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遠賀町誌 第六編 開けゆく郷土 第五章 新しい町

ページID:0026915 更新日:2023年6月23日更新 印刷ページ表示

第六編 開けゆく郷土 第五章 新しい町 [PDFファイル/3.62MB]


第一節 開発の進む遠賀町

一 変りゆく地域の姿

 昭和三十九年四月一日、遠賀村は遠賀町となる。都市周辺の宅地開発の波が遠賀町に押し寄せたのは、近郷の町より大分遅れたが、昭和四十年頃から計画され、新町地区の造成および住宅の建築が進んだ。

 その後浅木区の東和苑、広渡区の中牟田団地、ニッセキ団地、別府区の緑光園、千代丸団地、上別府および木守区の蓮角団地、虫生津区の芙蓉団地などが開発に着手、現在その大部分が完工し、住民も入居している。又、広渡および今古賀区に亘る松の本のダイヤニュータウンも造成を終り、順次建設が進められ、入居も増加している。その他尾崎区の尾崎団地も現在造成工事中であり、今古賀および木守、広渡に亘る駅南地区も区画整理計画が進められている。

 開発関係計画を一覧表にすると第6-67表の通りである。

二 同和対策事業

 同和対策事業は、昭和四十年十一月同和対策審議会答申により、昭和四十四年十月同和対策事業特別措置法が制定され、本町においては、昭和四十九年(一九七四)同和対策事業の実をあげるため同和対策室を設置し、室長と係一名をもって同和対策事業を進めてきた。

 同和対策事業の実施は、別表第6-68表のとおり昭和四十九年度から行い、まず、地区内の環境整備に重点を置き、更に、昭和五十七年度からは地域改善特別措置法に変り、地域周辺を含めた関連事業として実施し、全体の事業内容は、公営住宅の建築、下排水路、防火水槽、道路整備や橋梁架替事業など多種に亘り、地域の環境整備と発展に寄与するところは大きかった。

 また、地区内の個人住宅については、住宅の改修、新築、宅地の取得に対し、貸付事業を行っているが、年次別貸付状況は第6-69表のとおりである。

三 遠賀中間地域広域行政事務組合

 ゴミ、シ尿処理、老人ホーム「静光園」、伝染病院、遠賀郡消防署、救急センターなど一部事務組合は、郡内各町が各々経営を分担していたが、これを複合組合として合併することにより、事務事業の総合的、長期的視点に立って計画を樹て、事務処理を簡素化し、効率的運営によって行政水準の向上と住民のニーズに応えることができることを目的として合併が行われた。

 合併の気運は、昭和五十年に一度構想が持ち出されたが実現せず、昭和五十二年十一月頃から遠賀郡議長会のなかで合併気運が再燃し、翌五十三年に郡内議会議員で小委員会を編成し、一方、郡内衛生、人事担当課長会議で、全体の組織構成、財政、人事、施設管理など合併による利点と問題点が検討された。

 同年九月には合併準備事務局を発足させ、合併のための工程表を作成しほぼ合併手続きの見通しができた。それにより、昭和五十四年四月一日より遠賀郡四町、中間市、宗像郡玄海町(伝染病院に加入)の一市五町で遠賀・中間地域広域行政事務組合として新発足した。

 その後、施設の新設としては、仮事務所を遠賀町松の本に置き、救急センターを水巻町下二に、また懸案の第二ゴミ処理場を岡垣町戸切に計画されている。

第二節 遠賀町の交通と通信

一 道路交通

 北九州~福岡間の道路交通の経路としては、折尾――水巻(朳)――渡船――広渡――尾崎――糠塚――海老津――赤間というコースが明治末から大正時代は第四号国道と呼ばれていた。その後、昭和三年(一九二八)に国道三号線が開通し、それより数年前の大正十三年(一九二四)に遠賀川橋ができていたので、専らこの国道が町の幹線道路となった。

 昭和四十九年(一九七四)最初遠賀ミニバイパスとして着工し、完成後、国道三号線にルート変更をして、北九州~福岡間の交通渋滞の解消と長距離の輸送路として、機能が発揮されるようになった。同時に旧三号線は、県道岡垣~遠賀線として地域間の主要道路となり、交通緩和の役割をになっている。

 県道直方~芦屋線は、何度かの遠賀川堤防の補修に伴ない整備が行われ、広域的南北交通の機能を果しているほか県道黒山~広渡線は、広渡唐戸口から岐れて松の本~尾崎を経て岡垣町へ通じ、県道若松~芦屋~福間線と接合している。

 また、町内中央部を南北に県道浜口~遠賀線と県道宮田~遠賀線の接合により、芦屋から若松を経て今古賀までは旧芦屋線の跡を通り、遠賀跨線橋を渡り、木守~浅木~虫生津を経て鞍手町に通じ、地域幹線道路としての利便をはかっている。

 次に町内一級道路を示す。

 これらの道路のうち、定期バスの路線は、旧国道三号線を黒崎~赤間線が走り、遠賀川橋~駅前~役場前~今古賀~別府~千代丸口と停留所を設けている。なお、千代丸口から県立遠賀高等学校下まで路線を延ばし、登下校時バス運行をしているほか、遠賀町役場前から分岐して直方行きと芦屋行きがあり、直方行きは、木守~浅木校前~浅木~宮前~虫生津~白水と停り、鞍手町に入る。

 芦屋行きは、従来、遠賀川堤防経由芦屋行きの路線を一部変更し、中央公民館前からダイヤニュータウン前~松の本~島門~鬼津~若松から芦屋町に入り、全線共西鉄バスが運行している。

 昭和のはじめ、遠賀川駅~木月間にバスが往来していたが、短期間で休止となった。

二 鉄道輸送

1 遠賀川駅と室木線

 遠賀町大字広渡一二二四番地に九州鉄道株式会社の遠賀川駅が開設されたのは明治二十三年十一月十五日である。九州鉄道株式会社は明治二十一年に設立された。現在の鹿児島本線は三井・三菱などの中央資本と、安川・麻生などの地場資本による資本金七五〇万円の民設鉄道として発足した。工事は第一工区門司・遠賀川間、第二工区遠賀川・博多間として進められ、二十三年十一月十五日に第二工区が開通、翌二十四年二月二十八日に黒崎・遠賀川間が開通、同年四月一日に門司・黒崎間が開通して第一工区の工事が完成し、前年十二月十一日開通の博多・千歳川間と連続して、門司・高瀬間に列車が走ることになった。九州鉄道は明治四十年七月一日に国有化され、それを機に遠賀川には建築事務所が設置された。それに先立って、明治三十九年七月十五日には構内線路の拡張工事が完成し、四十年三月には公衆電報の取扱いを開始、同年五月には駅舎を現在位置に移転した。旧停車場は現在も旧停と呼ばれている。

 明治四十一年六月三十日には室木線が完成し、その接続駅となる。線路も四十二年十一月三日には遠賀川・赤間間が複線開通する。当時はまだ海老津駅は設置されていなかったため、岡垣方面の人も遠賀川駅より乗車していたが、明治三十九年五月に遠賀川・赤間間の鉄道改修工事を機に海老津駅設置運動が盛り上り、同年十二月に海老津駅の設置が決定した(波田文書)。海老津駅は明治四十三年二月六日に開業する。

 明治四十一年(一九〇八)七月一日には室木線の開通を見た。営業キロ程一一・二キロ。石炭産業に脚光を浴びて、それまで主として西川炭田の石炭は西川を利用して、芦屋、若松の両港に送られていたのを鉄道によって、各地へ直送することになった。それが石炭の火が消えたため利用者が激減し、昭和五十九年度の一キロメートル当り一日平均乗客数を示す輸送密度は四四四、一〇〇円の収入を得るのに必要な経費を示す営業係数は一、八〇九となり、九州の赤字ローカル線第一次廃止対象路線九線の一つに転落、昭和六十年三月三十一日をもって七〇余年の歴史に終止符を打った。第一次廃止対象九路線は宮原線(大分・熊本)、妻線(宮崎)、勝田線、矢部線、室木線、香月線、添田線、及び六十一年三月で廃止された甘木線(以上福岡)、高森線(熊本)である。最後の二線は第三セクターの甘木鉄道・南阿蘇鉄道に転換された他はすべてバス路線に、転換されている。

 昭和六十一年四月現在、遠賀川駅は飯野貢駅長以下一六名で運営されている。昭和五十六年当時は三九名であり、半分以下に減員されているが、乗客数は第6-72表の通り漸増しており、それは昭和五十五年十月一日と同六十年十月一日の人口増加率一二・七パーセントを大きく凌駕し、三五・二パーセントの増加を示している。それに反し、手・小荷物取扱量は昭和五十六年より漸減し、昭和六十年度よりは取扱が廃止されている。近年急速に台頭してきた自動車輸送による宅配便、宅急便の影響が考えられる。

