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遠賀町誌 第六編 開けゆく郷土 第三章 遠賀村の誕生

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第六編 開けゆく郷土 第三章 遠賀村の誕生 [PDFファイル/3.21MB]


第一節 合併への胎動

 遠賀川と西川の運命共同体である島門村と浅木村の合併への胎動は村是現況部の調査が行われていた明治三十九年に始まる。明治四十二年九月にも合併問題を協議している。両地区はともに純農村地帯であり、土木・水利に関しては相互に関連しており、お互いに協力の必要なことも少くない。両村の人口は両村是では増加を心配しているにも拘らず、明治四十四年より減少傾向を示している。教育関係費や行政関係費は合併した方が住民の負担も少なくて済む筈であるが、その機運に至らない。隣接の矢矧村は明治四十年十月に岡県村と合併して岡垣村を形成しているが両村合併への拍車とはなっていない。明治末期には既に纏めの段階にあったであろう「島門村是」(大正二年四月印刷)、「浅木村是」(大正元年八月印刷)ともに、その「将来部」の総論・結論ともに、恰も雛型をその儘用いた如く、同一内容を記しているにも拘らず、両村合併には一言も触れていない。

 大正期にも四年、八年と合併が協議され、後者では両村会で議決されたにも拘らず、時機尚早として見送られている。

 この時期は、第一次世界大戦の初期より戦後に当たる。世挙げて好況より不況に向う時代であり、一方では民衆の力が論ぜられ、発揮された時代でもある。いわゆる「大正デモクラシー」である。

 大正六年より県下でも同盟罷業が続発していた中に、大正七年に富山県下に起った米騒動はまたたく間に全国に波及し、福岡県でも八月中旬に八幡・門司・戸畑の北九州地区や、筑豊の一部、及び、田川の炭坑地区で米騒動が勃発、軍隊の出動を見る。米騒動を契機に労働運動も各地で一層盛んになる。「溶鉱炉の火は消えたり」で有名な大正九年二月の八幡製鉄所の争議はその代表的なものであろう。農村に於いても、一般的には、小作組合が結成されたり、農民組合ができてくる。大正八年十二月頃よりは小作料永久減額の要求も行われ始める。大正十一年三月三日には被差別部落の解放を目指して、「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と全国水平社の創立宣言がなされる。全国的な農民組織としての日本農民組合が結成されたのも同年四月のことである。

 島門村・浅木村に於いては、これ等の社会的な動きに対応しての直接的行動は見出していない。

 農民組織としての島門村農会・浅木村農会は明治二十九年に結成されているが、これは農会令に基いたものであり、農事奨励のための組織である。小農小商の金融を目的とした信用組合は大正二年に下底井野信用組合、同五年に虫生津信用組合、同八年に島門信用組合が設立されている。これは産業組合法(明治三三年)に基く協同組織であり、農業協同組合の前身をなす。その他にも、大正五年には島門村青年会結成、同六年二月には遠賀川共進講の組織、同八年には遠賀川商工会の成立、同八年共衛会(自警団)の結成、同十二年二月には島門村消防組設置等々の地方組織が成立する。青年会は文部省通達(明治三八年一二月二七日)や戊申詔書(明治四一年)、島門村是などの延長上にある。共進講は「地方ノ金員流出防止ト遠賀川繁栄」を目的としているが、当時流行の頼母子である。商工会は「薄利多賣主義ヲ目標トシテ、稍々モスレバ衰頽セントスル殷賑ヲ防止スルハ勿論、共存共栄ノ実ヲ挙ゲシムル」を目的とし、「殊ニ、店舗ノ地上ゲ、道路ノ改築ハ緊急ナルモノトシテ之が促進ヲ謀」ることを主旨としている。共衛会は「自治警察ノ任ニ当リ、専ラ水火災防止ト警戒トニ努」めることを目的とする自衛団組織であり、島門村消防組に継承される(9)。

 大正デモクラシーが民衆の力、ないしは、民衆の発想の発露であるとすると、これら諸組織は、確かに一部では村民の意志の発露はあるかもしれないが、八幡・水巻・中間・鞍手などの工鉱業地帯に近接していながら、その地区の運動の影響は表面的には極めて少ない。そこには消費地と農業生産地区との差異があるかもしれない。

 大正十二年四月一日の郡制廃止により、再び合併の機運が醸成され、昭和三年十月の村会に於いて漸く合併の議決を得る。明治三十九年九月に合併の協議がなされてより二二年、大正八年八月の議決より九年を要している。これにより島門村と浅木村が合併して遠賀村が誕生する。

