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遠賀町誌 第五編 近世の遠賀町 第一章 藩政時代の村々

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第五編 近世の遠賀町 第一章 藩政時代の村々 [PDFファイル/2.88MB]


第一節 黒田氏入部と遠賀地区

 慶長五年(一六〇〇)十二月、関ヶ原の役の戦功により、黒田長政が豊前中津より入封して筑前の藩政時代が始まる。中津一八万一九〇〇石より、小早川秀秋の筑前名島三〇万八四六一石余への加転である。秀秋は備前岡山五一万石に転ずる。長政は入国の翌年、元日の家中諸士の礼を名島城で受けたのを手始めに、領国支配の確立に着手した。那珂郡警固村の附近、福崎の地を選んで居城の構築、周辺の備えとしての六端城の築造、城下町の形成、検地の着手等である。居城の地は先祖黒田高政、重隆の出身地である備前国邑久郡福岡に因んで福岡と命名された。現在の福岡市平和台の地である。六端城は遠賀郡若松城に三宅山太夫、同郡黒崎城に井上九郎右衛門、鞍手郡鷹取城に母里太兵衛、嘉麻郡大隈城に後藤又兵衛、上座郡小石原の城に中間六郎右衛門、同郡左右良城に栗山四郎右衛門を配した。これ等の事業はすべて数年を経て完成する。

 国内の検地は、古来、慶長六年に始まり同八年に終る、慶長七年に始まり同九年に終る、慶長七年に始まり同一三年に終る、慶長六年に始まり同一〇年に終る、慶長中に着手し萬治中に成功、御城普請中で委敷い検地はできないので当時の物成約一六万六〇〇〇石を拼免率三ツ三歩で逆算して高を出した、等々諸説あるが、帳面の上では、大部分の村の検地は慶長七年に終っている。慶長検地の結果、慶長九年の筑前一五郡の検地高五〇万二四一六石三升一合三勺、物成一六万五七九七石一斗三升(二斗九升トモ)五合八勺をもって、翌一〇年一〇月一五日、高目録を幕府に提出した。金吾中納言小早川秀秋より引継いだのは三〇万八四六一石余、田畠数二万九六九三町余。田数三万八九三七町余で約二〇万石増石している。増竿は九二四四町歩であり、約一万町歩で二〇万石を打出したことになる。それについて「農政記聞」は「或人云。髙三拾万石余を、長政公御検地被遊、御打出有之候ても、弐拾万石余の御竿増ハ有之間敷思ハれ待ル。大方御物成四ツ・五ツの村を高御増と成候て、御免三ツ余にも被成候様御仕様のよし。慶長九年御物成拾六万五千石余を、御高五拾万石余にて割て見れハ、一統拼し免三ツ三歩に當ル也。三拾万石余の御高を、御窺ヲ以、五拾万石に御改被成候事ハ、公儀え対し深き御思慮被成御座候よし。依之、餘國よりハ高大に、御物成少く候。夫故、御内證御所務少ニ付、外向ハ五拾万石の御振廻被成候得共、御内證ハ三拾万石の御執行にて御内端ニ被成候。左様不被成候てハ御財用度量調ひ難きにより、御自分米銀の度量出入等を御才判被遊、諸事御法式右の心得にて被成御坐候よし。右ニ付、後年に至ても、猶更長政公御法式ならてハ御國用足らさる事を公私共に第一に可相考事と古人御政事預り候面ゝ専に申傳へ候よし、蜜(ママ)に物語有し也」と記している。「公儀え対し深き御思慮被成御座」とはしているが、小早川秀秋は筑前一五郡、肥前基肆・養父二郡、筑後御井・御原二郡の合計一九郡にて五〇万石余といい、小早川氏と同格を欲したものであろうか。

 慶長十年の検地御帳奥〆高五〇万二四一六石三升一合三勺を再吟味した処、差引に相違があり、五〇万二四〇六石九斗九升一合五勺五才となった。九石三升九合七勺五才の不足である。この内、遠賀(御牧)郡にての不足高八石九斗一升二合四勺は、正保四年(一六四七)の正保郷帳にて楠橋村に加えられ、残りの一斗二升七合三勺五才は鬼津村に加えられて補正された。鬼津村の増分は、那珂・志摩・粕屋・宗像・上座・穂波の六郡の過高三升八合七勺一才と、早良・御笠(三笠)・鞍手・夜須・嘉麻・下座・怡土の七郡の不足髙一斗六升六合六才の差という。鬼津村増高は寛文四年(一六六四)の石高帳では鬼津村より消えている。

 正保の筑前国一五郡の高は、慶長九年の検地高、及び、元和二年の判物高と同様で、次の通りである。

都合高五拾弐万弐千五百拾弐石六斗壱合三勺

五拾万弐千四百拾六石三升壱合三勺 松平筑前守
内 五万石 黒田甲斐守
内 四万石 黒田万吉
弐万九拾六石五斗七升 寺沢兵庫頭
右ノ外
高九万五千四百拾五石六斗七升四合六勺 村々新田
此内 六百拾三石三斗壱升九合 寺沢兵庫頭
残り 九万四千八百弐拾弐石三斗五升五合六勺 松平筑前守領

 秋月五万石、東蓮寺四万石の分知は元和九年(一六二三)である。東蓮寺四万石には遠賀郡より一〇か村が所属するが、すべて河東の村であり、遠賀町域は含まれてはいない。寛永十年(一六三四)八月、及び、寛文四年(一六六四)の御判物高は四三万三一〇〇石である。秋月・東蓮寺の九万石を加えると五二万三一〇〇石となる。二万六八三石九斗六升八合七勺を、委細は省略するが、新田の内より本高に加えている。この追加高に、一〇〇石未満で御判物には記載されない「除り高」二五石九斗二升三夕を加えると怡土郡の内の寺沢志摩守領の高二万七〇九石八斗八升九合に一致する。即ち、黒田領・寺沢領の合計は五二万三一二五石九斗二升三勺である。寺沢領分は前出古高二万九六石五斗七升、新田高六一三石三斗一升九合の合計高である。これにより、名目的には筑前国一国全域の高を領有したことになる。福岡藩の幕府の判物面での高は、貞享元年(一六八四)に直方領が還付された高四七万三一〇〇石となり、以後安政元年(一八五四)まで同一である。秋月五万石を加えて、五二万三一〇〇石、黒田五二万石と通称されるゆえんである。

第二節 遠賀町域村々の成立

 黒田氏が入部した一六〇〇年頃の遠賀地方は、第5-1表でも知れるように、鬼津・別府・島津・広渡・底井野の各村が成立しているのみであるが、既に鬼津村の枝郷として若松、別府村の枝郷に戸切、島津村に猪熊が現れており、底井野村も上村・中村・下底井野に分かれ始めている。第5-1表は金吾中納言小早川秀秋時代の村々である。小早川秀秋が筑前を領有したのは、文禄四年(一五九五)~慶長三年(一五九八)、慶長四年~同五年八月の間である。小早川秀秋より黒田長政に引継がれて筑前知行高、都合田畠二万九六九二町二段八畝二五歩、同分米大豆三〇万八四六一石六斗四升八合二勺は、小早川隆景が筑前領有時の高として元和二年(一六一六)に公義に提出した高、及び、文禄四年(一五九五)の太閤検地の高とも同一として取り扱われている。太閤検地と「金吾中納言の時之分」とされる「筑前国田畠之高村々指出前之帳(41)」とは同一ではない。「農政座右二」の「立斉旧聞記曰、慶長元年、筑前ヲ始、九州悉検地ヲ仰付ラレ」(古事類苑政治部四)が事実とすると、前記の「指出前之帳」は慶長初期のものである可能性が最も強い。とすると、若松・猪熊・戸切等が枝村として成立するのは一六世紀末期頃ということになる。それも突然に現れたものではない。例えば、猪熊の場合、天文十年(一五四一)の春日宮の「祭礼帳法度之次第」に「有毛郷 井隈」の記載があり、山鹿庄有毛郷に属する名として井隈名が存在したことを示している。

