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遠賀町誌 第五編 近世の遠賀町 第六章 凶作と飢饉

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第五編 近世の遠賀町 第六章 凶作と飢饉 [PDFファイル/3.37MB]


 藩政時代二七〇年の間には、不作や凶作の年も少くない。その原因は、霖雨・洪水・蝗害・旱魃・冷害等々種々あるであろう。殊に、遠賀川の川口近くに位置する遠賀町域は水との戦いをも余儀なくされている。これ等の農業に於ける災害は、経済が今日に較べると孤立的・封鎖的であった当時の社会にあっては、最悪の場合には饑饉・飢餓の状態を顕現する。享保十七年(一七三二)子年の凶作や、天保七年(一八三六)申年の凶作は享保の飢饉・天保の飢饉としてよく知られている。遠賀町域に於いてもその影響は極めて大きい。

 行政当局としても、救米・御救銀をはじめ、食料不足対策には腐心しているが、米遣いの経済を建前とする藩財政のもとでは当然限界があり、糊塗的なものとならざるを得ない。

 次に遠賀町域を中心とした地区の飢饉の状態とその対策の若干を示す。

第一節 享保の飢饉

 享保十七年の凶作は蝗虫(浮塵子)による被害に基づいている。遠賀郡地方では、寛文十年(一六七〇)に、立屋敷村の蔵富吉右衛門が鯨油による除蝗法を発見したとされるが、享保十七年の蝗災には一般化しておらず、極く一部で試油されたに留まる。宝暦五年(一七五五)の蝗災では、立屋敷村をはじめ、島津村や上底井野村で試油され、好結果を得たことによりその効果が認められ、天明・寛政の頃には広く用いられるようになったという(16)。殊に、寛政四年(一七九二)七月初旬の蝗発生に際しては大いに効果を挙げており、「年暦算」は「七月初より蝗出来ニ油入数へん、虫気居合安心」と鬼津村辺の状態を記している。享保十七年の場合には、「最初ハ鯨油田壱反に五合宛ふりちらし候て、朝露にむしを拂候へハ、悉虫痛、死失由申来、間ニハ左様ニも仕たる郡も有之由ニ候へ共、中ゝ手ニ及不申」と「村用集(25)」に記されてはいるが、遠賀郡にては鯨油による除蝗が実施されないままに、大饑饉を生来している。遠賀郡中では、芦屋・広渡・別府・木守・中間の各村で被害が大きく、多くの死者を出している。遠賀地方の状態について、「年暦算」と「岡郡宗社志」は次のように記している。

一 年暦算にみる飢饉

(享保)同拾六年亥
 當夏も日照候。八月大風西北ニて海邊殊之外大痛、御内検助役小河傳左衛門殿。
 豊前小倉領百姓凶年續ニて二郡之者出奔り仕り、段ゝ乞食致ス。當國ニも入込ム。後ニハ呼帰しニ相成、殿様より百姓取續候様ニ被成。
同拾七壬子      △(閏)五
 麦作不毛上、小麦かり入。
 六月末より稲虫入、七月ニ成大ニ痛む。稲枯ニ相成、盆比ニ至皆ゝ大ニ心痛メ、是ハ可何(ママ)成凶年かと只忙然たる斗也。大ツ・小ツ・大根迄 テ虫付。そハ(蕎麦)斗ハ中作。上座・下座之方ハそハ・粟ハ宜と聞。
 當年田畠損毛ハ九州ニも不限、下中國・四國・上中國・備前・いなは(因幡)迄大損毛。九州ニても筑前・肥前・豊前格別大損毛ニ有之。此國ゝより江戸表へ御救願上り拝借銀相渡ル。百姓ニ直渡シ被仰付候事。
 殿様よりも段ゝ御救渡り候得共、後ニハ御手ニ不被為及飢へ死追ゝ出来ル。所ゝニて粥出シ被下ル。銭壹匁ニ米七合、或ハ八合充、大麦壹升二合、大豆・小豆壹升壹合。
同(享保)十八癸丑
 正月禮式も無し。年越シ餅も村中ニつく者ハ稀か也。皆粟ハ、そハにて餅をつく。三ケ日過れハ摘菜・山行堀り物ニ抔と致す成り。
 麦ノ出来宜シ。天の助ケと皆ゝきをひ申候。三月中比より北国米廻り、直段も少ゝハ下ル。此春はしか犬出来ル。人ニ喰付、間ニハ死ル者も有り。
 飢死書上追ゝ。秋作満作実入宜し。是天地神佛之助ケと一統よろこふ。
 九月ニ宗旨改有り。鬼津(遠賀郡)ニ死人七拾余人、若松(鬼津若松)ニ九拾余人ニ及。是程之飢人ハ昔より未タ無し。鬼津・若松両村庄屋太郎右衛門在勤也。

二 岡郡宗社志の飢饉

同年(享保一七)五月丁巳朔十六日入梅今夜月食皆既亥子、當日より打續キ雨勝ニ有之、同廿九日夏至、閏五月朔丙戌、五月中之今日より日ゝ雨天、右ニ付日乞御祈禱之儀白水与左衛門殿・長井忠太夫殿より被仰付、同月十日より御社籠ニて抽丹誠執行仕上候、同日洪水ニて大川筋東西本土手惣越し、子刻ニ至り二村抱土手切、扨頃日之洪水ニて所ゝ破損ニ付御組大賀喜兵衛殿・川嶋惣八殿・福嶋忠助殿・中村正蔵殿等先ツ川筋村ゝ御見分、十二日より天気快晴、當日ハ満願ニ付中村正蔵殿参詣、扨長ゝ之雨天ニ付川筋村ゝ田方根付不相成、僅苑根付いたし候分も水腐仕、兎ヤ角と相凌居申候位ニて、同月廿八日土用入。頃日より根付仕、六月丙辰朔日・十日前後ニ至り大凡根渡シ申候。然處、世上ハ當月より蝗気ニ有之候趣噂區ゝ也。川筋村ゝハ七月十日頃より少ゝ蝗気ニ相見へ十四五日より十七八日ニ至り大蝗ニ相成、ばた/\不残稲株迄枯捨り、田方養水ハ一夜之内ニ血をそゝぎしことく赤ク相成候ニ付、召遣之男女悉ク暇を出シ万民一統當惑困窮ニ差迫、男女共ニ食事用意かすね(葛根)ほりとして山ゝへ登り、又ハ乞食と成他國いたす族も多ク、中ニも不人品之輩ハ黨徒いたし家ゝえ押入、食物を奪取候ニ至リ、食事と申候得は人之手ニ持候をも打落し、強キ者ハ弱キ者を手込ミにいたし言語之騒動ニ及。但、右躰不法之輩ハ頭取分被召取、籠舎被仰付、弱キ者ハ冨貴之門前ニ立寄涕泣悲嘆して食を乞、誠ニ見ルニも聞ニも難堪仕合也。扨當年之如ク雨勝なる年ハ土地ゆるく、稲若クして必蝗気ニ有之ものとハ申候得共、當秋之蝗ハ方タ押ニ人之目ニかゝる様ニ何(いつ)方より何方迄蝗入来候と申様なる大変ニて西國一統大飢饉。右ニ付、大目付三好甚左衛門殿江戸登リ、八月乙酉朔日ニ入り万民御救筋被仰付、十月乙卯朔日十四日月帯食皆既卯、扨、御救として郡ゝ方切ゝゝニて粥施行被仰付、既ニ當村ニても此近村より嶋郷ニ掛ケ二十五ケ村之人民被召寄、十一月甲申朔日廿七日より十二月甲刁朔日廿二日迄粥施行有之、御組青柳幸助殿・許山惣助殿御出勤、右施行ニ付打寄候人民途中ニて行倒し餓死致シ候者も過半有之、あハれ可申様無之、當冬より米高直ニ相成、壹石ニ付八十文銭九拾目位、扨御國中惣村数七百七十三ケ村之内、漸十九ケ村、并畠方斗之村七ケ村、都合二十六ケ村のミ春免御講申上、残村何レも御免返上、新古田四拾弐万六千六百石余御損毛、漸四万三千弐百石余御蔵納ニ相成候。但右之外畠御年貢御上納。