第二節 遠賀村の発足

一 合併前後の歩み

 昭和四年四月一日、島門村と浅木村が合併して遠賀村が誕生する。両村の合併は昭和四年三月九日の「福岡県公報」で次の通り告示された。

福岡県公報

〇福岡県令第五号
明治四十四年法律第六十九号町村制第三条ニ依リ県参事会ノ議決ヲ経内務大臣ノ許可ヲ得テ昭和四年四月一日ヨリ遠賀郡島門村浅木村ヲ廃シ其ノ区域ヲ以テ新ニ遠賀村ヲ置ク
昭和四年三月九日
福岡県知事 齋藤守圀

 両村の合併に伴う行政上の経過措置も、「新ニ遠賀郡遠賀村ヲ置クニ付、従来其地域ニ施行セラレタル左記条例ハ条例設定施行セラルゝニ至ル迄ノ間、当地域ニ引続キ施行ス」と昭和四年四月一日に「福岡県公報」号外で告示されている。対象とされる両村の条例は公告式・手数料・督促手数料・火葬場使用、特別税戸数割についての条例は共通に存在するが、元浅木村の条例には公有林野県行造林条例、及び、住民印鑑及証明ニ関スル条例が含まれている。

 両村合併の経緯、及び、合併後一〇年の歩みについて役場の文書は次のように記している。

町村合併に関する調
一、町村合併ノ動機(原因)トソノ実現マデノ年数並経費概算
島門村六五五戸、浅木村二九五戸ノ純農村ニシテ人情風俗ヲ同ジクシ土木水利等モ密接ナル関係ヲ有シ其ノ一部ヲ共同処弁セル状態ニ在リ両村ニ於ケル税負担ノ状況ハ別表(第6-19表)参照ノ通リ苛重ノ負担ナルヲ以テ合併ニヨリ教育費役場費等ニ於ケル経費ヲ節減シ住民負担ノ軽減ヲ図リ経済的ニ或ハ施設ノ改善ヲシ自治ノ根底ヲ強固ニセントスルニアリ

