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遠賀町誌 第五編 近世の遠賀町 第二章 郡役所と郡方役人

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第五編 近世の遠賀町 第二章 郡役所と郡方役人 [PDFファイル/2.11MB]


はじめに

 福岡藩の行政は大別して、郡方・町方・浦方の三支配に分けることができる。町方は原則として福岡・博多両市を対象にする。浦方は年代により異同があるが、享保二十年(一七三五)では次の通りである(53)。( )内は文化九年(一八一二)との比較である(41)。

裏粕屋郡 藍島(相島)・奈多・新宮浦・箱崎浦
宗像郡 大島村・江口村・地島村・鏡崎村・神湊村・福間浦・津屋崎浦・勝浦浜
怡土郡 横浜浦
志摩郡 今津浦・浜崎浦・宮浦・唐泊浦・西浦・岐志浦・久家浦・野北補・辺田浦・新町村・船越浦・姫島村・玄界村・小呂島
早良郡 残島村・東浦(姪浜)・西浦・伊崎浦
遠賀郡 波津村・脇浦・岩屋浦・柏原浦・脇田浦・芦屋浦・今浦(文化ナシ)・山鹿浦・若松浦(文化ナシ)
那珂郡 志賀浦・弘浦
〆四十一ケ浦

 慶応二年(一八六六)に遠賀郡の浦方はすべて郡方に組み込まれ、浦方は消滅する(31)。

 福岡藩一五郡の内、右の町方・浦方を除いた地区が郡方支配となる。直方町も本藩還付後は飯塚・木屋瀬両宿同様であり(41)、郡方支配に属する。遠賀町域はすべて郡方に所属する。直方藩領に所属したこともない。

 郡方の支配は郡奉行、郡代役所、ないしは、代官などを通じて行われるが、その機構は時代により必ずしも同一ではない。

 藩政初期に於いては、藩の機構も軍事体制的で、行政組織もその体制の下で設置せられている。内野太郎左衛門荘は「済民草書」の中で藩政初期の機構の一端を次の通り記している。

長政公御代より忠之公の御代までは、代官といふものは、大禄の長臣の職なり。此故に其臣下たるものより、下郡と号して、郡中の事を聞たり。又慶長五年より同十二年迄は別に代官といふものありて、中津の御定式を改め給はざる処あり。此二君の御代に、郡奉行といふものなく、倉奉行といふものあり。長臣の職なり。其後、忠之公の御代末に及て、郡奉行といふもの、上士より新官にて建給ふて、代官の号を下して、中士巳下の職と定め給ふ。其大臣たるものを以て、其郡の掛りと名付給ふ。下郡たるもの前に仝し。又山奉行といふて、是亦上士の官となし給ふ。又郡代といふもの中士より選ひ用給ふ。上士といふは大組なり、中士といふハ馬廻組なり、下士といふは月捧(俸)の士なり。其比の代官たるものに三人の手付を、下代と号して付置れたり。一人は田畑の請持をなして、年の二月より四月まての間、村々の田畑を改め、秋に及て、其田の徳米の出入を量りて其郡の倉に取立て、便利に随ふて海辺に津出をなすを司るなり。一人は諸用を講持て、願筋又村々の普請の才番(宰判)、平日の日記を司るものなり。一人は村に出て、農民の善否を糺す事を司るものなり。此三人の下代にて其地を支配し、其村に居住せし故、農民の上を朝夕預りしりて、どこどこまでも行届かざるといふ事なし。郡代たるものに、六人の手付ありて、一人諸願筋を請持ち、今日の(用)を弁するものなり。今の当用方に同じ。一人ハ戸数を改め、人夫を使ふものなり。譬ハ代官より、其郡の普請を申出し時に、郡代の見分の上に、此旨を出して、村々より人夫を宛はしむが、其司なり。一人ハ租税の事を司りて、其地の収納を正すなり。又諸々の出財を量る也。一人は旧令に随ふて郡中の大小の事を記録して、筆役と号して、諸方の掛合をなすものなり。一人は代官の手本に、常に出して、其勤用の吟味を遂るものなり。此仕組となりて、大凡そ五六十年、天和の頃より、免奉行といふものありて、手付六人也。郡代・代官の勤を混じて、徳米の収納のみ厳重になし給ふ。初の郡代代官の類か、其役筋か手に入て、端々の処にては、私多く、賄賂を専にせし故なるや。田方の本高の取立、免奉行の請持となり、畑方壹作・稲作を初め、諸上納の類を、代官よりの取立となりて、其人柄を預り農業を導き、其民の善否を改むるが郡代の職となりたり。夫よりして、世に免奉行を用ひて、愈代官の権軽くなりて、免奉行の勢壮となるに随ふて、愈其私多くありしを以て、其官の量らざる処なるとて闕官となり郡代のみを用ひ給ふ。其頃よりして、手付のもの拾弐人となり、又取立代官といふものを置きて、壹作・稲作の発年を収納せしめ、其頃山奉行よりして郡方の横目を兼役せり。又郡奉行と代官頭を置きて才許し、又代官所を除きて、郡奉行よりの才(裁)許となり、又郡代を除きて、郡奉行一圓の才許となりて、手付もの弐拾四人と定め、奉行五人にて御国中を司りたり。又近年に及びては免用方といふもの郡奉行の下に置き、其介の如し。

