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遠賀町誌 第四編 中世の遠賀町 第一章 鎌倉時代の遠賀町

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第四編 中世の遠賀町 第一章 鎌倉時代の遠賀町 [PDFファイル/1.1MB]


第一節 源平争乱と遠賀地方

 中世の遠賀町を語る上で、平安末期に遠賀郡一帯に大きな勢力を揮った山鹿氏一門の存在を見過すことはできない。山鹿氏は現今の葦屋町山鹿に拠って興った豪族と見做されるが、その勢力は、後でものべるように、旧遠賀郡一帯を支配下に置いていたと推定できるから、遠賀町にも深い関係を有したと考えられる。中世の開幕に当ってこの山鹿一門の動向から述べて行こう。

 元暦二年(文治元・一一八五)三月二十四日、長門国壇ノ浦の戦で、栄華を誇った平氏一門は亡び、鎌倉時代の開幕を迎える。遠賀の地はこの日本史上の大事件と殊に密接なかかわりを有した。遠賀の地のみならず北九州一帯は、早くから平氏の支配下に収められていたが、源平争乱時には、平氏の有力な家人山鹿秀遠は遠賀川中・下流域を本拠地とする大武士団の棟梁であったことによる。始めに山鹿秀遠について少しふれて中世の遠賀町史の開幕としよう。

 平安時代末期、北九州一帯には、山鹿秀遠を始め、原田種直(筑前怡土・志摩)・嘉摩兵衛尉種益(同嘉摩)・板井種遠(豊前仲津)・宇佐公通(同宇佐)―以上「吾妻鏡」に記される。その他、香月庄司秀則(遠賀郡香月庄)・長野康盛(豊前企救郡長野庄)・門司関別当(豊前門司関)といった平家に味方した有力武士の存在が知られている。とりわけ山鹿氏は肥前の松浦党と共に、平家の水軍を構成したといわれるが、平家一門に最後まで従って遂に亡びた一族である。

 山鹿氏は藤原姓を称し、元来大宰府官吏の出身で、平安時代中頃から大宰府官人の地位を利用して、筑前国内の遠賀・鞍手・嘉摩・穂波の諸郡にわたって勢力を扶殖して行った。一族は遠く筑後・肥後にも進出し、肥後の菊池氏や筑後の草野氏等となった九州に於ける代表的大武士団を形成していた。但し、その先祖が中央から下向した藤原氏か(古くからの系図では藤原隆家の末裔とするが、最近の研究ではこの説は否定されている)、或は九州土着の勢力が成長した一族かは不明である。また筑前の藤原氏が肥後に進出したか、肥後の方がもともとの根拠地であったかも明らかではない。系図関係からは菊池氏と山鹿氏(粥田氏もふくめて)とは非常に近縁関係にある。

 山鹿秀遠は、藤原経隆の孫、父は経遠である。伯父経政の跡を嗣いで山鹿を伝領したとされる。菊池系図や「熊本県史」(総説篇)では肥後の山鹿経政も詫摩郡を知行したとするが、近年の研究では、筑前の遠賀川流域を支配した人々に考えられている。秀遠の伯父経政は山鹿を称した所から山鹿荘を本拠地に北九州における大勢力を築上げたものであろう。(南薩の平氏とも婚姻関係があった―谷山系図)山鹿荘は古代の山鹿郷が荘園化したものと考えられ、早く奈良時代に大宰府観世音寺の荘園として成立した。この時の荘域は、現在の若松区市街より西の石峯山一帯を中心とし、二島から脇田を結ぶ道路以東の山地(山林)主体の、観世音寺の塩焼の薪を供給する荘園であったことが、延喜五年の「観世音寺資財帳」から知られる。荘名も山鹿郷の東端を占めた地域からついたのであろう。後には水田が開かれ、山林から田地中心の荘園となったが、やがて平安時代中頃には東大寺領に編入されて、東大寺へ年貢米を運上した文書が残っている。更に、旧遠賀郡東部(遠賀川旧水路である曲川以東)も荘園化して山鹿荘と呼ばれる様になる。東大寺がこの地域までを領有したかは不明だが、鎌倉時代には摂関家(九条家)が山鹿荘の領主であった。いづれにしても、後世の麻生氏の史料から推定すれば、山鹿荘三郷三村といわれ、現在の戸畑区・八幡東区・八幡西区・若松区・葦屋町(註1)・水巻町にまで拡がりをもつ地域で、庄内には麻生庄・ニ島圧をふくむ総田数三五〇町歩に及ぶ大庄園であった。その内には折尾・在毛・安屋郷という郷名を称するもの、熊手・藤田・穴生・小倉村という村名をもつものなど、室町時代の史料であるから、不正確かも知れないが、山鹿荘の形成には、国衙の支配下にあった地域がそのまま編入されて荘園化した形迹がうかがえる。山鹿氏の勢力の根源が大宰府官人であったことを考え合わせれば、その地位にものをいわせて荘園としたことが想定される。「宇治拾遺物語」(巻九)(註2)に見られる様に、山鹿氏輩下の数百人もいた郎党は旧遠賀郡一帯に分布したと思われる上、彼らの下にも地主的な家人がいたらしい。彼らが遠賀川流域のどの地域に割居していたかは全く知られない。現遠賀町域の島津や鬼津・尾崎・別府などに残る居館址や城址などの存在から、彼らのうちのいづれかの存在を推測するに過ぎない。平家滅亡と運命を共にした山鹿氏一門のその後の動向については明らかではない。室町時代に史料にあらわれる山鹿氏と続くとも、麻生氏の入部によって吸収されて生残っていったか、全く滅亡したかは知られない。粥田恒遠の子孫と見做される開田氏一族(開田・頓野・底井野氏など)は室町時代以降もこの地域に残っている点から(山口県厚母文書・相良文書・深江文書等に見える)、山鹿氏も残存したと考えて良いであろう。