扨又、右御収納ニ相成候内より翌年種子籾として四万七百七拾俵郡ゝえ被為下候由。當村田方一反ニ付、種子籾壹斗壹升宛御渡、但郡村所ニより不動有之か。猶當子九月より翌丑三月中旬ニ至り、籾并麦種子御救米共ニ都合七拾弐俵御恵被仰付、且又、従御公義金子弐万両御借渡ニ相成候由ニて御救銀をも被為下、當村えも弐百六拾目之御銀御渡被仰付、猶大坂御蔵より御米弐万三千六百二十七石御積下シニて窮民買取候様被仰付、彼是以御仁恵之御救過分難有奉存上候。御救米一日壹合宛相渡リ候小児ハ身命無恙、猶米二三合之間を以御助(救)被為下り、人民田畠作仕候得共、御當国ニて拾万余人餓死仕候由、當村ニて惣人数百二十六人之内、當十月より翌十八年三月ニ掛ケ四拾弐人餓死致シ、誠ニ可恐ハ飢饉也、(中略)

御社録云。享保十七年子秋飢饉ニ付、親を養ふへき手立なく、子を育ツへき便りなく、只さま見殺し、或ハ飢て死なせんよりもとて池河に子を沉めぬるも多かりける。かゝる時事あれは兄弟親族にハ目をかくへきにもすへき様なく、足手達者なるものハ互ニ我身大切と食事の用意して、蟹・蜆貝・菱等を取り、萆薢(ひかい)・葛根を堀り、鶏を殺し、川魚を取、食となるへきものハ草木・鳥魚・畜類ニ至る迄にも残さゝりし也。是よりして、子を捨る藪はあれとも身を捨(投)る所(渕)ハなしといへり。また極ゝ食事に絶たるものハ親子諸とも枕を並へ、家に火をかけ焼死たるもあり、又詮方なく死するに忍すして瀬ゝなきの草は五穀に縁ありとて是を取り食し、また疊を解キ、敷藁を煎し、或ハ年頃稲を荷たる六尺の先キハ稲に緑ありとて是をも煎し吞ミなとする程のありさまにて悲嘆困窮限なく、餓死に及ひ、道に行倒レ、犬抔か人の面を喰ひて何方の何某と云事も知れさりし人多キを、往来するものハ右行倒の上を踏越へゝゝ通りける。また喰塩を作る塩浜も飢饉にて作ることなく、稀ニありても貧民ハ五穀にさへ盡ぬる程なれは、高直なる塩を求め食することなくて青腫の病を得て死たるものもあり。又翌丑年も青麦を食して病を得、死たるも多かりしなり、また丑夏痢病に似寄たる風病にて死たるも多かりし也。扨、子冬ハ米壹升代六十四文位、當丑(享保一八)夏九十六文位なれとも賣買米少なく、金銀多ク貯へたる人も思ひの儘に求め得かたく、宝の持腐して銭金を枕にし飢て死たるも多ク、されは冨めるものも貧民と同しく困窮せり。後の代の心得を以て見る時ハ格別の飢饉にハ米も下直なりしといへとも此頃迄ニハ世の中に金銭等少なく、夫ニ準シ諸品も下直なりし中ニハ尤高直也。貧民米を求むるに一銭の貯なく、折柄此時に當り、豊後の日田、また赤間関、大坂等の町人來り、在方の衣服・家財・重宝と持傳へたる品共を、米金を以て下直ニ買上ケつるに、重宝の品も命にハかへかたく、多ク賣拂ひける。其下直なること麦壹升に何ゝ、米壹升に何品ゝゝ、銭百文(銅)ニ何ゝと常並之の時、百貫文のものハ百文(銅)か二百文(銅)にてそ賣拂ひける。是よりして、宝ハ身のさし合せと云始めける。かゝる大変なれは御國内にて冨めるものハ貯へ置ける所の米金を出し貧民を救ハさるハなし。され共冨貴貧賤を伝す命を全クせしを大幸として世帯を崩さゝるハ稀也。此度の飢饉に生残り、田舎郡浦に居住の万民、衣服米金聊も貯へなく、誠に旅入乞食の家を持しにひとしかりしを、御上より農民御仕居御詮議被仰付、御仁政の御救過分の御事にて、郡ゝ在ゝも追年漸ク居合に基ける御國恩の程、子ゝ孫ゝ永代迄にも且て亡却仕問敷申傅ふへきこと也。

 右の記述より遠賀町域の飢饉の様相を抽出し、その対策の若干を拾うと次の通りである。

三 飢饉とその対策

 享保十七年の凶作の結果はまさに地獄である。遠賀地方でも、天明・寛政・天保・嘉永・明治等の飢離と比べても、最も被害が大きい。享保十八年九月の宗旨改めで、鬼津村での死人七〇余人、若松村での死人九〇余人が挙げられているというのもその影響であろう。両村の戸口は第5-36表の通りである(4・52)。八十八年を経た文政四年(一八二一)の人口と比較しても、鬼津村で二〇パーセント、若松村で四五パーセントに当たる。享保十八年(一七三三)では元禄期(五年カ)に近いであろう。その場合、その比率は更に高くなる。殊に若松村では一村壊滅に近い。遠賀郡中では、浦分を除いても、飢饉による死者は八、〇〇〇人に及んだという。藩による粥の施行が立屋敷・糠塚・木守の三ケ所で行われているのも、被害の集中地区を示している。

第5-36表

 享保の飢饉は伊勢・近江以西の国に多大な被害を与えており、前掲書によれば九州では筑前・豊前・肥前の三国が殊に大損毛を蒙っている。遠賀地方では入梅後雨が多く、閏五月も長雨が続き田植ができず、僅に植付けた苗も水腐、夏の土用に入って漸く田植が行われる有様であった。その上、六月の末頃より稲虫が入り始め、七月中旬には大ウンカが発生し、稲は株まで枯れてしまい、大凶作となる。大豆・小豆・大根まで蝗の被害にあい、僅に蕎麦のみが中作という。そのため、翌年を待たず、十七年秋より飢饉となる。本来ならば、新穀の収獲が行われたばかりである筈の秋には、食べ物がなく、農民は食糧を求めて葛根や萆薢(おにどころ)、蟹・蜆貝・草木・鳥魚など食べられるものを求めて山野を彷徨することになる。福岡藩七七三か村の内、御免返上を行わず、通常通りの春免請の村が僅か二六か村というのもその凶作の激しさを物語っている。藩としても放置することができず、早速救助策がとられ、粥の施行が行われるが、到底手に及ぶものではなく餓死者を出すに至る。押込み・強盗・乞食などが続出し、世上も不安この上ない。子は親を養う手段なく、親は子を育てる便りもなくて、餓死を余儀なくされ、行倒れる者も少なくない。広渡村にて、十月より翌年三月までの間に、総人口一二六人のうち四二人が餓死したというのが事実とすると丁度三分の一が餓死したことになる。その上、塩浜も飢饉にて塩が作れず、人体の生存維持に必要不可欠の塩の不足や、風病が被害に拍車をかけている。飢饉は富める者に対しても同様である。金銭はあっても買う米がない。その中で、日田・赤間関(下関)・大坂などの商人が在方の衣服・家財・重宝などを僅かの米金にて、タダ同様に渉猟する。犬までが人を襲う。まさに、畜生・修羅の世といえる。

 藩としても可能な限りの救助を試みざるを得ない。前出の通り、粥の施行を行う一方、公義より二万両を借用し、御救銀として百姓直渡しが行われ、広渡村へも銀二六〇目が配分されたとある。大坂の蔵米二万三千余石が回送され、国元で窮民対象に販売される。享保十八年の種子籾も手配しなければならない。広渡村で一反につき一斗一升宛である。国中で四万七〇〇余俵とすると少ない数ではない。それでも国中で一〇万余人の餓死者が出たという。一村平均一三〇余人に当る。

 これ等は応急措置で対象療法であるが、この飢饉を契機として、災害対策費の積立制度が発足する。「反別三合用心除米」とか「反別三合米」と呼ばれる用心除米の制度である。惣郡より米二五〇〇俵を目標に切立て、それを銀に直して宝蔵に貯え、天災は勿論、平年でも、一郡・一村が難渋の場合や、火災・風転などの災害の時にも、無利息の五か年賦で貸出すことにしている。その他、御領替人馬賃銭惣郡割の分の取替、郡々大造なる普請や夫数仕組等の節にも借渡が考慮されることになっている。この備金は宝蔵に備蓄するので「宝蔵銀」と呼び、当用には決して利用しないことを建前としている。

 反別三合米は享保十九年より上納が開始されるが、十七年の蝗災により、郡々、村々ともに多くの無主地が発生しており、収納が困難な折ではあるが、二五〇〇俵の目標を達成するには一定の基準が必要とされ、一応次の通り定められている。

