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遠賀町誌 第七編 信仰と生活 第一章 明治維新の宗教政策

ページID:0026917 更新日:2023年6月23日更新 印刷ページ表示

第七編 信仰と生活 第一章 明治維新の宗教政策 [PDFファイル/1.27MB]


 明治維新における宗教政策の変革をみるとき、その軸となっているものは、神道国教化政策と神仏分離であろう。

 維新政府の大理想は「王政復古」である。この復古思想は単に、従来の武家政権を倒し、天皇親政の昔に復すという意図のみでなく復古神道に基づく祭政一致の考えでもあった。

 慶応四年(一八六八)三月十三日太政官布告を以って「祭政一致の御制度の回復と神祇官の再興」を明示し、祭政一致の神権政治は推進されていった。

 当時、神官たちの喜びは大なるものがあった。上野文書の中に次の書簡がある。

  副啓
皇典開化固陋先生連も活眼ヲ開シ㫖被仰告、殊ゝ愉快此事ニ御座候、いつれ吉村氏えも傳達可仕候太政府も祭政御一途の趣意ニて左の通り相成名分の確立雀躍此事ニ御座候。
        三条右大臣
兼神祇伯宣教使長官
        近衛忠房
伊勢神主
其外諸官員黜陟は愚老え申越候也。

第一節 神仏分離

 先きに、第五編第八章でも触れている通り、慶応四年(一八六八)三月十七日、社僧還俗令が告示され、諸社に対して、僧形にて、別当、或いは、社僧などといって奉仕しているものは還俗して神官となり、浄衣で神勤させるように通達された。神仏習合の状態を廃し、神社と寺院を明確に区分する神仏分離の政策である。遠賀地方に於ける神仏分離と神道立国に関する事例を「年暦算」に次の通り見ることができる。

(慶応四年明治元年)
朝廷御宸翰之趣、郡町浦迄御達ニ相成、大庄屋村ゝニ入込読達し、尚又宰相様(黒田長溥)より御達しも読聞候也(中略)
神社是迠天台・真言受持之寺院御指留ニ相成、専唯一神道ニ相成候御達し之事。但シ、天台・真言社僧還俗致し、社家ニ相成との事也。山伏しも宮受持衆ハ社家に相成由。
真言并修験共ゝ神社懸りハ皆社家ニ相成候との朝廷御触達相成、宰府、筥崎、其外両市中郡ゝニ至迠、両部之寺院皆社家ニ被仰付候。宮社無之寺院ハ是迠之通也。
高蔵神傳院、閏四月福岡御呼出ニ而高蔵宮神職ニ被仰付、改名ニ相成、菟田縫之助と改メ、是迠之寺号絶し相成候。
芦屋祇園社千光院も高倉同様社家に相成、寺内ニ八十八ケ所有之処、同町禅寿寺境内ニ移しニ相成。
宝満山ハ社家・修験二ツニ分ル。座主ハ藤井主鈴と御改名、五十人扶持下被置。其外九坊社家ニ被相成、十三坊ハ是迄通り修験ニ而講堂御受持也とそ。在ゝニ有之宝満下ゝ山伏は社家ニ成、桜井支配ニ付も有り、是迄之通宝満下ニ付も有り。

(明治二年)
四月三日宝満宮峯入。吉木村勝業寺御止宿有之候。此節ハ御一新ニ付、山中九坊社家、十三坊是迄通修験中、此節国家安全臨時之峯入修行也。
英彦山唯一神道ニ相成、御座主御改名高千穂と、当村宿坊知妙坊は大神左近と改名、秀学坊ハ香月平学卜改ム。当二月十五日御祭り三月十五日に相延、神道之御祭礼執行ニ有之候。

(明治三年)
宝満山去ゝ年九坊社家ニ相成、十三坊是迠之通り修験ニ有之分、当年より不残社家ニ相成、此辺ニ而も尾崎・戸切・波津・芦屋・山鹿之山伏衆、皆社家ニ相成られ候。神社受持無之分は御国中ニ而少し修験山伏残り候由ニ候。

 慶応四年(一八六八)三月二十八日には神仏分離令(神仏判然令)が告示される。これは第五編で述べている通り、今まで権現・牛頭天王の類等仏教色のみられる神号や社名を改称させ、或いはこれまで仏像を御神体としていたものや、本地仏として仏像を社前に掲げていたもの、或いは鰐口・梵鐘・仏具等仏教関係の品々を社域外に撤去せしめよというものである。