第6-19表
 明治四十ニ年九月合併問題ニ関シ協議ヲナシタル事蹟アリ、大正八年八月両村会ノ議決ヲ経タルモ時機尚早、合村機運醸成セズ合併ニ至ラズ、昭和三年十二月本県知事ノ諮問答申迄約十九年ヲ経過セリ
経費ノ概算
解散費(解散式自治功労表彰費等)島門村四、九五〇円  浅木村八五〇円
慰労費其ノ他(吏員委員ノ慰労費其他) 三、二〇三円   一、九〇〇円
計八、一五三円   二、七五〇円
二、合併実現ノ経過
 イ、町村民大会ニテ促進運動ヲナシタカ
  ナシ
 ロ、各町村有志ノ連絡ニヨツテナツタカ
  両村有志間ニ合併ノ必要ナルコトヲ認メ委員ヲ設ケ相互連絡接渉セリ
 ハ、県ノ指導方針ニヨルカ
  郡制当時郡長ヨリ其ノ後県当局ヨリノ合併慫慂屡々アリ為ニ合併機運ヲ促進セリ
 ニ、合併機運ヲカモシタ重要人物ノ年令地位
  島門村長 故松本 恒士(四四歳)
  故小野彦太郎(五五歳)
  故柴田  勉(六三歳)
  浅木村長 故古野矢八郎(五八歳)
  故有吉常太郎(四八歳)
  有吉暦太郎(五四歳)
 ホ、合併運動発源町村名及其ノ運動方法
  特ニ発源地トシテハナク両村民間ニ合併ノ必要ヲ認メタルニ因ル
 ヘ、合併問題ノ中心人物(表面デナクトモ真実ノ)現存者氏名
  有吉暦太郎、原田房太郎、吉田利七、増田幸蔵、芳賀倉平、有吉藤蔵
三、合併前後ニ於ケル予算並ニ負担ノ状況及其ノ現在ノ状態
四、合併ニ至ル迄ノ困難ナ問題
 村民ノ大勢ハ合併機運熟シ合併ノ必要ナルコトヲ諒得シ居ルモ昭和三年十月合併ノ村会議決後村ノ一部ニ反対運動起リ四区ヨリ陳情書提出ニ及ビタルモ其ノ理由トスルトコロハ小村ヨリ大村トナレバ諸事纏リ難ク村ノ平和ヲ維持スルニ困難ニヨリ合併不同意ノ旨申述シタルモ村長ハ円満ナル諒解ヲ図リテ後決行スベク再三該部落ニ至リ区民又ハ其ノ代表者ト懇談ヲ重ネ合併ノ必要ナル所以ヲ力説シ土木工事(路線ノ拡張、井堰ノ改築等)及老良小学校ノ廃止等ニ就テハ夫々希望條件ヲ附シ新村ニ引継グ旨ヲ確約シ円満ナル解決ヲナセリ
五、合併ニヨリ役場、学校、産業組合、伝染病院等如何サレタカ
 役場。合併直後ハ元島門村役場(民有)ヲ一時仮使用シ昭和六年村ノ中央ニ位スル現在ノ庁舎ヲ新築セリ
 学校。合併当時三校アリタルヲ昭和八年三月老良校ヲ廃止シ現在島門、浅木ノ二校アリ
 産業組合。元島門村一円トセルモノ元浅木村ニハ虫生津、浅木ト三組合アリタルモ孰レモ経営不振ノタメ解散シ昭和六年新タニ村一円ヲ区域トセル遠賀村産業組合ヲ設立セリ
 伝染病院。両村各別ニアリタルモ病舎ノ腐朽ト経費節減ノタメ之ガ統一ヲ計画シ昭和十一年五月大字別府地内ニ伝染病院及附属火葬場ヲ新設セリ
六、合併後ノ町村名稱ノ由来
 往古崗ノ水門(芦屋)ヲ湾口トセル内海ナリシヲ以テ史的名稱トシテ崗村トスベキトノ論アリタルモ旧郡域ヨリ若、幡、戸三市ノ出現ニ伴ヒ現在郡ノ中央ニ位シ又遠賀川ノ流域ニ耕地千百町歩ヲ有スル純農村ナルヲ以テ躍進的前途ヲトスル意味ニ於テ遠賀郡ノ「遠賀」ナル名稱ヲ冠スルコトトナレリ
七、町村長以下吏員ノ處置
 臨時村長ハ浅木村長有吉暦太郎収入役臨時代理ハ島門村収入役安増忠次トシ書記十名(島門六浅木四)ヲ八名ニ減ジ(元島門五浅木三)ヲ新村書記トシテ任命セリ
八、合併後ノ町村民ノ之ニ対スル聲
 元来両村民間ニ於ケル親族縁故ノ関係深キ為寧ロ合併ノ当然ナルコトニ鑑ミ多年ノ懸案成就シ村政ノ発展ヲ祈念スル次第ナリ
 然ルニ村民一部ノ声トシテハ戸籍、納税等ニ就テ従来近巨離ノ役場ニテ事足レルヲ稱遠クナリタル(僻偶ノ地ヨリ)事不便ノ由聞キタルモ其ノ後方法ノ改善(例納税ニ付テハ区長取組纏納付等)ヲ講ジ合村後十余年ヲ経タル今日是等ノ事ニモ馴レ役場ヲ中心トシテ諸般ノ治政ニ膺リ旧村域ノ感情的意識観念ニ拘ラズ真ニ理想郷ノ建設ニ邁進セントスルニアリ
九、其ノ他
 村ノ名譽職特ニ村会議員ノ配置乃至選出が適正ニ表現セラルゝコトハ自治体ノ実質的機関ノ充実デアルト共ニ各部落単位ノ選出議員アルコトヲ原則トシタル地域代表制ガ望マシイ過去ノ選挙ニ於ケル実態ハ自由競争形態ノ象徴デアルコトガ将来ニ於ケル自治政へノ禍根トナルベキコトヲ思慮スレバ議員選出ノ方法ガ自治政ノ将来ヲ画スル所以ナレバ敢テ私見ヲ附記ス
 又村、農会、産業組合等ニ於ケル各々職分ハ異ナレルモ将来ノ郷土ヲ建設乃至発展セシムルニハ現在ニ於ケル連絡協調ヨリ一歩前進シ合同的活動分野ガ与ヘラルレバ猶更治政ノ興隆ニ寄與貢献スベキモノニアラント思惟ス乃チ新体制下ニ於ケル公益機関ノ整備充実化ニ因ツテ其ノ機能ノ発揮乃至活動ノモタラス効果ハ蓋シ多大ナリト思慮スレバナリ

 合併直後は現在の旧停区内に在った水上虎雄氏宅を仮役場とし、昭和六年六月六日今古賀九一番地ノ一の田三反九畝二三歩を買収し、鬼津若松の山砂を芦屋軌道で運び敷地を造成した。この位置はその頃工事中だった旧国道三号線沿いに役場本庁舎を造った。土地建物(小使室等を含む)の総工事費は一三、〇〇〇円だった。

 その後四十年を経て昭和四十七年(一九七ニ)五月、遠賀町大字今古賀五一三番地の現庁舎に移転し今日に及んでいる。

二 歴代の遠賀村町長と助役

 遠賀村町政の執行に当って来た遠賀村長・同町長・同助役・同収入役は第6-20表・21表の通りである。昭和三十九年四月一日に町制が施行されているので、同年三月三十一日までは村長、四月一日よりは町長である。

