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遠賀町誌 第五編 近世の遠賀町 第八章 藩政末期の遠賀町―幕末より明治へ―

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第五編 近世の遠賀町 第八章 藩政末期の遠賀町―幕末より明治へ― [PDFファイル/2.8MB]


第一節 主な出来事

 藩政時代末期の諸変動は、全国的なものであり、ひとり福岡一藩のものではない。ましてや、一遠賀地方のみのものでは当然ない。その中での遠賀町域の状況の内、若干を拾うと次の如きがある。

イ、安政五年(一八五八)より年貢俵拵が大縄仕立に改められる。これについて「年暦算」は「當秋より御年貢米俵拵大縄仕立ニ相成、格別之事替ニ付、俵拵六ケ敷、百姓困入、近年立花弾正様御當職ニて諸事相変リ御改正ニ成」と記している。いわゆる、弾正縄仕立である。小縄仕立に比して、細綯いに手間取り、農民にとっては著しい負担であろう。
ロ、安政六年(一八五九)六月、第5-21表に示すように、鬼津・若松の両村が下底井野触より別府触に割替えになる。同年五月二七日、大庄屋仰木寿作死去、手伝役仰木廉助が跡役に就任、それに伴う措置であろう。
(ハ)、安政五年九月に長崎にてコレラ流行、それに伴い、藩内諸社にて悪病退散の祈禱が行われ、予防法も通達されている(25)。翌六年遠賀地方にも病人が発生する(30)。
ニ、万延元年(一八六〇)四月七日・八日大雨降り、大洪水。土手筋水防に出夫。この洪水により、苗・麦・からせが冠水し被害を受けている(2)。
(ホ)、万延元年は四月の洪水に加えて、夏中も雨が多く、四方の収穫も不作であった。その為、食糧不足が懸念され、別府触では翌万延二年二月に救備が立てられた。有志による米銭醵出である(21)。
ヘ、文久二年(一八六二)五月・六月、六〇年来といわれるハシカが大流行、「年暦算」は「はしか世上ニ大流行、五月・六月大ニ煩ふ、田方根さらへ大荒」と記している。
ト、文久二年閏八月、松平慶永の参観制度の改革により、諸大名の帰国が続き、黒崎宿を抱えた遠賀郡では出夫が負担となっている。「年暦算」は、「惣て諸國何とか穏かならす、國ゝ共ゝ江戸より御前様國元え御下り、黒崎表通り殊之外多く出夫ニ困ル」、「(文久三年)正月より五月迄九州大名方・御前様・御女中方、國ゝ共ゝ不残下り、春中送り夫出方」と記している。
チ、文久三年(一八六三)は坂下門の変、黒田長溥が参観の途路京の情勢不穏を理由に帰国したのをはじめ、再度に亘る東禅寺事件、生麦事件、長州藩の外国船攻撃、米仏艦隊の報復攻撃、長州奇兵隊の編成、薩英事件、八・一八の政変、生野の変、等々物情騒然とした社会情勢下にあったが、福岡藩に於いても五月末より若松に台場築立に着手、六月末に完成。六月には芦屋・山鹿両所に台場構築が開始され、七月下旬に完成している。速賀の事情を「年暦算」は「惣奉行吉田六郎太夫様也。百姓町人有徳之者より米酒等寸志、百姓より出夫ハ不申及、大庄屋・村庄屋・組頭迄不残出方政シ、石引・砂持等御加勢致ス。晩方役目上リニハ御酒被下、其外、諸寺院・山伏・社人・医師迄も御加勢申上ル。七月廿五日芦屋惣棟上ケ、臺場ニ石火矢五挺居ル」と述べている。「福岡御城下近ク御臺場所ゝ出来ル。御家中諸士方皆御加勢出方。近年異國より大船到来致シ日本を窺ふ□(叓)も有之へくと公儀より諸國ニ御觸有て、國ゝ共ゝ臺場築立、黒船防禦之御備也」とも記している。この筆致には迷惑さを感じさせるものがない。台場構築に対する筆者の感情であろうか。
リ、元治元年(一八六四)八月、第一次長州征討が行われ、九州諸藩も肥後(小倉)・久留米(山鹿)・薩摩(芦屋)・肥前(木屋瀬・植木)・福岡(黒崎)等が宿陣、幕府の軍目附三人等は糠塚の西光寺に滞在している。それにつき「年暦算」は「右御目附衆・御同勢御國方より御賄、御念入之御取扱、大物入成事共也」と記している。
(ヌ)、慶応二年(一八六六)六月十七日、長州軍の田ノ浦急襲により始まった長州再征は豊・長戦争となり、八月一日小倉城の自焼により、小倉藩庁は田川郡香春に撤退する。この戦火を避けて、小倉平松浦の漁民達が現在の遠賀町・岡垣町に流入、遠賀郡では難民受入れをした(31)。福岡藩では六月より黒田美作父子が底井野に、加藤半左衛門が芦屋に、明石助九郎が若松に夫々宿陣していたが、七月三十日、底井野、芦屋の両隊は黒崎、若松に移動、村々より大勢の出夫をしている。
ル、慶応三年には波津湯川山に馬牧が再開されるが、その堀り廻し夫として別府触より三〇〇〇人が出夫することになっている。「年暦算」は「百姓中困ル」と記している。
(ヲ)、慶応四年(一八六八)正月、朝廷より上京の指示を受けた福岡藩ではその費用を郡町よりの借入れに求めた。「年暦算」は「御家中御仕度銀郡ゝ御借入郡奉行より釜惣ニて借入(博多商人瀬戸惣右衛門)、不足分丈ケ郡村より出銅、當村も割合分指出す」としている。この登京には大鋸・百姓も同道の予定で、大庄屋・村庄屋・組頭も百姓才判として上京を予定していた。鬼津村では出夫者を選出するため鬮引きが行われている。この分は博多にて雇立てることになり、村役の登京は中止されたが大鋸は六〇人上京する。大鋸は又三郎・忠四郎・権三の三人が選ばれているが、権三は代人と交代している。大鋸達は奥州出兵に同行、最後には主人に離れ国元へ遁れ下ったという。又三郎は五月十一日に京都より、忠四郎は七月七日に東国より帰村している。
(ワ)、慶応四年正月、農兵取起になり、大村は四~五人、小村は二人、大庄屋格、庄屋格、組頭、その他面役引の者が対象とされ、鉄砲調練所を一触三か所宛設置することとなった。農兵は同年六月には増員されることになる。六月には大庄屋号が廃止され、触口庄屋が置かれ、諸願筋は触口を経由せず直願となる。これを機に西触は上底井野村触口に有吉与右衛門、中触は中間村触口仰木廉助、島郷触は本城村触口佐藤扇十郎の触下となる。福岡藩の大庄屋号は藩初よりのものではなく、享保八年(一七二三)よりのものであるため、朝廷に遠慮したためという(2)。触口号は明治四年、再び大庄屋号に復している。
(カ)、慶応四年閏四月、祭政一致の方針により神仏混淆が禁止され、翌明治二年にかけて神仏分離が行われて行く。各村の祇園社が須賀神社、八坂神社等に改称されたのもその一つである。遠賀郡では底井野郡局より、明治二年九月十日付で「須賀神社と相唱可申」と通達されており(24)、原則として、一円「須賀神社」と改称されている。
(ヨ)、明治二年は冷害により稀にみる不作の年である。その上、幣制の混乱が発生し、容易ならざる年となる。

