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遠賀町誌 第六編 開けゆく郷土 第四章 変わりゆく産業の姿

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第六編 開けゆく郷土 第四章 変わりゆく産業の姿 [PDFファイル/3.28MB]


第一節 遠賀村農業の姿

 昭和三十二年(一九五七)九州大学経済学部田中定教授、都留大治郎助教授、大分大学経済学部講師山本雅之氏を中心に、九州大学大学院経済学研究科学生佐藤保、遠山馨、友岡学、中川輝男、原田三喜雄、松尾達、山田隆士氏等によってまとめられた調査報告「遠賀村農薬の姿」は、当時の遠賀村の紹介にはじまり、農薬の問題を掘り下げ、更には農業の各種条件を明らかにするための水利や鉱害について、と現地調査を基に詳細な調査と報告がなされている。この報告を読む人は居ながらにして遠賀村を知り、村の農業の真の姿を知ることができるであろう。ここではその内容についてふれることを避けるが、この一冊の報告の中でひどく胸の痛む思いを覚えるところがあるので、それらの事柄がその後どんな姿で変化して行ったかを知る上で参考になることを信じ、その一、二節を拾って見る。

――ところが、感謝の意をこめて、今このまとめを差し上げるのに、私たちはためらいを覚える。村の農民の方がたが、調査に期待した通りのものを、このまとめの中に見出そうとすれば、恐らくがっかりなさるであろうから。
 一つは、思わくで、あれこれ変えることのできない事実がある。私たちにできることは、ただ事実として、冷静な科学的手法でこの事実をもみほぐし、意味を探ることだけである。遠賀村の農業の行く末に、手放しの明るさを与えることができなかったとしても、それは私たちのつみではない。今心から願うことは、村の農業の発展に関心を持つならば、その行く末にかげを投げかける病根の深さにたじろぐことなく立ち向う勇気を、持っていただきたいことである。(友岡学)

――ひどい言葉かもしれないが、遠賀村の農業は青ざめている。農民的な血を失っている。そのいみで、遠賀農業は、日本農業のこんにちの痛みを、そのままこの村の痛みとしている。
 ボタ山がある。産みおとした石炭とともに、母なる大地はくぼんでゆく。基地がある。防風林をつぶしてきた飛行場は、まともに玄海の汐風を作物にあびせる。河川がある。水害が鉱害とかさなり合って耕地をいためる。工業用水と農業用水が利水を争う。北九州工業地帯がある。手ぬぐいのかわりにネクタイを首にまき、鍬のかわりに弁当をもって、朝夕、通勤する村人の群がある。天草や鹿児島から沢山の農業常傭者も入っている。通勤農家の手不足をうめるためである。
 遠賀村は北九州工業地帯に隣接している。いやその一部だといった方がよい。北九州諸工業は貪欲に、この村から労働力をひきぬいてきた。それはちょうど吸玉をこっぽりこの村にかぶせて血をぬいたようなものだ。人口のうっ血はそれだけへりもしよう。けれども、農村として身じまいをなおす暇もなく放血したため、あとには貧血がのこっただけである。新しい血液の循環系統はできなかった。吐きだした労働力の空白をうめたものは、ヨリ生産性のたかい労働ではない、農業機械の導入ではない、ヨリ合理的な経営組織ではない。もっとも手がるな道、年雇経営である。
 たとえばこれを、いまひとつのプールとしよう。プールには二つのパイプがついている。排水パイプは北九州工業地帯に通じている。導水パイプは、天草や、鹿児島に通じている。水はたえず変っている。だが表面だけである。深部はいぜん澱んでいる。水位も全体として、大した変化はない。排水パイプが、都市工業に通じているかぎり、郊外居住者的な新しい生活感情も入ってくる。それが農業経営にもある程度、反映する。だが深部まで、それは滲透しない。深部の澱みは、そこに導入されている。天草や鹿児島の農業と、本質的な差異はない。それは、暗い澱みをもって表流水だけがたえず激しく動いているプールである。
 その表流水は、もちろん、北九州工業の賃金体系に流れこんでいる。そしておおむね、その底辺を形づくっている。しかも北九州工業地帯は、他の工業地帯より、上下の賃金格差のひどいピラミッドである。ピラミッドはひとつのクッションの上にのっかっている。そのクッションが、たとえば遠賀村のような周辺農村である。
 賃金ピラミッドの底辺は、クッションなしにはくずれてしまう。だからどうしてもクッションを敷こうとする。クッションはクッションで、くたびれているが、別の新しいものに縫いかえられはしない。破れめを、たえず、天草や鹿児島の布ぎれで、つぎはぎするだけだ。他の農村に比べて、たしかに生活感情は新しい。生活水準はたかい。ラジオや新聞やミシンや電気洗濯機は多い。けれども、同時に、いまだに湿田は多く、灌水に水車を踏み、畜力耕耘は機械にすすまないで人力耕耘にあともどりしたりする。二つの異質のものが奇妙にいりまじっている。いや手をつないでいる。
 この結びめをみると、北九州工業地帯の性格、大きくいえば日本の資本主義の性格と、九州の農村、大きくいえば日本の農業構造とが、そして両者のいりくみ方が、よくわかる。(都留大治郎)

 都留、友岡両氏に指摘されたように機械化、殊に自動耕耘機の導入によって人手不足が補充され、更に進んでトラクターの利用される現状へと発展して、年雇使用はそれに反比例して減少し、今日では全くと言って好い程無くなった。

