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遠賀町誌 第七編 信仰と生活 第三章 遠賀町の寺院と堂塔

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第七編 信仰と生活 第三章 遠賀町の寺院と堂塔 [PDFファイル/5.34MB]


第一節 町内の寺院

一 関松山 栄宗寺 大字若松 住職十五世 鷲尾坦見

 寺伝によれば竜昌寺四世瑞珠和尚、永禄三年(一五六〇)開基という。本尊は薬師如来を祭る。裏仏壇には観世音菩薩があり名木の古仏と伝えられる。古記には本尊は観音仏也とあるが、いつの時代に入れ替ったかは不明である。

 薬師如来は往古の堂塔寺の本尊といわれ、その眷属とされている十二神将は明治十三年焼失したという。

 同寺に伝へられる薬師如来の「御縁起」は次の通りである。

南無東方薬師瑠璃光如来御縁起疏
 抑当寺ニ安置シ奉レル薬師如来ハ人皇七拾七代ノ帝後白河院ノ御宇保元三年(戊寅)八月十二日俄カニ凄マシキ山潮湧キ出テ九州ハ直チニ大海原ノ如成リケレバ萬民大ニ驚キケリ。其ノ時何国トモナク一ツノ島海中ニ流レ出デタリ。其ノ時ニ遠賀ノ宗廟高倉大明神十三歳斗ノ童ト化現シテ曰ク、此ノ度ビ川筋ニ不思議ノ薬師如来島ト共ニ流レ来リ示現シ給フナリ。急ギ高倉ノ地ニ迎へ請スベク、彼ノ島ヲ繋キ留ムベシト神明アリケレバ、其ノ時既ニ芦屋ノ浜高塚ト云フ所迄デ流レ来リシ彼ノ島ヲ、アラ不思議ノ島哉ナトテ仏法守護ノ伊豆大明神毘沙門天王ト共ニ忽然ト顕ハレ玉ヒテ彼ノ島ヲ繋キ留メ給ヘリ。今遠賀ニ東西二筋ノ大川アリ。東ハ(キヌタ川)ト云ヒ、西ハ(西川)ト云フナリ。此ノ西川ニ伊豆明神ノ繋キ留メ給ヒシ繋キノ岩アリ。此ノ島津ノ村続キニ存在ス。其ノ時キ此ノ島ヲ堂頭寺ト号シ世ニ稀ナルモノナリ。
 中古此辺ニ善覚長者ト申ス人ニ独リノ姫アリ。如何ナル過去ノ業因ニヤ依リケン、俄カニ眼病ヲ煩ヒ医術ヲ尽スト雖ドモ験ナシ、然ルニ唯一人ノ姫ナレバ父母ノ歎キ限リナシ。其ノ時幸運ナルカナ、此ノ薬師如来ノ御化縁ニ逢ヒ奉ル事ヲ得テ朝夕信仰シ眼病平愈ヲ祈リシカバ、或夜御夢想ニ老翁来タリテ曰ク、我ハ堂島寺ノ薬師ナリ。汝丹精ヲ込メテ信心ヲナス故ニ姫ノ眼病ヲ癒シ遣ハストテ光明ト共ニ虚空ニ飛ビ行クト見へシガ、忽チ夢ハ覚メタリ。長者ハ驚キ益々信心肝ニ銘ジ礼拝供シ奉リケレバ、不思議ナルカナ其レヨリ二日目ノ朝両眼忽チ明カニ開カレタリケレバ、聞ク人見ル人ハイヨ/\信心ヲ増シ、日日ニ参詣多カリシ。此ノ時大伽藍ハ長者ノ建立ナリ。
 正親町院ノ御宇永禄二己未年大友義鎮耶蘇ノ教ヲ信ジ諸所ノ神社仏閣を焼キ失フ。此ノ時ニ中ヨリ堂島寺ノ大伽藍モ兵火ニ焼失シタリ。頓ニ夜ナ/\此所ニ光明輝キ碧天ヲ照ス。諸人是レヲ恐レ修験ヲ以テ占ヒケレバ、尊像マシマス事ヲ知ラレタリ。村人堂島寺ニ集リテ此ノ所ヲ探グリシニ、彼ノ灰ノ中ヨリ薬師如来ノ御尊像ヲ見出シ奉ルニ少シモ損ジ玉ワズ。相好端然トシテオワシケルコソ誠ニ不思議ノ御尊像ニテマシ/\ケル。人々ハ深ク信仰ヲ増シ、ヤガテ住僧ヲ請シ香華供養ナシ奉リケリ。
亦其ノ頃高瀬代太郎季国ト云ヘル郷侍来リテ若年ヨリ眼病ニ大難渋シケルニ、此ノ如来ノ御霊験ヲ開キ及ビテ、或夜参籠シ一心ニ祈念シ奉リ御名号ヲ唱へ陀羅尼ヲ誦シ通夜眠ラス。暁ノ頃池ニテ嗽シ手水ヲツカヒ目洗シニ、不思議ナルカナ両眼忽チ一度ニ開キ明カニ見ヘケリ。此ノ池ヲ之ヨリ目ソソギ乃池ト呼ブ。彼ノ侍余リノ有難サニ其ノ辺ノ田地ヲ求メテ薬師如来ニ寄附シ奉リ香華ノ資助ニ残シ置ケリ。故ニ其ノ穂抜ヲ季国ト云フナリ。彼ノ目洗ギノ池長者屋敷毘沙門ノ休ミ所アルハ皆ナ此ノ近辺ナリ。中古暫時無住ニテ旅人往来ノ宿トナリ、次第ニ堂宇荒レテ風雨ニ御尊像ヲ洒サレシガ故ニ、寛保二年中ニ当氏神住吉神社ノ片辺ニ仮堂ヲ建立シテ遷シ奉リシニ、三年ノ中ニ大嵐アリテ破損セリ。勿体ナケレバ今ハ当山ニ安置シ奉リ懈怠ナク香華ヲ献シ供養恭敬ヲ営メリ。古来ヨリ祭例ヲ三十三年度ビ三回ノ御開扉供養ヲ奉讃シ奉ル。
 願クバ此ノ功徳ヲ以テ普ク一切ニ及ボシ我等ト衆生ト皆共ニ仏道ヲ成スベシ事、
   関松山栄宗禅寺

「筑陽記」関松山栄宗寺曹洞宗龍昌寺末院也

「筑前続風土記拾遺」栄宗寺村内に在、関松と号。禅宗洞家、高倉竜昌寺末也。開山瑞珠は元亀元年に寂すと云、本尊観音仏也境内に古仏の薬師十二神将有是昔当村に堂嶋寺とて有其本尊なりしか永禄年中に大友氏の兵火にやられ廃絶せり。村の北に薬師山と云有即其寺跡也。そこに眼灌の池とて古井のこれり 村老傳へて曰むかし朝日長者と云ものひとりの娘有明を失ひてこの薬師に祈りければ此井にて眼を洗ふへしと夢の告あり即洗ひしかハ忽眼疾癒ける故に目そそぎの井と号□と云朝日長者の宅址とて大城村の内に在又月軒長者ともいへり

「福岡県地理全誌」本堂横五間入四間寺地十五坪檀家三十五戸

 本村にあり関松山と号す禅宗洞家小本山高倉村竜昌寺末なり、龍昌寺四世瑞珠永禄三年庚申創建す本尊は観音仏なり境地に薬師観音二堂あり 古仏・薬師十二神将アリ、是古堂塔寺ノ本尊ナリシト云

二 瑞華山 常楽寺 大字鬼津家西口 住職十九世 信行雪鴻

禅宗 曹洞宗
縁起 同寺は慶長元年高倉村禅宗洞家龍昌寺第六世機雲盛用が開山(当時堂庵)、常楽寺二世松岩和尚は元禄元戊辰年一村惣旦那として願済、翌二年井野口次郎七(庄屋は井野口小七)は松岩和尚と図り、寺院創建のため財政的援助など開創に努力した。そこで次郎七を常楽寺の開基とした。
安永五年(一七七六)瑞龍和尚、大伽藍を再建するなど代々の和尚護寺につとめ、現寺院は明治三十九年改築したものである。

