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遠賀町誌 第五編 近世の遠賀町 第三章 庄屋大庄屋と郡村の行政

ページID:0026905 更新日:2024年2月29日更新 印刷ページ表示

第五編 近世の遠賀町 第三章 庄屋大庄屋と郡村の行政 [PDFファイル/2.42MB]


第一節 国郡行政と郡村の接点

 藩政時代の藩の地方行政の体制は、郡方、町方、浦方の三単位に分けることができる。遠賀町地域はすべて郡方に属する。藩の機構が軍事体制に主点が置かれていた十七世紀前半はさて置き、行政機構が漸次整備されて来たと考えられる寛文期以降に於いては、郡方支配体制も確立されて来る。「寛文官録」には「御郡奉行」、「御町奉行」各二名が現れ、「郡代」九名も記入されている(50)。代官による支配より、郡役所による支配への移行が推察される。宿駅等主要の地には代官が配置されているが、必ずしも初期のそれとは同一ではない。その間の経緯について、内野荘は「済民草書」に前掲の様に述べている。(九頁参照)

 「寛文官録」には、郡代は遠賀、嘉麻・穂波・夜須・三笠、宗像、那珂・席田、鞍手、表粕屋、裏粕屋・怡土・志摩、早良の各郡担当の九人が記されている。代官は遠賀郡では黒崎・若松・芦屋・底井野に置かれている。前三者は宿駅であり、底井野は御茶屋の所在地である。底井野御茶屋の始まりは寛永十五年(一六三八)という(38)。

 宝暦十二年(一七六二)郡役所が整備されて来た段階では、役所は「遠賀・鞍手」、「両粕屋・宗像」、「早良・怡土・志摩」、「那珂・席田・夜須・御笠」、「上座・下座・嘉麻・穂波」の五役所に統合される。遠賀・鞍手郡代役所は上底井野村に置かれ、その出張役所が鞍手郡福丸に置かれた。福丸役所ともいう。前掲の通り、郡代の下には下代が居り、行政を担当する。藩政期後半には、郡用方・御納方・養育方・宗旨方・免帳方・普請方・郷夫方・山方・吟味役・記録方などの職務に分れられており、末期には、浦方・農兵請持・牛馬改・旅人一件請持・開作一件請持の分掌も見える。村々よりの諸願諸註進は主に郡代役所宛に提出される。藩行政と村方の行政の接点である。

第二節 大庄屋と庄屋

 郡・浦の行政は庄屋・大庄屋を通じて行われる。遠賀町域には浦方は含まれていないので、郡方についてのみ触れる。

 各村々には庄屋がいる。庄屋は黒田氏入部以前、即ち、藩政時代以前より存在する。村の行政の責任者・村長である。大庄屋は、遠賀郡の場合、郡方では三名~五名設けられた。多くは、庄屋の内より適当な人が選ばれる。庄屋は世襲の場合が多いが、大庄屋は長くて四~五代、一代限りの場合も少くない。遠賀郡の場合、最高三代であり、一代、乃至、二代が多く、他郡に比して交替が多い傾向にある。庄屋、大庄屋共に行政的に不都合を生じた場合更迭されることがある。明和六年(一七六九)の乙丸村大庄屋の禁足・更迭、天保七年(一八三六)の御救方大崩れに際しての、木守村、中底井野村、蜑住村各村大庄屋の交替、万延元年(一八六〇)十二月の畠田騒動での庄屋五人退役、及び、蜑住村大庄屋の更迭等もそれである。庄屋は居村の庄屋を勤める場合が多いが、不居合の村や再建が必要な村に対しては他村より入役が行われることも少くない。遠賀郡では減免の直訴を行った村や、逃散を受け入れた村に於いても入役が極めて多い。これ等も好ましくない行為であろう。入役は大庄屋にもみられる。垣生触(石井氏)、中底井野触(庄野氏)は鞍手郡よりの入役であり、吉田触(石松氏)、岩瀬触、上々津役触(伊良原氏)、中底井野触(船津氏)別府触、本城触(松井氏)、拂川触、上底井野触などは入役である。

 大庄屋は生来の大庄屋ではない。遠賀町関係の大庄屋でも、木守触大庄屋小林弥一郎は木守村庄屋・芦屋町庄屋を経験、中底井野触大庄屋船津文四郎は寛政十二年二村庄屋手伝を手初めに、二村・下二・広渡村・大川受持・養育方・楮方・楠橋村庄屋を経ている(35)。別府触大庄屋仰木弥作は中間村庄屋手伝・中間村庄屋・頃末村庄屋・曲川受持兼帯・中間村庄屋を歴任して大庄屋に就任、同仰木廉助は糠塚村庄屋・黒山村庄屋・中間村庄屋の後、父の役を継いでいる(21・63)。下底井野触大庄屋有吉長平は文化十四年(一八一七)九月に父喜平の跡役として別府村庄屋に就任以後、中底井野触免用普請才判役兼帯、御成方兼帯を経て天保三年大庄屋に就任している(1)。大庄屋は村方の最高位にある。判例に通じ、識見や統率力が要求される。文化九年(一八一二)の福岡藩三九名の大庄屋のうち最年少は三〇歳、最年長は七〇歳、三九名の平均年齢が四六・七歳ということはそれを示している(42)。

