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遠賀町誌 第三編 先史より有史へ 第二章 奈良・平安時代

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第三編 先史より有史へ 第二章 奈良・平安時代 [PDFファイル/1.22MB]


第一節 大化改新

 大化の改新は、過去の氏族制度による土地・人民の私有を廃し、公地公民制を基本とする中央集権的な支配体制の確立をめざすもので、その後約二百年間つづく律令国家体制成立の出発点となった。皇極四年(六四五)、中大兄皇子らがとれまで政治の実権をにぎっていた蘇我氏を滅したあと、大化二年(六四六)に改新の詔を宣布した。

 その内容は、「日本書紀」孝徳天皇大化二年正月一日条に、(1)私有地・私有民の廃止、(2)地方行政組織軍事・駅伝馬制の実施、(3)戸籍作成・班田収授法の実施、(4)田租・調庸など新しい賦課制度の実施、という四項目で示されているが、近年の研究ではこの「詔」に八世紀初めの律令法が投影しており、無批判に大化当時のものとみられないという。また、当時、この大改革がどこまで実施されたかということにも疑問がもたれている。

 律令制度というのは、行政の基本となる規定の「令」と、それを守らせる刑罰の「律」とを法体系の基本にして、これを必要に応じて補足・修正する「格」、その施行細則である「式」とでなり、この「律令格式」を基本法典とする法治制度である。これはさきにふれたように、白村江の戦における日本・百済軍の敗北以後、国防態勢の強化と中央集権的な国家体制を急速に確立する必要にせまられるなかで、帰国した遣唐使や留学生がもたらした唐の国家制度をみならって、それを社会制度のおくれた日本にも実施しようとしたものである。このため、天智天皇の即位元年(六六八)に近江令、持統天皇の三年(六八九)に浄御原令など、大宝元年(七〇一)に大宝律令が制定されるまでに何度かの修正がおこなわれた。これらの内容はすでに残っていないが、大宝律令を養老ニ年(七一八)に修正した養老律令が残っている。

第二節 行政組織

 中央の行政組織は、神祇官と太政官に分かれ、太政官の下に八省一台五衛府がおかれた。各省には長官以下各級官吏が配属され、官位に応じて職田、位田、各種の禄や課役の免除などの特権があった。

 地方は、国郡里制をとり、八世紀初に五十八国三島、九世紀初に六十六国二島に分けられた。国司は中央から派遣され、地方の行政・軍事・警察権のすべてを掌握した。郡は、大化以後、評と称され、大宝令以後、郡となった。郡司には、改新以前の旧国造など、地方豪族が終身官として任命され、世襲でひきつがれた。

 郡は里(のち郷に改正)の数によって大、上、中、下、小の五等級に分けられ、郡の等級によって第3-1表のように郡司の大領・少領・主政・主帳などの定員がきめられていた。また、郡司の下級吏員に、郡書生、郡案主、郡収納、郡散事、税長、駈使、伝馬長などがあった。

 筑前国の郡司は、諸文献によると、

嶋郡大領 正八位勲十等 肥君猪手 大宝二年(七〇二)
宗像郡大領 宗像等杼 和銅二年(七〇九)
御笠郡大領 益城堅牛 同
志麻郡少領 中臣志悲加比 同

 などの名がみえるが、遠賀郡司の名は記録に残されていない。

 里は五〇戸とされ、里長には一般良民から任用して末端行政にあたらせた。霊亀元年(七一五)に里を郷と改め、郷を二、三の里に細分した。

郡司の数

第三節 遠賀郡の郷名比定

 「和名抄」の遠賀郡には、埴生・恒前・宗像・内浦・木夜・山鹿の六郷をのせている。

 現在の地名と同じ宗像は、宗像郡に宗像郷がみえないため、古来、宗像郡に入れるべき郷名が遠賀郡に誤って混入したものとされている。しかし、現在鞍手郡に入っている室木が天正年間(一五七三~九二)まで宗像郡に入っていた(「太宰管内志」)というから、遠賀郡に宗像郷が入っていた可能性もないとはいえない。中間市八王寺出土の経筒に「保延五年(一一三九)」「宗形宮帝賢寺」の銘文があり、八王子神社の祭神が宗像神であるところから、竹中岩夫氏は旧中間村に「宗像」の文字を入れかえた「像宗」の地があり、これが現在の「片峯」であろうとされ、宗像郷を遠賀川東岸の中間市域にあてている。