「伝記」によれば
「抑〃当寺開山ハ福岡県遠賀郡矢矧村玉雲山龍昌禅寺第六世機雲盛用大和尚ニシテ、開基ハ当村井野口次郎七、法名開了宗鉄居士ナリ。実ハ当寺二世中興松岩峴寿和尚代開創ニシテ従来堂庵ノ処開基ト忖リ法地ニ取立タルモノ歟。然ルニ開山ハ前記ノ通招待セシモノナリ、爾後幾十ノ星霜ヲ経テ漸々建物破損スルニ随ヒ再中興大于瑞龍大和尚ニ至テ従前ニ勝レル幾倍ノ伽藍ヲ再建セラル。時ニ安永五年(一七七六)三月ナリ。尓後世代不断相継続シ今明治三十九年ニ至り既ニ壱百三十一年ヲ経過シタリ。茲ニ於テ歳月ト共ニ破損ノ箇所漸々増加スルニ到リタリ、依テ現住職十六世的庵玄法大ナル熱心ヲ以テ檀徒ト忖リ今年春ヨリ秋ニ至ル間一大修繕ヲ加へ殆ント改築ニ異ナザルノ壮観ヲ極メ(中略)斯ニ聊カ事実ヲ略記シ以テ序文ニ代ユト云尓、明治三十九年初穐善法日
 福岡県遠賀郡島門村瑞華山常楽寺
  前永平当山現住 的庵玄法識」

「筑陽記」瑞花山常楽寺曹洞宗龍昌寺末院也

「筑前続風土記拾遺」村内に有、以下右に同

「福岡県地理全誌」本堂横五間、入六間、寺地九畝十二歩檀家八十八戸
山号等右に同じ、同寺六世盛用慶長元年丙申創立す、寺地に大師堂あり。

三 松林山 行満寺 大字別府 住職 二十世 内藤憲文

真宗本派 西本願寺派
縁起 明治五年「寺院明細帳」によれば、
 往昔は天台宗で近江国三井寺円満寺の末であったが天正十八庚寅年(一五九〇)住僧宗林が真宗に改宗したという。同寺は言伝えによると、昔は北浦にあったが火災に罹り、本尊は火中より現在の地に飛坐せられたというので、此地を有縁の地として寺を創建したと。
 同寺には、智証大師が唐の天台山で彫刻したという木仏がある。この木仏は平景清が、守り本尊として帰依したといわれ、その子孫も薩摩にあって深く帰依していたが、天正の頃、島津義久真宗を禁制したので尊像を負い、別府村に至り行満寺を開基したという。
 また、元禄十四年の油瓶・注子も縁起書と共に残されている。縁起によると、当山住僧是心は本山に登り、位階を得たいと思い募金したが不足のため資金に窮した。
 ところが或夜、夢にかの木仏が示現して、“汝がかねて願える資金は門前の銀杏樹にある。速かに取りて、その資金に充てよ”と、是心驚き覚めて起出てみれば、不思議にも樹上に燈火があり、直に攀じ登ってみれば、素焼の注子に銀があり、是心は遂に多年の望みを達することが出来て仏恩の忝けなさを感喜したという。
 木仏は秘仏とされ、油瓶・注子と共に寺宝とされている。
 同寺に伝わる秘仏の「縁起」
 抑御厨子の中に安置したてまつる本尊は三井寺の開基智証大師唐天台山にて彫刻し給ふところの霊像なり。其縁起を尋ぬるに人王五十四代仁明天皇の御宇嘉祥三年(八五〇)の春、叡山山王権現の御告げによりて唐土に求法の志をおこし時の天子に奏聞し給ひ仁寿三年(八五三)勅許を蒙り唐の歎良暉(人名)の船にのり八月十五日嶺南福州の境につきたまふ。
それより台州天台山にのぼり禅林寺に寓居す此寺は即智者大師の旧場にして大師彫刻したまいし弥陀の尊像を礼拝したまひ追慕の情頻にて彼像を摸写したまふ。それより寛平三年(八九一)まて三十余年の間しはらくも身を離たすして四月廿九日の黄昏に尊像に向い端坐念仏して往生の素懐をとけたまふ。其後平氏の家臣景清園城寺に到り、世の盛衰を悟り弥陀の願力を仰きしかのみならす彼尊像の霊顕明なること承りしかは、かの寺の住僧感して景清に授け玉ふ。景清感涙に咽び謹み頂戴いたし戦場に出る毎に常に幌の中に安置す。所々において霊顕亦明也しかるに寿永の後、平氏の運尽て西海の波に漂ふ頃、景清かの尊像を供奉し薩州にのかれ世の無常を観して唯称名念仏を縡とす。落髮して上野入道と号す。常に□杖に扶られ教を隣国に施す終に日向に於て薧す今日向宮崎生目八幡とはこれなりその子孫綿々として薩摩に在て彼尊像を恭敬せしに仏照寺祐智師の教化によって我真宗に深く帰依したまふ其後天正のころ嶋津義久我宗を禁制す其節尊像を負い筑之前州遠賀郡別府村に移りて行満寺を開基したまふ嗚呼かくのごとき霊験明なる尊像なれば、いづれも称名もろともに謹て拝礼すへし。

「筑陽記」一向宗西派京都仏照寺之下也、末二カ寺あり

「筑前続風土記拾遺」本村に在、真宗西京都仏照寺の末也明応年中開基と云

「福岡県地理全誌」本堂横六間入五間寺地四百十二歩檀家二百十六戸

四 恵日山 西光寺 大字浅木 住職二十一世 矢野定岳

浄土宗鎮西派
縁起 本尊阿弥陀如来は恵心僧都の作という。往古は天台宗で浅木神社の社僧坊、東光寺・心光庵・西光寺の三坊のうち、今では当寺のみが残っている。西光寺も明暦元乙未年(一六五五)欣誉という僧が再興して浄土宗に改めた。よって欣誉恵ぎんを開山とする。
 境内には往古心光庵に祭ったという木仏地蔵堂や観音堂もあったが、今では整理され地蔵像は下方地蔵堂に合祀されている。
 なお、納骨堂裏に古墓が数基整然と並べて祭られているが、なかでも万治二己亥年四月廿七日(一六五九)休意霊位の墓は当町内ではもっとも古いものである。
 当寺は一時期破壊の際、古文書、重器具等散逸したので、昔を伝えるものもなくまた、麻生系図による家延の女房や隆実の後妻で毛利兵部鎮実の女の墓も所在不明である。

「麻生氏系図」の一つによれば
○家延 大内義隆下知依テ、家延ヲ押込弟家曹花ノ尾城領ス、兄家延へハ岡千町分領ス、遠賀郡吉木村へ城築在城ス(中略)大永六年十月十一日卒去 号勝林寺殿 鏡空是山大居士 墓大寧寺(山口県)
女房仁田左衛門義照女、法号不知、恵日山西光寺墓 遠賀郡下底井野村ニ有リ麻生ノ開也、寺領一丁八反
○隆実 右衛門太輔六郎摂津守(近江守)頗近世文武ニ勝レシ人也。芸州毛利小早川吉川其他国々一意ヲ以家督、毛利輝元ト兄弟ノ誓紙取替盟ヲ結給元亀三年早春ニ帆柱城大手ノ大松ニ云々 (中略)天正十年八月十一日卒去号実教寺殿栄得索奉大居士、墓大寧寺
女房兵輔大輔(ママ)鎮実女、法号一柳院殿春清栄操大姉、墓西光寺」

「筑陽記」慧日山西光寺、浄土宗鎮西派芦屋光明寺末院也。此寺当初ハ麻生氏菩提所ニテ寺領モ附すと也、開基永正の頃也。

「筑前国続風土記拾遺」恵日山と号す浄土宗鎮西派芦屋光明寺に属す開基詳ならず本尊の阿弥陀仏は恵心の作という。境内に地蔵堂有り、昔は心光庵といひしよし本尊は行基作と云。薬師堂有東光庵と云、本尊は是も行基作と云 東光寺西光寺心光庵は共にむかし天台宗にして浅木神社の社僧なりし由、今は西光寺の末庵となれり、其跡浅木神社の馬場の側に在る。

「福岡県地理全誌」本村の内、沖に在り恵日山と号す。浄土宗鎮西派中本山芦屋町光明寺末なり古は天台宗にて浅木神社の社僧なり(一説ニ麻生氏菩提所ニテ永正ノ頃開基ト云)其後破壊せしを明暦元年乙未欣誉と云僧、浄土宗に改め社内の仏像を悉く寺に移置けり。本尊阿弥陀仏は恵心の作と云、寺地に観音堂あり