遠賀町域の田畠髙遠賀町域の田畠髙続き

 慶長検地に問題はあるが、その結果を十年に絵図と共に公義に提出した段階では、底井野村は既に上・中・下に分かれている。内証高を記している「慶長中調 筑前國各村別石高帳(39)」では、底井野村は三村に分けられているが、「底井野村」「同村」「同村」と記されており、上・中・下の区別は附されていない。御牧郡の中では、上々津役も「上津役村」「同村」であり、上々津役、下上津役の区別は記されていない。同じ上津役村(上々津役)の枝郷より独立した小嶺村の場合は既に「小嶺村」と記されており、「石高帳」成立の時期の問題もあるが、枝郷の一村扱いの過程を推測させるものがある。頓野村にも「同川北村」「同中返村」の記入が、香月村には「同村」の扱いがある。当時の御牧郡には、後に鞍手郡に属する頓野村・金剛村・篠田村が含まれており、楠橋村は鞍手郡に属している。金剛・篠田は旧香月庄の名残りであろう。遠賀地区でも、戸切・猪熊の所属には旧遠賀庄の影響も考えられるが、猪熊は中世には山鹿庄有毛郷に属しており、島津村枝郷としては、旧御牧川(古川)時代の村の成立、三頭の開作、街道等が関連を有するかもしれない。若松村は田方はなく、畠方のみながら、本村に立てられている。「元禄郷村帳」によると、正保四年(一六四七)の郷村帳・絵図までは遠賀の若松で挙げられていたが、修多羅若松の間違いとなり、寛文四年(一六六四)、及び、貞享元年(一六八四)の高辻帳よりは修多羅若松を本村に立て、「元禄郷村帳」よりは、正式に修多羅の若松を本村、遠賀の若松を鬼津村の枝郷と決定した。第5-2表の高の相違はその措置によるものであろう。木守・今古賀・小鳥掛・尾崎の各村は現れていない。「元禄郷村帳」では立屋敷・今古賀両村は元和八年(一六二二)に、木守・尾崎・若松各村は「慶長七年に高共分り申候」と記されており、「筑前國続風土記」では、木守村は黒田長政が家臣竹森岩見に命じて大曲という沼を開かせたといい、今古賀も広渡村の内の沼を開拓したという。「元禄郷村帳」では小鳥掛村は古来より高分り申候」とされており、「松本雑録」には「寛永十五年迄ハ下見孫左衛門殿御知行也」、「寛文十三年丑ノ(延宝元年ナリ)新高免トアリ」と見える。下見孫左衛門は御牧郡の郡代という。尾崎村は「正保年間筑前国図」では「鬼津村内 尾崎村」として現れるが、高は記入されていない。「慶長七年に高共分り候」の内容は検討を要するが、遠賀地区の枝郷の成立時期を推察させるものがある。これ等の村々が「高分り枝郷」として郷村帳に登場するのは元禄末期よりである。広渡村枝郷立屋敷村の分離には寛永初年の垣生村より古賀村までの御牧川(遠賀川)の堀通しが関係しており、これにより、立屋敷村は河東に、広渡村は河西に属することになる。遠賀地方の本村・枝郷共に確定した元禄期の各村の状態を、「田圃志」は、第5-2表の田畠高・数の他に、第5-3表のように示している。「田圃志」は「筑前国続風土記(巻ノ卅一巻ノ卅二)」と記されており、「元禄五申歳御改被仰付之」ともあり、元禄五年(一六九二)に近い頃の状況を示している。元禄末期にできた「筑陽記」と対比すると、虫生津の神社は高田神社(高多神社)・寺は長楽寺、下底井野村の社は浅木神社(八剣大明神)、寺は西光寺、木守の社は井手神社・寺は法雲寺、別府は今泉神社と山崎神社である。今泉神社は本村の産神、後者は尾倉・高家・花園の産神である。「筑陽記」には行満寺を挙げているが「田圃志」には寺は記されていない。同寺は明応年中の開基と伝え、木仏夢告の伝説も元禄十四年のことというので当時既に存在したであろう。今古賀は「筑陽記」には八剣大明神社と貴布禰を挙げている。前者は貞享四年(一六八七)に立屋敷村より勧請という。後者は「筑前国続風土記 附録」・「同 拾遺」共に境内社としており、産神ではない。広渡も社寺は記入されていない。広渡・松本・老良・今古賀等の産神は立屋敷村八剣神社であったので、分離後も勧請していない。広渡村八剣神社は宝永四年(一七〇七)の勧請という。「筑陽記」には長岸寺・妙雲寺が挙げられている。島津村の社は伊豆神社、若松村の社は住吉神社、寺は栄宗寺である。「筑陽記」には尾崎村の神社は高山権現社・白山神社・貴布禰社・宝満宮が挙げられている。「筑前国続風土記 拾遺」は熊野権現を産神としている。「社一」がどれを指すか明かにし得ない。小烏掛村は「筑陽記」では貴布禰社を掲げているが、前期「拾遺」は地主大明神を産神としている。鬼津村については常楽寺も数えられていない。仮に産神のみを掲げているとしても、寺についての基準が判明しない。宗旨改が関係しているのであろうか。神社については、当時の神社の状態や、立屋敷村八剣神社や高倉神社が関連しているかもしれない。前掲「附録」には鬼津村の記載はなく、同「拾遺」には鬼津の四姓に関運の厳島神社四社は収載されているのみで、「高倉神社の敷地也」の文言がある。

近世元禄期の戸口

第三節 遠賀地区の石高

 慶長五年(一六〇〇)、関ケ原の役の功により、豊前中津より筑前国に封ぜられた黒田長政は、同年十二月八日、小早川秀秋より名島城を受け取り、十一日に入城した。秀秋より引き継いだ高は三〇万八四六一石六斗四升八合二勺、四二〇〇石の寺社領を含んでいる。翌年より着手したという検地をもとに、慶長十年に公義に提出した石高は五〇万二四一六石三升一合三勺である。表高で一九万三九五四石三斗八升三合一勺、比率で、一・六ニ八八倍、約六三パーセントの増石、内証高では二五万七九六〇石四斗三升二合九勺、比率で、一・八三六三倍、約八四パーセントの増石である。遠賀地区の石高増加の状況は第5-1表・第5-2表よりも明らかであるが、比率で示すと第5-4表の通りである。虫生津村は金吾中納言時代には現れていないので比較はない。

近世初期の石高

田畠数では御牧郡が約五一パーセントの打出であるのに対し、高では広渡・島津・底井野の増加が大きい。鬼津村の内証高の増加も大きいが、若松村の畠高五〇石余は問題がある。寛文四年の高附帳より修多羅若松に訂正され、鬼津若松は枝郷となったが、貞享高附帳では八一〇石余が挙げられている。同村田畠軸帳(4)では、

田数四十八町七反三畝
一田高六百九十七石六斗三升二合
畠数十三町四反五畝十三歩
一畠高百二十石五斗八升一合

 となっており、田畠合では六二町一反八畝一三歩、八一八石二斗一升三合となる。仮に、この高を若松の高とすると、表高で三・六三七八倍、内証高で三・九五二二倍となる。金吾中納言小早川秀秋時の「筑前田畠之高村々指出前之帳」の成立時が、慶長初年とすると、慶長六・七年の検地で、第5-2表の範囲の遠賀地方のみで六七二六石九斗五升五合六勺を打出すには些か無理がある。慶長検地により、三〇万石余を五〇万石余に打出したことについては古来種々の説が述べられている。小早川秀秋の三〇万八四六一石余を田畠数二万九六九三町余に割り当てると、一〇〇石につき九町六反二畝余、慶長九年の検地高、五〇万二四一六石余を、同田畠数三万八九三七町余に割り当てると、一〇〇石につき七町七反五畝余となる。反当収量が急増した訳でもない、増加分のみについてみれば、一〇〇石につき四町七反六畝余にしか当たらない。「農政記聞」はこれを「凡、壱万町に足らぬ増畝に弐拾万石程の増高ハ余分の御事也」と記している。この打出しについて、古来種々述べられている説の若干を示すと次の如きがある。

(1)当時の物成一六万五七九七石二斗九升を「三ツ三歩」の免率で割り、五〇万二四一六石三升一合三勺を算出し、それを検地高とした。検地が略終了した時、その石高が高目録の数に及ばなかったので、「小付」をつけて補った(筑前旧租要略)。
(2)物成四ツ・五ツの村の高を増し、御免三ツ余になる様にした。慶長九年の物成一六万五千石余を五〇万石余で割ると拼し免三ツ三歩となる(農政記聞・古事秘録)。
(3)検地の結果四九万五〇〇〇石であったので、反別に石高の上に小付をつけて五〇万石とした(農政記聞他)。
(4)田畠の竿は六尺三寸であるが、筑前の検地の竿は六尺であった(松本雑録・古事秘録)。
(5)小早川氏の一反はなお三六〇歩であったのを、一反三〇〇歩とした(松本雑録)。
(6)小早川秀秋時代よりの逸作に高を盛り増石した(同前)。
(7)慶長以前の田畠の高を計った枡は小さく、慶長以後の枡は約二倍の大きさであった(松本雑録)。