 この神仏分離令で、これまで別当・社僧の下位にあったもの達は、好期到来とばかり、仏像・仏具・経巻などを破毀し、焼却するなどの狼藉をきわめた者も多かったという。

 本町における神仏分離の状態などを記せるものはないが、今日の景観でみる限りに於ては、浅木神社大楠の附近に、素朴な線刻の石仏が発掘されたが、当時土を覆ひ隠蔽されたものと思われる。

 また、当時の社域外撤去の難をのがれて、社域内に同居している仏像・仏具については

一、別府今泉神社々域内にある観音堂、立像
一、木守井手神社々域内にある利生院及地蔵像
一、広渡八剱神社境内の弥勒菩薩石像

 前述の如く、当地に於ては、廃仏の難もなく、むしろ神社と仏像が共存されていることは幸いであった。

 神仏分離令にはじまる廃仏毀釈のうごきは、明治三~四年(一八七〇―七一)には絶頂に達し、神道国教化政策の変転に大きな影響を及ぼした。

 当地方の廃仏運動の穏便さに比し、京都の某農村部では、路傍の地蔵等の石像をこわし、一か所に集めて石材として利用したり、小学校の新築に、付近の石地蔵を集めて土台石や便所の踏み台に用いた。児童が罰をおそれて便所を使用しないので、教師自身石地蔵の上で用を足してみせ、仏罰が当らないと、実地教育したという等、各地に於て、廃仏毀釈運動が拡大されたことを物語っている。

 明治維新政府の宗教政策は神道国教化を目ざし、その後更に進み、次々と重要施策が実施された。

 政府は分離令政策実現のため、しばしば寺院明細書上帳の提出を明治元年十二月の布達で、以後明治五年八月に至るまで四度にわたり、次々と新しい項目の提出を命じている。これは今迄の大本山管轄下から離れて、政府の単位である府藩を通じての寺院統制をめざしたものである。

 明治二年正月十八日には寺院明細帳の具体的細目、つまり寺院名・本寺・住職名・所化人数・子僧人数・朱印地・除地・高反別などである。しかも提出期限を「当月廿五日迠宗旨寺号其外巨細相認差出候様」と、一週間に限っていることに注目したい。

 このとき同時に村鎮守についても、神名・除地・末社などの書上げを命じている。

 明治四年正月五日には「社寺領上知令」(知行権返上)布告をした。これは社寺の境内地を除く外は、すべて没収を原則とする方針からである。例えば、旧藩主などから寄附米・寄附金を得ていたものも明治四年を境として禁止している。例外として社寺が直作するか、或いは小作に出している土地のみは所有を許される。但し年貢・諸役を農民と同様に支払うことが条件であった。従って、これまで所有していた年貢のかからない朱印地・除地を完全に否定されたことは、社寺にとって経済的に大きな痛手であった。そこで俄作りの農民が続出したことと思われる。

 「年暦算」に、「明治四年」には「諸宗共ニ小寺廃地ニて古本寺に合寺相成との御触之事」「国ゝ一統、神武天皇拝シ奉候事。朝庭より御触達し有之、三月十一日ニ拝し奉る様なれ共、此辺四月二十一日ニ村ゝ氏神境内ニ奉幣・御酒・御供相備、社官御祓村中人別遙ニ拝し奉ル事。掛巻モ賢キ神武天皇御前ヲ遙ニ拝シ奉ル。筑前遠賀ノ郡ノ鬼津之郷よりと唱ヘル也。東シ方ニ向ふ。是より毎年也」とある。

 「明治五年壬申」の項にも、「社人衆弥廃せられ、一触ニ惣社相立、当触(虫生津)ハ高倉宮神主を祠官と云、青柳より被参、其比ニ祠掌三人相立村ゝ之神事を兼ル。底井野佐野氏、今古賀松本氏、高倉之安部氏也」「中間触惣社ハ浅木宮、祠官同所、祠掌ハ神武、朳り・岩瀬三人也。嶌触ハ山鹿狩尾社、祠官ハ二村、祠掌ハ黒崎ニ二人、蜑住也」「太宰府大鳥居西高辻と云、祢宜官と称ス。副祢宜ハ高家宮本院是を権祢宜、其下を祠掌八人とか也。諸寺院蓄髪、肉食妻帯御免、常服平人同様、寺役の節ハ衣着用之事」「宮寺境内、其外無税地新竿入、村ゝ費地調子、秋反別壱作・稲作等調へ有之」「諸宗寺住持、俗人同様之名元ニ相成候事」と見へる。「明治六年」の項には「是迠之祠官、祠掌廃しニ成、吉木在住海妻甘蔵殿、当区祠官祠掌ハ底井野佐野氏也。中間、本城之両区も是迄の社司相替る也」と記している。