五 沖塚山 妙雲寺 大字老良 住職十二世 村上憲隆

真宗本派西本願寺派
縁起 当寺は豊前国小倉永照寺念西和尚が、寛永三年(一六二六)三月十日創立 念西は寛文三年(一六六三)二月十五日九十一才にて歿
 当寺「過去帳」に、明治十六年本堂再建起工式あり、翌年大風にて倒れ、また起工式をして建立せり とある。昭和二年一月三十一日午前九時庫裡を全焼。現本堂は昭和四十四年四月二十九日再建したものである。境内に「村上悦造先生之碑」がある。

「筑陽記」一向宗西派豊前国永照寺下。

「筑前国続風土記附録」真宗西仏堂四間四面 豊前国小倉永照寺に属せり、坐もと也。寺内に観音堂あり。

「筑前国続風土記拾遺」老良にあり真宗西小倉永照寺の末也開山を雲道と云。

六 弘法山専修院 長岸寺 大字広渡字安丸 住職二十六世 吉永瑩仁

浄土宗鎮西派
縁起 当寺は永正二乙丑年(一五〇五)創立といわれ、貞享年間火災に罹り、享保十二年(一七二七)再び罹災し旧記書類等一切消失したため、十一世単誉和尚は翌十三年六月十七日本堂の一部、同年十二月庫裡をそれぞれ再建、享保十五年十二月客殿建増など次々と改良修覆し寛延三年十二月廿五日御料建立など寺門の挽回に努められたので中興としている。明治二十四年の大洪水には、寺の東、遠賀川堤防決潰により本堂や観音堂も流失し、庫裡などは大破、境内墓地もえぐり取られ、寺前は恰も用水池の観を呈した。
 この大水害に記録書類なども流失した。
 明治二十九年再建し現在に及んでいる。
 境内には、仏石・淡島明神堂がある(路傍の神仏の項参照)

「筑陽記」弘法山淨土宗鎮西派当郡穴生村弘善寺末院也

「筑前国続風土記附録」仏堂五間四面 穴生村弘善寺に属す。開基の年歴詳ならす。寺内に稲荷社。蛭子社。栴檀木あり。神木といふ。又観音堂あり

「筑前国続風土記拾遺」本村に在、浄土宗鎮西派弘法山専修院と属す。穴生村弘善寺に師す。開山を念誉と云(永禄七年五月寂す)寺内に安丸殿といふ石仏有、野石高六尺斗銘はなし。

七 法林山道場院 長楽寺 大字出生津 住職二十四世 長崎真叡

浄土宗鎮西派
縁起 開山を廓誉阿順(天正十六年十月廿五日寂)という、
 宗像分限帳に虫生津長楽寺四段とあり、慶長以前の開山であるが年代は不分明である。
 中興を弾誉酉山(慶長十七年八月朔日寂)という。慶長十三年長楽寺一宇を建立す。弾誉は鞍手郡宮田町極楽寺過去帳にある弾誉と同一人物であり、黒田長政公帰依僧で二百石の寺領を賜った名僧であったことが、「極楽寺過去帳」及「吉柳文書極楽寺紀事」にみえる。
 境内に稲荷社・薬師如来石仏がある。
 長楽寺には往古道場寺(虫生津新屋敷字仏ノ辻別名道場寺原にあったという寺)の護摩堂の本尊薬師如来及び脇侍及眷属も安置していたが、十二神将は二回に亘り修理再興され、日光・月光の二菩薩像も一度再興されたが虫害により保存困難となり浄梵に付した。
 薬師如来について九州歴史資料館、八尋和泉氏は次のように報告している。

  木造薬師如来坐像   一躯
     福岡県遠賀郡遠賀町 長楽寺
     木造、樟材、一木造り
     像高 四九・三センチメートル
 薬師如来は薬師瑠璃光如来ともいい、東方瑠璃光世界の教主である。大医王仏の異名もあるとおり、病気をなおし、身心を安楽にたもってくれる仏さまで、古くから盛んに信仰されてきた。
 古くは薬壷を持たず、右手は施無畏、左手は与願とよんでいる手の印であり、そのため釈迦如来の姿とあまりかわらず、識別は難しいが、平安時代以降は左手に薬壷を持つようになり、薬師仏としての区別はしやすい。
 施無畏の右手は胸前にあげて、恐わがらなくてもよいというしぐさであり、左手には薬壷をさしだして、あらゆる病患を救済根治せしめるために、いわば法薬を施すということであろう。日光、月光の両菩薩を脇侍として伴い、十二神将を眷属とすることはよく知られている。
 この長楽寺の薬師仏は、一尺五寸ほどのやや小さめの像ではあるが、膝前も含んで樟の一木から彫出されていて、裳先も共木から作りだされている。このように、すべてを一木から彫りだす木どりの場合、往々にして膝の前後の幅が小さくなる傾向があるが、当像は充分に余裕をもって彫りだされ、安定感のあるものとなっている。
 頭部は斜格子状に溝を彫りつけながら、大粒の螺髪を切りつけて刻みだしている。そして、肉髪部の盛りあがりは大きめのつくり、地髪部は額の上でひさしをつくるように突出していて、頭部に特徴をそえている。
 髪際線はほぼ直線に近いが、ほんの心もちたるむくらいであり、古式さも併存している。面貌をみると、丸く弧を描く眉、眼は上下の瞼を明快に彫り、両端の切り込みをアクセントをつけていて、どこか涼やかな眼ざしの表情をみせている。頬のふくらみも強く、顎はそのまわりを彫りくぼめて丸くつくり出し、表情に富む面貌をつくりだしている。
小さな部分にも神経をつかっていて、耳朶の少し外へはねるつくりも力感を持ち、ここにも古彫刻の学習がうかがわれる。
 首に三道を彫り、衣は両袖を通して通肩状に着け、胸の前は大きくU字形にあけていて、中世後半の仏像に通有の姿をみせている。
 右手施無畏の印は五指を立てて掌を外に向けていたようであるが、虫損のため指は失われている。薬壷も一緒の木から彫りだした左手は、ほぼ完好にのこっている。別木で作って手首を挿込む方式のものは、離脱して失われることが多いが、今日まで造像頭初の手先がのこり得たことは幸いである。
 左手の彫出をみると、薬壷を掌中にして、親指、中指、薬指で支え持す細かな指の表情も簡略ななかに手ぎわよく彫出されている。先の耳朶の表現とあわせて、作者のゆきとどいた細部のあつかい方には、多くの作品を手がけたなれた手先が感じられる。
 右足を上にして結跏跌座し、太めにうねる衣の襞は概念的ではあるが、刀の切れはよく力づよい彫出となっている。
制作は室町時代初期を降ることはないと思われ、一四〇〇年前後の地方仏師の作と考えられるが、手なれた作行きで、しかも、小さな部分にも神経を用いる作者の出自には興味がもたれる。
 なお、像底に薬師如来の種子である「パイ」の墨書がある。また、当時過去帳に当像の修理記録があり、左の通りである。

 寛政三辛亥天
薬師如来台座後光腕新規十二神等再興
施主石田梅治 等誉代

 寛政九丁巳天
薬師如来台座後光并ニ二菩薩十二神再興
施主大庄屋喜八

 と、それぞれの年に記されていて、今のこる台座と光背は寛政三年の新添であり、そのとき十二神将が修理されている。そして、六年後には、日光、月光の二菩薩も含めてすべて修理されているようである。あまりにも早い再興事業は寛政九年近くに、薬師像と脇侍、眷属に災いでもあったものか、あるいは大きな祭礼行事のためのものであったのであろうかとも推察される。
 当地域あたりに、この仏像に類似する在銘像を求めれば、同じく遠賀郡の岡垣町三吉に旧千手寺の薬師像がある。応永七年に慶妙によって造立されたものであることが、膝前裏の墨書銘でわかる。しかし、この在銘像にくらべれば長楽寺薬師像はまとまりのよい、崩れの少ない彫出で、技倆のある仏師であることがわかる。このような相異は仏師の力量の差と考えるべきか、あるいは制作時期の前後と考えるべきか、今後の資料増加による解明にまたれている。