第二節 遠賀町の農業

一 明治初期の産物

 「福岡県地理全誌」によると明治初年の遠賀町の産物は次の各表の通りであり、日本農業の縮図を見るようである。米を主体として麦、大豆、小豆、豌豆、などの穀物を生産し、丘陵地では蕎麦なども作っている。菜種、大根、琉球芋(唐芋)も水田地帯以外では生産されている。

 綿、茶なども大半の地帯で作られていて、昔からの自給自足型の延長と見られるのである。その他養鶏も全集落で極めて普通に行われている。又ハゼの生産も別府、尾崎、鬼津、若松、虫生津などで見られ、蝋の生産にともない尾崎、虫生津に板場の在ったことが知られている。

 酒、醤油、酢など生活必需品も自給自足的傾向が強い中で、村内の需要を満たしている。川魚、蜆貝などが川どころであげられている。尾崎、虫生津に「紅花」を産していた。

醤油票紙蠟皿徳利

 生蠟取引について「中原嘉左右日記」に次のような一節を見る。

明治六年十二月十七日
一、筑前尾崎村小松屋善兵衛、生蠟八十斤入十六叺、先般亀乗丸磯吉舟より積登置候処、十二月五日大坂金場□□にて売拂仕切
金百三十九円三十九銭八厘
前仕切書一通
右持下り処、幸本日荷主出倉に付前段え通引渡候事

 産業として後まで続いたものに瓦工業が別府、下底井野(浅木)などに見られ、石炭も虫生津の産物として少量ながら見られる。

明治初年の遠賀町の産物1,2明治初年の遠賀町の産物3,4

二 明治末期の産物

 前節で述べた遠賀町の明治時代の産物考証に続いて、大正初年にまとめられた「島門村是」と「浅木村是」から明治末期の産物の主なものを拾って、当時の村の姿を眺めることとする。

 米、麦、粟、蕎麦をはじめ豆類はそれほど変りないが、野菜類の生産が多彩になり、その種類と共に量も増大している。菜種は少し減っているが、紫雲英が増している。その他桑の産出が見られるのは養蚕が盛んになったことを物語っている。従って生糸の生産量も増加し、絹木綿交織などが生産される結果となっている。ここで綿が産物として挙っていないことは直接綿製品となったのであろう。

 瓦の生産も明治初めより増加している。

島門村浅木村の産物島門村浅木村の産物2

三 明治以降の農法

 明治農法というか老農技術というかそんな呼び方が適しているかどうかは不明であるが、その後の営農技術の進歩を考える前に、このことは欠くことはできないのであろう。明治三十年(一八九七)から四十年(一九〇七)頃の浅木村農会の記録を拾って見ると、「耕地の深耕について」「採種田」「塩水撰」「共同苗代」「正条植」「施肥について」「害虫駆除と予防」などについて、それぞれの地区に通報している。

「深耕」
本村ノ土質ハ各字ニ於テ大ニ趣ヲ異ニスルヲ以テ表土ノ浅深ナラズト雖モ概シテ浅耕ニシテ土地ノ利用ヲ全カラシムルコト能ハズサレバ将来三寸乃至六寸程度トシ漸次深耕ヲナスノ必要アリ依テ之ガ奨励方法トシテ深耕品評会ヲ開設スルモノトス

「採種田」
米作ノ本原タル種子ハ近時交雑シテ不良ニ傾ケリ依テ優良ナル原種ヲ撰定シ採種田ヲ設ケテ其供給ヲ計ル事

「塩水撰」
最近本村ニ於ケル実行組合ハ七割五分ニ達スルモ其他ノ不実行者アルハ遺憾ノ事ニ属スル依テ全部ノ実行ト共ニ其作業ヲ周到ナラシムル為メ撰種用塩ノ共同購入ヲナシ一定ノ期間ヲ定メ監督スル者ヲ派シテ部落ノ共同作業ヲナサシム

「共同苗代」
現時苗代ノ成績不良ナルハ其管理ノ充分ナラザルニアリ是レ共同苗代ノ要アル所以ナリ然ルニ本村ノ大部ハ其地勢上共同苗代ノ設置ニ適セルヲ以テ将来漸次設置ヲ奨励スルモノトス

「正条植」
正条植ハ最近殆ンド全部ニ及ベルモ尚其方法ニシテ宜シキヲ得ザルモノアリ是等ハ十分ノ督励ヲ加フルモノトス

「肥料ノ施用」
現在施用ノ稲作ハ大豆粕、海産肥料、人造肥料、緑肥等ニシテ甚ダシキハ全ク肥料ヲ施用セザルモノアリ将来充分収獲ヲ得ントスルニハ大ニ金肥ノ施用量ヲ増加シ且ツ有機質肥料トシテ緑肥堆肥ノ施用ヲ十分ナラシメザルベカラズ、肥料ノ施用量ハ固ヨリ一定スベカラズト雖モ凡ソ左ノ標準ニヨラシムルモノトス
種作肥料施量標準(一反歩ニ対スル量)
1堆肥 二百目 乾燥紫雲英 三十貫目 大豆粕 十五貫目 過燐酸 六貫目
2堆肥 二百貫目 青刈大豆 六十貫目 大豆粕 十五貫目 過燐酸 六貫目
3堆肥 二百貫目 米糠 三十貫目 大豆粕 十貫目 人糞尿 二十貫目
4堆肥 百貫目 下肥 八十貫目 大豆粕 二十貫目 過燐酸 七貫目
5堆肥 二百貫目 鰊粕 十二貫目 下肥 八十貫目 過燐酸 五貫目
但し砂質地ニアリテハ六分ヲ原肥ニ施シ四分ヲ二番除草ノ際追肥スベク其他ハ原肥一回ヲ施用スベシ
追肥スベク其他ハ原肥一回ヲ施用スベシ