 埴生は現在の中間市垣生を中心とする遠賀川西側一帯とされている。

 恒崎は「太宰管内志」に、「恒」は「垣」の誤りとされ、「垣崎は加支邪幾と訓ムべし、名義いまだ詳ならず」としている。また、同書が「高倉神社縁起には神功皇后海岸にて一夜に千本松を植給ひて其処を垣崎ノ松原といひ其内を遠賀ノ庄と名付く」「高倉神社ノ旧記には此辺すべて垣崎ノ庄の内に入れり」とあることから現在の芦屋町、遠賀町、岡垣町の東半部を推定している(「中間市史」)。「大日本地名辞典」も、恒崎郷について「今芦屋村、島門村などにや。埴生郷の北也。続風土記には恒前郷は恒垣の誤にて、今吉木村あり。芦屋の辺まですべて恒前郷なりと説く。後世内浦郷をも恒前と称せるなり」としている。

 山鹿郷は芦屋町山鹿付近、内浦郷は岡垣町内浦、木夜郷は北九州市八幡西区の木屋瀬から水巻町あたりかとされている。

 以上の比定からみると、現在の遠賀町は、恒前(垣前)郷に入っていたことになろう。

 奈良時代の郷戸の家族人数は、戸主を中心に寄口・奴婢をふくむ大家族であり、平均二十人くらいと考えられている。当時の遠賀郡の人口は、一郷五〇戸として一〇〇〇人、六郷で六〇〇〇人前後とみられる。

第四節 遠賀郡衙

 郡司が政務をとる所を郡衙(あるいは郡家)という。そこには郡庁、宮舎、厨家などのほか、正税として徴集された穀物を納める正倉がおかれた。郡衙は郡行政の中心地であるが、郡の地理的な中心というより、世襲制である郡大領の居地近くや交通上の要衝におかれた。遠賀郡衙の所在地はまだ発掘調査などによって明らかにされていない。従来、岡垣町吉木に印鑰神社が所在することから、ここを郡衙所在地とする説(「遠賀郡誌」長沼賢海「日本の海賊」)があった。また、後述する藤原広嗣の反乱で、広嗣が遠賀郡家に軍営をはり、募兵したのち鞍手道経由で豊前の板櫃川へ進んだことから、郡家を豊前の国境近くとする説(竹尾幸子「広嗣の乱と筑紫の軍制」「古代の日本」3九州)がある。近年は、島門の駅(島津付近)や浜口廃寺があり、遺跡の集中する島津、鬼津、尾崎などの丘陵一帯に比定する説(中間市史」原始・古代・中世編)が出ており、これがもっとも妥当と思われる。

 この比定地に二・三の補足をすると、ここには各地の郡衙比定地にある長者伝承と同じように、月軒長者の伝承がある。また、郡衙に関連するとみられる地名として、尾崎の字名に「郡田」があることも注目されよう。

第五節 班田収授と条里制

 大化改新以前も、地方住民は租税を取り立てられ、豪族の支配のもとで労役にかりだされていた。改新後、公地公民制をおしすすめ、公民に田地を配分し、租税を徴集するためには、戸籍を作って人口を正確に掌握することが必要となる。班田収授法はその土地制度である。正倉院文書には、大宝二年(七〇二)の筑前国島郡川辺里や豊前国上三毛郡塔里などの戸籍断簡がある。島郡大領の肥君猪手の場合では血縁の家族六〇人のほか、寄口一四人、奴婢三七人という大家族である。当時、全国の平均は一戸二〇・一九人と試算されている。戸籍には、戸主と戸口の関係や年令、課不課の別、口分田などを記して保管し、六年目ごとに調べなおした。口分田は、六歳以上の公民男子に二段、女子はその三分の二の一段一二〇歩、奴婢には公民の三分の一の田地を給して耕作させた。

 このため、全国にわたって、一辺六〇間(一〇九メートル)の正方形の区画を一町歩とする、条里制の大がかりな耕地整理がおこなわれた。一町歩のことを坪といい、三六〇町歩の正方形を一里とした。里の南北線を条、東西線を里といい、三六町歩には一の坪から三六の坪までの番号をつけた。番号のつけかたには千鳥式と平行式があり、また一坪(一町歩)の段割りにも半折形と長地形があった(第3-21図)。一坪が八段しかない地形には八反田・八反間、大きい坪を大坪、中位であれば中の坪などといった。