  1. 古田畠・壱作のある村は、古田一反に米三合
  2. 古畠・壱作のある村は、古畠一反に大豆三合
  3. 壱作ばかりの村は、田壱作一反に米一合五勺。いずれも現作畝より取立て

 当初は、二五〇〇俵を目標に右の通りの作法立が行われたが、時々の模様に応じ、難渋の村は免除して収納することにしていたという。「反別三合用心除米」の呼称は古田一反に米三合の基準より出ている。この制度は「享保十七子年希代之天災有之、末ゝニ至別て及困窮候ニ付、後年右ニ類し候年柄有之候節之為、御所務之内をも被除、家中末ゝニ至迄、年ゝ少充米銀之間除候て、上下相互ニ救合候法を相立置候は、自然天災有之節、大困窮ニ及間鋪候」という趣旨より始められたものであり、家中諸士をはじめ町浦よりも上納される(28)。家中諸士は拝地の高に掛け、町浦は小間軒の間数に割り当てて徴収される。

 郡方の用心除米は他の賦課である種籾利米・三合夫米・弐合夫米・切扶先納とともに小物成米と化し、少くとも明和元年(一七六四)以後では、当初とは変質している。徴収基準も次の件が変更になる。

  1. 畠は定免につき用心除は用捨されるが、畠のみの村は一反につき大豆三合宛上納であったが、以後は米で上納になる。
  2. 壱作ばかりの村は、従前は出米の内より一反につき一合五勺充て除けており、百姓よりは別段上納していなかったが、元文二年(一七三七)に出米が用捨になったため、以後は百姓銘々より同高を納めることになる。
  3. 浦人は浦方へ除銀を納めているので、浦高の分は郡方へ除方指出していなかったが、作分は郡方へ三合米を納める。
  4. 諸職人・商人・遊民など耕作をしていない者でも、除銀を指出すべき身上の者は、見込みを以って、家内の人数にかけて指出すように定めていたが、執行に指支えるため廃止され、その分は田畠に掛けて収納することになる。

 小物成米の場合、秋石別一斗以下の村は残らず上納用捨。同一斗一升より二斗までの村は春石別の同じ範囲の高に合せて徴収する。春石別の一斗以上、二斗以下の村は小物成は用捨されないが、秋免になり、少しでも下った場合は、右に準じ、下った分の春免の石別で徴収される。遠賀町域では嶋津村が石別二斗であり、二斗以下の村に属し、秋免の場合には現高に割り当てられ、右の法則が適用される。二五〇〇俵が目標の除米の都合高は二六〇九俵に達している。

第二節 寛政の飢饉

 天明期の凶作においても被害は少なくない。それについては別項「粮物喰延」で触れる。

 寛政四年(一七九二)の場合は、七月初旬より蝗が発生、数回の油入れにて居合ったので安心していた処、七月二十三日夜と二十六日に暴風雨が襲い田畠に甚大な被害をもたらしている。九月に入ると郡奉行坂田新五郎は御免方井ノ上三太郎を伴って田方見分のために廻村、秋免を願い出る村も多く、下免が許可されている。「年暦算」は「米直段八〇四拾弐匁余ニ相成共売人ハ無し」と記している。

 この年の蝗害について、「岡郡宗社志」は次の通り記している。当書は文政七年に作製されている。この記述が適確に寛政四年の状態を示しているとすると、大蔵永常の「除蝗録」が刊行された文政九年(一八二六)より三四年前の頃には、鯨油による除蝗の方法が、技術的にも可成り確立していたことをも示している。

一同(寛政)四年六月廿八九日頃日田方蝗氣ニて、追ゝ大蝗ニ相成(享保子年大蝗より六十一年ニ當ル)、蝗袚御祈禱之儀、御郡奉行坂田新五郎殿より被相達、御祈禱料八木弐俵御神納、猶御神燈、烑灯二張御寄附被仰付候ニ付、七月十五日より二夜三日抽丹誠執行仕上候。扨當秋大蝗ニ付、村ゝ共ニ鯨油相求メ、田方へ差入候儀夥敷、大小村ゝニて油代、大凡百貫、弐百貫・三百貫・四百貫文、其余ニも及候由。然ニ、格別蝗氣甚敷、田方稲株ハ黒ミさし、葉ハ赤ク枯彫(ママ、凋)ミて腐なんとす。都て大蝗之田ハ稲株弱クなり、是を割り見るに、ねばりを引、甚敷い匂ひくさきものニ候。左様なる田方ハ油水を汲掛ケ、一株ゝゝニ手を以、蝗を洗ひ落し、念を入ルへき也。左様ニ無之分ハ手足を以て油水を稲葉に汲掛ケ、蹴掛ケてよし。小キ蝗ニハ必ス手を以て汲かけ、足ニてけかけてよし。夫よりも又、蝗少なき田方ニハ油を養水ニ差加へ、篠竹を以て稲葉を拂ひ候得は、蝗悉ク油水ニ落入て、忽ニ死するもの也。青虫は必ス拂ひ落し可申事ニてがい候也。但、稲株穂を持て、大腹トイヘル時ハ勿論、小腹トイヘル時ニテモ、竹ヲ以テ拂フ事アシ。竹ニテ拂フハ未タシキ時ノ事ナリ。右之通蝗少キ分は、田方一反二付、一度ニ、大凡、油三合位。夫より多キ分ハ、四合、五合ト段ゝ見合せ差加ゆる程ニ、右之油、田方肥シともなり、少ゝ之蝗氣ハ不厭進ミ、能毛上ニ出来るものニて候得共、大蝗年ニハ油入一度ニてハ相済不申、二度も三度も、四度も五度も、遍数ニは不拘日ゝ見合田廻して、模様ニより、追ゝ油を差加へ可申、同シ反甫内、同シ田之内ニても、蝗之多キ所、少キ所あり。又蝗も大キあり、小キあり、格別障ルもあり、障らさるもあり、其色・形も替り、村ゝ・所ゝニても一様ならさる由ニ候得は、農民ハ兼て心を用ひ見覚、作方之便とすへき事ニ候。扨いか程蝗強ク(ママ)田方も、油入候砌、一旦ハ蝗も死するものなれとも、暫クして、右之油も腐候頃ニ至りてハ、稲葉も若やき、右之油も蝗となるものか、却て蝗多ク出来るものニ付、其時無油断、重て油差加へ可申事肝要ニ候。前条ニも書上置し通、右鯨油を用ゆる事當郡ニ始り、右油入レ方之訳合も委敷候得は郡村所ニより、右之次第不分ニて鯨油を養水ニ差加へ候得は、却て大蝗となる抔申由ニ承及候事。(補註略)

一、同年秋、蝗氣候儀ハ御祈禱之御奇特、及鯨油之大功を以、兎ヤ角と相凌キ、却て毛上宜敷、十分之事ニ候処、七月十七日、二百十二(ママ)ニ相當リ、未下刻頃より天氣不快二て、戌刻西之方ニ古今無双大虹立、廿二日戌刻希世之大地震、其鳴音大地も如裂肥前国嶋原温泉獄焼崩ル由ニて、当年ハ日々地震ス。今日モ夫故ナルヘキカ。廿三日庚申雨天。日中より少シ風立、子刻ニ至り雨晴レ、大風と成ル。折柄、田方出鉾之時節ニ付、翌日五ツ時、田方惣白穂となりぬ。廿五日戌刻頃より又ゝ風起り、廿六日申刻ニ至ル。右ニ付、川筋ハ洪水ニて、穂水旁以皆損とも可申、右ニ付、頃日迄米壹俵ニ付、代二貫八百文位ニ有之候處、忽芦屋相場高直ニて、當日ハ三貫六百文と相成候。左候得は、貧民困窮ニ付、米直段折合ニ相成候迄ハ壹俵ニ付三貫文宛二賣買可致候旨、御町方(博多・福岡両市中)へ被仰達候由。當秋御國内御損毛高米弐拾八万九百弐拾五俵余と承知仕候、當九月、御郡奉行坂田新五郎殿、御免方井上三太郎殿御廻村、村ゝ御免返上仕候。右之通非常之天災打續不作ニ付、万民難渋ニ差迫リ、人別葛根堀として山ゝえ通ひ、蟹・蜆貝類之物を取、ごふり抔云ものゝ根を取て食し候ニ至ル。當年酒もなし。誠二作並打績キ、安楽之年柄ニは一年之飢饉抔ハ恐へき程之事ハあらしと申候得共、可恐ハ飢饉ニて、當秋程之凶作ニても、如此困窮す。増て、享保子年抔之ことき飢饉若あらは、今之代とても同しく餓死するもの多ク可有之候。農民多ク候得共、過半貧敷て、有徳なる者ハ稀也。極ゝ貧民ハ朝食すれとも、暮ニハ何を食すへきそと、日ゝ悩ミ煩ふもの多シ。左候得は、五年・十年作並打績キ、豊年ニ候とも、貧ハ漸ク一年を渡ル粮米を貯るニ至ルもの又少なし。此儀貧民ニ限らす、百人に六七十人ハ翌年之新穀を遅しと待得て食する世之中ニ付、今之代とても、諸國一統皆損と申さんに、貧民ハ飢て死ニ至ルへし。いか程金銀を貯へたる人も粮米を多ク備へたるハ稀也。仮令貯へ多クとも、飢饉之年柄、万民を救程之事ハ有之間敷、唯ゝ御上之御救を御頼申上ルのミニ候得は、平日御國恩を忘却不仕、五穀を大切ニ致し、粮粮(ママ)米を喰延へ置へき事と今年の責めに逢へる貧民口ゝ申伝候事。