 (1)は、165797.29×100/33=502416.03で一合三勺を除いては全く一致する。これには寺社領分四二〇〇石が含まれている。その物成一三八六石は、4200×0.33=1386であり、三ツ三歩そのものである。慶長九年の物成一六万四四一一石二斗九升(寺社領分一三八六石除く)について「筑前旧租要略(41)」は、「藩郡ノ物成ハ(検地前ノ物成ハ(検地前ノ物成)其幾許ナルヲ知ル能ハス。仮ニ高三拾萬八千四百六拾壱石六斗四升八合弐勺ニ撫(拼)免三ツ三歩ヲ乗スレハ、物成拾万千七百九拾弐石三斗四升四合トナル。亦以テ其大差ナキヲ知ルベシ。慶長九年ニ至リテ、物成拾六万四千四百拾壱石弐斗九升ヲ得タルハ、同十年十月十五日幕府ニ提出シタル高目録ニ明ナリ。是レ検地ヲ経テ、隠田、隠歩ヲ発見シタルモノ多ク、随テ石高ノ増加シタルニ由ル」と推察している。物成高の増加率と田畠数の増加率を比較すると前者が一・六一五二倍であるのに対し、後者は第5-4表の如く、一・三一一四倍であり、増加が新田による可能性もあるが、「慶長十年十月ニ出申候御判物前高五十万弐千四百拾六石ニて御座候、新田ハ加り不申候」(古事秘録)ともあり、他の理由を考えた方がよい。小付については後に触れる。

 (2)は(1)の逆算であるが、増高の要因を免率の引き下げに求めている。三〇万石余の高より、一六万石余の物成を導くには、五ツ三歩三厘の免率であればよい。物成四ツ・五ツの村を拼免まで下げ、それに新田を加味すれば可能なことではある。遠賀地区の場合、物成ではなく、田畠高ではあるが比例すると考えると、田畠数の増加を考慮しないと、第5-5表の通りとなり、最低で五ツ六歩六厘余となり、かつ、広渡村の場合は、(B)の免率を上げない限りあり得ない。そこには、当然、田畠数の増加が考癒されねばならない。

増石と免率

 (3)藩政時代の福岡藩では村を夫々の地理的条件により、上々・上・中・下・下々の五段階に等級づけした。村位という。田畠も同様に、上・中・下・下々の四段階に等級づけした。田位・畠位という。村位の五等と地位の四等を組み合わせた二〇等級の段階に合わせて、古田・古畠の反別は決められる。上の村の上田は、一反につき高一石九斗一升一合、下々田は高一石一升のようにである。田方の場合を表示すると第5-6表の通りである。即ち、村より村に一斗一合、田より田に三斗三合下りである。「田法雑話」によると、村位は、その村の陰陽、木立・草立の模様、土石の色の深浅・軽重、山村の遠近・多少、日向の良否、牛馬飼草、都市の運送の便、等を考慮して決定する。田位も村位と同様に、土地の陰陽・軽重、その他に基いて決める。上の土地の例として、乾いた土、耕した土が水に流れない土、又は崩れない土、下の土地の例としてはその逆が挙げられている。砂真土・白真土・赤真土・鼡真土・川こみのあす土・しやから真土・小砂交真土などが上の土であり、砂かちの真土・白小石交り土・重き黒野土・ねはり赤土・こわき黒土・軽き野土などが下の土という。

田方反当髙

 畠方の場合は郡や村によって基準が異なり各村一律ではない。遠賀町域の例として、若松村の古畠の場合を小野勝家文書に拾い、一反当りに換算すると、畠位ごとの高は第5-7表の通りである。「畠の位は郡により、村によって替り有り」、「畠の反別の高は郡村によって替り有、一様ならず」(田法雑話)とされているが、第5-7表よりは、田位のような一定の法則は見出せない。勺を四捨五入して、畠位間の差を表示すると第5-8表となる。表の範囲では中―下と下―下々の二斗六升が共通である以外には同一の差はない。「田法雑話」は「或は上畠より中畠の間弐斗弐合下りとし、或は上畠より中畠の間三斗三合下りとし、或は中畠より下畠の間三斗三合下りとし、或は中畠より下畠の間弐斗弐合下りとし」云々と記しているいずれとも適合しない。若松村は村位「中」の村であるが、下々の高は「上」の村のそれに匹敵する。

若松村古畠反当髙5-8表

 小付というのは、第5-6表では上々の村の上田は二石二升であるが、本来は二石にしていた所、検地の結果、石高が不足したため、一分(一パーセント)を加えたという。同様に、一石七斗は一升七合を、一石四斗は一升四合を、一石一斗は一升一合を加える。これにより、幕府に提出した高目録の五〇万二四一六石三升一合三勺に達し、なお過剰をも生じた。この過剰石高を古高引残高と称して新田高に加えた。新田高は正保四年(一六四七)の石高帳では九万四八二二石三斗五升五合六勺に及んでいる。新田高は寛文四年・貞享元年・宝永八年の三度に書上げられて処理される。新田については後に触れるが、これも村高の内より判物高を差し引いた古高引残高である。古高引残高を加えた高は内証高として処理されている。九万石余の残りがあるにも拘らず、それを検地増の高に加えず、却って五〇〇〇石不足として小付をつけて補填した経緯について、「農政記聞」は「長政公御代高附帳被差上たる時分ハ御城普請最中にて、田畠御検地なり。夫に村別・畝別之御僉儀委敷ハならるへき事にあらす。其御時代の御物成、凡拾六万六千石計り成るを、三ツ三歩を以割出して御高を補せられたる成るへし。其後に至、段ゝ御水帳等も改り、村ゝにて出高も有之ニ付、忠之公御時代に成、寺沢領高を被補候程之高出たる成るへし。猶又、寛文の頃に至りて村高委細に御改有之、追ゝ出高も有之、凡九万石程にも成たる歟、御水帳ニも漸ゝに書加へられたると見へて、慶長御検地已後、慶安・承応・明暦等之新田抔も見へたり」と記している。正に(1)と同意見である。遠賀地区の高は第5-2表の通りである。既に、松下志朗氏が「太閤検地と福岡藩初期の石高」で「各村における石高の増加については何らかの一定の基準があったのではないかと推測される」と指摘しているように、遠賀地区に於いては、第5-4表のC/Bに示す通り、全て、一・一二倍、若松・別府両村を除くと、他は全て一・一二一四~五倍を示している。御牧郡の平均一・一三六六や、国中の平均一・一二七四よりは全て低いが、国中の平均には極めて近い。

 (4)については、藩士頭山傳所持の田畠についての明石時風の覚書に記されているという。「福岡県史」は、太閤検地の方六尺三寸=一歩、三百歩=一反、方四寸九歩・深二寸七分の京桝に代えて、方六尺五寸=一歩、三百歩=一反、枡は方五寸一歩五厘・深二寸五歩の上納桝(納桝)にしたとする。「歩竿は長弐間にすへし。弐間にては壱丈三尺なり、壱間は六尺五寸とす」ともある。六尺三寸一歩と六尺一歩の比は一・一〇二五、第5-4表の田畠数のB/Aの御牧郡・筑前国のいずれにも及ばない。(5)については、前述の如く三〇〇歩一反でなされている。(7)は天正の分米=土貢米、慶長の分米=荒高であることに由来したものであろうか。

