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第三編 先史より有史へ 第一章 原始・古代の遠賀川流域 [PDFファイル/5.22MB]
日本列島に人類が住みはじめた時期は、考古学では旧石器時代とよばれている。従来、日本列島には旧石器文化はないと考えられてきたが、昭和二十四年(一九四九)、相沢忠洋氏が群馬県岩宿遺跡で、関東ローム(赤土層)の中から黒燿石製の槍先型石器を発見したのが発端となり、以後三十余年の間だけで全国各地で約一万個所にのぼる旧石器時代の遺跡が発見されるにいたっている。
旧石器時代は前期旧石器時代(約三万年以前)、後期旧石器時代(約三万~一万三〇〇〇年前)、晩期旧石器時代(約一万三〇〇〇年~一万年前)の三期に区分されている。
九州での前期旧石器時代の遺跡はきわめて数少なく(第3-1図)、大分県日出町の早水台、長崎県吉井町の福井洞穴第十五層(第七文化層)などが著名である。
後期旧石器時代の遺跡は、東・中九州の大野川流域や阿蘇カルデラ山地を中心に数多く分布し、北・西九州にも発見例が増加している。
福岡県下では、福岡市博多区の諸岡遺跡、小郡市横隈の横隈山遺跡、同市乙隈の乙隈遺跡、同市三沢の西島遺跡、久留米市山川町の野口遺跡、筑紫野市針摺の大塚山遺跡、朝倉郡夜須町の屋形原遺跡、鞍手郡若宮町の汐井掛遺跡などから後期旧石器時代のナイフ型石器が出土している。
これらのナイフ型石器には、その製作技術の特徴から瀬戸内海沿岸に分布する国府型ナイフ(第3-2図)と九州の地方的特徴をもった九州型ナイフがある。国府型ナイフが近畿西部、瀬戸内中部を中心に発達し、その技術的影響が裏日本の各地と九州北部にみとめられることから、この時期すでに地域間の交流のあったことが指摘されている。
晩期旧石器時代の遺跡は、西九州の福井洞穴第四層~第三層、春日市の門田遺跡などがある。
遠賀川流域は、現在、平地のすべてが後代の沖積地に覆われているため、現在まで旧石器時代の遺跡は未発見であるが、これは流域の地質学的、地理学的な当時の地形復元研究とあわせて今後の課題とすべきであろう。
昭和六十年四月より発掘が行われている北九州市若松区蜑住の椎木山遺跡で、後期旧石器時代のものと推定される竪穴住居跡や石器類がほぼ完全な形で出土しているが、現在調査中であり、結論はまだ出ていない。椎木山は江川に面する小台地であり、島郷台地の南尖端に位置する。近世、初期までは台地周辺は入海であり、台地西麓で山鹿より入る玄海灘の潮と、洞海湾より入る響灘の潮が合している。住居跡よりは柱穴や炉の跡とみられる遺構が見つかっており、かたわらには貯蔵穴様の遺構もある。同遺跡が旧石器時代の住居跡と確定されると、同時代より定住が行われていたことを立証することにもなり、注目されている。
日本列島に人類が住みついた時期は、地質学上の第四紀洪積世末の古ウルム亜氷期(約四万六千年前)ごろと考えられている。日本列島はそのころ、まだ大陸と地続きになっていて、海水面が現在よりも一二〇メートルから一四〇メートルも下がっていた。現在水深約一四〇メートルの対馬海峡や津軽海峡、水深約四〇メートルの宗谷海峡、水深約一〇メートルの間宮海峡などがみな陸橋状に大陸とつながり、約二万年前のウルム氷期中の最寒冷期に海面がもっとも下がったと考えられている。このため植生分布も寒冷植物や亜寒帯針葉樹が列島にひろくおい繁り、大陸に生息していた諸動物が、この時期に陸橋を渡って日本列島各地に渡ってきた。ナウマン象が南から、マンモス象が北から渡ってきたのをはじめ、北方大陸に生息していたオオツノシカ、ウマ、ヒグマ、トラ、サイ、オオカミ、イノシシ、ニッポンザルなどの化石が各地で発見されている。(第3-3図)
わが国に旧石器文化をもたらした原日本人は、これらの動物を追って、やはり大陸から渡ってきたものと思われる。九州での前期旧石器時代を代表する大分県早水台遺跡の最下層で発掘された石器は、芹沢長介氏によると、遺跡をのせる海岸段丘の成立年代(約一三~一二万年前)より少し新しい一二万年から一〇万年前あたりと推定されている。
また、芹沢氏は、早水台遺跡の石器材料(石英脈岩)やその製作技術(両極打撃法)が、北京・周口店文化と共通性があることから、同系統のものであろうと指摘している。
旧石器時代の遺跡は、いまのところ遠賀川流域では、後期の汐井掛遺跡(ナイフ形石器四点)のみであるが、人類が最初に足跡をとどめたそのころの地形はどのようになっていたのであろうか。
人類が誕生し、地上に活動をはじめる洪積世(約二〇〇万年前)の間には、四回の氷河期と三回の間氷期(暖期)が交互にくりかえされた。このため暖期には海面が現在より九〇メートル近くも上がったと考えられている。日本の旧石器時代にあたる後期ウルム亜氷期(約1万七〇〇〇~一万年前)には温暖な気候がつづき、やがて海進によって大陸との陸橋も切れ、縄文時代の前期(約六〇〇〇~五〇〇〇年前ころ)に海進が最大限に達した。氷河期に形成された古三紀図のV字形の溪谷の底部は、現在の遠賀川鉄橋付近で水面下約四〇メートルにあることがボーリング調査で判明している。この渓谷は、海進と沖積作用がすすむなかで、黒色泥土と俗にソーラ層とよばれる泥炭層を堆積させながら、次第に浅くなり現在の地表面に接近していったとみられる。黒色泥土のなかには海棲貝化石が含まれ、ソーラ層を加えた堆積層の厚さは遠賀川駅北方で約二〇メートルもあり、上流の飯塚市付近でも六~八メートルに達する。
縄文時代に入ると、海面の上昇がすすみ、直方市付近まで深く内湾した古遠賀潟が形成された。この内湾は、上流から流出する土砂や湿原植物の繁茂で浅くなる一方、河口部には響灘から吹きつける北西の風が三里松原から内浦につづく砂丘を形成し、河口を狭めるため、洪水のたび河口の位置が変ったと考えられている。古遠賀潟の水際は、当時の貝塚が海抜五メートルから一〇メートルの位置に分布しているので、これをたどって復元・推定される。(第3-4図)
もっとも奥にある貝塚は、直方市の天神橋貝塚で、河口から約一六キロ上流にあり、現在の河床から六メートルも下にある。
この遠賀潟は、河口が狭くなって荒波を防ぎ、内海のあちこちには洪積世の丘陵が島として点在し、干潮時には広大な干潟になって、ハマグリ、カキ、シジミなど豊富な魚貝類を縄文人に提供する食糧の宝庫であった。また、辺縁の丘縁や山地にはカシ、シイ、ドングリなど食用にできる堅果類の樹木が繁茂し、シカ、イノシシなどの狩猟がおこなわれたことが、貝塚の出土遺物から知ることができる。
また、河口部の東は、現在の江川の流れに沿って水道が洞海湾に通じており、その周縁にもいくつかの貝塚がつくられた。河口の西は、鬼津から尾崎につづく砂丘を経て、矢矧川、汐入川などに沿った内湾が形成され、多くの貝塚・遺跡が残されている。
古遠賀潟とその周辺の縄文時代の貝塚・遺跡は次のものが知られている。
以上の貝塚や遺跡のうち、発掘調査がおこなわれたものと、採集品で重要とみられるものに限って内容にふれる。