蝗逐の図除蝗の道具

第三節 天保の飢饉

 「申年の飢饉」として知られる天保七年(一八三六)の場合の遠賀地方について「年暦算」は「田植後雨続き、大雨洪水出ル。六月十五日比迄雨天、其後も雨多し。米直段追ゝ上り三拾六匁位より四拾目ニ成ル」、「夏中度ゝ洪水ニて川筋、嶌郷ニ拂川・山鹿、鞍手ニ新延・中山邊水損。他国ニも水損多く、一統凶作也。綿も高直ニ成、八十文ニ付拾三匁売」、「十月より米直段追ゝ上り五拾八匁位、遠鞍両郡ニ御救米一万俵渡ル。百姓大ニ難渋之年柄也」と記している。藩や触に於いても早速に対策が立てられる。藩よりは窮民救済のための救米が出され、倹約令も厳達される。七年の凶作の結果は翌年六月頃よりの食糧不足となって現われる。郡内隣触の本城触では「世上大に凶作仕、享保十七年之昔に似寄候程之不作にて、米八〇壱俵五拾六匁にて売買御座候」、「(天保八年)六月に相成世上何となく物騒敷、乱世にも相成可申様にして、既に大坂に於は、大塩平八郎と申与力同心之頭人が、鴻池、三ツ井、小嶋屋、大根屋抔いふ富家を焼打にいたし、竃数も二万軒焼失仕、又大坂にて五六月之頃は、一日に死人百人程筒(づつ)有之候との風説に御坐候。京都は死骸千人塚と申塚、三ツ・四ツ出来仕申候。此辺も旅人、物囉体之もの数多死亡仕申候。酒代生酒にて四百文、上酒にて三百六拾文、下酒にて三百文いたし候。殊には、米代金壱両壱歩壱朱迄に相成申候、右に付、度々従御上様御救米御渡に相成申候上、猶六月之頃弥指詰申候間、(遠賀)郡内え米千俵福岡永蔵より御渡に相成申候。誠今古無例年柄に御座候。小倉城下抔は切米取之者夜中に乞食に相成配会(徘徊)有之候もの由に御坐候」と記している(27)。

 大庄屋よりは、天保七年十月二十一日、急触を以って、「当年柄、定て他触より野老・葛根・蕨類大山付に堀りに参り可申候。是ハ粮物之儀ニ付、山元村より迚も難指留候条、其御心得可被成候。尤、一谷と申か、一尾と申か、其物粮物ニ可致候間、いつれ之所ニても一二か所ハ致遠慮呉候様申諭、堀らせ不申儀ハ次第ニ候。尤、御納方、麦蒔付仮成相済候ハゝ、山寄村ハ勿論、触内里目村ゝ相成丈ケ冬内ところ・葛根・わらひ・ふとこふり根等堀りため、来春之末、夏迄も囲置、堀方不相成とき之粮物喰のへの覚語専一ニ候。来夏作・秋作共ニ定て宜敷可有之候得共、如何体之年ニて、又ゝ不作有之間敷ものニも無之、左候得ハ、当年凶作之末、引続候儀ニ付、中ゝ今年之困窮十倍ニて必至と指支、飢渇ニ及間敷ものニも無之、来年之事天地之変ハ一向不相分事ニ付、只ゝ丈夫ニ覚語さへ致置候得ハ安心致候。今年柄之恐敷事ハ誰/\も能ゝ承知致候へ共、来年之作方豊凶は不相分恐入候事而已ニて不慥有へからす。此段別て大事之覚語と被存候。(中略)酉七月盆後ニ相成候処米直段壱俵ニ付、金壱両壱歩迄重て相成候、酒も壱升一朱迄ニ相成申候事也。(中略)。「蕎麦之ヒコ是迄手抔ハ年ゝ捨て申候。右ハ能ゝ于上ケ、くたけ類少ゝ交せ、団子汁ニ致候得ハ随分食物ニ相成候と承り及候。右体之儀ハ無手抜有之度候」と通達をしている。同時に、「銭上納」のために、百姓衆が米を売る場合にも、たとえ、「米余計有之候者」も「上納銭高ニ慶し、少も余分ニ賣不申」、「上納高程賣候様」にし、米を売る場合には、「他郡・他觸ニ賣出不申、觸内ニて賣買有之度」と通達されている。この飢饉に於いても、その対策は享保・天明・寛政のそれを一歩も出ていない。

第四節 貯穀制度

 行政当局としても、食糧不足対策には腐心しており、前述の通り、享保十七年の蝗災を契機として、同十九年より上納が始まった用心除米、即ち、反別三合米や、寛政元年の公義通達に始まる囲穀制度、安政四年に始まる社倉仕組などはその対策の一つである。

 反別三合米は既に前にも触れた通り、反別三合用心除米ともいい、当郡は古田畠・壱作のある村は古田に反別米三合、古畠・壱作ばかりの村は古畠に反別大豆三合、壱作ばかりの村は田壱作に反別米一合五勺を課し、惣郡で二五〇〇俵の積立を目標としたものである。発足当時は蝗害の直後で無主地も余分にあったため、一応の基準として前記を定めたもので、諸士は拝地の高に掛り、町浦は小間に掛けて徴収される。明和年中に物成帳ができて以後、反別三合米は小物成の一つである。「都て銀ニ直し御宝蔵え被貯置」、「御当用ニ曽て被取用儀ニて無之候」とは記されているが、「平年ニても一郡一村難相立儀有之歟、火災・風轉等ニは利無五ケ年賦ニて拝借仰付」とあり(28)、明和七年に修覆銀の内より「郡方財用之備」として発足した「村救銀」といつの間にか同一趣旨化したところがある。

 囲穀、即ち、貯穀制度は、村に籾囲、買備米、現穀備、非常備等種々の方策が採られている。年貢立用を以って囲方が命じられた籾囲は、遠賀郡の場合、囲高が全備する弘化三年の段階では、全囲高は第5-37表の通りである。安政三年(一八五六)に遠賀郡小鳥掛村で、質入田地受返料として、金一五四両一分を拝借、五ヶ年間踊、六年目の文久元年より年々余米三五俵宛年賦返済の仕組を立てたのは備穀を利用したものであろう(28)。

第5-37表

 社倉仕組は「貧民救第一之備」にて「根元村々にて組合限り申合、うとくのものとも(有徳之者共)より米穀を出し、夫を倉にあつめおき候て難渋者を救ふ事」とあり(22)、月一歩の利つきで貸し渡すものである。

 文久二年(一八六二)の別府触の囲高は次の通りである。

別府触備米
合米千三百五拾俵壱斗五升
  内
 百六拾俵          原村貸付
 八拾俵           松原村貸付
 〆弐百四拾俵
残て千百拾俵壱斗五升     (文久元年)酉年囲高
  此内
 六百七拾三俵弐斗      別府蔵詰
 四百三拾六俵弐斗八升    吉木藏詰
 〆
社倉米
 此外九十(俵脱カ)代金備
 一米九百七拾俵       万延元申秋新穀詰替
  内
 四百八拾五俵        申秋凶作ニ付村々貸付
 残て四百八拾五俵      (文久元)酉蔵詰
  内
 弐百四俵          吉木村仕組ニ付酉冬より来午冬迄十ケ年賦
 弐百八拾壱俵        酉秋詰替
一弐百八拾壱俵        酉
一四百八抬五俵        申秋村ゝ貸
高弐百四俵之内
一弐拾俵壱斗三升弐合     吉木貸 酉冬返納
右同断
一百三拾俵          野間拝借米 返納
右同断
一五拾弐俵壱斗壱升八合    戸切質入田畠受返拝借 酉返納
 〆米九百六拾八俵弐斗五升  酉冬囲高
  内
 三百四捨五俵         別府蔵詰
 六百廿三俵弐斗五升五合    吉木蔵詰
 〆(21)

