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遠賀町誌 第四編 中世の遠賀町 第二章 中世後期の遠賀町

ページID:0026902 更新日:2024年3月18日更新 印刷ページ表示

第四編 中世の遠賀町 第二章 中世後期の遠賀町 [PDFファイル/1.37MB]


―室町幕府の遠賀地方支配を中心に―

 中世の後半・室町時代から戦国時代にかけて、遠賀町の歴史で特筆されることは、町域をふくむ遠賀川中・下流域が室町幕府の御料所とされていたことであろう。

 近年山口隼正氏によって蜷川家文書が紹介され、知られるようになり、(「御料所」「探題領」管見―鹿児島中世史研究会報)又、「大日本古文書」家わけ(21)蜷川家文書が公刊されて遠賀地方の室町幕府御料所が一層明らかになってきた。遠賀町や鞍手町一帯の旧家には、宗像氏や麻生氏との関係を伝えるものが多いが、それと共に足利尊氏との関係を称する家伝や古文書を伝えるものが多く、筆者は足利尊氏が建武三年(一三三六)二月に西下して葦屋から宗像氏に迎えられた史実が太平記などによって普及した結果かと推測していたが、足利幕府の御料所であった因縁の結果と考えられなくはない。浅木神社社伝にみえる足利義満の奉幣、浅木有吉家蔵の足利尊氏感状(残念ながら後世のもの)、栗田家(鞍手町)の尊氏下向の供奉等々の伝承も何らかの史実を反映して居よう。

 室町幕府の御料所は近年の研究によれば、全国におよそ二百か所程の存在が認められているが、九州では比較的少いとされる。御料所は、幕府の直轄領地で、足利氏が将軍として幕府を開くに当り、将軍権力を背景に、幕府体制を樹立するその経済的・軍事的基盤を形成するための重要なものであった。それは主に足利氏の本領や闕所地(没収した土地或は所有者のいない土地)、半済地(半済を施行する権限を有した地域)その他特別の由来をもつ地等であった。九州の分布は少いが、北九州には筑前早良郡辺久里、重富(福岡市早良区重留)とこの遠賀川流域地方「筑前河上」であり、門司関一帯も御料所として古くから知られている。こうした御料所は幕府の政所の経費をまかなうための所領で、大体は現地の有力武士達(奉公衆と呼ばれて、足利将軍と主従関係を結んだ人々)を代官として彼等に預けられ、徴収した年貢の中から五分の一が代官に支弁されるのが普通であった。

 筑前河上の地が御料所の名称であらわれるのは、文明十六年(一四八四)三月四日の蜷川親元書状(大日本古文昔、蜷川家文書)が初めてであるが(史料11)、足利将軍家の所領となったのは、前章でも述べたように、ずっと早く南北朝時代の初めであったと考えられる。鎌倉時代には北条氏の所領であった遠賀郡一帯が建武中興において後醍醐天皇から足利尊氏へ与えられたものかとも推測される。北条氏の被官(家来)として山鹿庄内の代官をしていた麻生一族はそのまま、足利氏の代官として奉公衆に加わって活動する。