 法量(単位センチメートル)
 本体 像高 四九・三  髮際下 四一・九
  頭頂―顎 一九・〇  面巾  一〇・二
    面長 一〇・四  面奥  一三・〇
    耳張 一一・九  肩巾 三道下位 二二・五
    胸厚 一二・二  腹厚  一五・〇
    膝張 三七・五  肘張  三〇・五
    膝奥 二七・五  膝高 左右共九・〇
 台座       光背
 総高     (台座、光背を含む)

 境内には ○薬師如来石仏 木像薬師如来と同等大の石仏にして宝暦六年十一月十日十一世忍誉代に建立○稲荷社 本堂南側にあり北面す。天明五巳年十二月十三世等誉代に建立

「筑陽記」浄土宗鎮西派鞍手郡宮田村極楽寺末院也。当寺起立慶長十七年也

「筑前国続風土記附録」浄土宗鎮西仏堂五間四面 法林山と号す宮田村極楽寺に属せり。慶長十七年弾誉阿順といへる僧の開基也、寺内に稲荷社あり
また導場原(ママ)の条に「正徳年中此地より薬師の木仏、十二神をも堀出せり。今其仏像は長楽寺に安置せり」と記せり。

「筑前国続風土記拾遺」前記附録に略々同じにつき略す。但し、僧名を弾誉阿吟とあり

「太宰管内誌」「宗像分限帳に四段虫生津長楽寺とあり、長楽寺は遠賀郡虫生津村にあり、浄土宗鎮西派なり、本尊薬師仏を安置せり寺は東向なり人家の際少し高き処にあり、虫生津村ノ内に道場原と云處ありいにしへ道場寺と云寺のありし處なりと云

「福岡県地理全誌」本堂六間四面寺地一畝四歩檀家四十一戸
本村にあり、法林山と号す浄土宗鎮西派中本山鞍手郡宮田村極楽寺末なり。慶長十七壬子年開山弾誉西山創建す。因ニ宗像分限帳ニ長楽寺トアリ然レバ慶長以前創建ナリ寺伝誤レリ若クハ再興カ

八 福祥寺 大字虫生津五四九 住職 小田信覺(信雄)

本尊 不動明王・厄除大師
由緒沿革 中山身語正宗隆真寺は大正十三年妙心尼によって創設され、昭和三十九年七月二十日単立宗教法人真言宗福祥寺として規則変更の認証を受け、同年七月二十八日変更登記をなし現在に至る。
教儀の概要 三密護持 身に正しく宗祖如来の言葉を授け即身成仏する。

 同寺は毎月二十八日を不動明王の縁日として法要が営なまれ遠近の信者のお参りが多く、正月二十八日は大川市方面からの参詣も多い。

九 堂塔寺 大字若松字堂塔寺

本尊 弘法大師・大日大聖不動明王。薬師如来・地蔵菩薩及諸仏
縁起 初代住職川端亮貞(川端ハツヘ)は幼き頃より身体弱く、信仰心が厚かったが或夜、夢に月軒長者の一人の女子現われ、堂塔寺を再興せよ、さすれば汝に衆生済度の願力を与えるであろうと、またの夜、薬師如来や諸菩薩を世に出し衆生済度せよと数々のお告げをうけ、難行苦業の道をきわめることとなり伊津野亮賢について得度し、昭和三十八年ここに堂塔寺を再興した。
単立宗教法人認可昭和四十年五月三十一日

一〇 法雲寺跡 大字木守字東

 この寺は昭和二十四年別府行満寺に併合され、今は一民家となっている。

縁起
慈光山と号し、真宗本派本願寺に属し、芦屋安養寺末であった。「遠賀郡誌」によれば
「慶長十九年甲寅三月休岸と云僧開基し、寛永四年三月七日木仏を許され、延宝三年(一六七五)三月十五日寺号を認可せられる。
此寺本黒山村にありしを、貞享五戌申(一六八八)二月今の地に移せり」という。
九世梅谷義順は嘉永元年(一八四八)から明治五年の間、煤柳堂という塾を興し、地元子弟の教育に力を注いだ。
現在では「七宝通然華、八功如景氷」と刻んだ石門のみが、その跡をとどめている。

「筑陽記」一向宗西派芦屋安養寺下也

「筑前国続風土記附録」仏堂三間四間 慈光山と号す。芦屋安養寺に属せり。坐もとなり。

「筑前国続風土記拾遺」大曲に在、真宗西芦屋安養寺の末にて座元也

「福岡県地理全誌」本堂横四間入四間半寺地六畝三歩檀家二十四戸
本村に在、慈光山と号す真宗西派中本山芦屋町安養寺末也。慶長十九年甲寅三月開祖休岸創立ス

第二節 路傍の神・仏たち

一 古墓と廃寺址

1 堂塔寺址 大字若松区の北端にある

 「福岡県地理全誌」によれば村ノ北五町許小丘ノ上ニアリ、堂塔寺山又ハ薬師山トモ云、寺ハ永禄年中、大友氏ノ兵火ニカカリ廃絶ス、薬師ノ石仏ノミ存セリとあり、今は小堂及五輪の一部が残っている。この地は今も栄宗寺の所有地となっており、古寺の趾が偲ばれる。(詳細は栄宗寺の項参照)

2 南蔵山墓地

 尾崎高山池上(ホテル若草の上)の山を里人はナンゾウ山という。同所は岩崎家の墓地があり、天和二年(一六八二)の古墓や、それ以前の墓と思われるものが多い。また権大僧都(以下不明)の卵形無縫塔(僧侶墓)もある。この無縫塔は、愛嶽神社の社僧であった天台宗当山派修験、大越家権大僧都法印 大善院玄栄の墓と思われる。この法印の名は牟田神社境内にある愛嶽神社の鳥居(安政六年建立)にみえる。

3 菊池肥後守武重臣村上之墓

 尾崎城ノ越、林厚志家地内にある。
 古老の話によれば、同家が一時期不幸が続いた折、巡礼にきた僧の占により建てられたもので村上との因縁については一切不詳であるが以来同家は栄えたとのこと。

4 尾崎城ノ越古墓

 森田正一家の上にある。石塔は三基、他に土盛の墓、数基あるが死者名一切不詳、一説にこの附近は宗像合戦の時の関所で、その関守の墓ではないかと言伝えられている。首塚伝説とも関係があるか。

5 幽林道剣の墓

 別府北浦、吉川家屋敷地内にある。正徳二年九月廿五日歿。この人物は如何なる経歴の人か、家人の言によれば、別府の王池を掘った人と言伝えられている。
 吉川家に伝わる免許状から或いは陰陽師に関係ある人ではないかとも思われる。

6 安増甚左衛門之墓

 千代丸城址登山口にある。「筑前国続風土記拾遺」「福岡県地理全誌」によれば千代丸人家ノ側ニアリ、高四尺幅一尺、増上院安誉宗盛居士と觽(ママ)り」とある。墓に歿年、氏名なし(人物は千代丸城址・今泉神社・山崎神社の項参照)

7 福寿院址

 上別府、天満宮神殿の後、一段高い所にあったといわれ、昔同神社の社坊で此の社の祭祀を掌どったと「筑前国続風土記拾遺」「福岡県地理全誌」にみえている。

8 麻生氏墓

 「筑前国続風土記拾遺」によれば「高家天満宮の南一町斗に在、塔の頭石のみ残れり又同所天満宮の社地にも麻生氏墓を移すといへる処有、銘文なき故たしかならず」と記されている。南一町ばかりの所とは今、「薬師様」と呼ばれている所であり、社地云々というは、豪士社(東一町)のことである。(路傍の神仏参照)

9 道場寺址

 虫生津新屋敷字仏の辻にある。この附近に、神田・袴田・仁王経・油免・本坊・長吏屋敷などという田字が残っているのは、この寺この縁りの地であろう。この寺も天正八年猫城攻防戦の砌、兵火により焼失したといわれている。
 今では山林となり、いづれがその址か判然とは定め難いが点々と参道らしき踏石を見ることができる。(高田神社縁起及長楽寺の項参照)

10 底井野姥塚

 虫生津字落口、現在の新日本工業(株)遠賀工場のところに、通称墓塚と呼ばれていた径一五~二〇メートル位の塚があった。昭和三十八年産炭地事業団による虫生津工業団地造成工事にともない消滅した。(民話の項参照)