(註1)観世音寺の荘園は日吉神社を鎮守神としてまつり、藤原氏の荘園は氏神春日神社をまつると考えれば、山鹿荘のうち観世音寺領と想定される地は若松区の東半分で、各地に日吉神社が分布する。二島の日吉神社が本社である。若松の西半分及び八幡区に属する方には八幡神社及び春日神社がある。九条家領山鹿荘は、戸畑区域より八幡区及び、若松区島郷の地域であったかと考えて良いのではないか。
(註2)同書巻九の五 恒正(政)が郎等仏供養の事

第二節 鎌倉幕府の九州統治

 平氏一門の滅亡に際して、原田一族も大半滅亡し、また山鹿氏も衰退して、平家の地盤ともいえる九州も鎌倉幕府支配下に収められることとなった。源頼朝の九州に対する政策は殊に厳しく行われ、筑前の原田氏を亡ぼし、山鹿秀遠始め、板井氏・長野氏・肥後の菊池氏らも処分を受け、所領も平家没官領として没収されてしまった。また平家と親密であった九州在地の寺社勢力である宇佐八幡宮や安楽寺(太宰府天満宮)、宗像神社等も頼朝から圧迫を受けている。とくに安楽寺には厳しく、別当の安能に対する追求は「吾妻鏡」にも記されてよく知られている事実である。宇佐宮に対しても厳しい態度で臨んだが、結局は源氏の尊崇する八幡宮の総社であり、又大宮司公通が源氏出身であるといわれる所から、寛大な処置がとられている。大社寺に対する峻烈な態度に対して中小社寺や多くの九州在地土豪・武士には寛大な方針を示して、やがて彼らは鎌倉幕府御家人として本領の安堵を受け、幕府支配の末端を構成することになる。平家追討直後の九州は、頼朝の弟源範頼の管領下にあったが、その後に中原久経、近藤国平が頼朝の特使として下向して来た。範頼は始め遠賀郡の本城(八幡西区)の辺に居たとの伝承がある。壇ノ浦から北九州に入り、山鹿氏勢力を討って筑前に入り、大宰府に向ったであろうことを考えると、山鹿氏勢力の中心地本城(山鹿庄の本庄)を当然考えても良いであろう。本城付近は中世の遺跡が濃密に分布するとともそれを裏付けると思われる。範頼が鎌倉へ呼戻されたのは、九州では平氏滅亡後なおも不穏な状況にあり、また武士の非法狼藉が相次いで起ったのを抑えきれなかったためといわれる。九州ではその後も、維方惟栄の事件、義経との関係、平家の残党が根強く抵抗したため、幕府は更に強力な支配を行い、天野遠景を派遣し武断的統制を行わせた。鎮西奉行人とも九州総追捕使ともいわれ、既に前年(文治五)勅許を得た守護・地頭の体制と共に幕府の全国支配は着々と進行して行った。九州には守護は少し遅れて設置され、鎮西守護人の遠景が九州全域を統制する強力な権限をもち、事実上は守護として君臨したといってよい。天野遠景の任務は、平家の残党がなお健在の九州に、幕府の支配体制を確立することにあった。九州各地の武士の濫行を抑圧し鬼界島に残る平家余党を追討する計画も立てられている。豊前の板井氏の跡を継承した宇都宮信房はこの戦いに進んで参加したが、九州各地の鎮西御家人達はなかなか集まらなかった。遠景は幕府に参陣を督促する御教書を下すよう申送っている。彼は任期中、九州各地において荘園や社寺勢力には厳しい態度を示し、また配下の東国武士達も年貢を抑留したり、各地で狼藉行為があったりして、荘園領主等の非難が高まり、ついに建久五年(又は六年)の頃には解任されて九州を離れて行った。その後に中原親能が鎮西奉行となり、更に親能の猶子大友能直が豊後国守護職となって鎮西奉行(東方)を継承し、また武藤資頼が筑前国守護職と大宰府の大宰少弐の職に任命されて下向し鎮西西方奉行に就いた。資頼以後武藤氏は、豊前・肥前・対馬更には壱岐を加えた五国の守護となって北九州では大勢力を揮うことになる。

