ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ
現在地 トップページ > 分類でさがす > 産業・観光 > 観光・歴史・文化 > 史跡・文化財 > 遠賀町誌 昭和61年3月31日発行 > 遠賀町誌 第七編 信仰と生活 第二章 遠賀町の神社と教派神道
現在地 トップページ > 分類でさがす > まちの紹介 > 町の紹介 > 遠賀町の紹介 > 遠賀町誌 昭和61年3月31日発行 > 遠賀町誌 第七編 信仰と生活 第二章 遠賀町の神社と教派神道

本文

遠賀町誌 第七編 信仰と生活 第二章 遠賀町の神社と教派神道

ページID:0026918 更新日:2023年6月23日更新 印刷ページ表示

第七編 信仰と生活 第二章 遠賀町の神社と教派神道 [PDFファイル/9.7MB]


第一節 新しい宗教政策

 昭和十四年四月に宗教団体法が公布され、明治以来発布された布告、訓令等数々の法規を整備統一して、宗教団体に対する保護と監督が強化された。

 明治維新から太平洋戦争の敗戦にいたる約八〇年間にわたり、国家神道は日本人を精神的に支配した。すなわち、伊勢神宮を本宗として、全国の神社をその配下に統一編成し、神宮・神社の祭祀を画一化した。政府は、神社は国家の祭祀であり、宗教ではないとして、皇道精神の根本は、神社崇敬に基づくことを強調し、中央官庁も神社局を神祇院として国体の教義普及に総力を投入した。

 しかるに太平洋戦争の敗戦により、大日本帝国は崩壊し、国家神道制度は終息を告げ、我国の宗教界も大きな変革をもたらした。

 昭和二十年十二月十五日、占領軍総司令部の覚書である、いわゆる「神道指令」が出された。これにより政教分離・信教自由・国家神道廃止措置が指示された。同年十二月二十八日「宗教法人令」が公布施行され、これにより宗教法人の設立・規則変更・解散は自由となった。これによって神社も宗教法人として活動するようになり、事務は文部省の所管となった。

 昭和二十一年十一月三日には日本国憲法が公布され、その第二十条、及び第八十九条に信教の自由、政教分離の原則が明示され、国家神道は法的にも消滅する。昭和二十六年四月に宗教法人法が公布され、旧宗教法人令による宗教団体もすべて手続変更がなされ、新しい宗教法人として再出発する。

 現在、神社神道以外に属する神道系の教派には次のA~Dがある。これ等の教派神道は主として幕末から明治期にかけて興起した民衆的信仰にもとづく神道系教団で神社神道国家神道に対する称であり、教派を大きく分類すると次の通りである。

A、神社神道に近似するもの….出雲大社教外五派
B、天啓教といわれるもの……黒住教・金光教・天理教
C、山岳信仰によるもの……御嶽教・扶桑教・実行教……
D、諸教集成的のもの……神道大成教

本町に於ける教派神道系に属するものは次の通りである。

(宗教法人として届出の分昭和55・5・8調)
名称         所在地     代表者
金光教 虫生津教会  虫生津     古野スガノ
御嶽教 老良教会   老良      桜木トヨ子
天理教 慶福分教会  島津      渡辺重徳
 〃  筑陽分教会  別府      渥美一男
 〃  広渡分教会  広渡      植本イノ
天理教 撫浅木分教会 今古賀(遠賀川) 内藤タキヱ
 〃  安晃分教会  浅木      川原満

第二節 遠賀町の神社

一 浅木神社  大字浅木字鈴開

祭神 日本武尊 応神天皇 素盞嗚尊
社殿 本殿 茅葺 幣殿 瓦葺 拝殿 瓦葺
境内地 八百五十五坪 馬場東西各百間
境内社   祭神      旧鎮座地
天満神社  菅原道真    神域
稲荷神社  稲倉魂神    〃
萩尾神社  彦火々出見命  〃   森氏
恵比須神社 事代主命    〃   文政八年十一月改築
貴船神社  高龗神・闇龗神 沖塚(有吉歌子公園内)
寛延三年勧請
祭典(現在)
元旦祭 一月一日 春祭四月乃至五月・月日未定 輪越祭(夏祭)七月三十日 宮日祭 十月七・八日 新穀感謝祭 十一月乃至十二月 日未定
由緒 日本武尊が熊襲征伐の帰途、岡湊よりこの浅木山に登らせられ「吾今此山ニ心ヲ留メタリ、願クバ此技葉繁茂シテ陽春ヲ迎へ、花ヲ開キ千歳後吾志ヲ違フヘカラズ」と宣わせられたという霊跡というので、日本武尊を祭りのち相殿に応神天皇・素盞鳴命を祭る。
 創建は、斉明天皇筑紫に下り給う時、海上風雨荒きため岡湊より入り浅木山に登らせられ、土人佐野ノ倉梯より日本武尊の故事を聞こし召されたという。また天皇の故事により浅木・木守・底井野の地名となったという伝説もある。その後、此の地に社殿を建立したというが、一説には孝謙天皇の天平宝字年間に草創したともいわれている。
 明徳二年(一三九一)大宮司藤原氏成の記した年中祭礼置文も現存している。当社は大内家の尊崇特にあつく、社殿の再興や馬場、泉水地をはじめ、幾多の寄進がある。また、福岡藩主、黒田光之公をはじめ代々の国主の御社参、御寄進物も多い。
 明治五年郷社に列格せられ、明治四十年神饌幣帛供進郷社に指定された。旧遠賀郡七郷社中の一社である。神社には「浅木大明神社実」「縁起」「神道裁許状」等をはじめ、種々の記録が残されている。

一 浅木大明神社実
筑前国遠賀郡底井野郷の本社浅木大明神は、日本武尊の旧跡にて則日本武尊を祭奉る所也。往昔日本武尊熊襲の国をしたかえ給ひて後、都に赴かせ給(玉)ふ時御船を此山の麓によせ玉ひ従ひ奉る人たちと共に山頂に騰らせ給ひて旅懐を述させ給ひける。此山海中に突出していと興ある山なりければ甚いつくしみおほしめして四表を眺させ給ふに東南の山巍々として落葉暫し木々の梢にさへ渡る風の音もおのつから物さひ西北に滄海渺々として際涯を分たす鶉浜岡港の月清らか成けるにそ、尊御心を留めさせ給ひけれハ仕奉る人達も皆興を催しける。尊則御手つから桜木の枝を手折り給ひ麓の岸にさし給ひてちかひ給ひけるハ吾此山に心を留め里願くハ此枝栄繁久末の世の春をむかへ花の時をたかへすして八十万代乃すへまて吾志を違ゆへからすと宣ひけれハ仕奉る人たちみな之より柵をゆひ御かたみを残し奉る此木忽繁茂し枝をたれ葉を布く幾春秋を迎へけるとそ、其後尊帰京し給ひ又東夷征伐に赴せ給ひ伊勢国能褒野に崩らせ給ひて後熱田八剱大神と崇祭奉りける誠に神徳の尊く有かたき事たとへてかたるへきにあらす其後人皇三十九代齊明天皇百済国より捄の兵を乞し故兵船等を集やらんとて西国に行幸し給ひ上座郡朝倉に黒木の御所を造まし/\ける是を朝倉の宮と申奉る。はしめ天皇筑紫に下らせ給ふ時、皇船あらき風にあたりて岡湊より入海にいらせ給ふに、いよ/\瀾風あらくして皇船漂泊し、夜に入ければ此山の木を伐りて薪とし、船ことに焼なしけるに、其香薫して郁ゝたり、天皇甚めてさせ玉ひ今の朝木の馥しき事偏に朕が意に稱へりなんけ宜しより此山を朝木山といふ。所をあさきの里といふ(今は浅木と書り)。天皇土人を召して此山の状を問せ給ひけるに、佐野ノ倉梯といふもの進み出て、いにしへ日本武尊此山に登らせ給ひて御手つから指し給ひし桜木の事とも委く答へ奉るにそ、天皇しは/\いにしへをしたはせ玉ひけり。則此桜木を崇めさせ給ひ倉梯をして木守の長と定め給ひ、永日に此木を守らしめ給へり。倉梯住し所を名つけて木守といふ。倉梯の後裔当社の神官とす。其子孫今に至りて綿ゝたり、天皇日本武尊の神迹を慕せたまひ山上に登らせ給ひ、いにし陣迹を見そなはし甚なつかしみおほしめしけり。時に天皇水を好せ給ひけるに、谷底の井に澄る水を汲てさゝければ、みつから水を美させ給ひてうるハしき底井の水と宣しより、すへて此地を底井と名つく。後世野の字を加て今は底井野と云り。即日御船に移らせ玉ひ、直に朝倉の宮に入らせ給ひけり。此時はしめて御社をいとなみ建て日本武尊の神霊を祀り奉る。神徳のいちしるき事日を逐て新成けれは、公武民間の渇仰なゝめならす。宏麗の御社と成れり。いにしへおゝやけよりの尊崇他にことなりて、御祭祀の行粧甚大なりしか共、後世兵乱年を経て神事祭祀等悉く亡ひしかは、今は昔の形はかりにも非らす。
応安七年(一三七四)三月某の日征夷大将軍源義満筑紫発向の時、此御社の事を聞召及れ、陣中より執事細川頼之を代表として幣帛を捧け武威を祈られけるに、果して筑紫の軍に討勝帰京の後周防国大内左京大夫義弘に仰て御社殿を建立し給ひけり。是より公方尊敬の社となり、祭祀造営等は大内家より執行せり。巳来大永二年(一五二二)大内介義隆建立有かゝる御社成しに、足利将軍の世もおとろへ、大内家も亡ひしより郷民の修覆となりて造り並し宮殿楼閣これ悉く朽敗せり。
大永二年より八十余年を経て御社殿敗亡をし、越慶長六年(一六〇一)浅木の里の居民副田九郎兵衛と云その修覆し奉る。其後寛文元年(一六六一)辛丑の日郷内の産人相共に造営し奉る。
凡  当社大宮司は代々佐野氏也。兄弟両家有て並ひ仕へ奉りしに、弟方は浅木に住して本社及木守村井手社に仕へ奉る。兄の方は郷内上底井野村に居して本社につかへす猫城山妙見大明神正八幡社に仕へ奉る。又延宝二年甲寅(一六七四)本社浅木大明神を中底井野村に勧請し奉て此社にも仕へり。又広渡村館屋敷村今古賀村にも八劔神社鎮座す。此三邑の神社は松本氏仕へ奉れり。

※以下祭祀のことは次の如く整理し表とした。

社実による古への祭祀
 いにしへの祭     古来所傳之年中祭祀第一巻    年中の御祭礼の事
            朝木宮年中祭礼成文次第日記
 元三の祭 天下国家の祈禱 正月一~三日  用上御入目米一石九斗四升 大牟田二段正月一日御供米 元三祭の事
若菜御神事 正月七日   わかな御供米 二斗 まつりの事
鈴開御神事 正月十四日
御祓の祭  正月十五日  御祭の入目米 五斗 寄時の事
春分の祭  二月
仙源の祭  三月三日   入目米 三斗三升  桃の祭の事
卯の花祭  天下国家の為古例の祭也  四月十五日  入目米六斗三升  まつりの事
端午の祭  五月五日   井手明神御祭入目米 六斗六升  今宮殿祭の事
      六月十五日            祇園殿祭の事
      七月               七夕祭の事
      八月朔日             ことさため祭の事
      八月九日             放生会祭の事
秋分の祭  八月  朝木宮比岸(ママ)御祭入目米 三斗三升
御注連神事 九月朔日 九月 御祭の入目米 二石四斗四升  九月九日菊祭の事 是は三石五斗七升を以御下行米勤之也
御神幸の儀 九月七日    同時 浮殿御供米 壱斗 是は三石五斗七升を以御下行米勤之也
正祭    九月九日    同時 酒ひらきの入目米 壱斗
※大祭別記
      九月十日    井手明神の御祭入目米 壱石  井手祭の事 是は前々は八斗八升以御下行勤之也。今は無御下行候間かたの如くニ行之
        御倉付ノ入目米 壱斗五升
        同時はけおろし、はけあけの入目米 七升
      九月十日      妙見ノ祭の事
      霜月九日      まつりの事
      同十五日      今宮殿祭の事
                初卯
      霜月        八幡宮祭の事
            以上八石八斗是舛ハ三ノ口也  以上十二ケ月 御祭十六度
                    以上
                 明徳二年正月吉日
                 大宮司氏成 判

 以上の如く、昔の祭りは盛大であったが、なかでも九月の大祭のことが詳しく記されている。御神幸のことについては、

同社実によれば
 九月朔日御注連の御神事有、同月七日神幸の儀式を整へ同日戌刻(八時)神與に遷らせ給ひ浮殿に神幸なし奉る。此御社の浮殿の地を花園山とい ふ。大古は岡のみなとよりの入海にして海中にさし出たる山也。その後干潟となり田圃に鋤連りて今は村落となれり此所近代に至りて別府村に属せり
 其間内海にて陸地ゆたかならされば船を飾て神與を移し奉り供奉の神官其外産子も皆船にのりて御供つかまつれり已上神幸行列の御船十八艘有ておの/\神器を飾り旗旌を靡し船ことに士民相共に守護し奉る。明徳年中義満公尊敬の頃より陸にて神幸有しにや
 大宮司氏成騎馬にて神幸の供奉せりといふ事大宮司旧記にあり同夜下宮に移らせ給ひ翌八日の戌刻又還幸の儀式をなし本宮に遷座なし奉り様々の御神事を執行し奉る。
 此時地頭領家も罷出て神輿をむかへ奉れり、又公方の令旨を請て大内家より麻生氏を代官とす。大古よりの恒例にて御神事の事悉くこれ公文所より支配し奉れり九日を正祭として御神事をなし奉る。巫ハ乙女神楽男は舞殿に候し別当社僧は寺院に着座し、各其寺を勤む東光寺西光寺真光庵とて三寺の坊舎有て御社の祭祀に従て下殿に候ひ然といへとも本より内陣の出入を許さす。三寺みな大宮司に附属す其寺今は断絶し或は改宗して悉く亡へり
 同日流鏑馬の御神事有以上八疋の馬を競て、かわるがわる乗けるとなり天文二十年卯月某の日、大弐多々良朝臣よりの次第を経て佐野清間大夫に大宮司の相続あり、又は其事旧記にも有霜月九日の祭あり、かゝるいみしき御社なりしに乱世に退転し大宮司も次第に落魄して今はむかしのかたばかりも残らすいと惜しむへき事なり

「座配などについては」

 九月九日御祭之時座配の事
一、御神楽座ニ酒七升竹折敷三枚
一、九日よとの夜ニ酒くり一かけ竹折敷三枚
一、公方御ちやうの屋(役所)酒七升餅九ツつみ一枚 てくた(果物)物一包らいし(礼紙)一枚 三しゆ(種)肴同ほうりうのしる御供之人中へ酒三升九つつみ五枚
一、公文方御ちやうへ九つつみ一枚てくた物一包 らいし一枚
三しゆ肴同ほうりうのしる
 御供の衆中へ酒壱升九つつみ二枚
一、田所殿御ちやうへハ前々ちやうのことく出し御ともの人に酒五合九ツつみ一枚ノ半分
一、らちゆい(柵を結う人の意)に酒壱升九ツつみ十枚
一、はゝ(馬場)に酒五升竹折敷 五枚
一、僧座分三人に酒栗一ツ三しゆ肴三せん 九ツつみ三枚
一、てんかく(田楽(民間舞踊))の方え酒四升九つつみ四枚
 公方江酒肴ノ注文
一、公方之酒へいし(瓶子)一隻九ツつみ十枚
一、口代官ニ酒へいし一双九ツつみ十枚
一、公方方へさけへいし一双九ツつみ五枚
一、さんじ方へさけ壱升九ツつみ三枚
 よとの夜(宵祭)公方御かくら米の事
一、三番ニ米三斗六升但壹番ニ壱斗二升宛
一、正日の御かくら三番ニ三斗六升
一、壱斗二升正日の御はな米
一、九月七日より九日迠御しやうしやの御きよめのふせ(布施)九升九合
一、同七日御代官しめおろしにへいじ(瓶子)一双 米三升三合
一、いわきし殿しめ(注連)おろしにへいし一双 米三升三合
一、むかいとのしめおろしにへいし一双 米三升三合
      以上