第一節 代官

 前掲の「済民草書」は「忠之公の御代末に及て、郡奉行といふもの、上士より新官にて建給ふて……(中略)……郡代といふもの中士より選ひ用給ふ。上士といふい大組なり、中士といふハ馬廻組なり」としている。黒田忠之は長政の長子、元和九年(一六二三)八月に長政の死後福岡藩二代目藩主となり、承応三年(一六五四)二月に死去している。前記の文言通りとすると一六五〇年前後が考えられる。一方、野村家文書の元和九年十一月十九日付の嘉麻郡代官野村大学宛「割符写」に(「福岡県史」近世資料編福岡藩初期No.八七〇)「御郡代衆」の文言を見ることができる。「岡郡宗社志」は元和七年の伊藤次郎兵衛・浦上徳太夫、寛永五年(一六二八)の下見孫左衛門・馬詰源右衛門を当地の郡代とする。元和九年当時伊藤四〇〇石、浦上一三五石、下見二六〇石余、馬詰三〇〇石である。「岡郡宗社志」の記述が正しいとすると郡代は中士の職であり、忠之の初期に既に存在する。

 藩政初期に大身の者を代官に任命したことは黒田長政の小河内蔵允宛の条書に「ぬしや金十郎ニも代官千石も弐千石も預尤候。定而明地可有之候間申事候」((43)―一二八五)の文言よりも推察されるが、慶長初期に於いても大身と馬廻りクラスの二様の代官があり、寛永期の黒田高政領(東蓮寺)に於いては八〇石の者や陪臣の代官もあり、四万石の支藩ではあるが、殊に、鞍手郡木屋瀬村では木屋瀬町人、及び、同村庄屋が同村の代官を勤めている((43)No.二四〇五)。藩政初期の代官は、「其郡之儀、菅六介ニ為代官遣候間、年貢之儀無由断納所可仕候(黒田如水より下座郡庄屋宛、(43)No.三八〇)、「為代官預置候条、百姓等遅ゝ不仕、田畠不荒様ニ可被申附候」(黒田如水軒代官預状写、(43)No.七三〇)、「為代官預ケ置候間、姓(ママ)遅ゝ不仕様ニ所務等可申付候」(黒田如水代官預状写、(43)No.七五二)等の文言よりして、年貢収納が代官の主要な役務であることを感じさせる。一方、前記No.三八〇の菅六介の場合や、元和九年の嘉麻郡には郡代の上に代官野村大学がいること((43)No.八七〇)よりして、一郡を預る代官の存在も推察し得る。同書No.八〇四に於ける上座郡栗山備後守・下座郡黒田美作守・三笠郡桐山大炊助・夜須郡村田出羽守などもそれに相当するとも推察される。桐山大炊助・村田出羽守は、第5-15表でも知れるように、夫々三笠郡・夜須郡で代官も勤めている。三笠郡には下大利村代官小西助丞もいる。これ等は如水存命中のことにつき、慶長九年三月より以前のことである。栗山備後・黒田美作は井上周防・母里太兵衛・後藤又兵衛・小河喜助とともに「年寄」と呼ばれる重臣であり、殊に、元和偃武までは栗山・井上・母里・後藤(出国まで)は筑前六端城を預る城主であり、代官とは呼ばなかったであろう。野村大学は六〇〇〇石の大身である。「慶長年中士中寺社知行書附(50)」が示す代官衆は母里浄甫(二、七〇〇石)・吉田六郎太夫(一、二〇〇石)を除くと、すべて五〇〇石以下であり、三三名の平均禄高は二七一石余である。同書の代官衆と第5-15表の慶長・元和の代官で氏名が一致するのは大塚久左衛門と原田又左衛門の二名のみであり、「慶長年中」の年代、資料の精度、性格等の吟味が必要であるが、初期とは可成り趣を異にする。「慶長七・九年知行書附(50)」の「母里浄甫」以下とは数名を除いては同一であるので、禄高よりしても、慶長一〇年代と考え得るが、「母里浄甫」以下には第5-15表の慶長七・九年の代官は含まれていない。母里浄甫は石盛の小付の伝説で知られているが、長政より母里浄甫・野口左介への朱印状写((43)No.八一二)の「粕屋郡立花口村松村助右衛門代官所之事、其方為両人請取、所務等無油断可申付候也」や、長政より尾上藤大夫への書状((43)No.三〇二)の「知行之儀与三兵へニ申候て請取、与三兵へ所より代官ヲ可申付候。余所へ出シ申ましく候」、長政より小林新兵衛への条((43)No.五四三)「一、態ゝ遠知行之儀、其方代官申付候事。一、右方之勘状月ゝニ与三兵衛(母里浄甫)ニ見せ、可念入事」などよりして、母里浄甫(与三兵衛)は代官や所務の業務を担当しており、「母里浄甫」以下はそのスタッフとも考え得る。

