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遠賀町誌 第五編 近世の遠賀町 第五章 水との闘い―遠賀川―

ページID:0026907 更新日:2023年4月20日更新 印刷ページ表示

第五編 近世の遠賀町 第五章 水との闘い―遠賀川― [PDFファイル/1.84MB]


第一節 遠賀川の変遷

 元和七年正月十四日、吉田堀川の工事が開始される。後に云う「遠賀堀川」である。黒田長政は御牧川の治水を企図し、自ら再度に亘り地理を見分、鞍手郡下大隈村の辺よりより東の方へ新川を堀り、御牧郡中間村・岩瀬村・吉田村・折尾村を経て洞海湾に注ぎ、御牧川の水を二分することにした。これにより川筋村々の洪水を防ぎ、田畠に灌漑用水を供給し、新田の開発をも意図している。工事は農繁期の五月・九月・十月、寒期の十一月・十二月を避けて、正月より三月までと、六月より八月までの六か月と定められている。着工三年目の元和九年、藩主長政の死去などにより工事は中止される。吉田村大膳堀はその古跡である。

 吉田堀川の工事中止の後、当職小河内蔵允の詮議により御牧川の工事が着手される。当時の御牧川は西は遠賀庄を境い、東は上底井野・中底井野・下底井野・今古賀・松ノ本・広渡の各村に沿って流れ、広渡村の下にて二股に岐れ、一流は若松・島津両村の間を流れて芦屋の津に注ぎ、一流は古賀村の前より浅川村三頭の辺に出て江川に注いでいた。遠賀庄は波津・原・内浦・高倉・吉木・三吉・野間・城(上)畑・海老津・山田・戸切・手野・黒山・糠塚・鬼津・芦屋・別府・虫生津の一八か村をいう。尾崎・若松・小鳥掛は鬼津に属している。芦屋村は大城を意味する。現在では川西に属している垣生・三底井野・木守・今古賀・広渡の各村は、当時では川東の村である。御牧川工事の継続は長政の遺言でもある(43)。

 工事は御牧川川上の垣生村の辺より広渡村の下、古賀村の辺に大川を堀り通し、御牧川の末と結ぶものである。御牧川の迂回部分を直線的に流れを変えるもので、現在の遠賀川である。広渡村と立屋敷村は旧前は陸続きであったが、この工事により川を距てる別村となったという。

 右は松本久蔭が「岡郡宗社志」で述べている概要である。「福岡藩民政誌略(41-1)」は「遠賀川は昔は幅百間或は八十間より狭からず、洲沙稀にして、流水滞らず。且川西上木月村に、白水道と称する支流を開き、洪水には水を分ち、其下流は芦屋の祇園崎にて、本水と合せしに、寛文中川東楠橋、下大隈二村の地に幅三十間、長五百三十間の渠を鑿ち、本支二流となし、延享中彼白水道を塞ぎしに、東の支水本流と合ひて、一流となれり。また川中に洲沙を生ずるもあり。是を附洲田と称す。彼是を以て流水滞り、害をなす事少からず」と記している。「慶長年間筑前國図」には既に東西両川とも描かれている。慶長図は慶長十年(一六〇五)十月に幕府に提出されたという一方(41-3)、竹森家文書「遠賀川御普請人高注文写(43)」では次の如く記されている。

  芦屋・はふ・ならつ其外川筋の分
一二千五百五十坪   宗像・御牧・鞍手・かま・穂波以上五郡
                     人数五千百六人
                 奉公人         芦屋新堀
一二千百坪                人数一万五百人
                 奉公人         はふ(垣生)
一二百拾坪                人数八百四拾人
                 奉公人         同所うらの山堀切り
一三百坪                 人数千弐百人
                 右五郡百姓       そこいの(底井野)山の堀切り
一千七百四拾坪           人数三千四百八拾人
(下略)

 右の「はぶ」(垣生)・「同所(垣生)うらの山堀切」・「そこいの山の堀切」工事は翌慶長十八年正月五日より普請が命じられている((43)No.七〇九)。三か所が具体的にはどの位置の工事を指すかは図面を伴っていないので明確ではないが、位置的には白水道の工事とも考えられる。この工事が東西両川を結ぶ工事であったとすると慶長図はそれ以後の作製となる。

 寛永五年(一六二八)、御牧川の築堤工事が行われる。「岡郡宗社志」は「同五年為洪水防遠賀川東西、大凡二百間を大土手御築立、(中略)、右御普請ニ付、土手外田畠御勘定引ニ被仰付、悉荒牟田浮洲と相成候」と記している。「筑前地方近世年表(42)」に「寛永五年遠賀郡中間村より古賀村まで西は大生(ママ土の誤カ)より廣渡まで大川両脇に五丁許土手出来、并掘川出来」とあるのと対応する。後者の「并掘川出来」が何を意味するか不明であるが、新に川を堀ったとすれば、前述の「岡郡宗社志」の記述を肯定することにもなる。

 万治三年(一六六〇)、鞍手郡下大隈村抱より御牧郡楠橋村抱の間に新川堀り通し普請が着工される。いわゆる「新川」である。遠賀川は下大隈村の所の「曲之手」で大きくカーブしている。そのため、洪水の節には堤防決潰等の水害の生ずる可能性が強いので、直線的にする工事である。第5-2図の「切所」より「東井手」下までがそれであろう。この工事で、古川と新川に狭まれた地区が島となる。現在の中島がそれである。現在、中島は二つに分割されているが、それは後の工事によるものである。同島に古墳が存在するのも、同島は本来は楠橋村と陸続きであったものであり、肯じ得る。前掲の「福岡藩民政誌略」に「寛文中川東楠橋、下大隈二村の地に幅三十間、長五百三十間の渠を鑿」とあるのがこれである。

 寛文四年(一六六四)九月、公義の通達により、御牧郡は遠賀郡と旧称に復す。これにより御牧川(水巻川)も遠賀川と改称することになる。

 延享元年(一七四四)に至り、遠賀川河口近くの大改修工事が行われる。「喜太郎土手」・「首土手」・「喜太郎刎」・「喜太郎一作」の名を残す工事である。喜太郎とはその工事の中心となった立屋敷村庄屋入江喜太郎のことである。この大工事の経緯は「岡郡宗社志」によると次の通りである。