相殿に八幡大神鎮座したまへり。永正年中大内義興是を祭れりと云傳たり。祇園社同しく相殿にあり鎮座の年未詳。
前大守從四位下右衛門佐源朝臣松平性を賜り、黒田光之君退休の後しは/\底井野の別業に到り給ひ、専心を清閑の地に養ひ、時ゝ邑里遊行し玉ふ折節、元禄四年辛未の春きさらぎ十九日此社に詣て給ひ、社の事実を問せ玉ふに、しか/\の由を申上しかハ、さては此社此ほとりの宗社にしてしかも故ある御社成よしを聞召給ひ、益御心に誠敬を起し玉ふ。又廟前にふとくさかへたる梅樹あり。枝葉庭中に志き茂し、其色紅なして香も亦毎(こと)梅には替て甚奇也。里俗たゝ紅梅と称してその名をしる者なし。時に邦君此梅を視そなハし給ひ、時に賞愛し給ひて、胡籙のむめと南(なん)名付玉ふ。其後梅の盛には必此社に詣遊し給ひ深くめてさせ玉ふ事已に五とせ、夫より遊歩もあなかちに御心にかなハせ給ハさりしかハ、人をして枝を折、常に座右に置て愛させ給ふといへり。当社に古代より神門有しに、乱世次後中絶せしを寳永元年(一七〇四)甲申の夏當邑の居民森次郎七安連と云もの石の鳥居を建立せり。
往昔大内家より建立ありし鳥居の跡を考がへ其所の地を求けるに、昔鳥居を設けし地輪石の雙方にならひ存せるを掘出せり。人皆奇異の思をなせり。誠に下津岩根の朽せぬも神徳の絶ぬ御めくみの深き故なりと益ゝあつく恐敬して、則其上に鳥居をたつ。今年正徳六年春当社の大宮司門司斉宮氏直(萬治四年辛丑宮内亟氏次が家に凶事有て佐野氏を捨て外戚乃門司氏に改む)
御社のおとろへ行事を歎いて、定則に依って御社の事実を記さん事を乞。其責いと切なれはいなひかたくて、往昔乱世に湮滅せし旧記のかた斗残り傳へしを表章し、又ハ古老の口碑を取って変(ママ)へ考へ、傳記一巻を編輯し、其責に應することのなりし。從来才みしかく、識乏けれは、神徳のいかめしくて、山高水長き事はなんに拙き筆の及ふ所ならんや。たゝ古今所傅の切要を集て後人の遺志に備ふるのみ。時産徒森孫平安種此記のなるをよろこひ、此一軸を献納して後世に傳ふ。誠に神に奉するの忠誠是より大ひなるハなかるへし。然則神の感する所豈むなしからんや。積善の餘慶なかく爾の家にいたり、はるかなる福ひをうけむ事掌をさすか如ならんという事しかり。
 正徳六年龍次丙申春二月吉日 鞍手郡八尋村十六神社祠官 安永定則拝記判
  末社
 天満天神 在本社浅木大明神於社地傍
 貴船社  在本社於側山
 貴船社  在下底井野村於沖塚
  郷内末社
 今宮殿  古代中底井野村貴船森ニアリ近代依社宇敗亡祭於本社側
 今宮殿
 初卯八幡
 貴船十二社在郷内土手之内於村々以上
  古来所傳之年中祭祀次第一巻附社実尾端為考證如左
  底井野郷朝木宮壹年中御祭禮成文次第日記之事
右件御宮公方納物は此置文のむね(旨)にまかせ代々大宮司はその沙汰可之前ゝは四月十五日の御祭入目はかり八石八斗といへ共永徳二年より依損毛此けんじ御浮殿のなふらい(直会)をは小かわらけ(小土器)にて勤之縦(たと)いかていの儀候共此上は聊もけんすへからす也依為後日置文如件
 明徳二年正月吉日惣大宮司氏成 判

  同社役次第の事 すまひ(相撲)次第
一、壱番ニ ひろかねーさた光
一、二番ニ 二郎丸ーのりかと
一、三番ニ つねむねー末用
一、四番ニ つねもりーともひろ
一、五番ニ なかむねーすへつく
一、六番ニ 田中殿ノさんさいーしけとみ
一、七番ニ ともかねーかまた
一、八番ニ つねさだー三町分
一、九番ニ しけやすーむねひさ
一、十番ニ 金丸   大江良    以上

たつけのきようの次第
三せん せきいち 三せん ひろかね
三せん 二郎丸  三せん かねむね
三せん まさやす 三せん つねもり
二せん なかむね 三せん つねさた
三せん もりとし 一せん かなまる
三せん しけひろ 三せん 五郎丸
三せん せん寿丸 三せん いやとみ
二せん すへつく 三せん ともひろ
三せん すへひろ 三せん さたみつ
三せん のりかと 四せん ありよし
四せん 大江良
但せきいち 五らく せん寿丸
三ケ名はくさうてんかくニ引之
かよちやうの事
一ねんしやうけつきの年は御百姓又次ノ年ハしきしやうまハリ/\   以上

「縁起」日本書紀第七景行天皇紀曰、二十七年秋八月熊襲亦反ヒテ侵スコト辺境ヲ止冬十月丁酉ノ朔己西遣ノ日本武尊ヲ令シム熊襲ヲ年十六。社説に曰く、尊国の地形且百姓乃消息を察給はんとて本州芦屋にて船よりあがり、此所にしばらくおはしましける。後世の御座所に社を立て、祭初奉りけるとなん。其年暦未詳(一説に孝謙天皇(人生四十六代帝)天平寶宇年中に草創すといへり。)
天平宝宇元年より元文五年迠九百八十四年。凡当社は底井野郷(順和名類聚鈔によれば底井野は郷とハ称すへからす今しばし罷く大宮司家記にしたがふのみ)乃総社にして、足利将軍の時より、近世に及ぶまで武家の尊崇尤あつふして社殿の宏(キウ)麗祭祀の厳重其外社家の繁栄など皆おの/\所を得侍りしとぞ、されば(応安百代帝後円融院)歳中、佐野清間大夫正頼将軍家に出仕して、しば/\時賞を得侍りし(応安元年より元文五年迠三百七十四年)となん。其子吉大夫氏盛相鑓(ママ)して将軍家に召連などして加持祈祷に預りけれは社頭の修理祭祀までも皆将軍家より修せられしと也、明徳(百二代帝称光院)三年の宮帳(今猶存せり)にも総大宮司氏盛と記せり(明徳三歳より元文五年まで三百四十九年)足利氏の末におよひ、筑紫も戦国となり、國の領主大友嶋津龍造寺に分属せしかとも、此辺は大内氏の有にして、麻生氏ハ又其麾下なれハ大宮司もよろづ麻生の下知にしたがひ、より/\山口に直仕しける故、祭礼料修理料まで大内家より寄附をしれける。天文(百六代帝後奈良院)二十歳大宮司補任乃状に、

大府宣 太宰府在庁官人等可以任ス早ク庁宣管筑前国御牧郡朝木大明神社大宮司職之事
 右以藤原長吉ヲ補スル彼ノ職ニ也者在庁官人等宣ク承知宣行之以宣ニ天文廿年卯月廿三日
 大弐多々良朝臣在判  天文二十年より元文五歳迠百九十年 同年社田寄附の状に
 底井野郷之内朝木大明神社領三町三反地之事対宮司清間大夫任当知行之旨ニ御裁許畢者不段歩進止シ之由可申渡之旨依仰執達如件 天文二十年四月廿六日 下総守在判
  長徳寺伊佐越後守殿  石見守在判
永禄(百七代正親町院)五年大宮司職補任の状に 父内蔵大夫大宮司職之事宮菊丸連続不有相違之状如件 永禄五年三月十四日 隆実在判
底井野郷大宮司 佐野宮菊丸殿
永禄五年より元文五年迠百七十九年天正(正親町院)十一年大宮司職補任状に、
彦三郎春安大宮司職ニ之状如件 統春在判
天正十一年十二月十三日佐野宮千代殿
天正十一年より元文五年迠百五十七年、同十五年大宮司職補任及拝采地の状に、
底井野郷宮内分壱町地之儀其方江被預遣之候大宮司職之儀可相勤之由被仰出候此由從我等ヲ申旨二候恐ゝ謹言
  船津三河守氏忠在判
 天正十五年三月二日佐野虎寿丸殿
天正十五歳より元文五歳迠百五十四年。
ことし豊臣秀吉公九州を征し一統の世となり、当国を改て小早川中納言大江隆景卿に賜りし時、秀吉公諸国の神領寺領をこと/\く没収せられし為、此社の祭祀もいつしかたへしに、歳もて行大宮司家もわづかに家を続来れり。年中祭礼おほかりし事は宮帳(明徳三年の記粗上に出せり)に志るせり。末社十二貴布祢あり旧記のまゝに騰写し傳る。
○ひろかね貴布称 上底井野村 ○塩つかい貴布称 中底井野村(上に出つ) ○次良丸貴布称 同村しけひろ同 ○常盛貴布称上底井野村常貞 ○経堂貴布称 同村 ○いやごみ貴布称 同村 ○土井内貴布称 中底井野村(上に記す)
○ごろう乃貴布称 同村同 ○有吉貴布称 下底井野村 ○すへもち貴布称 同村 老良貴布称 広渡村老良にあり ○木守貴布称 木守村 以上 其外に貴布称の社と云伝へし所。上底井野村の内分 上六反田貴布称
蔵屋敷貴布称
 此ニ箇所今名のミ残りて社なし
古土手貴布称 御社あり祭り成る
 天正十四年(一五八六)豊臣秀吉、毛利輝元・黒田孝高をして薩摩の島津氏を討たしめたとき、門司三河守をして薩州に入国せしめ国状偵察をさせ戦勝に導いた。

 この時の文書が門司家に残されている。
此節島津依逆意御征伐有之ニ付其節門司三河大隅町人致替身薩州入込令検見立帰別紙(小字)有り。三河心労尽候段殿下様御喜悦上思召候為賞美御太刀三河下賜御尋之事も有之候条早く登坂可致旨御申談可有之候委細久野四兵衛任口上候
恐惶謹言
 九月廿日
       孝高 花押
       恵瓊 花押
麻生上総入道 殿
同次郎左衛門 殿

○奉行郡代ヨリ永代郡内安全祈禱
於浅木大明神ニ遠賀郡邑里安全五穀成就之御祈禱 執行被致郡中村別御札等被相納可然旨拙子共ヨリ申入候処去ル六月廿四日ヨリ七月朔日之朝迠一七日社籠一万度御祓勤行有之郡中ニ右御札被相納大義之至存候
偏ニ浅木大明神之御神徳ヲ以当年ハ郡中不残古田壹作稲作等迠春御免御請申上無此上儀ニ候末々迠神前邑里安全五穀成就御祈念無怠代々大宮司勤行被致様神前之記録迠貴殿可被記置候
  元文二年巳九月
樋口貞右衛門 花押
河村武左衛門 花押
 大宮司 門司隼人正殿

 浅木宮隔年御潮井神事并臨時湯立行事入用一件としての記録次の通り。これは寛政元年(一七八九)己酉九月、拝殿造営成就のため施行されたものである。
一、湯立入用 産子中より一、由里 一ツ
一、神酒        一、三方 三ツ
一、鏡餅   一重   一、紙 一束
一、御肴   掛魚   一、扇 弐本
一、釜    一ツ   一、茶 二袋
一、田子 柄杓相添   一、からむし 少々
一、木綿   七反

「筑陽記」 ○八剱大明神社 当社昔年中国大内屋形ヨリ建立ト云其比ハ宮殿美麗祭祀繁ク神領モ若干ナリシトカヤ後年九国騒乱兵火炎滅し縁起宝物等焼失分散ス、祭ノ規式田地ノ員数記録上底井野明見社ノ神職今ニ持伝フト云

「筑前国続風土記附録」 ○浅木大明神社□(神殿方一間半、拝殿二間半三間、石鳥居一基、祭礼九月九日奉祀門司佐渡)村の南丘上にあり。祭る所日本武尊・応神天皇・素盞鳴尊なり。底井野郷の本社也。社内に○天満宮○貴船社○稲荷社○蛭子社○萩尾社及神池あり。また紅梅一株あり。胡箙の梅といふ。光之公寄附し給うといふ。○貴船社沖の洞山

「筑前国続風土記拾遺」
○浅木大明神 浅木山に在三村の惣社也所祭日本武尊・八幡大神・素盞鳴尊也此所往古日本武尊熊襲御征伐の時臨幸有し神跡也と云ふ好祠也宮所広く神さびたりむかしいとも繁栄の社也といふ今田字に鈴開宮田等の名残れり、又天台宗の社僧三坊有しとて其跡馬場の側に在社内に紅梅一株有箙の梅といふ昔年江龍公寄附し給へるよしいひ伝ふ年毎に九月九日定祭に流鏑馬あり馬場長百拾間有又此日隔年に神幸有末社天満宮稲荷社萩尾社蛭子社あり門司氏奉仕本姓ハ佐野也以下略

「太宰管内誌」
○朝木大明神社□〔太府宜)に太府宣太宰府在庁官人等可早庁宣管筑前国御牧郡朝木大明神社大宮司職事右以藤原長吉彼職也者在庁官之等宜承知宣行之以宣天文廿年卯月廿二日大弐多々良朝臣判。〔同添翰〕に底井野郷ノ内朝木大明神社領三町三段地事対大宮司勢間大夫当知行之旨被御裁許畢者不残段歩可進止之由可申渡之由依仰如件天文弐十年四月廿六日下総守判。石見守判。長徳寺伊佐越後守殿(また〔一〕に父内蔵大夫大宮司職之宮菊丸連続不相違之状如件、永禄五年三月十四日隆実判底井野郷大宮司佐野宮菊丸殿)などあり、浅木は阿佐支と訓むべし是則地名なり遠賀郡底井野郷ノ内なり今は下底井野村と号す此村ノ産沙神なり、日本武尊を祭る、社は西向なり神殿・幣殿・拝殿・御供屋・石鳥居・馬場あり社は聊高処に在・佳景なり、祭礼九月九日なり(八日、夕里神楽九流鏑馬)天文四年より現米十右ノ寄附状あり、神官門司氏是に奉仕れり。古文書は上底井野村猫城八幡神官佐野氏ノ家に伝はれり

「福岡県地理全誌」前記諸文献と重複のため省略す

棟札写 その二 表面
奉謹再與朝木八劔大明神宮拝殿一宇 右之精誠趣者為天長地久御願円満国土安穏万民快楽也、大宮司 清馬大夫 宮内大夫 大工神野惣太夫
棟上御供養同月当国主黒田筑前守豊臣長政卿寔元和八壬戌年仲冬上旬吉日大檀那秋山彦左衛門尉 小工五人 村中子孫繁昌息災延命武運長久所願成皆仝満足如意告祥而巳
  寄進 副田九良兵衛尉 鍛治 小田原五良兵衛
裏面
大日本国九州筑前国遠賀庄朝木村庄屋
            九良兵衛

棟札写 その三
奉興復浅木大明神前殿一宇 筑前国遠賀郡底井野郷之本社下底井野浅木大明神前殿先是元和八年壬戌願主秋山彦左衛門栄建之至今経歳九十七年柱礎既傾引於是下底井野村産徒不忍見前殿荒廃戮力一心欲改為不止遂請材木於官吏自享保二丁酉夏六月廿八日至十一月十四日成就脩飾維新 享保二年丁酉冬十一月十四日 庄屋副田彦市信久 大宮司門司斉宮藤原氏直 上底井野村大工芥川助大夫 小工十五人
裏面
当国主従四位下松平肥前守源朝臣信政君寺社御奉行 白石正兵衛 小南甚三郎御山御奉行舟曳喜太夫前殿自六月廿八日至十一月十四日為成就其間諸々事於司役人為後生産徒記之 下底井野村産徒 有吉与右衛門義定 同邑産徒 森 藤七連重

