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第五編 近世の遠賀町 第七章 近世の交通 [PDFファイル/1MB]
明治時代まで唄われていた大津絵節の1つに芦屋より博多までの旧道を読み込んだものがある。
芦屋より博多まで
人に会わや(粟屋)と尋ね行く
馬のはみ食う糠塚の
からせにんぶの山田村往来
産は伊勢海老津
女子の月厄で赤間駅
曲る原町の鶯が
大穂ほけきょと囀れば
これ吉っあんよ
この頃はやる相撲取り唄
おまはん一つしやれてけつからんかね
おおさ合点
原上のだんの原(旦原)なく新松原(新原村カ)よ
青柳筵内や浮気者
鱧を(浜男)かんして持って来な
おかしい(香椎)魚でもう一ぱい
盃や多田羅のをじゃないかいな
これ吉っあんえ
そない筥崎八幡松ケ枝みたいに
ぜかぜか言うては道がはかどれない
急がなくてはつまらねエ
崇福寺新茶屋女が一寸出て手を招く
石堂橋から通り丁下れば
わっちがなじみのこいつア柳町
聞き取りのため不明の箇所もあるが、途中の村や地名を読み込んでいる。旧西往還である。
福岡藩の交通網、殊に、一般旅人が通行できる往還は、年代により必ずしも同一ではないが、長崎街道冷水越が開通して以後は、概略第5-3図の通りである。藩内には「6宿」と通称される長崎街道の6宿と、「内宿」と呼ばれる21宿がある。6宿は黒崎・木屋瀬・飯塚・内野・山家・原田の宿駅で、薩摩・肥後・筑後・肥前の諸大名をはじめ、長崎奉行や紅毛人も通る脇街道で、藩内の幹線道路である。内宿は若松・芦屋・赤間・畦町・青柳・箱崎・篠栗(金出)・博多・福岡・姪浜・今宿・前原・金武・飯場・太宰府・二日市・甘木・志波・久喜宮・小石原・大隈の21宿である。いずれも人馬継所を備えた本宿である。
慶長17年(1612)頃、冷水峠越えの街道が開通する迄は、藩内の交通路も事情を異にする。文明12年(1480)に連歌師の飯尾宗祇が若松(北九州市)に上陸し、大宰府に向った時は、木屋瀬より長尾に行き、米山越にて大宰府に赴いている。長尾は杉次郎左衛門尉弘相の「知る所」であり、同所は古代官道筋ではあるが、一般的な街道であったか否かは明確ではない。「済民草書」は初期の街道について、「大凡国土の通駅を考ふるに、黒崎に入もの、木屋瀬より飯塚道を東にして大隈・小石原に越ものあり。又飯塚より八丁越をして甘木を出て、筑後の松崎に行あり。木屋瀬より赤間・青柳を過きて筥崎に至りて、夫より博多に入て、二日市に及て、原田に達す。原田より松前(崎)・田代と行なり。又木屋瀬より博多を過ぎて、道を右にして筥崎より筵田越あり、そを参府道といふ。又博多より茅塚(吉塚カ)道を出て金出越しといふて、飯塚に出るものあり。博多より西に行には、住吉の前より今の大閤(ママ)道に至りて、姪浜に行く。夫より今宿・前原に達す。又大閤道を左に取脇山に出る道あり。是を国中の往還道といふなり。祖人卜祐か長政公に申上て、今の冷水越を開たり。又甘木より上座郡に行朝倉道あり。又那珂郡に中道といふて、山田より肥前に行く道あり。又遠賀郡の海道ありて、若松より芦屋に行て、宗像・糟屋に及て、筥崎に達する道あり。是等何れも脇道にして、旅人の通駅にあらす」と記している。「慶長年間筑前国図」は、黒崎―穴生―折尾―古賀―猪熊―島津―鬼津―糠塚―山田―海老津―赤間と通ずる道、黒崎―下上津役―木屋瀬―植木―新北―吉留―赤間と通ずる道路は描かれているが、木屋瀬―飯塚の街道はない。同図の精度の検討も必要であろう。いずれにせよ、遠賀地方に通ずる道路は、陸上では後に「西往還」と呼ばれた街道である。それは部分的には古代の大宰官道を利用しているかもしれないが、既に完全な近世の街道である。