「害虫駆除予防」
稲作害虫ノ駆除予防ハ近年県令ノ命スル所ニヨリ周到施行シツツアルヲ以テ甚シキ被害ヲ見サルモ尚全滅ヲ期スルタメ県令第二十号害虫予防規則各項ヲ施行スルノ外左ノ各項ヲ実行スルモノトス
一、小学校生徒ヲシテ螟虫採卵ヲ施行セシムルコト
二、投卵器ヲ調製シテ一般ニ使用セシムルコト
三、浮塵子発生ノ初期ニ於テ一斉注油ヲ施行スルタメ予メ駆除用ノ油ヲ共同購入シ置クコト
(上別府区保存文書より)

誘蛾灯

 「深耕」の必要さは解っていたが、その頃はまだ湿田が多く或程度のカサアゲをしなければそれができなくて、まして馬耕などなかなか難しかったようだが、小規模ながら段々にカサアゲが行われていった。

 その後昭和八年には九州馬耕競技大会が次の通り浅木地区で盛大に開かれた。

緒言
役馬利用の増進を促し且つ之が普及を図るは農業経営改更上の要諦にして就中馬耕の改善並之が奨励に力むるは現下我国農村の実情に鑑み最も喫緊の要務とす
本協会玆に見る所あり曩に昭和七年十一月十九日及同二十日の二日間東北各県を区域とする東北六県聯合馬耕競技大会を開催し更に又昭和八年三月二十一日及同二十二日の兩日間九州各県を区域とする九州馬耕競技大会を開き各県選手の自馬を比照し馬耕の技倆を対較し以て採長補短各県馬耕の向上進歩に資し併て汎く馬耕の功益を宣揚せむことに努め農林省の後援参加各県の援助並県畜産組合及県農会協賛の下に顕著なる功績を挙げたり左に其の概要を報告す
昭和八年六月
九州馬耕競技大会
主催 帝国馬匹協会
後援 農林省、参加各県
趣旨 役馬利用ノ増進ヲ図リ農村ノ振興ニ寄与セムカタメ馬耕競技大会ヲ開催シ以テ当業者修練向上ノ資ニ供シ且大ニ其意気ノ発奮振作ニ努メムトス
会期 昭和八年三月二十一日(競技)
二十二日(褒賞)
会場 遠賀村浅木(芳賀喬一氏圃場)
出場選手 福岡、佐賀、長崎、熊本、鹿児島各県十名計五十名
競技田 五畝歩
耕法 畦立耕
自馬 自家飼養ノ四才以上ノ役馬ニシテ県内産又ハ育成シタルモノ
馬審査会場 浅木小学校々庭

競技大会における遠賀川駅前祝塔競技大会馬体審査

 害虫の駆除については次の諸事項を奨励し、その実行につとめたのであった。

一、三化螟虫、二化螟虫などは刈株を掘取って焼却する。稲の植付時期を十日程早めることでその被害を少くする。
一、誘蛾灯により蛾を捕殺する。
一、稚苗の害虫卵を取り除く。ある時季この作業は小学生の手で行われ、苗床の害虫卵を採集させたことがあった。学校行事であった。その他ウンカ類については、「注油駆除法」が古くから用いられており、水巻町の蔵富吉左衛門の名はよく知られている。このことを書いたものは文政九年(一八二六)大蔵永常の「除蝗録」があるが、その中に「鯨油駆除法」として記されている。この方法は途中で鯨油が石油に変り、戦後いろいろな殺虫剤の出現するまで三百年に亘って用いられたのであった。

 戦後はヘリコプターによる航空防除なども一時行われたこともあった。

 「正条植」は、最初手植から植枠の使用、更には植縄へと進んで、今日の田植機による稚苗植になるまで続けられてきた。

 「塩水撰」は、はじめ「寒水撰」から初まり、後に塩水を使うようになった。最近ではいろいろの薬品によって比重撰別がより効果的になされるようになった。

 「施肥について」は前に述べた例のように、「大豆粕」「過燐酸石灰」「鰊粕」「米糠」などが使われたが、大豆粕は後に中国東北部(旧満洲)方面から多量に輸入されていた。「過燐酸石灰」は国内の生産がなされるまでは南方の島々から来ていたようである。又「下肥」「人糞尿」も地元の入手量に限度があったので、近郷の炭坑住宅や北九州方面まで集めねばならなかった。

 いわゆる「肥くみ」で遠賀地方では「オオセダル」と言われた肥桶の大きなものを、馬車に積み込んで八幡方面へ出かけたとのこと。遠賀橋ができてから、この車が朝早く、まだ夜の明けぬ内からガラガラガラと轍の音をひびかせて昔の往還を通った。その音でよく眼を醒された、と話してくれた老人もいた。

 これらの肥料造りがその良不良によって、一年の収穫を左右するものであるので、電話一本で農協から肥料が配達される今日から考えると、全く隔世の感がある。

 これらの稲作技術は、明治時代の農業振興対策に呼応して打出されたので、奨励策としては各種の品評会なども、各地で盛んに行われたのであった。

 また昭和初期に於ては、篤農精神の奨励も叫ばれて多くの精農家が現われたが、上別府の故石松トモさんは遠賀郡農会長、農林大臣等の表彰を受け、有栖川宮記念厚生資金を受贈されたことで知られている。