二 伊豆神社     大字島津字丸山

祭神 伊豆能売神
社殿 本殿 亜鉛鉄板葺 総欅材流造 幣殿 瓦葺 拝殿 瓦葺 社務所瓦葺 元保食神社の拝殿を利用(大正十三年)し社務所としていたが現在では倉庫として利用
境内社           旧鎮座地
貴船神社 高龗神・闇龗神  神域
天満神社 菅原神      〃
保食神社 御気津神     小古野
大正十三年五月五日移転合祀
須賀神社 素盞鳴尊     小古野 右同
蛭子神社(若恵比寿神社トモ云) 事代主神 小古野 右同
坪内神社 厳島姫命     坪ノ内 明治十五年四月十一日許可ヲ得テ移転。大正十三年五月五日合祀
笠松神社 鵜萱不合葺命   笠松   右同
大社神社 大国主命     宮園   右同
聖母神社 息長足姫命    射馬ノ元 右同
この社は河上神社ともいい口碑には猪股五郎左衛門の姫生涯嫗を祭ると伝えられている
祭日は八月十五日とされ社前に於てアシナカ踊をした。(民俗遊芸の項参照)
祭日 現在 元旦祭 元旦 春祭五月十九日祇園祭七月十四日(毎年山笠をたてる)宮日祭十月十四、五日(旧十月十八・九日)
由緒 伊豆能売神を祭る。旧記には祭神瓊々杵尊、木花開耶姫命、一説に相殿に伊豆波女神、神直日神を祭るとある。
 初めは稜威大明神とも書いたというが、安永七年棟札には伊豆大明神とある。宗教法人設立公告により伊豆能売神を祭神とした。伊豆能売神はあらゆる穢を直す神といわれている。鳥居は昭和五十七年島津橋架替に伴い、従来の西向を北向に移設した。

「筑陽記」 ○伊豆大明神社○貴布祢社

「筑前国続風土記附録」○伊豆大明神(神殿方一間、拝殿二間三間祭礼九月一九日、奉祀松本典膳)産神也。祭る所天津彦々火瓊々杵尊・木花開耶姫命也。初は稜威大明神と書しが、後に伊豆と書改む(そのこと社人の説あれともことなかければ、もらし侍る。社内に貴船社及楠の神木あり) ○福地神社 小古野

「筑前国続風土記拾遺」○附録と大差なければ省略す。同書にあしなか躍のこと記しあるもこのことは別に記す。

「福岡県地理全誌」○村社伊豆神社(本殿横一間入二間渡殿二間入二間半、拝殿三間四間石鳥居一基社地五十坪氏子五十五戸)村の西川辺にあり(伊豆昔は稜威と書けり)祭神瓊々杵尊、
 木花咲耶命、相殿に伊豆波女神(宮永保親云、此神一名速秋津姫命と申す。此神は湊より海に入、地を守り玉ふ神徳ある故に湊内に此社あり、上代此村の辺海なりし由なり)神直日神、大直日神を祭る。祭日九月十九日、社地に楠の大木あり(周、四囲)村老ノ伝(あしなか躍の項につき略)○摂社、一、御歳神社(福智山)末社、ニ、貴船神社社地三、須賀神社権現山○小社二所
 若恵比須神社坪ノ内河上神社(射場ノ元)

 棟札写
表     神主松本出雲藤原春房謹書
   筑之前州遠賀懸嶋津村
      農長 矢野與十郎
奉建立伊豆大明神拝殿 本願主当邑産徒等中

安永七戊戌歳時八月中旬組頭 矢野源六
              江藤喜四郎
 大工山鹿村伊三郎 小工弐人

三 住吉神社     大字若松字丸ノ内

祭神 底筒男命・中筒男命・上筒男命
社殿 本殿 瓦葺 幣殿 瓦葺 拝殿 瓦葺
境内社
貴船神社 高龗神・闇龗神 神域
元文三年社記によれば応永十四年高倉神田帳に若松貴船社御祭料三百歩同郷若松ニ在之
厳島神社 市杵島姫神       神域
白山神社 伊邪那美命・菊野比売命 神域
由緒 祭神は住吉の三神。往昔神功皇后御凱旋の途次筑紫の蚊田(今の宇美)にて誉田皇子御降誕の後、鹵簿を整へ東帰の途中この宮の山上に上り海上に浮み、或いは飛び交う水鳥を眺め給うたので鳥見山といい、無事三韓平定出来たことは偏に住吉三神の恩啓によるものと自ら一株の松を植え、白い御幣を納め、この松は神の御影と共に弥栄えに栄えと誓はせ給うたので此地を若松とよび住吉三神を齊き祀つたという。創建の年代は詳かではないが、棟札に貞享元申干(一六八四)九月二日より初め下旬に成畢とある。
 この社は始め、皇后釣糸を垂れ給うた所という山上に建てたというが後、現在地(元貴船社地)に創建したといわれている。
祭日 現在 元旦祭 元旦 御神幸祭 五月二十日(貴船社神事)夏越祭 七月晦日 宮日祭 十月十四、五日(旧十月十九・廿日)新穀感謝祭 十二月二十日
旧祭(社記によるもの)
年始神事 正月二十日、船玉祭 二月二十日(舟乗の人々遠近より参集)身滌の祓(夏越祭) 六月晦日大祭 九月二十日 新嘗祭 兼宮座祭 十一月二十日
このほか貴船祭五月二十日御神幸あり、また駄祭の座をなす

  住吉大明神社々記
    筑前国遠賀郡若松村に御鎮座の住吉
大明神は此地の産土神と称へ仰き奉る御社創祀の年代は詳かならされとも古くより祀りしことは後に述べし中葉の棟簡に当住吉大明神宮奉建立その脇書に干時貞享元甲干(一六八四)九月二日より初る同下旬成就畢右ハ先社凡弐百余年に至而造立如斯時代官花房源右衛門大工伊予国尾知郡今原米屋町住人(遠賀郡鬼津村大工)中村又兵衛(歳四十余)豊前国小倉田町小工石蔵源七(歳二十三)とあり(棟簡今ニ存ス)抑御鎮座の起原を尋ねるに神功皇后征朝の御時官船の先鋒となり、玉体に服従して守護ましゝ大神なれは、その霊験のいちしるしき事古書に載せてくはしけれは皆人の知る所なり神功皇后凱旋の功をとげ給ひて筑紫の蚊田(今宇美と称す)と云う処にて譽田皇子御降誕ありてやかて鹵簿を整のへ東帰し給ひける時崗の津(山鹿の岬より若松までの間を云)に着せ給ひこの丘陵に登りまして海上に浮み或は飛び交ふ水鳥を眺め給ふ。其処を後に称して鳥見山と云ふ此時神功皇后群臣を召して、このたび三戎をたやすく従かへし事はひとへに此神の恩頼なり、豈しばらくも忘れんやと宣り給ひて御手づから壱株の松を植させ給ひ其もとに白き幣を納めてこの松は神の御影と共に弥栄えに栄えと誓はせ給ふ因つて此所を若松となむ唱へて住吉の三神を齊ひ祀りしとかや後に神功皇后をも配祀すと云ふ。
旧記に住吉の社は昔神功皇后同殿にてそのかみ釣を垂れ給ひし所なりとも云ふ。
また、嶋田の駅(延喜式厩令三代実録等にみゆ)の渡口なれば行かふ船の守護の為に住昔より此処に祭りしなるへしとも云ふ。今に渡し口といふ字遺れり。此の渡口は嶋門駅より渡り上る所にて太宰府より京に上る官道なり。住吉大神はもと(鬼津は官津の由なり官津を大津また御津なと書き後転訛して鬼津とは云なり)の産霊なれば其の支村たる若松小鳥掛共に其産邑たり。
御社は古へ鳥見山にありて西に向ひ、弥遠永に異敵を防ぎ給う誓を示し給ひしか、貞享の頃鳥見山の麓に移し東に向ひて造営せる由云伝今の社地は古へ貴船社の社地なりしなるへしさて東向になせしは御造営の時西向なれば鬼津にて造営すへしと云い東向なれば若松のみにて再建すとの争おこり遂に今の如く造営せしものなり因って中葉よりは専ら若松の村人祭儀をはしめ修営の事まですへて執り行うことになれりと云以下(祭典のこと前記せるに付)中略 貴船社「境内に祭る貴船社は応永十四年(一四〇七)京都公方検使沓屋六郎右衛門入道昌西、同志井入道、同長野掃部下向之時、書上の高倉神社神事定書神田帳に若松貴船社御祭料三百歩同郷若松に在之とあり、此御社は岡の庄六貴船の一社にて有名の旧社也。祭日は四月二十日(現在五月二十日)にて神幸あり頓宮所は五町許り北、字築出の畑の中にあり、旧記に貴船社はいと古き社なれば此の村・地主神ならんかと云へり。社田多くありて粢盛の料に供せり(後世住吉神社の社田というは此の貴船社の社田ならんかといへり)
末社二社あり弁天社所祭市杵嶋姫命祭日は八月十七日にて放生会と唱ふ白山神社所祭伊邪那美命菊野比売命なり」中略
「此の里の名の若松のこと堅磐に常磐に幾秋も翠の色を増して氏子の弥栄えに栄えんことを祈り御社の縁由を後葉に伝へんとてちけ無とも
禿筆もて元文三年(一七三八)六月
占部宿祢市太夫謹みて記す

「筑陽記」住吉大明神社

「筑前国続風土記拾遺」=住吉神社(村上にあり産神也社地に「貴船社」あり旧社也高倉神田記に若松貴舟祭三百歩同郷若松在しと見えたり、いわれは貴舟社もとは此地主神ならんか住吉社の事同書にも見えす旧説に此社神功皇后御同殿にてそのかみ神后の釣垂給ひし所といふ)

「福岡県地理全誌」=住吉神社(本殿五尺四面、渡殿横一間一尺入一間半拝殿横三間入二間半石鳥居一基社地二百五十坪氏子四十二戸)本村ノ内鳥見山ニアリ祭神住吉三神
祭日九月二十日(伊藤常足云、古書ニ崗津ト云ルハ今ノ山鹿浦ヨリ島津モシクハ若松迠ノ間ヲ云ナルヘシ、此辺マサシク船ヨリ鞍手郡内ニ入ルヘキ道筋ナリ若松ハ今モ川ノ辺ナリ、此村ヨリ西ヲ今ニ至テ岡ト唱ルナリ此村ニ住吉神社アル事甚タ古メカシ、古へ船ノカゝル津ニ住吉ノ社ヲ祭ル事例多シ)
旧説ニハ神功皇后モ同殿ニテ昔皇后釣ヲ垂玉ヒシ所ナリト云。摂社一、貴船神社(社地高倉神田記ニ若松貴船祭三百歩同郷若松有之ト見エタリカゝレハ、モトハ此地主神ナリシカ)末社、一厳島神社社地。
白山神社鳥見。

四 貴船神社     大字鬼津字矢倉

祭神 高龗神・闇龗神
社殿 本殿 瓦葺
   幣殿 瓦葺(昭和二年七月再建)
   拝殿 瓦葺(明治十三年十一月新築)
 社務所(五坪瓦葺) 絵馬殿(十坪瓦葺)と昭和二十八年宗教法人申請の神社明細書に記せるも今はなし。
境内社
               旧鎮座地
須賀神社 素盞嗚命      神域 安政元甲辰八月勧請
菅原神社 菅原神       神域
今宮神社 素盞嗚命・櫛稲田姫命 〃
厳島神社(七社)厳島姫命
 一門氏神社である。この神社は鬼津の特色でもあり、次項に別記する。この項に於ては現状のみを記す。右より旧井口山崎神社 最近矢倉より移築。井口山崎神昭和五年九月。二村神昭和二年十月。入江神昭和十四年五月。竹森神昭和八年十月秦神昭和五年八月。松尾神大正八年二月。太田神昭和五年三月。
由緒 村中牛馬安全のため勧請したがその年号は不詳(鬼津明細帳)であるが、昔は西川の辺(島門小学校の附近を貴船の元という地名がある)にあったが、永享の頃、農民に神託があったので矢倉に新宮を造り遷し奉ったが、この地は断崖に臨み狭隘で危険なため、更に今の地に奉祀したが、六十七坪で狭隘殊に一般参拝のときは混雑不便のため、昭和十八年十月境内拡張許可を申請して拡張した。
祭日 現在 元旦祭一月一日、獅子祭七月十六日、風止祭七月三十日、宮日祭十月十四、五日(旧十六、七日) 旧祭日は不詳である。

右記録
「筑前国続風土記拾遺」○厳島明神の祠四社あり
「福岡県地理全誌」○村社貴船神社(本殿一間四面拝殿横三間半入二間半社地百坪氏子百四十七戸)本村にあり祭神高龗神闇龗神祭日六月五日末社ニ、須賀神社・厳島神社(共に矢倉)

2 鬼津一門氏神社
 氏人という語の中世の意味が、伊勢の両宮又は賀茂の下上社でいうのと、春日・平野神社で用いられたのと神社によって色々と意味のちがいがあったように、今日日本人の氏神といっているものにも、土地や場所によりかなり著しい差異がある。
 1、村氏神―或一定の地域内に住む者は、全部氏子として其祭りに奉仕している氏神社
 2、屋敷氏神―これはその殆んど全部が今日謂うところの神社ではない、無格社としてすらも認められていない、屋敷の一隅に斉き祀られている祠である。近頃では石の祠で常設のものになっているが、もとは春秋の祭りの日に先だち新藁や柴の小枝を以って仮屋をつくり、もしくは、ただ露地に紙の幣串を立てて祭りをしたもので、祭の場所だけが定まっていて建物のないのが普通であったという。
 3、一門氏神社―これは前二社でもなく、それ以前からあったと思われる。(柳田國男集)
 かつてはそれが多くの同族が一体となって祀られるもので、最も古い型の氏神といわれる。この一門氏神社はこの近隣にも数少ない。
鬼津における氏神社については「遠賀郡誌」には次のように述べている。
 二村・松尾・秦・井口を鬼津の四姓と唱へ来れり、各家此氏の社を祭るに他姓の人を交へず、其氏の人のみ集りて年中の祭儀をはじめ、修繕の事とも総て之を執行う。
里説に秦氏最も強盛なりし故、先づ此神を祭りしかば、井口、二村、松尾の三氏も相継いで勧請し太田、竹森氏も之に做いて祭りしに非ざるか、又一説には各其氏の神を祭りしに、いつの頃よりか厳島神社を六氏同日に、各特別に斎き祀ることとなりきと、又奇と謂ふべし。
 各氏神社を厳島神社としたのか、按ずるに神社帳書上の際、氏名の神では由緒確ならずとして取潰されそうな虞から、村役人などの工作で名ある神の名を書上げたものであろう。当所もそのようなことから厳島神社としたものではあるまいか。

 これに対し以前の氏の神社名に復するようにとの復旧願書がある。
 無格社厳島神社々号復旧願
遠賀郡嶋門村大字鬼津無格社厳島神社(四社)社号ハ元井口神社・二村神社・秦神社・松尾神社ト称シ古来ヨリ井口・二村・秦・松尾四姓祖先ノ霊ヲ祭祀スル神社ニシテ右氏々ヲ鬼津四姓ト唱フルコトハ近郷知ラザルモノナシ、現今ニ至ルマデ村落組合戸口交錯スルモ其氏人ニ限リ宮座ト称シ春秋祭事ヲ奉仕シ来リ候。然ルニ明治三年神社帳書上ノ際、時ノ神職安高賢木ヨリ各家ノ氏神即チ井口神社。
秦神社ト書上候へハ自然淫祠ト見做サレ廃滅ニ属スヘキヤモ測難キトノ趣旨ヲ以テ猥リニ、右四社ヲ総テ厳島神社ト書上候由、実ニ我祖先初祀ノ素志ニ相悖リ候ノミナラス縁由モナキ厳島神社ヲ祭祀スルモノトセハ従来、四姓ノ氏神タルヲ湮滅スルニ至ラン。我苗裔概嘆ニ堪ヘス何卒特別ノ御詮議ヲ以テ、右四社々号復旧ノ義御許可被成下度此段社掌連署ヲ以テ奉願候也
    記
鬼津字矢倉 鎮座 厳島神社 旧号 井口神社
〃  井ノ浦〃    〃   〃 二村神社
〃  西口 〃    〃   〃 秦神社
〃  油面 〃    〃   〃 松尾神社
右   厳島神社氏子総代
          井口太平外二名
          二村弥七外二名
          秦 岩吉外二名
          松尾良平外二名
   村社貴船神社々掌 占部稜威男
 明治二十八年
 福岡県知事 岩崎小二郎殿

