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遠賀町誌 第五編 近世の遠賀町 第四章 年貢の収納

ページID:0026906 更新日:2024年2月29日更新 印刷ページ表示

第五編 近世の遠賀町 第四章 年貢の収納 [PDFファイル/1.34MB]


 年貢収納の定に、「大庄屋・村庄屋・其外有徳之百姓に至迄、年貢米・大豆自作之清米・大豆を以上納可仕候。給米、又は、下作之余米、或は借米指引之米をもって年貢蔵え隈に相納候儀堅停止候事」(宝暦一三年八月定)、「年貢納方連ゝ御法之趣堅相守、清米、大豆を撰ひ、速に相納候儀、百姓第一之本意に候条、役人之不待催促皆済月切に不拘相励、銘ゝ先を争ひ収納可仕事に候。若自由を構へ、納方不埒者有之歟、又は、皆済不仕内、他拂等いたすにおいては可為重科之旨相示可被申候事」(明治元年八月定)とある(22)。清米は半摺米である。

 藩政時代では、年貢の収納は、藩にとっても、農民にとっても最重要事であり、郡方行政のすべての根底には貢納がある。その貢納制度も年代により、必ずしも同一ではない。収納の担当者については別項に委ね、ここでは納入について触れる。

第一節 田の年貢と畠の年貢

 国の年貢は原則として米にて納め、畠の年貢は大豆にて納める。畠方年貢は大豆を本旨とし、残分を代銀で上納した時代(元文三年定)や、大豆上納を止め、三月切代銀上納とされた時代(延享二年五月定)、代銀上納・代米上納勝手次第とされた時代(宝暦六年定)等ある。万作については「田法雑話」は「元和三年十月朔日御定書之内に畠の物成は畑に有之物、それゝ納所可申と被記候よし」として、延宝七年(一六七九)極、元禄六年(一六九三)極、正徳五年(一七一五)補足を挙げ、「萬作は其村畠春反別に掛る」と記している。延宝七年極では、麻・小きひ・あひ・小豆・粟・蕎麦・コナシ畑・たはこ・炯麻・大豆・大豆角・薭・木綿・大根・イモを、元禄六年極では、大豆・小豆・粟・黍・蕎麦・コナシ畑・大根・木綿を挙げている。正徳五年は「損益有り、又其後も補ひ有之」として、大豆・粟・蕎麦を示している。第5-9表の通り、遠賀町域に於いても万作は行われている。万作の貢納について、宝暦六年(一七五六)の「御納方定書」では「一、田畠致万作、秋前より代銀追ゝ取立候分、銀蔵え間通帳を以取立之度ニ納置、秋ニ至、米・大豆代銀納之通帳銀蔵え庄屋持出、間通之銀高写取一ケ條書記勘定可相立事と定められているが、「此ケ條、遠賀・鞍手ニハ無御座候。尤畠方代銀納ハ御定之通御銀蔵払通帳を以上納仕候事」と註記されており(26)、代銀納されている。

第二節 枡

 福岡藩で用いられた米をはかる枡には、古枡、納枡、御国町枡、今枡などがある。今枡は京枡にて釣枡ともいう。各枡の容量は同一ではない。納枡は黒田長政が定めた上納用の枡といい、今枡に統一される迄の上納は納枡によって行われている。麦の上納には町枡が見られる。元和八年(一六二二)十月の「於江戸被仰付舛のためし覚」((43)上二四二頁)では、各枡の関係は第5-29表の通りである。ためしの対象によってはかなりの差異がある。表よりすると、黒米によるためしでは納斗枡・御国町枡・江戸釣枡の順に大きく、白米によるためしでは御国町枡と江戸釣枡の順位が不明、大豆でも同様である。算面による容量は第5-30表の通りである。江戸枡は京枡と同一視されているものもあるが、ここでは一斗枡=方一尺五分、高さ五寸九分一厘より算出している。

第5-29表第5-30表

 寛文九年(一六六九)二月、幕府により京枡に統一され、同年閏十月より古枡の使用が禁止される。これにより、寛文一〇年より今枡(釣枡)により年貢米が計られることになる。松本久蔭は「松本雑録」で「遠賀郡ニテハ村ゝノ年貢米ヲ計事寛文十二年ヨリ釣升ニナル事、立屋敷・小鳥掛両村トモニ石別帳ニミヘタリ」としているが確認することができない。