 一八世初頭頃の遠賀川下流域の様子は「元禄十四年筑前國図」(「福岡県史料」第八輯)によると第2-3図の通りである。当時、遠賀川の東水下郷である中間・岩瀬・二・下二・伊左坐・立屋敷・吉田・頃末・朳の九か村は年々水損が多く、旱魃に際しては「他村ニ越へ第一ニ日損、右至て之不定地村ニて、百姓苦労仕候のミニて、其甲斐無之、年ゝ水旱之憂ヲ不遁」る状態に置かれていた。この九か村の灌漑用水は、遠賀川よりの取水、及び、岩瀬村さや堤・吉田村宮尾堤・頃末村てこしょうじ新堤などの溜池を除くと、曲川に頼っていた(土師家一田文書)。曲川は中間・岩瀬より出で、朳村の前に流れ、古賀村で遠賀川に合流していた。そのため、洪水の節に遠賀川の水が逆流するのを防ぐ措置として、朳村抱古賀村境に「大川筋洪水防キ石唐戸」が設けられていたが、洪水の時には、どのように曲川の水勢が強くても大川の水勢には勝てず、唐戸は閉じた侭で曲川の水は吐き得なかった。更に、満潮もそれに拍車をかけたであろう。その間、郷内は曲川の水が侵水し、田畠に水害を生じていた。それにつき、宝永期より堀川工事の再開が要望され、元文二年(一七三七)には大膳堀に代り、頃末村苗代谷繰貫き工事に着手するなど水引普請が種々試みられたが、いずれも不成功におわっている。立屋敷村庄屋喜太郎は遠賀川と曲川の川口の分離を企図するが、川西の村々とも関連する大工事であるため出願の躊躇を余儀なくされていた。当時の遠賀川は、第2―3図に示すように、広渡村の下で二股に岐れ、西一筋は島津・若松の方に流、東一筋は古賀村前より浅川村に至り洞海(江川)に注いでいる。東の流れは古賀村の所で更に二つに岐れる。一筋は浅川に至る本川筋であり、一筋は寛永の頃に荒水吐として、島津・猪熊両村の間を掘り通したものである。この筋は貞享二年(一六八五)に拡幅されはしたが、平水時には水勢も小さい川である。喜太郎の計画は古賀村前で東の本流を築切り、荒水吐川を本流とするものである。喜太郎はこの計画をくわしく願書に認めて寛保三年夏郡代山中甚六に提出した。同年十一月六日、郡代は立屋敷村庄屋喜太郎・伊左坐村庄屋源七・朳村庄屋徳次郎・古賀村庄屋源右衛門・猪熊村庄屋与助等を伴って現地を視察・検討、その結果大頭衆の見分を受けることにした。しかし、郡代にはいくつかの懸念があった。大川筋は兼ねて公義へ図面をさし出していることであり、果して川口の模様変えが可能であるか否か。川口普請は大工事であり、一度否定されると再発議が不可能なこと。施工してもなお曲川の内水引きが思わしくない場合のこと、などである。その点について、喜太郎の心底を質したが、「数十年土手筋ニ罷在、洪水之節ハ度ゝ得と見繕ひ候処、右御普請被仰付候ハゝ、川東水引唐戸ハ定明ニて裏打候様之儀ハ有之間敷、然は唐戸も同所(杁村内)ニては無用之ものニ可相成と奉存上候。願之通御普請被仰付候以後ハ将して同所ニて無用之ものニ相成、安永六年ニ至リ川下モ猪熊村抱ニ引下ケ、三ケ頭之辺ニ七間唐戸御仕居被仰付。万一郷内水引不宣、甚六様御難儀ニ成行候ハゝ乍恐喜太郎一命差上ケ可申上候間、宜敷御聞通被仰付候様」との返事を得、直ちに黒崎宿に赴き、滞在中の吉田六郎太夫に事態を説明した。十一月八日、吉田六郎太夫、郡奉行河村武左衛門、郡代山中甚六は吉田村経由で古賀村普請所へ到着、現地の見分をした。ここにて郡奉行も喜太郎の決意を質す。喜太郎の返事は「御意次第何時ニても一命差上ケ可申上候間、右御普請之儀ハ今日御見分之上願之通御聞済ニ相成候様偏奉願上候。若又御聞通ニ相成不申候節ハ水下庄屋中不残役儀御免可被仰付候様重畳奉願上候」、「只今之通年ゝ水損仕候ては庄屋役難相勤ク候間御免可被仰付候様幾重ニも御慈悲之上右御普請願之通御聞済被為下候ハゝ無此上難有仕合ニ奉存上候。此節御聞通ニ不相成候ハゝ結構之御普請も其儘ニて、末ゝ之者迚も再応之願ハ申上ケ間敷と甚心痛仕、所柄之存亡今日ニ相極候御儀と奉存上候」と歎願した。一行は古賀村庄屋源右衛門宅にて昼休し、出立の折、黒茶羽織を着て控えていた喜太郎に対し、六郎太夫より「出来したり、宜敷普請と相見へ、甚六へも見立宜敷相聞候間、出精いたし川口築切可申」と伝えたという。これより、何事によらず、当時にて功あるものをさして「黒茶羽織」と呼ぶという。十一月十日、吉田六郎太夫、郡奉行粟生十右衛門は今古賀村に泊り、翌十一日再び古賀村前普請所を見分。其の節、粟生十右衛門より喜太郎に対し、「此節水下村ゝ御普請ニ付、諸人之難儀を身替へ申上候段、扨ゝ神妙ニ被思召上、御沙汰ニ及候。仮令、右御普請無益ニ相成候とて、其方身命可召上様無之候間、必心遣イ致間敷」旨を伝達した。