縄文文化の時代区分は、一般に早期・前期・中期・後期・晩期の五期に分けられている。(第3-5図)だが、昭和三十五年におこなわれた長崎県福井洞穴の調査と昭和四十八年の長崎県泉福寺洞穴の調査によって、晩期旧石器時代の石器である細石刃核にともなって最古の土器が出土した。このことは日本での土器の発生が九州北西部にあることを示すとともに、従来、五期に区分した最古段階の押型文土器よりも古く位置づけられる爪型文土器や隆線文土器(福井洞穴第二・第三文化層)、豆粒文土器(泉福寺洞穴)などを、縄文時代草創期におく編年が示されている。草創期の土器編年は、最古の豆粒文土器の次に隆線文土器-爪形文土器-押引文土器-条痕文土器-無文土器-押型文土器の順が考えられている。
爪形文土器は、福井洞穴・泉福寺洞穴のほか、福岡県春日市の門田遺跡からも出土、押引文土器は泉福寺洞穴で出土したが細石刃・細石刃核などとともに動物の狩猟用武具とみられる有舌尖頭器が伴出した。さらに次の条痕文土器の段階で石鏃が出現した。また、大分県成仏・二日市洞穴の調査ではこれまで最古とされてきた押型文土器よりも古くに丸底無文土器が位置づけられることが明らかになるなど、押型文土器以前の編年がすすんでいる。
遠賀川流域とその周辺部では、従来、縄文時代早期の遺跡は未発見とされていた。だが一九六七年に芦屋町大城で芦屋ボート場の土取りがおこなわれたさい、池口洋一氏によって砂丘下層から押型文土器が採集されている。また、同氏は芦屋町、夏井ケ浜の砂丘でも同系の押型文土器を採集している。芦屋町の大城遺跡は、すでに土取りのため消滅してしまったが、その土器包含層が砂丘表面から約一〇メートルも下にあり、現在の砂丘が縄文時代早期以後に形成されたことを示している。
現在の遠賀町内は平野部のほとんどが水面下にあったか、あるいは干潮時だけ地表をみせる干潟であった。このため、水際に近い低丘陵の裾に、鬼津貝塚と虫生津貝塚が作られている。(第3-6図)
鬼津貝塚は、鬼津字舟郷に所在する。未調査であるが、表面採取の土器によれば中期の阿高式土器と後期の鐘ケ崎式が出土している。
虫生津貝塚は、虫生津字川端に所在する。これも未調査で、現在民家の下になっているが、表面採集品に小型の磨製石斧がある。鐘ケ崎式系の後期といわれているが、詳細は不明である。
現在のところ、遠賀町域に所在する縄文時代後期の遺跡は以上の二遺跡にすぎず、しかもその内容がよくわからない。しかし、古遠賀潟の一角を占めるこの地域の縄文時代の歴史は、すでに発掘調査された同時期の周辺遺跡をとおして、その実態の一部を知ることができる。発掘調査された貝塚として、北九州市八幡西区黒崎五丁目に所在する黒崎貝塚、芦屋町山鹿字狩尾三六三番地に所在する山鹿貝塚、鞍手町新延字犬王丸に所在する新延貝塚などがある。これらの貝塚は、それぞれ洞海湾内、古遠賀潟河口、古遠賀潟の奥に立地し、袋状に内湾した水際で狩猟採集生活を営んだこの地方の縄文人の生活を知る貴重な資料である。
黒崎貝塚は、皿倉山から洞海湾に向かって八ツ手状にのびる舌状台地の一つ、筒井台地の先端に位置している。貝塚の近く南北に洞海湾に注ぐ溌川が流れており、当時は川に沿って貝塚のある台地の下あたりに海岸線があったと推定されている。
調査は昭和六年に故名和羊一郎氏によって発見されたのち、断片的な採集・報告がなされていたが、昭和三十九年の下水道工事と昭和五十五年の宅地造成工事のさい、貝塚の一部が発掘調査された。遺跡のひろがりは、北西にのびる舌状台地の先端に沿って馬蹄形に形成されているようであるが、大部分が民家の下になっている。
黒崎貝塚は二時期に分かれ、昭和五十五年の調査では上層から西平式系の土器(後期後葉)、下層から鐘ケ崎式系・北久根山式系の土器(後期中葉~後葉)が出土している。出土遺物は多量の土器片のほか石器四二点、剥片をふくめ九九点である。石器の種類は石鏃、磨製打製石斧、サイドブレイド、スクレイパー、石錘、敲石などがある。他に骨角器や貝輪と食用にした多量の貝類、魚骨類、獣骨類がある。これらから縄文後期の人びとの狩猟・採集の生活や食生活の一端をうかがうことができる。
出土した石器類のうち石斧が一二点もあり、石器全体の数に比べて多いことが注目される。磨製八点、打製四点で大小形態とも多様であり、ここで生活した人びとが伐採や木工をさかんにおこなっていたことが推測できる。また石器の石材は、黒耀石と安山岩が半数以上を占めるが、黒耀石の大半は佐賀県伊万里市に近い腰岳産のものである。石器の材料がこの時期すでに、一〇〇キロメートルをこえる遠方から運ばれているのである。
貝類は、二枚貝ではマガキが最も多く、巻貝ではイボウミニナが多い。両方とも内湾の砂泥干潟に多い種で、貝塚の北にひろがる古洞海湾の沖積がすすみ、砂泥の多い海岸から採取されたものであろう。その他の貝はスガイ、フトヘナタリ、ナミマガシワガイ、オキシジミなど海水産のもののほか、淡水のカワニナが多い。後述する古遠賀湾湾口の山鹿貝塚でも後期にはハマグリが減少しているがここではきわめて少ないのが注目される。細ながい袋状を呈した洞海湾では、沖積が早くすすみ、細砂の遠浅に棲息するハマグリはすでにとれなくなって、オキシジミなど砂泥性の貝に代ったものと思われる。
魚骨類は最も多いのがマフグ(平均全長二七センチメートル)、次いでクロダイ(同四五センチメートル)、マダイ(同四五センチメートル)、スズキ、メバル、コチなど内湾性のつよい魚が多くサメ、カツオなど外洋性の魚骨はない。このことは、ここでの魚撈が洞海湾内でおこなわれていたと考えられよう。
獣骨類は最も多いのがイノシシ、次いでシカ、タヌキである。
以上の概要は「黒崎貝塚」(一九八一年、黒崎貝塚調査会刊)によった。黒崎貝塚では、貝塚の形態が馬蹄形をしていることが確かめられているが、これは後述するように縄文集落の調査が九州ではほとんどおこなわれていないなかで、住居や集落の実態解明に近づく一つの手がかりであろう。
次に古遠賀湾の湾口部に位置する芦屋町の山鹿貝塚の例をみてみよう。
響灘に面した遠賀川河口北東部の海岸は、岩礁が発達し、サザエ、アワビ、ハマグリなどの貝類の採取に好適である。また、近海回遊のタイや外洋でのサメ、イルカなどの漁撈にも適している。山鹿貝塚の調査は、昭和二十八年に竹中岩夫氏によって発見され、昭和三十七年以降三次にわたる発掘がおこなわれている。
出土した土器は前期の轟式・曽畑式、中期の阿高式、後期の鐘ケ崎式・北久根山式の各系統に属する九州系土器群とともに、中期にはいると瀬戸内系の船元式、後期の中津式・福田K2式など磨消縄文をもつ瀬戸内系の土器が出土している。九州系の土器と瀬戸内系の土器が共伴する例は山鹿貝塚だけではなく、このあとふれる按手町の新延貝塚にも見られ、遠賀川流域が当時、中九州を中心とした文化圏と瀬戸内文化圏の境界になっていたことを示している。
山鹿貝塚出土の石器類は、石鏃・サイドブレイド・尖頭器・スクレイパーなど剥片石器、石斧・敲石・磨石・砥石・石錘・礫器など礫石器である。石器のほとんどは後期のものである。石鏃は欠損品を含めて一三点、いずれも後期で、ここでも佐賀県腰岳産の黒耀石が多い。また、採集品のなかに骨角製の釣針の先や鹿の肩甲骨を加工したヤス、中期のものとみられる多数の石錘など、漁撈具がみられる。さらに後期のものとみられる採集品のなかには、サヌカイト製の大形の石銛がある。これらの漁撈具は、次にのべる貝類や魚骨の出土状態とあわせて古遠賀潟の漁撈の変化・発展をうかがう資料である。