 大正十四年三月に、大正デモクラシーの頂点をなす普通選挙法が第五〇帝国議会を通過し、翌十五年より普通選挙制が採用されることになるが、町村会の選挙は選挙権の納税資格が撤廃されたことを除いては旧前と大差はない。町村会議員に立候補制が採用されたのは昭和十八年三月の改正以後のことであり、婦人の参政権は昭和二十年十二月の改正選挙法を待たねばならなかった。改正選挙法により、選挙資格が、従来の区域内に、二年以上居住の満二五年の男子より、三か月以上居住の満二〇年以上の男女に改訂され、被選挙権も満三〇年以上の男子より満二五年以上の者に改まり、昭和二十五年の公職選挙法へと移行する。

 松本寛氏は遠賀村議会議員、遠賀村助役を歴任。著書に「小作問題の真相」「優良農村の経営」などがある。

 増田幸蔵氏は浅木、島門両村の合併に深く関係、神田川取水口の大隈移転にも尽力されている。

第6-20表第6-21表収入役遠賀町発足

三 遠賀村議会議員と町議会議員

 町村会議員を公選以前と公選以後に別けて示すと第6-22表・23表の通りである。公選以前に於いては村長が議長を兼ねている。

 昭和三十九年四月一日に町制を施行するので、それ以前は村議会議員、以後は町議会議員であるが、議員任期が三十八年~四十二年と町制前後に及んでいるので一括して示している。

第6-22表第6-23表氏名

第三節 遠賀村の農地改革

一 農地改革の経過

 昭和二十年八月十五日、第二次世界大戦敗戦を迎え、日本民主化と戦後経済の再建の基本的課題の一つとされたのが農地改革である。それは占領軍当局(GHQ)の指令に基き、下からの改革に先んじて、上から行った改革ではあったが、戦前の社会ではアンタッチャブル的存在であった農村の地主制支配を崩壊させ、日本資本主義の構造を変えたでき事であった。

 日本資本主義の基盤的構成要素の一部分をなしていた地主制と零細農経営(小作)の存在は、日本農業に半封建的残滓を保ちながら、明治末期頃よりその構造的矛盾に基く諸問題を露呈し始め、自作中堅層農民の没落や小作争議となって社会の表面に現れて来る。遠賀町域に於いても、既に明治末期に「耕作地ノ殆ンド三分ノ二ハ小作ニ入り、附ケ小作ノ年限ハ地主ノ意思ニヨリ一定セザルモ、通常ハ一ケ年ナレバ小作人ニ於テ愛土ノ念ニ乏シキハ故ナキナリ、又小作人ニシテ其所得中之ヲ地主ニ納メサルヲ得ズシテ種・苗・肥料・農具代金ヲ引去ルトキハ其ノ余ス所ハ僅々タルモノニシテ、自作人スラ一ケ年所得漸ク飢餓ヲ凌クニ足ル而已ニシテ、衣服・器具ヨリ起居家屋ノ如キ、其他吉凶災難ニ処スル迄テ凡百ノ用途其幾分ハ余業ヲ以テ給セザルヲ得ザルモ、大部分ハ米ヲ以テセザルヲ得ズ。故ニ一朝洪水旱魃等ノ害アリテ米作ヲ害スルトキハ他ノモノヲ以テ之ヲ補フ事甚ダ稀ナリ」(「島門村是」)「小農ト大農トノ懸隔ノ甚シキハ当事者ノ須ク留意ヲスベキ所タリ」(「浅木村是」)、「現在地主ハ凡テ其土地ヲ小作人ニ委シテ全ク顧ザルモノ多ク、従テ地主、小作人間ノ融和ヲ欠キ、農事ノ施設宜シキヲ得ズ」(前掲両村是)と記されており、小作問題が村の懸案となっている。「島門村是」「浅木村是」が示している明治三十九年当時の田畑所有区分は第6-24表の通りである。所有者平均では島門村田は一町四反九畝二二歩・同畑は二反九畝一六歩、浅木村田は二町四畝二四歩・同畑は二反七畝一〇歩であるが、島門村の農業従事者四三八戸、浅木村同二二八戸よりすると多くの小作人がいることになる。島門村では「村内ニ於テ小作地ヲ有スルモノ七十四人、小作者弐百三十七人」が、浅木村では「本村ニ於テ小作地ヲ有スルモノ五十人、小作者百五十人」が挙げられている。「浅木村是」は所有田畑五反歩以下を小農、五町歩以下を中農、五町歩以上を大農と定義」、小農七二戸(四四%)、中農七九戸(四八%)、大農一四戸(八%)と分析している。小作人は含まれてはいない。