2 国鉄芦屋線

 戦後、遠賀川、筑前芦屋間に出来た支線で占領軍基地の物資輸送と労務者輸送が主な目的であった。遠賀川駅に占領軍のR・T・0が設置され、その事務も行われた。筑前芦屋駅で記録した「沿革史」から関係分を集録する。

○昭和二十二年三月三日 遠賀川、筑前芦屋間開通、航空基地労務者の輸送を始める
○昭和二十二年四月二十七日 R.T.0設置
○昭和二十二年七月十九日 占領軍事務を開始する
○昭和二十三年九月一日 筑前芦屋駅長を任命
○昭和二十五年二月十日 一般日本人の輸送について、進駐軍輸送に支障なき限り遠賀川と芦屋間の使用に関しては何ら異識を有しない、という米国航空隊、第八航空隊司令ダ二エル・A・クーター大佐の通知あり。この頃混合列車として一日五往復の運転をはじめた
○昭和二十五年六月 朝鮮動乱のため事務が繁雑さを増す
○昭和二十七年三月 R・T・0廃止される
○昭和二十八年六月二十六日 遠賀川地方の水害にて運転不能になる
○昭和三十年三月二十五日 貨物一往復と旅客七往復を八往復に増した

 このように書かれてあり、昭和三十六年六月同線廃止まで国鉄の支線として営業したのである

3 芦屋鉄道の思い出

 明治末期の芦屋行きの交通は、乗合馬車があった。遠賀川駅から各列車に接続し、芦屋まで一里十町を往復していた。六人乗りの鉄輪馬車が、出発のラッパを吹き鳴らし、馬車が動き出すと馬の首につけた鈴が、ちりんちりんと鳴って、当時は文明の香りをふりまいたことであろう。

 代金は一里が十銭也だったそうであるが、「十銭も銭をとらるるなら歩んだ方がましだ」といった人も多く、いつも満員ではなかった、と古老の話が思い出される。

 この馬車につづいて芦屋鉄道(当時は軽便といった)が出来たのは大正四年春で、営業を始めたのは大正六年(一九一七)からであった。駅は遠賀川――松ノ本――鬼津――浜口――東芦屋――西芦屋で遠賀川、東西芦屋の三駅以外は無人駅だった。平日は客車一輌、貨車一輌で、乗客の多い海水浴シーズンなどは客車二輌が動いた様で、一日六往復。運賃は芦屋まで片道十五銭だった。

 大正末期まで、約十年間営業したが、昭和初年に廃止されるまで遠賀川――芦屋間の唯一の交通機関として、多くの名士、文化人なども利用したという。

4 室木線の廃止

 明治のはじめ“燃える石炭”が発掘されて以来、室木、古月辺りの鉱山が次々に開発、石炭輸送は、西川を下り木守までは小舟、それから先は大舟(川艜)に積みかえ芦屋へと、石炭船の全盛期を迎えていた。

 明治二十年代の後半、浅木村(現遠賀町浅木)有吉又市氏らが、石炭輸送を鉄道に切り換えるため鉄道敷設計画をし、用地買収などに奔走し、後に経営主体を九州鉄道会社に移し、明治四十一年七月一日、遠賀川~室木間一一・二キロメートルが開業、石炭専用線としてスタートを切った。

 大正年代から昭和三十年代前半にかけては、石炭産業の隆盛と相まって沿線人口も増加し、鞍手郡西川、剣、古月方面の通勤通学の利用客も多く、交通輸送のうえで重要な役割を果たしてきたが、昭和三十年代後半に到来したエネルギー革命による西川炭田の主軸であった三菱鉱業(株)鞍手坑の閉山(昭和三十七年二月)により沿線人口は急減し、また、昭和四十年代のマイカー時代の出現と併せ、室木線の輸送量は別表(第6-73表)のとおり減少の一途を辿った。

 一方、国鉄自体の累積赤字が政治問題化し、昭和五十二年十二月二十九日閣議了解をもって「日本国有鉄道の再建の基本方針」が示され、昭和五十五年十一月二十八日「国鉄再建法」が成立、続いて翌年六月地方交通線対策として、第一次特定ローカル線(廃止線)に室木線を含む全国四十線区、延七二九キロメートルを選定、運輸大臣に申請、同年九月に承認となった。

 福岡県内の六廃止対象線(室木線、甘木線、添田線、矢部線、勝田線、香月線)の自治体及び住民団体からは、沿線住民の長年の利用に対し、如何に国鉄の再建とはいえ一方的に廃止することに強い反発があったが、室木線においては、西鉄バスの代替輸送の拡充とした対策案に応ずることになり、昭和六十年三月三十一日を以って廃止となり、当日、遠賀川駅と室木駅で記念式典を行い、「さようなら列車」の運行を最後に七十七年間に亘る鉄道輸送の歴史に幕を閉じた。

三 遠賀川郵便局と電報電話局

 明治四十四年島門村大字今古賀字新川一〇一番地に開局、為替、郵便貯金事務を扱う。郵便受持集配は底井野局であったが、大正七年より一時集配を行っていた。大正十四年大字広渡字柳田に移転、通話事務を開始。昭和二十三年大字今古賀字新川九六に移転、受持指定局は折尾局に定まる。

 昭和二十九年大字広波字柳田一、八二三の一八に国有局舎新築移転。電通業務は分離されて公社直営となる。昭和四十九年には大字今古賀字新川九一の九に、鉄筋コンクリート二階建、建物面積三九八平方メートルの局舎が新築され、再び移転、現在に至っている。近年の事業内容は第6-75表の通りである。

 開局以来の歴代局長は第6-76表の通り。

第三節 遠賀町の施設

一 水道事業

1 共同井戸と共同水道

 昔は各地区に二、乃至、三の共同井戸があった。それらは水量豊富で水質の良いものが利用された。別府の「王池」、虫生津の「お池」などと呼ばれるものは大池という意で、別府大池のように現在でも利用されているものもある。高家の「茶の水井戸」なども、地名と共に残されている。このほか各地にも婦人に親しまれた共同井戸は残っている。

 しかし、全般的には遠賀町の井戸水は水量は豊富ではあるが、水質は金気を含んだものが多かった。これは第三紀層の地質や金気を含む西川の関係もあった。これらは木炭と砂をもって作られた簡単な濾過装置を据えつけて水を使用した。

 共同井戸は数人が一緒に利用することが多く、世間話に花が咲くという主婦たちの社交の場でもあった。飲料水や風呂水は水たごで運ばれたが、後に大正期に入り各家庭に井戸をもつようになり、主婦の作業も大分緩和された。

 鬼津の高地地帯では飲料水の便が悪く、毎年夏期には疫病の流行が絶えることなく、福岡県より伝染病の流行指定区とされていた。

 そこで関係住民は、大正末期より秦唯壮を中心として毎日鶏卵一個宛寄附してその売上金を基金の一部として蓄積し、また関係者も寄附金を集めるなどして上水道の施設をなし、遂に伝染病の流行をくい止めるなど、共同して自己防衛につとめた。

 この簡易上水道は水源を鬼津字山ノ下の低地に求めているが附近住民に今でも使用されている。この水槽に次の沿革が記してある。

鬼津簡易上水道布設沿革
陽光麗かに行水清き所万物は化育し庶民は繁栄す。由来此地三寒四温の天恵豊なるも水利に乏しく父祖累代遠く谿間に下りて之を求め僅かに日常の用を弁ず。其一日の労営に痩憊せる心身を休養する暇なく風雨露雪を厭はす肩上一荷の水桶に生命を託せむとする。
忍苦の行状や想ふへし、又唯一の水源も衛生の施設を欠き往々傳染病侵入の機會を作り、偶々猛威猖獗を極め多数の貴き人命を失ひたる悲惨事一再に止まらさるなり。亦一朝非常火災の厄に逢はんか拱手傍観して徒らに用水無きを嘆するの外なかるべし。同志茲に鑑る所あり昭和七年三月相諮りて簡易上水道布設の議を起したるに恰もよし大正十三年以来継続の日講満了し、其積立金の存するあり、是を以て基本経費に充当するに一決し万難を排して実現を企図せり。幸に県当局の絶大なる賛助鞭達に力を得、柴田為義氏(当時八幡市水道課長)の熱誠なる指導援助の下に本村及村内有志大方の一致協力により昭和七年九月工を起し十月落成を見るに至れり。く潤澤利便なる水恩に浴し昨日怨嗟したる乾燥高台の地は、今日轉して絶今や挙家悉好なる健康安住の地區となれり。誠に文化の恵澤と謂ふべく歓喜の情譬ふる所を知らざるなり。茲に落成に当り其沿革を志して永く後裔に遺さむとする所以なり。
昭和七年十月
建設顧問
県衛生課長医学博士    高木乙熊
折尾警察署長警部     枝光金平
県営繕課技師       是永雄
県営繕課         野尻明治
遠賀村今古賀       柴田為義
後援者
折尾警察署衛生主任警部補 村上良夫
遠賀村長         原田房太郎
遠賀村衛生土木主任    永田伊男
本区選出村会議員     井口惣太郎
同            太田清九郎
鬼津区長         松尾保氏
水道組合設立者
組合長          秦唯壮
組合員(年長順)
秦栄次郎  秦 友吉  秦 礼作
秦嘉三郎  秦 延蔵  秦  傳
秦 鷹吉  秦 三郎  松尾和壮
秦武右衛門 入江嘉郎  秦 宝市
入江京一  入江良一  二村道徳