 以上のイ~(ヨ)の内、(ヨ)の如く( )を付した項目について若干説明を加える。

第二節 コレラの流行

 安政五年(一八五八)九月、郡・町・浦に対して長崎にてコレラという病気が流行し、多数の死者が出ていることが通達された(25)。症状は腹痛・吐瀉があり、およそ霍乱に似ていると告げている。病気は十四日、ないし、二十一日余りも流行し、隣国に流毒するともある。病気の原因は「畢竟気候不宜より発候病ニて其邪気之所及ニ随て流行いたし候」、「當夏已来天気不順ニて、雷電等も無之、気中ニ邪毒含居候ニて可有之」とある。予防法としては、「炎熱日中烈敷操作・労動を為シ、或ハ安逸遊惰過キ、或ハ酒・焼酒之如き火烈之飲液・果実・粗菜等之未熟・生冷之喰物等惣て不宜候。量・規則ヲ定、無過不及、又ハ朝夕起寝時限ヲ極可申候。且、深更ニ飯食等致候事大ニ悪敷候、平生仁憤不申、事業致間敷、用不来食物不可喰」としている。この通達とともに、藩内一五の神社に対して、二夜三日の悪病退散祈禱を命じている。通達の中に、「此病西洋ニても毎ゝ有之」の文言があり、既に西洋医学も紹介されつつある段階にあった福岡藩としては、政治的配慮もあるかもしれないが、コレラに対する一般的認識ともいえる。療法は「腹胃汚穢酸類之物可有之と覚候節は下剤等相用、腹中清浄ニする事肝要也」と述べている。