条里地割と坪並

 遠賀川流域は平坦地ばかりではなく、西川流域の狭い平地にも条里制がいきとどいた地域だったとみられる。郡内各地に条里制に関連する地名が残されている。

 遠賀町域の条里制に関連するとみられる小字地名には次のようなものがある。

島津地区 三反間 四段間 坪ノ内 八丁縄手
鬼津地区 五反田 八反間
尾崎地区 八丁間
虫生津地区 八丁 四反田 丁ケ坪 大坪
木守地区 一丁田
別府地区 八反田
広渡地区 高縄手

第六節 貢租制度と農民の生活

 大化改新で、税法が改められ、租・庸・調・雑徭の制がきまった。

 田租は口分田一反に稲を二束二把納める。束・把という稲の量は、高麗尺の方五尺を一歩とし、五歩の出来高を一束としている。一〇把が一束で、大桝で米五升の量である。一反が三六〇歩、反収は上田で五〇束、中田で四〇束、下田で三〇束、下下田で一五束くらいであった。田租そのものは三パーセント前後であったが、このほか、庸・調・雑徭の負担が大きかった。調は、布・絹・糸・鉄・塩・海産物などのほか地方の各種の産物を納めるもので、男子公民の正丁(二一~六〇歳)、次丁(六一~六五歳)、中男(一七~二九歳)という等級によって、負担がちがっていた。庸は、都で労役するかわりに布や米を納める。庸調を課せられる人を課戸、免除される人を不課口といった。庸の年間日数は正丁で一〇日、次丁で五日で、布を代納すると正丁二丈六尺、次丁がその半分とした。ほかに国司の命令で年間六〇日、水利や土木工事の労役を義務づけた雑徭があった。

 農民に対する課役の負担が大きいため、土地を捨てて逃げ出す者がふえ、租税の滞納者が多くなった。

 一方、地方郡司をふくめた有力者が貧窮農民を使ってさかんに私営田を開発した。九世紀に入ると貴族層・地方国郡司層、寺社が次第に墾田を開発し、多数の奴婢や私有民をかかえるようになり、班田収授法は有名無実のものとなった。

第七節 大宰府官道と駅家

 律令制のもとでの公的な陸上交通制度を駅伝制という。大化改新の詔にも駅伝馬を置くとあるが、法文化されたのは大宝令によってである。大宝令では、京師と大宰府を結ぶ山陽道を大路とし、東国・東山両路を中路、その他の道を小路とした。大・中・小各道にはみな三〇里(現在の四里、約一六キロメートル)ごとに駅家を置いた。駅と駅の距離には地形によって短いところもあった。駅家には駅路の規模に応じて駅馬や駅子(または駅丁という)がおかれ、駅田が配せられた。駅田は、その田の収穫で、駅子の給与、駅馬の購入など諸経費を独立採算的にまかなった。駅田は大路で四町、中路で三町、小路で二町ときめられ、一定の駅戸をおき馬の飼育、駅田の耕作にあたらせた。また、駅戸のなかの有力者から終身の駅長を選任し、課税を免ずるなどの特権を与えた。駅には厩舎のほかに宿泊のできる駅舎があり、公用の官人を泊め食事も供した。

 「延喜式」には筑前国の駅名一九と駅馬の数が記されている。駅路は五つに分かれ、みな国境から大宰府への順に並んでいるとみられるが、確実に位置の比定ができるものは少い。

駅名 国名 駅馬数 推定現在地
社崎 豊前 一五 北九州市門司区
到津 〃  一五 〃  小倉北区到津
独見 筑前 一五 〃  八幡東区尾倉付近
夜久 〃  一五 〃  八幡西区上津役付近
島門 〃  二三 遠賀郡遠賀町島津
津日 〃  二二 宗像郡玄海町津日浦付近
席打 〃  一五 粕屋郡古賀町筵内
夷守 〃  一五 〃  粕屋町仲原字日守
(美野)〃  一五 福岡市博多区簑島
久爾 〃  一五 〃  博多区席田字月隈

 遠賀町の島津に比定されている島門駅が、筑前に入って大宰府にいたる駅家のなかで、駅馬を二三匹ともっとも多くおかれている。

 これは当時まだ、遠賀川が本流を中心に湾入した内海をのこし、島門駅は港の出入口に位置していたから夜久駅との間は船で往来し、さらに江川経由で洞海湾に通じ、芦屋方面からも船が着くという交通上の要地だったためとみられる。