イ 東光寺址

 「遠賀郡誌」によれば「浅木堂山(有吉歌子家庭園)の東北に老松二、三株残れる処にありという」が、里人の言によれば岩野にあったらしいという。その是否は判定し難いが、「筑前国続風土記」、「同拾遺」には馬場の側にありとある。岩野には一字一石塔があり、また石鍋が出土しており、これらを想合すると岩野が寺址であると考えられる。
 なお、浅木堂山の東北には貴船社があったが浅木神社に合祀され石祠は神社左側にある。
 有吉家では故あって近年貴船社を旧位置に再建した。

ロ 心光庵趾

 浅木神社境内、大楠附近にあった。近年発見された薬師仏といわれるのがその名残である。

ハ 西光寺址

 浅木下方の谷口家側の地蔵堂附近がその址ではないかという説もあるが、現西光寺の古墓などから一概には断じ難い。今後の研究にまつほかはない。

二 地区の神・仏たち

1 島津区

観音堂 島津公民館の東隣にあり、寺名を慈現寺といい、十一面観世音を本尊とする。
「筑前国続風土記附録」にも観音堂(ミネウラ寺跡)というとあり、昔は、かなり大きな堂であったと思われる。境内には墓石か石仏も残っている。

地蔵尊 前記石仏と並んでいたが、この地蔵は前地を確保してコンクリート家屋の中に鎮座され、里人の尊崇をうけ、いつも新しい花が捧げられている。縁起は不明。

薬師仏 大場誠一郎家の南にあり里人はお薬師様と呼んでいる。縁起は不明

いぼ地蔵 塚の元の最南端の山裾に小さな屋根の下に石地蔵二体が並んでいる。里人は、いぼ地蔵とか、いぼ神様と呼んでいる。疣を取除き、或いは歯痛のとき地蔵の前で年齢の数だけ、でんぐり返るとよくなるといわれ参詣の人が多かった。

お先祖様 伊豆神社の下に自然石が三個並べて立ててあったが昭和五十七年大橋架設のため大樟の下に移設された。西川に泳ぎに行くとき、この石仏を拝んで行くと水に溺れないといわれた。なぜ、お先祖様というかは不詳であるが、昔、塚の元にあったという六地蔵の中の三基ではないかとも語られている。

恵比須社 柴田賢家の南。石祠は伊豆神社に移していたが、家に不幸が続いたのでお告げにより旧に復したという(柴田シマノさん談)

祇園社 小古野にあり、恵比須社に同じく伊豆神社で願立籠をしていたが、旧に復したので小古野の同社の前で願立籠をしていた。
かつての祇園祭は盛大で出店も多く、毎年同社の前から山笠をたてていた。今でも毎年七月十四日に近い日曜日に山笠をたて村中曳廻している。

2 若松区

薬師堂 堂塔寺址である。「筑前国続風土記拾遺」栄宗寺の項に「村の北に薬師山と云有、即ち其寺跡也」とある。(堂塔寺址参照)

地蔵仏 芦屋自動車工場の東、鳥見山墓地に登る辻にある。文政五年(一八二二)十一月吉日為無縁法界三界万霊とあり、若松村中から無縁仏やあらゆる霊魂を弔うために建てられたものである。

不動堂 田原政義家の前に極く小さなこじんまりしたお堂があるが、いつも綺麗に祭られている。
遠賀川西四国八十八か所の発起人で大先達田中慶順の坊のあったところで、以前はもっと大きな堂であった。

3 鬼津区

観音堂 二村道徳家の西にあり、馬頭観音を本尊とする。堂の前の広場は、かつて村の行事の中心的な場であった。

地蔵堂 入江チカ家の南にあり里人は愛宕地蔵と呼んで尊崇している。

北観音堂 字観音堂墓地の中にあり、赤煉瓦の洋風建築の中に安置されている。

虚空蔵堂 糖塚より粟屋、鬼津を経て黒崎方面に至る古官道の道筋で、現在では芦屋町になるが、今では北観音堂と似た白煉瓦の洋風建築である。「筑前国続風土記拾遺」に「茶屋の下といふ所有、是そのかみ旅人憩息の茶店など有し故の名前なるべし」云々 とあるが、その茶屋の下というのは、虚空蔵堂の前附近であり、その昔、この地を通った人々も、このお堂に額づいて通ったことであろう。祭祀は秦武右ヱ門氏等鬼津地元の信仰者により厚くまつられている。

鬼津の鬼門除け 東・北の観音、西の虚空蔵、南の石仏を鬼津の四方鬼門除けといい、病気を始め、諸災難から遁れる願をこめたものといわれる。

丸山地蔵 鬼津字力間口にあり、力間口古墳の守り仏として通称丸山様といい人口に膾炙されてきた。この古墳は古墳時代後期の墳墓で此所の木や竹を切っても腹がせくといって完全に保存されていたが、昭和五十三年鬼津地区の児童遊園地整備のため、古墳の土を一挙に取除いた。無届けのため、発掘調査もすることなく貴重な遺跡も消滅した。今では主をなくした地蔵も畑地となった跡地に淋しく佇んでいる。

凉照院 小鳥掛にあり。本尊は聖観音で「遠賀村誌」によれば「明和五年(一七六八)武士某父子同所にて相見へ居住して朝暮之を信仰し後、某武士は郡内三十三ケ所に道場を設け老若男女深く結縁したとの由来を伝へらる」と述べている。この凉照院は隣の大師堂と共に老朽したため、地元有志により昭和五十六年に新築し大師像と同居し、お祭りしている。

天満宮 豊沢養鶏場前から粟屋に登る道路の左側で、小鳥掛を見おろす高台にある。以前は墓石の前にこの石祠があり、その前の広場でおこもりをしていたという。今ではこの石祠と墓石が雑居しているが、里人は梅干の種子を供えている。天満宮と梅とは深いかかわりがあり、子や孫の学業向上の切なる願からであろう。

だご神様 旧貴船社地附近にあったが道路拡巾工事のため門司家墓地のところに移している。里人は之をだご神様と呼んでいる。どうして、だご神様というのかハッキリしないが五輪塔であるので、その中の火輪が丸く団子(方言でダゴという)のようになっているのでこのように呼ぶのであろう。由来不詳。

4 尾崎区

観音堂 「福岡県地理全誌」に「観音堂、阿弥陀堂共に下方に在り」とあるが、阿弥陀堂はいつの時か観音堂に合祀され、観音堂のみとなっていたが、これも老朽したため昭和五十四年三月改築した。境内には三部妙法典一字一石の宝篋印塔や、若者組の寄進による石祠などがある。石祠や手洗鉢には大善院代としるされているところから、ここが大善院の坊であったのではあるまいか。

大師堂 蟹喰の最奥部にある。里人はお大師様と呼んでいるが縁起等一切不詳。

おきよ地蔵 畑生半一家の入り口にある。伝説によれば、「寛政のはじめの頃、当地は大旱魃や大雨洪水などにより、百姓は苦しい生活に悩まされていた。一方上納米は容赦なく取立てられ某藩では庄屋以下一村百姓が離散するという所もあった位であった。当地方でも百姓に見切りをつけ夜逃げする人も増えてきたが、大庄屋などの願い事も通用しなかった。尾崎村の徳七の母おきよは気丈な男勝りの女であったので、此状を見るに忍びず悶々の日を送っていたが、折から黒田公が粟屋往還をお通りになることを知り、長井原附近で直訴に及んだ。おきよはその罪で極刑をうけたが役人の調査により免租の願が許された。数年後村人達は相謀り犠牲となったおきよ婆さんの霊を弔うため同家の地内に地蔵を建てたといはれている。以来毎年近郷の人々により地蔵の前で盆踊供養が続けられている。

多奈七面地蔵 城ノ越林厚志氏屋敷内にある頭上に六面と本体で七面であるが、多奈の由来は不詳である。歯痛のとき妻揚子を多く作って上げれば痛みがとれるといわれている。

地蔵堂 城ノ越、森田正一家地内にある。

弁才天 同森田家地内、大椎、大ヤマモモ(胸囲二六〇糎米)の木のそばにある。石祠には天明四稔辰十一月吉日 平七、〇七、左七、吉治、次郎七、久吉、次郎吉、万七、清助、利作の名がみえる。由来等一切不詳。