 筑前河上の地は、現存の蜷川家文書によって、当時御牧郡と呼ばれた遠賀郡内の広渡・底井野・上津役・香月・頓野の五か所であることがわかる。頓野は近世以降鞍手郡に属したが、応永三十二年の文書では御牧郡内とされている。幕府の方では鞍手郡とすべき所を誤ったか、或は当時、御牧郡に編入されていたか明確ではない。尤もこの付近の、例えば旧鞍手郡堺郷(直方市)は、応仁の頃には豊前国田川郡であったこともあり郡境も確定しない箇所もあったと見なされよう。「慶長中調筑前国各村別石高帳」(福岡県立図書館蔵・太田資料)では、頓野村・同川北村・同中返村は御牧郡に属しているが、「慶長年間筑前国図」(「福岡県史資料」第二輯)では、頓野村・河南村・河北村は鞍手郡に属している。同図に記入の高は元和の高と同一であり、図の作製年代が問題であるが、幕府に提出された慶長十年十月の図と同一とすると(「福岡藩主記録」「福岡県史資料」第三輯所収)慶長六~十年の間、それ以後としても藩政初期の慶長期に御牧郡より鞍手郡に編入されている。御牧郡は中世から、近世初頭(慶長~寛文迄)にかけて使用された呼称で、この間でも遠賀郡も使われるなど確定していなかった。この五郷にはそれぞれ現地の有力土豪が地頭職として知行していたことが知られる。応永三十二年七月十日将軍足利義持御教書案では(史料2)、これら五人の所領が没収され、九州探題の渋川満頼に宛行れたが、彼の手から同年十二月二十七日底井野郷は元の如く底井野治部少輔へ返渡された(史料6)。その後、宝徳二年(一四五〇)八月廿九日、将軍より開田(底井野)備中入道の知行が安堵され(史料7)、同日管領の畠山持国より下知が下った。翌年三月二十一日、守護大内教弘はその命令を開田備中入道へ伝達している。(史料8)底井野郷を得ていた開田氏(底井野氏)に関する史料は残るが、他の四郷に関してもそれぞれ、郷名を称する有力武士の存在があった。上津役郷は現在の北九州市八幡西区で、ここには鎌倉時代から麻生氏が北条氏の地頭代官として土着しており、香月郷は同じく鎌倉時代から幕府の御家人香月氏が勢力をもっていたことはよく知られている。遠賀町域に当たる広渡は、郷名か村名か人名か確定できないが、現在の広渡に比定してほぼ確定であろう。他の四か所の様に郷名を称したが、それぞれに有力な武士の存在がある点からも広渡氏を称する武士の存在を推測できる。広渡姓の人々は現今でも遠賀町或、岡垣町その他に広く分布するが、古くは戦国時代においても、宗像家の家臣団に広渡姓の人々があらわれる。「宗像記追考」に遠賀庄衆として広渡掃部丞・広渡清兵衛・同右衛門があげられている。しかし、どの様な出自をもち、またいつ頃から活躍する一族であるかは知られない。しかし、かつて応永年中以前に足利氏によって広渡の地(地頭職)が宛行れており、また奉公衆の一人として麻生・香月・開田氏などとならぶ有力な存在であったことは確かである。(近世末の広渡村の田数は九十八町であった。――福岡県地理全誌要目)応永三十二年にどの様な理由で闕所になったのか、或は返付されたのか否か不明のままである。しかし後の文明十五年(一四八五)にも、「給人種ゝ致訴訟候」とあるから(史料10)、他郷と同じく返給されたのではないかと推測される。その末裔が宗像家臣団の広渡一族と考えられなくはない。