 さて北九州の状態を眺めたが、鎌倉幕府の支配力が最も深く浸透するのは地頭の設置に負うところが大きい。とくに北九州や遠賀・鞍手郡の一帯は、平家方の主流ともいえる粥田・山鹿氏勢力の残存を無視することは出来ない地域であった。史料の上からは確認できないが源頼朝はこの地域を自らの所領に繰入れたのではないかと推測している。先ず鞍手郡はとくに南部一帯は、頼朝の歿後妻北条政子の所領となり、頼家・実朝の歿後、三代の将軍の菩提を訪うために建立された高野山金剛三昧院多宝塔の料所に寄進され、高野山領粥田庄が成立する。粥田庄(宮田町・直方市)はもともと粥田恒遠が開発し、成立させた庄園であった。鳥羽院に寄進し成勝寺領となったが、庄の実権は恒遠が握り、恒遠から山鹿秀遠が継承していたもので、秀遠の有していた権限が没収され、源頼朝に与えられたものであろうと考えられる。また西に隣接する若宮荘(若宮町)は、頼朝の所領「鞍手領」が文治二年十月廿六日に京都六条若宮八幡宮に源頼朝から寄進され成立した。(京都若宮八幡宮所蔵文書・醍醐寺文書)粥田と同様、山鹿一族の領有として頼朝領に帰したものと推定できよう。また鞍手郡(中世には田川郡)堺庄にあった寺院(堺院)の院主職を昌寛が支配していたことも、鞍手郡が頼朝支配下に属したことを裏付ける。(志賀文書)遠賀郡は明らかではないが、郡内には山鹿氏の所領山鹿圧をはじめ遠賀庄・楠橋圧・香月庄・垣崎庄・垣生庄等があったが、山鹿庄には北条氏が鎌倉時代には地頭職を所有して居り(麻生文書)、遠賀庄は南北朝時代には少貮氏の所領となっている。少貮氏は自己の本領と称して古くからの権利を主張している。(筑紫古文書)遠賀庄は後に述べるが、遠賀川の東部に位置した山鹿圧に対し、西方一帯に広く展開した庄園であった。この二大庄園が頼朝領であったか否かは明確ではない。大胆な推測をすれば、頼朝歿後に、北条政子等の手を経て北条氏の所領に移ったとは考えられないだろうか。遠賀庄は頼朝に知遇を受けた武藤資頼が筑前守護(或は大宰少貳)に任ぜられた時に地頭職が与えられたものかも知れない。その他の荘園にも地頭が置かれているが、いづれも旧来の在地土豪の系統と思われる。香月氏は香月郷がそのまま承認されて地頭として政所下文が与えられた。しかし彼らの中は余り幕府の命令に従属せずに、垣崎庄地頭長洲氏のように、地頭職を没収されたものもいる。こうしたことからも源頼朝領以外にも徐々に鎌倉幕府の支配が浸透して行ったといえる。旧来の九州生え抜きの武士や地頭に対し、武藤氏のように平家没官領に地頭として入って来た関東武士を東下りの衆、又は下り衆と称した。彼らは将軍源頼朝の御家人・坂東武者としての強い誇りに支えられ、下向した土地に強い支配力を及ぼし、やがて土着して有力な在地領主ともいうべき権力を打ち立てることになる。源頼朝が彼らを九州に派遣したのは、勲功に対する恩賞という外に、ことに平家与党の勢力が根強く残った九州の地を抑えるのに彼らの力を必要としたからであろう。北九州には門司関を固める下総氏(本姓など不明)が下ってきた。北条氏との関係の深い東国武士と考えられるが不明な点が多い。のちに門司氏を称し北九州の有力武士に成長する。また交通運輸の重要地点を占めた洞ノ海や遠賀川口を抑える山鹿庄には地頭(或は地頭代官)として関東下野国から宇都宮氏の一族が下向した。後世の麻生氏の祖といわれ、豊前仲津郡城井郷に下向した宇都宮氏と同族関係にある。