 (6)につき、「松本雑録」に松本久蔭は一作と新田について意見を述べ、増高のことに触れている。その関係箇所は次の通りである。

筑前二テハ反別取立ハミナ一作田畠ノミ也。ソハ高盛ナケレハ石別ト云へキ由ナケレハ也。サテ一作ト云ハ一毛作(一ト毛トハ未石定地ニテ稲ノミ作リテ麦田ニナラサルヲ云ヘリ。但、田ハシカモ云へケレトモ、一作畠ト云ハ麦ノミ作リテ田ニナラサルヲ云由トハ云カタカルヘシ。尤、畠トイヘトモ稲ハ作ルへカラサルモノ也。畠ニ稲ヲモ作ラルルハ稲作畠ト云テ異也)ト云事也ト云ハ郡方ノ口傳、又、記録ニモシカミヘタレトモ、或人説ニ、一作トハ逸作ト云事也。一トカクハ逸ノ借字也。ソハ逸作ト云ハ、未公義ニ貫カス、ソノ村ニテ私ニ開立タルヲ村一作ト云、其領主・代官マテ貫キタリトイヘトモ、御朱印地ノ外ナレハ其領主ノ開作ニテ一作也。一作ハ逸ニテ公ニモレ遺サレタル田畠ト云事也トイヘルソ實ナルヘシ。但シ、御国トイヘトモ、イハユル新地開作ノ田畠ニ分米高ヲ盛テ公義ニ被仰上、御朱印高ニ加リタルヲ新田ト云。サレハ新田ト云イ逸作トハ異也。新田ハ既ニ高ヲ盛リテ御朱印高ニ加リタレハナリ。然ニ、新田ト逸作トハ一ツモノ也ト思ヘル人ノアルハアヤマリナルヘシ。又、新田ト云名ハ名嶋中納言殿ヨリ引付ケ田畠ノ外ニ、検地アリテ高ヲ盛玉ヒシヲ云。名嶋中納言殿ヨリ引付ケ田畠ヲ古田トハ云ヘリ。サレハ、慶長以来ノ村ゝ検地ノ水帳ニ古田ト新田トノ差別ヲ記サレタリ。但シ、イハユル新田ハ慶長以後ノ開作ニ高ヲ盛レタルモアレトモ、ナホ名嶋中納言殿代ヨリノ逸作ニ高ヲ盛レタルモアルナリ。
慶長・寛永ノコロノ水帳ニ新田トミヘタルモミナ公義表ニテハ五十万石ノ御朱印高ノ内ナレハ、今ニシテハミナ古田也。其後ニ追ゝノ新地開作ニ高ヲ盛リテ公義ニ被仰上タルヲ全ノ新田ト云。元禄ノ始メ直方長清公ニ新田五万石御分知トアル新田是也。サレハ其新田ハ御國内郡ゝ村ゝノ内ニアリテ何郡何村ゝゝソ全クノ新田ニテ、直方領トハ被仰上カタカリシト也。但、内ゝハ直方領ニハ村ゝヲ分ケテ分知アリシトイヘトモソノ村ゝニハ必シモ新田ノミニハアラス。古田モ多ク加リシナリ。サテ、新地開作ヲ一作ト云名ハ諸国一統ノ唱ナルニヤ。ソハ未タシラス。但、コハ當国ノミノ方言ニテ、天下諸国一統ノ名目ニハアラサルヘシ。御国ニテハ御入国コノカタノ唱ヘニハアラテ、既名嶋中納言殿代ヨリノ逸作ノ名アリ。田畠アリシトイヘリ。長政公御入国ノ後、検地新竿入リテ田畠高ノ多ク増レハ、御入国コノカタ、サホトマテ新地開作イテキシニハアラス。元ヨリノ逸作ニ高ヲ盛リ玉ヒテ御田高ハ増タリトモキコヘタリ。

 虫生津村は藩政期に村として現れて来る。虫生津を含む旧底井野村地区は芦沼であったといい、その開墾には底井野婆の伝説を残している。婆は沼地に数丈の高棚を作り、天に昇ると触れて人を集め、踏み耕やしたという。「元禄郷村帳」によると、小鳥掛村は古来より高分り、木守・尾崎両村は慶長七年高分り、今古賀村は元和八年(一六二二)に高分りという。慶長九年の検地高が、前述(1)・(3)・(6)の通り物成高より逆算した算盤上の高とすると、前記の村々も同様と考えられる。内証高も、前述の通り、表高に一・一二一四余を乗じたものであってみれば、同様に算面の高といえる。とすると、前記村々の高は右に引用した「新田」と推測される。

第四節 村々の田と畠

一 灌漑用水

 藩政期の村のある時点の状況を村ごとに報告したものに村明細帳がある。遠賀町域の文政期の明細帳の内の主要項目を表示したのが第5-9表である。貢納の基本的資料の一つである「軸帳」は省略している。

 「田」の項では小鳥掛村には壱作田畠がない、鬼津・若松両村の壱作は、ともに「土手外壱作」である。遠賀町域は遠賀川が東を流れ、西川・山田川等が地区を貫流しているため、灌漑用水は板井手掛が主体であり、堤が極く少ない。第5-9表では判明しないが、「福岡県地理全誌」が示す明治初期の池塘の数は第5-10表の通りであり、尾崎・虫生津・別府を除くと極めて少ない。三三の内には桶池・天然池も含まれている。尾崎や別府の八か所にしても決して多い数ではない。河川に依存している地区である。そのため、霖雨・洪水の節には浸水による被害が少くないが、旱魃に際しては、池掛や天水掛の村々に比して被害が少ない。例えば、嘉永六年の大旱魃に際しても他地区に比して被害は少ない。

 嘉永六年は「当夏之様成大旱魃ハ是迄不承珍ら敷旱り也」(「年暦算」)と記されている旱魃であった。同年は春の間は雨天が多く、川筋触である下底井野触では四月十日(陽暦五月十七日)より十二日にかけて神社で日乞祈禱を行っている。四月後半より五月上旬にかけては全く降雨がなく、五月十三日には楠橋村寿命では井手堰が行われている。十四日より雨となり十九日の朝まで降り続く。この雨で島津村抱本川尻が決潰、中間村道元では底井樋が破損して水害を起している。遠賀地区では五月十五日に田植が始まり、五月二十六日(陽暦七月二日)頃に「さなぼり」を行っている。その直前の二十四日に大夕立があり、それより七〇日間の日照りが続く。六月中旬より旱魃の様相が現れ、二十一日には堀川への総水取口である寿命の川口に大井手が築かれる。これにより、二村井手より取水している遠賀地区一〇か村では二村井手に水が来なくなり、取水に支障を来たすため、七月六日に吉田村車返、堀川請持藤市宅にて会合する。郡役所より出役原田・藤野の両名、下底井野触、及び、別府触より大庄屋・普請方が夫々出席、二村井手水下より惣代として、鬼津村庄屋傳七・若松村庄屋徳右衛門・広渡村庄屋惣蔵・別府村庄屋正蔵・尾崎小鳥掛両村庄屋源平・今古賀村庄屋兵六の六名が出席し、寿命六歩、二村四歩の取水を決定する。二村井手より取水の遠賀川川西一〇か村と当時の庄屋は、前記七村、六名以外は、木守村庄屋又次郎・下底井野村庄屋仁右衛門・嶋津村庄屋徳七である。七月中旬になると更に養水払底し、遠賀川上流の木屋瀬村永源寺下、及び、六本松に仮井手築立をめぐって、上流鞍手郡勢と下流遠賀郡勢(堀川水下一六村・二村井手水下一〇村)との間に壮烈な水争いが始まる。六月二十三日には遠賀勢は鞍手郡龍徳村の井手切りにも三〇〇人が出夫している。六月下旬よりは各地で雨乞い祈禱や千把萱による火焚祈禱も始まっている。七月六日(陽暦八月十日)よりは芦屋寺中申し合わせの上、政所兼吉以下来蔵組一二人が各社に式三番を奉納して雨乞に参加する。遠賀郡内では、中間惣社宮・立屋敷保食宮・古賀豊前坊・高倉宮・下底井野浅木宮・高家天満宮・底井野猫城八幡宮(月瀬神社)・芦尾神武社・同祇園社(岡湊神社)・若松住吉宮で奉納している。七月十三日の盂蘭盆会には遠賀・鞍手両郡境の山々でも千把萱火立が行われ、永谷山でその火が地中の石炭の露頭に燃え移り、古門荒五郎山・虫生津・戸切・屋倉山・別府山と延焼し、古門・虫生津・別府の各村抱の山々は一里半四方が山火事となり、十五日迄三日間昼夜に亘り燃え続けている(7・18)。この大旱魃により、現在の岡垣町地区は稲が枯れ、大被害を蒙るが、川筋村々は相応の収穫を得ている。それについて「年暦算」は「同月(五月)廿三日より天気能相成、夫より照続キ、八月朔日迄凡七拾日之旱魃也。二日より雨少ゝ降出シ、三日ニ懸潤ふ程雨降ル。此辺は旱申大川水ニて養水ニハ仮成取続干シ付ニならす。西郷ハ大干シ付ニて、高倉・野間・松原・吉木・三吉・手野・内浦・原・波津、右村ゝ不残大痛ニて稲枯る。秋免御願申上ケ、御米下ル。嶌郷も同く大旱損なれ共御免上御願不申上。右ニ付、村ゝ百姓大難渋、救米等出ル。川筋村ゝハ秋作相応ニ有之」と記している。