2上水道

 昭和三十年に遠賀村簡易水道が企画され、一日四五〇立法メートルの浄水を、広渡、別府、今古賀、尾崎、遠賀川、浅木、木守、上別府などの地域を主として供給することになった。水源は吉原川などであった。

 昭和三十四年に一日七二立方メートルを、老良、浅木牟田、木守沖地区に給水した。続いて昭和三十六年には鬼津地区有志によって簡易水道が計画され鬼津、松ノ本などに給水。この計画は最初全く地元の人々の手で進められ、多くの人々の労に負うところが大であった。このように各地区に於て水道事業が進められ、伝染病予防の立場からも安心できるようになった。

 昭和三十七年には虫生津地区でそれまで三菱鉱業の所管していた水道を、鞍手町、及び遠賀町の共同事業となり、鞍手遠賀水道組合となって虫生津地区三二六戸に給水をはじめた。

 昭和四十一年八月には町北部の島津、若松、鬼津、尾崎地区に上水道の敷設事業が開始され、昭和四十三年三月には尾崎、鬼津方面の上水道事業が開始された。これにより給水人口も増加し、昭和四十六年には遠賀町の水道事業は中間市水道に合併、その給水人口は第6-77表の通り漸増、昭和五十八年度では一世帯当り年間二四三立方メートルを給水している。昭和四十九年六月には鞍手町、遠賀町水道組合も解散し、中間市水道に移管され今日に至っている。

二 消防署

1 遠賀郡消防署

 昭和四十六年に遠賀郡四町連合で遠賀郡消防組合遠賀郡消防署の設置が決定し、翌四十七年五月に遠賀町広渡休田一六三九番地に遠賀郡消防署が落成し、水巻町消防団より移転、遠賀郡の遠賀町、岡垣町、芦屋町、水巻町の四町の消防活動を担当することになった。芦屋町粟屋に分署が設置されている。

 昭和六十一年四月現在では、ポンプ車一・タンク付ポンプ車一・化学車一(予備)・救急車二・シュノーケル車一(分署)・タンク付ポンプ車一(分署)・救急車一(分署)を常備して、遠賀郡四町の災害、救急運搬に対処している。

2 遠賀村消防組

 遠賀町に於ける消防組織の結成は大正八年の「共衛会」と称する自警団の組織に始まる。計画は明治三十九年に始まる村是調査に遡るという。組織者は後の消防組頭で、当時遠賀郵便局長であった中野覚朗である。「自治警察ノ任ニ当リ、水火災防止ト警戒トニ努ム」ことを目的としていた。同年には水巻村でも遠賀郡消防義団が結成されている。

 大正十二年二月には島門村消防組が設置され、中野覚朗が組頭に就任、同人は「悪戦苦闘至難ノ消防組」と結成時のことを記している。消防組は大正十五年十二月には第二部、昭和二年に第三部、第四部と組織を拡充し、消防本来の使用を果たすことになる。

 島門村消防組創設の趣意書案は次の通りである。

 

我消防組創設趣旨
一 凡ソ世ニ寒心スベキモノ多シト雖モ火災ノ惨害ニ勝ルモノアラザルベシ。サレド尚一層恐ルベキハ無形ノ災害タル農村荒廃衰退之レナリ。住民ノ生命財産ヲ保護シ、生活ノ安定ヲ計ランニハ先ヅ災害ヲ警戒予防シ、進ンデ農村振興ノ方策ヲ樹テザルベカラズ。然ルニ農村ノ財政既ニ危殆ニ頻シ、村民亦生色ナシ。今ニシテ慮ラズンバ遂ニ収拾ノ期ヲ誤ルベシ。即チ既往現在ニ鑑ミ確手不動ノ方針ヲ定メ、村民一致シテ之レガ防禦策ヲ講スル事焦眉ノ急務ナルニ拘ハラズ村民イヅレモ自覚セズ、目前ノ小利ヲ追フニ没々トス。此侭ニ放置センガ、遂ニ家ヲ失ヒ、土地ニ追ハレ、ヤガテ村自治ヲモ破綻ニ陥ルベシ。延イテハ国家存亡ノ危機ヲモ招クニ到ルベシ。今ニシテ百年ノ計ヲ樹ツニ非ラズンバ実ニ危イ哉
顧ミテ我島門村ノ現状ハ如何。果シテ堅実ナル発展ヲナシ、村民能ク共存共栄ノ実ヲ挙ゲツツアルヤ、大ニ疑ヒナキ能ハズ。茲ニ於テ村是百年ノ計ヲ確立スル重要ナル問題トシテ消防組設置ノ急務ヲ主唱セザルヲ得ザルナリ。抑モ本村ノ戸数ハ六百九十四戸、人口三千九百六十三人ニシテ、農村部落ヨリ成リ、人口ノ増加スル事毎年八十人強、今此ノ増加率ヲ以テ将来ヲ推算スルニ四十四年目ニハ倍加スルノ情勢ナリ。生活程度ハ日ニ向上シ、衣食住費ハ年ト共ニ累加シツゝアリ。一方人口ヲ養フ生産土地ハ田畑総反別八百二十四町歩、内水田七百町歩ヲ有スレドモ、耕作路、并用水路ノ改修、耕地ノ整理基地交通機関ノ拡張ニ随ヒテ耕地反別ノ減少スルハ必然ノ勢ナリ。更ニ此反別ノ内、他町村民ノ所有ニ係ルモノ百八十町歩余ニ及ビ、年々小作米、又掛作トシテ村外ニ運ビ出スル数量ハ莫大ノ額ニ上ル而已。然モ耕地反別ノ多クハ西川ノ戸切川ヨリ流出スル砿毒水ノ侵害ヲ受ケ生産力ハ漸次減退シツゝアリ。又村外ヨリノ負債ハ約四十万円ノ巨額ニ達シ、収穫上ノ利益ノ大半ハ債務償還ニ供セラルゝ現状ナリ。加え、公課ノ負担ハ逐年激増シ、明治二十七年頃ノ豫算額ハ僅々五千三百八十九円余ニシテ、之レヲ以テ一村経済ノ全部ヲ調理セシカ、今日ニ於テハ五万七十余円、巨額ヲ示シ、之レヲ日清戦争前ニ比スレバ約十倍ノ膨張率ヲ示セリ。村政発展上ヨリ云ヘバ誠ニ驚クベキ進歩ト云フベキモ、村民ノ富力ハ却テ逆比例的ニ低下シツゝアル事実ハ寔ニ寒心スベキニアラズヤ。勿論時世ノ進運ニ伴ヒ、自治経営ニ俟ツベキ重大ナル事業續出シ、之レニ処スルニ大ナル決心ト覚語ヲ有セザルベカラズ。従ッテ課税率ノ累加ト負担ノ激増ハ免カルベカラザル国民当然ノ義務トシテ甘スベキナリ。然ルニ本村ノ如キ生産力ノ発達ハ消費力ノ激増ニ先キンジラレ、財政経済共ニ振ハズ、剰サへ土地ノ権利ハ漸ク衰へ、金融ハハ債務ノ為メ硬塞サレ、餘米ノ支出、掛作ノ流出、借金ノ利子、労働賃銀ノ支払、並ニ一般公課ノ負担、其生活上必要ナル消費ノ増加ハ其停止スル所ヲ知ラズ。然ルニ本村ハ現在財政経済ヲ支持スルニ足ルベキ財産ヲ有セズ、而モ前途ニハ水利、灌漑、耕作道路、砿毒除害、増水計劃、校舎、病院、役場増築、新築等ニ多大ノ経費ヲ要スル件目アリ。是等ハ多年ノ懸案ニ属シ、其解決処理ハ焦眉ノ急ナルガ、同時ニ他町村民ノ所有ニ属スル村内土地ノ回収、并ニ債務ノ償還ヲナシ、以テ現今苦境ヲ脱シ、将来ノ繁栄ヲ計ラントセバ、少ナリトモ金百五十万円ノ資金ヲ要スルナリ。果シテ然リトスレバ、将来ニ於ケル増加人口ハ如何ニシテ扶養スベキカ。茲ニ於テ村民ノ総動員ヲ行ヒ、挙村一致協力、此困難ナル財政経済ニ当ッテ誠心挽回策ヲ講セザルベカラズ。今ヤ仁義地ニ落チ、人情紙ヨリ薄ク、濫リニ自由ヲ唱へ、恣ニ我ヲ主張シテ蠋牛角上ノ争ヒニ汲々タリ。若シ今ニシテ自覚反省スルナクンバ隣保団結ノ美風ハ破壊セラレ、秩序ハ失ハレ、純潔ナル奉公ノ精神ハ永久ニ地ヲ拂ヒ、遂ニハ自治ノ基礎ヲ危フスルニ到ラン。
此秋ニ当リ、村民悉ク発奮シテ和衷協同一致、自ラ多年ノ悪習弊風ヲ打破シ、勤倹ノ美風ヲ馴致シ、団体的行動ノ下ニ智識精神信念ヲ養ヒ、以テ心身健全ナル発達ヲ計リ、民心更新ニ資シ、自営精神ヲ助長シ、共同事業ノ発達ニ当リ、福利ヲ増進シ、カクテ一村繁栄ノ基礎ヲ確立シ、天与ノ利益ト幸福ヲ享受セザルベカラズ。今ヤ社会ノ事物ハ駸々乎トシテ進ミ、衣食住費ノ負担ス過大ナラントスルニ当リ、時運ニ伴ツテ相当ノ福利ヲ期セザレバ、経済ノ膨張、人口ノ増加ヲ支ヘ難ク、遂ニ自治精神ノ破壊ヲ見ニ、今や村民速カニ奮起シ、年来ノ希望ヲ徹底シ、急激ナル進歩ニ伴フ災害ヲ防ギ、義勇奉公ノ精神ヲ発揮スベキナリ。
不省曩キニ進農会、青年会ヲ組織シ、着々目的事業ヲ進行セシメント欲セシガ、如何ニセン、会員年歯若ク、共ニ事ニ当ルヲ得ハ社会活動ハ有能有力ナル士ヲ要スル事多キヲ悟り、茲ニ厥起一番村内ノ思慮アル活気ニ富ム中堅ノ人士ヲ募リ、自治消防組ヲ組織スル所以ナリ。即チ将来我村ノ経営発達ヲ念トスル外、又他意ナク、速カニ是レカ救済策ヲ講ジ、自治自営ノ基ヲ拓キ、国家長久ノ基礎ヲ鞏固ニセントス。故ニ挙村一致消防精神ヲ以テ事ニ当リ、徳ヲ樹テ、身ヲ修メ、業ヲ励シ、職ニ勉メ、他ヲ導キ、献身的ニ殖産興業ヲ計リ、村民ノ利益ヲ増進シ、更ニ保険貯金ヲ共同ニ実行シテ負債ヲ償還シ、土地ノ回収ヲ計リ、新事業ヲ促進シ、以テ子孫ノ為メ永遠ノ計ヲ立テントス。斯クテ一面風紀ヲ粛正シ、徳義心ヲ涵養シ、更ニ家庭教育ノ改善、救護方法ノ確立ヲ計リ、病ニ泣キ、貧ニ飢ユトルモノ無カラシメンコトヲ期ス。真ノ慈善博愛ノ情ト正義信徳ノ念ハ村民ヲシテ平和ノ天地ニ安息セシムル所以ニシテ、又実ニ自治消防ノ目的ノ本義ナリ。
右施設ノ要綱十ケ項目ニ分チ確立セルモ、之レヲ省略ス。兎ニ角実践シテ一村保持スベキ根基ヲ開キ、大ニ面目ヲ発揮セシメン為メ、不省其任務ニ当ル。将来ノ劃策セル目的方針ニシテ一村ニ係ル生産ノ振否、経済ノ消長、住民ノ休戚思想ニ関スル重大ナル要務ナルカ故速力ニ消防部隊ノ組織ヲ完全ナラシメテ其企劃セル目的方針ニ則リ著々之レカ必成ヲ期セントスル所以ナリ。然ルニ今ヤ団体活動ヲ支持スル資財乏シク、為メニ是等ノ経営上ノ支障少ナカラズ。依テ第一番ニ一村消防協会ヲ組織シテ基金ヲ醵集シ、一面遺利ヲ図リテ餘収ヲ得、尚財力造成ノ方策ヲ企図シ、速力ニ財源基礎ヲ確固ナラシメ、村民ノ元気ヲ善導シ、其発展ノ萌芽ヲ保護シ、更ニ成育ヲ期シ、自警整善経営ニ全力ヲ傾注シテ大ニ自治改善発達ノ機運ヲ併進助長セシメ、我消防組ノ効果ヲ偉大ナラシメント欲セリ。以上
(主唱者 中野覚朗案)