貝類の各時期における出土状態は、この貝塚を残した人々が、たんにどんな貝を食べたかということにとどまらず、そこに棲息した貝種をつうじて、古遠賀潟の沖積の進行状態や泥海化していく姿を知ることができる。それについて報告書は次のように記している。(第3-7図)
「これでみると縄文(前期中葉・曽畑式)前期には二枚貝ではハマグリやイソシジミが多く、主に細砂地に棲息していることから当時は美しい遠浅の砂質の内湾であったことがうかがえ、カリガネエガイ、コシダカガンガラ、スガイなど、岩礁性の貝も多く採集されていたことがわかる。縄文中期になるとイソシジミが姿を消し、ハマグリの割合が減少し、かわってマガキ、オキシジミの占める割合が増加している。これらの貝は砂泥地~泥地に主に棲息することから、内湾に沖積土が堆積し、泥海化しはじめた様子がうかがえる。しかしスガイ、イボニシなど岩礁性の巻貝はまだ多く採取されたようである。後期になると圧倒的にマガキが多くなり、ごくわずかではあるがアサリ、マシジミなどもあらわれてイボウミニナ、フトヘナタリ、カワアイが多くなっていることから、内湾は泥海化していることがわかる。なおイボウミニナ、フトヘナタリ、カワアイなどは泥地~砂泥地の淡水の流れ込む河口付近に多く、マシジミのようにすでに淡水産の貝も出現していることから、遠賀川という大河が流れ込むこの内湾が急速に泥土でうまり、淡水化の傾向にあったことも推測できる。なおこの頃、古遠賀湾の奥の方では、古月、寿命、楠橋貝塚などで、淡水産のマシジミなどが優位になっていて、満潮時の汀線がこの近くまで来ていたことがうかがえる」(「山鹿貝塚」一九七二年、芦屋町教育委員会刊)
なお、魚骨類の出土では、前期にマダイが多く、中期にはヘダイ、クロダイ、後期にはクロダイが大部分になり、さらにエイ、サメなど外洋性の魚骨がみられる。中期の石錘の増加は、湾内での網による漁業の発展がうかがえるが、さきに引用した湾内の泥海化によるいきづまりを打開するため、後期には外海の岩礁で鹿の骨で作ったヤスでタイを突いたり、外洋での大形魚を獲る方向にむかったことが推測できる。
次に古遠賀潟の湾内で前期から後期まで継続した新延貝塚の例をみてみよう。
新延貝塚は、西川の河口から約一〇キロさかのぼった河岸にあり、支流の小河川がつくりだした狭い扇状地のうえにつくられている。下流の北二キロの地には、同じ時期つづいた古月貝塚がある。
新延貝塚は、明治四十一年に国鉄室木線が布設されたときに発見され、昭和九年、同四十年、同五十五年の三回にわたる発掘調査がおこなわれた。貝塚は三つの文化層に分かれ、最深部の層から縄文前期の轟B式土器、曽畑式土器、その上の層から中期の阿高式(2・3式)土器とともに、瀬戸内系の船元式土器や福田C式土器が出土している。また最上位の層からは後期の阿高式系土器や鐘ケ崎式土器と瀬戸内系の中津式土器(後期前葉)が出土しているが、九州系の土器は少く、瀬戸内系の中津式土器が多い。
出土遺物は黒耀石と安山岩製の石鏃、削器、刃器、石匙などのほか、石斧、磨石、石皿、敲石、石銛、石錐など多量の石器類がある。また骨製の釣針、刺突具、イノシシの犬歯を加工した刃器、サメの歯に孔をあけた垂飾、イノシシの牙を加工した笄、貝輪などがある。また大理石製の玦状耳飾がある。
貝の種類は各時期をつうじてヤマトシジミがもっとも多い。この貝は淡水の流れ込みによって塩分がうすくなった潟に棲息するので、このあたりは当時、河口に近かったとみられる。マガキがこれに次ぐが、あまり多くない。ハマグリは、後期にみられず、中期から前期の層にわずかに出るだけである。中期の段階で、新延付近はすでに沖積がすすんで小河川の河口になり、ハマグリはとれなくなっていたと考えられる。
このほか、魚骨はクロダイがほとんどを占めている。体長は三〇センチメートル前後のものが多い。近海・内湾性のクロダイは、河口の汽水域にもくるので、この貝塚の位置が河口近くであったことを示している。だが、淡水のフナ、コイ類の魚骨はみられず、他に少量のスズキ、フグの骨がある。鳥獣類では、少量のウ、ガン、カモの骨片がある。獣類は、各期をつうじてイノシシ、シカが多くタヌキ、アナグマがこれに次ぐ。他に前期と後期の層からイヌの骨片が出ている。
新延貝塚の調査は、貝塚の一部に限られているが、ドングリ、シイなど植物質の食料となる遺物は出していない。
以上のべてきた縄文時代の貝塚から、古遠賀潟での漁撈・狩猟生活をまとめると、およそ次のようなことが考えられる。
湾の奥にある新延貝塚では、近くに小川が流れこみ、淡水と海水が入りまじった砂泥層の潟が一帯につくりだされ、そこからは汽水産性のヤマトシジミが大量に採集することができた。縄文前期中葉(轟B式)の段階で、ここには人が住みつきはじめ、小さな扇状台地の下で近くの砂泥層の潟からヤマトシジミを採集して食料にあてたものと考えられる。
新延貝塚と同様に縄文前期中葉の段階で、ヤマトシジミを主体にした貝塚がいとなまれている遺跡に、楠橋貝塚がある。楠橋貝塚は新延貝塚の東方約五キロ、遠賀川の対岸側に位置するが、ここの貝塚も轟B式土器を出している。古遠賀潟の縄文時代の貝塚は、最初に湾のもっとも奥にあたる新延・楠橋貝塚ではじまったのである。
これに対して古遠賀潟の湾口付近でいとなまれた山鹿貝塚は、新延・楠橋と同じ時期にはじまっているが、食糧にした貝は大形のハマグリを主体にし、岩礁性の貝をふくむ貝層がつくられ、湾の奥の貝塚とははっきりとした違いをみせている。また、魚も新延貝塚では内湾性のクロダイがほとんどであるのに対して、山鹿貝塚では前期に外洋性のマダイが中心となるなど、立地によって同時期の貝塚の採集遺物に大きな違いがみられる。さらに狩猟の面でも、新延貝塚ではイノシシ、シカの骨が各時期をつうじて多いのに対して、山鹿貝塚では獣骨が少ない。中期以降の貝塚では、湾内の沖積で砂泥層がひろがるにつれて、マガキが多くなるが、この貝の採取には舟などを使ったものと考えられる。
新延貝塚、楠橋貝塚、古月貝塚などの貝種は各時期をつうじてヤマトシジミを主体としている。これは、内湾の水面近くの環境があまり変化していないことと、そこでの採集生活が縄文時代をつうじて、大きく環境に支配されていたことをうかがわせる。
遠賀町内に所在する鬼津貝塚は、その詳細は不明であるが、内湾水面に立地し、その後背が外海に近いことなどから、山鹿貝塚に近い生活が想定できる。虫生津貝塚もその詳細は不明であるが、付近の畑からはヤマトシジミの貝殻が見出されるので、新延貝塚に近い生活が考えられよう。
遠賀川流域および周辺の縄文遺跡ではこれまで住居址の発掘をした例がないので、貝塚にともなう住居の立地や集落の実態は不明である。
縄文時代の集洛は、九州全体でも発掘例がきわめて少く、福岡県では春日市柏田遺跡(後期中葉)で、自然堤防上に六軒の竪穴住居跡が調査されているにすぎない。柏田遺跡の例では、集落が三群に分かれ、東の一群には径五メートルの大形竪穴住居がある。発掘は一部しかおこなわれていないが、その集落構造は他の発掘例から自然堤防の周縁に馬蹄形に住居址群があり、中央に広場をもった集落が推定されている。