遠賀の村明細帳

二 水下田数と歩割

 遠賀町域は位置的条件より田畠の灌漑用水の大部分を河川に依存しており、山麓の村々に比して溜池が少ない。「福岡県地理全誌」が示す明治初期、及び、「遠賀郡誌」が示めす明治末期の池の数は、天然池を含めても、第5-10表の通りである。明治末期に池塘が示されていない村々にも「池沼溜池」の地積が記されているので、存在は否定し得ない。それでも他村に比して少ないことには変りはない。藩政時代より養水の多くを川水に依存している。その取水口は、時代により異同はあるが、水下の反別、及び、補修工事や河川の浚泄に際しての村々の定格の出夫割合は第5-11表の通りである。

5-10表定格出夫割合

 遠賀町域の村の内、虫生津・鬼津・若松・小鳥掛の各村の現田数は第5-9表の通りであり、「祇園崎水刎土手水下田数」は各村の現田数を挙げていると推察される。現田数は年代により必ずしも同一ではない。第5-9表の若松村は文政四年(一八二一)の数であるが、寛政四年(一七九二)では四一町五反五歩である。第5-11表の祇園崎水刎土手水下田数は天保期であろうか。各村の灌漑用水の取水状況は第5-12表の通りである。鬼津・若松・小鳥掛の三村は大部分を川水に依存している。第5-11表よりも知れる如く、若松村鶴ノ前板井手は若松・尾崎・小烏掛・鬼津・別府の五か村催合、鬼津村抱西川板井手は鬼津・若松・小鳥掛・尾崎・別府・今古賀・広渡七か村催合、木守村抱千間川板井手も西川同様七か村催合であり、二村井手は一〇か村催合である。これらの村々は、各村の水下田数と現田数を比較すると明かな如く、二重・三重に取水がはかられている。村内の配水は通常各村の「水当」が行うが、千間川板井手は水下村々の分担により、第5-11表に示す如く、二俵二斗九升七合(九斗五升七合)の番人給が支給されている。

養水掛別田数

三 畠の作物

 藩政時代の遠賀地方には「虫生津根芹、高屋牛房、鬼津大根、小牧鯲」という言伝えがある(38)。「筑前国続風土記」は「遠賀郡高井(家)村に産するを好品とす。同郡底井野の近邑なる故、底井野牛房と称す。国君より毎年江戸に献せらる」と記している。元禄時代頃のことである。「松本雑録」は「或旧記云」として「遠賀郡中引高之覚」を収めている。その中に次の項がある。

一高弐千三百五拾八石三斗四升七合六勺
 右ハ御勘定引尾崎村牟田分共ニ高引
一同四百三十七石六斗二升九合
 右ハ紺鳥送リ御用之鯉網引、鬼津村大根・高家村牛房仕高引

 正徳頃の覚とされているが、事実とすると高家牛房の他に鬼津大根も御用の品であったことになる。「筑前国続風土記附録」は「午蒡 本編に遠賀郡高家(別府村の枝郷)及底井野村の産殊によく、国君より江戸にも献せらるゝよし記せり。然れとも今は怡土郡井原・三雲・瑞梅寺此三村の産に劣れり。故に江戸にも毎年井原・瑞梅寺の午蒡を献し給ふ。名産也」と記している。同書が編纂されていた天明・寛政期には既に名産ではなくなっている。第5-9表の万作では鬼津村でも大根は「壱歩程」(一〇%)であり、量的には他の二村と同比率である。虫生津村は他の二村に比して藁麦・稗の比率が大きく、唐芋がない代りに、小豆と木綿が含まれている。意図的に書上げられたものでなければ、土質が影響しているのであろうか。

四 土質と作物

 遠賀町域の大部分は先史時代以来の遠賀潟の地にできた沖積平野であり、度々の洪水により農地の状態は一定ではないかもしれないが、第5-9表は該地区の農地の土質の概要を示していると考えられる。記載されている土壌が、具体的にどのような土壌であるかは明示することはできないが、村位や田位決定の一要素をなしていたものといえる。土地の上下について「田法雑話」は「田位之事」の条で、「砂真土、白真土、赤真土、鼡真土、川こみのあす土、しやから真土、小砂交真土、右は大様上之地なるべし。砂からの真土、白小石交土、重き黒野土、ねむり赤土、こわき黒土、軽き野土、右は大様下なるへし」と記している。「農業全書」も、現在的にはその当否はさて置き、「土地を見る法」で土質と作物について触れている。「土ハ黄色、又ハ黒土にても、重くして、さハやかなるハ、上ゝの土なり。凡土の上なるハ、必青黒の小石雑る物なり」として、「汚泉ハ稲に宜し」、「黒墳ハ麦に宜し」、「赤土ハ豆に宜し」、「粟・黍ハ黄白土の肥良に宜し」、「大根ハ細輭なる沙土に宜し。芋ハ水に近き肥柔かなる日かげを好むものなり」とある。稲の品種と土地の間にも関連が推測される。虫生津の隣村、鞍手郡木月村の寛政六年(一八九四)の書上(中野文書)では第5-13表の通りである。翌年の書上では「みやけ 中田・中稲・上ケ田二宜 当村之上ケ田ニ相應仕候」、「黒〆 右同断、山田ニ而も・上ケ田ニ而も 当村ニ宜敷御座候。〆右弐品ハ当村分立上ケ田通りニ相應仕、別而みやけ之方宜御座候」とあり、「みやけ」と「黒〆」は木月村に適する由を記している。「大門 中田・中稲・山田・平田・上ケ田」、「伊勢物 上ケ田・早中田」、「しふかわ 上ケ田・早中田」は「右三品ハ當村之地ニ余り相應と相見へ不申候事」と記している。「みやけ」は六年には「右之稲中田ニ植付候處、當村之土地ニ格別相應仕為申候。餘り大出来とモ相見へ不申候」とあり、位置的条件、乃至、地質によって差異のあることを示しており、試行錯誤を繰り返えして適する品種を模索していることを推察させる。「黒〆」の場合も水田(みずた)のみならず、他の地区にも適することを実験している。

 第5-9表の地質を万作の作物や米作が該当区と必然的に適応しているか否かは不明ながら、それ等の作物を主体として、その他の必要な作物を栽培していたものと推察でき、殊に、畠の年貢の対象である大豆の比率が高いのは当然としてその他の作物も該地区に於いては主要作物であったといえる。

籾種と作付地

五 作掛り人数

 第5-9表の地区の元禄期・文政期・明治初期(五年)の人口を比較すると第5-14表となる(1)。小鳥掛村は慶応二年一〇月に鬼津村に結い込まれ、村としては消滅したので、明治初期では鬼津村に含まれている。

 虫生津村以外では元禄期より文政期まで約一三〇年間にかなりの増加をみせており、殊に鬼津村に著しい。鬼津村の壱作は田一町五反七畝二五歩であり、二七〇パーセントの戸数増の根拠には程遠い。他村えの掛作も多いが、他村よりの入作も多い。農業以外の職業の者も六名と多くはない。第5-9表には省かれているが、作掛りの人数は、鬼津=一〇〇人、若松=四八人、小鳥掛=三七人、虫生津=八二人である。文政期の一人充りの平均耕作反別は、掛作・入作を無視すると、田畠・壱作とも含めても、第5-14表の通り、最高で若松村の一町一反余に過ぎず、農業のみを対象とした場合、急速な人口の増加は期待できない。第5-9表に商人六人がある、農業用必要品等の店か、志荷振売商人であろうが内容は判明しない。

5-14表

六 薪

 遠賀町の村の内、遠賀川沿の村々は山林が極めて少ない、第5-9表の内では若松村は特に少ない。山坪数四〇〇坪の内、二五〇坪は宮山、一五〇坪は寺山であり、一般の山林は全くない。鬼津村の山林はほとんどすべてが証文山と百姓預り山で松山である。小鳥掛村は三分の一が古野山。虫生津村は七万二一六〇坪が御山、一万二七五〇坪が証文山で、共に松立、及び、草山である。証文山は官山に竹木仕立を願い出、一〇年間で立茂げらせる条件で証文を与え、永久に預けるもので、御山に杉・檜を仕立てて証文山とすることもある。杉・檜仕立は苗木は藩より与えられ、成長の木は、年貢作徳と同様、三分の一が仕立主へ渡される。御山の苗木は藩にて準備し、夫役で植林を行う。古野の場合も受持を定めて竹木・雑木等を育成している。