第三節 遠賀郡の大庄屋と触

 藩政初期の十七世紀前半の遠賀郡の大庄屋の状態は定かではないが、触口庄屋が置かれ、一〇か村程度を管轄していたという。大庄屋は享保八年(一七二三)までは触口(ふれくち)と呼ばれているので、触口庄屋を以って大庄屋の前身と考えることができる。大庄屋各自の書上では当初より大庄屋と記されている(33)。今後の研究を待つ所である。

 遠賀郡に於ける触口の初見は延宝六年(一六七八)十二月の朳村触口藤介であるが、資料吟味の必要があり、確実な範囲では元禄十三年(一七〇〇)の上々津役村触口山本太次右衛門、及び、永犬丸村触口徳兵衛がある。触口は享保八年に大庄屋と呼称が変り、慶応四年(一八六八)六月、いわゆる御一新により再び触口と称したが、明治三年十二月大庄屋に復し、明治五年六月制度の変革により消失する。宝永五年(一七〇八)に朳村触口藤介(小田氏、前名孫蔵)が退役し、今古賀村小次郎が跡役に就任して以後の遠賀郡の触を示すと第5-20表の通りである。宝永五年(一七〇八)の五触の内、下上津役触は直方藩領の大庄屋であり、同藩に属する一二ケ村を管轄した。下上津役村大庄屋藤市は元禄十四年(一七〇一)五月二日に觸口に就任、享保五年(一七二〇)直方藩廃止後も、藤市(惣左衛門)・藤市(惣左衛門)・惣四郎と安永四年まで三代に亘り大庄屋を勤めている。触は原則的には郡中を東触・中触・西触・島(郷)触の四触に分けている。一触二〇か村前後である。第5-20表でも知れるように、五触や三触のこともある。三触になると一触三〇か村前後となる。他郡にも三〇か村を超える例は少くないが、全てが徒歩によらざるを得ない時代に大庄屋の負担も比例するであろう。勿論、郡村の大小も大に影響する。割替も普請組合等の関係もあり部分的にならざるを得ない。

遠賀郡の触

 大庄屋の管轄区域を触とか触下とかいう。大庄屋の数、即ち、触数が変れば当然触下村も変化する。遠賀町域が所属した触の構成村は第5-21表の通りである。これとても必ずしも固定されたものではない。例えば、有吉長平(与右衛門)が担当した触の場合、天保三年九月に大庄屋に任命された時は船津文四郎の跡役として中底井野触(虫生津触を継承)を担当したが、天保七年三月木守触継承に受持替となる。下底井野触である。それに先立ち、天保六年十二月に、木守触の内、中間村差し除け、下底井野村差し加えとなる。中間村は程なく旧に復し、下底井野村に差し加えになる。その後、安政六年(一八五九)六月には鬼津・若松の両村は別府触に、上底井野・中底井野両村は下底井野触にと夫々入れ替えられている。

第5-21表

 万延元年(一八六〇)九月、下底井野村大庄屋有吉与右衛門が病気退役し、遠賀郡は三触となる。一触減少による触下村の割変えは、本城・蜑住・別府の三大庄屋、下底井野触中の庄屋、及び組頭一人宛、熊手・田町・藤田・鳴水・前田・尾倉・大蔵の七か村の庄屋、及び組頭、上底井野村普請方藤田源八、下底井野村大庄屋名代(忰有吉与右衛門)を底井野郡代役所に呼び出し、次の通り通達された(21)。

本城触之内 熊手・藤田・田町・前田・鳴水・尾倉・大蔵、七ケ村
  右七ケ村蜑住触え附属
下底井野触之内 中間・岩瀬・二村・下二村・伊左坐・立屋敷・吉田・頃末・朳・古賀・猪熊・芦屋町・芦屋村・広渡・上村・垣生
  右拾六ケ村本城触ニ附属
中底井野・下底井野・木守・嶋津
  右四ケ村別府触え附属

 これにより、遠賀町域を含む触は第5-21表の通りとなる。明和期の三触時代と比べると、触下の構成は必ずしも同じではない。大庄屋役所の所在地が山田村と別府と異なるが、隣村であり、触下を変える程の要因ではない。普請組合などの関係も考慮されているかもしれないが、それ以外の要因、例えば、河西村々の状況などが考慮されているかもしれない。広渡村は山田触当時は西触に属しているが、四触時代には中触に属し、万延の割替でも本城触に属している。広渡・鬼津・島津などの村は、生活に不可欠の燃料と関連を有する山林が極めて少ない。行政的な事情もあるであろうが、寛永年間に掘られた遠賀川も関係しているかもしれない。慶応四年(一八六八)六月、御一新により大庄屋が廃止され、触口が設置された際にも、第5-21表に示す通り、広渡村は中間触に所属している。中間触は前別府村大庄屋仰木廉助が帰村したもの。新しく設けられた上底井野触は先の大庄屋有吉与右衛門の子与右衛門が入役をしたものである。明治三年に上底井野触は虫生津触に変更され、その後、大庄屋制度の廃止を迎える。触口の呼称は明治三年十二月に再び大庄屋に戻されている。