 収納はその村庄屋・組頭立合いの上計り立て、俵拵えが原則である。福岡藩の一俵は三斗三升に込米一升を加え三斗四升入りである。一俵は三斗三升で計算される。これを「三ツ俵」(みつびょう)とか、「三俵一石」ともいう。三斗三升は福岡藩の免率(租率)「三ツ三分」に由縁するともいう。込来の一升は「口米」といい、享保期以前には代官の給米に当てられていたものの転化という。年貢米の計量は、元文期以後は「斗枡、斗棒立」を原則とするが、大坂に廻送される分は、大坂廻着時にも欠立(不足)がないように込米を入れるので、正実入味は三斗四升を越える。出米は過米となる。天明七年(一七八七)当時の、若松蔵納地区の計量を、触ごとに比較すると第5-31込表となる。原則的には一俵三斗四升三合詰といえる。棒立は元文五年(一七四〇)六月に「御年貢米斗(計)様は斗枡に斗棒立」と定められて以後定着したものと思われる。「斗棒かすり切り」で計らない時には三斗四升五合入もあったという。中間触では旧前は斗枡三、三升枡一、一升枡一で三斗四升にし、それに三・四合充て込み米を入れていたが、収納の節に枡落ちがあるといけないので、安永の頃より四升三・四合入りの箱を作製し、斗枡三と箱一で一俵としている。虫生津触の四升三合箱も全く同様であり、山口触の四升枡も同種である。虫生津触や田久触では棒立計の上に掛目を併用している。虫生津触は八八斤以上、田久触は九〇斤となっている(51)。斤量掛の場合、現在同様に一石一五〇キログラムで換算すると八八斤は三斗五升二合、九〇斤は三斗六升に相当する。八五斤で三斗四升である。風袋と・米種による軽重考慮しても三斗四升三合は越えるであろう。小石触は斤量掛である。遠賀町域は第5-21表の通り虫生津触と中間触に所属する。

第5-31表

第三節 貢米の輸送

 福岡藩の年貢米は福岡城中の上蔵、同城下湊町の下蔵、遠賀郡修多羅村石崎の新長蔵、及び、怡土郡横浜の蔵に収納される。福岡の蔵は永蔵(長蔵・永倉)と呼ぶ。長蔵には那珂郡・早良郡・席田郡・粕屋郡・御笠郡・上座郡・下座郡・夜須郡・宗像郡(九ケ村を除く)、及び、鞍手郡縁山畑の貢米が収納され、給禄や給扶などに当てられる。横浜の蔵には怡土・志摩両郡の貢米が収納され、大坂、その他の売米に当てられる。遠賀郡・鞍手郡・嘉麻郡・穂波郡、及び宗像郡の内、三郎丸・陵厳寺・赤間・石丸・武丸・吉留・藤原・名残・徳重の九か村の米は修多羅の蔵に集められ、すべて大坂廻米に当てられる。筑豊の貢米は当初は福岡へ廻送されていたが、元禄十二年、(一六九九)に芦屋町太田喜兵衛所に積立となり、享保五年(一七二〇)に蔵が芦屋より修多羅村石崎の地に建替えられたのを機に、修多羅の蔵、すなわち、若松新長蔵払となる。各村の年貢蔵(蔵元)より若松積立所までの搬送は各村が行う。運賃は貢納者の負担である。輸送は陸路、水路等事情により異なるが、一定の方法で行われる。水路の利用には本場(米場)の舟か浦方の船が利用される。川艜の場合、貢米輸送は本場の艜に限られる。遠賀町域の場合は、第5-32表の通り、すべて水運が利用される。各村の蔵元より各村の船場まで岡出しされ、それより船に積みかえて若松積立所に廻送される。若松にて欠立などにより刎俵がある場合は所定の預り蔵に持ち込まれ措置される。天明期の中間、虫生津両触の預り担当は豊後屋源九郎である。完済して年貢収納は終わる。

第5-32表

第四節 貢米の収納

 貢米の収納は、通常の場合、米・大豆の計量、俵拵に始まる。収納は藩庁より下才判を申し付けられた大庄屋の監督の下、村庄屋・組頭が行う。貢米の計量は元文五年(一七四〇)以後は斗枡、斗棒立で行われる。大豆は「三升枡乗り次第」と定められており、棒立計ではない(26)。第5-31表の大豆の一俵が三斗五升であるのもそのためであろうか。米・大豆の品質の基準は寛保元年(一七四一)七月以降は手本米・大豆が村々庄屋に渡される。それを基準に収納し、永蔵三か所積立所にて、俵別三勺の指入改を行う。手本より悪い場合は刎俵と定められているが、宝暦六年(一七五六)当時、「此ケ条ハ今程遠賀・鞍手ニ取用無御坐候事」(御納方定書)と註記されており(26)、遠賀郡では行われていない。村々の収納は蔵元に於いてなされる。上納に不適当な米がある場合には、その村中の作徳米を撰び、振替えて上納用に当てる。どうしても現米払ができない場合は願書を出し、下知を受けて、指紙や代銀で上納する。特に若松納めの地区はすべて大坂登せ米につき、この措置が取られる。