5 別府区

十一面観世音 別府今泉神社境内にある。等身大の慈眼あふれる仏像で、昔から霊験著るしく失明者や重病の人を救ったという、現示あり参詣者も多い。堂宇は昭和五十八年地元の有志により再建された。

六地蔵 前記観音堂の裏に自然石六基がならんでいる。裏面には「文政二年三月尾倉山ヨリ単独運送 山中弥六」と刻みこまれている。如何なる願により運ばれたものか、その由来は知るよしもない。

弥勒社 南山の一番高い塚の元にあり、里人はミロク様と呼んでいる。ここは古墳があり葺石も散乱しており、この墳墓を祭ったものであろう。

南寿堂 別府南にある。古老の言によれば和田弘夫氏の屋敷地内にあったものを明暦年中に発掘して祭った地蔵であるという。

雲嶺堂 北浦石田寅雄家の上の山にある。由来は不詳であるが万治年間に安置した木仏地蔵であるといわれている。この境内には板碑二基もある。

徳満様 北浦にあり、牛の神様として尊崇され、今でも四月十三日及九月十三日は組中でお籠りをしている。

6 今古賀区

宝樹庵 別名中ノ堂と呼んでいる。「筑前国続風土記拾遺」に「村内に阿弥陀堂、地蔵堂あり」と、また「福岡県地理全誌」にも「本村の内、正堺にあり、浄土宗長岸寺庵室、寛文三年(一六六三)癸卯創立す。開山を愍隆と云明治五年壬申廃ス跡に地蔵堂あり」と誌されている。しかるに遠賀村誌及び古老の伝によると同所旧酒屋村田氏が祖先の冥福を祈る為に結んだ庵でその檀那寺、浅木の西光寺末であったが、後に長岸寺末となったというとある。寛文三年は柴田治左ヱ門、林惣右ヱ門の処刑された年でもあるので、何かかかわりがあるとも思はれるが詳かではない。堂に向って左より馬頭観音(里人は八ツ手の観音という)阿弥陀如来、子育地蔵、弘法大師・不動明王がそれぞれ厨子に収められている。このほか、柴田、林両犠牲者の位碑もあり、今古賀区では毎年七月十七日はこの庵で長岸寺住職導師となり、施餓鬼供養を区の行事として催していたが、最近では戸数増加の為、公民館において法要が営なまれている。維新前は藩より公費として犠牲者供養費が出されていたことが、境内にある彰義碑によっても明らかである。

下ノ堂と首なし地蔵 下ノ堂は八剣神社の西側にあり、首なし地蔵はその傍にある。正徳二辰天(一七一二)六月二十一日理菴妙智と刻まれている。首は何者かに盗まれていたが、近年取付けられている。この地蔵は如何なる人の墓であったか判らないが、疣取り祈願には地蔵の前で年の数だけデングリ返ると疣がとれるといわれ、老人等は子どもに代行させている風景もみられた。歯痛には煎豆を供え「此の豆の芽が出るまで歯痛を止めて下さい」とか妻揚子を供えて祈るとよいといわれている。柴田次左ヱ門・林惣右ヱ門両名の処刑は、この附近であったとか、または、赤間ともいわれているが詳でない。

7 木守区

古観音 慈雲庵と呼ばれたもので木村盛夫家の東隣にある。馬頭観音を祭祀していたが、約二百年前に柿の木に移され、今では古観音と呼ばれ、地蔵菩薩や、一字一葉塔が祭られている。この境内は、墓地であり、延宝五年(一六七七)五月十九日小田惣三郎女房の墓や、無縫塔(僧侶墓)などがあり、その歴史の古さを物語っている。

柿木観音 字柿の木にあり柿樹山と号す。約二百年前、木守村内にて墓地の事で紛議が起ったとき、庄屋甚作が、この地に共同墓地を作って、古観音にあった本尊馬頭観音や慈雲庵の額を、移したといわれる。しかるに馬頭観音の像も行方不明となり、今では諸仏の合宿で賑わっている。

庚申堂 井手神社の西にある。「遠賀村誌」は利生院の項に「伝説によると、慶安の頃か底井野に居た某郡代に盲目の子あり、この堂宇に据はり寺領も有していた由であるが其後衰頽したるを安政年間井手神社拝殿を之に。移し改築したといふ」とある。この堂は大正十二年にも井手神社の社務所再建の際、この廃材をもって改築した。また、文政の頃、堂守として仙露という僧がいた。この人は字を大徹といい、鞍手郡古門の神官伊藤常足の門下として、和歌をよくし、岡県集に七首をのせている。明治の頃、小松皆信と云う修験僧が、最後の人となっている。その名は同堂前の石門に次のように刻まれている。
明治廿四年十一月吉日 小松皆信代
奉寄進 安部喜右エ門建之
高下駄に兜巾をかぶり法螺貝を吹いていた山伏姿の僧を憶えている古老もある。当堂の境内にある十三仏石像の北に次の石碑がある。
第一世梁印大和尚塔 宝暦五己亥天 十二月
○○日弟子 快山建之
天下泰平国土安全奉納大乗妙典六十六部迴国
享保九年 遠賀郡木守村 白石弥七
白流海鷗庵主之位 正徳二年辰八月二日
施主 弟子中

 諸堂宇については次の記録がある。

「筑前国続風土記付録」
○直指庵―本村に在、庚申堂也、石地蔵有
○慈雲庵―柿木・観音堂也

「福岡県地理全誌」
○直指庵―本村ニアリ、庚申ヲ祭ル。
○慈雲庵―大曲ニアリ、観音ヲ安置ス、
○利生院―(寺地二十五歩祈禱檀家二百戸)本村ニアリ、本山派修験西京聖護院末ナリ、天正十二年甲申開基ス

「遠賀郡誌」
○直指庵―筑前国続風土記に見ゆ。
○慈雲庵―堂宇(二間四面)同区字柿木にあり、観世音を安置せり。
○利生院―堂宇(入三間横四間半)庫裏(入二間半横二間)敷地百八十五坪、本村にあり、筑紫郡八幡村高宮成就院の末なり(古へは本山流修験西京聖護院末也)天正十二年甲申開基す、庚申を祭る、故に庚申堂と云。

 以上の如く、直指庵と利生院共に庚申を本尊とされ錯誤を生じている。

古宮 木守西にあり、井手神社の旧祭地である。昭和十四年本社改築の際、その古材を用いてここに小殿を建てた。既に荒廃の域にあったが旧殿の彫刻など昔の面影を残したものもある。昭和五十一年小殿をとりこわし新祠を建立した。一説には井手神社に属さず数戸の共有の神ともいわれている。

貴船社 土手内、安永家の墓地の北隣にある石祠にして旧墓地図によれば、ここを貴船地とある。古老の話によれば、木守村の鬼門にあたるため貴船社を祭ったといわれている。

川端地蔵堂 井手神社境内にある。宝暦三年(一七五三)七月、井手神社周辺に居住する西川端組の先祖が木守村中の安全を祈念して建立したものであり、永年野立ちし傾斜したので有志相謀り昭和五十一年三月修復、堂を建立し永劫に、この地の人々が生い立つ小児の将来と家内安全、村中平和を祈願祭祀したものであるという。

中組地蔵 近松庫義家の北にある。今でも春三月・夏八月・秋十一月のそれぞれ二十三日には子供を中心に組合籠りが行なわれている。

下組地蔵 有吉薫家の西、道路の四辻にある。以前は久野昇一郎家の邸内にあったものを現在地に移したもので中組と同様、母子による組合籠りが続けられている。

8 上別府区

薬師仏 天満宮南山麓にあり。「筑前国続風土記拾遺」に、麻生氏の墓云云(寺跡・墳墓の項参照)とある。里人は薬師さまといって尊崇している。この附近の山は各所に、石積みのあとをみたが、昔、戦のあった所と言伝えられている。
板碑なども此処に集められており、石松與次郎尚晴の奉献による石灯籠の台石(元治元年子二月吉日)も残っている。