 底井野郷は現在の遠賀町浅木(下底井野)とその南へ中間市の中底井野・上底井野と続く地域であり、常貞及び瀬戸地区も入っていたと思われる広大な地域を称したらしい。古代の郷とは考えられず、中世のいつ頃かに開発によって成立した郷と考えられ、山鹿庄や遠賀庄にはさまれても荘園化せず郷名を称しているので国衙の支配領域であったかと思われる。大体三〇の名から成る地域であったと指定される。(史料16)現在の常貞は名田の名残りを示す地名であろう。同地の有吉姓も有力な名田のありよしに由来すると思われる。遠賀川の旧河道は中間の下大隈付近から二手に分れ、一方は中間・二村の方へ流れ(曲川)、本流と思われる流れは、上底井野・上木月の間(上木月の南部とも)を抜けて常貞・浮洲を湾流して虫生津付近で西川と合して下流へ向っていた。底井野郷はその旧遠賀川に添う自然堤防上に開けた村落から成立っていたといえよう。中世では遠賀川上・中流域に形成された荘園からの年貢米等が、水運を利用して葦屋津へ集められ、京都や博多の方へ運漕されていた。付近の香月庄(花山院家)・楠橋庄(醍醐寺)をはじめ彦山川流域の糸田庄(興福寺)・金田庄(皇室・久我家)・弓削田庄(摂関家)や犬鳴川流域の若宮庄(醍醐寺)・粥田庄(高野山金剛三昧院)・植木庄(東寺)・金生庄(東大寺)及び嘉麻川上流域の碓井庄(東大寺)・高田庄(東大寺)、宇佐八幡宮の諸庄園(山野別符・綱分庄等)など多数の庄園が存在し、粥田庄や若宮庄・金生・碓井庄などは年貢運送の状態を知る史料に恵まれている。これらはほとんど遠賀川本流を利用して葦屋へ運ばれており、かつて本流に面した底井野は中世の遠賀川水運の中心地に位置していたといってよい。手工業商業も発達したらしく、葦屋金台寺の時衆過去帳にも多くの時衆の存在が知られる。底井野は古く「そこいね」とも呼ばれて居り(慶長十五年、外宮御師橋村大夫御秡賦日記)かつては川底に位置したこともある低湿地を想像させてくれるが、中世には非常に栄えた村落であったと考えられる。底井野郷が足利氏によって地頭職に補任されたのは、既に南北朝の初頭の建武年間で、開田佐渡次郎遠員が父の開田資長より地頭職を譲られ、足利尊氏より安堵されていた。しかし建武五年二月二十一日の混乱で紛失し、調査の結果、貞和元年十二月二十七日改めて足利直義下文による安堵が行われた。(史料1)開田氏の子孫厚母家(山口毛利家臣)の系図によれば、同じ頃遠員の兄弟遠長は頓野郷地頭職を譲られ(建武二年二月三日)、康永四年(一三四五)十月二十一日に足利尊氏より下文を得て安堵を受けたことが知られる。(史料12)頓野も河上御料所で、現在は直方市(旧鞍手郡)に属すが、かつて御牧郡内であったことが知られる。開田氏の一族がこの地に地頭職を得ていた。