賞状1賞状2

四 年雇から機械化へ

 機械化農業の初めは原動力としてのモーターの導入であった。しかもそれも他の町村より遅れて、昭和の初年頃からのようである。自動耕転機は遠賀村ではあまり適しなかったようで、発動機をはずして他の用途に使ったりした姿も見うけられた。

 その頃から労働力の不足を補うために考えられたのが年雇制度であった。俗に言う「オトコシ」「オナゴシ」である。

 この制度は昭和の初めごろから始まって、最盛期は戦中戦後の働き手の無かった時であった。しかし戦争が終ってぼつぼつ働き手が帰ってきたことと、トラクターを初めとする動力機械の導入が年雇を減していった。

 「遠賀村農業の姿」では年雇の姿を適確にとらえ、分析し、その見通し等も述べられている。年雇の問題は遠賀村に於ては一時期的のことであったことは事実であるが、見逃すことのできない問題でもあるので、その流れて来た事実だけを記すことにする。

 年雇の初まりは農家の労働力不足からであるが、殊に戦時中の農村の人手不足は遠賀村に於ても他の地方と異るところはなかった。戦後、段々この人手不足は解消されたが、次に来るものは農業の経営的なゆがみによる農家経済の不安定であったので、農業外収入の要求が必然的に増大した。これにより、また労働力の不足が表面化して来たので戦後しばらくの間は年雇使用が続けられた。

 それが現在のように年雇を必要としなくなったことについては、いろいろな原因が考えられるが、第一に年雇に来る人が少なくなったこと、賃金が高くなってきたことがその主なものである。幸なことに機械化の進展に伴って、高能率の機械が出廻り、通勤者がその時間外の暇を利用して農耕が出来るようになったことも挙げることができる。そのことを裏づける資料として、次に一九七〇年から一九八〇年までの十〇年間の機械化の有様をセンサスの調査から拾って第6-47表に示す。

 昭和五十五年には農機具所有実農家数四七六戸に対して、例えば耕うん機及トラクターが五九七台、動力散粉機が四二七台、田植機が四三七台、コンバインが三一五台、米麦乾燥機が三九八台となっている。これを見ると既に機械化も極限になったと考えることができる。「遠賀村農業の姿」で指摘された年雇の問題も、ここに於て完全に消滅し、機械に置きかえられたのである。

農用機械の使用台数

五 今日の農業

 明治、大正の産業に続く昭和時代は確とした資料が求められなかったが、農業としての考え方はさほど変化ないようである。ただこの地方は夏期の雨の季節に低湿地帯が毎年数度の冠水を見るので、決して健康な農業の姿が望めないのであった。それに加えて周辺の工鉱業の振興により、それに走る人が多くなったことも考えられるのである。加えて日本はこの時代は戦争という魔物と同棲した頃で、農家の壮者は次々にかりだされていたこともまた仕方ないことであると考えねばならない。

 昭和二十年の終戦、つづいて農地改革が行われ、次々と農業の基本となる法律が公布され、今日の農業の姿となったのである。主なる農業関係の法令を次の表に掲げることにする。

農業関係法令

 遠賀町の農業がその変化する姿を認められるようになったのは、それまで増産に次ぐ増産をつづけていた米作りが、少しづつ減少しはじめたことである。

 遠賀郡農業振興連絡協議会が昭和五十一年(一九七六)に出した「遠賀郡の農業」から遠賀町の部分を引用して、昭和三十五年から同五十五年迄の農業の姿を見ることにする。同報告に不足の分は「一九八〇年世界農林業センサス福岡県統計書」から添加することにした。

 遠賀町の「総面積と耕地面積」、「総世帯数と農家世帯数」および「総人口(男女別)」「世帯総数(一般世帯と農家世帯別)」「規模別農家数の異動」「経営耕地面積の変化」「農家人口」「農業就業者数」「年間就農日数」「年令別就業率」「専兼業別農家数」等を一括表示して二〇年間の変化を探って見ると、一般世帯数は昭和三十五年(一九六〇)の一七九一から三八一六と二倍になっているのに、農家世帯は九〇五から六三一になり約三〇%減になり、農家人口、農業就業者数、耕地面積、共に減少となっている。

総面積と耕地面積総世帯数と農家世帯数総人口総世帯数規模別農家数の異動経営耕地面積の変化農家人口農業就業者数年間就農日数専兼業別農家数

 次に「作物別栽培面積」「施設園芸」の表を見ると、水稲は昭和三十五年の八九三ヘクタールから同五十五年には六三九ヘクタールと減じ、これは転作にもその原因があると思われ、麦も二三〇ヘクタールから同四十五、五十年には大きく落ち、同五十五年にはこれも転作の影響で六九ヘクタールに増加を示している。他の野菜類ではあまり変化ないが、大根が減少し、ほうれん草が増加している。施設園芸は漸増といったところ。

作物別栽培面積施設園芸

 農業振興地域は、農振地域一〇一六ヘクタールに対して、水田二九五、畑三〇ヘクタールの農用地となっている。

 「家畜飼育数」についても、乳牛、肉牛、鶏等いずれも極端な減少となっている。

農業振興地域家畜飼育数

六 米の生産と流通

1 どんな米を作ったか

 古代から、丘陵地をとりまく平地部に稲が作られたことは、上別府区の城の越貝塚などの調査報告に見られるように、これらの地帯では陸稲ではなく明らかに水稲が作られていた。