 工事は翌延享元年四月二十七日、郡代山中甚六が古賀村へ入込み開始される。二十八・九の両日に、古賀村前より猪熊村まで大土手一二三五間(一〇〇〇間猪熊村二三五間古賀村抱)の大土手築立工事を夫五〇〇〇人を以って行い、五月朔日より三日迄に古賀村前大川口築切工事を出夫一万人を以って行っている。明和二年より同六年までの面役数年平均は六五七二人である。出夫の範囲が不明であるが、仮に遠賀郡のみとすると、大庄屋儀右衛門の率いる当該の今古賀触のみでは如何ともし難く、下上津役触・山田触を加えるとかろうじて可能であろう。農繁期・田植前の、しかも、大潮の間の僅かな日数で終らせねばならない工事であり、郡内よりの出夫も考えられるが、同年二月には穴生村・戸畑村の干潟に新田を作ることが許可になっており、東触(上々津役触)は対象外とせねばならないであろう。

 この工事により、古賀村の辺にて二股に岐れていた遠賀川は、両土手の間の川幅一三〇間余という浅川三ツ頭に出、洞海へ注いでいた本流が堰き止められ、島津・猪熊両村間を芦屋洲口へ出る一流が大川洪水引と定められた。この川は寛永五年(一六二八)に堀通され、貞享二年(一六八五)に拡幅されはしたが、平水川幅が八・九間しかなかったため、洪水で少しずつ川幅も広くなって行く。

 古賀・猪熊間の大土手築立に続いて、同年八月には広渡・島津の間にも大土手築立が命ぜられ、鞍手郡下大隈村抱白水道口をも築切とされた。これにより、平水での遠賀川より両川への流入は断たれ、遠賀川下流も一筋になる。築切の古賀村前、広渡・島津間、白水道は夫々洪水の節は洗越にされていた。古賀村前の新土手は延享二年五月に笠上・腹付工事が行われたが、寛延三年(一七五〇)には願により築留となった。白水道は「底井野覧古」には「寛延元辰年築切りに相成」とあり、「延享三年石畳の上、御築切りに相成候、以後、石箱も御取除きこれ有り」ともある。又、延享四年ともある。「洗越しの石畳、長さ三十五間、横六間斗り、高さ川底より壱間、水落口の石箱長さ弐拾五間、天井底樋共に幅壱間」(鞍手町誌)ともいう。「石箱も御取除き」、「當村(木月)白水道流古川跡(中略)新一作田数八反八畝廿五歩半、宝暦四年(一七五四)本村分古田御結込ニ相成申候」(鞍手町誌上巻五六〇頁写真)ともあり、洗越も廃し、築留にしたのが延享三年~五年(寛保元年)の頃であろうか。或は、各記述が正しいと仮定すると、川口築留は延享三年であるが、一一丁余ある古川を漸次壱作化しており、その準備、乃至、成立期を地区により異にしている場合も推察し得る。

 立屋敷村庄屋喜太郎(入江姓)は後喜三次と改名、宝暦七年(一七五七)病気にて退役するまで庄屋在勤二十七年、同年養子藤九郎(後喜三次と改名)に跡役を譲り、同年十月十九日に病没したという。喜太郎土手を首土手ともいうのは、庄屋喜太郎が一命をかけて歎願し、施工したことに由縁する。

 大川筋では寛延四年(宝暦元年)より宝暦十二年にかけて堀川の工事が行われ、同十三年より正式に開通する。中間より岩瀬・吉田を経、折尾高校の下・折尾駅前を流れて金山川と合流し、洞海湾に注ぐ人工の運河である。川口は文化元年(一八〇四)に中間より楠橋村に移される。同じ頃、川西では老良村の灌漑用水確保のため、宝暦五年(一七五五)より同七年にかけて団七堀の工事が行われる。山田川の水を上底井野村蓮光寺の前より岐け、垣生村抱通ケ裏より老良へ新溝を掘り通す工事である。溝の名は郡代樋口貞右衛門の付添役人田原団七の名に因んでいる。神田川の前身である。

 川筋では洪水による大土手の決潰も少くない。喜太郎土手完成後の遠賀町域関係だけでも、宝暦五年(一七五五)五月広渡村上、明和四年(一七六七)垣生村塔ノ松下、安永八年(一七七九)八月広渡村・老良村間、文化元年(一八〇四)島津村、文化八年芦屋村浜口土手、天保九年(一八三八)六月老良土手、嘉永三年(一八五〇)六月鞍手郡植木村中ノ江、嘉永六年五月島津村本川土手尻、安政二年(一八五五)島津村尻等である。これ等の修覆工事はその度に行われるが、流れを変える大工事は明治三十九年より大正八年にかけて行われた遠賀川改修工事を待たねばならない。

第二節 洪水と水害

 洪水により遠賀川が一度氾濫するとその被害は著しいものがある。昭和二十八年六月の上流植木の決潰による遠賀町域の水害は未だ記憶に新しい。藩政期に於いても、年表でも知れる如く、洪水の被害は少なくない。その内、天保十一年(一八四〇)と嘉永三年(一八五〇)の場合を例示する。

一 天保十一年の洪水

 天保十一年六月四・五日、及び、九日に大雨が降り、筑前の国中至る所にて水害が発生、「郡々非常之洪水にて、田畠を初、川々・堤土手切、往還筋道端破損所夥敷、家品、家財、粮物致流失、村々に寄、極々難澁之所柄も有之」状態にて、殊に、御笠、嘉麻、穂波、遠賀、鞍手、粕屋、宗像の七郡では著しい被害を生じている。六月四日は陽暦では七月二日に相当し、半夏生の頃である。田植を終ったばかりの水田は大打撃を受けており、国中(福岡藩)では、「大川土手筋石割、乱杭根囲、畠囲石土手破損」二二九か所、「大川土手並受土手洗切、汐囲石垣破損半崩共」が五、五五五か所、「堤土手切、并抜落、溝筋破損共」が八〇七か所、「石井手、杭乗せき、井樋唐戸洗切、流失、半崩」が一三六九か所、「田畠蒲地、溝蒲地、作道、山道、岸溝筋破損」が一五五二か所、「御境目筋川土手切」一一か所という結果、水損の田畠数は一万一〇九三町歩余に及んでいる(28)。この水害について「年暦算」は次のように記している。