縄文時代も晩期になると、唐津市菜畑遺跡、福岡市博多区板付遺跡、糸島郡二丈町曲り田遺跡など近年の発掘調査によって、山ノ寺式、夜臼式土器の段階で稲作農耕が開始されたとみられている。
遠賀川流域で縄文晩期の土器を出す遺跡は、芦屋町の山鹿貝塚、夏井ケ浜貝塚、水巻町の伊佐座の垣生地遺跡、立屋敷遺跡、中間市の垣生遺跡、下大隈遺跡、中間小学校前遺跡、砂山遺跡、底井野遺跡、直方市の岡森橋下遺跡、植木の中の江遺跡、日出橋遺跡、岡垣町の黒山遺跡、北九州市八輪西区の楠橋貝塚などがある。
このうち垣生地、垣生、下大隈、中間小学校前、砂山、底井野、岡森橋下、中の江、日出橋の各遺跡は河床の土器包含層であり、遠賀川流域における縄文晩期の稲作の発生をとらえるにたる資料に恵まれていないといえよう。
古遠賀潟は、縄文時代前期(前六〇〇〇~五〇〇〇年)を境にして次第に海退がすすみ、後期後半ごろまでくりかえされた小海退、小海進で干潟がふえ、旧河床周辺に自然堤防が形成されるなど、自然環境の変化があらわれはじめた。古遠賀潟の沖積がすすみ、干潮時になると、遠賀川の本流周辺を残してひろい干潟があらわれるような状況は、それまで汀線付近の低丘陵上や扇状台地裾に集落をつくり、採集・狩猟をいとなんできた人々に、根本的な生活方法の変更をせまるものであった。
縄文後期も後半に入ると、干潟面の増加によって、すでにみた貝塚の貝種の変化でも推測できるように、ハマグリの棲息分布などは河口周辺に狭められたようである。これに代って、湾内の泥水化と泥砂層のひろがりに応じて、水面下に棲息する貝種はマガキを主体に変り、ひろがった干潟では小川の流路にそってヤマトシジミなど淡水産の貝が主体となったとみられる。また、シカ、イノシシなど中形獣の狩猟は弥生時代までつづくが、干潟が拡大され、満潮時の水深が浅くなるにつれて、内湾性の魚類は少くなり、その漁撈区域が狭められていったことであろう。
縄文後期後半から晩期にかけての古遠賀潟の自然条件の変化は、慢性的な食糧不足をいっそう深刻化する一方長かった採集・狩猟生活から別れをつげ、弥生農耕文化を生みだす条件をますますつよめていった。
現在の遠賀町行政区域内で、この時期の遺跡を発掘調査した例はない。
しかし、表面採集された遺物で、この時期に入る可能性のあるものがある。高家の土取池西側の低丘陵斜面および池畔で轟次雄氏によって採取された、安山岩製の石鏃六、石槍片、石庖丁片、粘板岩製の磨製石剣片、磨製石鏃一などは、土器の伴出がないので、正確な時期をきめがたいが、磨製石鏃の形態は縄文晩期~弥生前期初頭(夜臼式~板付1式)の遺跡に類例を見出すものである。
上別府字城ノ越にある城ノ越貝塚は、遠賀町内で唯一の学術的発掘調査のおこなわれた遺跡である。この貝塚の盛行期は弥生時代中期初頭であるが、ここで人々が生活をはじめたのは前期末からである。
城ノ越貝塚の発掘調査は昭和二十七年、同三十三年の二回にわたっておこなわれ、杉原荘介編「日本農耕文化の生成」(昭和三十六年刊)にまとめられている。
城ノ越貝塚の前期末の土器を出す層は、地表面から約一・五メートル下の基盤粘土層上にうすくひろがり、淡水産のヤマトシジミがほとんどである。出土する土器は、遠賀川対岸の北東二・五キロメートルの自然堤防にいとなまれた立屋敷遺跡のものと同じである。(第3-8図)獣類はイノシシが多く、シカがこれに次ぐ。他に鳥類が多く、魚類はほとんどない、出土遺物の主体が中期初頭に属するので詳細は後述する。
このほか前期末から中期前半に属する遺跡が表面採集でたしかめられている。
竹中岩夫氏の採集品、佐々木武彦氏の採集品はいずれも上別府字花園からのもので、壺、甕の破片がある(第3-9図)
また、旗生資料館所蔵の採集品(第3-10・11図)は甕形土器が尾崎字向原、及松ノ元、壷形土器が尾崎字向原からのものである。このうち尾崎字向原は弥生~古墳時代の複合遺跡で、貝塚もある。松ノ元は、現在団地となっているが、蛇行する戸切川の堤に近い水田の中である。対岸の立屋敷遺跡なども同時期であり、当時、すでに平地中央部に集落をいとなめるような自然堤防が形成され、後背の湿地で稲作がおこなわれたものとみられる。
尾崎字向原の土器出土地は、尾崎貝塚所在地の南側にあたり、現在の畑地は約二メートルほど地下げをしている。地下げ以前は貝殻がたくさん出たという。小貝塚をともなう住居址があったと考えられる。
前述の城ノ越貝塚は、中期初頭に最盛期を迎えている。貝塚は、戸切山の支脈である低丘陵の斜面裾にあり、中期初頭の土器を出土する土まじりの貝層が主体をなしている(第3-12図)。
この層では、前期末の下層が淡水産のヤマトシジミにかりだったのに対し、ハマグリ、マガキ、ハイガイ、サルボウ、シオフキ、サザエ、テングニシ、ウミニナなど、海水産の貝類になっている。またその上部に少量の淡水産のシジミ、タニシを混じるが貝の主体は前記の海水産貝種である。
この層から出る石器類に、玄武岩製の石鏃二、砂岩製・頁岩製の石斧四、頁岩製の磨製石剣片二、砂岩の砥石片四、礫製の石錘二、頁岩製の上部につまみをつけた大形石庖丁一などがある。その他、骨製品に弓筈状品、管状品、垂飾、紡錘車などが出土しているほか、千々和昭男氏の採集品で土製鏡がある。
なお城ノ越貝塚とほぼ併行した遺跡として、尾崎貝塚、尾崎貝塚周辺の住居址、花園遺跡、千代丸遺跡などがある。
尾崎貝塚は、未調査のままその大半が破壊されてしまい、現在、崖の上部にハマグリ、ヤマトシジミを包含する層の一部だけが残っている。また近くの畑地にも宅地造成のさい貝殻や土器片を出土したところがあり、前期末~中期初頭の壷形土器や磨製石斧が採集されている。
花園遺跡は、丘陵の裾に所在し、現在の家屋と重なっているが、家地拡張で丘陵裾を削平したさいかなりの量にのぼる土器片が採集されている。竹中岩夫氏、佐々木武彦氏らの採集品によると、前期末~中期前半の土器片が多い。
千代丸遺跡も未調査であるが、弥生土器片や偏平片刃石斧が採集されている。また、近くの小谷池で須恵器片、土師器片などとともに、石器片や黒耀石剥片が採集されており、弥生遺跡もあったとみられる。
町域内で弥生後期とわかる遺跡の調査例はないが、以下、表面採集の土器で確認できる弥生遺跡は次のとおりである。
遺跡名 所在地 採集遺物
菜畑遺跡 鬼津字菜畑 弥生土器片
蟹喰遺跡 鬼津字蟹喰 弥生土器片石器
黒松遺跡 虫生津字黒松 弥生土器片
老良貝塚 老良
妙雲寺貝塚 老良 貝殻、弥生土器片
花園遺跡 花園 石器、弥生土器片
由良之池 虫生津 弥生土器片
虫生津遺跡 虫生津 弥生土器片
金丸遺跡 尾崎字金丸 石器、弥生土器片、メノウ勾玉
小古野遺跡 島津字小古野 弥生土器片
小鳥掛遺跡 小鳥掛 弥生土器片
高田神社下遺跡 虫生津 弥生土器片