第四節 村の行政

 触下の行政を担当する大庄屋に対して、各村の行政は庄屋が担当する。庄屋の役は既に藩政時代以前より存在する。語源的に荘家、或は、荘官の屋敷から出た語であろう。藩政初期には、中世以来の有力農民が任命されることが多いが、後期には経済力が大きく働いている感じが強い。大庄屋には歴代世襲はないが、庄屋には世襲が少くない。慶応三年(一八六七)三月に「先祖之者已来弐百年余代々永続役儀相勤候者」を調べて称誉した際には遠賀郡より二五人、鞍手郡より一八人が挙げられている。遠賀町関係者は、別府村大庄屋(中間より入役)・木守村庄屋・広渡村旅人見廻役の三名が挙げられている(21)。

 庄屋は原則的には一村に一人置かれ、村落共同体の長として、村を代表し、村の行政を担当すると共に、貢租納入の決算、入会や水利の管理・監督、部分的な司法権の行使等村の全ての部分に関与し、居り合いを計る。庄屋は居村を担当するのみとは限らず、他村へ出向することも屢々行われる。入役である。遠賀地区、殊に藩政末期の中触・西触にはその傾向が強い。

 庄屋の下には組頭が置かれ、庄屋を補佐する。この役は年代により同一ではない。藩政初期より寛保元年(一七四一)迄は頭百姓と呼ばれており、翌二年より組頭の呼称が現れて来る。

 村方役人の種類も、後に示すように、年代により必ずしも同一ではない。組織や社会状勢を反映した役職が新たに設けられることもあれば、それ等を兼務することもある。その格式や序列も十八世紀の末期に大庄屋格が現れて以後(63)、年功のみではなくなってくる。殊に、御用金や寸志銀の名目で、その見返えりとして格式が与えられるようになる藩政末期には大庄屋格が氾濫してくる。無役の大庄屋格も少なからず出現する。

 庄屋の呼称は公式には庄屋であるが、非公式、或は、私的には里正・保正・農長などとも称する。同様に大庄屋は大里正・大保正ともいう。大庄屋格庄屋は大保正格農長と呼ぶこともできる。ある大庄屋の記には「任縣令郡下之極官無過焉、屬縣之丞椽及民無不服其裁者」(県令に任ぜらる。郡下の極官、これに過ぐることなし。属県の丞椽、及び民、其の裁に服せざる者なし)と述べている(27)。県令は大庄屋のことである。

 大庄屋・庄屋は有給であり、給米が渡される、大庄屋給米は郡切立より、庄屋給米は村定切立に含まれている。給米高は年代により異る。大庄屋給米は元文四年(一七三九)四月に「郡々大庄屋給米、此以後為役料現米五拾俵充被下候事。附り、筵田郡大庄屋は現米三十俵被下候事」と定められ(41-4)、寛保三年(一七四三)には「執筆給米拾五俵」が加えられた(41-4)。執筆給米は後三〇俵になる。これも宝暦十年(一七六〇)十二月に減少が計られるが、宝暦十三年二月に国中の大庄屋・庄屋の給米の定が改訂され、大庄屋給は筆墨料共で一〇〇俵となる。

 庄屋給米も元文四年の改訂以後第5-22の通り定められる。組頭や散仕にも村切立より給米が出る。組頭給は寛保三年の定では「四俵充」であったが、宝暦十三年以後は一人三俵充となる。組頭の内、年貢徴収を担当する者にも「相府加役給」が一俵、乃至、一俵半加給される。散仕給は村の規模によって異なる。水当給なども同様である。

 これ等の村役(散仕は村役ではない)たちは夫役(面役)に於いても一般とは異る。寛保三年(一七四三)の定では、大庄屋・庄屋は「家内人数不残面役御免」、組頭は「壹人面役引」とされているが、宝暦十三年の定では、大庄屋は「家内面役不引、其身壹人引」となり「庄屋家内面役相勤、其身壹人引」、「組頭面役三人引」、「山ノ口同三人引」、「散仕同壹人引」と変わる。文政五年(一八二二)五月の通達では、大庄屋・普請方・諸用聞・郡家守・郡目明・庄屋・組頭・山ノ口・散仕・渡守・出家・医師・馬医が面役一人引に指定されており他にも称誉にて面役御免の者も存在する。

 被差別部落の村役に対しては「給米取来之通ニて可相済候。減ル儀ハ村々形合次第勿論ニ候。給米なく、身前割方除之儀ハ是迄之通ニて可然候。組頭給米壹俵ニ不可過候。壹俵より減候儀ハ勝手次第ニ致させ可申」と定められており、他の村役と比べて大いに差別されている。

第5-22表

第五節 村役の立場

 大庄屋は前出のように、村役人としては、「郡下之極官」である。その責任も重く、村々の居合を保つには公平な行政も不可欠である。そのため、就任に当っては、次に示すような誓紙を郡奉行宛に提出している(19)。