 開田氏は、厚母系図(山口県古文書館所蔵)には(史料13)、源姓で源経基四代の後胤開田冠者満遠の末裔とするが、おそらく前章でのべた平安末期に筑豊地方に活躍した鞍手郡粥田庄の開発領主粥田経遠(藤原姓)の末とするのが正しいであろう。経遠の後を継承した山鹿秀遠が平家方の中心として活躍し、平家没落と運命を共にしたためか、鎌倉時代には全く活動状況を知ることができない。しかし、南北朝時代に入ると再び活動を始めることが、開田・賀伊田姓の武士の活動史料が散見することから知られる。開田佐渡次郎遠員は文和三年(一三五四)隣接の鞍手郡若宮庄に侵入して濫妨行為を行っている。「北肥戦志」(二)にも暦応二年(一三三九)正月十九日一色範氏に属して菊池・阿蘇の軍勢と戦った肥前の開田佐渡次郎は遠員であろう。(醍醐寺文書(一)41・25・26号)開田一族の勢力は全く衰えていないことが推測できる。南北朝時代の開田氏は肥前国高来東郷、有家・有間両村地頭兼預所職、神崎庄内田地十町、屋敷等も得ており、(史料1)遠長も肥前国加世庄の地頭兼預所職、高来郡内三会村地頭・預所両職が譲られていた。(史料12)また更に日向国馬関田庄吉田村の所領―地頭・預所職も両人に分割譲与された。本拠地の筑前をはじめ肥前・日向に及ぶ所領である(相良家文書(一)―一一九号 史料14)。地頭兼預所職というのはほとんど実質的な支配者といってよい程現地に対する強い支配権をもったということである。これらの所領を建武二年二月以前に所有していることは、既に鎌倉時代に得ていたか、北条氏打倒の戦功で得たかは明らかではないが、一郷一村の地頭職に限定されぬ大規模な勢力をもつ武士であったといえよう。また足利氏から所領を安堵された頓野・底井野とは別に開田左近大夫義□というより上位の一族らしい存在も見える(史料1)から、粥田庄(鞍手郡宮田町・直方市)には本宗ともいうべき開田氏の存在が推測できる。さて底井野に所領を得た遠員のあと、おそらく彼の子息と思われる治部少輔は他の人々と共に応永三十二年に一旦所領を没収され、底井野郷も九州探題渋川満頼に宛行われた。しかし同年十二月、元の如くに底井野郷は、治部少輔に返給され、宝徳二年八月廿九日、底井野備中入道大柱の知行が安堵されたことは前述の通りである。長禄四年(一四六〇)には五人の跡が何らかの理由で闕所となって、大内氏の九州出陣に伴い兵糧料所とされていたのを、再び幕府政所執事の伊勢氏に返給し、知行を行わせるよう大内政弘へ将軍の命が伝えられている(史料9)。その後文明十五年(一四八三)も御料所川上の年貢について給人が種々訴訟を行っていることがあるので五人は再び知行を回復しているらしい、年貢の銭も一万疋(百貫文)と定められたが、国境のことでもあって毎年実質の運上もないような状態であったことも見え、幕府(伊勢氏)の知行も成果が上らぬことが知られる。実質この地を支配した麻生・香月・開田(底井野)・頓野・広渡氏等が長年にわたる現地支配者として既に潜在的な本主権が形成されていたのであろう。年貢は一万疋とあって銭貨も送られたらしいが、現米ともあって京の南鳥羽まで米の形で運送されるなど遠賀川水運の利用もうかがわれる。これらの現米の徴収は守護大内氏の請負(守護請)と化して、底井野氏をはじめ遠賀の有力国人は、幕府の奉公衆であり、代官であると同時に守護大内氏の家臣団に次第に編入されていったものと思われる。麻生氏・香月氏が大内氏の家臣となり、山口の方へ移っていたこともよく知られる。(「大内氏実録」大内殿有名衆)底井野氏は広渡氏と共に余りよく知られてないが、同じように大内家臣となり、平常は大内家の城下町山口に居住して大内館に出仕する存在ではなかったかと思われる。浅木神社社伝を始め遠賀町の寺社の社伝・寺伝には麻生氏のことはよく現われるが、広渡氏や底井野氏のことは見えない。近世になって彼らの転住(滅亡)によって忘れられたものと考えられる。底井野猫城も城主は江田讃岐守である(金台寺所蔵「蓬草」江田与雪亭の句詞書)とし、筑前国続風土記(巻26)にも猫城を麻生氏の出城で、天正六年の頃、宗像氏の家臣吉田倫行が守ったような記載で伝えている。さて直接には遠賀町に係りないが、底井野氏と同族の頓野氏については、その後の動向が知られるので少しふれてみよう。底井野郷地頭職を得た遠員の兄弟(おそらく父資長の出羽守を継承しているので兄と思われる)遠長は前にのべたように建武二年、頓野郷等の地頭職を継承した。康永四年には尊氏より安堵され(史料13)その間、日向国吉田村の所領も現地の争乱で、代官を下したり経営に追われている(史料14)。その後の動向は史料に現われないが、御料所の支配は底井野氏等と同様なことで戦国時代まで続けられたのであろう。厚母系図によれば、遠長の子開田氏重があり、以下頼重、遠重、重親、光重とつづき、その子盛種は開田を改めて頓野と称し、大内家の幕下に属したとある。丁度戦国時代に入り、大内氏(政弘の代)が筑前に進出して守護職をも併有し、北九州の国人・土豪層が殆ど大内氏旗下に入った頃であろう(史料15)。その後宣種、隆明とつづき、子隆種の代に大内義隆の滅亡に遭遇し、陶晴賢(隆房)には随わず、父隆明・隆種父子門葉尽く討死したと伝える。ただ隆明の二子元重が僅か二歳で母方の祖父厚母元貞の許に逃れ、のち毛利家に仕え厚母氏を称したという。その後孫の代に至り、長子玄恕は医師となって江戸に居住、頼野家代々の伝書・家伝・系図を譲ったがその後住所不知と記され、三子就忠及び末子就房が頓野を称していたが(この時文書五通を夫々分配した)、再び厚母に復し、就房三男盛重が頓野姓を称して近世後期に至った。底井野氏・広渡氏が毛利家臣となった記録は見られないが、戦国末の動乱によって各地に分散したり、土着して農民になって近世を迎えたのであろう。麻生氏・香月氏等も黒田家に仕官したり、土着して、現今でもその子孫末裔を称する人々が居ることからも推測出来よう。