 これらの地では果してどんな稲が作られていたであろうか、それは野生稲の系統のものか、それとも温暖地型の印度系統のものであったろうか。いずれにしても遠賀川の上流域の立岩遺跡附近のものと同列であろうと思われる。

 その他の地帯、いわゆる洪積地層帯の大部分は、徳川時代に開田されたところである。「筑前國続風土記」巻三十「土産考下」穀類の項には次のように書かれている。

 稲  筑紫米、いにしへより名産とす。就中肥後、筑前の米を佳品とす。飯として香甜也。酒に醸して味あつし。国中最上座、夜須を佳品とす。凡稲の品類甚多し。各名あり。挙てかそへ難し。

 香稲二種あり。味も香もよし。補益の性あり。地をゑらひ、且取実すくなきとて、農人多く作らす。中華の書にもかくのことくいへり。

 早米  国中いつくにもあり。未熟なるをいり、おしひらめて果とす。性あしし。病人食ふべからず。凡早稲は性つよくして、病人にいむ。志摩郡波多江村より毎年六月に新米を国君に献す。長政公始て福岡城を築き給ふ時、波多江の山伏一人土功をよくつとむ。長政公是をめくみ給ふ。其年より彼山伏、其めくみを感して、早米をはやく作り出して献す。其後年々例となりて、彼山伏の子孫、今に毎年六月早米をさゝく。早米をうふる田地は宅中にあり。蠟月或正月初より種子を水にひたす。苗をうふる事早し。きじの尾と云稲也。国君是を感賞して、毎年八木を賜はる。

 秈  大唐米と云。土民はたうぼしと云。近世異国より渡る。米の色赤く、粒小くして諸稲に異なり。味淡といへ共性よし。積滞ある病人用てよし。薬を丸くする糊とす。又こかしとす。鴄にかへば、よく卵を産す。もみ共にたくはへおけば、十年二十年も久しきに堪て、そこねす。此稲とり実多く、飯多く、早くみのりて、民用に利あり。色白き有。味おとれり。

 占城米  陸田にうふ。粒大なり。

 この中に記されている大唐米という一名赤米についても、湿田でも出来たので、河川の洪水敷や低地などでも多く作られたようである。

 「老良名物赤ヒママ喰ベル、土手が切ルレバ其儘川底尻洗フ、半切タラヒニ乗廻ル」「遠賀村誌」)

 赤米の話は老良、木守、広渡、島津などで古老の話の中で何度か聞いたことがある。殊に或時代に於いては祭祠などに欠くことのできないものであったようである。この種のいわゆる赤米は低湿地によく適応し、しかも耐旱性も強く、用水施設の不完全な強湿田でも充分利用価値があったようで、新田造成の初期に適した品種でもあった。それが用水路などの整備により順次日本型稲に置きかえられたのである。遠賀町に於ては、洪水敷や浮洲の田に可成りおそくまで大唐米が作られたようで、文政四年の「鬼津村明細帳」によると畠作としているようである。赤米は福岡藩一般に存在していたと考えられ、寛保元年(一七四一)や宝暦六年(一七五六)の「御納方定書」の条項に、「只今迄指米之内、赤米交り分量究候得共、此以後ハ手本米程赤米交り候儀ハ不苦候(44)」「赤米手本米程加り候分ハ不苦候事(26)」などの文言が見られ、年貢米に少量の赤米混入は公認されている。

 又地方文書である「仰木大庄屋覚」に次の記録がある。

 一、天保八年秋今古賀村千間川浮洲秋反別大唐作合掛  九合毛 今年は古来より聞及たる豊作と申唱候事又遠賀町若松の小野昇三郎氏の控帳に次のように記されている。

 明治十四年稲抱付記

 稲十七巳  あぜ植大唐

 とあり、その他「大唐米」については明治初年の「福岡県地理全誌」の広渡の産物の項に「大唐米――八拾石」と記されている。これを見ると明治初年から同十四年頃までは、作付されていたことがわかる。

 又「島門村是」にも大唐の産額が五五石五四〇となっていて、明治末期までは作られたことが知られる。

 「筑前国産物帳」にも大唐米として、「とうぼし」ともいふ、とあり「白大唐」「赤大唐」「遅たうぼし」と書かれ、「大唐米というのは細長い米粒を持つ種類で、中世期ごろに中国中部から導入されたものとしていわれている。土地のわるいところに適し、肥料をあまりやらなくても割合よくでき、直播される場合が多く、粗放栽培によく適合した稲種であった。赤米が多く、飯にしてもまずい。早熟のものが主であった」ともある。大唐米は別名で「たうぼし」とも呼ばれ、唐干とも書く。芒(のぎ)は全く、またはほとんどない。熟期の基準に現在とはいくらか違いがあるので、「遅たうぼし」というのも実はせいぜい中稲ぐらいの熟期のものであったろう。「白、赤大唐」は粒色による区別と見てよい。

 嵐嘉一著「日本赤米考」に関連記事として次のような項が見られる。

――福岡藩の一八一八年の鞍手郡十八個村に対する「田方検見細記」では早田、大唐作並自由蒔物などの項のなかで「大唐作は免の事に候へども一村の畝数十歩の一に越早田作付いたし其畝数より又十歩一二掛る大唐作いたし候分は遂見分候事」として、大唐米についてはその作付程度で税を免ずることにしている。――