遠賀鞍手両郡大庄屋中仕上起請文前書之事
一私共別て重キ御役儀被仰付候ニ付、迫ゝ御達被仰付置候通身分ヲ慎、家内迄も行状相改、聊も不正之取行不仕、潔白第一ニ相心得可申候事、
一去ル文化十三子年春御免御極御再興以後、期年毎ニ御極替被仰付候次第ハ誠ニ村ゝ御救之御趣意難有御儀奉存候。然上ハ村庄屋・組頭中心得方を始百姓中聊も不風俗之筋等無御座、農業一途二相傾キ、村ゝ居合之覚悟仕候様立入才判可仕候事
一御免相之儀、且又村ゝ強弱之次第、私共え御掛被遊候筋毛頭依怙贔負之沙汰不仕、実情を以言上仕、親子近族たり共他言不仕、且内意ケ間敷儀曽て仕間敷候事、
一右御用筋ニ付、如何様之次第有之候共、御郡方御手筋之御役ゝ様ハ不及申、御手筋違之御役方、別て御下役衆ニ對し内ゝ書通等仕間敷候事、
一村役人・百姓中より指出候願筋、是又聊も依怙贔屓不仕、実情を以吟味仕、明白相糺候上奥書可仕候事、
一村ゝ役人ニ可被仰付人柄、私共え御掛御詮議被仰付節は、一族縁類之者共を初、依怙贔屓之筋等不仕、可相勤人柄私共見込ヲ以言上可仕候、當人ハ猶更、何方へも内意ケ間敷儀仕間敷候、何事ニ不寄御含被仰付候儀決て他言仕間敷候事、
一御役筋ハ不及申上、其外ニても音信贈答之儀ハ追ゝ御達之御趣意堅相守可申候事、
右條ゝ於相背は
神文
  本城村大庄屋手傅
   佐藤傅三郎
天保九年十月
  修多羅村大庄屋
   太一郎
  別府村大庄屋
   弥作
  下底井野村大庄屋
   有吉与右衛門
村上弥左衛門様

 それでもなお農民の不平はあり、それが昂じた場合には騒動となる。大庄屋を対象としたものとしては、文化八年(一八一一)三月に穂波郡平常触大庄屋宅に触下村々が押し寄せた事件(2)や、翌年直方町大庄屋に押し寄せた事件があり、万延元年(一八六〇)十二月には遠賀郡蜑住触の農民五〇〇人が畠田山に屯集した事件(21)などもある。前者では、首謀者の農民五名と大庄屋は断罪、郡奉行は禁足の末、切腹している。後者では大庄屋は更迭されている。ある大庄屋について「功ナル人ナレトモ氏欲ノ強キ人也」と書かれたものもある(16)。感情的な反感も感じられる。

 庄屋に対する不満・不平も散見する。藩政末期の辰年(文政三年カ)。巳年(同4年)に、現遠賀町の若松村で生じた村民中の不満・不平には、年貢米未進の取扱い、鬼津堀川板井手下の開作、及び若松村芝原の開作、養育米銭の措置、住吉宮鳥居建立のための臨時切立の剰余金の措置、上ケ酒免札の取扱いに対する庄屋の処置に不公平を述べ立てている。文政元年は秋に虫気が出、百姓困窮、油備仕組も立てられているが、若松村では年貢皆済。同二年・三年は十月中に皆済、同四年は無刎皆済をしているが(3)、辰年の口上では代銭納の措置に対する不満が記されており(3)、年貢収納に対する庄屋の立場をも示している。養育米銭の件では、当時、若松村庄屋は養育銭預り(産子養育米代請持)を担当しており、その配分に対する不満を述べている。同村の場合は、郡代役所への願書の形を取っているが、願書には目安箱への提訴の計画も記されている。この結果か否かは明確ではないが、文政三年十二月には若松村庄屋は「産子養育米代請拂受持」兼帯を差除かれている。それに対し郡役所よりは心付として鳥目五〇〇文が与えられている。この事件は、支配者と被支配者の中間にいる藩政期の村庄屋の立場を物語っているものがある。

 多くの場合、村内に何等かの事件が発生したり、直訴等違法の行為が行われたりした場合や、村内が不居合の村では居村庄屋を更迭して、他村よりの入庄屋が行われている。若松村の場合は、庄屋はその儘継続している。ここにも為政者的立場と被支配者的立場の差異を感じさせるものがある。

第六節 身分と格式

 身分と格式を社会の基調とした封建制社会である藩政時代の社会では、上は家老より、下は一庶民に至るまで、何等かの形での序列が存在した。藩士に於いて、藩主に対する拝礼(御目見得)の可能・不可能を示めす直礼・半礼・無礼の身分制度もその一つである。直礼も拝礼の位置や方法により細分されている。

 遠賀町域が所属した郡方の村役に於いても、年代により異同があるが、明確に順位が定められていた。文政九年(一八二六)当時の遠賀・鞍手両郡の村方の役人の場合を頭順に示すと次の通りである(27)。

1大庄屋 2大庄屋格 3大庄屋手伝 4養育方 5普請方 6紙方頭取 7村庄屋 8宿庄屋 9年寄 10船庄屋 11大川受持 12堀川受持 13曲川受持 14山田溝受持 15浜山受持 16楮方受持 17紙方見取役 18炭方受持 19人参受持 20焚石会所人 21焚石会所勘定受持 22焚石会所山方見ヶ〆 23組頭 24山ノ口 25問屋 26町茶屋守 27諸用聞 28抜米見ケ〆 29郡家守 30人馬支配 31郡目明