5-15表15-15表2

 御牧郡では、元和偃武までは、船手関係を除くと、黒崎城に井上周防之房がいる。之房は遠賀郡一円の知行地にその家臣達を宛行い知行地の支配をしている。御牧郡の石高は第5-2表、5-4表でも知れるように、表高で三万九三五〇石余、内証高で四万四七二三石余であり、之房の知行高一万五〇〇〇石、ないし、一万七〇〇〇石を引いても過半が残る。遠賀町域もその残りに入る。慶長七年(一六〇二)十二月には鬼津村の内、七〇〇石の地が平松金十郎に宛行われていることや((43)No.九五一)寛永十八年(一六四一)には尾崎村の内、二〇〇石が上原団右衛門(二〇〇〇石)の知行地となっている((43)No.一五一一)のはそのためである。平松金十郎(後に村山角左衛門と改名)は慶長九年九月二十一日付で夜須郡三牟田村へ知行変えになる((43)No.九五二)。平松金十郎は一〇〇〇石の大身であり、井上之房の黒崎移住と関係があるかもしれない。寛永期以後に於いても郡代と共に代官も設置されている。寛永十五年(一六三八)に黒崎宿に代官が着任するが、芦屋や遊猟地であった底井野には慶長期より「芦屋押」(馬杉喜右衛門)や代官が置かれている。馬杉喜右衛門は船手組に属する大身で、長政より代官所を預けられている。底井野には慶長期の角道意以来代官が置かれており、「底井野覧古」はその歴代を示している。遠賀町域に於いても、正保二年(一六四五)七月二十一日に花田弥平次が代官に任命されているのをはじめ、慶安二年(一六四九)には江田惣兵衛(後底井野に転任)、明暦二年(一六五六)には郡金右衛門、同三年には興西善左衛門の名が見えており、万治二年(一六五九)三月二十日には村上太兵衛が代官に任命されている。

 寛文期に入ると福岡藩の行政体制も整えられて来る。代官頭二名が設けられ、その組下として、宿駅、及び、桜井・橋本・植木・板付・底井野・井原・南里等に代官が於かれる。「岡郡宗社志」に遠賀町域関係の代官名が散出する。村上太兵衛・原田六郎左衛門(寛文七年)、土生茂右衛門(延宝二年)、原田六郎左衛門(延宝五年)、占部伝右衛門(元禄十年)、尾上藤太夫(元禄十四年)、小河伝左衛門(宝永七年)である。土生茂右衛門は底井野代官、占部・尾上・小河は芦屋代官である。遠賀町域は両代官所に狭まれており、両者と関連をもっていたのであろうか。代官頭は元禄五年(一六九二)正月二十八日に廃止され(414二三三頁頁)、旧来、代官頭組に属していた郡代は郡奉行組に、代官は城代組に属することになる。その後、正徳元年(一七一一)に取立代官頭取が設けられ、役料も郡奉行と同額の一五〇俵が定められたが(414二六四頁)、正徳六年(一七一六)には「郡代代官頭」となり、享保八年(一七二三)には廃止され、郡代一〇人が設けられ、免奉行を兼帯、副役五人が置かれ、宿駅等の代官は残るが、取立代官は消滅する。

第二節 郡奉行

 「済民草書」は長政・忠之「此二君の御代に、郡奉行といふものなく、倉奉行といふものあり。(中略)忠之公の御代末に及て、郡奉行といふもの、上士より新官にて建給ふて、代官の号を下して、中士已下の職と定め給ふ」としているが、長政の時代にも郡奉行の職は存在する。慶長六年卯月六日の「黒田長政条書」((43)No.一一五〇)には「道橋松を植候儀は、為郡奉行百姓つかれさるやうに、ときどきニ可申付候」、同十二年六月十二日の「掟」((44)2)には「百姓不届之儀候はゝ、郡奉行へ尋、能々令穿鑿何の道にも可申付、又給人理不尽の儀候はゝ、百姓として郡奉行へ申届、其上にて奉行の者紛レ候はゝ可致直訴事」、同十八年十二月十日の「掟」(前掲書七頁)には「田畠かり取候已後、免相ニ付而百姓申分有之候共、代官・給人承引申間じく候。然間毛上をハ立置可申理候、其上ニ而代官・給人無分別候ハゝ、郡奉行迄可申候。(中略)対代官・給人百姓申分有之候ハゝ、至当時郡奉行迄可申理候」、卯月晦日の「黒田長政判物写」((43)No.一三五五)には「為給人百姓ニ入木させ候間、今よりはかたく令法度ニ申触、自然此旨相そむき、入木させ候は百姓ニ相たつね可申越候。此方よりも入廻し候てきかせ候間、其内ニ不申越候は、郡奉行可為越度候事」と見えており、「黒田長政黒印状写」((43)No.三七八)にも「其郡奉行可為不念候」の文言も見えている。忠之時代の寛永一九年(一六四二)七月十一日には賀摩(嘉麻)郡奉行所に大塚権兵衛、穂波上・下郡奉行に野村右京が任命されている((43)No.一二四六)。大塚権兵衛は二五〇〇石、野村右京は後六八〇〇石余の大身である。引用例よりも推察できるように、代官が主に収納に関与しているのに対し、郡奉行は民政に関与している。