 建築や土木工事に竹木は不可欠であり、その育成と確保は必須の要件であるが、それとともに、燃料としての薪の確保も不可欠なことである。林政はそのためにもある。虫生津村のように山林の広い所は自村抱の山林で薪を調達することができるが、山林の少い村では他村抱の山にて求めなければならない。第5-9表の鬼津村は「ばいら」(小枝等)は海老津村、及び、上畑村の山に取りに行くことを示している。海老津村まで二里、上畑村までは二里半とある。若松村は戸切村・海老津村に小木を取りに行く。焚付けである。戸切・海老津ともに山まで二里半という。牛馬の飼料である草も同様である。若松村の山に入る鑑札である山札が、夫札六枚、馬札六枚と多いのはそのためであろう。鬼津・若松両村の燃料は薪のみでは充分でないため焚石(石炭)を中間方面で買い求めて利用している。焚石は当時既に多くの地区で発掘されており、「中間辺」でも、岩瀬村・中間村・楠橋村・香月村等には焚石丁場(炭坑)が存在し、地元でも燃料として利用されている。

七 島津村の地組

 小野勝家文書No.八五「見面付口之覚」に次の記載がある。

永代買取分、嶋津長四郎分
一、地組壱歩弐厘五毛
 余米弐俵壱斗六升五合
 壱斗六升五合
 安政三辰春より上ル
 永代買取、シマス藤右衛門分
一、同壱歩弐厘五毛
 同弐俵壱斗六升五合
 壱斗六升五合
 安政三辰春より上ル
 〆三俵也
 地組永代六厘弐毛五朱 夘平分
一、同壱俵壱斗六升五合
 右ハ安政二卯十二月永代ニ入

 これは他村に於ける付口米の控ではあるが、安政二・三年(一八五五・六)当時、島津村は地組村であったことを示している。「岡郡宗社志」も、猪熊・古賀・広渡三か村で開いた三頭壱作について、「百姓をも御仕居(据)ニて三頭村と相唱候處、天和三年洪水引キ妨ケニ相成候由ニて大川筋土手外壱作地ニ居住候人家一統御引佛ニ相成候時、無縁之所ニは候得共、方角宜敷を以、右三頭村之儀、嶋津村へ御引移シ被仰付。同村ハ地割銘所ニ候得共、三頭百姓居屋敷之儀は銘除ケニて御引渡し被仰……(中略)……三頭村跡之儀、甫野毛ニ古屋敷と申伝候事」と記している。後者は或る目的を以って、文政七年に書かれた草稿であり、資料吟味を要するが、島津村が古くより地組村であったことを推察させるものがある。

 地組とは、水害などで田畠に被害の生じ易い地区で、作徳の不安定より生ずる貢納の不公平を少くするために行われた田畠の割替制度である。水害の生じやすい所に田畠を所有している人は、水害で収穫が減少する可能性が強い。それに対し、原則的には、年貢は通常通り課せられるという不公平な貢納制を生ずる。そのため、その可能性の強い地区の田畠を、田畠数(面積)ではなく高(収量)を中心にいくつかのグループに分け、原則的に定期的に、所有高に応じて、クジで所有地を割り変える制度である。この制度は諸国に類似のものがみられ、福岡藩特有のものではない。福岡藩の地組村は怡土郡井原村を除いては福岡藩東部に集中している。現在判明しているところでは、遠賀郡一〇、鞍手郡二七、嘉麻郡四、穂波郡一の四二か村、井原村を加えて藩内四三か村である。旧遠賀郡では楠橋・香月・蜑住・二島・畠田・竹並・大鳥居・中間・島津の各村が相当し、旧鞍手郡では御徳・上境・下境・南良津・上新入・下新入・鶴田・本城・稲光・平・湯原・金生・倉久・上有木・竹原・植木・感田・永満寺・中泉・野面・中山(山崎分)・新北・長谷・古門(神崎分)・下大隈・猪倉・小牧の諸村が該当する。

 島津村は、別項でも示す通り、旧前は遠賀川と西川の合流点を抱え、両河に挟まれた地区にあり、水害の可能性の強い村である。

 島津村の地組については前出以外の資料が見出されていないので、地組の採用された地域、田・畠等の種別、銘数、一銘高、割替の年数、儀定などは判明しない。前掲の「見面付口之覚」は、田方の「見面」での付口米(余米)の控であり銘高は判明しない。地組の仕方には「地組之仕方古来より之田畠上中下之位ニ不拘、只今見掛リ之上中下之畝別ニ、其土地相応之村反別ヲ相極……夫ニ村反別盛付田畠之畝数ヲ配当仕候……但、村反別ト申ハ下作ノ付口米之義ニ而御座候」(「福岡県史」二―上―四三三頁)とする場合もあり、島津村の場合は全く同種の地組とも考えられる。いつ頃より地組が島津村で採用され始めたかについては判明しないが、「岡郡宗社志」の記述が正しいとすると、天和三年(一六八三)当時、既に地組村であったことになる。小野一常の「田法雑話」は「地組の始りたるは元文二(一七三七)巳年以来也。其頃御書出も有之候事」としているが、それよりも半世紀以上早い。鞍手郡永満寺村の地組は寛文十三年(一六七三)に始まり、延宝九年(一六八一)には田畠ともに地組・正徳三年(一七一三)には「畠方地組割納メ」とある(古田家文書「歳代記録」)。両者共に正しいとすると「田法雑話」の記述は検討を要する。天和期の島津村は水損の可能性の大きい村であり、地組制度が存在すれば、当然採用される位置にある。

 「見面付口之覚」が示す島津村の地組は、前二者は安政二年(一八五五)十二月より以前に買取りの分であるが、当時既に地組であること、安政三年春に余米が二俵半より三俵に増額されたことを示している。地組は通常「銘」を立てて行われる。銘数・銘高は村によって異なる。一銘の四分の三を七合五勺、二分の一を半銘、四分の一を二合五勺と呼ぶのが通常であるが、島津村の場合、合勺才ではなく、歩厘毛が用いられている。前述の如く、下作付口米が村反別を示めすとすると、島津村の旧一銘は六石六斗、即ち、二〇俵となり、安政二年十二月以後の分では七石九斗二升、即ち、二四俵となる。しかし、これだけでは下作の小作料が増えたものか、地組の銘高に変更があったものか断じ得ない。

第五節 湯川山牛馬牧仕組

一 仕組馬吟味役

 今古賀柴田家文香に次の二通の「申渡之覚」等がある。

申渡之覚
    御仕組馬吟味役
     遠賀郡今古賀村
         彦五郎
近年牛馬一統高価ニ付、百姓中求方別而及困窮候段追ゝ相達、仍之為御救女馬百姓ヘ預ケ置、厩牧ニ而馬子仕立之御仕組相立被置候。左候得者、母馬者専耕作之助力ニ相成、格別之御救筋ニ相成候。右御仕組一件虫生津村大庄屋喜八受持居申候得共、本役御用繁之時節者宰判筋難行届儀茂有之候条、今度御詮義之上、右御仕組馬吟味役ニ被仰付候。其旨可相心得候。右ニ付、百姓御救筋之義者勿論、母馬・子馬共ニ飼方・育方之儀作法急度遂吟味、御趣意之通御仕組繁昌永續いたし候樣ニ出精可相働候。根元之儀ハ大庄屋喜八相受持居候儀ニ付、同人申合、志宜可相勤候事
一小伏村秋子勘内御仕組受持被仰付置候ニ付、猶又巨細勘内ヲも可申談候事。
一別府村半次種馬預り申付置候。種付牽合等之儀、是又無油断可申談候、母馬·子馬飼方·育方之儀半次よりも追ゝ母馬預り主え及教導候儀も有之候ヘ共、難行届儀も有之様ニ相聞え候条、重疊半次より之宰判筋ヲも不相背様ニ母馬持中えも可申聞候事。
一、今般吟味役申付候ニ付、受持之間左之通ニ被仰付候事。
一、面役引被下、庄屋格ニ被仰付、役号ヲ御仕組馬吟味役ト被仰付候事。
一、筆墨代として年ゝ通銭三抬目充御仕組方より被下候事。
右之通相心得、母馬持中睦敷申談、無違乱樣ニ遂吟味、御仕組弥増繁昌永續いたし、百姓中一統御救之御趣意行届候様抽丹誠出精志宜相勤可申候事。
  牧仕立奉行(印)
寛政十三年酉三月
  申渡之覚
    遠賀郡今古賀村
     牧吟味役
      彦五郎
     同忰
      半九郎