宿駅制度が整備されて以後の街道は概略図に示す通りであるが、街道の呼称は固定していない。地区によっても異るであろう。遠賀郡地方では、長崎街道は東往還、唐津街道は西往還・黒崎より岐れて吉田・岩瀬・上底井野・新延・猿田峠・赤間と通ずる道路を中筋往還、または、中通りとも呼ぶ。木屋瀬―赤間は中筋往還。八木山経由博多は篠栗街道、または金出越。豊前猪膝より千手―秋月―野町―松崎は秋月街道。博多―二日市―原田は博多往還。福岡より金武―飯場―肥前は三瀬街道、または、岡往還ともある。博多往還―天山―甘木―久喜宮―日田は日田街道・日田往来である。その他にも、須恵―産ミ―宰府の宰府道、日田往来―石櫃―松崎の天下道、福岡―太閤道―脇山―肥前や、博多より山田経由肥前道等往還や脇道がある。松崎宿の成立は延宝年間のことである。
遠賀地区に通ずる道路の内、黒崎―陣原―折尾―古賀足谷―島津と通った道は後には往還の内には含まれていない。
街道は地域住民のみならず、一般旅人の通行もある。そのため、街道の維持・保繕は請持普請丁場を定めて各村に割り当てられる。遠賀郡の街道の内、遠賀地区の村々が関係した地区を示すと第5-40表の通りである。割当は成年男子に課せられる夫役である面役を基準にして行われる。そのため、面役数の変動により割替が必要であり、常に同一とは限らない。街道長と請持丁場間数合計が一致しないのもその辺に原因があるかもしれない。請持丁場数は、文政元年割替では、東往還は道長8,730間を56か村面役数4,014人に割り、1人につき、拼2間1歩7厘8毛充、中筋往還は道長5,714間を16か村面役1,229人5歩で割り、1人につき4間6歩4厘5毛充としているが、割当は必ずしもそれに近い数字とは限らない。道路状況などが考慮されているのであろうか。中筋往還でも、最も難所と思える吉田村傘屋の辻より則松村までの間は平均値以下となっている。請持丁場も時代により多少異同がある。東往還の文政・天保期の割当では馬場山村抱に今古賀村165間、尾倉村抱に藤木村100間の請持があるが、弘化以後の分にはない。逆に、後者には下上津役村抱に木守村258間があるが前者にはない。現存の請持丁場境界碑には小嶺村と別府村が刻まれている。碑には「小嶺村抱普請所 従是東小嶺村受持丁場 従是西別府村受持丁場」とある。小嶺村抱往還が両村の受持丁場が隣接していたことを示している。東往還の熊手村抱の受持間数が少ないのは中筋往還に含まれているためである。遠賀町地区は表に示す通り東往還と中筋往還が割当てられている。西往還では、小烏掛村明細帳に「往還長三拾壱間 尾崎村より芦屋村迄」と記されている。糠塚村境より芦屋南町渡場迄35丁の内に31間小鳥掛村抱が含まれている。小烏掛村の最北端部である。
