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第六編 開けゆく郷土 第二章 明治時代後期の社会 [PDFファイル/1.37MB]
明治五年の大小区実施に始まり、同十一年の郡区町村編成、同十七年の連合戸長役場と改変を重ねて来た公行政的組織の編成は、明治二十二年四月の市・町村制の実施により完成する。これにより、国―府県―郡―市町村という官治的支配体制が確立される。
遠賀町域では、先にも触れた通り、北部に島門村、南部に浅木村が誕生し、それまでの各村は大字となった。現遠賀町の母体の誕生である。合併調書(41―2)は合併の事情を次の通り記している。1=合併する事由、2=沿革、3=新町村名の選定事由、4=その他である。田畑の反別は右欄は官有地、左欄は私有地であり、反畝歩は省略されている。戸口第6-4表に示しているので省略している。
第6-1表、第6-4表、及び合併調書により、第五大区時代(明治七年頃)と明治二十二年の村勢を比較すると、田畑・人口に関しては、その増加率は第6-7表の通りである。田畑面積は反畝歩を省略してあり、正確な数ではないが概要は把握することができる。
地租改正後、各村ともに田地はかなり増加しているが、畑地は今古賀、木守は殆ど変らず、虫生津・下底井野は減少している。人口も多少の増加がみられるが、第6-4表の明治十七年の島津や下底井野のように減少している村もあり、微増傾向といえる。人口の増加率に対し、田畑の増加率は一・四〇とそれを凌駕しているので、全体的な経営規模は縮小することはないが、全戸農業と仮定して、全体の一戸当り、一人当りの平均所有反別を算出すると第6-8表となる。村別一戸平均よりすれば、明治二十二年では下底井野の一町五反六畝余が最も大きく、島津の一町三反一畝余がそれに次いでいる。最少は広渡の九反五畝余、次が別府の九反八畝余である。今古賀・尾崎・木守が平均の一町一反一畝余を超えており、鬼津・虫生津が平均を割っているが、いずれも前記の下底井野と広渡の間にあり、平均に近く、平均的には大差はない。
浅木村役場は別府花園八三〇番地に置かれて変ることはなかったが、島門村役場は鬼津丸ノ内(若松)より広渡六十歩に新築移転したが白蟻のため倒壊、その後、別府高瀬柴田英次氏宅、更に、旧停水上虎雄氏宅と移転している。
市町村制の施行により島門村・浅木村が誕生、地方自治団体として成立すると、その意志決定機関としての村会が設置される。村会議員は、制限つきながら、公選によって選ばれる。
選挙権、被選挙権は市町村住民を公民と住民に分け、公民にのみ与えられた。公民はその地区に二年以上居住し、町村の負担を分担し、町村内で地租、または直接国税二円以上を納める満二五歳以上の、一戸を構える日本人男子をいう。町村政を有資産者や地主に担当させようとする意図が明らかである。地区外居住者でもこの地区へ最多額(該地区公民の三位まで以上)納税者にも選挙権が与えられる。
選挙は任期六年の等級選挙であった。等級は選挙人が納める町村税の総額の二分の一の額になるまでを上位より拾い一級選挙人とし、二分の一以下を二級選挙人とする(市では一級より三級に分ける)。一級選挙人は多額納税者であり、その数は多くはない。選挙は議員定数を二分し、二級選挙より行う。任期は六年であるが、三年ごとに半数が改選される。明治四十四年に任期は四年に改正され、半数改選制は廃止される。等級選挙は選挙資格が「直接市町村税を納める者」に改められた大正十年に廃止される。
村政を担当する村長と助役は村会が満三〇歳以上の公民の内より選出する。村長と助役は名誉職として無給が原則であり、有給村長の場合は内務大臣の許可が必要であつたので、村長・助役は有資産者に限定されがちであった。村長は村議会の議長をも兼ねる(荒川五郎「新旧対照市町村制及理由」)。