豪士社 「筑前国続風土記拾遺」に「同所天満宮の社地にも麻生氏墓を移すといえる処有り」とあり、また「福岡県地理全誌」には「東一町許にあり、菅原神社の地内にありしが旧宮本院の向へに移し、石祠を建て毎年六月には、高家中より祭礼を行へり」と、これ豪士社のことである。以前は天満宮の裏にあったが寛政二年(一七九〇)高家の牛馬悪疫流行のため斃死するものが多かったので占った処、この墓を粗略にしているから前に出して祭るよう現示があったので、現在の馬場に移し、石祠を建てて之を祭ったといわれる。この豪士社には近年まで田植が終ると、苗束を捧げて祭ったが田の神信仰にも関係がありそうである。

大谷観音堂 大谷・半田徳家地内にあり。天満宮の裏にあった観音堂を、既存の小堂に移転合祭したものであり、木鼻等は天満宮時代のものといわれ、見事な彫刻である。
移築の理由は次の記録がある。

高家観音堂移転改築ノ理由
 抑モ高家観世音ハ御本地村社
天満宮ノ境内則チ須賀神社ノ北側ニ往古ヨリ御勧請アリ数百年ヲ経テ堂宇腐朽シ慶応三年時ノ奉仕大越家法印宮本院良秀地方信徒ニ謀リ同年丁卯二月涅槃会ヲ卜シ再建セラレ亦タ石地蔵尊三体モ同村社ノ境内ニ安置アリシモ御維新ニ付神仏混合御廃止御布令下リ俄ニ信徒協議ノ上、字大谷半田甚三ノ所有地内弐千拾六番民有堂宇地ニ古来同家ノ己人勧請ノ一小堂宇アルヲ因ミ合議ノ上御移シ奉リ爾来歳変リ星移リ堂宇漸々破壊ニ及ビタルニヨリ、当代半田大次郎ノ発議ヲ以テ更ニ信徒一般ニ熟議ヲ遂ゲ永遠併置スルニ決シ慶応三年建築ニ係ル堂宇ヲ移シ巧ヲ加エ即チ御霊験ノ一ゝ報ヒ奉リ聊カ尊崇ノ敬意ヲ表セントス。時ノ懇志者博多西町渡辺一統ヨリ工費ノ幾分ヲ寄附セラレ用材ノ補充其他ハ半田氏寄附トナリ于時明治四十三年庚戌四月三日起工同月八日完ク竣工ヲ告ケ上棟ノ式ヲ挙行ス。本堂将来ノ維持ハ素ヨリ信徒ノ負担トシ敷地ハ無料無期限ナリトス平素ノ管理ハ半田家ニ一任ス為後年記録ス
 紀元二千五百七十年明治四十三年四月八日
  但シ本書ハ為紀念棟札ノ裏面ニ記ス
右信徒惣代   伍長   石松寛平
  筋田精一  改築願主 半田大次郎
  筋田純一  棟梁   鎌田栄太郎
 改築委員   石松三平 (以下略)
 区長     石松堅郎

六地蔵 高家筋田豊子家東山中にある自然石を六基西面して祭られており六地蔵と称している。里人の言によれば昔この附近で戦があったときの、戦死者を祭ったものではないかと言伝えられている。

毘沙門天 花園にある。勧請の年代及由来等不詳、高さ四十五センチメートル石段(三十五段)は正徳元年四月吉日とある。境内の両側に大正十五年に祭祀された石造十三仏がある。「浅木神社社実」に「旧九月七日神幸の儀式を整へ同日戌刻神與に遷らせ給い浮殿に神幸なし奉る。此浮殿の地を花園山と云ふ。大昔は岡湊より入海にさし出たる山なり」云々とあるがこの地であろうと思われる。昔は黄金の神と称して参詣者が多かったそうである。浅木小学校生徒は、かつて、この毘沙門さまの石段を図面の画題として画いたり、この地で遊んだ思い出深い場所である。

光寿堂 毘沙門さまより奥に少し下った所にあり、奥之院といわれて、薬師如来を本尊としている。万治年間の創立という。

延命地蔵 花園橋の前にあり、肥満体の石の地蔵二体が道行く人の尊崇をあつめている。御詠歌に「四の辻、六つのちまたを一筋に、助け給へや弥陀の浄土へ」

地蔵菩薩 前記、延命地蔵より西に直っ直ぐ登った四辻に肥満体の石地蔵がある。橋元延命地蔵と同時期頃の作かと思われる石臼が三個あるが、弘法大師伝説に、霜月二十三日大師が臼の目切りをして歩るくということを、地蔵に絡ませたものであろうか。

延命地蔵 城の越、旧静光園の西。昭和四十三年三月二十五日、堂を竣工す。里人の言によれば、この附近から、人骨が出たので、それらの霊を祭るために地蔵堂を建立したという。この附近は弥生時代の遺跡で道路拡巾の際にも多数の土器が出土している。

無名の士の像 桝田博家の地内に昭和四十八年三月二十日建立。由来については同氏母堂が病気の折、占によれば、この附近に武士の墓があったので武士像を作り弔うとよいという現示で、慰霊のため建立した由である。因みに、この附近一帯は室木線敷設の折、草原山(坊頭山ともいう)の土を取った際、人骨や剣も出土したといわれる地であり、下には城ノ越貝塚がある。

銀杏庵 尾倉にあり。本尊は千手観音である。本来指月庵ともいうが境内には大きな銀杏の木があることから銀杏庵の名がある。また正徳五年建立の庚申塔などがあり里人の尊崇は今に絶ゆることがない。

9 虫生津区

川端観音 川端にあり、本尊は聖観音の半迦像である。「遠賀村誌」によれば「宗像氏貞の家臣嶺内蔵頭が道場寺にありたる馬頭観音像を此地に移し崇敬した」とあるが疑がわしい。長楽寺過去帳によれば、文政五年四月十五日川端、平治郎坊主死亡のことがあるが、以後については詳かでない。「筑前国続風土記附録」には、観音堂カワバタとのみ記してある。

大師堂 大師石像のほか、自然石の地蔵菩薩がある。由来等は不明であるが安政六年(一八五九)正月、源市・惣作により石盥を奉納、明治十年八月には古門村より石灯籠を奉納している。新屋敷にあり。

倉谷権現 虫生津区倉谷にあり里人は倉谷の権現さまと呼んで崇敬している。山の頂上に大きな松の木があり白蛇が御神体であるといわれていたが、今では松の大木も朽ち果てて、白蛇説も聞かれなくなった。しかし権現様といわれるものは石祠である。碑正面「辛國息長大姫大目命」
裏面「天明中所再興之辛國息長大姫社者神所祭豊之香春地也、昔日岩渕翁有欲祭此神志而談毛利有直々々先醒之言以石製羨祠而傳不朽故其盟誓不差標楩□云」
 この大意は天明年間(一七八一―一七八八)岩渕の翁(鞍手町古門 国学者伊藤常足の曽祖父の実兄常利で岩渕和吉と称した古門神社宮司)からここに香春(田川郡香春町香春神社)の神を祭りたいと思うので然るべく取計らって欲しいと毛利有直に相談があった。そこで有直は岩渕翁の言を重んじて石祠を建て後世に残すけれども、建立の次第は翁との約束により刻文にはあらわさないと云う。何故、建立の理由を書かないか、不分明である。
 この神は新羅より来ませる神で香春神社の外、河内国辛国神社、出雲国韓国太氐神社、大隅国韓国宇豆峯神社などがある(神名式)
 現在の社殿は、かつてこの権現の大信奉者であった虫生津白石司郎氏が第二次大戦で戦死されたため、その実妹、水巻町の山崎フサノさんが亡兄の遺志をついで信奉され、昭和五十二年六月十二日石祠の上に銅板葺の社殿を自費建築されたもので、その建設に当っては山崎さんの意志に感動し、金銭的や肉体的な援助をおしまなかった人々もあり、虫生津婦人会も砂や水・バラス等の資材運搬に協力したものである。尚、山崎さんは竣工落成するのをまち、その翌日入院され今は故人となられたが、この社殿建設に命を賭けたものであろう。

立江地蔵 古野保家上の竹林の中で一人淋しく佇んでいた立像の地蔵で「一花妙栄、宝永六年九月十日」と打刻してある。近年西の前組合で立派な堂を新築した。

大日さま 字小峯、峯顕彰家の上にある。里人は大日さまと呼んでいるが、木堂の中の石が御仏像である。なぜ大日さまと呼ぶのか詳でない。

長玄地蔵 前記、権現と同じ屋根の下に同居している。自然石の石仏で長玄地蔵というその名のおこりは不詳である。

大師堂 大谷志和藤年家の東隣にある。新四国八十八ケ所霊場土佐国第二十八番の石柱が立っている。同堂は弘法大師石像(明治二十年四月吉日)太田屋徳次郎。左に大日如来石像同年同月、小長光卯作の寄進になるものである。以前は同所より東一〇〇メートルの右山手の大岩の下に祭っていたものを参拝不便のため、現在地に移転したものである。