遠賀町域にいつの頃より「お伊勢参り」の風習が定着したかは明確ではないが、近辺に於いては既に室町時代には伊勢神宮の祠官たちの下向がみられる。室町時代より戦国時代にかけて、守護領国制の動揺する中で、伊勢神宮がその経済的自営や伊勢信仰の普及を目的として地方へ派遣したという配札廻檀の御師である。北九州地方には外宮御師が廻檀している。享禄5年(1532)の筑前では、若松・藤田・芦屋・香月地区が、永禄7年(1564)と元亀元年(1570)では若松・芦屋・藤田が、天正14年(1586)では若松・藤田が夫々配札の対象地区となっている。藩政時代に入った慶長15年(1610)の御牧郡では第5-42表の村々が配札の対象となっているが(65)、この段階では遠賀町域の村名は現れていない。村々の成立状況や有力者の存否を推測させるものがある。
枝村の所属が金吾中納言時代の「筑前国田畠之高村々指出前之帳」とは異なる。「御祓賦日記」(神宮文庫蔵)の使者藤田二郎左衛門が便宜的に区分したものか、金吾中納言以前の状態によるものか定かでない。「そこいね」が底井野を意味するとすると、上底井野・中底井野・下底井野を意味する。「そこいね」は「筑前国木月」に含まれており、小嶋右衛門尉・同甚五郎・与七郎・小左衛門・孫三郎・勘介・永富四郎右衛門・小嶋小七郎・与五郎の名が挙げられている。永富四郎右衛門は猫城伝説にその名が見える。その他については判明しない。浅木地区が含まれているか否かも判明しない。
17世紀も終りに近い元禄6年(1693)には別府・虫生津の一行が参宮をしている(66)。この一行の、別府村2・虫生津村1・別府村の内千代丸2・高家1・小倉1の7人は6月25日に長門国本山にて大風に逢い遭難、死亡している。6月25日は太陽暦の7月27日に相当する。各地に被害が出ている。夏の台風であろう。当時の遠賀町の各村は第5-3表の通りの人口であり、完全に共同体は成立しており、同行を組んでの参宮も当然考えられる。その僅に後の宝永3年(1706)の藩の通達にも「伊勢参宮人多、幼少之者路銀等も聢所持不仕候者は、いたわり候様、惣て参宮人宿かり、旅食等相応之賃銀取候儀沙汰に不及候事(41)」と見えており、参宮の風習の確立を推測させるものがある。18世紀後半になると伊勢参宮についての、藩としての種々の規制が現れる。その中には「抜参」(明和元年=1764)・「見立・酒迎・餞別・土産」(明和6年)等の文言も用いられており、やがては「伊勢講」、「参宮見舞」、「首途振舞」、「腰送り」などの文言も現れ、参宮習俗の確立を推測させる。
参宮の習俗が一般化して来ると定宿も定められて来る。小倉・大坂の定宿は寛政7年(1895)に定められる。それに付いては次の通り触れられている(29)。
郡ゝ百姓伊勢参宮、或ハ諸商賣ニ付、上方て罷登リ候節、小倉、并大坂表ニて是迄問屋之定宿無之旨ニて、右之両人之者より定宿之義、先年已来追ゝ中出候、遂吟味候處、定宿ニ相成候得ハ、百姓共勝手筋ニ宜可有之趣ニも候条、不致脇宿、右両所江致宿候て可然、尤右之趣、数馬殿えも申上、御聞置被成候条、其旨相心得、触ゝ村ゝ可申聞候。併振掛リ之宿勝手筋ニ相成ニも候ハゝ、強て右両所え致定宿候ニもおよひ申間敷候。同様之義ニ共候得ハ、致宿候者、自然病気等之節ハ療養萬端、第一ハ大坂ニてハ御蔵元引合往来切手請引、彼是手都合宜敷取計可申段も申出居候条、其旨ヲも相心得候様、村ゝ可申聞候。尤、両郡(遠賀・鞍手)ハ黒崎・若松より渡海船有之候へハ、船路参候者ハ両所之船ニて致往来候様有之度候。何分不得止事節(ママ)ハ小倉ハ左之者所え宿□致候様ニ可致候。右彼是之趣致承知、觸下村ゝ可相達候。以上