 遠賀地方には、「年暦算」の記事では、翌六年夏より初秋にかけてコレラが流行し、鬼津村でも病人が何人か出、「諸人大ニ恐る事也」とある。

 この対策は不明であるが、当時、中底井野村庄屋であった虫生津村の嶺要一郎は、安政六年八月に「虎狼痢病心得草」を次の通り記している(30)。

去年八月従 公(儀脱カ)被仰出候流行病の暴瀉治方素人の心得にてハ都て身を冷す事なく、服(ママ・腹カ)に木綿を巻、大酒・大食を慎み、こなれ難きものを喰せす、若其病催す時は早く寝床に入て惣身をあたゝめ、左に記す薬を用ひて治するなり。又吐瀉つよく、惣身冷るに至りてハ、焼酒壹弐合の中に樟脳壹弐匁入あたゝめて木綿きれにひたし、腹、并、手足に静にすり込、からしの粉をねりて臍の下、手足に度ゝ張へし。
 考に、今年此頃常に焼酒を吞て、其酒気あれハコロリ病煩らハぬと実らしくいう人多し。是ハ全く此法よりあやまりていひ傅ふものにや、大ひなる心得違ひなり。焼酒を過すは害となるへし。
芳香散 桂枝上品 益智 乾姜
 右何れも細末にして調合いたし、時ゝもちゆへし、
  此薬ハ薬店にて求調へ用ゆへし、
 右御達之薬法心得書を略してしるす。
一、諸方洪庵老(大坂當時の名医)虎狼痢病治準といふ書に載るに、此病を防くにハ、兼て其身の保養の規則を立て、流行盛なる時に至りてハ恐れ/\て是迄仕ならハせる事を変する事なり。
 〇日中暑さつよき時は成業をゆるやかにし、殊に働き労れさるやうに心気を補ふへし。
 〇平生飲食の量を定て慎む事専一也。
 〇飯を和らかに焚て食ふへし。
 〇常に大小便の通しに心を用ゆへし。
 〇平生朝は早く起、夜は早く寝、其時刻を定へし、夜気にうたれ、深更に及ひ、別して飲食を過す事なかれ、其害甚しきなり。
一、飲食の慎ミハ冷物・生物・菓もの(ママ)・湯水を多く呑、損むしたる魚類・生なれの菜類宜しからす。惣して、食物は身を養ふものなれハ、是まて喰なれたるものハ何品にても食してよろし。しかし、其食物の量を忘れ、大酒・大食をなすへからす。消化なさすして、病發らハ必死すへし。恐れ慎むへき事なり。
一、此病流行によって、御仁恵を以、難有も御上より神社の御祈禱、又御薬施行等有て、其札守御ほとこしの薬を用ひて病は受ぬ抔と思ひ、夫を頼にして、猥りに呑喰するものあり。大に心得違ひなり。必是等の真似をいたすへからす。
一、世上に御祈禱・加持の札守・御符・ましなひ等、又、悪病傳染ぬる薬なとといひて持あるき、人をまよハす者有へし。是等の事信すましく、心を付へし。祈禱・加持ハ正しき神職・寺院え願ひ、薬用ハ良医をたのミ、ふり賣の薬なと容易に用ゆへからす、心を用へき事なり。
右ハ此度悪病流行ニ付、姥・家婦・男女子の心得のため聊大略を述るもの也。假令、虎狼痢病なくとも此養生法を平素に行ひ守る時は最上の保養、是壮健・長寿の計なるへし。

 遠賀郡のコレラの流行は安政六年で終熄したものと思われ、「コロリ病萬延元年申歳流行相止、當辺一向承り不申、隣國にても流行之咄承不申候事」と別府触大庄屋は記している(21)。

第三節 窮民救備米金醵出

 万延元年(一八六〇)は四月七日夕より八日にかけて大雨が降り、大洪水となり、苗・麦・からせが冠水し大被害を蒙った上、夏中も雨が多く、田方の稔りも不作であった。そのため、米価は冬には一俵三歩(分)一朱、翌年正月には六貫五〇〇文にも及んでいる。これは第5-39表に示すように、安政五年(一八五八)の三貫八〇〇文、文久元年(一八六一)冬の三貫六〇〇文に比しても極めて高直である。このままでは、万延二年春内の食糧不足は避けることができない状態にあった。遠賀郡別府触では窮民対策として、有志の米銭醵出による仕組を立てている。

 それについて、別府触大庄屋は「萬延元年春秋両度麦・稲作損毛ニて貧民立行不申ニ付、村ゝ仮成相暮候もの申談、左之通寸志出金米指出、春内粮物取續申候事」と記している(21)。

 醵出は村々とも人別一俵、二俵と行われている。鬼津村井口氏は正月に村救米二俵を醵出、更に「作方宜敷からすニ付救米出ス」と記されているが量は記されていない(2)。これ等を村ごとに合計したものが第5-43表の数字である。嶋津村の五俵は「嶋津村矢野勘三郎櫛橋十左衛門様御家来御壹作受持、當村居住」と記されている。別府村大庄屋仰木廉助の三〇俵は第5-43表の通り主として現岡垣町域に配分されている。虫生津村普請方貞五郎の一二両は、虫生津村四両、山田村・吉木村へ各一両二分、小鳥掛、上畑・野間・三吉・松原の各村へ各一両宛配分されている。村救米金は第5-42表の両者を打込みにして救備仕組が立てられている。表の三五一両二分一朱の内、四七両三分は木守村の万延元年冬蔵元未進の救渡に支出されている(21)。

 この寸志救称誉により、別府村庄屋・鬼津村庄屋・戸切村庄屋が大庄屋格御免、虫生津村普請方・鬼津村文四郎が苗字脇差御免、木守村安右衛門が苗字御免、虫生津村庄屋(大庄屋格)が苗字御料理頂戴の沙汰を受けている。同時に、救切の一環として、借財捨切の措置をした野間村庄屋と下底井野村藤次郎が大庄屋格、今古賀村庄屋・別府村組頭次三郎・若松村寿七の三名が苗字御免の沙汰を受けている(21)。

第5-43表第5-44表

第四節 豊長戦争余波

 文久三年以来、攘夷問題を契機として確執を続けていた豊前小倉藩と長州藩は慶応二年六月十七日・長州軍の田野浦攻撃を機に戦端を開く。この戦により、八月一日に小倉藩は居城を自焼して田川郡に退き、企救郡は戦場と化した。戦は翌慶応三年正月に終熄するが、城自焼後より企救郡平松浦の難民が藩外ではあるが、隣郡の遠賀郡に避難している。

 福岡藩では村役を遠賀郡垣生村の黒田諸左衛門の泊所に呼び出し、次の如く通達したのを手始めに、村方よりは、八月十一日四ツ時に若松まで平松浦の者を迎えの者が派遣されている(31)。