現遠賀町の行政区域内の弥生遺跡は、以上のように正式調査を経たものが城ノ越貝塚一か所のみという実態である。これらによってみる限り、集落が比較的集中していたのは、芦屋町と境を接した鬼津・小鳥掛、蟹喰、尾崎にわたる下流域の砂丘地帯であったと考えられる。他の遺跡立地で注目されるのは、弥生時代の貝塚で、遠賀川西岸の老良貝塚、妙雲寺貝塚、遠賀川東岸の上二貝塚(水巻町)、岩瀬貝塚(中間市)などが東西両岸に相対しており、これより上流域には弥生時代の貝塚がみられない。
縄文時代に直方市天神橋付近にあった古遠賀潟の汀線は、その後、陸化がすすみ、弥生時代中期から後期には、これらの貝塚群を結ぶ線あたりまで移っていたと推測される。
弥生時代には、前期末あるいは中期の中ごろから遠賀川流域の有力首長層のなかに、中国製の銅鏡や国産銅利器、鉄器などを多数所有するものが出現する。上流域の飯塚市立岩の首長墓、中間市の上り立石棺墓などがそれである。遠賀川下流地域ではその種の首長墓の発掘例はないが、岡垣町の元松原遺跡では前期後半に属する細型銅矛(旗生資料館蔵)が採集されている。また、江戸時代末の黒田藩の学者、青柳種信が残した拓本資料(福岡市立歴史資料館蔵)によれば、「(宗像郡)村山田村修験円蔵寺坊蔵古鏡一面」と標題のある唐草文縁方格規矩四神鏡の拓本(第3-13図)があり、同じく青柳種信の「筑前国続風土記拾遺」村山田村の項に、この鏡について「遠賀郡尾崎村の農家に有りしを近年此坊に納む」と記されている。この記載はそのまま出土地を示すものではないが、尾崎の弥生遺跡には大形甕棺の破片もみられるので、尾崎付近から出土した可能性を残している。
いずれにせよ、遠賀川下流域の弥生時代の有力首長を生みだす基盤は、尾崎から元松原にかけての遺跡集中地域にあったとみられよう。
遠賀町内の古墳時代の遺跡は、昭和五十七年に中学校増設のさいおこなわれた上別府字波打の古墳二基、石蓋土拡墓一基が調査(未報告)されている。他に昭和五十五年、民間団体地域相研究会を中心にした島津丸山古墳測量調査会によって、島津丸山古墳の墳丘測量がおこなわれているだけである。
島津丸山古墳は、西川河口近くにほぼ南北にのびる洪積世低丘陵上の北端にある。従来、円墳とみられていたが、この測量によって、前方後円墳で、しかもその形態から前期に属する可能性がきわめてつよいことがわかった。同古墳の実測値は全長五七メートル、前方部の幅一五メートル、高さ一・五メートル、後円部の直径二七メートル、高さ三・七五メートルで、墳丘は盛土で形成されている。(第3-14図)。埋葬施設・副葬品などは、未発掘のため不明であるが、古墳の外形のうち、後円部と比べて前方部が低く、しかも前方部が柄鏡式に長く、撥形に開くという前期前方後円墳の外形的特徴をそなえている。規模、形態とも類似するものとして宗像市の東郷高塚古墳が知られており、島津丸山古墳は、四世紀代にこの古遠賀潟の出入口を扼した首長墓と考えられる。
この島津低丘陵上には、前方後円墳の丸山古墳を盟主墳として、直径一〇メートル前後の未調査の円墳が六基ある。この島津古墳群は年代が明らかではないが、四世紀中葉以降、同一氏族が累代的にいとなんだ墳墓とみられる。島津地区は、当時、古遠賀潟の内湾部入口の島であり、遠賀川の旧本流や西川を経由して上流の鞍手・直方地区を結ぶ内航の水路、さらに東側の江川を経由して洞海湾に至る内航の水路とを、ちょうど水上で扼する位置にある。また、後述するように、奈良時代には、大宰府からの官道の駅舎・嶋門駅の置かれたところとみられる交通上の要衝であった。
こうした立地上の特質からみて、丸山古墳を盟主とする島津古墳群は、内湾航路を支配する鞍手地方の有力豪族層(物部氏)との結びつきをもちつつ、その西南にある鬼津・小鳥掛・尾崎など砂丘や戸切川の周辺干潟を水田化しつつあった弥生時代以来の農耕集落を支配していた首長墓と考えられよう。
また、遠賀川流域には、島津丸山前方後円墳と前後して、島状の独立丘陵上に、一定の盛土をもった円墳で、埋葬施設に弥生時代以来の伝統的な箱式石棺を用いる墳墓がある。これらの一部は、未調査ではあるが、島津丸山古墳に先行する可能性も残されている。
花園の低丘陵の頂上部にある。昭和六年に田中幸夫氏が開口し、出土遺物を所蔵していたが、近年、九州歴史資料館に寄贈された。田中氏の当時のメモによると、墳丘の周囲に石をめぐらせていたらしく、東枕に人骨一体が埋葬され、国産の方格渦文鏡一、蛇紋岩製勾玉一、滑石製勾玉一が副葬されていた(第3-15図)。また、墳丘周囲にめぐらせた石列内の南側に馬とみられる獣骨が埋葬されていたようである。
花園石棺出土の方格渦文鏡は、中国後漢代の簡式規矩鏡をモデルにした国産鏡である。祖型の中国鏡は福岡市西区藤崎の箱式石棺など弥生時代終末から古墳時代初頭の箱式石棺墓から出土するが、その仿製鏡は五世紀代の古墳副葬品に多い。花園丘陵の南側にはかつてこの種の箱式石棺が群をなしてあったようで、田中氏のメモによると、「横穴、石棺多シ」と記録されている。丘陵南側は現在住宅のため削平されているが、崖の断面に古墳築造時の地山整形の跡が残されている。
虫生津字川端の丘陵頂上にある円墳である。理葬施設は箱式石棺とみられ、すでに盗掘をうけて石棺材の一部を残すのみである。
川端古墳の石棺の旧状は、昭和四年(一九二九)刊の「遠賀村誌」の記述から推測できる。
「虫生津字川端貴船神社跡西五、六間の所にある塚は六角形の石櫃で、内部は二間で、一面に碁石を敷き詰めている其上に古剣があった。碁石の下には板石がある。其下部は空洞である如く思わる」
同古墳の出土品として、千々和昭男氏が所蔵している遺物に、鉄鏃三個がある。
古墳時代前期の前方後円墳は、現在のところ一郡内に一、二基くらいしかなく、遠賀郡内でもさきにその可能性があるとした丸山古墳ただ一基である。花園箱式石棺、川端古墳などはいずれも、丸山古墳と併行あるいはそれに前後して築造された小地域の首長墓とみられ、その政治的地位は、旧郡程度の大地域を統括する丸山古墳のような有力首長のもとに従属していたとみられよう。
若松の西方鳥見山の低丘陵斜面に、現在、十数基の横穴群がある。東側斜面の六基はいずれも盗掘開口され、半壊状態のままになっている(第3-16)。西側斜面にも盗掘開口されたものが六基あり、まだ未調査の開口していない横穴群も残されている。
横穴群が所在する低丘陵の頂上部に、五基の円墳群がある。このうち一基は上部に盗掘口が開けられているが単室の横穴式石室である。未調査ではあるが、古式の横穴式石室墳の可能性もある。
鬼津字杉木に所在する十数基の横穴群である。すでに民家の畑地拡張で消滅したものがあり、その付近から須恵器壷が採集されている。
鬼津字杉木の砂丘上に所在する円墳である。直径約一〇メートル、埋葬施設は未調査のため不明である。古墳周辺の台地上には須恵器、土師器片が散布する。
常楽寺周辺の低丘陵に半壊状の円墳が数基ある。一部石室の石材を残しているが、未調査で詳細は不明である。付近に須恵器片が散布しており、土器の一部は常楽寺に保管されている。
鬼津字力間口の丘陵上に所在したが、昭和五十二年、採土工事で未調査のまま消滅してしまった。付近一帯に須恵器片が散布している。
尾崎字先ノ野に所在する数基の円墳群であるが、現在、石室蓋石とみられるものを残す一基をのぞいて、すべて消滅した。付近に須恵器片が散布する。