近年百姓為御救牛馬牧御仕立之仕組被仰付候ニ付、享和元酉春御詮儀之上、虫生津村觸御仕組馬吟味役ニ被仰付候処、専ら出精相勤、御仕組筋追ゝ御趣意之通成り立候。然処、彦五郎儀及老年痛所茂有之、何分役筋難相勤ニ付、退勤之儀相願候。遂吟味候処、願之趣相違も無之段相達候間、彼是御用聞衆え委曲申達候処、誠ニ無拠赴逐一承届有之、喜多村弥次右衛門方より御郡奉行申談ニ相成候。即御郡奉行より今般詮儀之上を以、願之通退役申付、忰半九郎儀彦五郎跡牧牛馬吟味役ニ申付有之、其身面役引被下右請持之間庄屋格ニ被仰付候段、彼是達之通ニ候。依之半九郎儀彦五郎在勤中同樣ニ御仕組方より筆墨代として、年ゝ通銭三拾目充被下之候条、勤方彦五郎是迄受持之通ニ相心得、志宜御仕組弥増繁昌永續いたし、百姓御救之御趣意一統行届候様抽丹誠可相勤候。猶巨細之義ハ虫生津村大庄屋毛利喜八郎、并牧元〆役秋子勘内教示ヲ受可相勵候事。
牧仕立奉行(印)
辰二月

 寛政十年(一七九八)に鞍手郡小伏村秋子勘内が提案した牛牧法が採用され、同年九月二十一日に、用聞天野与太夫を宰司とし、臼杵九十郎を牛牧仕立奉行とする仕組が発足した。遠賀・鞍手両郡の内に、母牛三〇〇疋と種牛七疋を預け、それを希望する農民に預けて子を生ませ、母子ともに飼育させる方法である。一頭三両前後するため、購入が困難な者に飼育させ、その間、母牛は農耕にも使用し得る制度である。鞍手郡は小伏村秋子勘内が、遠賀郡は虫生津村大庄屋(毛利)喜八が御仕組受持を担当していたが、寛政十三年(一八〇一)三月に、今古賀村彦五郎が「御仕組馬吟味役」に、別府村半次が「種馬預り」に任じられたものである。寛政十年初発の時には「種牛を預る者を牧牛頭取と称せしめて、母牛を預る者を支配せしめらる」((41)9三〇三頁)と記している。彦五郎は寛政十三年三月、「近年依御仕組牛馬厩牧仕立被仰付置候。依之先般御仕組馬吟味役申付候」として、請持中は面役一人引、庄屋格の条件で就任している。寛政十年の段階では「牛牧法」であり、「牛馬牧仕立奉行」が担当であるが、同十三年では「牛馬厩牧」であり、「厩牧仕立奉行」、または「牧仕立奉行」の文言が用いられている。

 この件について「年暦算」は「享和元辛酉」の項に「二月改元、春中天気能、米直段廿七八匁位。牛馬まや牧三ケ年以前より御仕組相立。遠賀・鞍手惣世話人小伏村秋根(ママ)勘内、手傳別府村半次、今古賀村彦五郎等庄屋格ニて受持被仰付。當年六月より波津湯川山牧ニ牛馬追入ニ相成」と記している。寛政十年の項には何も記していない。寛政十三年(二月五日改元、享和元年)三月より「御仕組馬吟味役」に就任したものといえる。

 後者の「辰二月」の「申渡之覚」は柴田家文書「申渡覚」に「享和元年酉年より牧仕組吟味役ニ申付置候処、當辰年迄八ケ年出精」とあり、文化五年(一八〇八)に老年に及んだため退役し、跡役を同人忰半九郎に命じたものである。ここでは役名が「御仕組馬吟味役」より「牧吟味役」に変っており、彦五郎退役・跡役忰半九郎に申付の書附は郡奉行永田清十郎より出ている、庄屋格、面役引といった身分的な問題が関係しているためであろう。

柴田家文書

 「年暦算」は「當年(享和元年)六月より波津湯川山牧ニ牛馬追込ニ相成」と記している。「牛馬厩牧」とも記している。「筑前国續風土記」の上座郡長淵村の項に「河原に馬牧四あり、何れも山には非ず、平地なり、是は馬の常に在て、子をうむ牧には非ず。農人の耕作のため飼へる馬を、野かひのために晝は爰にはなち、夜は家につなく。下大庭にもかやうなる牧あり」とある。母馬を耕作に使用を前提とすれば似たものを感じさせる。「筑前国續風土記拾遺」は「湯川山に昔馬牧有、久しく絶たりしを、寛政年中又牧を置れしか、文化の末にこれを廃せらる。其址甚廣し」としている。「福岡年代記」は文政元年(一八一八)に「牛牧仕組相止」としており(42)、二〇年間でこの仕組は廃止されたことになる。

二 湯川山牧

 牛馬は軍事・輸送・耕作のいずれの面よりも必要不可欠のものであり、古代より、各地に牧が設けられている。筑前国に限っても、「筑前國續風土記」、「筑前國續風土記 附録」、「筑前國續風土記 拾遺」、「福岡県地理全誌」等の諸地誌や、「福岡県史資料」や「黒田御用記」「福岡県史 近世初期編」などの資料集にも牧や牛馬仕組についての記録を見ることができる。

 黒田氏入部後の藩政期でも、北九州市若松区の灘辺山、遠賀郡岡垣町湯川山、宗像郡大島村、鞍手郡宮田町上有木村丘陵、福岡市西区能古島、糸島郡志摩町野北彦山附近、同姫島、嘉穂郡筑穂町桑野曲より筑紫野市山家にかけての冷水峠附近などがある。湯川山は近頃古代山城説も説えられているが、遺構が残っている。藩政初期に設けられ、間もなく廃止された冷水峠附近の山家・桑野曲牧跡は現在でも土塁などの遺構を見ることができる。

 寛政の仕組は「今般御救之御詮儀を以、御國中一統馬家牧牛御仕立方被仰付(34)」とあり、秋子勘内の献策によるものとしても、遠賀・鞍手両郡のみならず、福岡領内を対象としている。若松区小石・小竹地区の牧は享和二年(一八〇二)に「牧仕立積帳」が作製されており(34)、「牧」としてはそれ以後のものと考えられる。この地区は、文久四年正月にも「厩牧馬ノ子仕立仕見度奉存候」として金子拝借を願い出、早速に馬を仕入れている(34)。この地区の牧は明治期まで経営されており、明治五年正月には牛牧に変更し度い旨を申出、女牛三〇疋の買入金七五〇両の借用を福岡県庁に出願している。変更の理由として、「當村馬牧□(成カ)立不宜候条牛牧ニ仕候ては如何可有御座哉之趣被仰付」を挙げている。この願書には「牛乳汁追ゝ流行も可仕候得共、右取方製法等之儀當辺ニ而は調子方出来不申候間、乍恐書類東京より御取下シ被仰付候儀は被為叶間鋪哉奉伺上候」の一条があり、當初は農耕用牛が対象ではあろうが、牛乳、乃至は乳牛に対する関心をも示している。この願書の結果やその後については判明しない。

 湯川山牧は既に「筑前國續風土記」に記されており、時代不明とある。その後「久しく絶たりしを、寛政年中又牧を置れしか、文化の末にこれを廃せらる。其地甚広し」(筑前国続風土記拾遺)とあり、「年暦算」の享和元年の前出記事よりしても、柴田文書の仕組と対応する。牧跡の堀は東西二三町、南北二〇町ともいう(58)。

 鞍手郡宮田町上有木の牧は、寛政十年に秋子勘内の提唱により発足したもので、文化六年(一八〇九)六月に勘内が病没した後も養子秋子彦次郎に受け継がれていたが(40)、仕組廃止によってか、一時中止され、慶応三年(一八六七)に至り再開されている。福岡市西区能古島の牧は「筑前國續風土記拾遺」にも「延喜兵部省式に能巨嶋牛牧の事見ゆ(註略)又近年馬牧を起されしかと幾程なく其事やみぬ。其跡土手をめくらして甚廣し(東西十三町二十間南北十五町二十八間)嶋の半より北の地也」と記している。残島牧之神社の石祠には「今茲寛政十一年起馬牧於此島蓋為民利云於是再建以石伏願草木日繁茂牝牡月生育與居永久云爾己未八月」と刻んでおり、「惣護司 天野與太夫遠勝、監牧 臼杵九十郎宗直」の名を刻んでいる(57)。寛政十一己未年の年に馬牧を設置したことを示している。「牝牡」が牛馬のいずれを指すか不明乍ら、碑文通りとすると馬牧といえる。四牧の内、灘辺山牧、上有木村牧は寛政の仕組により新設されたものであり、湯川山牧、及び、残島牧は旧牧跡を再興したものといえる。湯川山牧は、「遠賀郡波津村抱水谷 一山坪数五千坪ハ 東ハ尾筋限 西南ハ宗像郡境尾筋限 北ハ通り道限」、「此山所文化二年二月被召上、牧山ニ被相渡候(32)」とあり、発足後に拡幅されたことも考えられる。