第五節 倹約令と粮物喰延

一 倹約令

 不作、饑饉に対する平素の心得や対策について、藩当局では屢々倹約令を通達、殊に享保の饑饉以後は屢々繰り返えされており、藩政末期に近ずく程、内容的にも厳化され、具体化して行く。倹約令は生活規制であり、花美・驕奢を戒め、質素・倹約を勧めるものであり、反面では紙片一枚で済ます社会政策でもあるとともに、耕作を勧め、貢納に対する心得や覚悟を促すものでもある。

 倹約令は享保十七年の凶作の翌年二月に通達されたものより内容的にも具体的に指示されるようになる。享保十八年の通達は「在郷大変に付」を前書きされており、飢饉を意識している。文政元年(一八一八)の演達では「郡々困窮之根元ハ近年作毛不宜より農業の進み薄く、専ら借引ニ心寄、百姓の本意を取失ひ候故ニ候(27)」としている。ここでは、極めて多種多様の倹約令の内より、天保四年(一八三三)の「欠略執行心得書」を示し、それが天保七年・同九年・同十一年の不作でどのように改変されるかを見る。天保七年は「言語同断之雨続にて、世上大に凶作仕、享保十七年之昔に似寄候程之不作(27)」の年であり、「天保の饑饉」とか、「申年の饑饉」と呼ばれている。九年について「年暦算」は六月二十六日・七日・八日大風、川筋洪水、老良土手切ル。川西田甫如シ湖水。奈良津も切ルとかや。肥前・筑後之方破損・水損之所多き由。此節大水三十年余と言。米次第上り五拾目ニ及。七月盆後迄雨多し。頃日米五拾三匁位。川筋低之通村ゝ大痛なれ共、八月ニ至り米も少ゝ下ル。秋中雨天勝ニて困窮、か様の年ハ無シ。米も又上り夏直段ニ成る。御国中倹約御触達有之。殿様も御遊猟御止被為遊、御鷹放シニ成。江戸登り御供半分ニ御減シ」と記している。その上、蝗害も加り秋おとりの年でもある(27)。天保十一年は六月四日・五日・九日に大雨が降り、筑前の国中至る所にて洪水の被害が続出している。国中の田畠の被害数一万一〇九三町歩余、土手・石垣破損五五五五か所、家屋被害一三六八軒、川艜流失二三艘、山々龍抜一万八二五二か所、死者七八人、殞牛馬三一疋とある(28)。

 天保四年の欠略執行心得書は単なる通達ではなく、村毎に各人が条文を守ることを署名・捺印し、請書として提出しており、その後は寄合の度に庄屋より村民に読み聞かせるようになる。

  欠略執行心得書
一、百姓は作方相応之居宅を構へ不申候てハ混納指支に相成事に候条、新に致家作侯歟、又は建継候とも広狭之儀は勝手次第に候。乍然是迄相達置候通、書院床、長押彫物、敷込ミ椽、塗縁之戸障子、さび土之上塗、或は張付類、都て物好らしき仕構致間敷候。尤宿駅は旅人休泊も有之ニ付御免に候得とも、其外村々は間宿たり共新規之作事は致間敷候。有来之分も漸々取除ケ可申候事。
◎持来、不相用てハ実用欠略ニ不相成抔ト心得違不致、決而相用申間敷候事。
一、本朱、金縁之膳椀、枕金彫之器物類又は金銀絵入にしきで(錦出)焼物等今様風流之器物相用申間敷候事。
一、婚礼、養子、引越之節持参之品々身上宜敷者は長持壱棹、葛籠壱荷、箪笥壱棹不可過之候。其以下は幾段も省略いたし、夜具之外衣類等は風呂敷包にて相仕廻候心得可為尤候事。
◎婚礼は人事之大本ニ付、重心得候ハ其節之儀ニも候得共、衣服其外之諸具行粧取締候を面目と致、間ニは御法度衣類を着し、結納として指贈候品とても同様結構之仕向取計之儀、累年之風俗ニて、追ゝ教示いたし候得共、畢竟身上衰微は不及申、第一御法ニ背候不風俗と申所を致得意ニ付、今已後質素之風ニ帰シ、聊不勘弁之仕構不致様、別て身上宜者之上よりかきと取止可申候事。
一、婚礼其外重立候吉凶に付、親族出会之節、料理向随分手軽く一汁二菜、吸物一ツ、取肴一ツ出之、祝会之節も身近き親類媒斗、其外は可致遠慮候。且軽き祝会、仏事等は右に準し、いかにも手軽く可致候事。
但本文婚礼養子等之節、餞別、土産等之儀身近き一族たり其取遣致間敷候事。
◎重立候吉凶之節、村役人え申届、指図を受、組合内より相詰見ケ〆可申付候。尤も、軽き祝会、佛事等は追加之条ゝ通可心得候。
◎親子・兄弟・聟舅斗手軽品取遣可致シ、其外本文之通可相心得候事。
一、右両条之内、重立候祝会之節、共者限りはいか程も欠略之心得罷在候者も有之候得共、当時外見を繕ひ候時節にて、他方よりも又欠略取行候儀を悪敷様に申唱候風俗と相成来候得共、一村之教示をも相導候庄屋・組頭之儀に付、自分家内之上より一際引締、深切に致才判候はゝ、いかに大郷たり共不行届儀は有之間敷候条、欠略之道其時ゝ庄屋、組頭とも承届候上、猶組合之者より相互に吟味合候様可取斗候事。
一、はま弓、羽子板、兜、雛餝祝儀之取斗、費ケ間敷儀一切一族近辺之ものたりとも取遣致間敷候。間には昇、吹貫等木綿等相用候も有之心得違之事に候。已来(持来たりともトモ)堅停止申付候事。
 但右祝儀用之品売買仕候者直段高料之品取扱不申樣可申付候事。
一、近年式地宮日に付客来之者え料理向入念候趣は相聞候。欠略筋之儀は近族相互之儀ニ付、無縁之客来可致様も無之、親子兄弟たり共以前より有触候塩魚、并自然(作トモ)之品等を以在方相応之仕向可致候事。
◎親子・兄弟・聟舅之續計ハ往来不苦候。其外決て客来停止候事。
一、伊勢参宮、又は旅行等之節、送り、酒迎仕間敷、且親子兄弟たり共餞別、土産停止申付候事。
◎伊勢参宮、他国之寺社参詣不相成候。尤難差延もの申出、可得指図候。
一、年始、五節句、盆会等郡村仕来之通、只古例を不失様しるし斗にて可相仕廻候。惣て虫祭、風留、牛馬祈禱など大勢打寄、費ケ間敷呑喰不致候様可取斗候事。
◎年礼ハ正月五日限り、年始・歳暮ハ親子・兄弟・聟舅之続斗ハ有合之軽き現品、不失信儀迄ハ取遣いたし候儀令赦免候。尤医師・師匠ハ格別、其外音信・贈答堅停止候事。但、盆会本文ニ準。
◎親子・兄弟・聟舅計、年忌、初盆會等之節、手軽品相遣可致候。其外本文之通可相心得候事。
一、衣類一切木綿可相用候事。
 但真綿、絹糸入停止、小児付ひも共に同様可相心得候。
一、都て目立候染模様、又は鹿子入とんす染之類、花絞等に至迄都て高価之品停止。
  御免之染色
 黒茶、納戸茶、ろこふ茶、千草、空色、紺、浅黄、こふり山、鼠、茶、萌黄、うこん、花色、藍ひろふと、唐黒、あかね、紅花染、薄かき、地白
 右染色之内を以縞形付、又は返しものに染候儀、女子十歳以下軽きちらし入に染候儀は勝手次第に候。襟・袖・縁り等も同然、其外一切停止之事。
◎木綿布共ニ高価之品相用候者不少、不埒之心得ニ候。向後農家之本意を不失様、別て大庄屋、村役人共身ハ不及申、家内共之所行を改、村内取締方屹度相示可申事。
一、右染色之外決て仕立不申様紺屋共え相達可申候事。
一、帷巾、手織、岩国、奈良、下品之分は縞にても染候ても不苦候。尤染色は前書之通相心得、女は軽きちらし入不苦候事。
一、十歳以下之小児たり共振袖停止之事。
一、帯は木綿布相用可申候事。但縞染色前書之通、女は軽きちらし入不苦候事。
一、櫛、かふかひ、笄共へつかふ、并銀にて製候分停止申付候事。
一、女子髪餝絹真綿金銀紙にて製候分、其外目立候品相用させ申間敷候事。
◎紙ニ而製候麁品之分ハ相用可申、其外本文之通堅可相守候事。
一、蛇の目張の傘相用申間敷候。大庄屋・村役人たり共成丈ケ蓑を相用可申、蓑に餝ケ間敷儀無之様可相心得候事。
◎傘ハ問屋張之外堅停止候事。
一、塗下駄、表付停止申付候事。
一、菅にて製候日笠は相用間敷候。女は用来候麁品之菅笠相用候儀勝手次第に候事。
一、前ゝより有来候丸頭巾、角頭巾之外面体を隠し候頭巾をかふり申間敷候事。
一、村判之医師、帯・下着に軽き絹相用候儀は御免に候得共、相成丈ケ麁服相用、妻子百姓之家内同様に相心得、衣類染色等御法を不相背様委敷可申聞置候事。
一、日傘は医師たり共都て停止申付候事。
一、子添婆是又村判之医師に準し候事に候得共、別て相慎麁服相用候様可申付候事。
   右之条ゝ可相守もの也
   天保四年四月十一日(巳十一月トモ)   川越又右衛門
                      神屋宅右衛門
   右銘ゝ倹約筋之儀御委鋪御達被仰付重畳承畏上候。以後心得違仕上間鋪候。仍て御請書物如件
    同年同月   (百姓連名)
    遠賀鞍手 御郡代 御役所
   右当村百姓中より御請申上候処相違無御座候。猶私共よりも立入才判可仕上候。以上
    同年十一月   (組頭庄屋)
   (大庄屋奥書)
  内情取斗行届兼候旨委細申出候条ケ条ニ寄遂評儀付紙いたし相渡候。堅相守候樣可論候。自然相背候者有之候はゝ不拘会釈可申出候事。
  天保九年十二月