   八月九日御用談頭付御口達
一旅人取締ハ受持より夫ゝ相達候通り弥厳重才判仕、尚又、間違筋共精ゝ入念取締可申事。
一此節小倉之体勢ニ付てハ、長州之もの米金等相施、色ゝと執計居候趣ニ候。然ルニ、御國内之者、萬一右体ニまよひ候様之儀有之候て(ハ脱カ)、曽以相済不申、百姓中不勘弁之儀無之様、自然不勘弁之者有之候ハゝ、速ニ註進可仕候。屹度被仰付次第有之、尚又、御褒美可被下候。尚又、委細之儀ハ御奉行より達え(ママ)も可相成候得共、此度致廻郡候ニ付、重畳其邊リ相達候様被仰付候旨御達ニ相成候事。

 平松浦の者の滞在書上は八月十二日切に提出されることになっているが、その段階での別府触内への滞在者は第5-45表の通り一八九人である(31)。記入合計数は一九三人。松原村滞在勘次郎は含まれていない。計算違いでなければどこかに脱落がある。

第5-45表

 これ等滞在者の取り扱いについては次のように通達されている(31)。

急難を避来滞在相願候者共え
一此節兵乱ニ依て其方共居宅・諸具等も不残致焼失、生活難相立、仍て當御領内え致滞在、露命を相繁(ママ(繋))度段及歎願、遂詮議候処、此儘指置候ハゝ、夫ゝ四方ニ分散いたし、老人・小児等ハ饑餲(ママ)ニも可及、誠以不便之次第ニ付、則滞在指免、指向候処ハ粮食をも御渡被下儀ニ候条、銘ゝ相稼、急度産業ニ基候様覚語(ママ)可致候、自然御國法ニ背、筋不宜儀取行·不風俗·不勘弁之儀等於有之ハ重刑罪ニも行儀ニ候条、右之段憐愍御恩沢之程永ゝ忘却致さす、諸事村役之宰判堅相守、出精相稼、安穏ニ生活を遂可申候事。
 寅八月            肥塚次郎右衛門
                各務 弥三太夫

 一方、難民受入の村々に対しては、受入を容認した上で、「御隣領諸民之急難御救助」の趣旨より、次のように通達している。この場合は、余儀なく頼り来った者としての取り扱いであり、逃散などとは全く趣を異にする。

                    遠賀・鞍手
                     郡・浦
                       大庄屋中
此節兵乱ニ付、小倉之者共、無余儀御領内便来、差向処ハ其村ゝニて粮物等世話いたし居候趣殊勝之心得承届候、然ルニ、数百人之儀右引受候内ニハ、兼て米穀貯等も手薄く、凌方難渋之者も可有之、且相滞候日数之程并(茂ノ誤カ)難斗、畢竟ハ夫ゝ生活之道相立可申、又ハ旧里ニ立帰者も可有之哉ニ候得共、御隣領諸民之急難御救助御主意を以、全飢を相凌候迄ニ食料御渡被下候条、御趣意深く遂勘弁、尚村ゝニおひて萬端懇ニ致世話遣候様精ゝ可相達候、尤是迄相應ニ相暮候者、所縁ニ因て自力を以相育居候者ハ其次第可申出候事
  八月     次郎右衛門

 避難者達は原則的には当時滞在であろうが、「十月三日拂 一わら百把 内(四十新六十元)右平松者木屋掛入用之分、旅人見廻役文十・甚蔵・波助より觸出申候(31)」とも見えており、少くとも数か月間は滞在者の存在が推察される。豊・長の媾和は翌年正月であるが、この戦のため、村々より多数出夫している遠賀地方としても無関心ではおられず、鬼津村の井口氏は「年暦算」にその風聞を種々記している。関係の箇所を抄録すると次の通りである。

 當國ハ六月五日黒田美作様父子底井野御茶屋御宿陣ニ成ル。芦屋ニハ加藤半左衛門殿(加藤侍書ノ養子也)、若松ニハ明石助九郎殿、其外諸将夥敷出陳被致。
・同月十七日長州奇兵隊豊前田ノ浦ニ押渡リ小倉勢ノ詰所ヲ打破り、大ニ戦。田ノ浦・門司を攻メ取。此邊よりも煙り見へ、石矢火(ママ)ノ音聞ゆ。
・七月三日奇兵隊大里を攻メ取。此所ハ前ハ海、後ハ山、東西ニ松原継き、北受の地ニして、其日の風ハ北より吹、風上へより蒸気船ニ大炮を構て打立、陣家・人家共ゝ一時ニ焼き立、長州勢の寄せ来ルにも便利能、只一戦ニ小倉方惣敗軍ニ成安ゝと大里を取。
・同月廿七日長州方小倉城に攻懸、赤坂ニて大ニ戦ヒ有り。此處肥後之詰所ニて加勢有之勝負不果して双方死人夥敷して相引。濱手ハ公儀船を取込大ニ打。
・同卅日底井野・芦屋詰衆、黒崎・若松迄出陳、村ゝ出夫大ニ出力也。小倉諸士、并ニ主将御老中小笠原壱岐守殿防禦之術尽、壱岐守殿行方知す(シレス)落られける。小倉ノ諸士ハ城ニ火を懸ケ落、諸国之詰衆も陣拂して帰國被致、長州方ハ安ゝと小倉取る。此節小倉戦ヒ壹岐守ノ下知行届さる云甲斐無き事共也。
・八月朔日より小倉大火三日迄焼ル。諸士ハ同国河原嶽ニ落留ル。其後奇兵隊と毎度出合次第ニ相戦、毎日煙リ立、大筒ノ音絶へ間無シ。小倉隊将嶌村志津馬大ニ血戦有り。
・極月ニ至、小倉之諸士長州を恐れ瓦嶽退去之処、肥後・薩摩より扱ヒニて企救郡ハ長州領として、田川郡其外郡ゝハ先ノ小倉領ニ相成、双方居合也。
 〆