六月四日之夜より大雨降り出し、五日朝迄大ニふり洪水ニ成。所ゝ破損多く、家押崩し流る。七日八日ニかけ少ゝ引處ニ波津祇園。九日より又大雨降出し終夜降ル。大洪水ニ忽なり、破損・土手切レ山付・川筋とも数知れす。人家も牛馬も流る。植木町御米蔵流ル。同所ノ新屋酒桶三拾本流捨ル。米蔵水ニ入ぬらす者多し。其外家財・衣類入レ之櫃・簟司(ママ)大ニ流る。土手も切ル。御国中ニて大山・小山の抜ケ落ル所数知れす。宰府・宝満山ぬけ、坊中打崩シ、両所死人六十人余と云。博多・福岡町戸水上ル。垪(塀)崩る。隣国・下中國大痛也とそ。
去ル五日より水之入、又九日之大雨ニて十四日迄田甫水ニ入、水引落シ候ニ跡一面青ミ不見す(ママ)、如何成るやらむと皆忙然たり。山付、并高ミ処ハ青ミたり。浦(羨)山しき事也。惣て山付ハ水痛ハ無けれ共、田畠の破損所龍引等之損しハ強し。是山潮とも言へし。西郷・東郷諸ゝニ破損所多く、川筋ハ水損・腐切等多し。是程之水、八十歳ニ余シ大水と言。
芦屋観音丸と言船、米四百俵斗積流出る。四拾人斗船ニ乗り、夫是と働加勢致しけれ共手ニ不及、地しま迄流る。
又川上より川艜数艘流れ海へ拂出し行え知れす。其内ニハ人ノ乗りし船も有之、助ケ呉れよと泣聲哀れなれ共手ニ不及。
嘉麻大分村ノ山抜ケ酒屋打崩す。家内十六人之内壱人助る。其外牛馬も損ス。此類之事多く聞ヱ、此節ハ川上程水太し。
御國中拾万石之損毛、人死百余人、可何(ママ)成難年か、恐しき事也。
米直段三拾六匁位、後ニハ少し下ル。櫨実高直、蠟壱斤五百文位、是も後ハ下ル。

 同年六月二十八日現在の報告では、国中の家屋・蔵・稲家・馬屋・灰屋・小屋等の「轉家、並龍入半崩」は一三六八軒、「川艜・舟流失」は二三艘、「山々龍抜」は報告の未提出の両粕屋・宗像の三郡を除いても一万八二五二か所、死人七八人、殞牛馬三一疋が報告されている(28)。

 この水害に対し、直ちに復旧対策が立てられた。本来「田方手入肝要之時節」ではあるが、指し当っての水防、水懸りの普請、往還道橋の修覆は放置できないため、夫留期間中にも拘らず出夫が命ぜられ、遠賀郡でも荒田畠仕戻の夫積りがなされる。その夫高は、本城触八万五二九三人五歩、下底井野触八万六二六八人五歩、別府触五万八五一〇人、修多羅触三万八八五三人五歩五厘であり、出夫は「村々夫高壱順半引」、「触中面役弐順引」で行われている(28)。

二 嘉永三年の洪水

 嘉永三年の洪水について「年暦算」は次の通り記している。

五月廿八日より雨降り出し、六月三日迄大雨降ル。言語ニ強(絶カ)へし大洪水ニ成。此節之大水ハ古今希成珍事也。同二日より水弥増シ、山下道渡りならす。此邊屋敷迄水上ル。山ノ下ノ方床かの上へニ水上ル家多し。
川筋村ゝ老人・女子ともハ村内ニ不居、皆山添之村ゝニ遁る。当所ニハ松ノ本ノ者皆参ル。牛馬も同様。
若松前土手上皆水ニ入、村中人家ハ申不申(ママ)、土蔵ニ水入、籾・雑穀水ニ入、皆もゆる。
川西土手筋皆水入、大川東土手斗見ゆる。誠湖の如し。
 本土手切所  中間道玄  鴈田土手  植木下  嶋津尻
 〆
 西土手切所  浜口土手  若松村下モ 底井野同 浅木土手
 〆
此邊田甫低ミハ五月廿九日より六月七日夜迄、高ミハ朔日朝より七日朝迄、都て七日八日之水入也。
去ル天保十一子ノ年之水よりハ十倍之水也、七月三日夕大雨雷仕大水出ル。同十一日大風暮方ニ和波也。
八月七日大雨、同日九ツ比より大風吹出し、晩方ニ懸風なく。
翌八日朝より洪水ニ成、同夕夜中水防村中皆出、川筋村ゝ不残田甫水漬りニ成ル。九日ニかけ引。
八月末へ痛田書上、極痛ミ、或ハ腐切彼是ト書上六ツケ敷シ。
九月廿日頃御奉行田方痛田見分。
十月廿一日浅木ニて御下免御達し。此辺村ゝ御下免被仰付、別府触之内西郷・川筋御免返上村有之。
当年大雨・洪水・大風度ゝ水損有之年ハ八十・九十之老人も覚不申との事也。秋米三拾七八匁、冬米五拾目、追ゝ上ル。

 遠賀川筋の補強工事は嘉永三年三月十七日より嘉麻・穂波両郡の出夫により「大川筋勝野村小竹町向口ノ原村人家裏藪伐拂、人家取除ケ川廣メ土手築立」、及び、「御徳村波打黒川筋向岸口ノ原村境筋より庄内郷地ニかけ数百間之間新土手築立川廣メ」の普請が行われ、それに対応して、同年四月二十日より下流の鞍手大川水防普請が行われる。普請は鞍手郡赤地村・御徳村・新山崎村・南良津村・勝野村の水受土手の腹付・笠上工事、溝立替工事、往還笠上工事、居家床地上工事で、遠賀・鞍手両郡より夫数八万六九三〇人を投じて行われた。遠賀郡の加勢出夫は、下底井野触は南良津村へ、別府・本城・蜑住の三触は赤地村に出夫する。別府触よりは、四月十九日夕に一一二六人が赤地村に出夫、鶏鳴より普請にかかり、二十日一日で工事を終り、夕方より翌二十一日朝にかけ帰村。一人当り三人一歩役を勤めている(21)。