 所詮この神社名に復旧の願は叶わなかった。
 一門氏神社の貴船神社への合併について、各氏間で種々協議されたが、思うように纏まらなかった。然るに機熟し大正十三年四月、次の如き協議案を区長松尾馬吉、氏子惣代井口惣太郎外二名より提案され同三十日可決し同年十一月三日合併完了した。

「協議案」
一、かねて行悩みつつある厳島神社及須賀神社を村社貴船神社境内へ合併するに付左図ノ如ク安置す。但合併に就ては現在の石室を其侭使用し各六社は各々軒を並べ石室と石室を接触すること、右よりイロハ……順は六社にて抽せんにより定むること。
一、合併に際し石室を改築する場合は最小石室を標準として製作すること。但石室は随意
一、合併に関する費用は六社に割当負担する
一、合併跡の地所、建物、立木、石材等は一切村社貴船神社へ提供すること。

 この外各六社より委員一名の撰出、合併願出は従来作製のものを使用すること等、詳細に取極めが記されている。しかし現状では石祠は大小不揃である。

五 地主神社     大字鬼津字小鳥掛

祭神 倉稲魂命
社殿 本殿瓦葺 拝殿瓦葺
境内社          旧鎮座地
貴船神社 高龗神・闇龗神 小鳥掛三五三九
明治四十年十一月二十六日 移転合祀
須賀神社 素盞嗚命
祭典 現在元旦祭一月一日 宮日祭十月十四、五日(旧十月十六、七日)
旧元旦祭 二月十日 例祭 九月十日
新穀感謝報告祭(十一月十日)
由諸 当社は昔、茶屋の下にあったものを今の地に移し祀ったという創建の年代は詳かではないが同社にある記録から天明二年より下ることはない。現社殿は昭和五十三年三月二十六日改築したものである。

○鬼面―天明二寅九月 地主宮社職 安高広勝・庄屋 三原六助
○棟札

奉新造立地主大明神鳥居一基 村中安穏五穀豊饒。天下太平 風雨須時 神祠 安高斉宮広勝。国家安全諸病消除 庄屋 三原六助

奉 願主 村中。天明三癸卯二月吉祥月 組頭 藤吉・次右ヱ門。大工。久枝甚七宣直・甚平(但この鳥居今はなし)
「筑陽記」=○貴布称社
「筑前国統風土記拾遺」=地主大明神産神也(大物主命を祀る祭礼九月一三日)
「福岡県地理全誌」=○地主神社(本殿横四尺入四尺三寸拝殿横二間入五間半木鳥居一基社地二畝八歩小鳥掛ニアリ、従前此所ノ産神ナリ祭神稲倉魂命一説大物主命祭日十一月十一日末社三須賀神社貴船神社共ニ社地菅原神社舟郷)

六 牟田神社     大字尾崎字先之野

祭神 伊弉冊尊 大日孁貴尊
社殿 本殿銅板葺千木三本有幣殿瓦葺 拝殿 瓦葺
境内社           旧鎮座地
須賀神社  素盞嗚命     神域
事代主神社 事代主神     〃
貴船神社  高龗神・闇龗神  前田
厳島神社  市杵島姫命    蟹喰
大正十一年三月二十六日移転
愛嶽神社  軻遇突智命    高山
大正十一年三月二十六日移転
祭日 現在 元旦祭 元旦 春祭 五月五日風止祭 九月一日 宮日祭 十月十四、五日(旧十月十四、五日) 新穀感謝報告祭 十一月二十六日
旧祭礼について「遠賀郡誌」は=五穀成熟の祭 二月十五日、大祭を九月十四、五日執行、十四日角力奉納十五日例祭にて神楽を奏した。高倉神社の巫女、惣ノ市という者、之を奉仕せし由なれども婦女の事なれば何の記録にも存ぜざれば、其顛末を知るに由なしとある。
由緒 当社は従来、熊野(神)社と称したと伝えられ、由緒等不詳であるが永禄二年(一五五九)社殿、宝物等大友の為に焼かれ、すべて灰燼となった。その後、僅ばかりの社殿を造営されていたが、大正二年再建し同十一年愛嶽神社外二社を境内に移転合祀した。
 愛嶽神社は大字尾崎、字高山山上にあった。古くは高山の黒尾社 云々と古書にみえている。
 かつての社殿は、神殿(石祠)(入四尺五寸横二尺)幣殿(入一間横二間)拝殿(入二間横二間三尺)石鳥居(現在牟田神社に再奉仕)社有地は千百七十三坪社有山林一町三反三畝十八歩と広い面積を有していた。
 「神社明細書」によれば、当社は宝永二年(一七〇五)三月の創立としるされている。
 火難除、牛馬守護神として参詣する者多く、特に四月二十四日の大祭には遠近の農民、牛馬を美しく飾り之を引きて参詣し、また八月二十四日の例祭の前夜は尾崎字前田、(旧貴船神社の地にして現、高崎博愛家の南広場)に御神幸があった。
 山鉾を出し、花火を打揚げた。当日は参詣客で雑沓し、神輿は暁に至り還幸し、翌二十四日は社頭にて角力を興行することを恒例したといわれている。また、旧藩中は厩の祈禱をなし神符を納めて乗馬の安全を祈り、藩士達は遠騎参詣するものが春秋絶えなかったと記録にある。
 「尾崎ヨイトコネー、愛嶽山の麓、牛馬の詣りをネチョッテ、ミチョッター」との唄もある。高山は展望よく特に夏の夜、響灘の漁火波間に明滅する有様は実に画図の如しと言われているが、さもありなんと昔の様想が偲ばれる。然るに同社も牟田神社に移転され、跡地には愛嶽神社跡地三反九畝三歩 大正十二年五月此費用一切拾五円とかいた花崗岩の碑(長さ六尺)も押倒され、昔をかこっている。
 この跡地も今では売却され、公民館建設費などに使用され地域住民のため役立っている。

「筑陽記」=○高山権現社 所祭熊野也。
○貴布祢社 ○宝満宮

「筑前国続風土記拾遺」=○熊野権現社 先野に在産神也
 高倉社神田記に熊野権現免田拾四町三反六十歩
 五力郷と有、五力は今も鬼津村の内に在、此熊野即当社の事なるへし
○高山社(今愛獄と云、高倉神田記に高山黒尾御祭料一段に山田郷高山寄合と有)

「太宰管内誌」
○高山権現社「高倉神社旧記」に高山権現并貴船十一月御祭料四反半同郷高山寄合とあり、又高山ノ黒尾御祭料一段小、山田郷とあるも此権現の事をいふか高山と云は遠賀郡尾崎村ノ南にありて登り三四町許りの山なり、神官高倉村神伝院なり、社の向よう祭日等の事は重ねて考ふべし
○大崎貴船社「高倉神社旧記」大崎貴船并志々岐二段大同郷大道一二反覚有とあり、遠賀郡尾崎村貴船社は村ノ北はずれにあり、古き松などある処なり、小社なり、東南ノ間にむかへり、高山ノ小嶽権現ノ祭り神與此処まで来り給ふなり、されども頓宮には非ず、註1家大明神と大崎大明神とは今別に神官ノ山伏有て支配別基の社なり、そは其処々にいへるが如しと。
註1高家大明神の高脱字にあらずや尚、旧記に志々岐社毎月御祭料一反、小安久とあり、又大崎貴船并志々岐二反とあるも志々岐はここなるかなほ考ふべしとある。
○黒尾社「同書」に高山ノ黒尾御祭料一反小、山田郷高山寄合とあり、上にあげたる高山権現と同社なるべきか「宗像宮祭祀次第記」に山田黒尾ノ社と云はあれど是とは別なるへきか、なほよく考ふへし高山は遠賀郡尾崎村にあり、黒尾は久呂遠と訓ムへし土人は小竹権現と云なり、高山ノ上にあり、北向なり、木の鳥居あり、神殿は石殿なり、八月廿三日祭あり。

「福岡県地理全誌」=○牟田神社本殿四尺四面拝殿横二間入一間、社地百八十坪氏子九七戸村ノ東南二町先野ニアリ祭神伊弉冊尊、大日孁尊、祭日九月十四日従前熊野神社ト称来レリ、末社三、「白山神社」白草祭神軻遇突智命、祭日八月二十四日高倉神田記ニ高山白山権現十一月祭料四反半同郷高山寄合ト見エタリ「厳島神社」蟹喰「貴船神社」前田高倉社席記に大崎貴船并志々岐二段同郷大道一段覚有トアリ
○愛岳神社本殿横五尺入四尺五寸渡殿横二間入一間半拝殿横二間半入二間石鳥居一基社地五百坪高山ニアリ従前一村ノ産神ナリ、祭神軻遇突智命祭日八月二十四日高倉神社記ニ高山黒尾御祭料一段山田郷高山寄合トアリ祭日ニハ神輿ヲ前田貴船社ニ出ス摂社一、大神宮、坂
○菅原神社前田

七 白山神社     大字尾崎宇城ノ越

祭神 白山 姫神
社殿 本殿亜鉛鉄板葺拝殿 瓦葺本殿昭和二十五年
祭日 祭 九月二十四日
「由緒」=不詳ト雖社伝白山権現社記ニ当白山権現ハ往昔高山権現卜称セリ、祭神ハ白山姫命ニシテ御鎮座ノ年代ハ詳カナラズ、サレドモ今ヲ距ル三百六十余年前応永十四年京都公方検使下向ノ節書上ゲタル高倉宮神事定書神田帳ニ高山権現并貴船十一月御祭料四段半同郷高山寄合トアリ旧社ニシテ祭礼ナドハ、イト厳重ナリシ事ハ推シテ知ラルルナリ、御社ハ小社ナレドモ蓊欝タル森林ノ中ニアリテ古メカシキ地ナリ、当村ノ内ニテ社田ノアルハ此社ノミナリ、是昔ノ神田ノ存ゼシナルヘシ祭日ハ九月十五日ヲ例祭トス。此処ヲ葉草ト云(白草トモカケリ)
人家両三戸アリ後世ハ唯葉草(ママ)ノモノニシテ祭ル其ノサマ家々ヨリ餅甘酒ナト種々ノ物ヲ供ス。至ツテ古雅ナル式ナリ、又、歯ノ痛ムモノハ数多揚技ヲ作リテ祈願ヲナシ、詣ツルモノ多シ。霊験イチジルシトカヤ聊カ御社ノ事ヲ書トメテ後ニ伝エントスルモノハ高倉宮ニ仕へ奉ル 社司 占部宿祢求馬
宝暦十三年九月吉日謹テ記ス

「筑陽記」=○白山神社 所祭熊野神ニ同

「筑前国続風土記拾遺」=○白山神社葉草貴舟社前田高倉
神田記に高山白山権現並貴舟十一月祭料四反半同郷高山寄合と見へたり、「福岡県地理全誌」牟田神社末社トシテ記載アルニ付省略ス

八 皇太神宮     大字尾崎字先之野

祭神  大日靈貴命
社殿  カラー亜鉛鉄板葺
由緒  享保元年八月創建。当社は旗生氏の祖、旗生伊左エ門、同利左右門の勧請奉賽したもので大日靈貴命を祀る

九 今泉神社     大字別府字宮ノ前

○祭神 大倉主命・菟夫羅姫命・日本武尊
○社殿 本殿カラー鉄板葺 幣殿 瓦葺 拝殿 瓦葺
○境内社          旧鎮座地
事代主神社 八重事代主命  神域
貴船神社  高淤加美神   〃
      闇淤加美神   〃
綿津見神社 綿津見神    〃
保食神社  倉稲魂神    南   明治十五年一月十八日移転
厳島神社  多紀理媛    南   大正十一年五月十六日移転
多岐津媛
市杵島媛
須賀神社  素盞嗚命    北浦  同右
大山祇命
猿田彦神社 庚申神者天穂日尊 宮前  移転 不詳
○祭日 現在元旦祭元旦 春祭三月二十八日 風止祭九月一日 宮日十月十五日(旧同月九、十日) 新穀感謝報告祭 十一月二十八日
○由緒 勧請の年代不詳であるが古老の伝説に天暦の頃、日本武尊を祭ったという。
 境内も宏壮であるが永禄二年大友宗麟の兵火に罹り古器物文書も悉く灰燼となったという。小早川隆景筑前を領するに及んで、其臣安増甚左ヱ門により社殿を修造したという。
 大倉主命・菟夫羅姫命は高倉神社と同一神であり、元禄五年佐田長左衛門により修飾したという坐高三十センチメートルの御神体も坐します。

「今泉大明神社々記」
 掛巻も畏けれども遠く御神鎮座の始めを尋ぬるに勧請の年月ハ詳ならねども相殿に日本武尊を斎ひまつれるハ天暦の初年なりしと社伝にありしよし古老の口牌に言継きたり
 本殿中央ハ大倉主神右殿ハ菟夫羅姫神左殿は日本武尊なり高倉宮と御同体にして(高倉宮には日本武尊を祭らず)大神宮儀式帖に津夫羅比古神津夫羅比売神とあり同宮旧記に応永十四年(一四〇七)(今元文三年を距る実に三百三十年余なり)公方検使沓屋六郎左ヱ門入道昌西同四位入道同長野掃部殿下向之時書上の高倉神事定書神田帳に別府今和泉社御祭時両度御花米二斗(今二斗)とあり、さればこの以前より二斗ありしを応永の頃猶二斗と註に書入れあるを見ても古き御社たるハいとあきらかなる事なり、抑高倉宮と申し奉るハ人皇十四代仲哀天皇即位二年熊襲の国を討んとて紀伊の国より穴門(今の長門の国)の豊浦宮にとゞまり給ひ神功皇后ハ越の国角鹿より穴門に行啓し給へり、此時岡県主熊鰐と云へる人 天皇の西征し給ふことを聞て御船をよそひ参迎へて海路を導びきて筑紫の岡の浦に入ります時水門に至りて御船進むことを得す 天皇すなはち熊鰐に向ひてのたまはく 汝熊鰐ハあかき心ありて参れりと船のすすまざるは何ぞやと
 熊鰐奏して申さく御船進むことを得ざるはやつがれが罪にあらず此浦の口に男女の神二柱ませり男神を大倉主神女神を菟夫羅姫神といふ。かならず此神の御心ならむと申す 天皇是を聞し食(ママ)(召)して乃ち挟抄者倭国菟田人 伊賀彦を祝として祭らしめ給ひしかば御船進ことを得たりと日本書紀、仲哀天皇の御紀に見えたり夫より 天皇香椎の宮に入らせ給ひて後、神功皇后三韓を討ちしたがへ給ひて御凱旋の時全勝を祈り祭り給ひし天神地祇に報賽の御祭りあり。其後皇后の摂政二年壬午の五月午の日始めて勅使を下し高倉の邑に御社を建てゝ祭らしめ給ふ故に今に至るまで午の日を以て祭るといふ、斯く皇后の崇め尊み給ひし御神なれば歴代の天皇もことに崇敬せさせ給ひ遠賀の県に許多の神田を寄せられ祭礼神事の折から在庁の官人(大宰府の官吏をいう)をして其事を監察せしめ給ふよし同宮御縁起にあり、日本武尊の御事も同じ縁起に載せあれどもここに省く。さてこの別府とハ往昔大宰府の官吏の政務を執り行はれし所なれバ称して村名とするよし言ひ伝ふ=中略
 今泉とは御社の前に大きなる川ありていさぎよき流れあればなるべし
 一説にそのかみ今厳見とかきて御神威の厳々しきを今に見ると云ふ意なりといへり。また今泉を以万津見と訓みて今積とも書りと云ふされば大宰府の官人此地に住み給ひぬれば殊に崇敬あつかりしとぞ。
 其後多くの星霜を経て社殿のありさまなどそのあらましをだに知るよしなきはいとも歎かはしき極みなりかし
 足利尊氏官軍に敗走し九州に逃れ下りし時また大友宗麟耶蘇の法に迷ひ永禄二年(一五五九)諸所の神社を焼失せし時など当御社も其災にかゝり古器物文書類社記等も皆灰燼に帰し社殿も其後をかたばかりなる社頭にて衰へたりといふも中々なり、然るに小早川隆景公名嶋に入城ありて筑前を領せられし時其臣安増甚左ヱ門を千代丸城に入れ置きしかば御社を修造し崇敬せられしが隆景公の義子秀秋に至り名嶋没落の後安増氏は農に帰し其子孫千代丸に住居し繁栄せり、元禄五癸酉年(一六九二)本村の豪農柳野五三郎社殿の挾少にして頽敗せるを憂ひ氏子と共に力を戮せ造営修補をなし、また願主となりて御神体をも佐田長左ヱ門といふに命じて修飾し奉り自ら宮柱となりて神事を斡旋し廃祭を復興しぬ。しかして又御供田弐反九畝拾四歩を献納せり 正徳二年壬辰(一七一五)六月庄屋柳野権助同左助村民と謀りて石の華表を建立し、また享保廿一年(一七三六)に高弐石八斗四升五合外に字白賀にて三畝の祭田を氏子中より寄附せり、社田の総石高は七石六斗余なり、是を以て年中祭資の幾分に供せり因りて神事をも厳粛に行はるゝに至れり御社地は御徳除地にて畑三百歩
とあり。