雑宗の廃止

 祭政一致を標榜し、惟神の大道を宣揚する維新の政策は、神仏分離の断行に続き、諸雑の宗教廃止措置をとった。明治三年閏十月十日天社神道(混淆宗教)の布教禁止されたのをはじめ、同十月十四日には回国修行の六十六部の廃止、同十月二十八日普化宗(虚無僧による禅宗一派)廃止などである。修験宗も本山(園城寺派)・当山(醍醐寺派)・羽黒(出羽三山派)共、従来の本寺所轄のまま天台・真言両宗のうちへ帰入された。本山派・羽黒派は天台宗へ、当山派は真言宗に帰属することになった。

第二節 祠堂と社格制度

一 無檀無住寺院

 明治六年六月十二日「無檀無住寺院取調書」の県令布達により、その提出を命ぜられている。提出にあたっては、兼帯寺の住職と村役人が連署し、管理不明確な寺については、隣寺・組寺がその責任を持つことなど細部にわたり規定してある。その明細書作成の目的が無檀無住寺院(坊・庵・堂などの如く、檀家がなく僧侶が常住しない寺院)の廃止にあったことを明確にしている。

 これら小堂宇は江戸時代以来、村々には多数存在し、村落における共同体の紐帯の場、あるいは現世利益の祈禱を行なう流動的な宗教者の根城として、民衆の生活に密着し、またこれは村鎮守・氏神などとも密接なつながりを持ち、宗教的基盤としては同質なものを多く含んでいた。それゆえ、小堂宇と村鎮守・氏神との関係を断ちきり、現世利益の祈禱を宣伝する立場にある諸堂宇を廃止することによって村鎮守氏神の社格を相対的にひきあげることであった。

 つまり政府の廃寺政策は経済的側面からの必要性よりも、むしろ政治的意味が強かった。これにより修験出身の神主の地位は一見上昇し、伊勢神宮の尖兵たる神主の身分は純粋なものとして評価されることとなったが、これは民衆の目をそらす極めて政策的な意図に基づくものであった。信仰の対象とされていた神祠・堂塔は明治十年代に入り据置願を提出することになる。

 明治九年十二月五日付の「教部省達」によれば、「各管内山野或ハ路傍ニ散在セル神祠、仏堂(祠ハ山神祠・塞神祠・堂ハ地蔵堂・辻堂類)ノ矮陋ニシテ一般社寺ニ比シ難ク、且ツ平素監守者無之向ハ総テ最寄社寺へ合併又ハ移転可為致云々」とあり、また個人の家への神祠、仏堂に衆人の参拝することを禁じた次の通達がある。

明治九年教部省達書第三十八号達之趣有之、従来人民私邸内等ニ自祭スル神祠仏堂ニ衆庶参拝為致儀差停候。此旨布達候事
 明治十年一月十二日
    福岡県令 渡辺清
       (広渡文書)

 神祠・仏堂に限らず、財政的基盤の弱い神社・仏閣も明治後期には合併合祀奨励の対象とされている。

 明治三十九年八月十日に出された神社、仏閣合併奨励合祀のねらいは次の通りである。

一、財政的基盤の弱い神社は祭祀が疎略にされるから合祀・統合すべきである。
二、弱体神社を合祀することで、これまで、まとまりを欠いでいた町村の自治体の団結が、一つにまとめられた神社に結集し、自治体としての団体を保てられるというものである。

 このような宗教界の事情のため、社寺の新規創立は旧幕府の政策をうけつぎ、明治政府も原則としてその新創立を禁止し、特に許可されたものに限ってその創建を認めている。

二 神社と社格

 明治四年五月一四日太政官布告により神社は国家の宗祀、つまり公法人と宣明し、社格制度を明確にした。これによって神社は仏教その他の宗教団体とは別途に処遇し、国家の機関(公法人)として取り扱うと共に、それに応じた公的制度を整備していった。神仏分離に際して還俗して神主になった現世利益の密教系僧や修験などの祈禱師たちを国家神道の尖兵として神官から排除し、天皇の祖先神としての伊勢神宮の純粋性を高め、村鎮守の権威付けをなして、村民の信仰を統制するため、このことを天下に公言する必要があった。その為には神職世襲制の廃止、神主の質的向上の強調をはかることが必要であった。