第6-24表第6-25表

 両村ともに他町村に所有する田畑よりも他町村より所有される田畑の方が多い。前者は島門村では底井野村・浅木村・芦屋町・岡垣村の順で、多くは自作している。浅木村では隣接の中底井野・垣生・上底井野・別府・今古賀・鞍手郡古門に所有しているが、今古賀・中底井野分を除いては小作に出されている。後者は芦屋町・水巻村・折尾村よりの所有が主で、島門村が本籍で県外に移住した者の所有もある。多くは小作に付されている。浅木村は郡内では若松・黒崎・芦屋・山鹿・島門の町村よりの所有が大部分であり、郡外では三井郡草野銀行・浮羽郡田主丸銀行・福岡市・直方町・岡山県児島郡が挙げられている。

 大正七年の米騒動以後の地主制の危機に対処するため、小作調停法(大正一三年法律第一八号)・自作農創設維持補助規則(大正一五年農林省令第一〇号)が出されたが、昭和五年の農業恐慌により更に事態は悪化し、日中戦争・太平洋戦争を迎える。

 戦時を迎え、国家総動員法のもと、自作農創設維持は農地法案(昭和一二年)を纏て農地調整法(同一三年)として総動員法と同時に成立、それを補う政策として、小作統制令(同一四年勅令第八二三号)、臨時農地価格統制令(同一六年勅令第一〇九号)、供出制度に基く米の地主価格と生産者価格との二重価格制(同一六年閣議決定・省令)などとなって現れ、戦時食糧増産と小作料の代金納制へ作用する。その間、福岡県にては昭和十五年に「自作農互助組合規約準則」を作製し、市町村単位で、自作農創設のための、低利資金借受の自治的な組織設立の促進を計っている。昭和十五年末現在で、市町村数三〇六の内、僅か二八市町村、三四組合が設立されているのみである(67)。

 昭和二十年八月の敗戦を機に、未曽有の食糧危機を背景にして、反軍・民主化が国内外の世論となり、農地制度の改革が不可避なものとなってきた。時の幣原内閣・松村農相は戦時中の経過を基にして直ちに準備に着手し、十月十三日には自作農創設路線に沿った農政局原案を作製、十一月十六日には農地制度改革要綱を閣議に提出、十一月二十二日に閣議決定を見た。要綱は農地調整法の改正の形をとり、不在地主所有地の全部、及び、在村地主の三町歩を超える小作地を強制譲渡の対象としていたが、閣議で強い反対を受け、保有限度三町歩を五町歩に引き上げている。この要項は農地調整法改正案として法案化され十二月四日の第八九議会に提出された。第一次農地改革法と通称されるものである。

 この法案は当然の如く議会で猛反対にあい、議会保守勢力により審議未了で廃案になろうとしたが、日本農業の封建的圧制打破のためには改革が必要とするGHQ(連合国最高司令部)の「農地改革についての覚書」により廃案とすることができず、一部修正のうえ成立、十二月二十八日に公布された。覚書は次の通りである。

農地改革についての連合軍最高司令官覚書
一、民主主義的傾向の復活と強化に対する経済的障害を除去し、人間の尊厳に対する尊重を確立し、且数世紀に亘り封建的圧迫により日本農民を奴隷化して来た経済的束縛を打破するため、日本の土地耕作民をして労働の成果を享受する上に一層均等な機会を得させるべき処置を講ずることを日本帝国政府に指令する。
二、この指令の目的は、全人口の殆ど半分が農耕に従事している国において、長い間農業機構を蝕んで来た甚しい害悪を根絶しようとするものである。これらの害悪の顕著なものは次の如きものである。
 (a)農地における過度の人口集中
  日本農家の殆ど半ばは、一・五エーカー以下の土地を耕作している。
 (b)小作人に対し著しく不利な條件の下における小作制度の広汎な存在
  日本農民の四分の三以上は部分的又は全面的な小作農であって年収穫の半ば又はそれ以上に達する小作料を支払っている。
 (c)農業金融の高率利息と結びついた農家負債より生ずる苛酷な負担
  農家負債を償却しえないため、全農家の半ば以上は農業所得のみでは生活することができない。
 (d)商工業に厚く農業を軽んずる政府の財政政策
  農業に対する金利率及び直接税は商工業に対するものより苛酷である。
 (e)農民の利益を無視した農民及び農民団体に対する政府の官憲的な統制
  超然たる統制団体による恣意的な収穫割当は農民をして自分の必要又は経済的向上のための作付を抑制することが多い。
  日本農民の解放はこのような根本的な農業上の害悪を根絶破壊してこそはじめてその緒につくのである。
三、それ故、一九四六年三月一五日までに農地改革計画を連合国最高司令部に提出することを日本帝国政府に命令する。この計画は左に述べる案を包含しなければならない。
 (a)不在地主より耕作者に対する土地所有権の移転
 (b)不耕作地主より公正なる価格で農地を購入するための規定
 (c)小作人がその所得に応じた年賦で農地を購入するための規定
 (d)小作人であった者が再び小作人に転落しないための合理的保護の規定
  かかる必要なる保護の中には左の事項を包含すべきである。
  (一)合理的な利率で長期又は短期の農業融資を利用しうること
  (ニ)加工業及び配給業者による搾取から農民を保護するための手段
  (三)農産物の価格を安定する手段
  (四)農民に対する技術的その他の知識を普及するための計画
  (五)非農民的勢力の支配を脱し、日本農民の経済的、文化的向上に資する農業協同組合運動を助長し奨励する計画
 (e)上述の諸計画と共に、社会に対する農業の貢献にふさわしい国民所得を農業に対して保証するために必要と認めるその他の計画をも提出することを日本帝国政府に要求する。