別府の低丘陵上に所在する四基の円墳群である。1号墳は墳丘頂部に盗掘跡を残すが、墳丘斜面に河原石を用いた葺石があり、径約二〇メートル。2号墳をのぞき3号、4号墳とも半壊状態となっている。
上別府字城ノ越の低丘陵上に所在する三基の円墳群である。未調査であるが、径一〇メートル前後で墳丘はいずれも盗掘で陥没したり、削平されたりしている。
上別府の尾倉山の頂上部に二基ならんでいる円墳である。1号墳は径約二〇メートル、2号墳は径一〇メートル前後、未調査であるが、墳丘は完存している。
上別府字花園の低丘陵上にある数基の古墳群であるが、未調査のため詳細不明。この丘陵の西側・字波打にあった円墳二基と石蓋土拡墓一基が、昭和五十八年第二中学校建設のため発掘調査後消滅した。また、その西側にも墳丘を削平された古墳一基が採土中に発見されたが、未調査のまま破壊・消滅した。この古墳石室付近から、古野千年氏が子持𤭯付器台を採集している(第3-18図)。
発掘調査された1号墳、2号墳はいずれも墳丘上部を削平され、石室の大半を失っていたが、ともに単室式の横穴式石室墳であった。1号墳からはヒスイ製勾玉一、管玉二、須恵器片などが出土した。
2号墳には遺物がなく、石室床面に敷いた割石のなかに粘板岩製の弥生時代の石斧一点があった。石蓋土拡墓にも遺物はなかった。
1号墳の年代は出土した須恵器から六世紀後半ごろ、また、子持𤭯付器台も同時期のものとみられる。
虫生津に所在する径約一五メートルの円墳である。未調査のため詳細は不明であるが、墳丘に河原石を用い茸石を施している。
虫生津字仏ノ辻の低丘陵上に所在する径約二〇メートルの円墳である。石室は複室式の横穴式石室墳である。虫生津・古門地区ではもっとも大きい古墳である。石室は全長約九・〇メートル、前室一・八×一・三メートル、後室三・七×二・〇メートル、後室の天井までの高さ三メートル、前室入口に約二メートルの羨道部が設けられている。古くに盗掘・開口されていたようで出土遺物はまったく知られていない。石室の形態から六世紀末~七世紀初頭の年代が考えられる。この時期、新屋敷・古門の山麓一帯に須恵器生産がおこなわれており、新屋敷古墳の被葬者もこの地域の須恵器生産にかかわった首長とみられよう。
虫生津字仏ノ辻の低丘陵斜面に所在する須恵器窯跡で、すでに土取りによって未調査のまま消滅している。採土工事中に採集された須恵器片によれば、4式前半(六世紀後半)のものである。この時期、西川流域には古門窯跡、西山窯跡、倉谷池窯跡、野中窯跡などが存在し、九州北部での窯業生産の一中心地を形成していた。仏ノ辻窯跡をふくめその他、未調査であるが表面採取で古墳時代の遺物を出す遺跡は、次のとおりである。
遺跡名 所在地 出土品
杉木遺跡 鬼津字杉木 須恵器片、土師器片
城塚遺跡 鬼津字杉木 須恵器片、土師器片
矢倉遺跡 鬼津字矢倉 須恵器片、土師器片
力間口遺跡 鬼津字力間口 須恵器片、土師器片
天神遺跡 尾崎字天神 須恵器片、土師器片
金丸遺跡 尾崎字金丸 須恵器片、土師器片、鉄滓
牟田神社遺跡 尾崎字牟田 古式須恵器(𤭯、高坏、第3-19図)
慶ノ浦遺跡 尾崎字慶ノ浦 須恵器片、土師器片
先ノ野遺跡 尾崎字先ノ野 須恵器片、土師器片
上ノ越遺跡 尾崎字上ノ越 須恵器片、土師器片
別府遺跡 別府字 須恵器片、土師器片
千代丸遺跡 別府字千代丸 須恵器片、土師器片
芙原遺跡 木守字芙原 須恵器片(古式須恵器片)
野中遺跡 別府字千代丸 須恵器片
由良之池遺跡 虫生津字由良 須恵器片
土取池遺跡 上別府字大谷 須恵器片
遠賀という地名は、神話・伝承上の問題に属するが、「古事記」「日本書紀」「先代旧事本紀」などに神武東征途中の駐留地としてみえている。
和銅五年(七一二)成立の「古事記」では、中巻で神倭伊波礼毘古命(神武天皇)が、日向を出発し筑紫に幸でまし、豊国の宇沙を経て、「竺紫の岡田の宮に一年ましましき」と記されている。
この「岡田の宮」が、遠賀川河口付近をさすということは「古事記」の記述だけでは確かではない。しかし、「日本書紀」(養老二年(七二〇)成立の)の神武天皇・即位前紀に、日向国から筑紫国の菟狭を経て、「十有一月、丙戌の朔の甲午の日、天皇、筑紫国の崗水門に至り給ふ」と記されている。このため「古事記」の岡田の宮は、「日本書紀」の崗水門をさすものと解釈されている。
「先代旧事本紀」は、その序文が後代附加されたものとされているが、その皇孫本紀には「日本書紀」と同じく「十一月丙戌朔甲午、天孫至二筑紫国岡水門一」と記されている。
さらに時代が下ると、「日本書紀」の仲哀天皇八年条に、次のような記述がみえる。
「八年の春正月、己卯の朔の壬午の日、筑紫に幸ます。時に岡縣主の祖・熊鰐、天皇車駕すと聞はりて、予て五百枝の賢木を抜取り、以て九尋船の舳に立て、上枝には白銅鏡を掛け、中つ枝には十握剣を掛け、下枝には八尺瓊を掛けて、周芳の沙麼之浦に参迎へて、魚塩の地を献る。因て以て奏して言さく「穴門より向津野の大済に至る迄を、東門と為し、名籠屋の大済を以て西門と為し、没利島・阿閇島を限りて御筥と為し、柴嶋を割きて御甂と為し、逆見海を以て塩地と為しまつらむ」と。既にして海路を導きつかえまつる。山鹿岬より廻りて崗浦に入ります。水門に到りて御船進くことを得ず。則ち熊鰐に問ひて曰はく「朕れ聞けり。汝・熊鰐は明き心有りて以て参来り。何しかも船の進かざる」。熊鰐、奏して日さく「御船の進くことを得ざる所以は、是れ臣が罪に非ず。是の浦の口に男女二神の神有す。男神をば大倉主と曰し、女神をば菟夫羅媛と曰す。必ず是神の心ならむ」と。天皇、則ち祈禱し給ひ、挟杪者・倭国の菟田の人・伊賀彦を以て、祝と為て祭ら令め給ふ。則ち船進くことを得つ。皇后、別船にめして、洞海(洞、此をば久岐と云ふ)より入り給ふ。潮涸て進み給ふことを得ず。時に熊鰐、更に還りて、洞より皇后を迎へ奉る。則ち御船の進まざるを見て、惶懼まりて、忽ちに魚池・鳥池を作りて、悉に魚・鳥を聚む。皇后、是の魚鳥の遊ぶを看そなはして、忿の心、稍に解けましつ。潮の満つるに及びて、即ち崗津に泊り給ふ」
この仲哀紀の記述もすべて史実とみることはできないが、「日本書紀」編纂当時(八世紀初め)の遠賀川河口周辺の地理や内海航路の有様がうかがわれる。また同時に、古遠賀湾の周辺に生活していた当時の住民や首長が、男女二神を祀る芦屋町の岡湊神社や遠賀町の今泉神社、岡垣町の高倉神社などを中心に一つの信仰圏をつくっていたことがうかがわれる。
仲哀紀によると、山口の周防から遠賀川河口の崗水門、崗浦、崗津に至る航路は二つあったとみられる。一つは仲哀天皇が、山鹿岬から崗浦に入ったコースで、これは外海の響灘を通って河口から古遠賀湾に入ったとみられる。他の一つは神功皇后の入ったコースで、これは洞海湾から崗津に入ったが、干潮時に船を進められず、この地の県主で地理・航路に精通しているとみられる熊鰐の水先案内で、満潮時に入ることができた、と伝える。このコースは洞海湾と古遠賀湾を結ぶ水道(現在の江川)が、内海航路として満潮時に利用されていたことを示している。ここで崗浦・崗水門・崗津といわれている古代における遠賀川河口周辺は、瀬戸内海経由で朝鮮・中国へ行く船の中継泊地として、海上交通の要衝の地であった。船が泊る港といっても、古代にあっては外海に面した海岸に築港を作るのではなく、自然の入江を利用したから、おそらく崗津といわれる泊地は古遠賀湾の湾内のどこかであったと考えられよう。