 村方としても、元治元年(一八六五)の長州追討のための藩勢や諸藩宿陣に対する公役以来、出夫等が著しかった。慶応二年三月十五日に、「一昨冬長州御追討被仰出候ニ付、御國勢、并諸藩宿陣之節致出精候者共え被相達御用有之」として、村々の庄屋・組頭惣代・百姓惣代を呼び出し、「一統志宜敷致出精一入骨折候段相達寄特(ママ)之事ニ候」と称誉の上、雑用として二貫八百八〇目を渡し、一触踊二座宛興行を許可している。更に、同年八月十二日には、「此節長州御再征より引續、小倉之兵乱指(原欠字)當両郡(遠賀・鞍手)之者共夜白仕方別て烈敷候処、役掛り之者とも才判方を初、百姓中えも(原欠字)年来之御恩沢を相弁出夫之間、透を相求専御田畠大切ニ耕作いたし、夫役抜群出精致し、面役御免之者共迄も罷出、切迫之有様眼前ニ引受候へ共、聊気先ゝ不相極身分之辛労不相厭已而ならす、間ニハ一命をも抛候程ニ覚語(ママ)ヲ極メ、御郡用諸公役相励、別て殊勝之至(31)」として「御稱譽踊」一触二座宛許可される。この踊興行は松原村の記録に「一、寺中之者賄ハ當村え引切受持之事。一、舞臺座板拾枚 當村分」とあり実施されている(31)、寺中は芦屋寺中であろう。芦屋役者を招いての踊興行といえる。

 三月十五日底井野御茶屋に呼び出された別府触の代表者達は次の通りである(21)。当時の遠賀地区の村々の行政担当者ともいえる。

仰木廉助(大庄屋)
波多幸次郎(高倉・上畑村庄屋)
筋田利七郎(別府村庄屋)
峯貞五郎(小鳥掛村庄屋)
有吉長平(下底井野村普請方)
簱生大右衛門(糠塚村庄屋)
小野徳平(尾崎村庄屋)
三輪猪八郎(吉木村庄屋)
毛利寿平(虫生津村庄屋)
有吉仁右衛門(下底井野村大庄屋格)
(野中)伊六(三吉村庄屋)
(石山)小三郎(内浦村庄屋)
土師新作(木守村庄屋)
嶺源次郎(山田村庄屋)
(柴田)雄平(中村  )
江藤圓藏(海老津村庄屋)
(仰木)藤次(鬼津村庄屋)
江藤多吉(戸切村庄屋)
矢野武七郎(島津村庄屋)
藤田源八(若松村庄屋)
(村田)角平(今古賀村庄屋)
(藤田)源平(尾崎村養育方)
(小林)才作(上底井野村普請方助役)
(岩崎)平作(黒山村庄屋)
(原)次郎平(野間村庄屋)
(竹井)甚三郎(手野村庄屋)
(花田)孫平(原村庄屋)
(吉田)貞次(松原村庄屋)

 庄屋の他にも各村とも組頭数名、山ノ口、及び、村中惣代が出頭している。庄屋は必ずしも固定されていない。殊に藩政末期の移動は著しい。右記の範囲内に限定し、代替りは考慮しないでも、かなりの変動がある。

 峯貞五郎は前年迄は虫生津村普請方であり、才作に代って小鳥掛村庄屋に入役になるが、慶応二年十月には小鳥掛村の村号が廃止され、鬼津本村に結込みになった折に鬼津村庄屋に転ずる。鬼津村庄屋藤次は普請才判役に転じ、翌三年十二月には波津村湯川仕組請持が加役される。

 尾崎村養育方藤田源平は万延二年二月、尾崎村庄屋より就任、後役には若松村庄屋小野徳平が転入する。源平は慶応三年十二月老年にて退役、代って下底井野村有吉仁右衛門が養育方に就任、同時に諸猟見ケ締が加役される。養育方は村庄屋上席に位置する。仁右衛門は元下底井野村庄屋である。小野徳平の跡役には藤田源八が就任する。

 三輪猪八郎は、万延二年正月に野間村庄屋・養育方兼帯三輪佐一郎が払川村大庄屋に転出した跡役として同年二月に吉木村より入役、程なく次郎平と交替して吉木村庄屋に転役、次郎平は上畑村庄屋より転じたものである。吉木村庄屋幸次郎は猪八郎と入替りに上畑村に転ずるが、程なく居村高倉村庄屋に転ずる。

 島津村庄屋矢野武七郎は弘化三年五月に組頭より芦屋村庄屋に就任したが、嘉永六年九月に庄屋徳七の退役の跡を襲い居村庄屋として帰村している(12)。

第五節 御登京御借入金上納

 慶応四年(一八六八)正月二十二日付で、裏判役より、「御國中大庄屋中御用之儀有之候ニ付、来ル廿七日迄ニ出福相届候様」に通達され、「来ル廿八日於會所、御裏判衆より御達御用有之候条、五ツ半時揃出方」するようにと郡役所より大庄屋中へ通達された。正月二十八日、中ノ番会所へ郡・町・浦大庄屋中、福岡・博多両市年行司中が参集したが、裏判役・郡奉行・勘定奉行出会の上、国中で五万両の御用借入が申し付けられた。その理由は、長溥・長知の「御両殿様御人数御引連、御登京之儀、従天朝被為蒙仰候……斯ル時勢ニ付ては御滞京御日数も見留難相立、如何成御受持被仰出歟も難斗、其節に至、御不都合致出来候ては御国辱に相成、曽以不被為相済次第……御人数被召連、御金高無之ては難相済……今度之入用は御領内にて御調に不相成ては難相済……五万両程御領民有徳之者共より御借入、此度之御入用に御取用に相成筈に候」としている。

