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遠賀町誌 第二編 水に生きる 第二章 神田川

ページID:0026896 更新日:2023年4月17日更新 印刷ページ表示

第二編 水に生きる 第二章 神田川 [PDFファイル/1.23MB]


第一節 神田川の開削

 江戸時代前期から中期にかけて西川流域では、新田開発・耕地拡張が積極的に行なわれ、利水事業も併行して進められた。万治年間には山田川が開削され植木村・上底井野村・中底井野村・木守村・今古賀村・広渡村・島津村など十四か村の灌漑用水は大きく改善され、西川用水と併せて、通常の年の養水は充分賄えるようになったが、何分にも十四か村の共同用水で、その最も下流にあたる広渡村や島津村は旱の年は養水不足になやまされることが多かったので、寛政の頃遠賀川筋の老良の上流垣生村塩田から広渡・島津地区へ水路が造られた。この川が神田川のはじまりである。その後天保三年(一八三二)にはこの水路を広渡地区で分水して西川板井手表に補給する水路が新設された。これによって若松、鬼津、尾崎、別府の村々も旱魃の被害から守られるようになった。

 神田川の発端について「筑紫遺愛集」には「与十郎は島津村の庄屋なり。-中略-さて島津村は水少く、旱年にハ旱損多き村なるを、与十郎深くなけき、二村の川に井手を築なハ、其害を免れんとて、宦にせちなる願ひをたて、終に免許を得て、旱年にハ二村に井手を築しに、大に旱魃の害を免れぬ。今は其水を分ち、余流終に十余村の田地を潤し、莫大の国益となれり。宦刻孝義録日、風俗宜者遠賀郡島津村庄屋与十郎五十三、寛政三年褒賞、同組頭次兵衛四十三、同長七三十二としるされたり」と記している。

 鬼津村井口氏の記録である。「年暦算」は文政十二年の条に「老良前本川ニ旱魃備石井手、川西十ケ村ニ而仕居御願申上分、御普請被仰付、年ゝ養水払底ニ相成候得ハ、水下村ゝ申合、板掛或ハ土せきニ而築立、本川水引キ下す、此の辺村ゝ西川板井手表ニ引受ル、水ハ広渡下モ本土手井樋より取、吉原川底樋、千間川底樋より松ノ本後ニも、今古賀水引川えも底樋有り。夫より西川板せき上二水引込、村ゝ養水ニ致ス事也。此数ケ所之底樋御普請ハ、寅、卯、辰両三年ニ懸り御普請全成就す」と記している。

 右の両者より、団七堀とも呼ばれた神田川の前身の様子について知ることができる。即ち、寛政年中(一七八九~一八〇〇)に、島津村に灌漑用水を引くため、島津村庄屋与十郎の発案により、二村前の遠賀川に井手を築いて導水したのに始まる。この旱魃備の二村中手(老良前井手)は、文政十二年(一八二九)頃に川西一〇か村の要望により石井手となる。川西一〇か村は「二村井手水下」と呼ばれた広渡・木守・下底井野・鬼津・若松・島津・尾崎・小鳥掛・今古賀・別府の各村であろう。旱魃の年には水下村々協同で二村井手に板掛や土堰を築き取水する。その水取口が塩田堰であろう。

 鬼津村方面への導水は広渡村下の本土手の井樋より行う。井樋より引いた水は、吉原川・千間川・松ノ本後・今古賀水引川を底樋で通して西川の板堰(鬼津井手)に導き配水する。底樋の敷設工事は寅・卯・辰の三年間で完成した。「島津区文書」(明治九年に島津区より第四大区に提出したもの)に「天保四年頃より若松・鬼津・尾崎・別府村ゝに用水払底の由にて、旱魃の節養水備に加入致、広渡村抱字前田と申所に圦樋仕調、通水の都合に依て夫割・諸入費の出財相定め、養水手当双方の村ゝとやかく行届居申候」とあること、「年暦算」天保三年の条に「當村(鬼津)江去之土手井樋より板井手水取溝新溝立替へ、古溝代地ニ而費畝無之、水懸弁理吉シ」とあることよりして、寅卯辰は文政十三年、天保二・三年と推定される。明治九年頃の水路の見取図は第2-9図の通りである。

第二節 神田川の利用

一 団七堀と塩田堰

 圦樋、堰、水路の名称は明治十一年、及び十九年の「島津区土地取調帳」では「団七圦樋」「団七砂利堰」などと呼ばれ、「用水路は、団七堀より広渡字小熊まで」などと記され、その規模については次のように書かれている。