 上流の補強工事により、下流の水勢が烈敷くなるため、嘉永三年二月に下大隈村抱百間土手の腹付・笠上普請が計画される。曲之手と垣生村間の土手である(百間土手は本来は下大隈・上底井野両村境の土手で長百間であったが、当時は築替られ長も三〇〇間ある)。遠賀・鞍手両郡の郡境に当るため、別府・下底井野両触と鞍手郡植木触の間で出夫割の調整がつかず、漸く四月に入り、遠賀七、鞍手三と決定したが、農繁期前でもあり、完成しない内に洪水を迎えたことになる。結果的には、百間土手は決潰しなかったが、対岸の白髪土手が長さ五〇間にわたり決潰、その水が中間村道玄(元)をも襲っている。

 別府触の水害の様子を大庄屋仰木寿作は次の如く「記録」に記している(21)。

一嘉永三年五月降雨打続、触内川筋度ゝ出水ニて田方有卦不宜敷、心遣致候事。
一五月廿八日より六月朔日迄降続、別て朔日降雨烈敷、別府村門前川土手水洗越、御田地水浸ニ相成、西川筋ハ不及申、大川出水ハ合程之水笠ニ相成候事。
一村ゝ川土手・堤土手筋危く、庄屋・組頭・百姓中水防のミニ打掛出勤仕候事、寿作義も所ゝ水防ニ出勤仕候事、
一別府村高瀬作出人家水浸ニ相成、いつれも本村之様逃参、晩方ニ相成水笠次第ニ相増、門前土手水惣越ニ相成、同夕終夜村ゝ土手筋番人等大騒動ニ及候事、
一六月二日、弥大雨、川筋次第ニ水相増候ニ付、降雨出水之模様左之通御註進申出ル。

別府村大庄屋仰木寿作仕上ル指出之事
一先月廿九日より今曉まて大雨降続候て言語道断出水仕、村ゝ反甫一面之水湛ニ相成居申候。田方根付已後雨天勝ニて生立不思敷、未此節之水浸痛之程難斗、百姓中大ニ心遣仕居申候事、
一高倉・吉木両村川筋、上畑川、矢矧川筋、西川共ニ土手筋水打越候ニ付、村ゝ成限取防仕居申候事、
一戸切川筋より別府村抱門前川筋共土手一面ニ水洗越、尾崎、小鳥掛反甫次第ニ水笠相増候事、
一村ゝ堤土手筋、是又同様水勢強、破損所等取防仕居申候事、
一右之通川土手・堤土手水洗越候ニ付てハ村ゝ反甫ハ無残所水湛ニ相成、別て尾崎・小鳥掛・別府・鬼津反甫、并黒山・糠塚反甫、吉木より新松原迄之反甫筋水浸太イ(ママ)御座候事、
一大川筋昨日七ツ時比之出水、広渡村本土手ニて七合余之水笠ニ御坐候。今朝ニ至候ハゝ八合余ニも相成居可申哉と奉存候。右申上候通、此節之洪水、去ル子年同様之水笠ニて御坐候。村ゝ破損所等夥敷可有之奉存候得共、今朝迄委細相分り不申候。然ルニ今日も同様降続ニ御座候間、此先何程出水相増可申也、扨も心遣ニ奉存候、委敷義ハ追ゝ相調子可申上候得共、一ト通凡之処御註進申上候。宜敷御聞通被仰付可被為下候。已上
                        別府村大庄屋
                          仰木寿作
  戌
   六月二日
   遠賀・鞍手
   御郡代御役所

一同日寿作方別府村土取堤水防ニ参かけ、門前板橋ニ石之おもしを掛置、右近辺之人家床之上ニ水満上リ候。寿作花園通土取堤ニ参り、破損所取繕、九ツ時比帰り掛候処、花園人家ニ水湛上り通路相成不申、小船ニ乗、高家沖、千代丸沖ごき(ママ)まわし罷帰、手元門先ニ着船致候事、
一同日追ゝ承候処、二日暁植木村抱中ノ江本土手切ニ及候由、統て朔日夕よりハ出水ニて隣村通路絶ニて、右躰之儀も相分り兼候。右植木土手切ニて西川・門前川水湛上り、八ツ時比ニ至リ材木・箪笥・小道具類夥敷流来り候。同刻より芦屋船庄屋え御用弁小船指登せ之義申遣候事、
一同日七ツ時比手元居家床迄水湛、塀廻不残崩れ、樹木も転木、隣家之者家内取片付加勢ニ参り候事、
一此節之出水、去ル子年之水笠より三尺余太く有之候事、
一二日七ツ時下り、今古賀村人家惣水漬ニ相成、一命ニも可相拘次第ニ付、人牛馬別府之様渡海取斗候処、小船弐艘ならてハ無之ニ付、高瀬より小船取寄、其外筏様之物拵、別府之様渡し方致候内、夜ニ入何分行届兼、寿作儀ハ高瀬小船二乗、今古賀之者渡方才判致居候処、右之船破損いたし用達不仕様相成候ニ付、其後ハ別府今泉宮石檀ニ出張、今古賀之者船筏様之物ニて不残人牛馬渡海致させ、四ツ時比宿元ニ罷帰候事、
一二日九ツ時比、上底井野西土手筋四ケ所、并中底井野西土手一ケ所土手切、其外半切、破損等ハ夥敷趣申来ル。
一三日寿作儀西土手破損所見分ニ小船ニて罷越候処、植木より芦屋まて之間、田方ハ勿論、人家迄も惣水漬りニ相成、大海同前ニ相成、前代未聞之洪水、触下村ゝより追ゝ破損所注進有之候事。
一四日雨天、手元湛水漸引落候事、門前土手筋仮成通路時、御役所え御註進左之通申出ル。