 「延喜式」には、京師から西海道の国府に赴任する国司は、海路をとることが記されている。瀬戸内海を経由してきた船は、響灘か洞海湾を通って島門駅に近い「崗の水門」に寄港したものと思われる。

 「万葉集」巻七に、

天霧らひ日方吹くらし水茎の
崗のみなとに波立ちわたる(一二三一)

 とうたわれている。河口近いこの駅家付近の風景である。

第八節 遠賀軍団印と兵制

 明治三十二年に、筑紫郡水城村の御笠北高等小学校(現太宰府市、水城小学校)の校舎新築工事がおこなわれたとき、作業関係者によって土のなかから一箇の銅印が掘り出された。この銅印には「遠賀団印」(第3-22図)と刻んであったが、そのまま採集者の私蔵となっていた。三十五年後の昭和九年(一九三四)に「御笠団印」(昭和二年・一九二七、発見)のことが新聞に出たとき、同じ形のものとして届出された。この二つの銅印はいずれも、律令時代の軍制によって作られた軍団の印である。この印は現在、東京国立博物館の所蔵となり、重要文化財に指定されている。なお、水城小学校中庭には、遠賀団印出土地と刻んだ石碑が立っている。

軍団印

 大和朝廷の兵制は、天智天皇の即位二年(六六三)に日本と百済連合軍が朝鮮の白村江で唐・新羅連合軍に敗れてから、対外的緊張がつよまるなかで強化されていった。唐・新羅連合軍の日本侵略に対する防衛政策として翌年、水城などの築城がおこなわれ、すでに大化改新詔にみえている防人制もこれ以後、制度化されたようである。防人ははじめ諸国から輪番制で出されていたが、天平二年(七三〇)に諸国からの防人派遣が中止になり、その後は東国の兵が三年交代で壱岐、対馬二島と九州の各地に配置された。

 防人は、本国の国司から狩り出され、規定された装備や糒などの食糧までいっさい自弁で、摂津の港に集められた。そこから船で瀬戸内海を渡り、九州に来た。「万葉集」には、各地の防人たちの歌が残されているが、父母や妻子を故国に残して異郷に服務する彼らの哀切な想いがうたわれている。

唐衣裾に取りつき泣く子らを
置きてぞ来ぬや母なしにして(巻二〇~四四〇一)

国々の防人つどひ船乗りて
別るを見ればいともすべなし(巻二〇~四三八一)

沖つ鳥鴨とふ船の還り来ば
也良の崎守早く告げこそ(巻一六~三八六六)

 也良の崎は、博多湾内の能古島であるが、防人たちはこのような小島にまで配置されて、なかば自給自足の生活を強いられて、ひとり辺境防備の任についた。同時に彼らは家族を任地に連れてくることも許されたようであるが「衣服を売って妻子の食にあて、任期を終えても帰ることもできぬ状態」(「三代格」弘仁六年=八一五)だった。また、現地住民と結婚して定住したり、逃亡する者も少くなかった。

 九州での防人の任地は、能古島のほかはあまり知られてないが、響灘に面した海陸交通の要所であるこの地方にも多くの防人がいたことと思われる。防人の制度は延暦十四年(七九五)十一月の太政官謹奏に「防人の任期が長いので辺地の守りにあき、みずから家業を廃し、その上防人になれば費用がかさむ。ゆえに防人を廃し、現地の兵士をあてたほうがよい。防人の常備は壱岐・対馬だけとし、二島に留まりたいものを残し、他は父母の居地に返すことにしたい」と請い、許可されている。

 大和朝廷の兵制は、文武天皇の大宝元年(七〇一)になってようやく確立した。大宝令によると、諸国の男子公民(二〇歳以上六〇歳以下)すべてに兵役の義務を負わせ、その三分の一を徴発した。これらの兵士は隣接する数郡を集めて一軍団を編成した。歩兵・騎兵各五〇人で一隊を編成し隊正(隊長)をおき、一〇〇人で旅帥、二〇〇人ごとに校尉をおいた。軍団は兵士一〇〇〇人以上を大団、六〇〇以上を中団、五〇〇以下を小団に分けた。各軍団には軍毅がおかれ、軍団を統率した。また主帳をおいて記録・会計を掌握させた。兵士以上軍毅まで、毎年名簿二通をつくり、履歴を記し国府と兵部省に送った。