当初山鹿庄は平家没官領として源頼朝領となり、地頭或は代官職には、彼の側近にあり、祈禱師的な立場をもちまた右筆でもあったと推定される一品房昌寛が与えられていた。彼は宇都宮氏の出身で京都成勝寺の執行職(事務長的地位)にもなっていた。「吾妻鏡」から彼の活動を見ると鎌倉に在って頼朝の側近にあり、度々上洛して頼朝の使者をつとめている。彼が山鹿に下ったことがあるのは、元暦元年八月、源範頼に随って平家追討のために九州へ来た時くらいであろう。ほとんど彼の代官を派遣していたと考えたら良い。彼の代官が鎮西の庄(山鹿・粥田・堺・若宮等の広い地域をさすと思われる)で庄園領主の妨げをしたことが「吾妻鏡」の記事に見えている。竹中岩夫氏の説のように天野遠景とともに北九州一円の経営に当ったとはいい難い(註1)。眼代とあるのは守護代ではなく代官、頼朝の代官であるが、所領代官であって遠景程の権限を有したかということは明らかにならない。昌寛の代官が誰であったかということも明確ではない。ただ後の麻生氏の系図によれば、昌寛の養子となったのが宇都宮氏と縁故のある家政とされている。彼は母方の親類ということで昌寛の養子となって山鹿庄所々を譲与されたとある。その所々がどの地域に当たるかは知られないが、ほぼ山鹿庄全域が譲られたのであろう。しかし、麻生氏に関する最古の文書は、建長元年(一二四九)六月二十六日の北条時頼袖判下文(麻生文書)であるが、これによれば、麻生系図(尊卑分脈所収)には麻生氏の始祖とされる小二郎兵衛尉資時が祖父の二郎入道西念の譲状によって、山鹿庄内の麻生庄、野面庄、上津役郷三か所の地頭代職を継承し、北条時頼によって安堵されているのである。西念は麻生系図には時家とし、家政の子としている。幕府によって地頭職或は地頭代職に補任されているのではなく、北条氏による補任(安堵)である。前にもふれたように近辺の香月氏は幕府の政所下文によって遠賀新庄内香月郷の地頭職に補任されていて、歴とした鎌倉御家人であった。(麻生文書)麻生氏に対しては、北条氏による安堵であり、下文の形式をとり、更に袖判を据えるという最も尊大な様式の文書を資時に与えている。資時に対しても氏名も冠せず通称官名である。資時は北条氏と被官関係にあったと考えねばならない。資時は系図(尊卑分脈)では宇都宮山鹿氏の庶子家であり、西念の所領の内三か所の地頭代職を譲られて独立したと考えられる。麻生を称するようになるのはその所領麻生庄によるのであろう。おそらく彼は麻生の地を本拠地と定めたと思われ、現在の北九州市戸畑区から八幡区東部(枝光)付近と推定される(註2)。西念が山鹿を称し、その長子家長の系統が山鹿氏となっている。この山鹿氏はかつての山鹿秀遠の系統とは異る新来の山鹿氏である。昌寛の後、家政の系統が継承した所領が何故に北条氏による安堵を必要としたのか、鎌倉時代には麻生氏の文書は僅か三通しか伝存せず確実にはならない。これらの文書は先につづき、文永三年三月二十九日、資時(西教)への安堵、文永九年四月二十七日資時未処分を資氏へ譲与せしめたものといづれも袖判の下文で、花押の主は明らかではないが、その形態から北条氏に何らかの連なりをもつ人物と考えられる。従って、鎌倉時代中期の山鹿庄地頭職は北条氏得宗家(嫡流)ないし、それに連なる北条一族の手に移っていたと考えねばならない。鎌倉時代初頭、一品房昌寛はおそらく地頭職を得ていたと思われるが、粥田庄のように、源頼朝没後夫人政子に移り、山鹿庄はさらに北条得宗家に入ったものであろう。