 天保九年には前記「付紙」(◎印を付した分)による厳化の他に、「当年は一昨年程之儀ニてハ無之、粮物指支等は有之間敷」とし乍ら、粮物確保の心得を説き、「御上えも殊之外御指支ニ付てハ厳敷御欠略被遊、三季之間半御所務ニて諸口共御仕廻被遊候趣ニ付、御家中へも一両年之内ニハ半所務減少程ニも可被仰付、当季より半高之心得ニて御奉公仕候様御達ニ相成居候」として、「当年より三季破格程之御欠略御執行、且郡ゝハ近年打続御損毛ニて村ゝ一統及困窮候ニ付、去ル(天保四年)巳年相達置候欠略筋弥厳重可相守處、何と歟心得相馳ミ候歟ニ相聞不埒之至ニ候。依之兼て相達置候定書之外、三季之間別紙欠略執行書を相渡候云云」と更に次の箇条書を通達している。追加の倹約令である。

   兼而相達置候倹約定書之外當年より三季之間欠略執行心得ケ条書
 一年礼ハ正月五日限堅相仕廻可申候、尤、年玉・歳暮ハ是迄之仕来ニ不拘、親子・兄弟・聟舅斗為肴代丁銭六拾文宛可致取遣候。尤、醫師・師範ハ格別、其外暑寒共音信停止之事。
 一盆會ハ村ゝ往来之通古例を不失様印シ斗ニて相仕廻可申候。初盆之所ハ親子・兄弟・聟舅・妻之兄弟斗麁品之燈籠指遣可申候。其外一切取遣停止之事。
  但、節句々々ハ親子・兄弟たち共取遣停止之事。
 一式事神事之節、氏神え備物等ハ仕来之通リ作リ、初穂・神酒等相備候儀、古例を不失迄ニ取斗可申候。宮座指留候てハ気障ニも可相成ニ付、形斗ニて可相仕廻候。其外身近キ一族たりとも往来停止之事。
 一昇・吹貫・破魔弓・羽子板・雛餝停止、店ゝ仕入いたし候儀指留可申候事。
 一八朔葉竹ニ短冊、其外翫ひもの等付ケ、致取遣候儀停止之事。
 一誕生日・髪置・元服・年賀・厄祝等之節ニ身近親類斗相招可申候。勿論料理ケ間敷儀不致、一汁一菜・肴一ツ不可過、他方之客来、并、赤飯等送り候儀停止之事。
 一三ケ年之間、伊勢参宮、其外他国之寺社参詣致遠慮可申候。尤、限たる願解、難指延分ハ申出候ハ、其時ゝ遂吟味可及指図候事。
 一葬式之節、親類・組合斗打寄相仕廻可申候。賄向等ハ手軽いたし可申候。尤、為無酒事。
 一焼失、風轉等之外、新規之家作可致遠慮候。家別、或ハ、古家居住難相成儀ハ願出候ハゝ遂吟味、可及指図候。寺社普請等ハ年限中取止可申候。尤葺替等難指延分ハ申出候は、是又吟味候上、可及指図候事。
 一佛事・年回は旦那寺之僧、并、忌懸リ之親族斗相招、一汁一菜、有合之品(を)以、手軽相仕廻可申候事。
 一出家・社人上京、官位昇進等合力筋一切相断可申候事。
 一於村ゝ、先年より神事・其外祇園會・盆會等ニ山笠・踊等定格興行致シ来候分、年限中致遠慮候儀可為尤候。仕来之儀ニ付、願出候は遂吟味可及指図候。其外臨時之興行ハ別儀之取斗ニて相仕廻可申候事。
 一寺社迴郷御免之分ハ是迄之通志次第ニ相施、其外寄進・奉賀筋一切相断可申候事。
 一浄瑠理・三味線・歌・俳諧・鼓(胡)弓・尺八等之遊藝ハ風俗之妨ニ相成候条、稽古停止之事。
 一宿駅之外雪駄相用申間敷事。
 一、若者組相立不申様、連ゝ相達置候得共、間ニは友達組抔と申唱、夜・日待・灸治・帳綴・算用祝、又ハ、神事瓶底振廻抔と様ゝ名目を付、男女縁付等を相妨、余分之酒を為買候類不風俗之根元、親ゝ之示暖ニて、猶村役之教導不行届より發候儀ニ候、其外色ゝ之事を工ミ、村中出入指留、不相用ものハ病気・不幸等之節、近隣たりとも取構不申、且、村役之目を忍、踊・操相催、馬草山ニて鎌を押へ、酒を為買候類之不風俗、悉皆若者共之仕業と相聞候。右体之儀屹度停止申付候。自然似寄候儀風聞於相達ハ事品ニ寄、落膽之者迄も厳敷咎メ申付候事、
 右之通堅可相守もの也
 天保九年戌十二月     弥左衛門

 天保九年十二月より三季を限った追加は同一二年冬で期限切れとなる。その間に同十一年の大洪水が入る。同十二年十二月には、天保四年、九年の倹約令に、更に「追加」を加え、一年限りの時限の倹約令が通達される。それは、次に示すように、天保九年の箇条に類似する。商人の一条のみが新規の項目といえる。天保四年の欠略執行心得書の原型は天明八年(一七八八)及び、文化五年(一八〇八)六月の「教示帳」の内、「倹約之部」に既に見ることができるが、これも享保十八年二月の倹約令を順次改訂して来た結果でもある。欠略執行心得書は付紙・追加を加え運用され、天保十三年十二月、これ等を纏めた新しい通達となり、更に、安政三年の「倹約定書」へと移行する。天保十二年の「追加」は次の通りである。