 九州は六国二〇軍団、一万七〇〇〇人で、うち筑前が四軍団四〇〇〇人、御笠軍団と遠賀軍団の名が知られ他は不明である。筑後は御井軍団、豊前は京都軍団の名が知られている。これらの兵団は兵部省に属し、その下で国司が管理した。本来の任務は、京師の衛士や辺境の防人として派遣されるほかに、武事の訓練、軍事施設の守備・修理から警察の仕事も含まれていた。しかし、実際には府国の悪吏が、軍団に徴発された農民をほしいままに私に用いた。彼らは兵士とは名ばかりで、裸身蓬頭、痩せおとろえ、困窮し、私役についてやっと食を求めるありさまであった。このため軍団制は延暦十一年(七九二)に、奥陸、出羽、佐渡、九州など辺境の地をのぞいて廃止された。さらに弘仁四年(八一三)には九州の筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後の六国の兵員も約半分に減ぜられ、天長三年(八二六)ついに廃止された。

 地方農民を徴発して常備軍を編成することは、郷戸の働き手を奪うだけではなく、農民の貧困に拍車をかけ、律令制の矛盾をいっそう拡大させる結果をまねいた。天長三年(八二六)の太政官符は、兵農分離をすすめ、九〇〇〇人の農民兵士を選士一九二〇人に減じる兵制改革の動機を、

 「兵士は奴僕と変るところがなく、一家に一人兵士をとられればその家が滅んでしまう。これはひとえに兵士の上にたつ軍毅・主帳・校尉・旅師のそれぞれが虎狼となって兵士をとりたて、ただ私利のために労役にこき使う状態である」と記している。

 この兵制改革の後は、太宰府と九国二島の警備は選士といわれる半職業的兵士によっておこなわれることになった。

軍団と兵士数

第九節 広嗣の反乱と遠賀郡家

 天平十二年(七四〇)に、大宰少弐の藤原広嗣が反乱を起こした。これは奈良朝にはじめて発生した貴族の反乱として、朝廷や当時の社会をおどろかせる事件であったが、広嗣は挙兵のさい、遠賀郡家に軍営をおき、兵を集め軍備をととのえた。

 広嗣は、西海道節度使としてかつて筑紫に権勢をふるった藤原宇合の子で、中央で大和守に任ぜられていた。ところが天平八年(七三六)、藤原宗家の武智麻呂・房前・宇合・麻呂ら不比等の四子があいつぎ疫病で死にたえこれに代って橘諸兄、僧玄ぼう、吉備真備らが中央政界に勢力をのばした。このため、広嗣は遠ざけられ、天平十一年(七三九)に大宰少弐に左遷させられた。広嗣は娘子に桜の花を贈り、「この花の一弁のうちに百種の言ぞ隠れるおほろかにすな」(「万葉集」巻八-一四五六)とうたった都の貴公子であった。聖武天皇の側近である僧玄ぼうと吉備真備をのぞいて、一気に藤原氏の勢力を回復しようとした広嗣は、玄ぼうや真備を弾劾する上表文を送ったが容れられぬとみて、翌天平十二年(七四〇)大宰少弐の地位を利用して、九州諸国に挙兵をうながした。「続日本紀」によると、広嗣が遠賀郡家に軍営をつくり、ここに兵や武器を集め、烽火をあげ、九州の兵を徴発していると、政府間諜によって報告されている。

 官軍を洞海湾入口に近い板櫃の鎮で阻止しようとした広嗣は、遠賀郡家を戦略的にも重視したものと思われるし、軍営となった遠賀の郡司層や遠賀軍団も、記録にはないが、広嗣側についたものと思われる。反乱軍は、筑前・筑後・豊前・豊後・肥前の各国軍のほか大隅・薩摩の隼人軍がこれに加わり、総勢一万人の大軍となった。