 消防組は昭和二年には八幡製鉄所より委托された「遠賀川水量基準設定ノ為メ塩田砂堰工事」(仮砂堰築設工事)を完成、翌三年には今上天皇即位の大礼に際し郷土警戒、四年二月には芦屋町の大火に出動するなど郷土の防火、警備の任を担当している。その間に「消防自治根本義」が編纂されている。

 昭和四年に島門、浅木の両村が合併して遠賀村が誕生したのに伴い、島門村消防組は遠賀村消防組に改組され中野覚朗が引き続いて組頭に就任、「遠賀村自治消防要覧」を編纂している。昭和六年十一月には熊本渡鹿錬兵場で行われた天皇の親閲式に参加し、その記念に、同年十二月、別府行満寺に於いて、遠賀、水巻両村消防組小頭以上の幹部大会が行われ、記念の篇額八三枚を寄贈するとともに、「遠賀郡消防要覧」が編纂されたが、三編ともに管見に入らない。

 消防組は昭和八年二月の大日本馬匹協会主催九州各県馬匹競犂会の警戒、取締、昭和十一年五月の植木花ノ木堰堤防決潰の危機に際しての防護に出動、同年八月の中間町下大隈で発生した遠賀川渡船顚覆事故に際しての屍体捜索出動など防災、救難、警護を本務としていたが、昭和十一年九月に実施された「北九州南鮮防空演習」を機に、時局を反映して、消防組の活動も戦時色を及びて来る。その萌芽はすでに昭和六年七月に北九州で行われた国土防空防護委員による消防警戒防護戦術等の調査研究に見ることができる。

 日中戦争開戦直前の遂賀村消防組の装備としては、判明する範囲では第6-78表の通りである。

 (この項、中野覚朗氏手記による)

3 昭和十一年の防空演習

 昭和十一年九月二十七日より十月二日までの六日間に亘り、北九州を中心として「北九州南鮮防空演習」が行われた。その計画は既に昭和六年に遡ることができる。この大演習は梨本宮守正王殿下を統監とし、敵機来襲を想定し、灯火管制の徹底を主体としたものであった。梨本宮以下、伏見宮博恭・久邇宮朝融・伏見宮博義の四王殿下の西下を得、空軍も参加して行われたこの防空演習には各消防組、消防隊は中心的活動を要求されている。演習に先立って、消防組には次の令旨が通達され、心得が説かれている。蘆溝橋事件の九か月前のことであるが、その年の一月には日本はロンドン軍縮会議を正式に脱退、二月には二・二六事件が起るなど戦争への道を一途に歩み始めていた。

令旨
水火ノ災タル、社會ノ生活ヲ脅威シ産業ノ発達ヲ阻害シ、國力ヲ消殄スルコト甚タ大ナリ。之ヲ警戒シ、之ヲ防禦シ、以テ生命財産ヲ擁護スヘキ職司ニ在ル諸子ノ責任タルヤ極メテ重シ。宜シク一面ニ於テ警火思想ヲ普及徹底セシメ、火災ヲ未然ニ防過シ、一面ニ於テ施設ノ充實ヲ圖リ、消防ノ訓練ニ勵ミ、之カ改善ト発達トヲ期シ、一旦水火災厄ノ発生ニ際シテハ急遽難ニ赴キ、克ク其ノ機能ヲ発揮シテ禍害ヲ最少限度ニ止ムルニ努メ、以テ國民ヲシテ其ノ堵ニ安ンセシメムコトヲ期スベシ。
輓近ニ於ケル社會情勢ノ推移ヲ見ルニ、其ノ言動動モスレハ浮華輕佻ニ陥り、奇矯過激ニ走ルモノナシトセス。諸子ハ宜シク穏健中正ヲ旨トシ、義勇奉公ノ精神ヲ発揚シ、率先範ヲ郷閭ニ示シ、以テ國運ノ伸張ニ寄與セムコトヲ期セサルヘカラス。因リテ左ニ消防組員タル者ノ常ニ服膺シ遵守スヘキ綱領ヲ示サム。
一、國憲ヲ重ンジ、國法ニ遵ヒ忠誠報国ヲ以テ各其ノ本分トスヘシ。
一、犠牲ノ心、奉公ノ念ヲ旨トシ、終始ヲ一貫シ、一旦危急ニ際シテハ身ヲ挺シテ難ニ赴キ、其ノ事ニ従フヤ沈着ニシテ機敏、殪レテ後已ムノ覺悟アルヲ要ス。
一、規律ヲ重ンジ、克ク上司ノ指揮命令ニ服従シ、上下同僚ノ間互ニ相敬愛シ、和衷協同、彼我一體ノ實ヲ擧クルニ努ムヘシ。
一、品性ノ陶冶ニ努メ廉恥ヲ重ンシ、禮節ヲ尊ヒ、信義ヲ敦クシ、質實剛健ノ気風ヲ養ヒ、職務ノ内外ヲ問ハス其言行ハ一ニ郷閭ノ模範タルヲ期スヘシ。
一、常ニ團體的訓練ヲ怠ルコトナク、學理ノ研究、技能ノ練磨ニ努メ、以テ不断ノ力向上ヲ期スヘシ。
昭和九年五月三日