団七堀より広渡村地内字小熊迄用水路長百八十六間 巾平均三間
小熊より広渡村横川まで、長さ千六百三十八間 幅平均九間四尺九寸

 遠賀川改修以前の図面(第2-5図参照)を見ると老良の小熊より大字広渡の横川までは、細長い水溜りが続いていたようである。また「遠賀川改修工事概要」には「島門村遠賀川左岸(自一里五町至一里三十町)団七堀ヲ埋立テタルトコロ一体二地盤宜シカラス」と記録されているところから想像して、天然の水溜りが連続して用水路となり、それらの総称が団七堀と呼ばれていたのではないかと思われる。又圦樋については「島門村役場文書(明治三十三年)および「浅木村役場文書」に「石圦樋底井野村大字垣生字外塩田、長さ七間五尺 竪内法三尺 横内法一間三尺、右垣生地内二在テ大字広渡・島津・鬼津・尾崎・今古賀、木守・下底井野・別府以上八ヶ区組合用ニ供ス分工費一切該関係区ノ負担トス」と記録されている。

 明治二十年に造られたこの石圦樋は、最近まで昔の姿で残っていたが、河口堰の新設に伴う改修工事で取除かれた。老良区の神田川記念碑前で保存されている(口絵参照)。水門の笠木には次の事が刻んである。

維時明治二十年三月落成
变換修繕委員
矢野與壮
柴田直敏
柴田源兵ヱ
石工山鹿村
江崎才七

二 旱魃と寿命のネコ掛け

 旱天が続き、遠賀川の水位が下って、神田川への用水の取入れ量が少くなると、遠賀川を堰止めて圦樋に水を呼び込むため、川床に杭を打ち、竹や叺で柵を造りその上を砂利で押える砂利堰の築立が行なわれた。

 「明治二十七年字団七堀旱魃砂堰事蹟」(浅木村役場文書)に、島門村より塩田堰築立のため浅木村に連絡した記事がある。団七堀旱魃砂堰を七月九日より築設するため、旧慣割で「人員十名」「籠」「鍬」など道具を持っての出夫要請や、七月二十一日には、砂堰の一部が破損しその修理のため「人員十八名」「叺五十二俵」の要請などが記入されている。旱魃のとき塩田堰を築造して取水することは、当時の村民には大きな労役負担であったようで、「鬼津公同会記録」(鬼津区文書)には次のように書かれている。

一、明治三十四年空俵一俵二銭五厘
 人夫賃一人二十五銭。非常人夫賃一人参拾銭
一、団七堀砂堰については十銭増のこと

 当時は自家製の俵を供出して砂堰の築立にあたっており、団七堀の砂堰の築造は夫賃十銭増などのことと考え合わせて、大変骨の折れる仕事であったことが解る。

 神田川に限らず、水利権を有する水路の維持・保繕・管理については藩政時代より水下田数に比例した定格出夫歩割が行われていた(第五編第一章参照)。諸負担はその歩割の率で負担する。明治以後もこの歩合は生きており、例えば、昭和七年に若松市より支払われた報償金や、昭和十五年に八幡製鉄所より支払われた水利交附金なども第2-27表の歩合で配分されている。

 旱魃の年は昔から塩田堰の築立や寿命のネコ掛けが行なわれていたが、最近の記録では、昭和九年六月と昭和十四年七月に大旱魃があり、神田川の水が減ったので塩田堰を仮設して伏流水の取水が行なわれた。

 遠賀川の東の村々も塩田堰より約六キロメートル上流の堀川の入口寿命に、旧来からの慣行に従って仮堰を築立てた。この堰は「寿命のネコ掛け」と呼ばれた。一般には「草堰」と言われるもので、水を配分するため流れの緩かな川床に杭を打って、粗く柵を造りネコ(穀類を干すため特に丈夫に造られたむしろ)などを掛けて水を制限するもので、洗堰と違ってネコ掛けは完全に水を堰止めるのでなく、下流に水が洩れる構造のものである。

 この堰によって川東と川西の分水を確実にするため関係村々による寿命分水設計書も取り交されている。設計図には堀川入口から上流へ約九〇間砂利堰を造り、その左右に、川西川東に分水するためのネコ掛が行なわれた。

 「島門村是」には「大旱魃ニ遭遇シ用水欠乏ヲ来ス事アル時ハ遠賀川通り楠橋村地内獅子池、即チ寿命砂利堰ヲ築切上、仝所ヨリ八十七間ヲ距離シ元川東中間外十四ケ村、川西島津外七ケ村ト旧慣ノ通リ六、四ノ法ヲ以テ分水シ来レリ」と記されている。明治二十七年八月十七日・十八日の分水は第2-10図の要領で行われている。この図では「寿命砂利堰」が二六間半、同所より川中井手までが、八七間ではなく、八五間となっている。井手所で川を六分・四分に分けて分水、ネコで水量調節を行なっている。