鎌倉時代を通じて下野国の宇都宮氏は北条氏とは比較的親密であったから、昌寛の後継者も地頭代職をそのまま保有し得たのであろうか。「麻生系図」によれば、「建久・承元・承久御下知」があったとあるので、三か所地頭代職は鎌倉時代初めから安堵されていたと見られる。しかし、これらの文書は現存しない。おそらく惣領家(山鹿氏)に関する文書であったものと思われる。鎌倉時代末から南北朝時代山鹿氏の衰退によって散佚したと考えられる。庶子家麻生氏に関しては不明な点が多く、鎌倉時代の史料には今のところ麻生を称したものの存在は見当らない。南北朝時代に入ってからの活動が知られ、また麻生の名字も現われてくる。(麻生文書)尊卑分脈に麻生氏系図が入ったのも、(但し山鹿とあり、鹿生とあって麻生は見えない)室町幕府の奉公衆として足利氏を通して中央に知られた関係であろうと見られる。遠賀地方に対する麻生氏の活動も定かではない。おそらく鎌倉時代に於いては、地頭北条氏の代官として山鹿庄内各地を惣領家山鹿氏が、三か所を庶子家麻生氏が、小倉庄(村)を同じく庶子家小倉氏が知行し、北条氏に替って山鹿氏が領家九条家に年貢を納入し、また北条氏に対しても地頭職に伴う収入を送進していたのであろう。決して大勢力ではなく、また表面に立つことも少かったのであろう。これが史料的に知られない要因と思われる。しかし、その間に徐々に在地に力を扶植し、貯えて、鎌倉時代末には足利氏に軍事力を認められるような武士団に発展して行ったと考えられる。とくに、麻生氏は建武三年(一三三六)の文書に初めて氏名が現われるところから、(麻生文書6号)足利尊氏の九州下向(建武三年)に伴って越中或は常陸などから幕府方で活動し没落した山鹿氏の跡に入った新来の氏族とする考え方もある。(碩田叢史)この点は史料的には確認できない。ともあれ、遠賀地方における宇都宮一族の活動は殆ど知られない。旧郡内社寺の所伝には鎌倉時代に麻生氏との関係があるかのように散見するが、後世の麻生氏の勢力が強く及んだ結果であろう。麻生系図には元寇に際して資時が活動したという記載があるが、資時は文永九年四月二十七日以前に死去しているから(麻生文書四号)弘安四年活躍はありえない。系図(麻生竪)が資氏の活動を記し小早川同意とあるのも後世小早川氏との関係で記入したものであろう。家督文永元年とするのも(一代系図)これも誤りである。他の元寇に関する資料・記録に現われぬのも北条氏の代官として軍事的な動員を受けたであろうが、表面に立つ活動はなかったと見られるのである。しかし、鎮西探題滅亡時には松浦党・草野・宗像氏等と山鹿氏が探題方に属して探題城(姪ノ浜カ)にたて籠り、大友・少貮の軍勢と戦ったことが知られる。(歴代鎮西要略三)最後まで北条英時に従っていたとあるから恐らくこの山鹿氏は、遠賀郡の北条被官山鹿氏と考えてよいであろう。この戦いに加ったのは山鹿筑前守とあり(九州軍記巻一―太宰管内志所収)、宗像大宮司と共に最後まで戦ったがついに降人となったので、英時も力を失い自殺したことになっている。山鹿筑前守は「歴代鎮西志」には政貞とあり、「麻生系図」(竪系図)に見える家長の子である北麻生の資家が、或は「尊卑分脈」所収系図の時長の孫資家かは明らかにできないが、宇都宮山鹿氏の惣領家の人物であることは確かである。彼は降人となったが、宗像氏も許されているから、そのまま遠賀郡に帰ったと見られよう。

 鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇による建武新政が開始される。長い武家支配の後に俄かに公家政権が誕生したため、様々な問題が起ったことは周知の通りである。北九州でも鎮西探題を大友・少貮の主導権の下に多くの武士を糾合して滅亡させたが、新政権には所領の承認や恩賞要求に対する不満や不信をもつものが多く、政治情勢は不安定であった。とくに北九州は長年にわたって北条氏勢力下にあった土地柄であったから、新政権に対する不安と不信は、そのまま北条氏への追慕に連なるものが形成されたと想像される。おそらく、山鹿氏のように、探題に最後まで従っていたものは朝敵の烙印を捺されて所領没収されたか、或はその不安感を抱いていたと推測できる。門司氏や長野氏も北条氏所領内にあってその被官となり、或は特別の関係をもっていたから、巧みに建武政権へ転身できたかどうかわからない人々であった。とくに北条氏遺領の殆どは天皇によって独占されてしまったことから考えて、北九州一帯の旧北条氏所領内にあった武士達は極度の不安や、没収された旧領の回復を念願する考えに立ったであろうと考えられる。果せるかな、建武元年(一三三四)正月から早くも、北条氏一門として活躍していたかつての肥後国守護の規矩高政や豊前国守護であった糸田貞義が、彼ら北条氏被官達を集めて再挙を企ったのである。詳細ないきさつについては古文書史料を欠いているが、「太平記」(巻十二)「歴代鎮西志」(八)及び「歴代鎮西要略」等の戦記物によれば、鎮西探題滅亡後、規矩高政は遠賀郡芦屋近辺に逃れ、ここを中心に豊前・筑前の武士を召集して再起の機会を狙っていたと見られる。しかし現存の古文書によれば、南九州に関係したものがあるので、大隅か日向の方へ逃れていたのが正しいかも知れない。(大隅称寝文書・日向野辺文書)芦屋付近と伝えられたのは、当然探題の下で戦った山鹿筑前守の力を頼ったからであろう。高政は豊前規矩郡に挙兵し、筑前帆柱山に城を構えて山鹿筑前守を始め、弓削左兵衛、宗藤兵衛佐、杉右馬助、原源五郎、府附新介等が山鹿氏に従って帆柱城に集り、総勢五千許りに達したと云う。弓削氏以下「筑前葦屋群(郡カ)士」と註記されているので、全て遠賀郡及び近隣の武士と考えられるが、後世の氏名らしきものも混り、実在かどうか信じ難いが、他に史料も知られないから「歴代鎮西志」の記事に従っておきたい。高政には、豊前の長野政通・貞通兄弟も従い、門司城を修築し、一族柚板氏や門司種俊らの兵三千で守った。糸田貞義は糸田(田川郡の系田庄か)にあったが、筑後の堀口城に拠って、黒木・星野・問註所等六千の兵を召集してこれに呼応した。ここに出てくる氏族名は正しいものが多いが名乗りなどは適当に考え出されたものであろうと思われる。諸氏の系図とは合致せぬものが殆んどである。筑後国も肥前と並んで北条氏の支配が強く及んだ国で、特に筑後には得宗領もあったので豊前企救郡・筑前遠賀郡と共に北条氏の拠点となるに最もふさわしい地域であった。