 遠賀村では、中心となる消防組は勿論、在郷軍人青年団(義勇消防隊)・国防婦人会・主婦会など村の組織を挙げて演習に参加した。正規の消防組員以外の補充部隊は第6-80表の通りであり、それ等が消防組員を助けて活躍している。

 演習は九月二十七日より十月二日迄の六日間、敵機襲来を想定し、防衛司令部の指揮の下、航空機も参加して行われた。九月二十七・八両日は予行演習、同二十九日に講評があり、同三十日より十月二日迄の三日間に亘り、第6-79表の如く、本格的な防空演習が実施された。遠賀村で、後に示す「遠賀村消防組防空演習防備計劃」が作製され、在郷軍人青年団(義勇消防隊)・国防婦人会・主婦会・女子青年団をも動員して演習に参加。浅木、島門の両小学校も演習の対象とされた。

 小学校に対しては、講演会、防空展覧会、避難演習、宣伝ビラ配布の行事が行われた。講演会は九月十七日に宇土少佐を招いて浅木小学校にて防空講演会を、翌十八日には島門小学校で実施。防空展覧会は九月二十一日に浅木校、二十五日に島門校で防空に関する児童作品展を開催、前者では六三〇点、後者では三五〇点余の図画・書方・手工・創作品等で展示された。焼夷弾投下を想定した避難演習は九月三十日に浅木校、十月一日に島門校で行われ、それぞれ六三〇名が参加。宣伝ビラ配布は両校の児童をして防空宣伝ビラを村内全戸に配布させるとともに、村内要所要所に灯火管制中の諸注意を呼びかけたポスターを掲示させている。

 遠賀村の消防関係の参加者は計画書と若干異なるが、第6-80表の通りの補充部隊の応援を得て、第6-81表の編成であった。これ等に対する要費は、防空演習費として防護団より各小隊に対して七円宛支給されているが、到底六日間を賄える額ではない。消防本部には全く予算がなかったため、村民の後援により、「消防報国の精神ヲ発揮シ」(中野組頭「実施要覧」)奉仕として行われた。消防組の中野組頭は、その「実施要覧」に、「連日連夜寝食ヲ忘レ、一意専心(中略)活躍貢献セル消防隊員ノ所過上甚ダ遺憾ニ堪ヘザルモノアル」と記してはいるが、世は既に「国家ノ為メ」がすべてに優先する時代に突入していた。

 この防空演習を機に、遠賀村消防組では、施設の充実、組員の補充、機具の整備が企図され村内一三区に対して一〇台の消防喞筒(ポンプ)を一区一台を目標に三台の購入が計画され、それとともに、少年消防隊・女子消防補助隊・消防後援隊・林野消防隊・国防消防協会等の創設準備に着手し、同年の防火デーまでに完成を期している。