 遠賀村役場文書の「寿命堰日誌」には、昭和十四年八月三十一日に寿命でネコ掛けが行なわれた際、遠賀村で調べたところ、川東六、川西四の比率より川東の方へ水が多量に流れていることがわかり、川西側のネコ掛を七、八間取除くよう川東に申し入れたことをも記録している。

三 遠賀川の改修と神田川

 明治三十九年より遠賀川の大改修工事が行なわれ、神田川の一部(団七堀など)は埋立てられ堤防敷となった。それに従って左岸の堤防の内側に塩田堰から島津まで神田川の水路が移設された。この工事では塩田圦樋は変更されていない。

 改修工事が進んで遠賀川は浚渫され、流れが良くなったため、大正元年頃より塩田圦樋附近の水位が下り、満潮時に塩水が混じることもあり、取水が困難となった。神田川への水の流れ込みも減少し、島津地区では、夏季灌漑には昼夜百余挺の水車を踏んで、用水を汲揚げねばならないことになったため、塩田圦樋より約七〇〇間上流の、垣生地内堂の元で取水できるように、新水路の開削を要望する嘆願書が島津地区地主二五名連名で、大正六年八月県に出された。

四 神田川と下大隈堰

 明治三十九年塩田堰より約三キロ上流の中間村に八幡製鉄所が取水設備を造り、明治四十三年三月より取水を開始した。そのため灌漑用水が不足して、島門村、浅木村はこの対策について十数回郡役所、県庁、八幡製鉄所に陳情を行い、更には八幡製鉄所、郡役所、関係村役場の協議も繰返し行われた。交渉は迂余曲折したが、大正十五年八月、島門村、浅木村と八幡製鉄所の交渉がまとまり、覚書が取り交された。覚書には次のことが謳ってある。

一、製鉄所ハ遠賀郡底井野村宇大隈地先ニ於ケル製鉄所遠賀川水道ノ取水塔前ニ導水堰ヲ築造シ且遠賀郡底井野村大字垣生字塩田地先ノ遠賀川中ニ現ニ其ノ引入口ヲ有シ遠賀郡島門村及浅木村ノ耕地約壱千町歩ヲ灌漑スル神田川用水路ヲ上記導水堰迄延長シテ此ニ新引入口ヲ設クルコト
一、製鉄所ハ灌漑時期中(自五月至九月末)ニ於テ島門村及浅木村カ旧慣ニ依リ両村ノ耕地約壱千町歩ニ灌漑スル用水ヲ第一条ノ新引入口ヨリ引用スルコトニ関シ両村ノ優先権ヲ認ムルコト

 覚書の主な条件である神田川の延長と導水堰の工事は、八幡製鉄所により昭和四年に着工され、昭和五年七月完成した。この工事で海水の混入は完全に防止され、築造の度に多くの出夫を必要としていた塩田の仮砂堰の築立も不要となった。近代的な固定堰と水路によって、灌漑期間中は安定した用水が得られるようになった。老良の遠賀川堤防近くに此の工事完成の碑が設立されている

五 神田川水利権問題

 前項で述べた通り、昭和五年七月に神田川が完成し、塩田堰に代って下大隈より導水が開始された。

 一方、現中間市垣生地区では、遠賀川改修工事以前は底井野村下大隈の唐戸、及び、筑豊線遠賀川鉄橋上手の大字垣生宮ノ前の樋閘より遠賀川の水を取水していた。改修工事により、前者下大隈唐戸よりの水路は垣生人家内に変更を余儀なくされ、後者の樋閘は堤防敷となり廃止された。水路の変更により、従来同様の通水ができなくなり、同水路の灌漑地区約三〇町歩の耕地は年々用水に困難を生来していた。

 大正十五年八月に島門・浅木両村と八幡製鉄所の間に協定が成立し、神田川用水路が塩田堰より下大隈堰まで延長されることが決定するや、垣生村では旧前の樋閘を復活し、神田川より垣生用水路へ分水の要求を水利権者である島門・浅木両村に提出した。垣生村では分水要求に先立ち、二年前より、遠賀川洪水敷地内に旧来の通りの水路の復活を計画していたが、それが神田川の延長工事線上にあり、重なるため計画を中止し、代りに神田川よりの分水を要求したものである。この件は島門村議会にも諮問されたが、神田川は遠賀地区が専用の水利権を有するため解決には至らず、昭和十年には逮捕者を出した盗水事件にまで発展する。