 右の村役も年代によっては必ずしも同一ではない。天保寅年の通達では、右の内、11・17・18・19・20・21・27の項がなく、31も郡目明ではなく博奕改役となっている(56)。別項に示す寛政十三年の御仕組馬吟味役、今古賀村彦五郎は役付の庄屋格であり、卯年(安政二年カ)の若松村米太郎は無役ではあるが一代庄屋格が与えられている。殊に、藩政末期に至り、藩が財政窮乏打開策として、献金の見返りとして格式を与えるようになると、大庄屋格庄屋が続出し、無役の大庄屋格も少なくない。このことは町方・浦方に於いても同様である。安政三年(一八五六)以降は特にその傾向が強い。同年二月の通達では永納銀が一〇貫目に達すると永代一人扶持が与えられることになっている。これは第5-24表でも知れるように天保期でも同様であるが、当時は一両銀預六八匁替位であり、金にして一四七両余になる。正銀一五〇両の見当であろうか。安政二年冬の遠賀地区の米価は第5-39表の通り一俵八〇文銭二七匁である。両六貫八〇〇文替とすると、一四七両で四六二、七俵、石にして一五四石余となる。一五〇両とすると一五七石余となる。永代一人扶持の代償である。銀一〇貫目は大金であり、いかに上納を強制されても容易に達成し得る金額ではない。そのため、分納が認められている。上納金額が一〇貫目に達するまでは「年ゝ割合を以御救方ニて米相渡候事」となっている(3)。安政三年の若松村の場合は、藤次郎(四〇〇目)・傳七(四〇〇目)・平右衛門(二〇〇目)・徳右衛門(二〇〇目)・要七(二〇〇目)・忠次(二〇〇目)の六名にて一貫六〇〇目を指出し、各人一代脇差帯刀御免を得ている。

 触内の村役の名順は大庄屋以下前記の順に従うが、同一ランクに於いては就任年月日の古い順に基く、嘉永初期の別府触の村役名順は第5-23表の通りである。ここでは大庄屋格、及び、養育方は考慮されているが、普請方は対象とされていない。御成方も同様であり、苗字も役順には関係していない。この順位も一〇年を経ると大きく変っている。安政五年(一八五八)当時は次の通りになっている。

第5-23表

(野間)三輪佐一郎 (尾崎)源平 (鬼津)小野伝七 (戸切)江藤多吉(吉木)門司惣右衛門(高倉)幸次郎 貞次 (別府)正蔵 (手野)竹井専平 (若松)徳右衛門 (虫生津)寿平 (今古賀)角平 平作 (山田)嶺源次郎 清五郎 花田孫平 (三吉)伊六 (小鳥掛)才作 (糠塚)簱生大右衛門

 第5-23表の筆頭嶺久次は嘉永四年(一八五一)五月の上底井野村不居合事件で依願退役、その子源次郎も庄屋手伝を解かれ、山田溝才判役が残されていたが、翌六月二十五日に山田溝才判役も辞任し、父子一同に虫生津村に引揚げている。久次の場合、「依願退役被仰付、尤大庄屋格ハ被指除」と記されている(21)。逆に、無役でも大庄屋格もいる。嘉永期の遠賀町域では木守村小林弥一郎が該当する。万延期を過ぎると大庄屋格や苗字御免の者も急増する。万延二年(文久元年=一八六一)の遠賀町域だけでも、別府村庄屋、尾崎村庄屋、下底井野村庄屋、虫生津村庄屋、木守村旅人吟味方助役、島津村庄屋、鬼津村庄屋等が大庄屋格が与えられており、下底井野村には無役の大庄屋格も二名いる。苗字御免の者も多い。

 苗字・格式・役掛りの者は、前述のように、大庄屋格や役掛りの場合は序列に差異を見ることができるが、その他にも献金高に応じて種々の待遇を与えている。松原出、居郡出、脇差御免、慶事毎に料理頂戴、一口料理頂戴、吸物・酒頂戴、酒・鯣頂戴等である。日常生活に於いても、「一、雪駄裏付塗下駄・表付皮緒之踏物一切停止之事、但、皮緒之下駄ハ苗字・格式・役掛リ之者は相用候儀家族共ニ指免候事」(万延二年)のように特別待遇を与えており、慶応元年(一八六五)十月には遠賀・鞍手両郡の御用聞町人列の者一〇名に対して「追ゝ御銀用向出精志を相立候ニ付、其方共役中別儀ヲ以下着、并襟・袖口ニ軽キ絹相用候儀御免被成候。尤當閏五月一統相達候通、家族之者ハ御免無之ニ付、御制禁之品堅相用申間鋪候。此段相達候」と通達している(36)。一〇名は両郡御用聞町人列の者の一部ではある。

 安政五年(一八五八)八月の郡方改正以降、大庄屋の苗字・脇差帯刀は無条件で許可されており、安政七年二月以降では庄屋の脇差帯刀も無条件化するなど(22)、既に大庄屋・庄屋層には称誉による苗字・帯刀の新規該当者がなくなっていることを示す一方、身分制度の崩壊化をも示している。