湾内であるとすればどこが妥当であろうか。
遠賀地方のもっとも古い地名表記の「岡」「塢舸」「崗」の語源はその地形に由来する。ヲは高い所、カは処で「岡」「丘」の意である。その後、「続日本紀」が「遠珂」、「延喜式」が「遠賀」というように文字が変化している。「遠賀」という文字はその後、室町時代初期に郡名を「御牧郡」と改称するまでつづき、「ヲカ」と呼ばれていたようである。「オンガ」と読むようになったのは、寛文四年(一六六四)に御牧郡をふたたび旧名の「遠賀郡」にもどしてのちといわれている。伊藤常足は「太宰管内誌」で、「遠賀は広き岡のあるに依れり」といっている。遠賀川河口周辺部の岡といえば、あらためていうまでもなく、現在の芦屋町・岡垣町・遠賀町の境界となっている粟屋・大城・榎坂・糠塚・尾崎・小鳥掛・鬼津・若松などの集落のある洪積世の低台地であろう。
すでに前節でのべたように、この台地は縄文時代から奈良・平安時代までにわたる各時代の遺跡が密集している地域である。さらに古遠賀湾は湾口からこの岡をめぐって西に深く湾入して、北からの風をさえぎる格好の船泊りをつくる。また、今日の遠賀川本流は老良付近からほぼ直線状に改修されているが、古くは上木月付近から古月に出て西川寄りに流れていたとみられる。このことは沖積層のボーリング調査によっても明らかで西川沿いが深く、旧役場付近で約三六メートル、木守付近で約三〇メートル近くもある。遠賀川東岸では曲川などが蛇行し、沖積層が、水巻町鯉口付近で約四~五メートルと浅くなっている。平野の西寄りに本流がある場合、東側は沖積が早くすすみ、港となる条件はきわめてうすい。
「古事紀」についで和銅六年(七一三)に編纂された「筑前国風土記」(逸文)は、地方郡役人の手になるものだけに洞海湾や古遠賀湾の様子がさらに具体的に記されている。
塢舸の縣。縣の東の側近く、大江の口あり。名を塢舸の水門と曰ふ。大船を容るるに堪へたり。彼より島・鳥旗の澳に通ふ。名を岫門と曰ふ。鳥旗は等波多なり。岫門は、久岐等なり。小船を容るるに堪へたり。海の中に両の小島あり。其の一を河□島と曰ふ。島は支子生ひ、海は鮑魚を出す。其の一を資波島と曰ふ。資波は柴摩なり。両の島は倶に烏葛・冬葍(冬薑)生ふ。烏葛は黒葛なり。冬葍は迂菜なり(「万葉集註釈」巻第五)
塢舸縣の東のそば近くの「大江の口」とは、いうまでもなく遠賀川の河口部をさしており、当時、この河口部を「塢舸の水門」といい、そこに「大船」を入れることができる泊地があった、と解釈できる。遠賀川の旧本流が西川沿いに流れていたとすれば、島津・鬼津などは水深がふかく「津」(港)として「大船を容るるに堪へ」る良港だった可能性がつよい。鬼津のなかには舟郷という港そのものをさす地名もある。
律令以前の岡縣主の支配範囲を明らかにするような史料はないが、仲哀紀で熊鰐が奏上している古地名の範囲がそれに当たるとみてよいのではなかろうか。熊鰐が「穴門より向津野の大済に至る迄を、東門と為し、名籠屋の大済を以て西門と為し、没利島・阿閇島を限りて御筥と為し、柴嶋を割きて御甂と為し、逆見海を以て塩地と為しまつらむ」とのべているのはこの範囲が自分の領地だからであろう。
向津野の大済を「和名抄」の「豊前国宇佐郡・向野郷」にあてる説があるが東にひろがりすぎる。穴門(関門海峡)の九州側の渡である大瀬戸あたりではあるまいか。名護屋の大済は、現在の若松・戸畑間の海で、戸畑側の岬に名古屋崎という地名が残っている。没利島は現在下関市に入っている六連島、阿閇島は六連島北西の海上にある藍島である。逆見海は響灘の古称で、北九州市若松区島郷の海岸部に逆水の地名がある。柴島は風土記にみえる洞海湾内の資波島。
こうした文献史料から推定する律令以前の古遠賀湾周辺の地理は、地質・考古学的知見をあわせ、第3-20図のように推測できよう。
仲哀紀八年条の岡縣主の祖・熊鰐が、船の舳に立てた賢木に鏡・剣・玉をかけて仲哀天皇を迎え、魚塩の地を献じたという伝承は、この後段につづく「筑紫の伊都縣主の祖・五十迹手」が穴門の引鳴に仲哀天皇を迎えた伝承とともに、四世紀代に大和朝廷の勢力が九州北部に及んだことを示すものとして、一般に理解されている。同時に考古学的には、近畿の大和を中心に成立した″畿内型古墳″が、大和王権の強化とともに、地方首長がその政治支配に組みこまれていくなかで、九州北部に伝播してきた、とされている。古遠賀湾の周辺で″畿内型古墳″に相当する確実な調査例は、いまのところ上流の飯塚市にある忠隈1号墳(径三五メートルの円墳、竪穴式石室三角縁神獣鏡一、獣形鏡一、玉類)だけである。中・下流域で四世紀代に遡る可能性のあるものは、さきにあげた島津の丸山古墳である。この古墳が、いわゆる″畿内型古墳″として、大和王権の九州北部進出の結果つくられたものか。あるいは全国的に前方後円墳の築造がはじまるという文化現象を背景に、大和政権とは無関係につくられた地方豪族の墳墓であるのか、これは古墳の発生にもかかわる問題で、速断はさけたいが、古代の遠賀地方の首長として文献史料に初めてあらわれる熊鰐の伝承には、古代氏族や祭祀にかかわるいくつかの重要な問題がふくまれている。
近畿の王権である仲哀天皇が九州北部に入ったとき、熊鰐は鏡・剣・玉という三種の宝器をかかげて迎える。これは一般に服属・忠誠のあかしを示したものと理解されているがそれだけではあるまい。熊鰐を首長とするこの地方の有力氏族が、すでに鏡を神の依代とする、日神信仰をもっていたとみることができるし、また、古代の岡縣地方の住民や首長が、大和勢力の入る前から剣を祀る剣霊信仰をもっていたことを示す伝承ともいえよう。三種の神器は周知のように、近畿の大和王権の成立して以来伝承されてきた王権・祭祀権のシンボルである。しかし、九州北部では二、三世紀代、すでに墳墓に鏡・剣・玉を副葬する習慣ができあがっており近畿の有力首長は、四世紀以降になってから前方後円墳に鏡・剣・玉を副葬するようになった。九州北部と近畿は、葬送儀礼や祭祀上の習慣がたんに連続し、共通しているというだけではなく、三種の宝器を政治・祭祀のシンボルとする習慣が大和勢力の入る以前から九州北部に成立していたことを示す。
したがって、仲哀紀・熊鰐伝承の本質は、九州北部を出自とする近畿・大和の王権が、祖先や祭祀を同じくする本貫地にもどってきた伝承である。このことは、仲哀・神功紀が「熊襲征討」「新羅征討」を伝えるのみで、九州北部勢力と戦う所伝をまったく残していないことも一つの榜証となるであろう。
ところで仲哀天皇が入ってきたとき、この地方の住民や熊鰐ら有力氏族は、すでに彼らの地主神・祖神として、大倉主·菟夫羅媛という男女二柱の神を祀っていた。この二神を祀る神社は、芦屋町の村・浦の古くからの産土神・岡湊神社である。また、遠賀町別府の今泉神社、岡垣町の高倉神社などが同じ男女二神を祀る。岡湊神社は古くに高倉神社の下宮だったと伝えられるが、仲哀紀による限り、芦屋町の岡湊神社が古遠賀湾の要の位置にあって、岡浦・岡津に近く、男女二神の本宮とみることもできる。