別府村大庄屋仰木寿作仕上ル指出之事
一先月廿九日より当月二日朝まて大雨洪水ニて村ゝ川土手・堤土手等洗越、反甫一面之水漬ニ相成候段ハ前以御届申上置候通リニ御坐候。然ル処、同日植木村抱中ノ江大川本土手破損ニおよひ、四ツ時比、俄ニ水勢相増、次第ニ湛上り、上底井野村・中底井野・虫生津・別府・尾崎・小鳥掛・今古賀七ケ村反甫弥水笠相増、凡田の面より八尺、壱丈余之水浸ニ相成申候。去ル子年より三尺余水笠太く御座候事、
一中野江本土手切ニて白水道筋洪水ニ相成、上底井野郷内惣水漬りニ相成申候。尚又高倉・吉木川土手切破損仕候ニ付、西郷村ゝ反甫も同様水漬りニ相成、上畑川より矢矧川筋迄土手筋所ゝ破損仕、糠塚・黒山両反甫言語道断水湛ニ相成申候事、
一上底井野・中底井野両村土手切ニ付、人家水浸ニ相成、床より上ニ水湛上候ニ付、牛馬ハ土手ニ引上ケ、其外人別社頭・小高き家ニ参、凌方仕候。別て今古賀村人家一面之低ミ水湛強ク、人牛馬凌方難渋仕、夜中小船・筏等ニて別府村之様ニ引移り申候。其外別府・虫生津両村、西川添人家是又水漬りニ相成、床より上弐尺、三尺之水湛ニ及申候事、
一上底井野・中底井野・高倉・吉木四ケ村土手切御註進書、并別府・海老津両村堤土手破損御註進書共ニ差上申候、右之場所ハ急場御普請不被仰付候てハ差支申候条、追ゝ見分、夫積可仕上候事、
一村ゝ水入、龍入、転家等も出来仕候。是又追ゝ取調子御註進を可申上候。
一西川・千間川・波津川筋土手筋破損、其外村ゝ小川土手・堤土手、御郡橋、村橋破損、并田畠砂入・小石入・打洞・洗流等夥敷御坐候得共、未水中之場所も御坐候て得と相分り不申候。追ゝ水引落候て上取調子可申上候事。
一去ル朔日より今日迄水湛村ゝ通路相成不申、小船ニて兎や角御用弁仕居申候事、
一右之通田方水漬りニ相成、別て低ミ之村ゝハ数日之水漬ニ相成可申、田方腐切等余分ニ出来可仕心遣ニ奉存候事、
右申上候通宜敷御聞通被仰付可被下候。此節之洪水、植木より芦屋迄一圓之水浸ニて昔より不聞及大水ニ御坐候。尚追ゝ模様可申上、宜敷御開通被仰付可被為下候。以上
                     別府村大庄屋
                      仰木寿作
嘉永三年六月四日
遠賀・鞍手
 御郡代御役所

遠賀郡別府触村ゝ洪水荒田畠并川土手提土手破損道橋御免用井樋破損川溝砂入小石入其外龍入水浸転家共ニ書上申事此外田畠四百六拾四町六反七畝余水入ニハ相成候得共無難
一田畠数七百三抬町四反九畝余
 右ハ土手切打洞小石入龍入作土洗流水浸ニて苗腐切并痛強く生立無覚束分痛軽き分共
一弐百八拾八ケ所
 右ハ川土手切、川土手破損、水受土手破損、川内砂小石入、川土手石垣破損・川龍入丸刎洗崩共
一三拾壱ケ所
 右ハ提土手破損、提荒手仕掛溝土手切、其外破損共
一七拾三ケ所
 右ハ田方水取・水吐溝土手破損、并溝筋砂入共ニ
一六拾九ケ所
 右ハ往還筋、并道筋洗崩・破損・龍入共
一弐拾八ケ所
 右ハ御免用差井樋流失、石井樋破損、養水取石山田洗崩共
一三拾九ケ所
 右ハ石橋破損、板橋・土橋流失共
一七拾弐軒
 右ハ龍入、水浸等ニて御年貢蔵、并斗家・土蔵、藥師庵・居家・脇家転家、并半崩家共
一七ケ所
 右ハ山ゝ龍抜
一村製(制)札損無御座候
一怪我死流失流寄死人無御座候
一殞牛馬無御座候

 右之通ニ御座候
                   別府村大庄屋
                    仰木寿作
嘉永三年六月
遠賀・鞍手
 御郡
  御役所

 洪水による被害は書上でも判るように多方面に亘っている。六月二日の大雨・洪水により村々囲土手が破損し、中底井野・下底井野・木守・今古賀・広渡・嶋津の六村は水漬けとなり、周辺への通路も水没して了った。そのため、牛馬飼草に難渋、第5-35表の通り周辺の村より伐り出して水入村へ補給している。

 洪水破損所仕戻普請も早速に着手されるが、別府触では普請方二名では行届かないため、郡役所頭取出田雄八及び藤野孫助、福田外七三名にて相談の上、三吉村庄屋佐一郎・虫生津村庄屋喜八郎の両人を臨時に普請方助役に任命している。上底井野村久保土手はこの洪水の結果構築されたものである。

 嘉永三年六月二日の洪水による別府触の田畠の被害見込は「別府村大庄屋仰木寿作仕上指出之事」によると、次の通り凡そ三〇〇町歩に及んでいる。

一凡田数弐町弐反四畝程
 右ハ当触村ゝ田方六月二日洪水川土手切ニて打洞荒
一同弐拾三町四反程
 右同断、石砂入・野土入、龍入当毛荒
一同弐拾七町八反五畝程
 右同断、作り出洗流当毛荒
一同五拾三町五反程
 右ハ上底井野・中底井野・別府・今古賀・尾崎・小鳥掛六ケ村田方数日水浸ニて苗腐切
一同百五拾六町程
 右同断、六ケ村水痛田方弐歩作・三歩作・四歩作位追ゝ生立可申奉存候得共、畢竟御免合ニ可相拘見込候分
一凡畠数八畝程
 右同断、上底井(野欠)・尾崎弐ケ村川土手切打洞
一同壱町八畝程
 右同断、当触村ゝ畠方砂入・石入・龍入当毛荒
一同拾三町四反程
 右同断、作出洗流当毛荒、再蒔可仕分
一同式拾三町三反程
 右同断、水漬腐切再蒔可仕分
 〆田数弐百六拾弐町九反九畝
  畠数三拾七町八反六畝