 以下社記により年中の例祭を記す ◎三節の大祭と云 ○年始祭  正月元旦より三日まで氏子の男女参拝す
◎五穀成就大祭 二月九日
○早苗祭 五月 中日を中にして五昼夜の勤行なり(往昔はいとみやひたる祭りといふ)これ即ち十五日を中に五昼夜の勤行である。
○夏越の御祓 六月晦日
◎大祭  九月九日 一年中の大祭にて本社より北十町許りの高瀬迠八日の夜神輿渡御近村の老若の人々お供し賑やかにも厳粛な神幸で頓宮の地を貴船堤という。
 其夜東白む頃還御、九日は神楽を奏す。
◎新穀感謝祭 十一月九日 新穀を以て御酒を醸し御饌を炊き畑の物を奉り氏子参集し直会をなす。古は重く執行せしと云。
○越年祭 十二月晦日 氏子参籠し庭燎をたき暁に至り退散す、毎月朔望には神饌を調進し日供怠ることなし
 社殿は宏壮にして近村に稀なる堅固の構造なり摂社三社あり弁財天本村、事代主社同上、貴船明神(千代丸)末社二社あり祇園社北浦弁財天社(千代丸)境内には貴船明神・龍王(相殿今宮)社あり
 以下当社八景のことあるも瑞穂舎家集にあり、省略する。
 我が産土の大神国家安全氏子の繁栄を守護し幸へ給へと謹みて申す者は占部の宿祢市太夫 時は元文三年(一七三八)戊午二月八日なり。

棟札写
(1)郡宗廟高倉神社別当神伝院六十八世権大僧都法印豊岑 宝暦九年己卯十月
奉造営別府村産土神今泉神社神殿拝殿二宇国家太平村中風土順時五穀安全豊饒守護 氏子中
太守筑州牧四品下行左近衛権少将源朝臣継高公 社司 占部求馬氏次代 庄屋 利兵衛 組頭清助同徳次郎同弥七家上葺筥崎 清助善五郎  神殿此時者小板葺也
(2)
安永七年戊戌十一月廿四日
奉再建惣産土神今泉神社国土太平村中安全風雨順時五穀豊饒守護氏子中 太守筑州牧従四位侍従源治之公
社司 占部求馬代 別府村庄屋 安増忠次普請方添田又右ヱ門同安増勝右ヱ門同和田次郎助 組頭源兵衛同正四郎棟梁大工山鹿村堀江藤作藤原舎晴
木挽棟梁当村 古野與助
(3)
筑前国遠賀郡別府村産土今泉神社中殿拝殿再営(本村・千代丸・高瀬・高家・花園・尾倉)全戸数百五十一烟(ママ)総産徒中 祠掌黒山利廉 少講義占部稜威男 保長江藤甫作 戸長村田代作 伍長柳野半九郎 同占部治三郎 同安増貞六 同石松源兵衛 同石松彦三郎 同高又六 新築世話人江藤多吉 同泉原兵七 同安増新次郎 同吉田伊七郎 同安部壮平 棟梁本村 石田幸次郎 大鋸同秦権三 棟梁高家 石松弥七 大鋸 同岩崎茂七 石工虫生津村古野源市 同古野平七 小工アシヤ山田久市 同木守副田源七 同山崎多吉 同山鹿山田久平 同石松涛壮 同石田常次郎
裏面
筑前国遠賀郡別府村本居 今泉神社中殿拝殿経星霜垂百五十年為風雨虫蠹所敗壌祭礼欠典業己十数年保長(村務綜理)江藤甫作及伍長某等率先謀再営然而(ママ)旧殿東向境内狭隘氏子輩不亦容保伍長詢之干村民改為南向醵財立資着手於土功明治十一年冬十月奏営築之功其十二月択令辰慶落今兹十三年変換神殿位地以整宮殿之葺為伏冀 神明垂感応四海艾安部内康楽風雨順時梁穀豊穣棟簡裏書如斯 紀元二千五百四十年(明治十三年)冬十一月九日 占部稜威男謹記
この他、以後の棟札によれば
昭和九年三月社務所を新築せるも今はなし
昭和五十五年九月に神殿・幣殿の屋根葺替並修理せることあるも記載を略す

「筑陽記」 ○今泉大明神社

「筑前国続風土記拾遺○今泉社」本村に在産神也所祭大倉主神莵夫羅媛神日本武命事代主命也占部氏奉仕境内に貴船社竜王社弁財天社有

「太宰管内志」 ○今和泉社 「高倉神社旧記」に別府今和泉御祭時両度御花米二斗今二斗とあり、今和泉社は遠賀郡別府村にあり、社は東に向へり、神殿幣殿拝殿石鳥居あり神官代卜部世々是に仕ふ祭礼九月九日なり、社は山林の内聊高き処にあり、九月の祭には社官等里神楽を修行す里俗イマヅミノ社と唱ふる也。

「福岡県地理全誌」 今泉神社本殿一間四面渡殿一間半四面拝殿二間半四面石鳥居一基社地四畝本村ニアリ従前本村ノ産神ナリ祭神大倉主命莵夫羅命相殿日本武尊祭日九月十一日高倉宮旧記ニ別府今泉御祭時両度御花米二斗今二斗卜アリ摂社ニ厳島神社社地貴船神社千代丸末社ニ事代主神社、社地須賀神社北浦

一〇 貴船神社     大字別府字千代丸

祭神 高龗神・闇龗神・素盞嗚命・菅原神
社股 神殿亜鉛鉄板葺幣殿 瓦葺拝殿 瓦葺
境内社       旧鎮座地
厳嶋神社 多紀津媛 
     多紀理媛 神域
     市杵島媛
菅原神社 菅原神  字野中 大正九年五月二十一日移転合祠
弁才天神社  市杵島媛 宇多羅崎合祠右ニ同
合祠せる弁才天神社は小早川隆景が安増甚左ヱ門をして千代丸城を築城せしめたとき、本城であった福岡市名島の弁才天を勧請したと伝えられている。
由緒 創建年代不詳
祭典 元旦祭 一月元日 風止祭 八月晦日宮日十月十五日(以前は十月九・十日)

一一 天満神社     大字上別府字高家

祭神 菅原神
社殿 本殿 亜鉛鉄板葺 幣殿 瓦葺 拝殿 瓦葺 御絵殿瓦葺(筑前国続風土記附録には縁起堂とある)
境内社 須賀神社 素盞嗚命 旧鎮座地 境内
貴船神社 伊弉諾命(ママ) 伊弉冊命 旧鎮座地 境内
(従前の貴船社は闇龗神なるも、此神名は昭和二十七年九月二十日宗教法人設立公告神社明細書による)
由緒 
 縁起によれば、昔はこの辺までは入海で、延喜元年菅公筑紫に下られる時、海上風強きために御船を此処に寄せられた。その時、里人は酒饌を献し接待を尽したところ菅公は大いに喜こばれ手づから香炉を賜り、且つ真筆を以て紺紙に金泥をもつて書きたる法華経と和歌とを里人に与えられた。そこで里人は菅公薨去(延喜三年八月二十五日)後の延喜七年祠を立て奉祀したという。
 同社は中世乱世の兵火により社殿衰退したが麻生家により再興していたが天正の頃再び焼失し麻生氏も亡び造営する者もなく、竹林に形ばかりの祠であつたが、元禄十二年遍照院という修験僧、里正柳野某と力を合せ社殿を造営したという。また福岡藩主黒田光之、黒田継高も参詣して御供田なども寄進している。殊にこの社の再興には宮本院上野良秀という修験僧の力が多かつた。いまに学問の神として崇敬者が多い。
祭日現在 元旦祭一月不定日 春祭(併新一年生入学祈願祭)三月二十五日 夏祭七月二十五日 大祭(宮日)九月二十四二十五日 御神幸祭 新穀感謝祭十一月 不定日
 以前の祭典は現在とほぼ同様であるが特に九月の大祭は昭和初期頃までは盛大で芝居、角力等各種催物や夜台など出店は参道の両側を埋め遠方・近郷から“高家の天神様”として崇敬せられ、参詣人で頗る賑つた。また角力は遠賀の三大角力の一として高倉神社・河守神社と共に隆盛であった。

「筑前州遠賀郡高家邑 天満宮縁起」(本控より)
 筑前遠賀郡高家村の天満宮はいにしえ菅相公筑紫に下り給ひし時、御船芦屋の津より此所に入りて陸にあかりしばらく休せ給ひし所なるによりて御祠をたて祭り奉る延喜三年公太宰府にて薨せさせ給ひ、其後七年にはしめて御祠を造営せしといふ、古は大社にて境地も広かりしとかや今にその遺蹟といひ伝へたる処多し、福寿院といふ天台宗の寺ありて御祭の事を司りける其跡も御祠の後に残りて今は小さき堂あり、御祠の東馬場の下に田の字を御供田と云所あり是御供の稲を作りし田の跡なるへし又御腰掛の石といひて面は平かにして長さ八尺はかりなる石あり尋常の石にあらす是をうては響あり此石ある所は芦屋より一里はかりあり。いにしへは入海にて御船直に此所に至り陸にあがらせ給ひ石上に御腰をかけ休せ給ひし故、御腰掛の石と名附伝る後に御祭礼の時神行(ママ)ありて神輿を此石の上に置奉りしといふ。
 始の御祠は兵火にかゝりて焼失し其後麻生近江守隆重再造営せらる麻生氏は代々黒崎の花尾の城主たりしか近江守家信といひし人兄弟家督をあらそひ家信は花尾を出、吉木の城に移り居れり、その後又家難ありて家信の孫二人流落し、しばらく他方にありけるか、いかかしけるにや、花尾の麻生をうろほし祖先の跡をつぎ、ふたゝひ旧地を領せられける是を隆重と云隆重は高家に城を築きて居られし故此御祠を再興し四時の御祭も厳重に執行はしめらる其後天正の頃又焼失し麻生氏も亡ひけれは、かさねて造営する人もなくて竹の林の中に小き御祠ありけるを元禄十二年遍照院といふ僧里正柳野某といふ者とはかりて国君に願ひ今の御祠を造立しける。遍照院は今の宮本院祖父なり(遍照院は上野忠右衛門といひし士の子孫なり、忠右ヱ門ハ長政道卜公につかへて食禄四百二拾石を賜れり)御祠成就してその翌年国君宗真公底井野に遊猟し給ひし時詣させ給ひ諸士より種々の物を寄附しける御祠の辺りは古松生茂りて千秋の緑をふかめ梅桜なと花の木もあまたありて色香世に勝れそのかみの盛し時をもおもひみるへくなん侍る。御祠の東は福地山黒崎の帆柱山洞の海をも見渡し北には芦屋平沙山家の城あともつらなりて春は日影うららかにかすみ渡り遠近の山陰にかけるが如く秋は空すみ海晴て緑の波際もなく沖こく船の往来するも木の葉のうけるやうに見え四時の風景いつれを佳ならすとすへきなし誠に海西の勝地といひつへし此所いにしへはすへて別府といふ寄附の地なるによりて名付けるといひ伝ふ
 今はわかちて五村とす高家はその中にあり 東を花園といひ南を尾倉西を千代丸といひ北を別府とす天正の乱に御祠再焼失してより後は御祭礼も久しく絶ふるき文書も皆ほろひぬれは古典をかうか(ママ)(うかカ)へ見るへきたよりもなくて宮本院ふかく是をなけき今わつかにいひ伝へたる事をたにしるしおかまく思ひけるかたま/\一日加藤翁成昌其次子一純をともなひ御祠に詣給ひけるにかくなんと聞えけれは翁の父子その志を感し近き頃一純予に撰述せん事をもとめける 定澄ひそかにおもふに唐の韓父公の祠の碑に公の神の天下にある事水の地中に在るか如し井をほりて爰に水ありといはゞ豈その理ならんやと書ける誠に今天下に此御神を祭り奉る事も水のあまねく地中にありいづくをわくへからさるか如なれと此国は親しく経歴し給ひて今もその御蹤跡を仰き奉りくん蒿悽愴見るか如きも潮洲の人の文公を信し思へるに勝れり殊に此御祠は他の所に先たちていとはやくより祭り奉りし事なればわきてたふとむへき事に侍るしかはあれと世移り時かはり当時の事絶て知る人もなくておろそかにもおもひ奉りなば誠におそるへき事に侍るよつて加藤氏の請にまかせみつから固陋を忘れ口碑に残れるあらましをかい付侍る事しかり後の人わか筆のつたなきを以是をこたふる事なけれ
于時宝暦十一年辛巳夏五月謹てしるす
筑州竹田定澄
□ □
右縁起一冊は明治の始、福岡藩学校副教官上野芳草より神祇官に上進せしものなり
其添書に往古より漢文の縁起なりしが天保十二年丑十二月廿四日焼失せり此一軸は筑前藩儒官竹田定澄の撰、縁起は加藤虞山入道一純の寄附せるものなり=以上の添書がある。
御神幸
 本町に於いて御神幸は当社のみが多少簡略されたとはいえ今日迠毎年継続執行している。茲に嘉永の頃の行列帳をみると。……
 上別府区は前述の如く二神社あるため祭典等につきて明治三十九年の「申合せ」によると。
=元始祭ハ天満宮、山崎宮二社ニテ執行アリ天満宮ハ区長他ノ方角ニ在勤者アル時ハ、高家伍長或ハ神社総代ニテ之ヲ執行ス
山崎宮ハ毎年区長元ヨリ執行ス尚又、元始祭ニ不限、天満宮年中三度ノ祭典共前記ノ如ク都合ニテ執行ス と。但し現在では両社共、神社総代にて執行。

「筑前国続風土記拾遺」=○天満宮 高家に在社説に昔は此辺迠入海也菅公筑紫に下り給ひし時、海上風悪くして御船を爰によせられたり故に後世御祠を立て祭ると云。そのかみは天台宗寿福院(ママ)(福寿院カ)奉仕せり中世兵火にかゝり御社廃せしを麻生氏再興せり天正の頃又焼失す、元禄十二年に遍照院という山伏と村正と力を戮て今の祠を造立すと云八月祭る神幸有宮本院と云修険者奉仕す境内に
○祇園社○貴船社○観音堂○聖徳太子堂有、同天満宮の社地にも麻生氏墓を移すといへる処有、銘文なき故たしかならす

「福岡県地理全誌」=○村社菅原神社 本殿二間四間、渡殿二間四面拝殿横二間二歩巾二間八歩石鳥居一基社地五百二十坪氏子百四十九戸 高家にあり祭神菅公祭日 二月廿五日、八月廿五日
 社説前社記に大差なきにつき省略