大倉主・菟夫羅という二神の性格は、仲哀天皇の船が進まなくなったとき、熊鰐がこの二神を祀ることを奏上している伝承からみて、古遠賀湾や岫門(江川)、逆見海の海上航行などの守護神的性格がうかがえる。また同時に、この地方の祭政両面を司どる岡縣主の祖・熊鰐氏の祖霊信仰と結びついた地主神的性格もつよいといえよう。
岡垣町の高倉神社は、往古、俗に八剣宮ともよばれており、盗難にあった草薙剣をここに一時祀ったという伝承がある。これは一種の剣霊信仰であり、それは後述する大倉主という祭神の性格に根ざしている。古遠賀湾を形成した鞍手、遠賀の両郡と現在北九州市八幡西区に入る、洞海湾に通ずる江川の流域にはこのような剣霊を祀る八剣神社、剣神社が分布し、一つの独自の祭祀圏をつくっている。
このほか神社名は異なるが、日本武尊を祀る遠賀町の浅木神社、素戔嗚尊や物部氏の剣霊を祀る鞍手町古門の古物神社、鞍手町新北の日本武尊の伝承をもつ新北大神宮に後代、尾張の熱田神宮を勧請した熱田神社なども、剣霊を祀る同系の神社とみられる。この剣霊信仰と祭神のつながりは、素戔嗚尊が出雲の斐伊川上流で八股蛇を退治したとき蛇の尾から出たのが天叢雲剣であり、さらにこの剣を賜った日本武尊東征ののち、との神剣は草薙剣と呼ばれた。草薙剣が飛来し、そこに剣霊が留まったという伝承は、さきにのべた高倉神社だけではなく、鞍手町小牧の八剣神社、同古門の古物神社にも伝えられている。したがって、仲哀紀にみえる男女二神を祀る岡湊・今泉・高倉神社と剣神社・八剣神社とは、剣霊祭祀で結ばれた同系統の神社ということができる。
直方市下新入の剣神社は、日本武尊ほか十神を祀っているが、往古は「倉師大明神」とよばれ、鞍手という郡名の発祥地とされる。社伝によれば、筑紫国造の田道命が成務天皇のとき、筑紫物部に六ケ岳の東端・天上岳に上宮を祀らせたといわれる。したがって、この社伝によれば、倉師大明神といわれる鞍手の神とは筑紫物部の祀る神であり、物部氏の兵仗を祀ったものと考えられよう。六ケ岳とその周辺は、古代に物部氏の繁栄した地域とみられ、南山麓の宮田町鶴田には、物部氏の祖神とされる天照国照彦(天火明玉)僥速日尊を祭神とする天照神社がある。この祭神は、「先代旧事本紀」の天神本紀・天孫本紀に、神武天皇の東征に先立って、天磐船で大虚空をかけめぐり、河内の哮峯に天降ってから、大倭国の鳥見の白庭山に遷った、と伝えられる。また、天孫降臨のさい五部人として供奉した者のなかに、次の氏族がいる。
物部造等祖・天津麻良 笠縫部等祖・天曽蘇 十市部首等祖・富々侶 為奈部等祖・天津赤占 筑紫弦田物部等祖・天津赤星
また、物部氏を率いて天降った五部造に、二田造 大庭造 舎人造 勇蘇造 坂戸造などの氏がみえる。
さらに物部氏のなかには、丘仗を帯びて供奉した二十五部人として次の名がみえる。
二田物部 鳥見物部 芹田物部 横田物部 嶋戸物部 浮田物部 巷宜物部 足田物部 酒人物部 田尻物部 久米物部 狭竹物部 赤間物部 大豆物部 肩野物部 物束物部 尋津物部 布津留物部 住跡物部 讃岐三野物部 相槻物部 筑紫聞物部 播磨物部 筑紫贄田物部
「新撰姓氏録」には、これらの物部系氏族のうち、坂戸物部、二田物部、相槻物部らは、天孫降臨に先立って饒速日命とともに供奉した部族という所伝をのせている。
物部氏は、記・紀や「先代旧事本紀」の神話伝承によると、天孫降臨以来神武東征にも随行した雄族である。したがって東征以前から九州に蟠踞した、九州に出自をもつ氏族とみられる。九州での分布は、筑後国の三潴、山門、三井、竹野、生葉の各郡に、肥前国の三根、松浦、壱岐国、豊後国にひろがっている。
とくに筑前国では、鞍手郡の六ケ岳を中心に、その南麓の鶴田に天照神社(弦田物部)、北麓の新北に熱田神社(旧大神宮・贄田物部)、北東麓の下新入に剣神社(倉師大明神筑紫物部)、古物神社など物部氏に縁由の神社が祀られている。さらに六ケ岳の周辺から遠賀川、西川の流域には物部二十五部人とかかわりのある地名が残されている。
鞍手郡宮田町鶴田(筑紫弦田物部)
〃 若宮町芹田(芹田物部)
〃 〃 都地(十市物部)
〃 小竹町小竹(狭竹物部)
〃 鞍手町新北(贄田物部)
遠賀郡遠賀町島門(嶋戸物部)
これらの地名は「和名抄」、「筑前国風土記」、「万葉集」などにもみえる古地名であり、前述した神社伝承からみても物部氏の本拠であったことに由来するものとみられる。
「和名抄」には、鞍手郡の郷名として、金生、二田、生見、十市、新北の五郷があり、このうち二田(二田物部)十市(十市物部)、新北(贄田物部)が物部一族の居住地だったためについた地名と考えられている。(谷川健一「白鳥伝説」)
また、「和名抄」の郡郷名に、遠賀郡は、埴生、恒前、山鹿、宗像、内浦、木夜の六郷がみえるのみで、島門という郷名はない。しかし、島門の地名は古く、「万葉集」巻三に、「柿本人麿が筑紫国に下る時、海路で作る」と注記のある次の歌にみえている。
大君の遠の朝廷と蟻通う
島門を見れば神代し思ほゆ(三〇四)
島門という地名は、後述する大宰官道の駅家としてひきつがれ、その地は現在の島津付近に比定されている。この地が嶋戸物部の居住地であったかどうか、確証はない。しかし、歌聖柿本人麿が筑紫入りをしたときの海路上の島門とは、「島門を見れば神代し思ほゆ」という歌の内容からみて、先述の記・紀にある古遠賀湾内の崗浦・崗津の船泊りや男女二神の伝承が人麿の念頭にあったものと思われる。いずれにせよ島門の地は万葉時代にさかのぼるだけではなく、洞海湾から江川を経て古遠賀湾内に至る海上交通の要地であり、古代の船泊り地・崗津(鬼津)に入る入口に当たっている。
また、島津には古遠賀湾周辺で最古とみられる丸山前方後円墳があり、四世紀代からことを本拠とする有力豪族がいたことは疑いない。島津の西、若松の鳥見山には、丸山古墳に後続する古墳群や横穴群があり、一族の繁栄の跡を残している。物部氏の祖神・饒速日命は河内の哮峯に天降ったのち大和の鳥見に遷ったとされるが、島津の西側の丘陵が同じく鳥見山であり、同じ地名がついているのはやはり物部氏の縁由によるものとみられる。
このほか、岡湊神社と同じ大倉主と菟夫羅媛を祀る岡垣町の高倉神社の周辺にも、野間(物部野間連)など物部氏の支族と同じ地名がある。谷川健一氏は、大倉主という祭神について「大は美称であり、主はその支配者である」とし、神武紀に能野で霊剣を奉じた「高倉下」が物部氏の祖神・饒速日尊の子・天香語山命の別名であることや、「神武紀にはタカクラジは高倉下または高倉と書いてもタカクラジと読ませている」例をあげ、「この古遠賀湾と岫戸(江川)を支配する大倉主を奉斉していたのが嶋戸物部であろう」とのべている。
仲哀紀にみえる崗縣主の祖・熊鰐の支配領域は、さきにのべたように、洞海湾に通ずる江川、外海の逆見海(響灘)、古遠賀湾とその周辺であるが、この範囲はまた、物部系の剣霊を祀る神社の分布圏ともかさなっており古代遠賀地方で勢力をもっていた氏族とその祭祀圏を示すものといえよう。