 九州ではすでに養老四年(七二〇)に隼人の反乱があり、大隅・薩摩両国のみは班田制を中止し、開墾地を私有する墾田相続が許されていた。大地震(天平六年)や疫病の流行(同九年)がつづき、徴兵による農民の貧窮化など国内不安が高まっていた。挙兵に呼応した軍団が多かったのは、広嗣が藤原宇合の子で大宰少弐の地位にあったことにもよるが、国状にあわない律令制の実施と制度の改廃がつづき、とりわけ対外防備の負担がつよくのしかかる筑紫地方では、地方郡司層や軍団上層部にも中央公権力による政策のおしつけに反撥する気分がつよかったし、何よりも困窮の度をつよめる農民兵にとって、反乱への呼応は現状打開の期待とかさなっていたものと思われる。

 広嗣反乱の報は、新政権を驚がくさせた。隼人をふくむ九州国軍の反乱は、やがて中央に波及するのは目にみえていた。聖武天皇は、突如、伊勢に行幸したまま平城京に帰らず、山城に皇居を遷した。

 朝廷側は蝦夷地の征討で功績のある大野朝臣東人を大将軍として、東海・東山・山陽・南海道の軍団一万五〇〇〇人を動員して、急遽九州に出発させた。

 官軍の九州到着はきわめて早かった。

 また、反乱軍に勇猛な隼人軍が加わったことが伝えられていたためであろうか、中央上番の隼人二四人に詔勅が出され、官位が授けられたのち、官軍に加えられた。

 天平十二年九月、広嗣の軍は、三手に分かれて豊前の板櫃(北九州市小倉北区到津)に向かった。広嗣は筑前・豊後などの国軍や隼人など五〇〇〇人を率い、鞍手道を通り進軍した。他の一隊は広嗣の弟・綱手が率いる筑後・肥前などの国軍五〇〇〇人で、豊後道から進軍、また兵数は不明であるが、多胡古麻呂の一隊が田河道から板櫃に結集する予定であったという。

 反乱軍の進んだコースは、およそ(第3-23図)のように推測される。

広嗣の反乱要因

鞍手道・大宰府から嘉穂郡の大分付近に出て、遠賀川ぞいに鞍手郡・遠賀郡を通って島門駅の近くとみられる郡家に入り、ここから遠賀川を渡って板櫃の鎮に至る。
田河道 大宰府から嘉穂郡の大分付近に出て、伏見・網別の駅を経て田川郡に入り、香春・金辺峠を経て、企救郡から板櫃の鎮に至る。
豊後道 大宰府から日田・玖珠郡を経て大分に出て、海岸ぞいに京都の鎮に至る。

 広嗣の本隊が板櫃川の西岸で、官軍と対陣したのは同年十月九日であるが、官軍の九州到着は早く、豊後道、田河道経由の反乱軍がまだ着かぬ九月二十四日までに、官軍は登美(北九州市小倉北区富野付近)の鎮、板櫃の鎮、京都の鎮を制圧し、京都鎮長、板櫃鎮小長などを殺して三処の兵一七六七人を生捕りにした。九月二十五日には豊前地方の大領・擬小領などが相ついで兵騎を率い、官軍に来帰した。

 十月九日の板櫃川の戦では、広嗣が先陣で隼人軍を率いて渡河しようとしたが、官軍の弩射で河西に後退させられた。河の東に陣どった六千余人の官軍はこのときすぐ決戦をいどまずに、反乱軍の隼人に投降をよびかけた。「反逆者・広嗣に従い官軍に抵抗するなら、ただちに身を滅すではないか、反乱の罪は妻子親族に及ぶであろうぞ」というと、反乱軍の兵や隼人らはだれ一人として矢を発しようとしなかった。また官軍の勅使、佐伯宿禰常人が広嗣を吃問すると、広嗣は下馬・再拝して「玄ぼうと真備を除くのが本意であって、反乱の意志はない」と答えた。広嗣の態度は反乱軍の士気をそぐに充分で、まず三人の隼人が川を泳ぎ渡って投降し、まず、官軍側の隼人に助けあげられた。これを機に反乱軍の隼人や騎兵が次々投降し三〇人に及んだ。投降した隼人によって、豊後道と田川道からあと二手の反乱軍が進軍していることが官軍に伝えられた。

 これが大きな打撃となり、反乱軍は、敗走した。広嗣は朝鮮に逃げようと船で済州島近くまで四日がかりでたどりついたが、逆風で五島列島までおし流され、広嗣・綱手ら一行二十余人は十一月三日に肥前国東松浦郡値嘉島で捕えられた。広嗣・綱手はそこで斬殺された。翌天平十三年(七四一)一月反乱に呼応した主なものに、死罪二六人、没官五人、流罪四七人、徒罪三二人、杖罪一七七人という処分が出された。しかし、同年八月には大赦が出された。