一二 山崎神社     大字上別府字高家

祭神 大山祇命・鹿屋野(草野)姫命
社殿 本殿カラー鉄板 幣殿 スレート葺 拝殿 瓦葺
境内社(向って左より)
祭神             旧鎮座地     合祀
貴船神社  高龗神・闇龗神  尾倉       大正十四年
須賀神社  須佐之男命    〃        明治十五年二月七日
豊日別神社 豊日別国魂神   高家(豊前坊山)  右同
須賀神社  須佐之男命    花園       右同
社日神社  大年神      八久保      同右
由緒 鎮座の年代は詳かではないが、応永十四年の書上に高倉神社神事定書神田帳に、高家山崎明神十一月御祭料二反云々とある。
 当社も兵火に罹り衰えていたが、小早川隆景の臣、安増甚左ヱ門の力にあづかるところが多かつたという。
貴船神社 花園 右同
祭神 高龗神・闇龗神
祭日 現在元始祭一月五日。風止祭九月一日
(風止祭典は当社にて行なうが祭神は豊日別神社の祭神豊日別国魂神を祭る)

「社伝」(高家明神社記)
 掛巻も当高家明神は高家山の麓、幽邃閑雅の清地に鎮りまして、御名は大山祇命、草野姫命と称へ奉る、大山祇は於保夜万津見と訓むへし、此神は山を掌り給ふ、木は山に生する物なる故に山開きには必す祭りをなすぞ古の道なる、草野姫は加夜奴比女と訓むへし、
 此神は野を掌り給ふ神なり、野の主なる物は草なり、家造には木に次て加夜はやごとなきものなり、されば古へより所々に斎ひ奉れる大社多かりき、さて遠く二柱の大神創祀の年代を尋ぬるに、何れの頃なりしや詳に知るを得されとも、応永十四年(今元文三年を距ること実に三百三十余年なり)に京都将軍家より沓屋六郎左衛門入道昌西同志井入道、同長野掃部といふ士を下して、高倉神社の神領を検見ありし其時の書上、即ち当郡の鎮守総社たる高倉神社神事定書神田帳に山崎明神社十一月御祭料二反小弥富と記載あり。されば往昔より斎ひ祭りし有名の古社たる事はいと明かなり。此御社は髙家三社の一にして、(三社とは高家山崎明神高家大明神、高家妙見なり)古へは社殿の構造も荘厳なりしが、永禄(一五五八~六九)の頃、数度の兵燹にかかりて、御社もあるかなきかに衰へさせ給ひ、其後小早川隆景公名島の城に入りて筑前を領せられし時、其臣安増甚左ヱ門をして、当千代丸城に入れ置かれしに(千代丸城趾今は城の辻と言ふ)安増氏当社の衰へたるを歎き、之を小早川に告ぐ、小早川氏崇敬ありて、昔にかはれとも社殿を再造せられ、御太刀をも壱振奉納あり、安増氏もまた、祭田を寄附す、よりて時々の祭事をも僅に行はるるに至れりとぞ、また千代丸の里に鎮守の社として名島の弁財天の社を移し祭られたり、此御社今に存す、其子孫の人々尊崇怠らず、麻生家代々、時々の祭礼に家人を参拝せしめ崇敬ありし由当社旧記に載せたり、夫より後延宝五年(一六七七)九月に高家大明神社の殆ど廃れんとするを、人々謀り合ひて、仮りに当社の相殿に合せ祭る、此神即ち草野比売命なり、この神社も高倉神田帳に、「高家大明神、十一月御祭料五反、同郷在之、同明神仁王講田二反同郷薬師堂方」とあり、高家妙見の社は何れの地に在りしや、定かならされども、今の天神の社地なるべく覚ゆ、高家三社のかく衰へぬるはいとも歎かはしきことなり、もと高倉神社には宮司坊神伝院といふありて、同社敷地拾七村の名社には真言僧奉仕せり、故に仁王講田など附せられたり、中古高倉神社の相殿に有名なる神七社を配祀せらるる時にも、当山崎明神を祀られたること、高倉の旧記にあり、されば仮陬の地にして著名の古社たること推して知るべきなり。
 此御神は高家、大浦(今の尾倉)花副(今の花園)三所の産土神にましまして、氏子の崇敬厚かりしことは、祭田及び御供田の多くあるにて知るべし、其祭田の高は八石四斗余にして、享保廿一年御供田弐反三畝拾六歩、此高三石七斗四升壱合の寄附あり、右の高を以て年間の祭費に充つる事になれり、されば御祭社も厳に行はれ、社殿の御修繕も怠らすなりぬ、年中の御祭祀は二月九日に山神祭と唱へて、朝早く氏子のもの社頭に集ひて庭燎をたきて祭りをなす、此祭り古式により、斧、鉈、鎌の三品を備へ、其斧鉈どもを神前より撤し、氏子のものをはじめ、近き村里より参集へる人々䦰画を授く、其䦰にあたりたるものに斧、鉈ともを与ふ、さればおのおのに賽として御酒を神前に供し、祭事にかかりたる人々ともに直会をなして退散す、いと稀なる祭式にて、当社第一の御祭なり、其䦰を授くる時のさまは、誠にいさましく盛りなる事なり、そもかかる古式の祭あるは、山の事を万つかさとり給ふ神なれはなり、これぞいはゆる往昔の山口祭りの名残より出てたる事ならむ、九月十二日は例祭にて其夜花園の川端(大きなる推木あり)に御神輿渡御あり、この御供には、拾弐の処女をゑらひて、これに御鏡をはしめ、献薦の品を持ち行かしめ、また拾弐人の少年をして弓剣鉾楯羽熊などの武器を捧け持たしめ烏形帽を冠り大口を着して太刀を佩き いかめしく出立てり(俗に此道に当りたるものは縁付早く幸ひ多しと言ふ)
 其夜暁に至りて還御す、参集の男女誠に多し、十一月九日には高家、花園、尾倉三所の氏子御宮座祭りと称し、順番にて新穀を以て御酒を醸し、強飯を盛り、大小豆蔬菜等種々の物を膳部にて調進し、祭終りて氏子のもの直会の宴を開き、日の没するを期として退くを常とす。是古への新嘗の御祭のかたの残れるにや、さて当社の摂社には、尾倉に貫船明神あり、末社には花園に祇園社、貴船明神、社日社、尾倉に祇園社あり、
 高家大明神の古宮とて、当社の西、山上に石祠あり、此二柱の大神の御霊徳のいちしるき事はいふもさらなり、御社の周囲には老杉千枝に立栄えて神徳の積々たるを表はし、古松翠の枝を垂れて慈潤の色を示し、一たび社地に入るものは、おのづから渇仰の感をおこさぬはあらじ、ここに安増氏の(名島没落の後、安増氏は此地に土着して農に帰し今に子孫繁栄せり)請へるにしたがひ、畏こかれども拙き禿筆を以て、むかしのさまのあらましを後葉に伝へむとて
元文三年(一七三八)の八月吉旦
占部宿祢謹みて記す

 前社記の如く当社の山神祭・神幸祭・新嘗祭は古式ゆたかな祭典であったことがうかがえる。
 なお、明治二十二年風止め祭典についての上別府区の予算書によると。
第一条 冷酒弐斗五升 内訳 酒一升 冷酒 同一升 角力酒 同一升 座敷入用 同一斗(高家渡三十五戸分一戸 三合宛) 同六升(花園渡十九戸分一戸三合宛) 同五升(尾倉渡十七戸分一戸三合宛) 同一升 当場聞酒(但シ高家方面当場ノ年ニ限リ聞酒一升トアルヲ二升トシ高二斗五升トアルヲ二斗六升トス其理由ハ尾・花方角ヨリ戸数一倍アルニヨルナリ)(尾・花とは尾倉・花園を云)
第二条 金七拾銭 雑費 内訳金二拾銭  御幣製 金二拾銭 献具料当元授渡し
金三拾銭 座敷後料前同断
第三条金  小使三人給(是ハ人足三人ヲ当場へ引付ルモノトシ賃金其年度内村夫賃金ノ定ヲ以相渡依テ金目記セス)
第四条当場ハ抽籤ヲ以定ム 当元順 明治廿一年度 尾倉 同廿三年度花園同廿四年度 高家 〆前条決儀シタル理由ハ該社祭典ノ如キハ古ヨリ治、風祭ト唱へ全村参籠仕来リ候得へハ今般町村制実施ニ付今分村セリ 然リト雖神祭ヲ蔑スルニ不至ヨリ廿四年間ヲ決ス
(上別府区文書)

「筑陽記」○別府村山崎大明神社高家にあり

「筑前雑帖」○別府村山崎明神社

「筑前早鑑記」○山崎大明神別府村

「筑前国続風土記拾遺」○山崎神社 尾倉に在、尾倉、高家、花園の産神也、所祭今泉社に同じ高倉社古記に山崎明神十一月祭料二段小弥冨に見へり同書に高家妙見有今は社なし

「筑前五郡地理誌」拾遺と同文なれば省く

「太宰管内誌」「高倉神社旧記」に山崎明神十一月祭料二反小弥冨とあり山崎は也万佐支と訓むへし、祭神詳ならず。さて山崎神社と云は高家にありて東向き、聊か高き所、山林の中にあり、社地も古めかしき心地す、神殿・拝殿あり、神官は卜部氏「高倉神事記」に高家大明神十一月御祭料五段同郷在之同明(神)仁王講田二段同郷薬師堂方とあり、此社は今は詳ならずも別府村の内高家ノ天神の社地などにはあらざりしにや、今の天神ノ社は近世につくれる物なり此社山伏二坊あり、土地のさまいとよろし「同書」に高家妙見十一月御祭四段高家大夫とあり遠賀郡別府村ノ内高家と云ふ処あり此所にありし社なるべけれど今妙見ノ社と云ふもの伝はらず。

「福岡県地理全誌○」本殿五尺四面、渡殿横一間入一間半拝殿横二間入二間半石鳥居一基社地三畝歩高家にあり従前高家尾倉花園三所の産神なり、祭神大山祇命、鹿屋野姫命祭日九月十二日高倉社記に高家大明神十一月御祭料二反、同郷在之、同明神仁王講田二反同郷薬師方、又高家妙見十一月祭四畝高家太夫なと見ゆ此社とは異るや詳ならず。摂社一、貴船神社尾倉末社一、須賀神社花園

豊前坊の風止祭
 上別府では風止祭は山崎神社において毎年九月一日、豊日別神社(通称豊前坊)の祭神豊日別国魂神の御降神により風止祭を実施している。
 自然を相手の農家では、稲の穂孕期より刈取期の間の風を洵も恐れるものであり、強い風が吹かないように、平穏無事で二百十日前後を過せるようにと、神に祈るよりほかないのである。
 こうした願から現在でも町内、大部分の神社で九月一日か、その前日位に風止祭がおこなわれている。

一三 高田神社     大字虫生津字西ノ前

祭神 櫛稲田比売命(従前ハ倉稲魂命ヲ祭神トセルモ現在如斯)
社殿 本殿 亜鉛鉄板葺 幣殿 瓦葺 拝殿
瓦葺 社務所兼神輿庫 瓦葺
境内社    祭神            旧鎮座地
高倉神社   大倉主命・蒐夫羅姫命    神域
生目八幡宮  生目八幡神         〃
高住神社   豊日別命 旧祭八月五日   池ノ上
 享保三年八月五日 勧請 豊前坊と云
綿津見神社  豊玉毘女命 旧祭      池ノ上
蛭子神社   大国主命          〃
天満宮    菅原神           〃
綿津見神社  豊玉毘女命 旧祭八月十三日 仏ノ辻
貴船神社   高龗神・闇龗神       川端
弥勒神社   倉稲魂命  旧祭八月五日  由良
須賀神社   素盞嗚命   〃六月十五日 由良
天保四年七月十五日 勧請
三島神社   大山祇命  旧祭九月十四日 大谷
由緒 
 この神社は以前は倉稲魂命を祭神としていたが、今では櫛稲田比売命を祭る。この神は須佐之男命に嫁し八島士奴美神を生み給う。
 社は新屋敷字仏の辻(道場寺原)にあったが、慶長十八年(一六一三)此の地に移したと記録にある。
 以上境内社は、いづれも大正五年五月十八日移転合祀され、石祠は神社裏に配置されている。
 依って拝礼の場合は十二社様と唱えよと古老からの指導であった。
祭日 現在、鈴開祭―元旦・春祭四月十五日 祇園祭七月十四・五日 宮日祭十月十四・五日(旧十月十六、七日) 鈴納祭十二月末、不定
 以前は七月十日前後の不定日獅子祭、九月十四日放生会祭もあったが今は廃されている。

 高田神社縁起
筑前州岡郡虫生津産社高田大明神縁起小序□惟管見スレハ昊天ヲ蘓迷廬山之南ニ有三国焉。其東方ニ有小国名曰日本ト開基之精而称神国、何者。南者陽也。東者陽之始生也。其色ハ青。其行ハ木。其時ハ春也。梵□漢日。為ル陽中ノ之陽也。分明矣。而神者。謂陽之至精者也。非ハ神則安ン能ク為開主之精乎。而天七地五人三ノ之有數者。且以密表也。非其道ヲ則不可題之筆点ニ也。而邊ノ邑鄙ノ郷ノ之人。不知不識。信メ而祭ル之。豈其願モ亦不ニヤ果遂哉。神亦豈不ンヤ垂。賜ハ慈鍳ヲ乎。
伝へ聞ク。当郷産社。高田大明神ハ倉稲魂命ヲ祭リタルモノナリト。高トハ高貴ノ謂ナリ。田トハ八福之田。五穀成就ノ謂ナリ。シカレハ、コノ二字ハ全ク自性ヲアラハセルナリ。人王五十代桓武天皇。都ヲ今ノ平安城ニ遷シ玉ヒ。延暦ヨリ大同弘仁ノ比ニ及フマデ、諸寺諸社ヲ建玉ヒ平安城鎮護ノタメトシ玉ヒテヨリ。嵯峨帝淳和帝ニ至ルマテ。伝教弘法ノ二師。皈(帰)朝ノ砌ナレハ、専ラ天台真言ノ法ニ帰依マシマシテ東西ノ遠国マテ仏閣神社ノ結構アリシニ当郷ニモ道場寺トイヘル寺アリテ瑜伽ノ法水ヲ湛へ殿堂ノ甍ヲタテナラヘ其中ニ当郷豊饒。農家安全ノタメニトテ一ノ宮ヲ造リ、保食ノ神ヲ勧請シ高田大明神ト額ヲカケ四季折々ノ祭祀怠ラズ又常ニ仁王般若ヲ読誦シテ神意ヲナクサメ霊光益々盛ンナリ。此神ノ頂ヨリ馬出ルトアレハ先ツ馬頭観世音ノ尊像ヲソノ山ノ最頂ニ安置シ馬頭ガ岳ト名ク牛馬息災ヲ祈リ八大龍王ヲ請メ天水ノ如意ヲ仰キ龍ガ洞ト名ク又都ノコトヲ擬シテ丑寅ノ方ニ貴布祢ノ社ヲ立テ鬼門ヲ守リ其外本地護麻堂善神諸天堂等マテ一宇モカクルコトナク殊勝ノ道場ナリシニ嗚呼転変ノ境ナルカナ。時カハリ兵乱起テ東夷ミダレ西戎オコリ皇紀ハ武権ニカハリ公卿ハ士夫トウツリテ一天ノ下、一䡄ナラズ爰ニ百七代正親町院ノ御宇天正年中関白秀吉公武威本国異邦ニフルフ。ソノ折柄地頭宰官ノ宅、神社仏閣ニ及フマテ悉ク兵火ノタメニ焼亡セラル、剰へ寺領社地官田等皆没収セラレ終ニ廃壊スレバ巍々タル宮殿モ昿原トナルコソ悲シケレ、爰ニ当代将軍家ノ政務ニ代リ万里ノ浦嶋ニテ百年ノ静謐ヲ諷ヒ当国ハ黒田家ノ領分トナリ農民モヤウヤク洞穴ヲ出テ屋宅ヲ求メ十家ハ百、百家ハ千ト田畠モ昔ニ皈シテ後ニ昔ノコトヲ思ヒ出シ民家力ヲ合セ国守へ訴ヘテ古宮ノ所ヨリ今ノ宮地ニ遷シ奉リ本地護摩堂ノ本尊薬師如来ハ土中ヨリ掘出シ奉リコレヲ長楽寺ニ安シ馬頭ガ観世音モ宗像郡ノ某寺ニ供養ストナリ此外諸堂末社ナトモ形アルハ各今ノ所ニウツシ奉ル余ハ皆、今ハ穂毛ノ名トナリテ神田袴田仁王経堂畝仏ノ辻長吏屋舗方丈ハ道場寺原ノ名ノミノコルコソ本意ナキコトナレ。再興以来百六七十年。無為安全ニ守リ玉へハ祭ナドモ怠ラス、氏子モマス/\繁昌セリ。抑モ倉稲魂命ト申シ奉ルハ上古二柱ノ神萬ノ神ヲ降シ玉フ中ニ五穀ヲ主リ玉フ神ナリ月読ノ命ノタメニ失レサセ玉ヒケレトモ、徳ハ屍ニ残り玉ヒテ頂ヨリハ馬イテ額ヨリハ粟イテ眉ヨリハ蚕イテ眼ヨリハ稗イテ陰ヨリハ麦大豆小豆イツ。天照大神、是ヲ種トシテ、田畠ヲ作リ始メ玉フトナリ。誠ニ万代ノ末マデ、上下萬民何者カソノ恩ヲウケサランヤ。伏メ願クハ愚癡ノ田夫滅罪生善氏子繁昌ト守ラセ玉へ。
呉竹ノ代々ツキス、ソノミカケニスマンコト幸ナルカナ    清蓮社忍誉拝撰
宝暦十三歳次癸未中秋吉日
右此一巻ハ伝説ヲカキアツメ後世ニトゝムル意ハ数年当社ノカケニイコイ、ソノ恩ヲ報謝センガタメニ、管見短才ヲ以テ斯ノコトクツゞルモノナリ誤アルトコロハ後賢ノ正ヲマツノミ。又口スサミヲナシテソノ後ニツクル