 室町幕府の御料所については、最終的には戦国大名大内氏の支配下で、国人の麻生・香月・広渡・底井野・頓野の実質的支配地と化していったが、その後天文二十年(一五五一)の大内氏滅亡により、北九州は戦乱の時代に入る。大内氏の後をうけた毛利氏は筑前に侵入し、大友氏勢力と度々対立し訌争も果てしなかった。その間麻生氏も宗像氏と対立を深め、遠賀川を挟んで対立・戦乱がくりひろげられたと思われる。現在、町域に直接かかわる戦闘の史実をあげることは出来ないが、弘治三年(一五五七)四月、宗像氏貞が山鹿城を攻め麻生鑑益を攻殺した戦乱があり(「歴代鎮西要略」「宗像記」「宗像記追考」)更に、「金台寺過去帳」には、永禄二年(一五五九)九月二十六日に、麻生次郎以下その乳母や母及び被官入江氏や金生氏とその母などが自害・切腹して一時に死ぬような惨劇が記されている。芦屋の金台寺で起ったのか、どこで起った戦斗かは知られないが、麻生氏が以後急速に衰退していくことも、この合戦で麻生一族の中心勢力が壊滅的打撃を受けたのであろう。既にのべたように頓野一族も陶晴賢の反乱で族滅し、同族底井野氏も既に底井野郷からは退転していったのであろう。猫城の城主が江田讃岐守であったという伝承もそれを推測させるものである。天正六年頃には宗像家臣吉田倫行の抱城となったという伝えもこれを裏付ける。広渡氏は結局宗像氏の家臣団に遠賀庄衆として組込まれて存続して行ったのであろう。こうして中世の幕は閉じられ、新たな近世大名による支配へと展開して行く。

史料1史料2史料3史料3続き史料4史料5史料6史料7史料8史料9史料10史料10続き史料11史料12史料12続き史料13史料14史料15史料15続き史料16史料16続き

 以上の社役を分担するのが文中にも見えるように「名(みょう)」と呼ばれていたことから、底井野郷の規模がほぼ推測されよう。常貞名が三町分とあるところから、他の名もほぼ同規模と見て中世の底井野郷の面積もほぼ九十町から百町位ではなかったかと推測される。福岡県地理全誌要目では下底井野村田六十五町畑十三町とあり、中底井野は田七十二まち、畑十五町、上底井野は田八十五町、畑二十六町と見える。近世の開田も考えられるから、三か村のほぼ半分が中世の田数であろうか。但し、浅木神社の祭祀圏が上・中底井野(夫々に八剣社・月ノ瀬八幡宮が鎮座する)にまで及んでいたかどうかは不明である。しかし、名田にまでそのまま遡りうるかは不明であるが、社役次第に「名」としてあげられるものの名残りと思われる小字名からみれば、浅木社役を分担した範囲は上底井野・中底井野まで及んでいたと推測される。すなわち、五らく(楽)名、かねむね(兼宗)名、ひろかね(広兼)名、と関係するものが、上底井野にあり、せん寿丸は中底井野の瀬地丸(せぢまる)と対比できる。同じく常貞はつねさだ名の遺称そのものであろう。金峯(カネ)もおそらく兼宗名であろうか。従って中世の底井野郷乃至浅木社の祭祀圏は現在の上底井野・中底井野をふくむ広範囲を示したものと推定できる。またこの「社役次第」には、賀輿丁役が一年は庄屋、次年は百姓とあり、同年の大宮司氏置文(遠賀郡誌所収)にも、公文方、田所殿など庄園に関する記載がある。底井野郷も明徳二年の頃庄園化していたことが知られ、庄官も置かれていたらしい。領主については明らかではない。

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