 郡・町・浦に於ける格式の多発は序列の再編成を余儀なくしている。殊に、御用銀の調達などの関連で、在町でもない郡方に御用聞町人列の如く町方身分が入り込んで来るに及んでは止むを得ない。前記御用聞町人列の一〇名は、遠賀郡では戸畑・山鹿・海老津・芦屋の七名、鞍手郡は木屋瀬・頓野・上境の三名である。遠賀町域では下底井野村有吉与右衛門が慶応二年十月御用聞町人列に申付けられている。同人は当時上底井野村庄屋で大庄屋格である。

 文久四年(一八六四)正月十一日の年始御礼に際し、浦々の有徳者の内、寸志指出の称誉として、年始御礼出方を大庄屋次の順で許されていた者と、郡方の大庄屋格の者との間で混乱が生したため、同月二十日、新しく、次の通り、役順が定められた(21)。

大庄屋
御用聞町人列
大庄屋助役
年行司次上
年行司次
浦大庄屋次席
大庄屋格
年行司格
浦大庄屋格
年行司格次

 この役順は年始御礼出方の場合のものであり、年始御礼出方の有資格者に限られているが、前出の郡方の場合と異なり、郡町浦を通しての役順となっている。

第七節 米金献納と称誉

 寸志銀・御用銀・永納銀・助合米・救切等々の名目で行われる米銀の献納も、形式的には多くは農民の自発的な献納ではあるが、申付や割当の場合も少くない。農民側よりすれば、それに応じ得るか否かの問題である。米銀の献納と、その反対給付ともいうべき対応を、遠賀町域の数例で示すと第5-24・5-25・5-26表の通りである。これも記録で知り得る範囲ですべてではない。

 第5-24-1は第5-28表の第三代目に当たる。「沙汰に及ぶ」、及び、「吸物・酒頂戴」を除くと、「脇差帯刀御免」(以下脇差と略)―組頭―庄屋となっている。脇差帯刀は寛延二年(一七四八)五月に、「村々庄屋共脇差指来候も有之、不指来も有之候付、役儀為宰判、郡中一統に脇差御免之儀、郡代中より追々申出候。一統に御免之儀は、百姓追年花美之風俗脱に移候様成行候に付、御免難被成候」として、「他領堺目之村々、宿筋、并故在之村々」の庄屋にのみ許可になる。遠賀郡では、熊手村・藤田村・田町・若松村・芦屋村·戸畑村・枝光村・中原村・大蔵村・畑村の庄屋のみが指定されている。遠賀町域は対象とされていない。庄屋中の脇差帯刀が無条件で許可になるのは安政七年(一八六〇)二月以降のことである(22)。

第5-24表-1第5-24表‐2第5-24表‐3第5-25表

 喜兵衛の場合(1)、役儀就任前のことであり、称誉によるものといえる。役儀就任は、大庄座格・御用聞町人以外は称誉の対象外と考えてよい。

 同表2の長平の場合は(1)、文化十四年(一八一七)九月に父親喜兵衛の跡を継いで別府村庄屋に就任、喜兵衛は上底井野村庄屋に転ずる。その後の称誉と役儀は、表の範囲では、庄屋―普請方兼帯―御成方兼帯―一代苗字・忰代迄脇差―忰苗字―永代二人扶持―御目見・居郡出―忰代迄居郡出―居郡御目通出―忰代迄大庄屋格―忰代迄苗字となっている。苗字は旧姓瓜生氏を改め、有吉氏を用う。天保五年十二月、御救方仕組に際し、永納銀二〇貫目を納めて永代二人扶持を得る。この分は後に四男(弟)が隣郡に従子婿入に際して、婿引出物として与えられる。役儀上の称誉は省略しているので、表には上っていないが、後に一人扶持が与えられている。御目見は藩主の拝謁でその回限り。居郡出は藩主が参勤往来の節、居郡(遠賀郡)にて御目通出力を許すものである。

 同表3(1)の善兵衛は長平の長男、称誉の対象時は既に庄屋に就任している。その後は、一代脇差―一代大庄屋格・苗字―孫代迄苗字・忰代迄脇差―御用聞町人列―木綿羽織頂戴と経て触口に就任する。本来ならば相続の忰は先代の時に既に大庄屋格まで有資格者である。その分は他の兄弟に譲ったものであろうか。

 第5-26表(12)も庄屋就任後のことであるが、忰代迄脇差―居郡出―苗字御免―大庄屋格と進んでいる。居郡出の米一〇俵は、文久元年正月の米値段は一俵六貫五〇〇文位であるので、一〇俵では六五貫文になる。貸渡捨切の二〇二貫文は、一俵六貫五〇〇文とすると、三一俵余、冬の値段三貫六〇〇文で換算すると、五六俵余に相当する(2)。