湯川山牧跡

三 牛馬牧仕組

 「御救之詮儀」を以って寛政十年に始まる福岡藩の牛馬牧仕組は遠賀郡灘辺山牧、同湯川山牧、鞍手郡上有木村牧、早良郡能古島牧に於いて実行される。それは鞍手郡小牧村秋子勘内の献策による牛牧法の採用を契機とするとしても、遠賀郡小石触に見る限りでは、発足数年前より牛馬牧仕組についての献策が行われており、その萌芽を見得る。

 仕組発足に伴い、牛馬、拝借銀、牧についての計画書が作製される。遠賀郡小石触では「胤馬預り」が任命されたのが寛政十一年、拝借銀貸与が翌十二年夏。同虫生津触では「御仕組馬吟味役」、「種馬預り」の任命は寛政十三年三月である。仕組採用決定や準備の遲速の差であろうか。この両触に於いては大庄屋が中心となって受持っている。仕組が「百姓為御救」の趣意より採用されたとすれば、大庄屋が中心とならざるを得ないであろうが、虫生津触の場合、御仕組受持秋子勘内に相談するよう指示されている。小石触には現在の所「御仕組馬吟味役」は見出してはいない。御仕組馬吟味役は面役引・庄屋格待遇が与えられており、通銭三〇目と僅少ではあるが筆墨料は仕組方より給付されている。仕組馬吟味に関しては庄屋を経由せずに直接書類を大庄屋に提出し得るかもしれないが、戸畑村や上有木村の例よりすると、一村のことに関しては村庄屋の手を経なければならない。年間に通銭三〇目の筆墨料は種馬預りの面役引・給米年二俵に比しても半分程度である。役務に限界を感じざるを得ない。享和三年当時、胤(種)馬預りは村役としては山ノ口の次に置かれている。山ノ口の給米は一俵半が郡切立より渡される。鞍手郡上有木村や小伏村の場合、寛政・文化期は山口触に属するが、大庄屋武四郎が如何に関与していたかは定かではない。鞍手郡中野文書「享和二年 御觸状写差出控帳」に次の記載がある。

三月廿日より廿三日迄
一、福丸村・直方町両所ニ而牛馬買ニ罷出候様被仰付候
 〆三月十日
一、御仕組牧牛馬之子、来ル廿日より廿三日迄福丸村ニ而御売払有之候趣は此間相達置候通ニ御坐候。然ル所此節は為御心見親牛馬売買之者勝手次第市立有之候間、相望候者は最前申觸候通同所え罷出可申候。右仕組方より被仰付候間觸達候。其御心得可被成候
三月十七日
      古門ニ渡 大庄屋 香月五平次

 「御仕組方より被仰付」の文言よりすると牧仕立奉行よりの通達と思われるが、山口触の福丸での牛馬市を隣の植木触々下村々に通達している。十日の通達には直方町(木屋瀬触)があるが十七日の通達には記されていない。触達は大庄屋を通して行われていたであろう。福丸村は山口組に属し、遠賀・鞍手郡役所の出張役所の所在地でもある。大庄屋を無視しては何も行い得ないであろう。上有木村の母牛持の宰判には庄屋が当っている。「御仕組受持」秋子勘内の立場は、例えば養育方・普請持・紙方頭取・楮方受持・炭方受持・人参受持・堀川受持の如き、他の村役と同類と考えられる。秋子勘内は牧元〆役と産子養育方を兼務しており、仕組受持の諸雑用銭として、年々銀三貫目の他に、郡米より一〇俵が渡されている。二代目牧元〆役秋子彦次郎(後勘内と改名)は年五俵宛に減額される。勤功の差という(40)。寛政十年に始まった仕組は文化末、乃至、文政元年に終る。遠賀・鞍手両郡の場合、仕組に関係した大庄屋全員が終焉期に退役している。山口村武四郎は文化末に高野村十蔵と交替、十蔵も文政二年に下有木村藤右衛門にかわる。虫生津村曽八(文化五年五月就任)は文化十三年十一月に中底井野村仁右衛門と交替。小石村高崎正次郎(文化八年就任)は文化十四年八月に一度退役、程なく再任され文政六年に退役している。偶然の一致かもしれないが、天保七年「御救方大崩れ」に際しても同様な大庄屋の交替が行われている。更迭である。牛馬仕組は二〇年存続しており、実験的効果以上のものは得ているであろうし、御救仕組とは異り部分的なものではあるが、何等かの関係を有するかもしれない。或は逆に、大庄屋の交替が牛馬仕組に対する方針を変えたことも推察し得る。仮に前者と仮定すると、上有木村には一見好調を思わせるが如き例はあるが、所期の目的を達し得なかったとも推察することができる。天保九年の幕府の巡見使に対する答書には、公式的な模範解答であり、割り引きして考えねばならないが、「牛馬牧之儀御尋被成候へハ、無之趣可申上候、以前少々試有之候得共、生立不申由承傳居申候可申上候事(17)」と記されている。

四 その後の牛馬仕組

 寛政・享和期に成立した仕組は文政元年で終わる。その後、嘉永年間には宗像郡大島の牧が再開され、慶応年間まで存続。安政五年(一八五八)には志摩郡野北村に創設され、廃藩後まで存続した。文久四年(一八六四)正月には小石・小竹の島郷の牧も再開する。それについての小石村庄屋の口上書は「近年牛馬高直ニ御座候て、繋方出来不仕者多く有之候ニ付ては、自然と御田地肥シ入方も疎ニ相成可申奉存候ニ付、馬ノ子相仕立見候ては如何可有御座哉と奉存候得共、村内繋居候分ハ老馬等多ゝ御座候て胤付相成兼申候ニ付、若馬買入申度候得共、馬高直ニ而中ゝ金子手ニ及不申候付、今程恐多御願御座候得共、何卒金子拝借被仰付候儀ハ御叶被遊間鋪哉、左候ハ、為試馬買入厩牧馬ノ子仕立仕見度奉存候、弥相應仕候ハゝ、屹度永續仕候様致度奉存候」と述べている(34)。文久末当時は万延新小判の流通時であり、天保の保字小判・安政の正字小判も歩増され併用されている。新小判は金銀の含有率は保字・正字両小判と同一ではあるが、定量は保字小判の三匁、正字小判の二匁四分に対し、僅かに〇・八八匁であり、前者の二九・三パーセント、後者の三六・七パーセントに過ぎない。そのため、寛政十年の仕組では母馬一疋平均銀二〇〇目の見積りであったものが、文久四年では母馬一疋平均六両二分、胤馬一疋一二両が見込まれている。新小判は安政七年正月の割増通用の触では、保字一両=三両一分二朱、正字小判=二両二分三朱であり、文久四年の値段は、名目的には寛政の約二倍であるが、実質的には、寛政時の通貨、元文金は三・六二倍であり、高直とはいえない。この仕組も廃藩後まで続いている。

 遠賀郡湯川山牧も慶応三年初に再開する。鞍手郡上有木牧も同様である。両者の詳細は不明であるが、「年暦算」は「波津湯川山ニ馬牧始ル。堀廻シ夫高三千人之積リ。當觸(別府)中より出夫致ス。百姓中困ル。永續之程覚束なし。嶌郷小竹山も去年より初ルと言。惣て新方御仕組事ハ下モ之為ニハ宜からす」と記している。文久四年正月の小石村庄屋の口上書、及び、同年十二月の計画見積書ともに遠賀鞍手郡代役所宛に提出されている。慶応三年九月、遠賀郡三吉村で牛買入代金七二両拝借の折も郡役所が取り扱っている。遠賀・鞍手郡役所の慶応四年(一八六八)五月の受持替では新に「牛馬牧受持」が「郡用方受持」に加役されており、鞍手郡担当に高木篤右衛門、遠賀郡担当に石打次三太・津野伊平の三名が挙げられている(36)。鞍手郡上有木村牧、遠賀郡小石村牧、及び、湯川山牧の担当であろう。ここでも郡役所が担当窓口となっている。藩政末期の牛馬牧は、寛政の仕組のように、牧仕立奉行を設けて、御救の一環として実施した仕組とは趣を異にしている。

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