 こうした動きに対して、建武元年正月、宗像大宮司(氏範に当ると考えられる)は帆柱城を攻撃した。かつて山鹿氏と共に探題英時を助けたのに、今度は朝廷側として山鹿氏を攻めたのである。しかし長野氏の来援により、かえって敗れて葛嶽城(宗像郡)に退き、ここも敗られる有様であった。この勝ちいくさに高政軍は気勢を上げたと伝えている。しかしその後の動きは知られない。三月上旬に至って少貮頼尚は筑前・肥前の武士を動員して帆柱山を攻め、大友氏は堀口城を攻めている。「歴代鎮西志」には、頼尚は松浦党等数千の兵を率いて大進撃をし、帆柱の砦数城を撃破したとするが、しかし、仲々勝敗はつかず、九州各地に伝わる古文書によれば七月の頃にもまだ九州全域に武士の召集が続いている。頼尚は更に兵をすすめ山鹿に向った。この時山鹿氏は一族が分裂し、「山鹿氏・麻生氏兄弟而不平也、分属官軍山鹿筑前守政貞逃亡、少貮到帆柱大攻之」とある様に山鹿氏と庶家麻生氏の分裂によって惣領家山鹿氏は没落し、帆柱山も落城した。高政は規矩郡へ逃れ、長野氏は投降した。高政はついに規矩城(虹山城カ)で滅亡した。既に四月十二日、貞義も堀口城で戦死し、糸田城も菊池氏に攻略されていた。この戦乱は北九州の一部のみでなく、建武元年七月三日の日向方南郷濫妨狼藉人注文によれば、遠江掃部助三郎・同舎弟助四郎以下の武士が日向国で騒動を起し、叛乱を企てていると記されている。この二人は他ならぬ高政・貞義兄弟であるから、やはり同時に南九州でも北九州の動きに対応したものがあったとせねばならない。筆頭の高政が本人であったかどうかはわからないが、帆柱山を逃れた高政かも知れない。規矩城で殲滅されたとする「歴代鎮西志」の記述は裏付けを欠くが、七月九日には高政・貞義誅伐の戦斗が行われたことは確実である。(近藤文書・中村文書)更に七月中旬から月末にかけて龍造寺・深堀・大島・斑島・上妻等、肥前・筑後各地の武士が少貮氏のもとに馳参じている。しかし、八月二十一日には少貮頼尚は上洛し、朝敵の首を上ったという(玉英記抄・太平記十二)から漸く落着したものであろう。この戦乱は、とくに遠賀郡一帯・帆柱山を中心に、山鹿・麻生氏の勢力範囲でくりひろげられた。帆柱山が現在の帆柱山かどうかは明確ではないが、彼に現在の帆柱山とすれば、宗像からの通路に当る遠賀町域でも激しい戦斗が行われたであろう。しかし今日ではそうした伝承も絶えて伝わらない。また先に挙げた遠賀郡の武士達がどの地に拠っていた人々であったか。またその後いかなる末路を辿ったか全く知られない。おそらく滅び去ったものであろう。高政に味方したと見なされる豊前の武士の所領は没収され九州各地の武士に分配されたことが知られるからである。例えば草美氏(企救郡朽網)の所領が薩摩の山田氏へ、曽根氏の企救郡曽称(根)庄は肥前後藤氏へ与えられている。白桑氏(築城郡)・萱津氏(下毛郡)の所領もそれぞれ、肥前の深江氏・肥後の阿蘇一族へ与えられている。少貮一族の吉田氏(企救郡吉田村)も惣領崇観が高政に味方して滅亡したことが知られている。遠賀庄地頭職が少貮頼尚へ入ったのもこの頃かも知れない。或は鎌倉時代から得ていたのが改めて与えられたか、安堵されたかとも思われる。麻生氏が急に遠賀郡の豪族として姿を現わすのもこの戦により山鹿氏が没落したためではないだろうか。また足利氏が北条氏の遺領として遠賀郡(或は山鹿庄)を得たのもこの戦乱の後であったと見なされる。室町時代以降には、幕府御料所として「河上五所」が知られる。現在の遠賀町域及び中間市、北九州市八幡西区に及ぶ地域である。南北朝時代にはかつての北条氏の所領は大半が足利氏のものになっている点から、北九州一帯は再び北条氏から足利氏、即ち幕府のものになったのではないかと推測される(註3)。このことは後に麻生氏が室町幕府の奉公衆となり、また幕府に年貢米を運上していること。及び門司関の田畠が足利尊氏によって京都の松尾大社に寄進されていること。(松尾大社史料所収文書、同社東文書)門司八幡宮や隼人社(和布刈神社)に対する尊氏の土地寄進(甲宗八幡宮文書、和布刈神社記録)など足利氏の北九州に対する支配力はより直接的で密接かつ浸透していることからも推測できる。若宮荘や楠橋荘、或は粥田荘に対する態度も幕府と関係が深い領主(醍醐寺など)といえば肯けるが、特にきめ細い対応をしているように受とれる。

(註1)竹中岩夫氏「鎌倉時代の麻生氏とその一族」(「郷土八幡」創刊号)
(註2)同氏「鎌倉時代の麻生氏居所について」(「記録」二十一号小倉郷土会)
(註3)比志島文書四所収、足利殿建武拝領恩賞地目録、には北条泰家の遺領筑前国、豊前門司関等が尊氏分として三十ケ所あげられている。

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