 神田川の延長工事は官営八幡製鉄所の手により、昭和五年七月に完成する。分水は行われていない。そのため、中間町(昭和七年月、底井野村は中間町と合併)では塩田堰上流の神田川々底に円管を埋設して遠賀川より通水を計る一方、福岡県知事の認可を得て、大字垣生宮ノ前の神田川堤防、及び、神田川川底を掘鑿して送水管を埋設する工事を計画した。

 それに対して、昭和十年に遠賀村では直方区裁判所に対し、水利権に著しき損害を及ぼす神田川沿堤川底掘鑿・及び送水管埋設工事の中止、塩田堰上位の遠賀川流水を灌漑用水に使用することの禁止、神田川々底埋設円管の撤去を提訴した。昭和十年四月二十六日、直方区裁判所より同件に対する仮処分の判決があり、その仮処分の当否を問う口頭弁論が福岡地方裁判所飯塚支部で行われた。口頭弁論は、申請者遠賀村・同代表者村長柴田圓太・同代理人弁護士松井仿作、被申請者中間町・同代表者町長名和朴・同代理人弁護士森下政治、裁判長判事関成章・判事稲垣規一・判事秋山秀男で行われ、昭和十年六月十五日判決が出ている。遠賀村よりは神田川水利権の証人として永田伊男・松本寛が出廷した。判決主文は次の通りである(中間市提供)。

主文
昭和十年四月二十六日直方区裁判所ガ為シタル同庁昭和十年(ヘ)第三〇号仮処分命令中被申請人ハ遠賀郡中間町大字垣生字宮ノ前神田川沿堤川底掘鑿及送水管埋設工事ヲ為スヘカラストアル部分ハ申請人ニ保証金千円ヲ供託セシメタル儘之ヲ認可ス其ノ他各項ノ命令ハ之ヲ取消ス
訴訟費用ハ申請人及被申請人ノ各自弁トス
右認可部分ヲ除キ其ノ他ハ仮ニ之ヲ執行スルコトヲ得

 神田川沿堤川底掘鑿及送水管埋設の件は「被申請人カ這回福岡県知事ノ認可ヲ受ケテ送水管ノ埋設工事ヲ施行セントシタルハ神田川用水路ヲ横切リ深ク其川床二之ヲ埋設シテ導水セントスルニアリシコト被申請人ノ自供スル所ナルカ故ニ其ノ工事ノ施行上此ノ用水期ニ際シ神田川沿堤ヲ破壊シ川床ヲ掘鑿シ以テ用水ノ流下ヲ妨ケ灌概二非常ノ支障ヲ生セシムルコトハ自明ノ理ニシテ此ノ如キコトハ申請人ノ水利権ニ著シキ損害ヲ及ホシ且ツ急迫ナル強暴ヲ加フルモノト認ムヘキニヨリ仮処分裁判所カ斯ル工事ノ施行ヲ差止メタルハ洵ニ当然ニシテ……中略……之ヲ認可スルヲ相当トス」の理由が附されている。他の件については「被申請人カ数年前ニ埋設シタル円管ニヨル引水ハ申請人ノ疎明ニヨリテハ未タ以テ申請人ノ水利権ニ著シキ損害ヲ及ホシ或ハ之ニ急迫ナル強暴ヲ加フル事実ヲ推理スルニ足ラサルヲ以テ本件仮処分中ニ神田川ノ川ノ上川ノ底ヲ横断シテ中間町垣生地内ヘ塩田堰上位ノ遠賀川流水ヲ灌漑用ニ使用スヘカラス……中略……埋設円管ハ撤去ス可シトノ部分ハ不当ナリト謂フへク遂ニ取消ヲ免レサルモノト認ム」という理由で却下されている。これにより塩田堰上流の遠賀川流水を垣生地内へ引くことは、盗水ではなく、正当なものと認可されたことになる。

 垣生字宮ノ前の沿堤川底掘鑿工事は中止されたため、垣生地区内への用水は、山田川の水を下大隈を経て引く砂山分水によって供給されている。

六 河口堰と神田川

 神田川は寛政年間開削以来、村民の貴重な灌漑用水路だったが、素掘りの岸には雑草が繁り、洩水や決潰になやまされ、度々補修工事を重ねねばならなかった。昭和五十一年、十二月より遠賀川河口堰の附帯工事として護岸の改修がなされ、五十六年三月に完成、近代的な水路に生れ変った。五月十五日より十月十五日までの五か月間は優先的に取水することが認められ、遠賀町の一一五〇ヘクタールの灌漑用水及び生活用水の一部として毎秒三・〇一九立方メートルが使用される。

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