大坂江戸堀五丁目大目橋壹丁下 福島屋市兵衛
小倉大橋元 鍋屋五兵衛
(寛政七年)四月五日 新五郎
両郡大庄屋江当ル
右之通被仰付候条、以来参宮人、又ハ商賣ニ付、上方へ罷越候者、成たけ右両人方へ致宿候様可被仰付候。以上
四月八日 大庄屋
翌寛政8年には黒崎宿に「参宮世話人・伊勢宿之主」が置かれる(29)。郡家の側の千助である。大坂の定宿も、いつの頃よりか、「大坂土佐堀壱丁目 筑前宿 葉村屋吉兵衛」にとって代られている。北九州の神社の絵馬に葉村屋の図を見ることが出来、明治のものながら、浅木神社にも現存する。
遠賀町域の参宮で、判明するのに、文政13年(1830)虫生津村直平一行、天保14年(1843)の浅木村同行12人、弘化3年虫生津村毛利三兵衛一行、弘化4年(1847)鬼津村太平・久七一行、嘉永7年(1854)木守村甚三郎一行、嘉永7年・安政2年(1855)の浅木一行、万延元年鬼津村井口氏一行、慶応4年木守村同行11人、などがある。神社の古い絵馬を精査すればまだ多くが判明するであろう。神社の絵馬には参宮記念に同行中より奉納したものが多い。虫生津村直平一行は6月28日出発し、同行3人。鬼津村太平一行は同行22人、木守村甚三郎は普請方定右衛門の嫡男で19人、一族の垣生村庄屋友次郎の嫡男土師淳蔵の一行に同行している。2月19日出発、4月21日帰着の60日の旅である。鬼津村井口氏一行は同行20人(内2名は芦屋の者)、2月5日出発、閏3月6日に帰着の61日間の旅である。
藩政末期の伊勢参宮のコースは、船を利用する場合と陸路を行く場合では多少は異なるが、どの場合も大同小異である。前記の嘉永7年の土師氏一行と、万延元年の井口氏一行の往路のコースは大略次の通りである。
1,嘉永7年のコース
中間大橋(2月19日)~(堀川)陣原~(洞海湾)鴨田(2月20日)~(洞海湾)若松(2月20日)~(響灘)赤間関(2月20日~24(22~24風待))(金比羅参詣・亀山八幡参詣・先帝開帳・芝居床見物・新地茶屋見物)~(早鞆の瀬戸)田ノ浦~(周防)須恵崎~竃門関(2月26日~2月27日)~岩国新湊(2月27日)―錦帯橋(2月28日)―新湊(椎尾八幡宮参拝)(2月29日)~宮嶋(厳島明神参拝)~広島飼場(2月30日)~広島(東照宮・饒津大明神・八幡宮参詣)―飼場(江波)(3月1日)~音頭迫戸~横島(3月1日―3月2日)~吉野村~忠海浦(3月2日・3―3月4日)~備後鞆(3月4日―3月5日)~讃州多度津(3月6日)~金毘羅社~多度津(3月6日―3月7日)~備前日比(3月7日―3月8日)―瑜伽山―藤戸渡―吉備津(3月8日―3月9日)―吉備津宮(備中)―(備前)岡山―片上(3月9日―3月1日0)―三石(備前)―(播磨)赤穗―片島(3月1日0―3月11日)―正条―斑鸠寺―書写山―広峯社―姫路(3月11日―3月12日)―豆崎―曽祢天神―高砂―尾上の鐘―加古庄浜の宮―別府―明石(3月12日―3月13日)―人丸社―舞子浜―樽見―敦盛塔―ニノ谷・一ノ谷・須磨寺―須磨浦―兵庫―敦盛墓―湊川―楠公募・生田大明神・箙の海・布引の滝―摩耶山―摩耶山麓(3月13日―3月14日)―西宮―尼ケ崎―大坂(3月14日)(天満天神(3月15日)・生玉社・天王寺・道頓堀見物(3月16日))―三ツ井―住吉―堺難波屋松―妙国寺蘇鉄―上田(