――その後ずっと後になって、一九一八年の品種統計では遠賀郡にタイトウの二町歩の作付が見えている。恐らく遠賀川筋の低湿地でのごく末期の栽培の名残りではなかったかと思う。以上の記事から、筑前地方にも印度型を含めた赤米種が作られ、それが後には普通米に混入したことが知られている。――

 更に同書に印度型稲関係の耕作地として知られている地名として、遠賀町周辺では

遠賀、小敷村「唐干田(カラホシダ)」市瀬村「坊住(ボウジ)」
宗像、河東村「戸干(トボシ)」
同  多礼村「戸干(トボシ)」
同  池浦村「戸干(トボシ)」
同  八並村「唐干田(トウボシダ)」
同  在自村「唐干田(カラボシダ)」

 などが掲げられている。右の内、市瀬村「坊住」は権現山のことで、かつては六坊を有する修験の山ではあったが、稲作とは全く関係はない。小字名のみに依存したために生じた誤りであろう。しかし、大唐米の作付けを推察させる地名が多く残っている、ことはかなり以前より大唐米が耕作されていたことを推察させる。

 藩政時代の水稲の品種のいくらかは第五編第一章に示されているが、明治以後の品種としては、神力、水原、山田、白玉、土佐坊、江戸坊、打橋、伝蔵餅、山田早稲、大和早稲、大場都、愛国、改良神力、改良雄町、万作、手野□力、白笹、九州晩九号、などの名称が残っている。図は「明治二十二年水帳」で浅木区芳賀倉平氏の記録であるが、いろいろの種類の稲が作られている苗代の控である。

 この中で旧二月二十九日の種浸しとあるのは、いわゆる「寒水浸」であろうが、それが後に段々改良されて塩水撰に発展していったのである。

 大正から昭和にかけては次の品種が記録されている。

 千本旭、千里、金火山、都、白紅屋、手野神力、あらたま、朝日神力、三井神力、神山、万作坊、二町神力、兵庫神力、宝旭、福童、農林十二号、同二十七号、南海三号、霜被、旭神力などであり、続いて昭和時代は県農業試験場等による品種改良が急速に進んで、地味に適した品種が次々に改良されて、さらに県の奨励品種が指定され、その品種の種子が確保される等あり、稲の品種については、刻々と改良される現状である。

作付品種覚

 この近年作られている品種は晩生種として、トヨタマ、レイホー、ツクシバレ、ニシホマレ、中生種として、碧風、早生種は、日本晴、黄金晴、などの名をあげることができる。

2 米価の変遷

 また人口の増加や、明治期の軍備拡張などによって、米の生産は正比例して増大しなければならなくなり、後に老農技術と呼ばれた米作りもあるように、ますます生産の増加が求められたのであった。

 大正四年(一九一五)には米価調整令が公布され、同八年(一九一九)には米穀統制法が公布され、これらの法律によって米を売買することが制約されたが、歴史が物語るように大切な物件であるため、統制は中々意のごとくならなかった。

 米の予約売渡制度が昭和三十年(一九三三)に実施されることになってから、一応現在の状態になったのである。

 明治はじめからの米価の推移と、米の反収を第6-62表に示す。反収は統計調査事務所調べの全国平均である。米価は明治十六年までのものは東京正米市価で、それ以降は政府買入の三等米生産者価格である。

米価の推移

3 米の生産調整

 農地改革の後、政府の米作り技術の奨励によって生産量は著しく上昇した。それに加えて日本人の食生活が米主食から離れていった。そのための生産調整が要求されることになったので、せっかく増産のできる圃場があるのに米作りができなくなった。

 昭和四十五年(一九七〇)はじめて生産調整について県の要請があり、いわゆる休耕制度が実施になった。更に昭和四十七年(一九七二)には多少内容が変って、「稲作転換対策事業」と呼称された。最初五ケ年計画だったが五年目には「水田綜合利用対策」となって、いわゆる米以外の作物を作ることで、米作農業の不備を補う工夫が考えられた。

 また昭和五十三年(一九七八)には「水田利用再編対策」となって、転作々物に対する諸種の補助なども加えられた。この頃から麦や大豆などの作物が多くなって、転作もどうやら軌道に乗った感である。第6-63表はその目標数字と実面積を各年度別に記したものである。

米生産調整目標と実績

七 圃場の整備

1 農業振興地域整備計画

 農業地域の振興のため地域の整備に関して昭和四十七年(一九七二)にその指定を受け、次々にその計画が策定された。

 これらの土地の利用について、農用地五九六ヘクタール、山林原野八八ヘクタール、宅地七五ヘクタール、工場用地六ヘクタール、道路等公共用地その他二五四ヘクタールのうち、農業振興に適した対策を積極的に推進することを企画されたので、先ず農用地の設定につづいてその効果的な利用を計画した。

 遠賀町の現況水田の状態では水稲から他作物への転換は甚だ困難である。さらに又機械化時代に即応出来る圃場も極めて少ない。

 これらの見地から、土地基盤を整備して集団農業の可能な優良農地を確保する。

 これに該当する用途区域は別府、上別府、浅木、木守、老良、虫生津などの地域である。

 畑については、その高率的な利用の出来るような農地の整備をなし、現在のかんがい設備の再整備により、野菜作り団地として甦らせることを目標にしたもので、該当する用途区域としては尾崎、鬼津、若松、島津などの地域である。