 俵拵は大坂廻着時も欠立(不足)のないように込米が入れられ、米主の名札をつけて俵に仕立てられる。俵拵の縄は通常は小縄であったが、安政五年(一八五八)秋よりは大縄仕立になる。いわゆる「弾正縄」である。これは俵拵の丈夫さを目的としているが、上方での評判を意図している。「年暦算」は「当秋より御年貢米俵拵大縄仕立ニ相成、格別之事替ニ付、俵拵六ケ敷、百姓困入。近年立花弾正様御当職ニて諸事相変り御改政ニ成」と困却の様を記している。半縄(はなわ)は小縄に比して綯うのに数倍の労力を要し、農民にとっては迷惑千万なことである。俵拵も蔵元での計量を原則とするが、「収納日ハ堅村蔵ニ持出計立可申之処、閙敷時節ニ付、折節ハ入計ニ被仰付候義ハ、私共御厭被下候て之御義、格別難有奉存上候」(嘉永四年(28))の文言もあり、前以っての俵拵のあることを示している。計立の翌朝、米主立会のもと、懸改め、蔵入帳に俵数を記載し、蔵元に収納される。

弾正縄の年貢俵

 貢米の収納には期限がある。「収納定」に「皆済不仕内、他払等いたすにおいては可為重科」(明和元年)とか、「村ゝ年貢皆済不仕内、他払立米見当候か、又は聞付候ハゝ可申出候。屹度御褒美可被下者也」(明和三年)とある。年貢の皆済後でないと米の他払いはできない。納入期限は宝暦六年の定では、所務米大豆は、米は十一月切、大豆は十二月切、夏大豆は九月切に現物で皆済、皆納は翌年三月切と定められている。大坂登り米大豆は十二月切に三か所積立所に納入、夏大豆は八月切に納入の定めである。三月切皆納は代銀上納である。蔵元に収納された貢米は規定の積出所に津出され、上乗り百姓をつけて、そこより若松積立所に廻送される。集積地は、遠賀町域の場合は旱魃などで川艜の運航に支障がある場合を除いては固定されているであろうが必ずしも固定されたものではない。殊に、鞍手郡では中継所の必要な所があり、その傾向が強い。収納は郡代や郡奉行が担当したが、藩政末期には蔵奉行が廻村し、取立に当っている。取立は一日につき三〇〇〇俵宛行われている。慶応二年(一八六六)の場合、遠賀町周辺の蔵奉行年貢取立日割は第5-33表の通りである。

第5-33表

 藩政期後半には、早期収納を促進する意図でか、「村中壱番皆済」「触中壱番皆済」等の措置が取られる。文政四年(一八二一)十月に改訂された表彰規定は次の通りである。文政四年の改訂は、従来の規定では、上納の俵数の少ない者や上納高の少ない村のみが有利であり、上納高の多い者や村は不利であったので、それを是正したものである。

一 村中壱番皆済

 村中壱番皆済は五俵以上、何俵でも村中で一番に皆納した者があった日より起算し、一日三俵増の割合で計算して定める。五俵皆納したものが一番皆納であった場合、翌日は三俵増の八俵皆納までは採用せず、九俵皆納者を壱番皆済とする。その翌日は一三俵以上皆納でないと壱番皆済にはならない。十日目ならば三七俵以上を要する。初日の皆納者が四〇俵ならば、二日目は四四俵でなければ壱番皆済とはならない。この規定は、年々の季候により、十月末日までとか、十一月五日までとか日限を定めて行われる。通常は十月末の予定である。その期限を過ぎると「いか程俵数余分皆納致し候ても、壱番皆済の沙汰に及ばず」と定められている(22)。壱番皆済者には次のような称美の書附が渡される(3)。

申渡覚
     若松村
      百姓
       貞平
去辰年御年貢村中壱番ニ皆済いたし候段相達候御納方之儀は連ゝ相達置事ニ付其筈之ニは候得共致出精候段奇特之至ニ候。依之壱番皆済之処年貢蔵え致懸札候条弥出精可致候事。
  巳七月
      不居合 村上甚十郎
          平野茂兵衛