 北九州南鮮防空演習に当っての「遠賀村消防組防空演習防備計劃書」は次の通りである。

昭和十一年自九月二十七日至十月二日
遠賀村消防組防空演習防備計劃書ノ一
防空演習擧行我消防組ノ責務
 今秋實施セラル昭和十一年度第十二師團管防空演習ハ九月二十七日ヨリ十月二日ニ至ル六日間ニ亘リ、畏クモ梨本宮殿下御統監ノ下ニ擧行セラル。
本演習ハ國家守護ニ関スル實地訓練デアリテ、國防上最モ喫緊ノ事ニ属シ、關係地帯防衛隊ノ訓練トシテモ、従来實施シタル演習ニ比シ、其規模ニ於テ、或ハ方法ニ於テモ格段ノ進歩ヲ来タシ居ル事ヲ自信シテ居ル。則チ擧國一致空前ノ大規模デアル。一般國民擧ツテ防空上關心ヲ持チ、所謂官民ノ施設訓練向上ヲ圖ル目的デ徹底的實戦本位ノモノトシテ眞劍ニ行ハレル。
 本演習ハ列國ノ等シク注目スル所デ、此成否ハ國際的、軍事的ニ重要デアリ、延ヒテハ國運ノ消長ニ至大ノ關係ヲ有スル大問題デアルトシテ、軍部モ民間關係各種團体一致協力、目下種々部分的施設訓練ヲ完全ニ行フ事ニ必死ノ努(力脱カ)ヲ拂ヒツゝアルハ無論夫(其)レカ中堅タリ。且ツ防空戦術中重要ナル役割ヲ担任スベキ防火消防ノ活動上、消防隊ノ責任タルヤ極メテ重大ナルヲ感奮自覺スル。防火施設ニ於テ空襲ヲ受ケタル際、續発スル火災、変災時ノ防備トシテ防空主体トスル都市ニ於テハ稍々整備シ来タレルモ、我農村落ニ於テハ村財政ノ都合之レガ整備上遺憾ノ点尠カラズ。然ルニ國家擁護ノ地位ニ立チ、又現下國勢情勢上、殊ニ防空ニ於テ最モ重要性ヲ帯ヒル我等消防隊トシテハ、此際消防機具ノ整備施設ノ充實ヲ企図スル。一面ニ於テハ家庭消防、防火防護組合、消防補助隊ノ組織等最善策ヲ講ジ、又能ク奮闘努力之レガ成功ヲ祈リ、且ツ此ノ機會ニ於テ防空智識涵養ト之等運行上誠意眞劍ニ努メ、本演習ヲシテ有動適確ニ永久的意義アラシメ、現代戦争ニ重大ナル価値ヲ與へ、其効果ヲ最大ナラシムル事ヲ期セネバナラヌ。
本演習ハ世界的多大ノ興味ト期待トヲ以テ迎ヘラレ居ル。北九州主体ノ防空大演習御統監ノ為メ、畏クモ梨本宮守正王殿下ニハ、来ル二十日午後三時東京駅御発。御附武官ニ従ヘサセラレ一路統監部所在地ナル小倉ニ向ケ御西下アラセラレル趣キ。北九州御滞在ハ約十四五日ノ御豫定デ、其間軍隊並ニ民間各防護團消防隊ノ活躍振リヲ御統監アラセラレル外ニ畏クモ伏見宮博恭王殿下、久邇宮朝融王殿下、伏見宮博義王殿下御西下遊バサレル由、其他高貴ノ方々多数御台臨アラセラレ、軍部側最高幹部、朝野、貴顕モ多数参観ノ為メ西下セラレ消防關係者亦相踵デ来場セラル。依テ關係市町村同警察官ハ勿論、消防隊ハ各種團体ト一致ノ行動ヲ取リ、最モ緊張真劍味ヲ帯ヒ、殊ニ期間中ハ大ニ護國精神ト不抜ノ勇気ヲ鼓舞発揚シ、終始従事シテ、豫期以上ノ好成績ヲ擧ゲ、防空上多大ノ効果ヲ収メント準備計劃中本演習ニ参加スル我等消防組ハ特ニ其節ヨリ豫メ指示セラレタル所アルモ、更ニ之レヲ契機トシテ前述ノ通リ此際永久的将来ニ亘リ消防ノ確實性ヲ企図シ且ツ消防防空上遺憾ナキ處置ヲ講究シテ其對策ヲ樹立シ、敵機襲来ノ災害ヲ減少セシムル。消火防護ハ勿論、非常時変ニ際スル施設訓練ノ満全ヲ期シ、其効果ヲ偉大ナラシメント欲セリ今茲ニ防空消防ノ要領並ニ将来施設ノ計劃事項左ニ概記ス
一、防空演習参加準備計劃要綱
一、今囘防空演習ノ主力主体ハ消防組員ニアリ。何レモ空襲ヲ受ケタル場合ヲ想定シテ此計劃ヲナシ、又警察、軍部ト連絡ヲ取リ、研究指導ヲ受ケ、消防消毒隊ノ動作ヲ實際的ナラシメルト共ニ、一朝有時ノ場合ニ於テ統制ヲ失ハズ、混雑ヲ来サズ、非常急変ノ際ニ於ケル応急指導ニ對スル平素ノ訓練カ如何ニ必要ナルカヲ能ク國民ニ自覺ト緊張トヲ促カス。其眞意ヲ理解セシメテ國民的消防訓練ヲ進ムルコト最モ緊要ナリトノ意味ニ於テ、實際戦時ニ等シク、眞劍ニ能リ之レカ最善ヲ盡スベク進退行動ヲ取ラネバナラヌ。
一、各班部下消防組員ニ防空消防智識ヲ涵養スル為メ、演習開始ニ先チテ、豫メ本計画ノ訓練趣旨ヲ一同ニ示達シ、又区内住民一般ニモ防空ト消火並ニ毒瓦斯防止消毒等其他各種災害豫防ニ關スル必要事項ヲ掲示宣傳、講話ヲナシ、之レカ観念普及徹底ニ努メ、其目的達成ヲ期セネバナラヌ。
一、戦時空襲ハ國民恐怖錯乱セシメ、唯一ノ方法ハ火デアル無数投下サルベキ焼夷弾ノ火災ヲ如何ニ処理シ、防止スルカゞ最モ重要ノ問題デアル。之レカ方法ヲ誤ランカ、忽チ火ノ海ト化シ遂ニ収拾スベカラザル焦熱攪乱地獄ヲ惹起スルニ至ルノデ之等續発火災ニ處スル方法トシテ我消防組ハ實際可能ナルベキ実質的細胞的家庭消防組織ノ下二五人以上ノ小組合ヲ創設シテ之レ等人々相互應援、協力一致活動セシメル最善策トシテ計劃ヲ樹テ、各戸毎ニ火災ニ處スル器具ヲ準備セシメ、早期ニ発見シ、早々之レヲ處理スル續発火災ヲ實際ニ消シ得ル方法ニ戦キ消防組指導ノ下ニ訓練スルト共ニ火ト戦フ精神ト火ニ勝ツノ気魄トヲ以テ其動作ヲ迅速適切ニ指示シ一層實際的ナラシメネバナラヌ
一、空襲ヲ受ケタル時消防機關ガ其活動ノ中心トナルベキハ申ス迄モナケレドモ、現在ノ消防機関中ニ多数在郷軍人ヲ包含シテ居ルヲ以テ、戦時ノ場合、充員召集ヲ受ケタル消防勤務員ノ補充ハ直チニ實施セラルゝ様一ハ、消防能力ノ減退セザル様、此際女子消防隊少年消防隊消防應援団ヲ組織シ、正規消防機関ト連繋シ、又其訓練ヲ實際的ニ演練シ実際戦時ノ場合二年三年モ戦争ノ継續スルモノト想定シ、防空消防機関ノ運行上施設訓練ノ適確ヲ期セント欲シ、本演習ヨリ協同實施シ、其動作ヲ一層實際的ニ絶大ノ有意義アラシメント欲シ、演習ノ指導計劃ヲ樹テ、一般ノ訓練ヲ進メ、国民消防ヲ現實ナラシメネバナラヌ。
一、区域内大字廣渡、老良、若松、島津以上四区ハ公設消防組ノ設備ナキハ時局柄甚ダ遺憾ナルモ、血気ニ燃ヘ青春ニ富ム壮青年ハ従来義勇消防隊トシテ防空演習時ハ消防補助機関トシテ参加セルカ之等ノ規律統制ヲ完全ナラシムル為メ、此機會本部隊組織変更ト同時ニ、公設消防員ニ引直シ、所要器具ヲ備ヘシムルト同時ニ施設ノ充實ヲ企図シ其訓練ヲ統一セシメネバナラヌ。
一、今囘ノ防空演習ハ燈火管制總テノ計劃ヤ、準備ヲ整へ又、能ク防護ニ関スル方法ヲ体得セシメ、實施ニ際シテハ官民一致真剣トナリ、尚其衝ニ当ルヤ沈着冷静秩序正シク指導スルト共ニ、自己修養訓練ノ範ヲ示サネバナラヌ。
一、本村全土ヲ六地域ヲ区分シ、防火・防護事務ノ指揮統一ヲ圖ルコトニ制定セラルモ其實際ノ防火防護準備及實施ニ関シテノ活動ハ第一消防中心トシテ各種団体ト連絡協調ニ依リ業務ヲ分担シ防火消防ノ活動ヲ円滑容易ナラシメネバナラヌ。
 二、防火防該区域
遠賀村一円トシ六区域ニ分チ受持防火消防分担区域トス
 三、防空演習消防参加部隊編成詰所設置
一、防火消防部隊ノ組織
右六区域ニ各一小隊ヲ置キ、消防補四隊ヲ包括セシム。其部隊編成及監督指揮者氏名左ノ如シ
此ニ大字浅木、老良、別府、廣渡、若松、島津、今古賀、松の本、八ケ所ニハ分遣隊ヲ置ク分遣隊長ハ所属小隊長ニ於テ適当人物ヲ選定シ補町員ヲ参加セシメ混成部隊ヲ編成ス詰所ハ真区青年会場又適当ノ所ニ置クモノトス
詰所ノ位置ハ標識ヲ以テ示ス但シ夜間提灯ヲ屋内ニ吊シ光ノ洩レザル事相当ノ設備ヲナスモノトス
 四、防空演習参加團体及其任務
一、非常戦時ノ場合ハ一員一團体ノミニテハ到底之レヲ防止シ、之レヲ豫防スルコト至難ナリ。依テ特ニ各種団体モ参加セシメ、全村総動員ノ形ニ於テ訓練ヲナス其参加団体ノ任務左ノ如シ。
一、少年團(家庭警防、幼児扶助、傳令連絡。
一、青年團(物資配給、災害防止、避難者保護、警報傳令連絡。
一、在郷軍人團(交通整理、秩序維持、災害防止其他。
一、国防婦人会主婦会(糧食調達、家庭消防、燈火管制、被服修理其他。
一、處女会女子消防隊(防火消防援助、糧食焚出、治療、救護。
一、宗教家教育家(防空防火思想普及、宣伝報導、他所連絡。
一、正規消防隊(災害防止、防火消毒、消防警戒、人命救助、避難援助、財産保護、交通整理、風俗取締其他。
一、補助消防隊(正規消防隊業務援助。
一、各消防防護团体ハ各防火地区ニ於ケル消防小隊長(防護分团長)ニ於テ該管内統轄指揮スルモノトス。
一、各班ハ相互ニ連絡ヲ密ニシテ防火防護ノ萬全ヲ圖ルコト。殊ニ本部ト連絡ヲ圖ル為メ警報傅令一名ヲ派スルコト。但シ、傳令ハ自転車ヲ携用スルモノトス。
一、詰所ハ空襲警報ヨリ同解除迄全員出動ナシ、其他ハ便宜交代勤務スルモノトス。
一、前表ニ正トアルハ正規消防組ニシテ、補トアルハ消防補助隊ニシテ、小隊長ニ於テ適宜配置スルモノトス。