3月16日―3月17日)―三日市―紀伊見峠―橋本―三軒屋―かむろ―仁徳寺―不動坂―女人堂―発光院(3月17日―3月18日)―橋本―(大和)五条―宇野―六田(3月18日―3月19日)―吉野山―(発心門・蔵王堂・吉水院・竹林院・勝手明神・大鏡・世尊寺・子守大明神参詣)―雲井坂―一目千本―丹治村―飯貝村―上市村―多武峰―岡寺―立花寺―岡寺(3月19日―3月2日0)―飛鳥大神宮―安倍村―当麻寺―達磨寺―龍田社―法隆寺(3月2日0―3月21日)―小泉―郡山―薬師寺―(唐)招提寺―奈良宿(3月21日)(猿沢池・興福寺・般若寺・東大寺・若宮八幡・三笠山・鶯陵・春日社見物(3月22日))―帯解―丹波市柿本寺―磯上―三輪大明神―初瀬―長谷寺―(伊賀)大野―かたり(3月22日―3月23日)―名張―新田―伊勢地―垣内―おやまど―大野木(3月23日―3月24日)―二本木―畑―六軒茶屋―松坂―明星―おばた―宮川(3月24日―3月25日)―伊勢
万延元年の一行
芦屋(2月5日)…(不明)赤間関(2月15日カ)―山口―岩国~宮島~広島~金毘羅宮~瑜伽山~室―書写山―姫路―高砂―尾ノ上―明石―須磨―兵庫~(3月3日)大坂―高野山―吉野山―多武峯―南都―初瀬―伊勢―瀬田―叡山―京都―大坂~(閏3月6日)芦屋
前者は伊勢到着以後は記入されていないが、伊勢・松坂・屋張・美濃養老を経て帰国している。松坂・津・四日市・桑名を経て、養老に赴き、関ケ原より中山道を草津に出、京都・大坂を廻ったものであろうか。天保12年(1841)に伊勢・日光へ旅をした淳蔵と同じ常足門下の底井野の小田宅子は、伊勢の次の目的地は信濃国善光寺であるため、伊勢・六軒茶屋・白子観音・神戸・追分・四日市・宮・名古屋・かじ河・内津・池田・土岐村・金戸・落合・馬籠と中山道に出ているが(東路日記)、養老には行っていないので参考とはならない。
後者は、詳細は不明であるが、芦屋中小路十助の神徳丸で登坂予定であったが、天候が悪く数日芦屋に滞留、15日より中国路を登っている。四国は多度津上りか丸亀上りか判明しない。四国より田ノ口に渡り、瑜伽山参詣、再び船にて室に行き、陸路を兵庫まで、その間の見物は前者と大同小異であろう。大坂の宿は両者ともに土佐堀葉村屋吉兵衛である。高野山では遠賀勢は発光院に泊る。郡宗廟である高倉宮の神伝院が発光院末であることによるのであろう。上市より伊勢へは、南都を廻らずに、高見川・木津川・祓川添いに伊勢へ入るコースも採られることがあるが、再度の参宮か、余程日程が詰っている時であろうか。伊勢では筑前の人は御師高向二頭太夫の所に宿る。御師は明治4年に廃止になるが、それ以後も地区の有力者などへの配札や挨拶状(嘉例状)の配布は続けられており、参宮宿の世話も続けられている。京都の宿は大坂の葉村屋のように一定していない。万延元年の一行は三条小橋西国屋吉兵衛に宿泊している。近隣では、安政7年(万延元年)の猪熊村一行は三条大橋東詰町美濃屋徳左衛門方に宿泊、先述の小田宅子は西六条醒井通桑名屋に、明治11年の小嶺村一行は伊勢屋に、同14年の吉木村一行は三条小橋西へ入町萬屋甚兵衛方に夫々止宿している。