 五万両の借入は、「郡浦有徳之者」より三万両、「両市中有徳之者」より二万両が割り当てられた。「正金ヲ以、二月限堅上納之事」の条件付である。返済は金子一〇〇〇両につき五〇〇俵宛、辰年(慶応四年)年貢立用勝手次第、利息は月一歩五厘の定である。町方の二万両は、前年冬より御用聞町人列に対する借入金を月割で納入させていたのを繰り上げ、更に当季入用分と合せて月割納入させ、その上に別途に二万両を課したものである。

 郡方・浦方に対する三万両は郡方五役所、及び、浦役所単位で割り当てられている。割り当ては一度修正されている。その額は第5-46表の通りである。遠賀・鞍手両郡の割当六五〇〇両の内、四三〇〇両が借上、二二〇〇両は上納として取扱われている。その配分は第5-47表の通りである(24)。その内一四〇〇両は郡役所郡用方福田外七が月二歩の利息にて借入・調達、残金五一〇〇両が両郡に割り当てられている(36)。前出の「郡奉行より釜惣ニて借人、不足分丈ケ郡村より出銅」がこれに相当するのであろう。配分は五一〇〇両を六五〇〇両で割り、一〇〇〇両につき七八五両の割合で行われている。触ごとの割当高は第5-47表「上納高」である(36)。

第5-46表第5-47表

 この割当に対し、両郡大庄屋中は「御借入金上納被仰付奉畏上候」とはしながら、「此節之御借入金上納方大に當惑仕候」と述べている。その理由を次のように挙げている(21)。

(1)去冬以来米穀下直になり、その上、売捌方が出来ないため、金銭必至に不融通となっている。
(2)長州追討、及び、小倉変動で両郡内所々に宿陣が行われ、莫太な出財をしたが、その内、船賃・賄料は貰ったが、人馬賃銭等は未払であり、小前の者達は難渋している。
(3)右の難渋者に対し、大庄屋元では村々の面役割、俵数割にて金子を調達し、難渋者に支給し、不足分は有徳の者より借金し急場を凌いでいる状態であり、有徳の者とも相談したが、上納申付に応じ得る余力は残っていない。
(4)借上金の他に、上京御借郡夫に現出夫する代りの代銭切立も申付けられているが、夫銭渡方が停滞しており、俵口、面役ともに切立ができない。

 右の状態につき、未払金を早急に支払って呉れるよう、遠賀・鞍手両部の大庄屋中より郡役所に歎願している。未払金を支給して貰えれば、「有徳之者共へ一旦返済仕候ハゝ、御借入金調達之一助にも可相成」と述べている。いずれにせよ、正月末に申付け、二月中に、正金でもって上納、殊に六五〇〇両の内、二二〇〇両は二月十五日限り上納と日限を切られており(36)、村々に対しては大きな負担となっている。

第六節 農兵

 幕末期には、武備増強の必要から、幾多の藩において農兵が組織される。藩士以外の農・町民を主体とした軍団組織であり、長州藩の諸隊、特に、奇兵隊はよく知られている。隣の小倉藩では文久三年に庄屋格以上の農民を対象として農兵を組織、久留米藩でも同年に発議され、明治元年に農民のみならず、社院・在町の者も含めた農兵撰立が行われている。

 福岡藩では慶応四年(一八六八)正月より農兵の組織が始まる。大庄屋格・庄屋格・組頭・その外、面役引の者を対象にしており、大村は四~五人、山村は二人を目安にしている。当初、遠賀・鞍手両郡で四〇〇人を予定している。その配分は第5-48表の通りである(36)。一村平均二・五八人に当たる。別府触では六五人が予定されているが、鬼津村では大庄屋格弥七郎・惣一郎の両名が任命されている。農兵は慶応四年六月に増員され、鬼津村よりは武兵衛・久次郎・彦四郎・源兵衛・源五郎・徳四郎・太七・馬吉の八人が追加される(2)。慶応四年六月には大庄屋が廃止され、触口が置かれ、触の改変が行われる。遠賀町域は広渡村以外は上底井野村有吉与右衛門の触下に属する。広渡は中間村仰木廉助の触下となる。中間触の場合は一一組に編成され、広渡村は広渡村庄屋惣蔵の組として編成される。組は原則的には庄屋が農兵頭取となり、当初は六、ないし、七名で一組を編成していたが、増員後は一〇数名で一組を編成している。中間触の一一組の頭取は村庄屋八名、船庄屋一名、普請方一名、その他一名である。遠賀町内の委細は判明しないが、第5-47表の鶴田触の場合には、六五名の予定のところ、六三名一〇組で編成されるが、その内訳は第5-49表の通りであり(36)、当初は明かに資格制限を行っている。農兵頭取は村・町・浦庄屋を建前としているが、鶴田触の場合、普請方一名、組頭一名を除いてはすべて村庄屋である。触口は農兵惣頭取として触の農兵を統括する。