追加
一、耕作肝要之時節ニハ朝六ツ時庄屋元ニて鳴物をならし、夜明ニて庄屋儀村ゝ前後を廻り百姓共農業ニ出候哉見繕候て兎角時節おくれ不相成様致進退、妻子迄も不懈様可申付との趣ハ前ゝより之御法ニ候処、懈怠いたし、惣して村役人共才判方本意を失ひ候儀多く候。此已後御法之通堅可執行候事。
一、年賀ハ孝養筋ニ付子孫相応相暮候者ハ手軽相祝候儀勝手次第ニ候。尤身近き親類斗相招一汁一菜肴壱ツ限リ、其余ハ餅赤飯等相贈候儀停止候事。
一、厄祝又ハ小児誕生日、髪置等家内限ニ相祝、決て他方之容来ハ勿論、餅赤飯等贈候儀共令停止候事。
一、平日病気或ハ出産、疱瘡等之節相互ニ世話致し合候儀ハ勿論ニ候得共、見舞之品等親子兄弟聟舅ハ格別、其外筋遣いたす間敷候。尤流行病等ニて一家内相煩及難渋候者有之ハ村役人より心を寄、一族組合中より深切ニ世話いたし候様可取斗候事。
一、神祭盆会並ニ山笠踊等興行致来候分致遠慮候儀尤ニ候。併不得止事訳有之願出候ハゝ可及指図候事。
一、出家社人上京官位昇進等ニて合力筋堅相断可申、尤寺社普請等も同様候事。
一、右同廻郷御免之分ハ銘ゝ志次第相施、地旅共無縁之廻郷弥以指留可申候事。
一、俗家え僧尼を招祝法等為致候儀堅停止候事。
一、是迄指置候左之商人振売令停止候。居売いたし候儀は指免候事。
一、端物振売  一、飴菓子振売  一、写紅振売  一、小間物振売  一、鉄物振売
一、右同断居売小売之免札を請、猥ニ村ニ入込振売いたし候者不少歟ニ相聞不埒之事ニ候。此節より屹度相改右之者ハ不及申、統て無免札之商人忍ひゝ入込候と見当リ候ハゝ荷物差押早ゝニ可申出候事。但村ゝ商人共相互ニ致吟味差押可申出候事。
一、葬式之節親類組合中打寄相仕廻可申、身上宜者一体之仕構以之外不相応之行粧も有之、漆塗等之棺を用ひ、女子等ハ衣服を着飾り野辺迄も罷越哉相聞、哀傷之実意を失ひ、驕奢を以て追孝之様ニ相心得、人情に外れ、礼儀を失ひ、不風俗之次第ニ候。以後急度相改可申候。身上宜者棺等ハ潔白ニ手軽く相仕立可申、女子ハ葬場迄付添ふへきものニ無之候。此外賄向等聊費無之様相心得、組合親族ハ只係切之世話を第一ニいたし飲食を貪り候様之儀曽て致間敷候事。
一、仏事年回ハ忌掛リ之親族斗相招、一汁一菜ニて手軽くニ相仕廻可申候。尤右続柄ハ有合之産物相贈候儀ハ勝手次第ニ候事。
一、宿駅之外髪結床□召置申間敷候事。
一、宿駅之外雪駄相用候儀停止候事。付り、宿駅たりとも雪駄店売停止候事。
一、若者組相立候儀停止候事。
一、孤独其外無拠難渋ものハ不及飢渇様村中より心を付、不人情之振廻いたす間敷候事。
右天保四年之定書ニ付札ヲ加え、猶又洩候儀ハ致追加相達候条、来寅(天保十三年)十二月を限り無違乱可相守、若相背候者ハ曲事可申付者也。
 天保十二年十二月    野田惣蔵
             林八太夫
      本城村大庄屋 松井仁十郎 え
      同村同手伝  佐藤伝三郎 え
      同触下村ゝ   庄屋中 組頭中 百姓中

二 天明の飢饉と粮物喰延

 先にも述べているように、天保七年の飢饉に於いては、隣の本城触では、飢饉対策として、冬内に野老(ところ)・葛根・蕨・ふとこふり根などを堀り貯めて、食糧不足の場合に備えるように通知するとともに、通常は捨てている「蕎麦之ヒコ」もよく干し上げて、くだけ類を少々混ぜて、団子汁にするとよいとも通達している。経済が領国中心であり、孤立的・封鎖的傾向の強い藩政時代においては、不作時の食糧確保は、藩財政が年貢米により維持されているだけに、行政的には難しいものがある。そのため、凶年備が立てられ、貯穀制度が採用されるなど、種々の対策も講じられている。それ等とともに、国中に対して倹約令を公布して倹約を勧める傍ら、時によっては粮物喰延し策をも通達している。

 天明八年(一七八八)十二月に、郡奉行より国中に対し、「当年初冬より天気不勝不気候之田方作並も秋劣候等不十分之趣ニ付、春夏作ニ至、萬一格別不毛上、半作ニも不至儀も有之候得共、極て粮物不宜ニ付、右喰延之覚語無之候ては、其期ニニ(ママ)望仕法無之、必至と可及差支飢渇儀ニ候」として、「粮物喰延之儀ニ付示方」がなされている(11)。天明八年に至る数年間の遠賀地方の状態を「年暦算」に拾うと第5-38表の通りである。天明三年前後はいわゆる天明の飢饉である。天明八年は「山付ハ堤水一引も不致、十三年已前、安永五申としと同し事也、夏畠作不取」と記している。安永五年の条には「八月稲の色付き迄山付堤水一滴も落し不取、珍らしき雨多き事也、秋作実入不宜、畠も同然、去冬已来雨多き故ならん、盆前蝗出来ル」と記している。遠賀地方では、安永八年に桜島大噴火の音は遠雷のごとく聞えているが、天明三年の浅間山の大噴火は風聞のみにて、多くの餓死者を出した奥羽地方や関東地方程の被害ではないかもしれないが、米価は「弥上り、蔵米ニて四拾六匁、享保十七年之凶年之比よりハ高直也」と記している。

 天明八年の「粮物喰延之儀ニ付示方(33)」の概略を箇条書で示すと次の通りである(アラビヤ数字は原書の条数)。

一(2)、寒中の木草の芽立摘物等のない間に、老若男女総出で、麦・辛子の蒔付をし、手入を是非年内に一巡宛は済ますこと。
一(3)、衣類の新調は禁止。綿入一着新調しても米一俵代に当る。人口五〇〇人の村で一人一着宛新調すると米五〇〇俵の費になる。半分が新調しても二五〇俵を売らねばならない。それを貯え、麦作迄の備にすると粮物喰延になる。
一(4)、正月用の濁り酒は五升~一升宛造り、過分に造込みは決してしないこと。
一(5)、正月は三日迄、四日より相応の農業や粮物喰延の才覚をすること。例年は元日より十五日頃迄は休み、十六・七日頃より農業を始めているが、その間に老人・子供等は草履・草鞋・蔣莚等の藁仕事をして手間を稼ぎ、健康な男女は麦の手入等を心掛けること。
一(6)、正月の餅搗は、中以上の農家でも一俵以内、それ以下の農家では一人宛二・三升宛搗くこと。五人家族で一斗位にし、残米は粮物備にすること。
一(8)、米・雑穀は勿論、芋・大根に至るまで粮物になる品は全てその村限に囲い、他郡や国外への売却は堅く禁止。
一(9)、椎・樫、その他食用になる諸木の実は油断なく熟実の時に、老人・子供等で拾い集め、囲い置いて粮物の助にすること。
一(10)、琉球芋を荒地・野地・空地に作付するように勧めているが、更に増加するよう努めること。種芋代に指支える者には、六年以前より貸付の制度が実施されているが、請作の人や遊民でも拝借貸付を行う。
一(11)、志荷商人・諸勧進の類・半季奉公人の類、明和九年正月より村内に入らせないようにすること。
一(14)、翌年の元日より四月晦日迄一二〇日間の粮物積りと、保有量を書出すこと。例えば、家内男女七人の家族の場合、一日一人平均三合宛では耕作荒働をする者には不足するので、一人平均五合宛として、一二〇日分で四石二斗、俵にして、一二俵二斗四升が必要となる。仮に、米麦合わせて六俵の手持がある場合、六〇日余の手当が必要となる。六俵では、一日一人平均二合三勺余に当るので、不足分を野菜・芋・大根・琉球芋、つみ草類などで補うことになる。
一(15)、五月よりは麦、大豆、小豆、万作、野菜の類を以って秋迄の仕向にすること。

 右の外、冬迄の二四〇日の粮物仕法立をも指示している。これは藩よりの公式のものであり、行政的な指導であるが、凶年には触、村、組内等にても凶年対策が立てられ、倹約申合せ等も行われている。