帰途は、万延の一行は芦屋神徳丸十吉船にて一途遠賀を目指している。大坂より遠賀までは、弘化4年の高倉村一行は徒歩で10日、安政7年(万延元年)の猪熊村一行は船で17日間を、小嶺村一行は12日間を要している。船の場合、風待や汐待の都合、天候等によっても大いに異なるが、往路に見物出来なかった所にも立寄るであろう。大坂―黒崎間の日切の渡海船を利用すれば4日~7日で到着することができる。
参宮にはいつの頃よりか種々の風習がある。出立・餞別・見立・首途振舞・腰送り・酒迎え・胴ぶるい・お志賀様詣り等々である。所によっては陰膳やタチワケの漬物での水盃、帰参後の同行寄などの風習も仄聞する。
嘉永7年参宮の垣生村淳蔵は2月19日出立に先立ち、同月11日に神官や医師を招いて送別の宴を行っている。見立である。料理は「吸物・茶碗・取肴五つ」(惣社宮文書)とある。中間惣社宮神官伊藤道保は14日に、「垣生淳蔵伊せ宮へ参りける時馬のはなむけとて」として、「伊勢の海や千尋の底のしら玉をつとにもかもな君かかへさの」、「木守甚三郎え」として「春行は綾の小路にやとりせよ錦きつゝも花を見るへく」と餞別の歌を与えている。両人は19日惣社宮に立寄り、雨の中を出発、中間川端にて門出酒宴、岩瀬大宮司も御守持ってくるにて餞別に来る。途中、吉田まで吉田村平蔵より酒が出されている。腰送りである。他村では産神参拝・門戸礼・胴ぶるい・お志賀様詣り等も見ることができる。遠賀町域に於いても同様であろう。途中必ず海を渡らねばならない九州の者にとって、海神である志賀神社に参詣する「お志賀様詣り」は御礼参りであり、不可欠であろう。
伊勢参宮は神社仏閣を廻る信仰の旅であり、殊に農業神である伊勢神宮(外宮)への旅であるが、修学旅行であり、他郷の文化に触れる旅でもある。又、一面では買物の旅でもある。自己の買物のみでなく、近隣よりの依頼品もある。箸・楊子・茶碗・団扇・扇・剣先守等村内各戸への土産や、餞別の返礼以外の品を弘化4年高倉村と、嘉永7年土師氏一行の例より主なものを示すと次の如きがある(15)。遠賀町域でも大同小異であろう。
(弘化4年)
・さかい重・渋蛇ノ目・押盆・櫛・盃台・鏡・茶釜・ふくさ・帯・入子・吸物膳・櫃・百人一首・薬・真田紐・磁石・そり・衣類
(嘉永7年)
・ちじみ・真田紐・庖丁・鋏・珠数・衣類・かんざし・櫛・三味線糸箱・おさ・鏡
〔書籍類]
・徒然草・直毘霊・古訓古事記・まかのひれ・県居翁雑録・用文章(依頼品)・和名抄・神系図・友かゞみ・怜野集・答問雑稿・新古今和歌集・定家卿かな遣・古言梯・□鏡うつし詞・雁の行か飛・おくれし雁・日本記御□の考・浅瀬のしるべ・歌意考・前王廟陵記・増補和字解・日本風土記・八雲御抄・官職難義・文意考・仮名用挌・千蔭手本古今集序・詞書葉山の琹・伊勢物語・神代正語・団のしがらみ・冠位通考・源氏物語手枕・大日本国郡全図・御遷行長歌・和爾雅金(依頼)・玉あられ(同)・丹波図余国之部(同)
後者に国学関係の書籍類が多いのは淳蔵が鞍手郡古門村伊藤常足の門下であることにもよる。淳蔵は出発前に面会予定者の歌人達を挙げている。「○山口 佐甲安藝守忰 佐甲折之助 ○宮市 鈴木武雄高鞆 ○備後鞆 祇園神主 大宮司馬之助 ○大坂 萩原廣道 ○京都 香川景常・香川景次・野々口高政 ○奈良 西村正右衛門 ○飛鳥 神主 ○伊勢松坂 本居謙蔵 ○酒屋 世古喜平 ○伊奈木坪屋 池邊卯一郎 ○宇治 求馬久守(高向ニ頼之事此人ハ死せり) ○橋村八郎太夫忰 橋村宰記 ○伊勢 足代権太夫 ○同 巫権太夫」である。知識人の参宮の目的の一面をも示している。