 寛文期には興膳善右衛門(一〇〇〇石)・村山角左衛門(八〇〇石)の両名が奉行に任命され、郡代一〇名も設けられる。その以後、郡奉行の定員は第5-16表に示すように一定とは限らないが、宝暦十二年十月、郡代が廃止され、郡奉行は五人となり、掛り分けがなされる。筑前一六郡を五掛りへの掛り分けは、文政元年に郡代が復活した折に廃止され惣郡奉行となるが、五掛りは郡代役所にも継承される。天保十三年(一八四二)十二月には役職名も惣郡奉行となる。慶応四年に郡奉行肥塚次郎右衛門が御本丸御用召にて惣郡奉行大目附席についてより再び郡奉行の掛り分けが行われ、遠賀・鞍手=各務弥三太夫、両粕屋・宗像=浜新五兵衛、上座・下座・嘉麻・穂波=澄川春吉郎、那珂・席田・夜須・御笠=斉村孫蔵、早良・志摩・怡土=梶原源三郎が就任する(36)。

5-16表15-16表25-16表35-16表45-16表5

第三節 役所定と役人の心得

 「福岡藩郡役所記録(41-4)」は「郡奉行・郡代心得」や「郡奉行役所定」を次のように記している。郡奉行役所は旧来は奉行各自の屋敷内に役所を設けていたが、文政元年(一八一八)、大名町に新しく郡役所が設けられ、同年二月十三日に郡奉行中は新役所に移転。これにより、同年九月十八日、それまでの郡奉行衆の掛り分けは廃止され、総郡奉行に改められた。

一 郡奉行郡代心得(享保十四年三月八日達)

一御郡奉行御郡代近来はおのづから世の風俗に準じ、百姓に疎々敷く成り行き候間、直談をいたし、下に親しみ、漸々以て古風に相成り候様相心得べき事。
一御国中百姓衣類嫁娶居所等に至る迄不相應の次第も多くこれ有ると相聞え候。向後訖度覚悟相改め、聊分外の身持取廻し曽て致さざる様、御郡代中懸り懸り吟味を遂げ申し出るべき事。
一百姓中むざと津出馬に乗り、侍に対し、無禮の體これ無き様、連々申し聞かすべき事。
一夫高月切に掛り掛りの御郡代中より怠らず只今之通り指出し相改減り候様、重畳致すべく候事。
一切錢等之儀紛らは敷き事これ無く、次第に減り候機、重畳是又御郡代中心を用ひ申すべく候事。

二 郡奉行并免奉行郡代へ申達覚(享保二十年正月一四日)

在郷方役人、前々より風俗悪敷成り来り郡奉行初め、免奉行、郡代中、精を出、相勤候得共、一致にこれ無く免方・郡方申談じ不合にこれ有り。又は専ら郡代の相しめし申儀も、前々より受持申さざる事などゝ成り行き居り候。此段只今の役人の越度にてはこれ無く、偏に風俗宜しからざる故に候。右の通にては、免奉行、郡代裁判區々に相成り在郷方御法令御仕置筋、一圓に相しまり申さず。たとえば險約衣服、又は商人等の御法度仰出され候ても、只今迄之勤方になづみ、見當候ても、咎め申さず候故、しまり申さず、或は薪伐賣停止仰付られ候ても、山方之儀にて、郡代の受持にてはこれ無しとて、郡代并附の者迄、見逃し仕り候。左候ては、百姓は其御法度相背き候ても苦しからざる儀と相心得申事に候。然に改役人見當り候得ば召捕り、科人と相成り候。此類の儀は、御不仁の筋に成る甚重き儀に候。第一在郷方は、御国中廣大の御仕置、御財用御國改の根元にて候條、只今の通りにては、御為に宜しからず候に付き、此節免奉行郡代の勤方改り仰付けられ候條、只今迄の勤方の成行きを、急度相改め、互に申談じ、上の御大意、末々迄相違なく御法令御仕置筋、堅く相守り候様に、相勤むべく候。銘々勤の善惡は、郡中裁判にこれ有る事に候故、此儀在郷え目付指出され言上仰付らる筈に候。ゆるがせに候はゞ越度たるべく候。尤、事により、各裁判力に及び難き儀も、これ有り候はゞ、遠慮なく申し出ずべく候。右の次第、委しく申達すべく仰せ出され候。

三 郡奉行郡御代官頭等役料定(正徳五年四月定)

一御郡奉行御役料 百五拾俵充
一御代官頭同   右同
一御免奉行同   三拾俵充
一御郡代 同   右同

四 郡奉行役所定、并附之者定(元文元年十二月二十三日定)