2 畑地灌漑施設

 北部の丘陵地帯に於ては古くからそさい作りがなされて、殊に尾崎地区では大根作りが盛んだった。そして漬物加工等も可成り盛んに行われた。その丘陵につづく芦屋町、岡垣町に亘るいわゆる芦屋台地ではそさい栽培がなされてきたが、芦屋飛行場の開設によって、直接関係が深かった大防風林の一部が伐採され、殊に戦後米軍が使用するようになってからは、拡張のため広範囲の防風林が姿を消し、又は丘陵を平坦にしたために、日本海方面からの飛砂が遮蔽物のないまま農地に直接影響し、地元の耕地が蒙る被害は急激に増大した。

 之に対する特別損害補償法が適用されて、補償金を受けていたが、この被害の軽減を期して農産物の増産を図るための恒久施設として、畑地灌漑を成すことが計画された。これによって丘陵地一四〇町歩が生き返り、そ菜畑として現在の姿となったのである。

 この用水は、芦屋町防風林伐採被害者組合からの要望もあり、附帯工事として用水路の整備や、逆流樋門、排水ポンプ、用水ポンプ等の設置により昭和三十一年から稼動を初めたのである。その大部分は神田川用水からで、稲作に支障ないように調整されている。

3 耕地整理、土地改良と鉱害復旧

 耕地の整備や圃場の改良については、稲作をはじめ農業に取って大切なことであるが、遠賀町に於ては大規模の整備事業はなされていない。事業の実施に伴っておこる休耕をはじめ、問題点が多く、容易にそれを実施する条件に恵まれていなかったのであろう。

 鉱害復旧については、虫生津、浅木、木守などの地区に於て、炭坑鉱害の一部補償の意味でそれがなされたのである。一番多いのは土地改良で、島津、尾崎、老良、浅木、今古賀などでなされた。そのため湿田から蘇って、深耕のきく田圃になったところも多かった。第6-64表に近年の成果を示す。

土地改良及び鉱害復旧地

八 農会から農協へ

 明治維新以後、殖産勧業政策の必要が叫ばれ、全国でその実施が進められた。更に勧業政策の技術的な組織確立が要求され、それについては明治十四年大日本農会の設立を見、それまで下部にあった農談会、農事会などが農会の前身的存在だったことになる。

 「福岡県農地改革史」より、農会の発生から農業団体又は組合の動きの主なるものを拾って見ると、明治二十年福岡県令第六十二号により農業組合設置が公布された。しかし農民側にしてはこうした天降り組織には直ちについてゆけなかった。

 それよりも町村、郡、県と系統的な組織の下に、地主を中心に全農民を網羅した農会方式に移行した。即ち明治三十二年農会法施行規則が公布され、農会も法人組織にしてその活用の便を計った。農会会長は町村長が兼任していた。

 福岡県下を五農区に分割し、各地区に応じて指導などを進めたのもこの頃のことで、遠賀郡は第二農区として鞍手、嘉穂、田川の四郡であった。この頃の新らしい農業技術として正条植、緑肥栽培、深耕、堆肥改良、石灰使用などが推進された。

 続いて大正三年米麦の増収、養蚕畜産の増殖などについても補助金等を交付し、その実行を奨励した。

 明治四十四年県令第十一号で福岡県米穀検査規則が施行され、ここに於て量的にも質的にも農民の経済力が向上し、特に地主に於てそれが顕著であった。反面その地主に隷属する小作農、自小作農の貧困化も否定できないものがあった。それが丁度第一次世界大戦後の反動景気として、不況及び恐慌時に表面に現われることになったようである。

 つづいて大正、昭和の初めごろまでは、農家の現金確保の手段として副業が奨励され、麦の増産、養蚕、養鶏、菜種、木蠟の生産などが盛んであった。

 産業組合については大正末期から昭和初期にかけて、農業倉庫の拡充、信用事業の前進、購買販売事業などに見るべきものがあった。続いて戦時下の農村は、主食、軍需品の供出など時局対策を実行した。

 昭和八年産業組合法の改正により、農事実行組合を産業組合に加入せしめ一体の事業となした。これにより生産、消費、計画を中心にその資材の確保を図ることができたのである。加えて軍需物資の販売集荷から団体供出、出荷なども成された。

 戦後の農業会の活動としてその主なるものは、農地改革に対する宣伝、啓蒙をはじめとして、食糧増産、鉱害対策等に力となった。

 これらの諸問題と前後して農村民主化の一環である農業協同組合の設立となり、半世紀に亘る農会活動が農協の方に移行することになった。

 遠賀町の農会から農協への設立を次の表に示す。

農会から農協へ歴代組合長

 遠賀村農業協同組合はこのようにして、昭和二十二年八月発足し、昭和三十九年四月に遠賀郡内五農協が合併して、現在の姿になった。組合員数は七三一名の正組合員と三六一名の准組合員で合計一〇九二名となった。事業としては、

貯金 三、九五七、七一三千円
貸付 一、六三八、九八一千円
購買   五四九、一八〇千円
販売   八〇二、四二二千円(昭和五十五年調)