二 触中壱番皆済

 触中壱番皆済も村中壱番皆済と同趣である。触中で壱番皆済の村があり、その俵数が一〇〇俵とすると、その翌日より一日二五俵増となり、翌日一二六俵皆済の村が採用される。以下順次、一日につき二五俵増で計算され、それ以前の分は壱番皆済の資格を失う。触中壱番皆済は十一月二十九日〆切であり、それ以後はどれ程多くの俵数を皆済の村があってもこの定則は採用されず、称美の沙汰もない。弘化二年(一八四五)の控では「此弐拾五俵近年五拾俵に相成居申候也」と記入されており(22)、基準が引き上げられている。触中壱番皆済には次のような書附が渡される。

  覚
   嶋津村
     庄屋
     組頭
     組頭取 中
     百性
去ル申年御年貢米大豆若松払十月八日切触中一番皆済いたし候段相達候。御納方之儀は連ゝ相達置事ニ付、其筈之事ニハ候得共畢竟庄屋・組頭才判能ク、組頭取・百性中一致ニ申合せ、入念候故之事ニて奇特之至承届候。弥ゝ此先致出精、風俗宜ク可申合候事。
 (文久元)酉九月
         衣非安六郎

三 郡中壱番皆済

 文政四年の「御納方壱番拂村調子心得書」には含まれていないが、郡中壱番皆済も存在する。触中壱番済の第一位者であろうか。次に示す鬼津村の例は嘉永七年(一八五四)のものである(3)。郡中一番皆済の創設の年代は明らかにし得ない。

  申渡覚
      鬼津村
       庄屋
        傳七
       組頭中
       組頭取中
       百姓中
去丑年御年貢米大豆若松払十月晦日切郡中壱番致皆済候段相達候。御納方之儀は連ゝ相達置事ニ付、其筈之事ニ候得共、畢竟庄屋・組頭才判能、組頭取百姓中一致ニ申合、入念候故之事ニて奇特之至承届候、弥出精いたし、風俗宜可申合候事。

九月
貞之進

一番皆済書付

四 早期皆済

 村中壱番皆済には前述の通りの定則があり、それに適合しないと壱番皆済にはならないが、年々五〇俵以上の上納を、十月中に全皆済した者は、「触内にも稀に可有之」「格別志相立」てた者として称美の対象とされる。勿論、村中壱番皆済者のように、年貢蔵に壱番皆済の懸札をされることはないであろう。遠賀町域に於いても、一番皆済を含めて、早期皆済の例は少なくない。第5-34表にその若干を示す。安政元年(一八五四)の嶋津村では九月十八日に皆済しているが一番皆済ではない。嘉永六年(一八五三)の嶋津・鬼津両村の場合では、貢納高は島津三五二俵余、鬼津六三四俵余と著しく異なるが、僅か四日の差で、鬼津村の場合は郡中一番皆済であり、島津村では早期皆済に過ぎない。郡中一番皆済も十月晦日と極めて遅い。嘉永六年は、五月十八日には島津村本川尻が決潰する大雨があった。同月二十三日の大夕立以後、所によっては六月十二日に夕立があっているが、八月二日まで七十日に及ぶ大旱魃の年であり、それが皆済の期日の遅れとなっているのであろう。

第5-34表

 早期皆済の書附は「庄屋・組頭中・百姓中」に当てて与えられ、「村中一致ニ申合出精いたし候故之事ニて奇特之至」「畢竟庄屋・組頭宰判能、組頭取・百姓中申合宜敷故之事ニ候」と記されているが、その村の居合いの良否や、庄屋宰判の影響も否定し難い。若松村では、文政三年(一八二〇)の「乍恐若松村百姓中寄合之上ニて御願申上ル口上之覚」には、「当村庄屋......役儀之年より村内御上納方未進殊外多く相成、甚百姓難渋之者多く相成申候」とある(3)。文政九年(一八二六)五月の願書では、戸籍(宗旨)取扱のことに言及し、「右共之儀も利三郎役義村方甚相嫌候間、無拠御願申上候。何分御慈非(ママ)之上を以、庄屋役御立替被仰付可被為下候、□□御立替不被為下候ハハ、追ゝ御城下御目安に無是非書入可申上候。願之通被仰付被為下候ハハ、早速村□(中カ)相納、農業出精仕、萬事相慎可申上候」と述べている(3)。庄屋の宰判に対する村民の不平や不満が、後者では庄屋の更迭を願い出るに至っている。

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