第5-49表第5-48表

 農兵は国堅め、郡固めを目的としており、一か月に三度の射撃練習が課せられ、炮術の稽古も行われる。触内・村内に射撃稽古所が設けられ、射撃練習が奨励される。定日稽古には玉薬が給付され、小習試の節には玉薬と昼食が支給される。そのため、農兵用玉薬仕入の手当仕組も相談されている(24)。鉄砲稽古奨励もあってか、農兵には諸猟が許され、触口と農兵頭取には雁鴨も御留場以外では許可されている。逆に平猟師の鉄砲が禁止され、郷筒も農兵に繰り入れられる。猟が許されたため、事故も発生している。それについて「年暦算」は「當春より農兵組御取起ニ就てハ鉄炮打大ニ猥ニ相成、不勘弁之者ハ地所前後見繕も無く、右ニ付、不埒も出来致す。是等之事ハ御示無之てハ此先怪我人出来可致、恐るへき事也」と記している。農兵鉄砲調練の結果は奉行をはじめ役々の者が見分している。

 農兵は軍服と呼ばれる制服を着用する。木綿紺染仕立のわり羽織を着し、木綿紺染仕立のタッバチ小袴をはく。特に、頭取は稽古調錬の節は制服着用が義務づけられている。雛型を見ると、消防団の制服に類似している。その上、大庄屋は平日大小帯刀、立付袴御免であり、頭取、及び、庄屋格以上も小習試・稽古日には大庄屋と同様帯刀が認められている。ここにおいては、武士のみの特権であった大小帯刀が庄屋格以上にも公式に認められたことになり、武家支配の近世封建制社会は外見的にも崩壊の日を迎えている。庄屋格以下は小習試の節は股引・伴天姿、平日も脇差帯刀御免が原則であるが、わり羽織・タッバチ袴の制服は「平農兵も勝手次第」と定められている。その他、笠も用いられており、腰には黄色の粮袋(食糧袋)をつけている。鞍手郡の菊池六朔は長男が農兵であり、粮袋を、「農兵之粮袋を黄ニ染ルを見て」と題して、「くちなしに色ゝ袋を染しより、喰はぬかてとや人の見るらん」と詠んで揶揄している(55)。

 福岡藩の農兵は「國堅・郡堅之事、旅行出無し」と郡奉行より通達されている。藩内・郡内の警衛・郡々自衛を目的としており、「旅行軍事出」のあった郷筒とは趣を異にする。農兵の義務は兵技の調練を行い、万一に備えることであろうが、郡々自衛の趣旨より次の役目が命じられている(24)。

ア、諸猟見ケ締役――旧来は村々の庄屋に申付けられていた役目が、農兵中へ申付けられたもので、御留場(禁猟区)での猟や、無免札での不正猟の監視役である。
イ、関東方賊徒などが藩内に入り込んだ場合の対処。
ハ、諸士、その他無体なことを申掛ける者があった節は取り押へ、役筋へ報告すること。
ウ、賊徒、浪人体の者が無体を働いた場合、取り押え、役所へ報告すること。
工、芦屋・柏原両砲台御備筒掛り――大砲打方修業をしているものは、非常の節には御砲台場出方が申付けられることになっており、御備筒掛に任命されたものもいる(45)。
オ、押入・家盗の類が村々に発生した節、早太鼓を相図に近村相互に召捕りの手配をすること。――村の治安維持の一翼を担当させている。これは一八六〇年代にとられた旅人・浪人体取締りの担当者が農兵にまで拡大されたものである。明治二年九月に鞍手郡で実際に出動した例があり、菊池六朔は日記に「五日天気よろし、去四日夕、湯原村押入ニ付、早朝農兵隊檞木原口堅メなして六太郎出行」と記している(55)。

 明治四年三月の変革により農兵号は廃止され、免札、即ち、農兵鉄砲札は回収される(22)。これにより村々とも放銃は禁止され、農兵免札は平免札に切かえられて行く。農兵の免札は、竪二寸・横一寸五歩の札にて、次のように記されている。「諸鳥猟御免」と「小鳥猟御免」の両様があり、札代五〇文を要する(24)。

 触口の分は名前の欄が「何郡何村 觸口何某」となる以外は全く同様である。農兵の分は次の様になる。

 裏面は農兵頭取の分と同様である。

表鉄砲札

第七節 神仏分離

 慶応四年(一八六八)閏四月、所謂「御一新祭政一致之御改正」により、「諸國大小之於神社ニ、神佛混淆之儀ハ御廃止ニ相成候」と遠賀郡地方にも通達された。同年三月より閏四月にかけて発せられた維新政府の神仏分離政策が閏四月に入ると敷衍して通達されている。その主要な点は次の通りである(24)。