島門村・浅木村は昭和四年の両村合併、遠賀村誕生まで続く。その間の歴代村政担当者は次の通りである。
両村の三役は次の通りである。
明治末期の遠賀町の樣子を記したものに「浅木村是」「島門村是」と「遠賀郡誌」がある。殊に、前二者は町村是編纂の指示に従い、浅木村・島門村の明治三十九年の状態を分析している。日露戦争直後の農村の状態ともいえる。
明治三十九年の両村の人口は第6-15表の通りである。「島門村是」は同村人口は過去一〇年で二・二パーセントの伸び率を示しているとし、その率で増加すると、七年目には四、四二〇人、四四年後には八〇二五人になると予測し、「斯ノ如キ暁ニ達センカ、其倍数人員ハ如何ニ難繁ナル生計ヲ営ムベキカ、吾人生計ノ程度ハ漸ク次高マリ、衣食住ノ消費共ニ暴昂シツゝ、然ルニ人口ノ増殖、生活ノ上進ハ自然ノ勢ニシテ免ル可カラザル所ナリ。是ノ時ニ当リ、本村ノ力ハ将来幾多ノ人口ヲ養ヒ得ルカ、又幾何ノ余裕ヲ存スルカ否ヤヲ見定メザル可カラズ。豈今日ハ悠々祖先ノ遺財ニ衣食シテ軽々月日ヲ送ル時ナラズヤ。宜ク策ヲ講ズベキヲ要ス」と述べている。前記の数になると予測する明治八十四年は昭和二十六年に当たる。「遠賀郡誌」が示めす人口では明治三十九年より四十四年まででは、島門村では七・五パーセント、浅木村では、四十三年までは五パーセント増と順調に増加していたが、四十四年は三十九年に比して一三六人、五・八パーセントの減少を示している。
前記の増加の予測にも拘らず、両村の人口は第6-16表の通り(68)、結果的には増加せず、昭和四年の両村合併を迎えることになる。
明治三十九年当村の両村の職業制戸口は第6-17表・18表の通りである。両村ともに農業が最も多く、専業・兼業と合わせると、島門村では六三・一パーセント、浅木村では六五・七パーセントを占めている。島門村では総耕作反別八〇六町八反三畝余、農家一戸平均一町八反四畝余に当たる。浅木村では四七〇町六反八畝余、農家一戸平均二町六畝余である。島門村の農業生産物は米麦・甘蔗・大根が主体であるが、二毛作は多くはない。小作人の多いことも生産や発展の障害となっている。
工業生産は醤油醸造・生蠟・瓦製造が主体をなしているが、瓦製造のみが商品生産の希望が見えている。工業生産物としては、絹綿交織、木綿織、生糸、番茶、七島藺表、コーリス莚、提灯、石殻、石殻俵、等が挙げられているが、自家用が多く、商品生産としては期待できない。
商業も酒(二五戸)、醤油(二)、菓子(七)、豆腐(五)等々の居売りがあるが、酒、呉服以外は小額資本による店である。商家の大部分は遠賀川駅前に集中している。
浅木村でも農産物は米麦が主体であり、麦は裸麦が多い。野菜では大根・菜類が多いが、蚕豆の作付が多く、蓮根は収益をあげている。工業は見るべきものはないが、木綿縞を大部分の家で生産している。年間一戸五反平均と量的には多くなく、自家用に近い。酒造(一戸)のみが商品生産といえる。商業も日用雑貨が主で、酒類販売一二戸、牛馬売買五戸が目立つ程度である。
両村是は生活・風俗についても触れている。島門村に於いては、「風俗人情ハ古来質朴ニシテ着実勤倹ノ美風アリトス。近時運輸交通ノ便開ケテヨリ、各地方ヨリ移住スルモノ多ク、漸々軽浮奢侈ノ弊風流行スルニ至レリ。加え、戦後経営ハ忽チ鉱業界ノ進運ヲ促シ、諸般ノ事業勃興ト労働者ノ需用ヲ増加シ、従テ労銀ノ高騰ヲ来セリ。誠ニ艜乗業者ノ如キハ日々巨額賃金ヲ得ルアリテ、自然的遊迭(ママ)奢侈ノ弊風益々長スルノ労アリ。其ノ弊風延テ本村ニ感染シ、為ニ風化一変シ、一時之レヲ矯正スルノ策ヲ施スノ途ナカリシ」と日露戦争後の鉱山・鉄道の隆盛に伴い、投機・奢侈の風潮が移入され、「近来新奇ノ風習専ラ流」を歎くに至っている。艜業者の場合は「西川鉄道開通ノ為メ、今ヤ不況ニ沈マントス」、「尚漁棲適当ナル余地多ケレバ、西川両沿岸筋ハ砿水疎通ノ為メ、生産額漸次減少シツツアルナリ」とあり、室木線開通が艜業に影響を与え、西川上流の炭坑の鉱害が始まりつつあることを示している。