 如風
藻塩草かきあつめたる跡にこそ
みるめはつもれ岡の水茎
秋更てよも静かなる神垣に
賑ふ声は虫う津乃さと

 俳句
戦はねとなひく晩稲や 高田宮
忍誉は長楽寺十一世住職にして明和三年(一七六六)二月九日歿、墓は長楽寺にあり、如風は不詳なれど忍誉の号と思われる。

「筑陽記」=○高多大明神社

「筑前国続風土記附録」=○高田大明神社 由良(神殿五尺、社拝殿方二間、石鳥居一基祭礼九月九日奉祀占部和泉)産神也。祭る所ハ倉稲魂命也。昔は今の社より西十町許導場寺といふ所にありしか、慶長十八年今の宮地に移せり。
○龍王二祀半田ケ崎池ノ上○豊前坊池ノ上 ○貴船社川端(杉一株植てり神功皇后御船をつなかせ給ひし所といふ)○蛭子社池ノ上 ○天満宮同上 ○三嶋宮(三郡の尾谷にあり。此所の産神也、人家四軒あり、此内二軒は古門村に属す村里を隔て閑寂の地なり、人家のうへ漸登りて嶺あり。是遠賀・鞍手・宗像三郡の堺なり、故に三郡の尾といふ。)○弁財天社川端

「筑前続風土記拾遺」○高田大明神社(或書高多に在り)本村に在。産神也所祭倉稲魂命祭礼九月九日(昔ハ是より西十町許道場寺原と云所に社有しを慶長八年に移すと云祝吏は占部氏也)○三島明神(大谷に在正殿はなし大岩を神体とす前に拝殿有古門村伊藤氏奉仕渓水逆端前に流れて俗塵を離れたり佳境也)
○香春大明神(竜ノ鼻に在豊前国田河郡香春社を祭ると云小社也)

「福岡県地理全誌」○村社高田神社(本殿五尺四面、渡殿横一間半入二間程、拝殿三間入二間半石鳥居一基社地五百坪氏子六十一戸)本村ニアリ(高田或ハ高多ニ作ル)祭神橘名田比売命、祭日九月十二日(昔ハ是より西十町許道場寺原と云所に社有りしを慶長十八年癸丑此ニ移スト云)摂社三、○須賀神社小峰 ○貴船神社川端 ○綿津見神社宝浦 ○三嶋神社(拝殿横二間半入二間社地一畝二十五歩三郡尾谷にあり従前此所二戸の産神なり。祭神大山祇命祭日九月十三日正殿無し大岩を神体とす前に拝殿あり。溪水側ニ流れて幽寂の地なり) ○小社海(ママ)(綿カ)津見神社(新屋敷)

一四 井手神社     大字木守字西

祭神 罔象女神 閻龗神 埴安彦神
社殿 神殿カラー鉄板葺・幣殿及拝殿カラー鉄板葺 絵馬殿 瓦葺
境内社       旧鎮座地
御霊神社 大己貴神
少彦名神
八所神  神域
須賀神社 素盞嗚命 土手之内
由緒 罔象女神・閻龗神はいづれも水に深い関係をもつ神で埴安彦神は陶器の神といわれる。
昔は西の古宮のところにあったものを、寛政七年(一七九五)今の地に移したといわれている。神殿は享和二年(一八〇二)十月火災に罹ったが同年之を再興、拝殿は安政年間再建した。その後、大正十二年神殿を修理、現拝殿は昭和十四年再建したものである。
当神社は大内家より祭料寄附などもあり、浅木神社の明徳二年の祭礼置文に
一、六斗六升 五月五日井手明神御祭入日米
一、一石   九月十日井手明神御祭入目米とある。
祭日 元旦祭一月一日、獅子祭六月一日 宮日祭 十月十四・五日(旧十月八・九日)宮座十二月九日に近い日曜日

古記録
享和の井手神社火災届が同社宮司であった門司陸奥介から、地方の宮司総元締であった糸島、桜井神社浦大宮司宛の文書がある。
御届申上口上之覚
 一私掛持遠賀郡木守村氏神井手大明神之神殿(向八尺入一丈三尺)渡殿(壱間半弐間)拝殿(弐間半三間)并末社、祇園社(二尺五寸四方)
 御霊社(三尺四方)右之杜十月二十九日夜九ツ過比、俄ニ焼失仕申候折節村方火番之者共社辺に行掛出火之模様見当段々声立候に付村中之者共追々駈付私儀も聞付早速罷越御神体を取出居申候内追々人数集リ取鎮メ申候へ共風手強相成及手不申神具等迠焼失仕候。猶又火元之処委敷相調子申候処毎年氏子間より心願に而同夕神灯上来居申候得ば右神灯之火灯台に移り次第に燃上り申候 本殿以外ニ火起リ可申処無御座候、常々火用心之儀堅く被仰付置候に付重畳申聞置候へ共右之仕合奉恐入候 尤神体之処は無恙三杜共ニ早速仮殿に遷座仕置申候 此段幾重にも宜御聞通可被為成下候
以上
     下底井野村 門司陸奥介(印)
享和二年十一月十五日
   浦 常陸介殿
  (浅木神社文書)

「筑陽記」○井手大明神社

「各村古縁起集(元文五年編)」○井出大明神 在遠賀郡木守村祭之神二座
速秋津彦神・速秋津姫神 以下中略 相殿二座 大己貴命・少彦名命以下略

「筑前国続風土記附録」○井手大明神社(神殿一方間拝殿二間、二間半石鳥居一基。祭礼九月九日奉祀門司佐渡)産神也、罔象女命を祭る。鎮座の年歴詳ならず。社内に御霊社あり ○祇園社 大曲

「筑前国続風土記拾遺」○井手大明神社(本村に在産神也罔象女神・閻龗神・埴安神を祭る祭礼九月九日旧社は西方四丁斗大木守といふ地に在しを寛政七年此地に移すといふ。社地に御霊社・祇園社有門同氏奉仕)

「福岡県地理全誌」○村社井出神社(本殿横一間半入二間、渡殿二間四面拝殿横四間入三間、石鳥居一基社地五百坪氏子九十二戸、本村ニアリ祭神罔象女神、相殿閻龗神、埴安神、祭日九月八日古浅木神社ニテ大内家ヨリ祭料寄附アリ同社明徳祭礼記ニ一、六斗六升五月五日、井手明神御祭入目米一、壱石九月十日井手明神御祭入目米卜記セリ、其頃ハ西ノ方四町大木守ト云地ニアリシヲ寛政七年乙卯此地ニ移ス其後享和元年(ママ)辛酉十月、火災ニカカリシカバ同年再興ス末社ニ御霊神社、須賀神社共ニ社地)

「井手神社棟札」(表面)
       巾約三十糎
句々迺馳命  長約百五十糎
   国家康寧
豊宇気姫命  桧厚約一糎
筑前国遠賀郡底井埜郷木守村
     社壇
井手大明神  記
     改占
  国狭槌尊
       産徒永昌
  罔象女命

鎮座年代雖不詳明因 浅木神祠之旧記考之事跡耵伝大抵暨五百年也郷素岡港一邑之海瀬而船舶耵到也不知幾歴世漸々為瀉為里落乎唯以其壌地雖広多早湿自可概知也旧記耵伝亦浅木花園之岡巒此木守丘者最高而民居必在干其陸古代総へ号浅木里又底井野郷云共有故蓋依水郷此社号 井手明神(或云虵明神)耵祭神水火土徳也不必抅一箇堰名也(後世逼于社地之北側林下而灌漑作大堰村老或云社号依之故云爾)明徳之比尚惣大宮司氏成(門司氏元祖)耵誌祭礼成文日井手明神祭料古来官有制給之(大内家尊崇浅木明神之時此社亦有祭奠料五月五日祭料下行米六斗六升九月正祭一石或八斗四升)因茲看之中・世邦国□乱上下不得処祭祀衰廃祠壇極矮小迨至我 邦君長政公領国初慶長八年而郷里定経界於是村落二分(下底井野木守)属国家平定産徒稍饒乃正徳五年改構旧観復八十年千此然社地偏西隅固僻□産徒屢患之相議之冀欽戴於闔村之中土恐不可議既有年又値稔不□不敢果時村長土師守軀及産徒念願不得己竊謀大宮司成徳ゝゝ意猶同恐謹告 神伏以窺之則神䦰可也茲大得志皆奮激戮力一心村長又請 官如法官聴充之遂以中土ト清浄地千間河頭圯橋辺新築祠壇致高敞望遠山帯長流實佳観地也役夫二千余隣里感之或為趨之自前年仲冬上句興事至孟春八日土功□即日修地鎮方乃慎奉三祠之(本殿及祇園社御霊社)神主迁坐於権殿而後正殿及石神門移来正殿□加作霧隠迨仲春前殿咸成以故前殿竪長横短結構不勝内矩狭而令改竪短横長中殿則如故唯拝処新加作區晝不加広而内外恰好参拝殊便也工匠功畢社宇全備迺洒掃中外清潔也於是今日以良辰午時促梁上之式嚮耵趨隣里招之皆来賀焉下底井野則異佗村長有吉貞八政信率衆同土師守軀謹供奉以成時恭正遷坐儀畢自孟春八日至今日産徒二人昼夜更侍伏于権殿之側大宮司毎日拝□ 祇園社在于大曲下堤 林中御霊社在于 木守丘旧社境内凢旧社地弐段五畝許距北二百四十間余歴歳久之列樹森ゝ二三囲余古木有五株銀杏一椋一榎二梅壇一椋栴壇最老其杉松雑樹葱籠埀枝布葉雖極興佳景経歴之久寔可知也其為材者伐斯用之封其正殿神坐跡殖以榊余咸以代新社壇土木資不待求他然費用亦許多也加之祭儀闕者修之祭器不具者備之或殖花木或鑿清池石梁為之夜以継日頼天気晴好無幾悉遂之盛挙如此噫後来産徒必躰斯意修補時不緩敬戴倍不乖者神感豈乎若夫懷邪念本志蔑如則恐神罸共天誅叵測請慎勿□□
 隣里之為趨者除之独闔邨産徒八十戸而
 二千之力役勉之下録其名数雖同産徒工匠別之
維時
 寛政七年歳次乙卯仲春念二日
 大宮司
  門司佐渡守藤原成徳
 村長
  土師甚作守軀
伍長    執事
村田徳七  村田又平  安山芳作
小林唯次  同姓与八  原田甚蔵
白石藤次郎 土師文吉  安部真吉
同姓仁兵衛 岡田才作  白石武八
同姓与六
総産徒中
久野養本  安山蔵平  安部伝七
村田清次郎 岡田兵六  安山弥六
同姓猪十  近枩長作  安山清兵衛
折尾正市  村田治八  □田孫次
同姓正五郎 松本平兵衛 頓田忠平
川埜兵七  岡田久作  白石理八
柴田利吉  頓田清七  安部清五郎
頓田弥作  同姓弥八  加藤十助
井之本利作 安松善吉  白石倉吉
手光源介  手光安兵衛 松本貞平
井元加作  白石周作  小川総五良
土師伊平  小田兵六  近松甚大夫
安部六兵衛 同姓儀蔵  枩井与七
白石市良次 大田真介  梅田正作
同姓治作  同姓貞次  大田庄作
小川新次  村田仁作  小田伝介
同姓忠治  同姓又四良 大隈弥吉
同姓荒次  井元利三次 折尾藤十
白石卯七  枩本久次  加藤茂作
同姓金次  岡田卯平  小川兵吉
            同姓文次
小林十歲  八田藤三  枩井伝十
棟梁大工  小工
 山崎善五郎 山崎善市
       加藤玄大夫
       大田兵吉
       村田永吉

木守井手神社棟札(裏面)
  謹請屋船
     一社宇
 奉興復
     総新規

天長地久
如表記因神䦰之可而寛政中奉迁于此巳八年也爾来稔豊気洲産徒安穏最超佗方然去十月晦深夜不図回禄更無知失火之故者本殿及両末社祭器若于一時為烏有寔可畏変異 火己過半不肖成道聞之馳赴共産徒不遑敢恐懼只茫然也頼以神位全在俱得小寛忽濯上於灰燼中清営権殿謹奉鎮而具状告 官以必当起於灯火官聴唯法無滞却蒙優命加之郡守坂田氏敬神余有苞米之寄納十俵且喩村長土師守驅曰汝等能辨事乎惟当革命之時至 或非常之変災不可遁然 産神垂広大哀憐之徳為汝等村民防災害以社殿代之是不測冥助也恐慎宜速再興因茲守軀及産徒中大得力励志評議一決乃遠求材於紀州航来無恙焼類之物一不用至土石咸新之以十二月三日工匠事始至今春二月十三日正殿完成四月五日中殿拝殿共建此日整為棟祭之儀老幼□集室寿焉十五日正遷坐謹行事畢一社之区□倍以前正殿(竪一間半横二間二分五厘)中殿(竪二間横二間)拝殿(竪二間半横三間半)是以産徒相共諸両末社暫合祭於本殿時不論是非荀従其耳其隆壇宏矩祭器改・費用最多矣冀伝后来無窮如湯津磐村闔邨安裕年穀豊登耵願円満常堅守幸賜
今茲仲冬九日執政大夫野村隼人郡守坂田新五郎以奉職出郡之時止宿于村長守軀家則俱詣来于新造祠壇屡慰労守軀曰率微力邨民速遂営作功汝務哉其□誉最至是大夫郡守可謂敬神之至是可謂守軀及産徒中諧本願矣大農長一田平蔵敬民以産徒之故始終計事拝趨有種々献納

 享和三癸亥歳季冬穀且 大宮司従五位下
          門司陸奥介藤原朝臣成道
                     謹誌
            村長
             土師甚作守軀
伍長    執筆    小工
 古林唯次  村田三平  当所兵吉
 白石藤次郎 同姓弥八  古賀村太七
 村田七次  白石喜介  立屋敷村常七
 白石太吉  嶋田常八  虫生津村善蔵
 同姓武八  白石清三  陳原村直次
             芦屋村伝三
棟梁大工         埴生村卯六
 山崎善市        当所与平
彫物一切         木挽
 同人          虫生津村佐吉
総産徒中