 社格制度については古代にも延喜式などに官社・式内社・惣社などがあったが、政府による神社国家管理制度の具体的表現の一つとして、ここに社格制度を明確化した。

 神社を官社と諸社に分け、官社は官幣社と国幣社とからなり神祇官の所管とし、諸社は府藩県郷社で地方官の所管に属した。

 同年七月、郷社定則が制定され、戸籍制度に対応し、一戸籍区に一社を、郷社として指定されたものである。

 村社は郷村の制定によりそれに付属するものとして現われ、以上の社格を賦与されない神社は無格社とよばれることになった。

 村々には無格社以外の公認されていない叢祠の類も無数に存在した。

 この社格の指定にあたっては、村々の生活と密接に結びついているだけに、無格社となった氏子の憤慨の情が察せられる。

別府「今泉神社の昇格願」をみると

      無格社  今泉神社
当社ハ本郡郷社高倉神社ノ二柱ノ大神ヲ勧請シ後相殿ニ日本武尊ヲ合祀セルハ……中略
又応永十四年書上ノ高倉神事定書及ビ筑前続風土記筑陽記筑前雑帳筑前早鑑記筑前五郡地理誌太宰管内志福岡地理全誌等ノ諸書ニ記載シアルニテモ其古社タルコト著明ナリ従来別府村ノ惣産神ニシテ又惣鎮守トモ尊称シ明治ノ初年神社々格制定ノ際書上写別紙ノ通リ村産神惣鎮守等記載シアリ故ニ氏子人民ニ於テハ必ズ村社ニ御制定可相成儀ト期待シ居リタルニ豈図ンヤ明細帳編制後無格社ト相成リタルハ如何ナル理由ニテ然リシカ氏子一統了解スル能ハズ実ニ驚愕ノ至リニ堪へサル次第ナリ然ルニ占部家ニ所蔵セル許状其他当社ノ棟札鳥居等ノ銘ニ産神今泉神社氏子中トアル産神ハ総テ現今ノ村社ト斉シキ資格ノ尊称ニシテ聊モ差異アルコトナシト信ス却説=以下略

 これは大正十年に出した昇格願であるが、維持金も確保したので常々忘れることができなかった昇格を、認めて欲しいというものである。

 産神社は氏子にとっては日常生活と結びついた信仰の対象であり、境内は神聖な場でもある。喪中の立入遠慮(忌がかり)など禁忌も少なくない。左側もその一つである。社格昇格を願う者が少なくないことは想像に難くない。

謹啓春陽之候益々御多祥奉賀候、扨て今般其筋より各神社へ左記の通り制札建設方示達有之候条山崎神社へ制札御新調ノ上御建設相成様致度此段及御照会候也
  三月弐拾弐日  占部社掌
 高與一郎殿

三 氏子調べと氏子札

 明治六年一月十五日梓巫・市子・憑祈禱・狐下げなどの俗信の所行を禁止し、警察的取締りの対象とした。

 明治四年四月戸籍法が改正され、宗門人別帳の制(宗旨改めと寺請けの制)が廃止され、同年七月四日これにかわる「大小神社氏子取調ノ件」が布告された。この制度の目的は、神社を戸籍の作成と管理に参画させ、神社が全国民を氏子として掌握することにあった。

 「氏子取調規則」は七か条からなり、戸長と共に神職が戸籍管理に当たることになっていた。

「第一条 臣民一般出生ノ児アラハ、其由ヲ戸長ニ届ケ必ス神社ニ参ラシメ、其神ノ守札ヲ受ケ所持可致事」
「第二条 一、即今守札ヲ所持セサル者老幼ヲ論セス生国及姓名住所出生ノ年月日卜父ノ名ヲ記セシ名札ヲ以テ其戸長へ達シ、戸長ヨリコレヲ其神社ニ達シ守札ヲ受ケテ渡スヘシ」
「第六条 自今六ケ年目毎戸籍改ノ節、守札ヲ出シ戸長ノ検査引受クヘシ」と規定されている。本町大字別府字高瀬、緑光園の藤田家にあった守札は縦九・一センチメートル横六センチメートルの木札で裏面は年月日と神官の署名捺印がある。

 当町内神社の守札ではないが、この制度も戸籍法との重複と信教自由思想の勃興のため、同六年五月九日沙汰ある迠、施行に及ばずとして、僅か一年十か月を以て取り止めになった。

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