 第一次農地改革法は地主保有限度を三町歩より五町歩に引き上げ、譲渡は地主と小作人の間での相対売買とし、金納小作料の代物弁済を認めるなど不徹底なものであったため、GHQを満足させるものではなかった。昭和二十一年三月十五日までに提出することを命ぜられた農地改革計画も、政府はそれ以上実行する意志はなく、第一次改革法の線で回答を行った。これに対し、占領軍当局の不満が表明され、日本政府自身による改革案の作成が困難とみなされ、GHQはこれを米・英・中・ソよりなる占領軍の対日理事会に付託した。理事会は二十一年四月三十日より六月十七日まで四度にわたり改革案を討議、急速化した内外民主勢力の台頭を背景にして、第二回目(五月二九日第五回理事会)にソビエットの改革試案が、第三回目(六月一二日第六回理事会)で英国案が提出され、第四回目(六月一七日第七回理事会)で英国案に若干の修正を施して採択した。GHQではこれを受けて「農地改革覚書案」を作成、六月末に第二次改革の「勧告」を行った。ソ連案は小作地全廃、収用地六町歩までは段階的補償、それを超える分は無償とし、英国案は在村地主の小作地保有限度を一町歩とし、自作地を含めた総所有限度を内地平均三町歩、小作人の土地買受限度を一町歩とし、買収は有償で土地取得委員会が執行することになっていた。勧告を受けた政府は七月二十六日に「農地制度改革の徹底に関する措置要綱」を閣議決定し、それに基いて「自作農創設特別措置法案」と農地調整法の再改正法案を作成、GHQの承認を受け、十月十一日両法案は無修正で議会を通過、同月二十一日に公布された。第一条に「耕作者の地位を安定し、その労働の成果を公正に享受させるため、自作農を急速且つ広汎に創設し、以て農業生産力の発展と農村に於ける民主的傾向の促進を図ることを目的とする」とうたっている。第二次農地改革法である。自作農創設に関しては前者が、小作関係・農地移動・農地委員会に関しては後者が規定している。第一次改革法と第二次改革法を比較すると第6-26表の通りである。

第6-26表

 第二次改革法成立後、施行令、施行規則が公布され、昭和二十一年十二月より翌年二月にかけて農地委員会が選出され、二十二年三月三十日の第一回買収日設定により農地改革はスタートする。買収は第6-30表に示す通り一六回に及んでいる。改革は戦後のインフレを経た昭和二十五年五月の小作料と農地価格の七倍引上げ、同年九月八日に公布の国家買収に代えての強制譲渡令である「自作農の創設に関する政令」(ポッダム政令)でもって事実上終了し、講和条約発効後の農地法(昭和二七年法律第二二九号)に引き継がれて行く。「自作農創設特別措置法」は昭和二十七年十月二十一日廃止された。

二 遠賀村の状況

1 農地の買収

 第一次農地改革法の農地制度改革要綱が閣議決定をみた昭和二十年十一月二十三日現在の遠賀村の総農地面積は第6-27表の通りである農地改革着手前の状態である。数字はすべて「遠賀町役場文書」によっている。第6-24・25表と比較すると耕作面積は半分に減少している。