第5-26表‐1第5-26表‐2

 第5-26表2(3)の重成の場合は、生涯面役一人引―普請方―村庄屋―忰代迄脇差―一代苗字・居郡出―一代大庄座格と進む。

 五例では、伝七重成の「生涯面役一人引」を除くと、一代脇差帯刀に始まり、大庄屋格で終る。長平は大庄屋本役に就任しているので、本人の大庄屋格はない。一代大庄屋格以後は忰・孫が対象となっている。脇差帯刀と一代大庄屋格の間は順序は一定していない。殊に、喜兵衛の場合は長平の代に既に忰代までの殆どの書附が出されているので一般的ではない。武七郎と伝七重成の忰代迄脇差の金額は両人ともに三両二分である。両者の一代苗字御免と居郡出のそれは武七郎が米一〇俵と丁銭二〇二貫余、伝七が金一〇両である。文久元年正月の米価の一俵六貫五〇〇文で換算すると、前者の一〇俵は約九両二分二朱、万延元年の米価三分一朱では八両二朱に当たる。丁銭二〇二貫文余は両六貫八〇〇文替で換算すると、二九、七両余、約三〇両である。両者を合計すると約四〇両に及び、伝七の一〇両に比し極めて大きい。単に一回の金額のみではなく、沙汰、吸物・酒頂戴・酒・鯣頂戴、料理頂戴等の書附が累積的に影響しているかもしれない。両者の大庄屋格については、前者は米三〇俵、後者は金三一両。万延二年の三一両は、前出の通り、三〇俵ないし三二俵余に相当する。両者の額はほぼ等しい。これ等よりすると、安政三年冬に寸志金献納者称誉定が制定されていたとしても(64)、それとは異なるが、一定の基準の存在は推測し得る。基準を超えた分については他の条件が附加される。善兵衛の安政五年の六銭二六貫四六匁は約二三〇両、米六七俵は三七両余に相当し、貸渡米金の延年や切捨であり、直接藩財政に寄与するものではないが、少ない金額ではない。伝七の大庄屋格・苗字・居郡出を合わせても四一両であり、約七分の一である。庄屋の役務や立場が考慮され、半強制的なものであったと仮定しても、公的な献金と私的な救助との違いであろうか。

 「沙汰」は「奇特之至」という称辞を伝える書附である。疱瘡祝の生鮒一五尾や牛房二苞・小豆一袋より、若殿出府の米一五俵まで諸種がある。寛政十一年の米価が、第5-39表の通り、八銭二八匁位とすると、匁一〇三文替として、米一五俵は銀三二六匁余に相当する。喜兵衛の通銭二貫五〇〇目は通銭が六〇文銭とすると銀一貫四五六匁余、八〇文銭とすると銀一貫九四一匁余に当たる。永納銀は分納・累積が可能で、一〇貫目で一人扶持が与えられるので、他の称誉の対象外としても、米八俵で吸物・酒頂戴、米一五俵で料理頂戴、銀一〇五匁や銀八〇目で酒・鯣頂戴、米一俵で酒・鯣頂戴等種々のケースがあり、その背景と関連して、一応の規準はあるとしても、かなりのケース バイ ケースの措置が推察される。

 吸物・酒頂戴や料理頂戴に於いても同様なことが推察される。前者では六銭二七五匁(米三俵余)より銀一貫五〇〇目まで種々の場合が見られる。長平には銀一貫五〇〇目で吸物・酒もあれば、銀一貫目で忰代迄居郡出や銀一貫三〇〇目で忰苗字もある。武七郎には米一五俵で料理頂戴、米一〇俵で居郡出がある。嘉永三年の損毛に対する救米の醵出は伝七にも全く同様なケースがある。一五俵は一五〇目として、八銭七五〇目(丁銭六〇貴文)、六〇目とすると九〇〇目(同七二貫文)に相当する。基準の存在は推測できるが、それまでの諸条件による措置がここでも考えられる。

 これら米銀の献納は、御用銀のように「申付」もあるが、多くは、献納を出願して、聞届の形を取っている。しかし、「申年(天保七年)損毛救米」、「戌年(嘉永三年)損毛救米」、「海防備」のように、各人に共通のものには申合せや割当てによるものもあるであろう。救米や救切も申付、又は、申合であり、貸渡米銭の切捨も同様である。

 万延元年(一八六〇)十二月に藩主長溥が少将より中将に昇進した通達が翌年二月郡中に届く。その祝儀として、速賀郡別府触より「御熨斗鮑代」を献上する。第5-27表の通りである。大庄屋格の者のみが対象とされている。形式的には「奉献上度御願申上候......御取上被仰付被為下候へハ難有冥加至極ニ奉存上候」とされており(21)、触内大庄屋格の者の自主的な申合せによる献上の形を取っている。同じ万延二年二月に別府触では「万延元年春秋両度麦・稲作損毛ニて、貧民立行不申ニ付、村ゝ仮成相暮候もの申談」で、粮物取続のため、寸志米金の醵出をする(21)。その合計は米七九四俵、金四三両一分、粟一四俵、麦二俵二斗に及ぶがこれは称誉の対象とはされていない。称誉の対象となる醵出として、金三五一両二分二朱、米一〇七俵が指し出され、両者を合せて救備が立てられている。称誉対象とされた後者の場合、大庄屋格御免三名(別府村庄屋筋田正蔵・鬼津村庄小野伝七・戸切村庄屋江藤多吉)、苗字脇差御免二名(虫生津村普請方貞五郎・鬼津村文四郎)苗字御免一人(木守村安右衛門)、苗字御料理頂戴一人(虫生津村圧屋寿平)を生んでいる。同時に「捨切借財」称誉として、大庄屋格二人(野間村庄屋猪八郎・下底井野村有吉藤次郎)、苗字御免三人(今古賀村庄屋角平・別府村組頭次三郎・若松村寿七)が挙げられている。称誉対象の醵出には「御称誉届有之向より指出候分」の文言があり、「相當之御称誉被仰付可被為下候」の大庄屋奥書が付されている(21)。明らかに称誉を意図した醵出と有徳の有志醵出とは区別されている。