一、各消防部隊ハ其受持区域ノ廣狭、並ニ戸口ノ密粗ニヨリ組員数モ又一様ナラザルモノアルヲ以テ、補助隊ヲ参加セシメ、其ヲ係事務上支障ナキ樣独自ニ編成シ之レ力實施ニ当リ、其部隊毎ニ庶務、警報、交通整理、消防消毒、警護、救護、工作、配給、避難所管理、以上各班ニ班長ヲ置キ、分科的専任事務ニ従事セシム。其任務ハ左ノ如シ。
一、庶務班
 1、防空消防演習ノ記録ニ干スル件。
 2、軍部、警察、其他官公署其他トノ連絡。
 3、防空消防思想普及宣伝講演ニ干スル件。
 4、見學者指導、諸報告其他庶務ニ干スル件。
 各班ニ於テハ会計経理ヲ業務スルモ妨ナシ。
一、警報班
 1、防空演習諸警報ノ傳達及燈火管制ノ指導・監視ニ任シ又傳令勤務ニ服スル為メ各小隊ヨリ一名本部ニ詰メシムルコト。
 4、警報通信ハ團体ヲシテ敏活ニ完全ナラシム重要性ニ鑑ミ、往復夜間或ハ現場通信ノ徹底シタル訓練ニ努メ、有事ニ直面シテ任務断行ニ遺憾ナキヲ期スルコト。
 2、警報ヲ受領シタルトキハ之レヲ各警報係ニ傳達ス。連絡係ハ即時迅速明確ニ諸警報干係方面ニ警報ニテ傳報スルモノトス。
 3、通報係ハ一定ノ区域内ヲ、自轉車ニテ絶へズ偵察ニ当リ、其状況ヲ本部小隊本部ニ通報スルモノトス。
一、交通整理班
 班員ハ警察署長ノ指揮ニ従ヒ担任区域内所定ノ位置ニ組員ヲ配置シ、主トシテ左側通行ノ例行ニ努メ、又警護班ト互ニ連携シ、交通ノ整理保安維持ニ任ジ、事故防止ニ努ムルコト。
 2、交通係ハ一ケ所二名以上ヲ以テ編成シ、左記場所外其部ニ於テ必要ト認ムルケ所ニハ適宜配置シ指揮ヲ俟チ行動ヲ開始シ、交通安全ト円滑ヲ期スルコト。
 3、遠賀川橋西詰、遠賀川鉄橋西川踏切、遠賀川郵便局前遠賀川線前、浅木鉄道踏切、国道今古賀橋、千代丸鉄道踏切。
以上
一、警護班
 班員ハ其筋ノ指揮ニ従ヒ、火災・盗難・豫防警戒・風紀取締・燈火管制ノ監視指導、其他左記重要物件ノ警護、又避難所管理・保護諸般ノ警備防護ニ任シ、特ニ火災ノ場合持出物品等ノ監視警戒ニ当リ、本部各班ト連絡ヲ密ニシ、一般ノ安寧秩序ヲ保持スルコト。
 2、遠賀村ニ於ケル主要防護物件
 3、警護係ハ十戸乃至十五戸二一名ノ割合ヲ以テ充テ、而シテ二人一組トシ、三十戸乃至四十戸区域ヲ以テ一組ノ警戒区域トシテ其受持小地区ヲ巡邏シ、一面火気使用ノ場所等ヲ巡視警防スルモノトス。
 4、夜間警戒ハ班内ニ於テハ主要ト認ムル場所ニ配置シ、警察官ト協力シテ盗難予防ニ従事シ、見張警戒係ハ主トシテ各班担任区域内容易ニ展望シ得ル高所ニ之レヲ配置シ、班内全部ヲ監視スルモノトス。
 5、敵弾投下ノ瞬間ニ於テハ附近ノ防火組合員ヲ指揮シテ消火ニ活動スルモノニシテ、常ニ指導教養ニ任シ、理想的統制訓練ニ当ルモノトス。
一、工作班
班員中技術ノ心得アルモノヲ以テ編成シ電気通信施設交通路ノ息急修理其他一般ノ工作ニ任スルモノトス。
一、消火班
消火班ハ消火ニ干スル準備、並ニ行動要領ハ平時ノ通リ通報ニ依リ出火アルヲ認知セバ直ニ消防機具、消火剤、消毒剤ヲ携帯出場シ消防ニ当リ、消毒班ヲ援助スルモノトス。
但シ爆撃ニヨル発火源ハ随所ニ多数発生スルヲ以テ特別ノ場合ノ外他区ニ赴援セザルモノトス。
一、消毒班
班員ハ救護班ト協調シテ危険地ヲ偵察標示シ、応急消毒ニ任スルモノトス。
班内ニ瓦斯検知係、消毒実施係ニ区分シ、瓦斯検知係ハ空襲ニ對シ、受持区域ヲ巡視シ、投下瓦斯ノ種類、及撒毒区域ヲ偵察標示シテ消毒班通知ス。消毒係ハ要点ニ準備シアル消毒材料ヲ携帯シ消毒ニ任ス。火災ノミニアリテハ消火班ヲ援助スルモノトス。
一、救護班
諸班員ハ発火ニ際シ消防隊ノ主力ニ先行シ防毒班ト協力シテ、染毒並ニ負傷者ノ救護及収容ニ従事スルモノトス。
但シ、空襲ニ当リ毒瓦斯ノ所在檢知ニ任シ、所要事項ヲ消毒班ニ通報シ、之レカ對應緊及患者ノ手当ヲ溓シ、又各班ノ活動ヲ援助スルモノトス。
一、避難所管理班
各班ト連繋シテ、救護ヲナシ、出入者ノ誘導、及取締業務ノ統制ニ任ジ内外ノ秩序ヲ保持スルモノトス。
但シ、避難所ハ真ニ必要ト認ムル老、幼婦女子ノ他ハ自宅ニ残留セシメ随時防護勤務ニ服スルモノトス。
一、給与班
配給品ノ購入、給与保管、及会計経理ニ関スル事務ニ任スルモノトス。以上各班各種分担員ハ主トシテ自己ノ分担事務ニ努力スベキモ相互ニ連絡ヲ密ニシ共助スルモノトス。
各班長ハ各一囘演習終リタル後、毎々各所属小隊長ニ事故ノ有無並ニ燈火管制成績ヲ口頭報告スルモノトス
小隊長ハ報告書ヲ纏メ總司令本部ニ其状況成績ヲ報告スルモノトス。
 五、消防組員服務心得
一、本演習ノ成否ハ對外的重大ナル干係アルヲ以テ實戦モ変リナク全ク眞劍ニ行ハレル故防火第一線ニ立ツベキ消防組員ハ勿論幹部員以テ多大ノ注意ト研究訓練ヲ正確ニ實行シ防火消防事務上遺憾ナキヲ期スルコト。
一、本演習ハ戦時ニ於ケル國民ノ實務訓練ナルヲ一般村民ニ能ク其趣旨ヲ普及徹底セシメテ大ニ自警精神ヲ喚起シ、又能ク完全ニ火災・盗難其他事故ノ発生ヲ防止鎮壓ニ努メ尚擧村ノ静平ヲ保持スル為メ各種團体ト連絡ヲ密ニシ特別警戒防護ニ従事スルニ最慎ノ注意ヲ以テスルコト。
一、消防幹部ハ士気中心ナルカ故、業務ニ率先躬行常ニ一般ノ儀表タルニ努メ、自ラ進ンデ至難ノ極所ニ立チテ勇敢沈着以テ班員ヲ卒ヒ斃レテ後己ム犠牲的精神ノ下ニ行動スルコト。
一、消防組員ハ特ニ規律ヲ嚴守シ、品行ヲ愼シ、上司ノ指揮命令ニハ絶体服従シ、進退ニ規矩アリ統一セル、併カモ旺盛士気ノ籠レル緊張真劍味ヲ帯ヒル訓練動作ト沈着冷静秩序正シキ勤務ニ努力スルコト。
一、消防組員ハ自警奉仕ヲ旨トシテ、職務ニ忠實ナルハ勿論、決シテ組員外ノモノニ對シ粗暴又傲漫ノ言語擧動ナキコト。
一、服務中ハ飲酒ヲ禁シ、喫煙ハ定メノ場所ノ外吸殻ヲ放棄セザルコト。
一、火災其他事変ノ時ハ命令一下神速機敏受持器具ヲ携帯シ、現場ニ隘シ專ラ其分担ノ職務ニ従事シ、決シテ相互喧嘩ニ、渉ラザル様各班ヲ保チ協同防禦鎮壓ニ最善ヲ尽ス事ニ齟齬ナキヲ期スルコト。
一、組員ハ其與ヘラレタル責任ノ範圍ニ於テハ最モ機敏ニ處置シ、共能率ヲ揚クルニ努メ、時ニ職任ノ犠牲トナル覺悟ヲ有シ、其任務ヲ完フスルモ全般ノ作業カ完結スル直ハ任意ニ行動スルコトヲ深ク慎ムコト。
一、信号係ハ上司ノ命ヲ受ケザレバ打信スルコトヲ得ズ、但シ、急速ヲ要スル場合ハ緊急行爲トシテ打信スルモ妨ナシ。但シ建物其他物件ヲ破壊スルトキハ警察官ノ命ヲ受クルコト。
一、組員ハ非番中ト雖モ何時ニテモ出動シ得ル様準備シ置キ、非常召集アリタル場合ハ制規ノ服装ヲ為シ迅速ニ指定ノ場所ニ駆ケ付ケ指揮ヲ受ケ、其責務遂行ニ努ムルコト。
一、喞筒並ニ器具ハ詰所定メノ位置ニ整頓シ、常ニ非常出動準備ヲナシ置クコト。尚演習実施前、又ハ期間中ハ特ニ組員服装機具ノ點檢ヲ行ヒ、使用後ハ必ズ手入ヲ行ヒ活動準備ニ遺憾ナキヲ期スルコト。
但シ、各区ニ備ヘアル消火器ハ演習前検査ヲナスト同時ニ修理又ハ手入ヲ受持担任者ニ通告シ、完全ニ準備セシメ置クコト。
一、組員ハ左ノ事項ヲ見聞シタルトキハ、本部又ハ警察官ニ速報シ指揮ヲ待ツベシ。
一、出火アリタルトキ 二、精神病者其他注意ヲ要スルト認ムル者ニシテ演習地方ニ立廻リタルトキ 三、不穏ナル流言又ハ印刷物若クバ楽書等アリタルトキ 四、盗難其他ノ犯罪アリタルトキ 五、墜落又ハ不時着陸飛行機アリタルトキ 六、其他必要アリタルトキ
一、各詰所ニハ出場日誌、記録日誌ヲ備へ、出場報告書ハ毎朝八時迄記録ニハ其日ノ事故有無ヲ記入スルコト。其他必要ナル事項ハ次番ノ者ニ申送ルベシ。
一、今回ノ防空演習ヲ記念セシガ為メ、防火・防空宣傳標語、及ヒ自由画ヲ各小隊ニ募集シ、詰所又ハ要所ニ掲揚シ、其観念普及徹底ヲ期スルコト
叙上ノ通り今回ノ防空演習ノ主力主体ハ消防組ニアリ。故ニ空襲ヲ受ケタル火災、其他災害ヲ防禦鎮壓、之レヲ軽減スル職司ニアル吾人消防組員ハ須カラク義勇奉公ノ犠牲的精神ノ涵養ト旺盛ナル意気更張ヲ要スルハ勿論、相互連絡諧和シ、加之規律訓練、機具ノ使用習練、敏捷ノ活動、之レヲ目標トシ、使命達成ニ努力スベキナリ。本演習ハ稀有ノ事ナリ。殊ニ消防組員ハ國家警察事務ニ参與スル重大ナル責任ヲ有スルヲ以テ、常ニ廉潔ヲ旨トシ、名譽ヲ重ンジ、苟モ國家救護ノ重責ヲ皆負フテ、我カ郷土ヲ護ル中堅團体トシテ大使命ヲ有スル。消防組員ハ直接災害防止ノ機関タル職司ニ遺憾ナキヲ期スルハ無論、之レカ実施ニ当り極度ノ緊張ト周到ノ注意ニヨリ、部隊モ秩序整然動作活溌壮然トシテ益々消防威力熱誠ト真技能ヲ広ク一般ニ示シ、以テ消防ニ対スル社会人士ノ観念ヲ鼓吹シ、防空消防思想ノ向上ヲ計リ、負ヘル使命ヲ完全ニ果スト共ニ、地方郷黨ノ先覺者トナリ、之レヲ卒ヒ、之レヲ導キ、所謂國民消防ノ實観ヲ期シ、以テ本消防ノ眞価ヲ発揚シ、防空消防上絶大ノ意義アラシメンコトヲ。
 昭和十一年九月
         組頭中野覺朗