第6-27表

 在村地主所有田畑は自作地よりも小作地が多く、不在地主所有田畑は全体の二三・九パーセントを占めている。約四分の一である。ここでも、当然のことではあるが、自作地は僅に一・三パーセントに過ぎない。農地改革の対象となった地主は第6-28表の通りである。在村・不在ともに五反未満の個人地主が最も多く、それぞれ、六七・二パーセント、七二・六パーセントを占めている。その内、在村地主の改革前の規模別の状態は第6-29表の通りである。一町歩未満所有者の内、少くとも三分の一は請作をしていることになる。一~三町所有層では五反~一町経営者が最も多い。自作地以外は小作に出していると考えられる。この層では少くとも八一・六パーセントが小作地を有することになる。この数が当時の遠賀村の平均点な農業規模とは考えられない。農地所有者層の手作離れ、小地主化とも考えられる。小作料取化である。一〇町歩以上の所有者は29表の範囲では一人であるが、28表では現われていない。何等かの方法で買収対象となることを免れていることになる。

第6-28表第6-29表

 遠賀村に於ける土地の買収は第6-30表の通り、第二回より第一六回の一五回に亘って行われた。合計買収面積は第6-27表に示す農地面積の五一パーセントに及んでいる。その条項別内訳は第6-31表の通りである。その内、遡及買収は一件、七畝一五歩が含まれている。買収地は九九・五パーセントが小作地であり、不適正経営自作地、及び、買収申出の自作地は〇・五%に過ぎない、第6-32表に示すように、「財産税物納」もあるが、不在地主の所有農地は数字の上では一〇〇パーセント買収されている。(2)の「在村地主の小作地」は一町歩を超える小作地(二号)、及び、自作地と小作地の合計が三町歩を超えるもの(三号)である。買収地の平均対価は二十五年五月の対価の七倍引上げを含んではいるが、第6-30表より算出すると、一反歩につき、田は六八八円六五銭五厘、畑は三七一円六五銭二厘に当たる。一坪当り、田二円三〇銭、畑一円二四銭である。

第6-30表第6-31表第6-32表

 遠賀村に於ける「買収することを不相当」とする買収除外農地は第6-33表の通り、「一時貸付地」二反六畝一件他を除くと、炭坑の鉱害地四六町五反が挙げられている。全田数の六パーセントに鉱害が見込まれている。遠賀村では鉱害は虫生津・浅木・木守地区に現れており、昭和二十八年には虫生津地四五町六反、翌二十九年には浅木地区五〇町六反七敢、三十年には木守地区二五町五反の鉱害復旧工事が着手されている。それ等は第6-33表にも示されているが、この三地区に集中しており、その内の不在地主所有の四六町五反が買収除外農地とされている。

第6-33表

農地以外の買収も第6-34表の通り行われている。宅地、及び建物である。炭住地であろう。

第6-34表

2 買収農地の売渡

 農地改革の対象として、国によって買収された農地は第6-30表・31表に示す通りであるが、買収地は順次小作者に売渡されて行く。その面積は第6-35表の通りであり、改革前の経営規模別の売渡しを受けた戸数は第6-36表の通りである。売渡価値の平均は、一反につき、田が六六一円四七銭、畑が三七一円八一銭である。平均では田は買収価格より二一円安くなっているが、畑は殆ど同一である。第6-36表の内訳は同35表の通りである。改革前小作地の七九・七パーセントに当たる。一戸当り平均売渡面積は五反一畝九歩弱である。売渡しを受けた面積は、いずれの層に於いても、平均値では改革前の小作地面積より小さい。第6-37表より、売渡しを受けた後の各層の平均所有面積を算出すると第6-38表となる。平均値的にみると、20・11・23現在に小作地が多かった層が売渡しを受けた面積が大であるのは当然であるが、各階層ともに自作地の多かった層に厚く、少ない層に薄い結果となっている。平均的には「20・11・23現在自作地平均」と「売渡を受けた農地平均」の和が改革後の自作地となるが、各階層とも一町未満の区分の層では合計は一町歩未満であり、農業を専業とするにはなお小作地を必要とする。そのことは総平均の和が八反四畝八歩ということよりも推察できることではある。小作が可能であることは、第6-39表に示すように、保有限度(一町歩)の貸付地を所有する農家が少くないことでも推測できる。

第6-35表第6-36表第6-37表第6-38表第6-39表

 遠賀村の農地改革は第6-40表の通り、昭和二十五年八月一日現在で九九・七八パーセントを終了している。遠賀村では牧野の買収はない。それ以後の予定地が三町八反九畝一七歩残っているが、全体的には大勢に影響はない。それを除いた農地面積は第6-41表の通りである。これをもって遠賀村の農地改革は略終了したといえる。