一五 老良神社     大字老良

祭神 日本武尊・砧王
社殿 本殿 亜鉛鉄板葺 幣殿 瓦葺 拝殿 瓦葺 昭和二年社殿再建
境内社
豊日別神社 豊日別尊 旧鎮座地 神域
老良神社奥院      〃   〃
祭日 現在 元始祭 一月四日 春祭 五月三日 風止祭 九月第一日曜日 宮日祭 十月十四・五日(旧十月十七・八日)
由緒―古老の口碑によれば日本武尊筑紫熊襲征伐の時、立屋敷の里に至り女の砧打ち居るを見給ひ名を砧姫と賜ふ暫く宮仕となりけるに砧姫男子を産み名を砧王と云ひ此里の守令に任せられしより此名を老楽の里と云へりと云ふ即ち当社は此砧王を祀りたるものにて其子孫連綿として四代重広王・末広王・時王・末森王まで此里の守令を襲けり、世人是を砧の五王という。後世里人叢祠を建て日本武尊と砧王の霊を祭れり(境内由緒碑)

「筑前国続風土記附録」○老良大明神(神殿方一間拝殿二間三間祭礼九月十七日、奉祀松本山城)属村老良の産神也。日本武尊・金丹王(或伝砧王)命を祭る。相殿に貴布祢・祇園をもまつれり

「筑前国続風土記拾遺」○老良大明神老良に在産神也。
所祭砧王也(神名不詳)相殿に祇園貴船をも祭れり社後に旧宮址とて石祠有祭礼九月十八日

「福岡県地理全誌」○広渡八剱神社の項に
老良神社(老良ニアリ祭神日本武尊、砧王、祭日九月十八日従前此所ノ産神トス社後ニ旧宮址トテ石祠アリ志賀三神ヲ祭ルト云)

古記録
「添田家古文書」
天正二年春  老良宮の拝殿を南に再建す、宮は二間×一間半、松の木二十本を植る
天和三年   おくんちを始む
天明四年十月 広渡の宮の神殿を譲り受け棟上げをした。
寛政二年庚二月十三日鳥居を御影石にて立、鳥居の文字は芦屋金台寺大和尚書という。

一六 八剣神社     大字今古賀字貴船

祭神 日本武尊・二道入姫命・天照大神・素盞嗚命
社殿 本殿亜鉛鉄板葺幣殿 瓦葺 拝殿 瓦葺
境内社           旧鎮座地
貴船神社 高龗神・闇龗神  神域
厳島神社 宗像三女神    〃
稲荷神社 御年神      正堺
塞神社  庚神       〃
 ※貴船神社はもと地主神であった稲荷神社は五郎七権現と云い伝え虫除祈祷のため区民毎年七月土用入の日を撰ひて参籠す
祭日 ○現在 元旦祭 元旦 獅子祭 七月二十一日 風止祭 九月一日 宮日祭 十月十四・五日(旧十月九・十日) 新穀感謝報告祭 十二月四日旧祭典は祈年祭三月九日 大祭 十月八・九日宮座(新嘗祭)十二月九日
大正三年より祈年、新嘗の両祭をも一般神社の大祭と定められたるを以って年中大祭は三回となる。
由緒
 この社は、貞享四年(一六八七)立屋敷村八剣神社より勧請し、別府堺に神殿を設けていたが、享保四年(一七一九)貴船の宮地に宮を移したものである。
社殿建築の推移
神殿 明治十三年春新築、棟梁 山崎多作(高欄付桧材草葺神明造霧覆横六尺二寸入五尺五寸)
中殿 明治二十三年秋新築 棟梁 高田久平(別府村)(川艜業組合加藤吉兵衛外九名及吉田弥作・柴田勉等ノ寄附瓦葺)
拝殿 弘化二年春新築。
   明治十七年秋(椎・杉材瓦葺。広渡の古宮の材を買入れ改築)
   明治二十六年秋(前記建物は白蟻の大害を被りたる故再び改築す)
白蟻の害を避けんがため専ら杉・椎の材を用う。是現今の拝殿である。

宮地売渡書
   畠売渡証
拙者畠其村御宮地ニ御所望ニ被成候ニ付、永代ニ売渡申証拠之事。
森の本
一上畠 六畝 但竿入
代米三拾九俵右の畠永代に売渡し代米慥に受取申候、此畠永く御宮床に成申候に候間、畝高拙者抱畠の内にて替地出し弁申候条其村より至後々年々畝高指引無御座候、尤一家村中より自然何かと申儀於有之此書物を以御沙汰可被成候。為後日書物如件
享保四年亥四月十六日
   広渡村売主  忠三郎
   忠三郎弟証人 忠四郎
   同村証人   嘉右ヱ門
 今古賀村 彦次郎 殿
右の畠地御宮地直地故貴殿より代米出し買調被下候間、右宮地貴殿方へ相渡申候為後日如件
同年同日  大庄屋 彦次郎
      庄屋  忠次郎
      組頭  彦三郎
      〃   甚八
      〃   三右ヱ門
      〃   又三郎
 弥吉殿
  (今古賀八剣神社文書)

「筑陽記」○八剱大明神社(当郡立屋敷村社可精記)貴布称

「筑前国続風土記附録」○八剣大明神社(神殿方一間拝殿二間三間石鳥居一基祭礼九月九日奉祀松本将監)産神也。日本武尊を祀れり(貞享四年立屋敷村より勧請すといふ社内に貴船社弁財天社あり)○稲荷社正堺○猿田彦石祠同上

「筑前国続風土記拾遺」○八剣神社産神也(日本武尊を祭り貞享四年立屋敷村より勧請す、祭日ハ九月九日也当村松本氏奉仕す社内に貴布称社弁財天堂有村内に阿弥陀堂地蔵堂有)

「福岡県地理全誌」○村社八剣神社(本殿横一間入一間渡殿横二間半入一間半拝殿二間半四面石鳥居一基社地三百六十坪氏子四十一戸)本村ニアリ祭神日本武尊ニ道入姫相殿天照大神須佐之男神祭日九月九日(貞享四年丁卯立屋敷村ヨリ移シ祭ル末社三、貴船神社、厳島神社共ニ社地稲荷神社正堺小社二所庚申社、五郎社共ニ正堺)

一七 八剣神社     大字広渡字井地

祭神 日本武尊・二道入姫命 相殿に須賀神式内十九座を祭る
社殿 本殿 銅板葺 幣殿 瓦葺 拝殿 瓦葺
境内社
恵比須神社 事代主命 旧鎮座地 筑前国続風土記附録長岸寺の項に蛭子社ありという。この社にあらざるや
貴船神社  高龗神・闇龗神
今宮神社  直日神 大綾津日神
宮司岡氏所有の神社帳によれば久那戸神社とあり由緒には唐戸風にかかる者多き故、八剣神社境内に今宮祭とて祭る。それよりやむとある。唐戸風は民俗篇事伝口伝を参照のこと
防守神社  祭神不詳なるも 里人の説によると往昔、宗像古賀の戦に戦死せる者の霊を祭ったという
猿田彦社  猿田彦大神
弥勒神社  弥勒菩薩 大乗妙典法苑、
保食神社  豊受姫命 安丸一三一〇番地
祖霊社   松本氏柴田氏祖霊神
※明治九年十二月四日教部省達三五号に「祖霊社神葬祭輩其祖先等ヲ祀ルモノニシテ……」とあり神葬祭によって成立したものである。
祭日現在 春祭四月十八日 宮日祭十月十四・五日(旧十月十七・八日)宮座 十二月十七、八日に近い日曜日 旧祭典ではこの外に、祇園祭七月十日、風止祭九月一日になされた。
由緒(境内の移築之碑の碑文による)
「遠賀郡遠賀村大字広渡字長江境内六社  八剣神社 日本武尊 十九座大神 素盞鳴尊両道入姫命 元立屋敷・今古賀・老良・島津等同一八剣神社ノ氏子ナリシガ寛永五年遠賀川堀通シノ為、両断サレ奉仕不便ニ依リ宝永四年八月立屋敷ヨリ旧境内地長江ニ御勧請今年迠二百五拾四年、昭和(ママ)五年十一月村社指定昭和三十六年三月建設省遠賀川堤防拡張工事ノタメ総工費三四五万円ト氏子延人員七四一名ノ奉仕ニ依リ約十ケ月ヲ要シ広渡井地ノ神社地ニ移転ヲ完了ス 昭和三十六年十月之ヲ建ツ」以上碑文にあるように遠賀川堤防(道路)の拡張及国道三号線の新設のため土地収用せられた。
前記祭神中、茲に云う十九座神とは、宗像神社三座、織幡神社、筥崎神社、住吉神社三座、志賀神社三座、志登神社、筑紫神社、麻氏良布神社、竃門神社、美奈宣神社三座、於保奈牟智神社 以上十九座の神を云。

「筑前国続風土記附録」
○八剣大明神(神屋敷)(神殿方一間、拝殿二間三間祭礼九月十八日奉祀松本因幡)産神也。村の辰巳一町許にあり、宝永四年立屋敷村より勧請す。社内に、貴船社・今宮社あり○保食神社安丸

「筑前国続風土記拾遺」
〇八剣神社、産神也。日本武尊を祭る相殿に宗像三女神・加久礼彦神(神名不詳)舟岡大明神(宗像末社記に在神名不詳)宝永四年館屋敷村より勧請す祭礼九月十八日松本氏奉仕。

「福岡県地理全誌」
村社八剣神社(本殿横二間一尺三寸。入二間渡殿同上拝殿横三間入二間石鳥居一基、社地四百坪氏子百三十四戸。村ノ東南一町神屋敷ニアリ祭神日本武尊、相殿ニ須賀神、式内十九神ヲ祭ル・一説ニ宗像三神・加久礼彦命、舟岡大明神ト云。加久礼彦神、舟岡大明神共ニ神名詳ナラス舟岡ハ宗像。末社記ニ見ユ)祭日九月十八日宝永四年丁亥 舘屋敷村ノ本社ヨリ迎祭ル。摂社一。老良神社(老良神社参照)末社七、蛭子神社、久那斗神社、松本神社、柴田神社、嶋門神社 共ニ社地 貴船神社松本、保食神社安丸 小社 松本神社平田

一八 島門神社     大字広渡字松ノ元

祭神 大国主命・素蓋鳴命・菅相公・猿田彦大神
神・社殿 瓦葺
由緒 神社帳(明治六年六月八日)によれば島門神社は広渡八剣神社本社地在とされているが、当神殿内の大国主命の石祠に天保十亥年(一八三九)十二月新屋鋪中との打刻がある。これより推測すれば、広渡八剣神社社地にあった島門神社を明治二十四年勧請したものであろう。
同社は明治三十九年十一月十五日(旧九月廿八日)新殿新築拝殿修覆、鳥居新築の記録がある(天満石祠)
祭日 現在
五月末日曜  苗代ごもり(当社殿)
七月十四日  祇園座。但近年取止め
自八月二十七日至九月四日の間の日曜、秋祭り(公民館)
八月三十一日 風止祭(於地藏堂)
十月十四日  おくんち(公民館)
十二月十五日 前後の日曜 宮座
○作出の神 大国主命

松本文書に祠のさしぶたの裏書として
「当社大國主大神者当地之地主神也。当作出之濫觴者当郷累年凶作而地田荒廃村中困窮、依是文化十癸酉秋、郡奉行井出勘七伊明、察当郷零落遣郡吏中村三蔵者、令極困窮根元、欲立村中仕組諸端聞届、同十一甲戌首夏井手伊明転任町奉行、当郷小河織部為郡奉行、相続伊明存念蒙御国命為田地仕居所建矣、同十二巳亥春也。自然以来作出中疾病、往々発家門追日衰微依是当郷保正柴田源六直政痛歎之百姓嘉助、平作、又吉等共造立当祠。
奉祝当地 守護神為幾末家門長久
     人民安全牛馬息災祈願所
于時文政五壬午年(一八ニ二)四早一日丙辰
     大宮司 松本大和藤原朝臣

 とあるが、ここに述べた作出とは何処のことであろうか。「筑前続風土記拾遺」広渡村の項に「本村及老良松の本新屋敷長江島田(文化十一年より作出の人家有)島門の渡口也」 このことから、この祠のさしぶたの記は島田をさすものであろう。

一九 貴船神社     大字今古賀字松之本高縄手

祭神 高龗神・闇龗神
社殿 瓦葺
由緒 創立等不詳

「筑前国続風土記附録」には貴船社マツモトとある。

「福岡県地理全誌」貴船神社松本とある。

第三節 遠賀町の鳥居と絵馬

一 町内の鳥居

 鳥居については、その姿、簡にして粗、端正にして渋味あり、そして尊厳味を失はぬ端的に日本趣味的であると云われる。

 起源や語源は、いろいろ言はれているが定説はない。その一例を示すと、「注連縄より変化せるもの(井上頼寿)」「神籬より進化したもの(坪内逍遙、山中笑)」「言葉から来た説(多説あるが、中国の華表が原型だという説などがある)」「神域を外界から区別するため」等多説ある。「神道名目類聚抄」には「按ルニ鳥居ハ上古質素ノ時ノ門ナリ是境ヲ限ルカマヘナリ」とある。鳥居の型式には大別して次の三種がある。

(1)神明鳥居 最も古い型の鳥居で、骨格の線は直線式にして質は、木材の生地そのままのものを用い、上古そのものの素朴さを現している。純日本式である。
(2)島木鳥居 明神鳥居が代表的で、このほか、二〇種類に分類される。本町内の鳥居は殆んどが明神鳥居であるが、尾崎、先之野にある皇太神宮には中山鳥居がある。この鳥居は、岡山県、中山神社の鳥居がその祖であり、貫が柱より外に出ていないのが特徴である。
(3)建功鳥居 台湾・台北市建功神社にあるように、コンクリート製の鳥居をいい、建功神社の名をとって建功鳥居と名づけたものである。

 鳥居は構造的には二本の柱をたて、その上に笠木を渡し、その下方に貫を通す。笠木の下に島木を渡し島木と貫との間に額束(ガクツカ)をもうけてそこに額をかける。笠木の両端がそり上っている部分は反増(ソリマン)と呼び、柱の根石を台石、その下に石があれば土台石、台石の上が丸味をおびたのを亀腹(カメバラ)または饅頭という。台石の上の柱の根もとを保護する藁座がついたものもある。二本の柱が安定を増すために八字形に傾いているものは、その傾きを(コロビ)という。

 町内に現存する神社の鳥居を一覧表にすると次の通りである。

二 町内の絵馬

 絵馬の起源については神と馬とのかかわりあいが根源となる。古くから日本では馬は神の乗り物として神聖視し、神祭や祈願には宗教的儀礼として生馬献上の風があった。特に雨乞祈願には黒毛の馬に、日乞祈願には白毛の馬に願を托して神に献じる習わしがあった。それが次第に生馬に代って馬形を献上する風になった。土馬や木馬がそれであり、馬形が簡略化し、平面化したのが板立馬である。これらが更に簡略になって絵馬が現われたといわれている。後世、白馬と黒馬を一対にした絵馬が献上されるようになったのは、晴雨の按配が都合よく、一年間の天候が順調であることを願ったものである。

 近世から近代の画題は武者絵芝居見物絵などが多い。これは物語・芝居などの普及によるもので本町のみに限ったものでなく、全域的な傾向である。

 奉納者は、伊勢参宮同行によるものが大部分を占めている。これらは明和八年(一七七一)、文政十三年(一八三〇)伊勢神宮への大巡礼運動としての「おかげ参り」の影響が後々まで伝わり、伊勢参宮をすれば氏神に絵馬を奉納するという習慣からであろう。

 遠賀町内にみえるものは次表のものがあるが絵馬が剥落したものや、格納されたものは除いている。

Adobe Reader<外部リンク>
PDF形式のファイルをご覧いただく場合には、Adobe社が提供するAdobe Readerが必要です。
Adobe Readerをお持ちでない方は、バナーのリンク先からダウンロードしてください。(無料)