三 遠賀町商工会

 遠賀町に於ける商工会は大正八年の遠賀川商工会の結成に始まる。その目的は「社会ノ進運ニ伴フ施設ヲ為シ、薄利多売主義ヲ目標トシテ、稍々モスレバ衰頽セントスル殷賑ヲ防止スルハ勿論、共存共栄ノ実ヲ挙ゲシムル様指導シ、殊ニ店舗ノ地上ゲ、道路ノ改築ハ緊急ナルモノトシテ之レガ促進ヲ謀」るとされている。会長は中野覚朗氏である(中野覚朗氏手記)。この商工会は何年まで存続したかは明確ではないが、遠賀駅周辺の旅館や商店を対象としたものであろうことは想像に難くない。明治四十年五月に遠賀川駅が旧停車場より現在の位置に移転し、翌年六月には室木線の開通をみるなど駅周辺が交通の要となって来たため、旅館・酒店・日用雑貨店等が出現したことによる。

 昭和十年に虫生津地区に金丸炭坑が開坑し、数戸の商工業者が開業したが組織化には至っていない。第二次世界大戦の激化に伴い、統制経済が進み、配給制度がしかれ、物資の流通が不自由化したため、昭和十八年頃に森田豊氏を会長とする任意商工会が誕生、共同で統制経済に対処し、苦難の打開をはかることにした。昭和二十年八月の終戦を機に遠賀川駅前も徐々に変貌をとげる。昭和二十一年には遠賀川駅に特別待合室(RTO)が設置され、翌年三月には占領軍用として芦屋線が開通し、二十二年末には駅舎も全面改築をみる。それに対応して任意商工会も、会長宅を事務所として、盆暮の大売出をはじめ、世話活動を開始し、戦後のインフレと闇経済を乗り切り、商工活動の輪を全村に広げていった。

 昭和二十八年六月の豪雨により、植木町で遠賀川の堤防が決壊し、遠賀村はそのほとんどが水没し、大被害を蒙った。その復旧のため、当時駅前にて材木店を開業の三原朝雄氏を中心にして協同組合を設立、三原氏を理事長に推し、出資一口五〇〇〇円として、組合員一〇〇余名を得た。当初の組合の活動は水害よりの復旧に重点が置かれ、商工中金、国民公庫、農協等に依頼して四五〇〇万円の資金を確保し、店舗の改装、機械器具の購入をはかり、水害よりの再建に努めた。

 昭和三十三年四月に「中小企業団体の組織に関する法律」が施行され、商工組合も法人となる。遠賀村の商工会は昭和三十六年七月に認可を受け、取りあえず事務所を三原朝雄氏宅に置き、職員二名で発足した。当初の年間予算は一〇〇万円であり、二名の人件費が大半を占めていた。会長三原朝雄、副会長竹内多一郎、柴田貫蔵、会員数は約一五〇名、年間会費は一〇〇〇円であった。

 昭和三十九年四月一日の遠賀町の発足は商工会のイメージアップをもたらし、商工会も遠賀町商工会と改称した。商工会の活動も広がり、その存在を一般にも示し始める。昭和四十二年八月五日には遠賀町と共催、夕刊フクニチ後援にて花火大会を開催。これは二年後には会場の新町地区が宅地造成され、住宅地となったため中止されたが、四十五年八月よりは町の年中行事の一つとして夏まつりを開始した。商工会青年部と遠賀町教育委員会が共催して、全町挙げての盆踊り大会を公民館対抗で行い、第一回には一三チームが参加した。青年部は昭和四十二年に県下各商工会とともに、後継者育成の趣旨より、青年部、婦人部設置の気運が高まり、当町も早速結成されたもので、初代の青年部長には小川聡、婦人部長には柴田光子が就任した。

 昭和四十二年より駅前住宅団地(現新町)の造成が急ピッチで進められ、駅前も様相を変えてきた。商工会でも事務所建設が企図され、新町に約三〇坪を確保し、商工会館建設に着手した。昭和四十四年七月十日着工、九月三十日竣工、十月十八日落成式を挙行した。総工費は五六〇万円であった。会館落成を祝して、「町を明るくする運動」の一環として、防犯街路灯を二十数基設置した。青年部も町内電話帳を作製し、各家庭に配布した。

 会館落成を機に商工会々員の加入も増加し、事務量も増したため、事務局も四十年以来の三名より四名に増員された。四十五年五月には役員改選が行われ、木野国繁氏が二代目会長に就任する。

 昭和五十年代に入り、遠賀町の住宅誘致が進み、ダイヤニュータウンや東和苑が誕生、人口の増加に伴い、五十二年十二月には駅前商店街にユニードマート、五十三年八月には浅木東和苑にワンストップショッピングとして遠賀ショッピングタウンが開店し、在来店をも刺戟し、地区の活性化に拍車をかけている。昭和五十四年度よりは指導事業、一般事業ともに事務量が増加したため、国・県の助成により指導員を一名増員、五名で事務局を構成、更に国税局の指導により税務相談所を設置、専担税理士を配置して税務指導を開始した。税務指導は会員のみならず、遠賀町一般町民にも開放し、相談を受け付けている。

 商工会では第6-82表の通り会員数も漸増し、商工会館が研修の場としては狭隘さを感じるようになったので、昭和五十六年の通常総会に於いて新商工会館の建設計画の承認を得、五十七年十一月着工、五十八年三月末日竣工、同五月十一日落成式の運びで、遠賀町今古賀八九の一に鉄骨造二階建、延三六〇平方メートルの商工会館を新築した。総工費は五、八〇〇万円である。資金の内訳は国・県補助金二、〇〇〇万円、町助成金二、五〇〇万円、特別寄附金六〇〇万円、会員寄附金七〇〇万円である。

 商工会の予算は昭和五十年代には既に一、〇〇〇万円を超えているが、同六十年度の収支予算は第6-83表の通りであり、三、〇〇〇万円に届こうとしている。六十年末現在の組織は第6-84表の通りである。

四 その他の施設

1 老人憩の家

遠賀町大字別府三一一三-二番地
敷地の総面積 六三五五・八九平方メートル
建物(鉄筋コンクリート) 四九〇・〇〇平方メートル
定員 六〇名
昭和四十九年三月三十日落成
工事費    四八、五一五、一〇〇円
内県費補助金 一、六六六、〇〇〇円
利用時間
毎日午前九時~午後五時
(但十一月一日から三月末までは
午前十時~午後四時)

 利用者は、町の発行する利用証所有者を主体とする

2保育所

 遠賀町内には、今古賀に遠賀川保育園、鬼津に山びこ保育園、浅木に南部保育園の三つの施設があるが、いずれも社会福祉法人の経営で、町の措置依頼にて保育事業を行っている。

 その概要は、下表のとおりである。

3公営住宅

 町営住宅は、総数六二戸で虫生津団地一〇戸、木守、道管、別府各六戸、島津二戸西町三二戸でいずれも第二種住宅である。

4都市公園

 子供広場、境内地公園、および都市公園は次の通りである。

5町営遠賀霊園

 遠賀町大字虫生津字左山一七一四-一他に造成された西日本最大の公園墓地で、遠賀町が経営管理に当たる町営墓地。墓地は普通墓地A(和型)・普通墓地B(洋型)・普通墓地C(和型)芝生墓地・自由墓地に分画されており、六十一年四月現在の総区画は第6-86表の通りである。

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