郡奉行役所定
一月番役所に免奉行、郡代、代官、山奉行、其外役人罷り出で候はゞ、用事一切直々承り申すべき事。
一毎日八時迄の間、右役人用事承り申すべき事。
附、急用事にて候はゞ、晝夜によらず滞りなき様、申談じ候事。
一出殿には、翌日承り申べく候。急用事は晝夜によらず承り申すべき事。
附、年中役所引日、別紙の通りの事。
一大庄屋村庄屋并百姓に至る迄、郡奉行え申達し度き者これ有る節、直々承り申すべき事。
役所引日
一、正月元日より七日迄  一、十二月廿六日より晦日迄  一、七月十三日より十五日迄  一、八月十五日、九月十一日、十九日  一、節句毎月式日  以上
郡奉行附の者定
一免奉行、郡代、代官、山奉行、其外郡方役人罷り出で候はゞ早速申聞かすべく候。右役人中より、書通これ有り候ば、是又早速申聞かすべく候。必ず自己に相對返答仕る間敷き事。
附、急用事の外は、毎日八時以後、承り申さざる筈に候事。
一出殿の節、右役人罷り越し候はゞ、其趣申達すべく候。文通これ有り候はゞ、請取り置き、帰り候上、早々差出し申すべき事。
附、急用事にて候はゞ、逮出迄相待ち居り候歟、又は晩方罷り越し候様、申達すべく候。尤、其趣、殿中え申越すべき事。
一大庄屋村庄屋、并百姓、直訴仕度く罷り出で候者、早速申し聞かすべく候。出殿いたし、又は八時已後に候はゞ、明日罷出ずべき旨申達すべく候。必ず自己に相對仕る間敷く候事。
一急用事之儀これ有り候はゞ、出殿又は他出之節、其所に早申し越すべく候事。
一惣て役人中、并百姓共、用事内々にて、決て承次ぎ申間敷く候。相背き候者、曲事申付くべく候事。
右之条々向後急度相守るべき事。

 「年暦算」の中に郡方役人についての次の記載がある。「(安永六年)九月十九日、嶋井市太夫殿病気、十月朔日死去之由也。百姓中ハ慶ふ。実ハ切腹之風聞也。津田源次郎殿聞次。跡役味岡団右衛門殿」、「十月廿五日、郡奉行味岡団右衛門殿死去、百姓中大ニ惜む」。嶋井市太夫は明和元年(一七六四)の宿駅人馬賃銭増に功績のあった奉行ではあるが、農民にとっては好感の持てない奉行であったのであろう。大庄屋についても同様な事がいえる。そのために、前に示したような「心得」を必要としたといえる。

第四節 郡代

一 代官頭と郡代

 寛文期になると遠賀郡、上座・下座郡、嘉麻・穂波郡、夜須・御笠郡、宗像郡、那珂・席田郡、鞍手郡、表粕屋郡、裏粕屋・怡土・志摩郡、早良郡の一〇地区に郡代が配当されている。各郡代は二名の代官頭の組に属する。一〇人の平均石高は一三四石半で正に中士の役である。それも平均以下の中士といえる。

 郡代制は藩政期を通じて、幾度か改廃が行われている。寛文期以後でも、元禄十二年(一六九九)十月に仕組替が行われ、免奉行・郡代・山奉行の役が郡代一人に統合される。免奉行は軈て復活する。宝暦十二年(一七六二)十月二十日従来の郡奉行二人・郡代十人の制を改め、郡奉行を五人とし、郡代役は廃止される((41)4-四三一頁)。それに伴い、福岡藩一六郡は五人の郡奉行預となる。遠賀・鞍手郡、那珂・席田・夜須・御笠郡、表粕屋・裏粕屋・宗像郡、早良・怡土・志摩郡、上座・下座・嘉麻・穂波郡の五役所である。遠賀・鞍手郡役所は上底井野村に置かれ、鞍手郡福丸に出張役所が設けられた。この体制は藩政末まで保たれる。

 文政元年(一八一八)二月、福岡大名町に一五郡役所が新設され、同年九月十八日、郡奉行の掛り分けが中止される一方、郡代が復活する。その郡代も天保六年(一八三五)六月二十二日再び廃止となり、郡奉行が立てられるが、天保十三年に惣郡奉行が置かれたのを機に再び郡代が復活する。藩政期後半の文書に「御郡御役所」と「御郡代御役所」宛の二様があるのは郡代の存否によるといえる。

 郡代と郡奉行の役職は極めて類似したところが多い。その事は前に示した郡奉行の心得や「申達覚」よりも推察できることであるが、第5-16表の郡代廃止期の郡奉行を見ても推察することができる。第5-16表の範囲で拾っても、樋口貞右衛門・津田源次郎・味岡団右衛門・川越又右衛門・村上弥左衛門・水野貞之進などは郡代と郡奉行の双方に名前が見える。勿論、前に触れた如く、寛文―元禄五年の間の郡代は代官頭に属し、それ以後は郡奉行に所属、正徳三年には郡方本〆役が設けられ月成茂左衛門が就任、同六年には郡代代官頭が置かれるが、寛保二年(一七四二)八月奉行支配に復するなど制度的な変革はある。郡方本〆が担当した在方御用は、享保七年(一七二二)十二月には裏判役のものとなる。役料に於いても、正徳五年当時で、郡奉行・代官頭が一五〇俵であるのに対し、郡代は三〇俵であり免奉行と同一である。人数的にも郡奉行は宝暦十二年郡々掛り分け請持までは二~四名で惣郡請持、それ以後も五名であったのに対し、郡代は十人である。「福岡藩郡役所記録」が示す郡代の勤方心得等は次の通りである。