第三節 農業以外の産業

一 製瓦工業その他

 「福岡県地理全誌」によると、瓦の生産量が次のように出ている。

瓦一〇、七〇〇枚 別府  森 大四郎
一二、〇〇〇枚 下底井野 柳井勝次郎

 大正初年の「島門村是」には

瓦四三〇、一八〇枚

 となって大分製産量も増加しているが、生産者の詳細は不明である。

 「遠賀郡是」に明治三十九年四月、

瓦生産高 工場 二十二
産額  一、二一〇、一七九枚
価格 二一、〇一六、四二一円

 とあるがこれは遠賀郡全体のものであろう。この頃の遠賀郡では、中間の屋島、下大隈の瀬戸、三軒屋の日高、埴生の日高などと名の知られた瓦工場があったようで、遠賀町に於ても平地、田圃などに沈降し冲積した粘土を求めて、それらのある地帯で瓦工場ができた。

 昭和六年~八年頃は、経済不況のあおりを受け、瓦の価格は暴落し、倒産する工場もでたが、昭和十二年の支那事変後、景気も上昇し、また、水巻町に事業所があった日炭高松炭鉱が、当時石炭産業の好景気を反映して、鉱員社宅の住宅建築が次々に行われ、瓦の需用が増加し、本町の瓦生産も最盛期を迎えていた。

 製造法も昭和の初期までは、手造りで月産一工場当り六千枚程度であったものが、昭和六年にはクボタ式発動機の導入により、土練機が普及し、瓦切断機も登場するなど機械化により生産性も向上した。

 昭和十年~十二年頃にかけては、農村電化を合言葉に安川式電動機が普及し、ダルマ窯の増設も行われ、生産量は、一工場当り二万~三万枚(月産)と飛躍し、島門地区で月産約四十五万枚に達した。

 第二次世界大戦中は、瓦も統制を受け、販売はすべて組合を通して行われるようになり、対外的に出荷割当など一元的に取扱われ、規格も日本規格に統一された。

 昭和二十九年に統制は解除となり、昭和三十年代の自由競争の幕明け共に、瓦業界は、厳しい試練を迎え、大型生産施設方式と組織運営の再編成が問われ、昭和三十五年再三討議の結果、既存方式の途を採り、結局自然消滅を余儀なくされ、昭和五十年代に瓦工場は姿を消してしまった。

 参考まで、昭和十五年頃の「北九州地方瓦工業組合名簿」によると次の通り沢山の瓦工場があって、瓦を焼く煙がたちこめていた。

遠賀町大字鬼津 二〇〇 竹内多一郎
 〃      四三八 小川菊太郎
 〃   島津 三六七 河野友市
 〃      三五六 森福盛義
 〃      一六二 金崎寮次
 〃      一六三 宮本繁市
 〃      五六五 岡村與助
 〃     二一五五 河野正民
 〃     二四五九 浜松浅市
 〃     二四五八 原藤太郎
 〃  別府 四〇二九 豊田與市
 〃     三九二七 樽床安太郎
 〃     三四二九 竹内吾郎
 〃     三四四七 浜松潔
 〃     三四三三 高松安市
 〃     三九六七 浜村徳三郎
 〃     四〇一〇 三谷康三郎
 〃   木守 五五〇 白木貞雄

 藩制時代につづいて主な産物としては、鶏卵、枦実なども普通の町村と同じように産出し、生蠟、ローソク等の生産もあった。

 酒、醤油、紅花なども見えるが、虫生津の石炭も小量ではあるが挙げられている。これは多分大谷などで掘られていたものであろう。又川どころならではの蜆貝や川魚などがある。

 大正初めまで続いた産物に木綿織物等があるが、これも自給自足の延長として、養蚕や綿の生産につづくものであろう。

二 石炭鉱業

 「福岡県地理全誌」、の虫生津村の項に「石炭砿場一所とあり、産物のところには「石炭五万八千斤」となっている。石炭の鉱山のあったところは、虫生津の本村をはじめ、鞍手町との境大谷、別府区でも現在の遠賀中学校のところに別府炭坑、前に岸本、友田などがあったが出炭量などはっきりしない。

 遠賀町は大体三菱と麻生の砿区が大部分であるが、「筑豊石炭砿業史」によると砿区届出は次の通りである。何れも未開発。

虫生津 四、三〇五〇坪 有吉しゅん平
〃  一八、三六三七坪 嶺小一郎外
〃  四一、六八七〇坪 平岡護廉
尾崎  二、六一三三坪 伊藤綯索外
〃   一、〇〇五一坪 旗生運平
〃   一、〇二三三坪 同
〃   五、三六〇五坪 藤井元吉外
別府  七、七八三二坪 同
〃   八、五二九三坪 大森崎蔵(明治三十年)
三菱 鞍手坑

 昭和九年(一九三四)三菱鞍手坑の最初の「芝はぐり」は、金丸鉱業の手で行われ、昭和十二年(一九三七)東邦炭砿株式会社となった。続いて野上砿業が一時経営したこともあったが、再び東邦炭砿となり、更に昭和十九年(一九四四)には三菱鉱業株式会社鞍手坑として、戦中戦後を経ている。。その間昭和二十八年(一九五三)には鞍手坑の石炭は、輸送用電車坑道によって七坑、六坑と送られるようになった。

従業員の数は 職員   三九名
坑内夫 五三五名
同雑役  六五名
坑外夫 三二四名

 を数えたこともあった。その従業員の社宅は、大部分が虫生津にあり、現在の東町および西町地区であった。

 又鞍手坑のボタは大部分が虫生津にボタ捨て場を求めた。その後エネルギー革命の波により昭和三十七年二月(一九六二)遂に閉山となった。

 跡地は産炭地事業団の手によってボタ山は整地され、工業団地となって生き甦った。

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