 藤原広嗣の反乱は、聖武天皇はじめ橘諸兄らの新政権に深刻な衝撃を与え、やがてその三年後には、公地公民制の基本を掘りくずす″墾田永代私有令″が出される。

 また、この反乱は、大宰府の国司に西海道の政治権・軍事権を掌握させていることの危険性を知らせた。朝廷は天平十四年(七四二)に大宰府を中止したが、対外関係の必要性から三年後に再開し、橘諸兄自ら大宰帥を兼任した。

 当時広嗣の反乱に心をよせる人が多かったことは、広嗣の死後、中央・地方にさまざまな怨霊伝承が残されたことからもうかがえる。僧玄ぼうはその後、観世音寺造営で大宰府に下向したが、天平十八年(七四六)、落成のとき急死した。怨霊伝承は、広嗣が玄ぼうを空中にさらっていき、その首を奈良・興福寺の庭に落した、と伝える。

 反乱軍が敗走した北九州市小倉北区の到津や同八幡東区の荒生田神社などにはその怨霊を鎮めるものとして、今日まで広嗣の霊が祀られている。

第一〇節 奈良・平安時代の遺跡

 遠賀町域内で奈良・平安時代の遺物を出す遺跡は次のとおりであるが、いずれも未調査である。

高山池瓦窯跡

 尾崎字内牟田の高山池池畔にあったが、未調査のまま採土と道路工事のため破壊された。この窯で生産された軒平瓦は、ここから北東約二キロメートルに所在する芦屋町字月軒の浜口廃寺跡の出土品と一致するものがある。また、北九州市八幡西区永犬丸に所在する北浦廃寺跡の軒丸瓦に浜口廃寺のものと同紋のものがあるなどの事実から、高山池の瓦窯はこれらの寺院建立のさいに操業されたとみられる。

 浜口廃寺は、奈良時代の鴻臚館式の複弁八葉蓮華文軒丸瓦の出土で知られ、奈良時代の創建を伝えるが、文献上の記録等はない。存続年代を知る出土品として、前原平三郎氏採集の「延喜十一年」(九一一)という紀年銘をもつ平瓦があり、昭和五十四年度の発掘調査を総合すると八世紀前半から十世紀初頭の間、存続したと考えられる。

浜口廃寺出土瓦拓本

 高山池窯跡から採集されている古瓦は、軒丸瓦、軒平瓦、道具瓦、丸瓦、平瓦の各種に及ぶが、丸瓦と平瓦を除いていずれも細片である。これらの古瓦の多くは浜口廃寺出土品に見出されるが同寺の創建期に属する鴻臚館式の軒瓦類がみられない。

 これは、浜口廃寺創建期の瓦窯跡が高山池瓦窯跡以外にも存在することを示すものであるが、昭和五十六年、創建期の瓦窯跡が高山池窯跡の隣接地で発見された。

 高山池瓦窯跡の北西約三〇〇メートルの岡垣町糠塚字墓尾に穀物乾燥施設が建設されたさい、二基の瓦窯跡と二基の円墳が発見されたが、いずれも未調査のまま破壊された。

 この窯跡から池口洋一、旗生良徳氏らによって採集された各種の古瓦類(第3-25図旗生資料館蔵)のうちには、複弁八葉蓮華文軒丸瓦で浜口廃寺の創建期(鴻臚館式1類)に属するものが含まれている。丸瓦、平瓦類は、縄目の叩き目を消しているものが多い。

墓尾窯跡出土の丸瓦

 高山池および墓尾の窯跡は、浜口廃寺創建時の歴史と当時の寺院と瓦の供給関係を解明する貴重な遺跡であったが、未調査のまま消滅してしまった。

 平安時代には、地方で生産された瓦が平安京出土瓦のなかに認められる。たとえば近年、鞍手町神崎池窯跡の製品と平安京出土瓦が同笵である事例が指摘されており、遠賀郡内の瓦も同様に近傍の寺院だけではなく、ひろい範囲に流通している可能性が、今後の研究課題として残されている。

 町域内で奈良・平安時代の遺物を出す遺跡は次のとおりである。

浅木宮周辺   土師器片 青磁片
新屋敷字由良池 土師器片 青磁片
尾崎字金丸   土師器片 青磁片

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