二 郡代勤方覚(享保二十年正月十四日)

一百姓願ひ訴訟の儀、依怙贔負なく、廉直裁判仕べく候事。
一痛村救の儀、其痛の根元を委敷く相糺し、天災故に候はゞ、相應に救ひ申すべく候。耕作に請はず風俗宜しからざる故に候はゞ、其村庄屋頭百姓、急度糺明申し付くべく候。惣て痛百姓の救は、當時の儀に拘らず耕作に力を得候様、救申すべき事。
一郡中法令仕置の條々、常々堅申付け、出郡の度々、違背の者見當り承り次第、早速糺明申付べく候。他郡の者は、其掛り同役え申津し、其郡代より、早々糺明申付くべき事。
一普請の節、夫仕ひの儀、免奉行申談じ、強弱相考へ、相應に役目申付くべき事。
一夫仕ひ切錢の儀、明細に僉議を遂げ無用の費これ無き様、申付くべき事。
一免奉行中、覆蔵無く申談じ、相互裁判仕るべき事。
附、右條々、附の者え厳敷申付け、ゆるがせこれ無き様裁判仕るべき事。
右郡奉行并免奉行、郡代中え、六郎太夫之を申渡す。
右畢て右の面々え、左之通矢野六太夫これを申渡。

三 郡方役人心得(享保十六年三月二十五日)

一郡奉行、郡代中は申に及ばず、附の者共、百生賄賂を請け、田畠免相詮議の時、又は百生願之節、依怙贔屓これ有り候哉の事。
一郡代、代官、并附の者共、自分勝手向の儀百姓に相頼み押て借銀借米等仕り候者これ有り候哉の事。
一郡代中、并附の者、賄賂を請け、依怙贔負これ有り候哉の事。
一代官并付の者、取立の節賄賂を受け、依怙贔負これ有る哉の事。
一獵方役人、并餌差等、出會の節、百姓之馳走を受け、又は村所の妨に相成り候者これ有り候哉の事。
右の外、何事によらず、在郷方役人中、裁判宜しからず百生共難儀仕る事これ有り候ば少も遠慮なく有り體に書付封じ候て、目附頭宅え指出し申すべく候。実事にて候はゞ、御褒美下さるくべく候。最も此已後在郷方役人の中、裁判宜しき者、百姓中の為に相成り又は庄屋の中、村中支配宜しき者、又は百姓の中、至て覺悟宜しき者にこれ有り候はゞ、是又書付け差し出すべく候事。

一郡代并附の者、田畠免相僉儀之時、賄賂を取り依怙贔負致候哉、又は百生願事これ有る節、賄賂をとり、依怙贔負いたし候哉の事。
一代官附之者、取立の節、賄賂をとり、依怙贔負致し候哉の事。
一宗旨奉行、山奉行并附之者、賄賂を取り候哉の事。
一惣て郡代并附之者は申すに及ばず、代官、宗旨奉行、山奉行、附の者、在郷に罷り出で候節、無理なる儀を申かけ、又は馳走受け候儀これ有り候哉の事。
一大庄屋、村庄屋、裁判宜しからず百姓願事の節、依怙贔負仕り、又は夫遣切錢の儀、無理なる事これ有り候哉の事。
一本人存付申さざる儀、又は百生中其意を得申さざる儀を、大庄屋、村庄屋申談じ、無理に差圖致し、其人より願出させ申す儀、これ有り候哉の事。
一身代よろ敷き、百姓心得惡敷く、村所の妨になり、又は耕作不精不覚悟の百姓これ有り、共外の百生の障に相成り候者これ有候哉の事。
一大庄屋、村庄屋、并身代宜しき百姓儉約相守り申さず、平生慢ケ間敷き覚悟仕り候者これ有り候哉の事。
右の外役人附の者、大庄屋、村庄屋、致かた惡敷く、百生共難儀仕り候儀、これ有り候者、何事によらず、小百生又は遊民たりとも、遠慮仕らず、有體に書付封じ候て、はやく目付頭宅え差出し申すべく候。書付を仕り得ざる者は、目付宅え罷り出で、口上にて申すべく候。郡中村中百生の為によろしき事にてこれ有り候はゞ、御褒美下さるべく候。尤、私利欲のため、庄屋など申しさゝへ候の類は、御取り上げこれ有る間敷く候。此後役人付の者、又は大庄屋、村庄屋致し方宜敷く、百生の為に相成り候者これ有らば、是又書付差出すべく候事。
四 免奉行郡代役所定(元文元年十一月晦日)
一毎日五半時より、九半時迄の間、銘々役所に罷り出で居り、用事承り申すべく候。右刻限已後、百姓罷り出で候はゞ指戻し、明日承り申すべく候。尤急なる用事は、何時によらす承り中すべき事。
附り、年中役所引日、別紙の通り候事。
一大庄屋村庄屋并百姓願訴訟に付き罷り出で候節、輕き用事たり共、直々承り申すべく候。組の者、附の者相對仕り用事承次ぎ候儀、一切相止め申すべく候事。
一用事に付き郡奉行役所等に罷り越し、在宿仕らざる節、罷り出で候者これ有り候はゞ、待せ置き申すべく候。九ツ半時過ぎ候はゞ明日罷り出ずべき旨、申し聞かせ指し戻すべき事。
一出郡仕り候節も、其所におゐて、百姓用事直々承り申すべき事。
一出郡仕り候間、役所におゐて急用事ばかり差し支へざる様に仕るべき事。
一右の通り堅く相守るべく候。若し組の者、附の者相對仕り候儀、これ有るに於いては、免奉行郡代越度たるべく候。以上。
役所引日
一、正月元日より七日迄  一、十二月廿六日より晦日迄  一、七月十三日より十五日迄
一、九月十九日  一、節句 一、毎月朔日十五日
免奉行組の者、郡代附者定
一毎日五半時より役所に罷り出で、役所を開き、九半時の間、其日の用事滞りなく相調子、仕廻ひ次第、罷り帰えるべき事。
附、年中引け日は罷り出で申す間敷き事。
一大庄屋村庄屋百姓願訴詔、又は用事に付き役所に罷り出で候者、早速申し聞かすべく候。必ず自己に相對仕り、願書等請取り申す間敷き事。
一毎日九半時以後は、拠んどころ無き用事にて候共、決て承次ぎ申さず、明日罷り出ずべき旨、申し聞かせ差し返すべく候。書状は受取り中すべき事。
一急用事にて候はゞ、何時によらず申し聞かすべく候。他行の節は、其所に早速申し越すべき事。
一出郡仕り候間、役所に於いて組付元〆の者、急用事斗り承次ぎ、差し閊えざる様仕るべく候。願訴詔等の用事、決て承次ぎ申す間敷き事。
一出郡の節も其所に於いて大庄屋、村庄屋、并百姓共、用事自己に相對仕らず早速申し聞かすべき事。
一惣て内々にて願訴詔等の儀、相對仕るにおいては曲事申付くべき事。
右の條々向後急度相守るべく候。