(1)神職、及び、その家族を仏寺より分離、死亡した場合は神道葬となる。
(2)神主、祢宜・祝神部に至るまで神祇官附属となり、従来の吉田家取次が廃止され、御所日ノ御門前の白川家(伯家)取次となる。ここに於いて、遠賀郡周辺では、万治・寛文期より始まる吉田神道・神祇管領長上による神道裁許に終りをつげた。
(3)仏語を以って神号として来た神社は改称すること。権現・牛頭天王・弁財天の類である。午頭天王を祀る祇園社は、遠賀郡では、明治二年九月に底井野郡局より「以来祇園社之号被廃、已後須賀神社と相唱可申旨被仰出候」と通達され、須賀神社と改められている(24)。遠賀町域の該当社を「筑前国続風土記附録」他に求め、明治維新後の社名と比較すると第5-50表の通りである。祇園社の他、豊前坊、龍王社、八龍社、弁財天社、庚申尊天、青面金剛、勝軍地蔵、等が対象となる。遠賀町域には第七編にある通り、第5-50表以外にも対象となる神社はある。
(4)天台・真言の社僧・別当の類は還俗の上、神主・社人等の社家になること。修験や盲僧も同様である。英彦山の座主が高千穂と改名し、唯一神道に転じたと同時に、鬼津村の宿坊である知妙坊は犬神左近、秀学坊は香月平学と改名している。
(5)仏像をもって神体としていた神社は取除けるように指示され、梵鐘・鰐口などの仏具の除去が命令されている。同様に、高麗狗や獅子も「可取除事」の中に入っている。
(6)神社の境内にある庚申尊天や青面金剛などは取り除け、村内にある分も追々建替えるよう指示されている。
(7)神社に奉納されている三十六歌仙の絵馬の内、坊主画、その他法衣着用の画尊は取り除けること。通常の三十六歌仙の内には素性法師・僧正遍照などの僧形があり、中古の三十六歌仙では恵慶法師・能因法師・安法法師・増基法師・道命法師が僧形である。

 神仏分離により、社名や呼称は変っても、行事はその儘継承されている。祇園会に於いては祭神が素盞鳴尊であろうと午頭天王であろうと大差はない。厳島神社に於いても弁財天であれ、市杵島姫命であれ同様である、庚申講に於いても、祭神が猿田彦命であれ、興玉神であれ、青面金剛であれ、守庚申の行事には変りはない。雨乞の八大龍王や火伏せの軻遇突智命(勝軍地蔵)に於いても同様である。

第5-50表

第八節 明治二年の凶作

 明治二年は第5-51表の如く(55)、日照が少く、冷害により凶作の年である。「年暦算」は「當年ハ秋作実入弥悪敷、御上より田方御年貢米一割御下免被仰付、又西郷村ゝ大不作ニ付、郡中村ゝ御下免之内、西郷大不作村ゝえ助合致ス様ニ被仰付、遠賀ニハ秋免御願申上候村方ハ無之候得共、御国中ニてハ秋免之村方殊之外多く、近年之大凶年也」と記している。殊に、遠賀川の西の村々の不作は著しい。同年は春中も第5-51表の通り雨天が四〇パーセントにも及び麦も不作である。遠賀町域は「麦不毛上なれ共實入此邊相應所ゝニ依リ上作も有之、又かり付ケ実入悪敷所も有り。辛シ・唐豆類相應」とある。稲作の不作は夏季の日照率が四〇パーセント未満、降雨率が五〇余パーセントという天候による。

第5-51表

 米価は第5-39表に示す通り、連年の不作、貨幣価値の下落、貨幣制度の混乱が相乗的に働いて高値の処に、明治二年の凶作は更に追い討ちをかけている。概略は第5-39表に示す通りであったが、明治二年前後を示すと第5-52表の通りである。慶応三年冬は正金一両=切手一一貫文、翌四年春は正金一両=札一一貫二〇〇文の当所相場である。幣制の混乱は明治二年より始まる。藩内には維新政府が発行した不換券である太政官札、徳川金、筑前二歩金、白銀、銀預(切手・札)等が流通しており、特に筑前二歩判は他国で通用せず、庶民を困惑させている。「弐歩金ニて一両切手十貫文也。弐歩金嫌らい弥多く相成、諸人弥大困り。御國金他國之者取引致さす也。白銀ハ一両銀預弐拾貫文、銀一朱一ツ札壹〆文。今通用之分ハ徳川金·大(太)政官金より外ハゆう通不致。尤皆弐歩金也。是ハ諸国ニ弐歩金出来候故也。一、京より金札出る。是ハ諸国ニ通用宜敷也。拾両より一朱迄此邊ニ下ル」と「年暦算」は記している。筑前二歩判は明治三年閏十月引揚げになる。遠賀町域にても「当國二歩金十両、金札三両と御引替之儀御觸流シ有之。是迄弐歩金一両銀預十一〆弐百文、金札壹両拾四〆五百文。三両と拾両御引替へニ相成候得は、弐歩金一両銀預四〆四百文斗ニ相當ル。右ニ付、當時引替致ス者無之候。地金ニ致シ候ても八貫文位ハ有之へくとはかた(博多)・福岡町人之見込也」と「年暦算」にはみえる。藩では一〇〇両上納者には明治三年より永年米二俵半頂戴、四〇両で永年米一俵渡しの条件で二歩判献納を呼びかけ、回収を計っている。島触では「此節献金弐歩判上納相仕舞帰宿。然るに多分之不正金當惑いたし候。村ゝ分指返申候間、代り金銀預にて上納可被成候(22)」と不正金の存在を示している。前年兌換紙幣化された太政官札金一両が銀預一四貫四〇〇文であるのに対し、筑前二歩金一両は銀預六貫文と半額以下である。僅か二か月足らずの間に一貫六〇〇文下落している。因みに、金札は明治八年五月二十五日切、旧藩札は同年六月二十日切に引上げになる。

第5-52表

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