農家に於いては自給自足的傾向の強い中で、「一般ノ生活状態ヲ見ルニ、資金ニ富メルモ、貧ナル者モ麦飯ヲ常食トシ、栗・大根等ヲ混用スル者ハ或一小部分ニ過ギズ、又米飯而已食スルモノモ甚ダ稀ナリ。然ルニ拾数年前ニ比較スレバ、米ノ分量尚多キニ過グ。家居ハ其構造一般ニ改良シ来リ、衣服ノ如キハ反テ矮屋ニ任シ(ママ住カ)、粗食ニ安スル者却テ美服ヲ飾ルモノアリ。近年殊ニ此風習専ラ流行シ、農業者又此弊少ナカラザルヲ認ム、此等決シテ生産ニ伴フ消費ナリト云フ可カラズ」、「衣服ノ如キハ概ネ都会人士ノ風ヲ模規スル輩多カリシ」と生活様式の変化が徐々にしのび寄っていることも示している。官営八幡製鉄所の創業、鞍手・水巻・中間等隣接地区の炭坑の隆盛は、遠賀地区の生活様式にも影響を与え始めている。
町村是は編集方針として、「将来部」が附されている。これは一般的であり、両村に限らず、その記述も類型的であり、独自に自由に発想したものではないが、両村が挙げている将来の対策は次の通りである。これは当時の両村の状態に対する対応ともいえる。
農業に於いては土地の改良、及び、地主と小作人の融和が先ず挙げられる。土地改良では浅木村では深耕の推進、島門村では遠賀川改修工事と関連して土地区画整理を計画している。小作人問題は、当時、島門村では小作地を有する者七四人、小作者二三七人、浅木村では前者五〇人、後者一五〇人に及んでおり、「両者ノ間未ダ紛議ヲ醸シ、葛藤ヲ生ゼシコトナシト雖モ、又以テ全ク親善ナリト謂フベカラズ」と述べている。両村是全く同一文であり、村是の性格、ないしはその内容の限界が感じられるが、この問題解決は土地改良上も避け難い問題ではある。
米作では品種の改良等が考えられているが、当面の問題としては塩水撰の徹底化がある。当時、島門村では七五パーセントの実施率、浅木村では五二パーセントの実施率であるのを一〇〇パーセント化することを目的とする。裏作では麦、殊に小麦の作付を計り、休耕田には緑肥としての紫雲英(れんげ草)の栽培促進を挙げている。
蔬菜類では、八幡方面、及び、炭坑地帯の市場の拡大に伴い、商品作物の開発、生産量の増加、栽培法の改良等が企図され、浅木村では馬鈴薯、玉葱の作付が有望視され、奨励が計られている。
農村の風教の振長策としては、青年会の組織、農業団体の設置、貯蓄組合の設置、婦人会の組織、倹約申合(浅木)等が挙げられ、会則案がそれぞれ示されているが、村是編集に伴う将来の方針であり、努力目標でもある。
両村是記載の農業奨励振興策は、明治二十九年四月に組織された遠賀郡農会や、明治三十五年に創設された遠賀郡進農会の方針や施策を基本にし、それを敷衍、改訂した感じが強い。あるいは、遠賀郡としてはそれを踏襲することにしていたかもしれない。殊に、「当時郡内唯一ノ模範調査書トシテ、其筋ヨリ賞揚セラ(9)」れたという「島門村是」にしても、「生産増殖・消費節約方法等振興発達ノ計画ヲ樹立シ、軽重緩急ヲ慮リ、利害得失ヲ検討シ、遂ニ永久的方針確定ス(9)」とし、「現況部」の分析は他に比較して勝れているが、なお前記の延長線上にある。島門村では村是調査の傍、第一回農事視察(明治三十九年)、稲毛品評会実施(同四十年)、青年進農会の組織(同四十二年四月)、底井野・浅木・島門共同耕地整理の計画(同四十二年)などを進めている。共同耕地整理は確定案まで完成していたが、経費が伴わず中止されている。明治三十八年十一月より三十九年十月まで島門村是調査主任書記をしていた中野覚郎は「切角心血ヲ注ギテ調査研究シタル村是モ実行ニ至ラザルモノ多ク、従ツテ村ノ衰微ハ愈々甚シク。遂ニ緊急ナルモノ十数項ヲ実施セントシテ其準備ニ着手ス」(明治四十四年)と記しており(9)、地区の調査に基いているとはいいながら、理想と現実の差を示している。