 郡奉行・郡代以下の郡方役人の心得で共通していることは、賄賂や饗応・接待を受けることの禁止であり、依怙贔屓や自己に相対の取り計いをすることの禁止である。藩政時代を通してみると農民騒動も少くない。その多くは郡方役人や村方役人の不公平な対応に起因している。郡奉行の死去に際して、「百姓中ハ慶ふ」(島井)とか、「百姓中大二惜む」(味岡)という言葉が出る因もその辺にあるかもしれない。ここでは既に郡方役人は完全に「お役人」であり、地方公務員である。

第五節 郡方手附

 郡役所、ないし郡代役所には郡方附の出郡役人がおり、郡政の窓口を担当する。文化期では、「四人扶持十三石当、役料八俵宛」である。「掛り」は年代によって同一ではなく、その時の藩政を反映している。天保十二年(一八四一)九月十五日惣郡役所仕法替の節の遠賀・鞍手両郡掛りは次の通りであり(27)、このメンバーで底井野・福丸の両役所を担当する。

免帳方 頭取 出田雄八  郡用方 〃 石田周八
郡用方 同  真鍋儀作  御納方 〃 原田源蔵
郡用方 同格 納屋保助  普請方 〃 今村平七
御納方 同格 八尋次七  免帳方 〃 冨永要七
免帳方 同格 清水良八  普請方 平 石部源助
普請方 平  畑江大蔵  郡用方 〃 藤野孫助
同   〃  橋本久五郎 御納方 〃 吉積勝兵衛
同   〃  大屋伴右衛門

 掛りとしては、免帳方・郡用方・御納方・普請方の四掛りである。天保十二年に仕法替前の掛りは、御免方・普請方·郡用方·御成方·黒船用方·御猟受持·宗旨方·記録方·郡家受持·養育方·御納方·御免帳方の一二掛りを二〇人で受持っている。多い人は一人で六掛りを受持っている。他に二人の出人がいる。合計二二名で両役所を担当したことになる(24)。慶応四年辰六月御一新による改訂では、御吟味役・郡方手伝・免帳方・普請方・郡用方・山方の六掛りを一三名で担当、御吟味役一名、御郡方手伝二名は直礼の身分である。直礼以外の一〇人にはすべて加役が附されている(36)。全体を役順に示すと第5-17表の通りである。同一掛りが複数になっているのは底井野役所と福丸(出張)役所に別れているためである。ここでは、慶応二年に浦方が郡方に組み込まれたため、その掛りが設けられているのをはじめ、万延年間に始まる福岡藩の旅人取締の担当、慶応四年に発足する農兵の担当、文久、慶応期に始まる遠賀郡小石村・波津湯川山、鞍手郡上有木村の牛馬牧の担当が加役されている。慶応二年九月の受持替では、郡用方・御納方・養育方・宗旨方・免帳方・普請方・郷夫方・山方の八掛りに一五人が割り当てられているが、七名は、「底井野役所え不絶壹人充三十日詰方交」と記されており、係りはない(36)。八掛りを八人で担当しており、郡用方白石権助、免帳方川上市蔵以外はすべて複数の係りを担当している。これ等の例よりすると、宗旨方・山方・浦方等の制度的なことや、郡方目附の存否など機構的なことと関連しているであろうが、郡用方・御納方・免帳方・普請方等の基本的な係りを中心に、役所の機構は屢々変更されている。かつて、元禄時代には、郡代付、免方付一組一〇人で担当していたことよりすると、行政の多様化と行政改革の存在を感じさせるが、社会情勢の変化と藩財政が大きく影響しているであろう。