第5-38表

第六節 凶作と米価

 不作や凶作は享保・天明・寛政・天保の各飢饉の他にも少くない。別項で取りあげている天保九年・同一一年・嘉永三年・同六年・万延元年・明治二年などもその類である。「米遣いの経済」とも呼ばれる藩政時代には、豊凶は直ちに米価に反映される。貨幣価値や銀銭相場の問題もあり、単純に価格のみで比較することはできないが、凶作には異常に高騰する。「天下の台所」大坂の米相場も前記の凶作には極めて高い。

 遠賀地方の米価を「年暦算」に拾うと第5-39表の通りである。鬼津村を中心とした地区の米価といえる。米価は大部分は八〇文銭で表示されている。一匁八〇文で換算すると丁銭を知り得る。享保十七年は「銭壱匁ニ米七合、或ハ、八合充。大麦壱升二合、大豆・小豆壱升壱合」とのみ記している。一匁に七合の場合、一俵三斗三升とすると四七匁余、八合では四一匁二分五厘に相当。一俵三斗四升とすると、七合では四八匁五分余、八合では四二匁五分に当たる。享保十八年より元文二年までの米価は記入されていない。

第5-39表第5-39表25-39

 表中米価が異常に高い年を「年暦算」の記事と合わせると次の通りである。

 宝暦六年は「米直段八銭三拾目、近年之高直也」とのみ記している。「岡郡宗社志」によると、前年五月には洪水があり、広渡村上の本土手が決潰、七月中旬より田方一統大蝗にて、「廿四年前、享保子年之事を思ひ出テ万民之騒動不大形」と記している。この蝗気につき、下上津役村惣四郎、乙丸村儀三郎、山田村五三郎、鬼津村太右衛門、上々津役村与次右衛門の五人の大庄屋で相談の上、郡役所に申出て鯨油を購入し、田に鯨油を入れることにした。農民にとっては最初のことであり、入れ方も区々であり、早い者、遅いもの、一度入れる者、二度・三度入れる者もあった。中には、油を求めて入れるものも様々とそしる者もあった。この結果は、鯨油を入れた者と入れなかった者の田の収穫に歴然たる差を生じることとなって現れた。これにより、この以後は段々、一統鯨油を用いるようになったと伝えている。筑後国にては鯨油の入手が困難なため、辛子油を用いることもこの時より始った由記している。「岡郡宗社志」には他に朝顔の実と栴檀の葉を混ぜて養水に注ぐ法についても触れている。同年は八月二十四日にも「古今之大風雨」があり、家居・脇家の倒壊が続き、往還並木松も大量に転倒した由にて、黒崎より大蔵村の豊筑国境までの間で二六五本が倒れた由を記している。

 文政九年は「追ゝ三拾三四匁ニ上ル、根付より水拂底、夏中日和」とある。

 天保二年は「五月田植後同廿七日より大雨洪水、六月二日夕より大雨、三日・四日大雨、村ゝ破損多し。秋作相應、早米三拾四匁位、後少ゝ下ル」とある。

 天保五年の高値は「根付雨ふらす、六月ニ入大雨ふる。夫より旱り続き、七月末ニ大夕立降ル。夏米直段四拾五匁迄上ル。夫より次第ニ下直ニ成ル」と一時的に高騰。天保の飢饉後の八年は「去年一統凶作ニて穀物高直ニ付、広嶋より上ミ、大坂・京都、凡て飢死之人多し。京都ハ七八萬人、江戸ハ拾万余人、五月迄に千人塚卒塔婆拾九本迄立由、珍らしき事也。下中国より九州ハ死人無し。九月十日夕より中風吹出し、両三日吹。米直段五拾目位。新米少ゝ下り四拾目内外」と狂乱米価は半分に下ったが、それでもなお高値である。翌九年は六月二十六・七・八日三日間の大風洪水により、老良土手や南良津土手が決潰し、川西は大被害を蒙る。三十余年来の大水という。七月も盆過ぎまで雨が多かったため、米価は次第に上り、五〇目より五三匁位まで高騰している。八銭五〇目では一升一二一文余、五三匁では一二八文余に当たる。翌十年は冬には三〇目に下るが、江戸西丸焼失普請手伝として郡町浦に出銀を課し、農民には年貢米一割増上納が命ぜられたため、困窮は変ることはなかった。天保十一年は「子年の洪水」で知られる国中大水害の年であり、米価は三六匁位、翌十二年に至り漸く平常に復している。

 弘化三年の高値は根付雨が遅れ、西郷では雨乞祈願が行われた程の旱天によるもの、嘉永元年の三八匁は春中天候が悪く、麦が腐ったことによる高騰であるが、翌二年の五〇目は秋に蝗が入ったことに由縁している。

 嘉永三年や同六年については別項で触れている通り、大雨や旱魃による。安政五年の三貫八〇〇文は一升一一五文余に当たり高米価といえる。「年暦算」は「八月中旬より戌(乾)亥ノ方中天ニほうき星出ル。九月中比(頃)ニ至リ次第容薄く也、後ハ不見。十二月二日夕五ツ半比地しん二度入。米直段三〆八百文位」としており、直接の要因は示していない。郡町浦三奉行の通達には「当夏已来天気不順ニて雷電等も無之、気中ニ邪毒含居候ニて有之」とあり(25)、気候不順によるものであろうか。この年の秋より御年貢米俵拵が大縄仕立になり、「俵拵六ケ敷、百姓困入」と記されている。いわゆる弾正縄仕立である。弾正縄は担当役立花弾正に因んでいる。

 安政六年以降は、同年、及び翌万延元年の金貨吹直により、貨幣価値の変動が著しく、単純に名目的な米価のみにて比較することはできないが、万延元年は四月に大雨・洪水があり、夏中も雨が多く不作。文久元年は夏季八〇日に及ぶ旱魃、翌二年も旱天続きで不作である。冬の米価五貫文は一升一五一文余に相当するが、銭貨相場、及び、札の貨幣価値も関連している。この傾向は年ごとに強まり、元治二年の項には「六月米直段正金一両、銀預ニて拾弐貫文。冬米直段札十四貫文位、御切手大ニよわき也」と記している。一俵一四貫文は一升四二四文余に相当する。この傾向はその後も同様であり、慶応四年には「春中天気悪しく雨多し。米直(値)段弥下直、正金壱両之内ニ入。銀預九貫文位。諸品も少しハ下直ニ成れ共、銀つまり也。正金壱両拾壱〆弐百文、御切手甚弱気也」と記されている。そのためか、同年秋、冬の米価は金建で示されており、「皆正金也」と断っている。同年五月の銀目廃止令とは無関係と断じてよいであろう。正金が万延の新小判の場合、品位は天保小判とほぼ等しく、正字小判とは全く同一であるが、定量は天保小判の二九・三パーセント、正字小判の三六・六パーセントに過ぎない。それを無視して、同年末の米価を切手で換算すると一升五〇九文になる。天保小判に直して比較することは、古金類の歩増強制通用や金銀相場の問題があって機械的に行うことはできないが、小判の素材価値が二九パーセント余であることより逆算して単純に比較すると、天保小判一両は切手三八貫一八二文に相当する。一両一一貫二〇〇文よりすると、「御切手甚弱気也」よりも、一両の実質価値の低落が目立つ。逆に、慶応四年末の米価一両二分を素材価値の比より天保小判時に直すと、八銭六一匁六分に相当する。確かに高値であり、「御切手甚弱気也」のようにも感じはする。小判の素材価値は二九パーセント余に下落しているのに対し、切手一両一一貫二〇〇文は、天保期の一両六貫八〇〇文替とすると、一・五倍に過ぎない。同一相場とすると、切手二三貫一八二文で対応する。小判の素材価値のみで比較すると切手は弱気ではない。米価が高値といえる。「御切手甚弱気也」としていることよりすると、開港に伴う金銀相場の変動、殊に銀の価値の低落が影響しているのであろうか。慶応四年の銀の相場は天保―嘉永期のほぼ三分の一である。

 貨幣価値の変動の著しい万延期以降の名目価格はさて置き、米価の高い年は必ず農薬に影響のある事象が現れている、殊に、経済が封鎖的であればある程その影響は強い。殊に、米作農業が中心であり、反当収量も現在に比べて少く、充分な保有米を確保し得ない状態においては当然のことともいえる。まさに米遣いの経済である。遠賀川の下流に位置し、それに沿っている遠賀町域においては、川の氾濫は直接に農耕に影響するのみならず、多くの生命を脅かす。遠賀川が天井川であってみればなおさらである。治水の叫ばれる由縁でもある。

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