第5-27表

 これ等の醵出は、相互扶助の大義名分のもと、一方では農民の名誉慾を利用し、行政の福祉政策の貧困、財政の貧困を補うものであるが、負担者である農民にとっては、御熨斗鮑代献納でもしれるように、称誉の各段階に応して、その負担に堪え得ることが条件となってくるであろう。

第八節 大庄屋の家

 近世封建制社会は身分と格式に支配された社会でもある。その中での地方行政担当者としての大庄屋・庄屋層の間には多くの通婚関係が見られる。身分・格式の関係もさりながら、地域行政の担当責任者である上、入役の存在もあり、地域行政の円滑化の上からも、必然的な傾向であったかもしれない。遠賀町域の例として、下底井野村大庄屋の場合を、その前後を含めて、図式化して示すと第5-28表の通りである。

第5-28表

 同家の場合、初代は田畠一町歩を分配されて分家。二代目は二男が相続、三八歳で他界したため、宗像郡より聟養子が入る。三代目に至り、寛政十二年に下底井野村組頭に就任、文化五年(一八〇八)閏六月別府村に庄屋として入役、文化十四年九月上底井野村庄屋に転じ、文政七年十一月病気にて退役する。この段階では周辺の村役の家との通婚関係は顕現してはいない。四代目は長男早世により二男が家を継ぎ、妻は鞍手郡上新入村庄屋の娘を迎える。四代目は父親と入れ代りに、文化十四年(一八一七)九月、一九歳にして別府村庄屋に就任、文政四年(一八二一)六月に普請方、同七年八月に御成方が加役される。天保三年(一八三二)九月、三五歳にして中底井野触大庄屋の跡を継いで大庄屋に就任し、帰村する。当初は中底井野触の後任であるが、天保七年三月にいわゆる「御救方大崩れ」により、御救方芦屋会所受持であった木守村大庄屋が退役するに及び、木守触の後任に受持替になる(1)。

 御救方仕組は天保五年四月に、家老久野外記を当職とし、奉行(勘定奉行同格)花房伝左衛門、御救請持白水要左衛門で発足した銀銭切手貸渡を軸とする制度である。村方では拝借銀切手を以って質入田地の受返しを主目的とする。遠賀地方では九月より御救方仕組が始まる。御救方の芦屋町会所請持には木守村大庄屋小林弥一郎・蜑住村大庄屋松井正五郎が任ぜられ、下役として鬼津村庄屋一郎次(天保五年中間村より入役)・陣原村庄屋三郎平が出勤している。「年暦算」は「九月より御上ミニ御救方始ル。永納銀指上候様との御事也。當秋作、初穂米と名付ケ、徳米壹俵ニ壹升充増上納被仰付。是も救方役所之根元也。當村庄屋一郎次御救役所受持ニ成、芦屋ニ出動。御救役所より拝借銀切手御渡。切手百目正金一両ニ立、年切受寄、田地受返し御免ニ成ル」と記している。御救方仕組は年限内質入田地・屋敷等の無利子元銭相立受返という窮民救済をも意図しているが、一方では永納銀の吸い揚げと「初穂米」の名目で、徳米一俵につき一升、一石につき三升の増徴が計られており、迷惑千万なことでもある。第5-2表に示す天保五年の遠賀町域一一か村の石高一〇四〇三石八斗一升九合よりすると、三四三三石二斗六升二勺が徳米となる。俵にすると石高と同一であるので、一〇四〇三俵余となる。俵一升の初穂料につき、遠賀町域のみで一〇四石余の増徴、遠賀郡全体で六〇一石余、藩全体では六五一七石余の増収となる。御救方の永納銀は寄附の銀高に応じて扶持米が与えられ、二〇〇目以上献納の者には脇指帯刀が許可される(2・3)。銀一〇貫目で永代一人扶持が与えられている(3)。下底井野村大庄屋有吉長平は銀二〇貫目を納め、永代二人扶持、脇指帯刀を得ている。

 四代目を迎えると、村役関係者との通婚が顕現する。当主は鞍手郡新入村庄屋の娘を妻に迎える。姉妹達は宗像郡勝浦村大庄屋をはじめ、虫生津村庄屋、黒崎商家(大庄屋格)にそれぞれ嫁ぎ、弟達も、分家した一人を除くと、虫生津村・鞍手郡内ケ磯(共に庄屋)、芦屋町商家、陣原村医師の養子となる。この傾向は五代目に於いても同様である。当主は二嶋村庄屋娘を娶る。姉妹は宗像郡陵厳寺村庄屋に二名、別府村庄屋、赤間駅蛭子屋、芦屋町大庄屋格商家、及び、神官にそれぞれ嫁ぎ、一名は頓野村庄屋の養女となっている。これ等と同様のことは、他の庄屋・大庄屋家に於いても大同小異であり、当時の社会に於いては、村役たちの職務上の関係や日常の交際よりしての必然の結果ともいうことができる。

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