜池等能ク漁棲適当セルヲ以テ天然繁殖ニ任セテ可ナレドモ近来上流地炭坑所ヨリ流出セル悪水ハ一円ニ浸入スルアリテ為メニ漁猟依然トシテ上ラサレバ専業トスルモノハ僅々タルニ過ギズ故二將來悪水豫防策ヲ講シ養漁飼育増殖ヲ謀ラバ本村主要ノ副産物トシテ利益増大ナリ」と記している。

 昭和四年~八年頃には遠賀村、水巻村の河川敷で釣餌用としての小蟹も採取されていた。次例は福岡市の漁業者によるものである。

遠賀川川蟹採取願
 出願者 福岡市伊崎浜漁業組合長中村武章
 採取場所 遠賀川川敷島門村、水巻村地内

 その後、石炭生産の増加と、大正末期から盛んになった洗炭業の排水で川はますます汚染され、河床には微粉炭が溜り、魚類は急に減ってしまって、一時は死の川、または河の色からゼンザイ川とも呼ばれるようになっていた。

 昭和三十四年頃から重油への転換が進み、それに伴って炭坑の閉山が相次ぎ、炭坑排水による汚染はやわらぎ、次第に昔の状態にかえりつつある。

嘉穂町大隈の鮭神社明治初年の漁獲髙明治末期漁獲髙遠賀川川蟹採取願

2 秣と河砂

 河原の草は緑草肥として貴重なものであった。また牛馬の飼料としても大切なものであった。所によっては七島(しちとう。暖かい地方の湿地に生える大型のカヤツリ草で主として畳表に使用される)が自生していて、この草は養蚕用の網に加工されていた。河砂と共にこれ等の採取願がたくさん出されていたが其の一部を次に示すと第2-23~25表の通りである。

秣苅取願七島苅取願川砂、川土採取願

五 遠賀川の橋

 大正十三年に遠賀川橋が建設されるまでは対岸水巻方面との交通は専ら渡船に頼っていた。水巻村大字伊左座字川原、同村大字二村字大湊、同村大字古賀、島門村字老良など遠賀郡十六渡しとして「遠賀郡誌」にも紹介されている。同書の道路の項に「第四号国道線 但八幡町大字大蔵字長谷、企救郡界より黒崎、折尾、頃末、島門、岡垣を経て宗像郡界間」、「第四号国道筋水巻村大字朳島門村大字広渡を貫流せる遠賀川に朳渡あり其長五拾間なり」とあり、広渡・朳間の渡しは国道筋の重要な渡しであったことがうかがえる。

 その後交通量の増加に伴い、大正十三年三月遠賀川橋が建設され、国道三号線も昭和六年に開通した。その後前記の橋の上流に国道三号線の上り専用として遠賀川橋が新設され、又下り線用として遠賀大橋が新設された。それに伴い老朽化した旧遠賀川橋は解体撤去された。現在、遠賀町域にある遠賀川に架る橋は第2-26表の通りである。

旧遠賀川橋遠賀川の橋

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