 嘉永三年の遠賀地方は、前掲の「年暦算」の記載でも判るように、六月二日の洪水以後も数度に亘り水や風による被害を受けている。それを順に示すと次の通りである(21)。

(1)六月二十六日夕五ツ時より二十七日七ツ時頃までの集中豪雨により川筋満水、土手破損の所も出たため、低地の田圃は水漬になった。水引落しは至って速かったが、再度の浸水により田方の痛みは増大。
(2)七月三日夕五ツ時頃より翌四日暁にかけて烈敷く降雨。殊に別府村より西に酷く、水害も生じている。高倉・吉木・波津・上畑・海老津・山田・糠塚・戸切・別府の九か村では川筋破損や土手洗越があり、先月修覆したばかりの川土手切も発生、石入・砂入田地が生じている。郡橋・土橋も流失。西川・千間川は無事であったが、尾崎・小烏掛・別府・糠塚・黒山の五か村の田方一円に浸水、岡垣町域の吉木・三吉・手野・内浦・松原も田圃はすべて浸水し、水引きも悪く、被害を生じている。今古賀・上底井野・中底井野の低地の田も浸水したが、速に水引落つ。
(3)七月十一日四ツ時頃より東風吹き出し、八ツ時頃より大風になり、風も西北に転じ、暮六ツ時迄吹き詰めに荒れる。この風により、村々とも転家・屋根破損・転木が続出し、田畠も損毛、作物にも影響が生じている。七月十一日は陽暦では八月十八日に当り、夏の台風である。上底井野・中底井野・別府・今古賀・小鳥掛・野間・吉木・三吉・手野の七か村で居家・脇家の倒壊が生じている。作物への影響では、中晩田には殆ど影響はないが、早田に若干被害が生じており、畠作の大豆・粟・木綿に被害が大きく、櫨実は大半が吹き落ちて了っている。底井野郡家の屋根も大破し、別府村天満宮では石鳥居が吹き倒されている。
(4)八月七日九ツ時頃より北東の風が吹き出し、大風・大雨となる。七ツ時頃一時おさまったが程無く西風に転じ、夕方まで暴風となる。八月七日は陽暦の九月十二日に相当し、まさに二百二十日の台風である。七ツ時頃に遠賀地区を台風の目が通過したのであろう。この台風により、数度の被害にもかかわらず、山寄の村々では相応の作柄が見込まれていた田畠も決定的な打撃を受ける。

 台風に伴う大雨にて、村々とも土手筋防方に努めていたにも拘らず、被害が発生する。遠賀川では、鞍手郡植木村抱中ノ江本土手は六月の決潰箇所を直ちに修覆し、仮土手を築いていたところ、七日の午後、八ツ時頃再び決潰し、上底井野・中底井野・虫生津・下底井野・木守・今古賀・別府の各村や西川・千間川に水が押し寄せ、翌八日朝には上底井野村西土手筋常貞の仮土手をも破壊、これにより上底井野村より広渡村までの田はすべて浸水、出穂期の田方は大打撃を蒙る。出水は遠賀川のみならず、村々の川土手よりも打ち越し、下底井野触・別府触とも一時的には惣漬りの状態となり、殊に、別府・尾崎・小烏掛・鬼津・糠塚・黒山の七か村の低地の田圃は湛水にて白みわたる状態にあった。岡垣地区でも高倉・吉木川の土手が決潰し、人家に浸水、吉木・三吉・松原・手野の四か村の田圃は惣漬りとなっている。

 風による被害も著しく、畠方の大豆・綿・蕎麦を残らず吹き倒し、転家・転木をも多数生じている。下底井野村浅木宮の鳥居も風で倒れる。この台風による別府触の被害は次の通り報告されている。

遠賀郡別府触村ゝ大風洪水ニて田畠障模様転家転木龍入破損等書上申事
一居家転  三拾七軒
一同半転  弐拾六軒
一脇家転  七拾三軒
一同半転  拾六軒
一神殿   壱宇
一観音堂  壱宇
一松転木  六百五拾三本
一杉転木  四百八拾七本
一檜転木  壱本
一楠転木  弐本
一雑木転木 弐百九拾六本
一龍抜   三拾七ケ所
一田方大風障・洪水土手切等ニて水漬ニ相成、痛強ク、出穂無覚束分も有之、実乗無覚束分も御座候。其外弐歩作・三歩作・五歩・六歩作も可有御座候得共、風障之分今少し日数相立不申てハ痛之程難見居、尚又、水入田方ハ未タ水中ニて相分不申候ニ付、田数取分ケ難書上御座候事、
一畠数  拾六町
  右ハ水漬痛ニて皆無
一同  拾八町五反六畝
  右ハ大風并水漬痛ニて実乗無覚束分
一同  百拾町弐反八畝
  右ハ大風痛ニて実乗無覚束分
一同  八拾五町壱反六畝
  右ハ大痛ニて弐歩作より五歩作迄
一川土切・溝土手切・堤土手破損等夥敷御座候得共、未タ水中ニて相分不申ニ付、ケ所難書上御座候事、
一村制札損し無御座候
一怪我死人無御座候
一殞牛馬無御座候
 右之通当月七日大風洪水ニて痛模様書上申候。宜敷御聞通被仰付可被為下候。已上
                    別府村大庄屋
                     仰木寿作
嘉永三年八月
遠賀・鞍手
 御郡御役所

 嘉永三年は数度の洪水と二度にわたる台風により、遠賀地方の田畠は著しい減収となり、郡内では次の一六か村で免戻しが行われており、年貢立用にて御救米が渡されている。

本城触=楠橋
蜑住触=拂川、山鹿
浅木触=垣生、広渡、若松、木守、浅木
別府触=上底井野、中底井野、虫生津、今古賀、別府、海老津、鬼津、小鳥掛(25)