5-17表

第六節 郡方役人の移動

 寛文・延宝期の郡奉行興膳善右衛門は禄高一〇〇〇石、村山角左衛門は八〇〇石であり、上士に属する大組に属するが、元禄期以降の郡奉行は中士に当たる馬廻組に属する。郡代も馬廻組の職である。これらの職は必ずしも一定の者に固定されたものではない。第5-16表に記載の者の内、若干の者の移動を例示すると次の通りである。

  1. 井上孫八    郡代→免奉行(元禄8)
  2. 井手勘七    郡代(正徳5)→山奉行(享保8)
  3. 伊藤新七    代官頭→郡奉行(享保2)→代官頭
  4. 小西諸右衛門  御免方→代官頭(享保2)
  5. 河村武左衛門  免奉行(正徳5)→怡土志摩郡代(享保8)→免奉行(同14)→郡奉行(元文5)
  6. 味岡団右衛門  鞍手郡代添役(享保8)→郡奉行(同14)→郡代(宝暦12)→郡奉行
  7. 内野太郎左衛門 郡代→御納頭(宝暦8)→惣郡奉行
  8. 庄野兵左衛門  郡奉行→町奉行→郡奉行
  9. 樋口貞右衛門  郡代→免奉行(元文5)→郡代(延享3)→郡奉行(宝暦5)
  10. 山中甚六    郡代→勘定奉行(延享3)→用聞(宝暦11)
  11. 木全半兵衛   底井野代官→郡代(宝暦5頃)
  12. 津田源次郎   郡代(宝暦12)→病気退役(同年)→郡奉行(安永元)→〇(安永元)→郡奉行(安永6)→〇(安永6)→郡奉行(安永6)
  13. 井手勘七    浦奉行(文化4)→郡奉行(文化9)→町奉行(文化11)→寺社奉行(文政2)
  14. 小嶋源五右衛門 木屋瀬宿代官→郡代(文政元)
  15. 八田九内    郡代(文政元)→郡奉行(文政2)
  16. 川越又右衛門  郡代→郡奉行(天保6)
  17. 梶原源十郎   浦奉行(天保9)→郡代(天保12)→惣郡奉行
  18. 水野貞之進   郡代→惣郡奉行→郡奉行
  19. 内野太郎左衛門 郡代(安政6)→勘定奉行(元治元)

 右の中には宝暦一二年、天保六年の郡代号廃止の如き制度の変革によるものもある。6・14・18などはそれであり、第5-16表の村上弥左衛門の郡代→郡奉行→惣郡奉行なども同様である。

 先に、正徳五年の役料米を挙げているように、役方には役職給や手当が付く。文化十四年(一八一七)の奉行職の場合は第5-18表の通りである(25)。「当」(あたり)とは職務給であり、幕府の享保の改革に於ける「足高」に相当する。浦奉行には役料米二〇俵の他に小遣給一二俵が付されている。郡奉行は「小使現人」である。浦、島を対象とする浦方の地理的条件によるものであろうか。小遣給は上座川目附・造営奉行・郷夫頭・山奉行・山方銀取捌奉行などにも附されている。文化九年当時の郡奉行五名の禄高は第5-19表の通りである。三五〇石当であるので、全員足高が必要である。その意味では人材登用ともいえる。

5-18表5-19表

 職場の移動は在住の郡方附の者の場合も屢々行われている。嘉永二年(一八四九)より底井野役所在勤の都甲小仲太は慶応四年には上座・下座・嘉麻・穂波郡役所の吟味役に転ずる。弘化期より福丸役所に在勤の福田外七は同年に那珂・席田郡役所郡方手伝役に。安政六年(一八五九)より福丸役所に名前の見える白石権助は慶応四年に那珂・席田郡役所に転じたが、同年五月には底井野郡役所郡方手伝役に復している。慶応四年に目附号廃止に伴い、郡方目附徳永久兵衛は御右筆中頭取に転役する。

 本庁(底井野役所)と支所(福丸役所)の間でも移動は行われる。慶応二年の底井野役所の配置は第5-1図の通りである。記入されている在住者、藤野・川上・安武・石橋・白石・都甲・徳永の七名の内、藤野・川上・石橋・白石の四名は、少くとも、元治元年(一八六四)までは福丸役所の所属である(22)。ここでも交替が行われている。

5-1図

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