第6-40表第6-41表

三 農業委員会

 自作農創設維持、小作関係の調整、農地の交換分合の促進などを目的として農地委員会が設けられたのは昭和十三年の農地調整法に始まる。委員は市町村長を会長とする官選であり、権限は調査、斡旋、意見提出に限られていた。戦後、農地改革に際して、その中心的機構となった農地委員会は小作・自作・地主より選挙で選出した。農地改革の一応の完了に伴い、昭和二十四年六月に借主2・貸主2・自作6の比率に改組される。自作農維持を中心目的としている。

 昭和二十六年の農業委員会法の成立により農地委員会・農業調整委員会・農業改良委員会などを統合した農業委員会が発足する。それに従って市町村の農業委員会の統一選挙が行われた。選任による委員は、市町村長が公選委員の過半数が推せんしたもの五人を限度に決定し、各委員会毎に会長を選任した。

 委員会では農地に関すること、土地改良に関することなどの業務がなされることになった。その後数次に亘りこれら法案並に事業内容等の改善がなされ、農業の安定という大目標に絶えざる業務が続けられた。

 昭和五十五年(一九八〇)には農地利用増進法、農地法の一部改正法、農業委員会法改正法等が公布され、それぞれ施行されることになった。

 昭和二十六年の農業委員会法成立以後の遠賀町の農業委員会の委員は次の通りである。

遠賀村町農業委員会委員     ○印 会長  □印 農業会議員

昭和二十六年~二十九年

江藤建次郎 丸井末松  秦 宝一  竹森國雄 ○林 喜助  秦 徳雄  柴田頼雄
高 万年  毛利 盈  副田新蔵  中山包久  添田 繁  末松 充  柴田貫蔵
柴田 徳  有吉茂也  柴田三郎

昭和二十九年~三十二年

高 万年  末森友一  林 国雄  太田 実  中山包久  柴田寿一郎 副田新蔵
小野忠次 ○毛利 盈  矢野 隆  泉原太郎  二村忠次  高崎武弘  安部春繁
柴田敏士  有吉茂也  林 喜助  柴田 守

昭和三十二年~三十五年

大場和壮  井口 守  高崎武弘  泉原太郎  筋田信義  一田秀雄  村田好彦
小野忠次  古野 保  小野郷雄  柴田誠太郎 矢野速雄  柴田寿一郎 安部春繁
柴田徳壮 ○井口 強 □小野周太郎 毛利 盈  中山包久

昭和三十五年~三十八年

入江 孝  井口 守  門司 恕  大場和壮  柴田寿一郎 石松四郎  一田秀雄
高崎重徳  高崎正次郎 柴田誠太郎 秦 宝一 □柴田貫蔵 ○毛利 盈

昭和三十八年~四十一年

柴田盛彦  柴田治美  舛添義光  古畑成久  二村道徳  安藤 智  森 末男
太田末吉  石松 薫 □仲山頼雄  井口 強 ○仲野 馨  小野周太郎 旗生重巳
柴田一彦

昭和四十一年~四十四年

芳賀和夫  石松方則  柴田盛彦  仲野利治  豊沢建一 □重広 新 ○仲野 馨
村田喜代美 柴田治美  石松 薫  竹森繁男  添田重広  舛添 忠

昭和四十四年~四十七年

江藤 優  村田 公  桑原繁人  加藤清彦  つる井寿年  添田秀雄  畑生半一
井口正利  松本秀美  半田三吾  竹内武雄 ○仲野 馨 □中山包久  森 末男

昭和四十七年~五十年

末松貞次  白石 忍  柴田一彦  村田 公  末森利房  つる井寿年  井口正利
村田忠夫  三島文吾  竹内武雄 □松井 清 ○秦 宝一  柴田 凉

昭和五十年~五十三年

末森利房  村田光弘  高  三  石田寅雄  瓜生 満  古野克憲  井口直正
松井広実  池田義隆  柴田一彦 □中山包久  柴田征一郎○秦 宝一  小野敏行(52・5・20~53・7・19)

昭和五十三年~五十六年

二村正人  吉田舜二  花田傓次  柴田智隆  筋田幸男  古野克憲  松本 勝
太田勝美  末森利房 □近松 稔 ○芳賀和夫  高崎 崇  池田義隆

昭和五十六年~五十九年

 小野邦雄 ○太田 平  林寿太郎  中西良三郎 高田久次  柴田智隆  岩崎昭幸
〇古野克憲  松本 勝  村田征規  近松 稔  高崎崇(58・7・19まで) 古場文麿
 松本義巳(58・7・20~59・7・19)

昭和五十九年~六十二年

○添田年孝  和田共生  石松 守  小野邦雄  中西孝一  縄手武重  村田征規
 井口時彦  村田一夫  松本義己  秦 朝生  柴田征一部 古場文麿

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