 別府触については大庄屋仰木寿作は「上底井野、中底井野・今古賀・尾崎・小烏掛・三吉・虫生津七ケ村御免返上仕候。指続、別府・黒山・吉木・松原・海老津辺損毛強候得共、御免返上ハ不仕候事」と記しており(21)、前記と相違する。書かれた時点が問題であるが、後者は当該大庄屋本人の記録であり、後者が正しいかもしれない。いずれにせよ、遠賀町域で挙がっていないのは島津村のみであり、洪水に対する当町の位置をよく示している。この年の返免は、郡奉行、及び、免奉行の出郡にて小畝別見(検)分は行われたが、常とは異り、一統一目論見のみで、委細の畝押、帳面引合等は行われず、形式的なものであったという(25)。

 畠方年貢も洪水・台風による損毛のため大豆が調わず、藩庁に代銀拝借を願い出たが、藩としても田畠の失徳は著しく、何としても上納するよう命じられた。郡内評議の末、一村の内、五歩通りは村方にて代銀を調達、難渋百姓上納分は再び代銀拝借を願い出ることとしたが、これも許可にならなかったので、役所よりの拝借金やその他よりの借入金により、十二月二十二日、辛じて代金上納にて畠方を皆納している。

 嘉永三年七月には郡役所よりの買入にて米一四八〇俵が郡内四触に渡されている。下底井野触には三五〇俵、別府触には四三〇俵の配分、残りの七〇〇俵は本城・蜑住の両触に三五〇俵宛配分されている。上納は返免や代銀納により一応落着させ得たが、村々難渋農民の翌年の食糧は全く覚束ない状態にある。その確保のため、藩有米の内より遠賀・鞍手両郡で一万五〇〇〇俵の郡囲を願い出たが「御上えも御指支之折からニて御叶不被遊」として拒否される。郡奉行の配慮により、永蔵付けの指紙を買取り、それを納めるとの条件で大坂登せ米の内より御控米の許可を得、別府触に二〇〇〇俵、下底井野触に一五〇〇俵の囲米を確保した。指紙は嘉永四年三月までに上納し、囲米を受け取ることとした。

 嘉永三年の洪水と台風による被害は多方面に亘り、田畠の損毛は孤立・封鎖的な領国経済の中に於いてはその対策に腐心する。米価も第5-39表にあるように、八銭五〇匁、六〇匁とり天保七年冬の五八匁を凌駕する。まさに饑饉である。その対策として、藩では用捨米・救米の措置を取り、大坂登せ米を郡囲にして現穀の確保を計る。しかし、それは大坂で売り払う代りに藩内に売り払うだけであり、農民が入手するのは無料ではない。殊に、別府触や下底井野触では三月までに差紙を買取り、永蔵に上納し、郡囲になっている米を確保しなければならない。村々の仕向金も必要である。

 遠賀・鞍手両郡でも金策について協議した結果、鞍手郡、及び、遠賀郡の内、別府・下底井野両触は大坂より金子借り入れをはかることにし、郡奉行の許可を得て、嘉永三年十二月二十六日、虫生津村庄屋毛利喜八郎を登坂惣代とする遠賀・鞍手両郡で六名の代表を送り出す。遠賀・鞍手郡役所、及び、上座・下座・嘉麻・穂波郡役所よりも四年春に掛り役を上坂させ、金策に当たらせる。「金子ハ随分借受出来可申候へ共、証文等ニ至、言語六ケ敷事共ニて破談ニ及候由(25)」と記されている。遠賀郡の残る本城触と蜑住触では触内で調達することにし、前者は八名の銀主により、後者は個人の負担により、触内限り通用の私札「觸預り手形」を発兌した。

 一方、別府では登坂組とは別に、嘉永三年冬より日田金の借り入れについても、藩士槙惣太夫宅に奉公中の中底井野村又平を通じて交渉を進めている。その交渉の概要は次の通りである。

 二月初、博多中買釜屋甚右衛門・鰯屋貞助より日田金の金談が出来たので出福するよう大庄屋元に連絡があり、二月八日に大庄屋仰木寿作・三吉村庄屋惣右衛門の両名が海老津村半三を伴って出福、翌九日に福岡三河屋にて、又平、及び、博多世話人釜屋甚右衛門・釜屋十右衛門・鰯屋貞助、それに秋月産元結屋某・芳平・秋月産福岡萬町住萬屋貞右衛門の七人と会談。その結果、元結屋・萬屋・芳平の三人が博多世話人を偽っていることが判明し、この三人を除いて、改めて金談に取組むことに評決し、甚右衛門・貞助・重右衛門の三人が日田に行き交渉に当ることにした。その由を奉行に届け、日田受持善甚作・梅田茂十郎・斉藤五三郎の添書を貰い、甚右衛門・十右衛門・貞助の三人が日田に出発、後に貞右衛門も加っている。福岡では、三吉村庄屋惣右衛門と海老津村半三が差紙買付に当り、一〇〇〇俵分の手付金を渡し買付けを終わり、二月二十一日三人揃って帰宿した。

 二月二十六日、釜屋甚右衛門・鰯屋貞助が日田より別府村に来り、日田表御用達中村善右衛門の世話で金一〇〇〇両の借用の金談が整った由を伝達する。大庄屋仰木寿作・三吉村庄屋惣右衛門・海老津村半三の三人は二月二十八日に出福、奉行に報告し、証文の奥書を受ける。証文は善甚作・梅田茂十郎・斉藤五三郎の名前で、五掛の奉行が奥判を捺している。形式上は藩、乃至、郡が借用したことになる。それを持って、庄屋惣右衛門・上底井野村組頭左平・釜屋甚右衛門・鰯屋貞助・萬屋貞右衛門の五名が同道にて日田に行き、借入金を受け取って帰福する。惣右衛門と半三はその金を受取り差紙一〇〇〇俵を買取り、役所へ納めて三月十三日に借入れ一件は落着したが借金が残った(21)。

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