弁財天 大谷、志和家より西五〇メートル旧道の傍、椎の大木のもとに祭られていたが、この旧道も通る人さえなく、竹木に覆われていたので、志和家に移され手厚く祭られている。大谷に弁財天のあったことは、古書にあるが年代や由緒は不詳。

山彦尊と蔵王権現 大谷、志和家の西隣の大岩に山彦尊と刻まれているが三島神社がこれである。この岩の左に縦三〇センチメートル、横二〇センチメートル、奥行二〇センチメートルの彫りこみがあり、その上に石槌山蔵王権現と刻まれている。勧請の由来不詳。

馬頭観音 奥大谷にあるが判りにくい。里人は馬頭観音と呼ぶ。この下方には硬炭石があり、炭坑跡地で石祠の中には小さな自然石が入れてある。石盥には明治十八年酉一月奉上 中村晋介 石祠には明治二十一年六月吉日奉上(外花立一向香)世話人大谷念仏講中とある。
炭坑は、山ノ神、即ち大山津見尊を祭る例が多いが何故馬頭観音を祭ったのか、思うに石炭輸送に古月駅付近の白水川勘場まで岡出し(山だしともいう)に馬を使っていたので馬の安全を祈って馬頭観音を祭ったものであろう。勘定(給料)日にはこの位置よりすこし下ったところの平地には、露天商が四軒も並ぶ程の賑いをみせていた。

池ノ上地蔵 池ノ上にあり「筑前国続風土記附録」に地蔵堂イケノウエとある。「縁起」によると、永正(ママ)の頃(?)農長毛利与兵衛は宝ケ浦の谷に井戸なく用水の不自由なることを歎いていたが或夜夢に高貴の僧示現して「我ハ土中ニ年久シク埋レアルコト本意ナシ願クハ我ヲ掘出セ、若シ此度ヲ外セハ何ノ世ニ繁華トナシキ其跡ヲ池トナサバ必定冷泉タラン、辰巳ノ方ノ路傍ニ柿木ノ下ナリ」と、同日暁方再び先の高僧示現し「必ズ我ヲ掘出スコトヲ忘ルルコトナカレ」と再三告げ給う。翌朝、家僕及び近隣の人を呼集め今日は吉日故に池を掘らんと柿ノ木の下を五、六尺掘ったところ、地蔵尊の石像を発見したので、この地蔵こそ正しく昨夜示現せし高僧の言かと驚き能く洗いあげ上の山に安置し香花燈明を捧げ供養すという。風邪・熱・はれ物・とびひ・疣などには特に感応益を施し給うといい、童女は疣地蔵と呼んでいる。
  御詠歌に 長楽寺十一世清蓮社忍誉
 虫う津のむしの思いも世と共に 露のみならず 何かなげかん
     先達垂間野之導場 萬生堂 十九世 覚阿須良 拝吟
 世を待ちて年久しくも埋井の 底より深きみ仏の慈悲
 また、太閣芦屋三里松原御手洗水池にて、茶ノ湯を催されしとき、この井の水にて湯を沸かしたとも伝へらる。
 元治の初年井戸の水紫色に変じたため調査したところ井戸に塵芥を投入れたため、地蔵尊の怒にふれたものとて井戸を掃除し、八月廾三日青年男女手踊奉納したところ、元の通り清水となったという。
 現在では各戸とも水道完備のため、井戸水の利用も尠なくなり、しかも井戸屋根腐朽せしため、関係者協議の上、防火用水池として転用している。水清く湧水豊富にして枯渇することをしらない大井戸で里人は御池と呼んでいる。

今宮様 新屋敷、仲山敏治家の上山に石祠がある。大正五年高田神社に諸社合祠の際、取残されたのであろうか合祠以後に祭られたものであろうか、同社の合祀神に含まれていない。もともと、今宮とは新宮ともいい、本宮に対し、新しくできた分社のことをいう。由来については一切不詳。

首なし地蔵 鞍手町の地域内になるが、以前は宗像郡吉武村吉留に行くにはもっとも近道であり、大谷越しというのはこの道を通ることである。戦国時代宗像家の武士が、猫城救援にもこの道を通ったであろう。「筑陽記」虫生津村の項にミコノ尾越宗像吉留村へ二里程とある。この峠に地蔵が首をとられたまま座しているが一名地蔵峠という。地蔵の首は多分博奕の手伝いに利用されたものであろう。台座に「三界万霊」と刻んである。「寛政十年(一七九八)十二月 古門原大谷中」とあり、「源七、弥蔵、七右ヱ門内 貞吉内 茂平娘 善吉 源太郎内 九八母 伝□武七」らによって寄進されている。
この地蔵も宗像と遠賀や鞍手の若者達のロマンスを多くみせつけられたことであろう。

10 浅木区

エヘン神様 浅木神社の麓、松本セキ家の北隣に自然石が斜に立っている。里人はこの前を通るとき「エヘン」と咳払いをして通らなければいけないと言伝えられ「エヘン神様」と呼ぶようになった。これは此の地を守る関守の謂であり、関が咳になりエヘンとなったものである。

薬師様 エヘン様の上にあり自然石に極く素朴な陰刻の仏像らしい姿がみえる。これは昭和五十一年五月、地元の芳賀三吾氏が掘出したもので薬師様と呼んでいる。同氏は信仰心厚く常にこの石仏の前には生花絶ゆることなく、また正・五・九月にはお祭りをしている。この石仏の上には大楠があり昔、浅木神社の社僧の坊、心光庵があったといわれていたことから、明治の神仏分離のとき土を覆ってかくしたものではないかと思われる。

地蔵堂 切戸にあり、堂老朽のため昭和五十七年八月新築。縁起等不詳

冨永地蔵 富永墓地の中にある。西光寺「過去帳」に正誉宗覚信士(延宝七年)外二基、「右三□有吉氏元祖墓冨永に有之候処安政四年之秋寺内奥墓に移す旧跡には石仏地蔵尊を安置す」とありこれが冨永地蔵である。

下方地蔵 谷口家の西にあり、当堂は板敷はなく、諸仏は土間の上に祭られている。諸仏は次の通り
 阿州地蔵 即第五番 嘉永二閏年七月仏日 願主 下方中 世話人 有吉長次郎
 延命地蔵大菩薩   嘉永二閏年七月仏日 施主 下方中 世話人 有吉長次郎 同姓 新平
 馬頭観世音     嘉永七寅年九月中旬 願主 下方中 世話人 有吉長次郎 末持 惣□
 大日如来      安政三年霜月仏日  願主 下方中 世話人 有吉長次郎 末持 惣□
 この他、木造地蔵菩薩立像がある。この仏は以前は西光寺にあったもので、西光寺改築の際ここに移したものであると古老の言である。「筑前国続風土記拾遺」に「西光寺境内に地蔵堂あり昔は心光庵といひしよし本尊は行基作と云」とあり、この地蔵菩薩は心光庵のときの仏ではないかと考えられる。

六地蔵 西光寺本堂左にある。嘉永二年四月、ときの大庄屋有吉与右ヱ門の母を始めとし、有吉一門の寄進によるものである。

11 広渡区

安丸弥勒 八剣神社境内にある。「遠賀村誌」に「由来書に、陸奥国の六部当村に来り住して石仏を建立し、蓮花座の内に仏経を納めたり云々と、寛政十三年堂を建立す毎年八月初午の日に村人籠りをしていたと」ある。施主渡部四郎太が寛政二年(一七九〇)伍穀豊穣祈願のためこの石仏を建立しているので十一年後に堂を建立したものである。

安丸仏石 長岸寺境内にある。高一メートル八〇センチ位の自然石で昔は遠賀川の浮洲にあって村民は砥石としていたが、牛馬が之に触れると祟りがあり仆れるので、普通の石ではなく仏石であろうというのでこれを安丸に移し、更に享保年間に長岸寺の境内に移して観音として祭った。享保十三年五月十七日堂を建立したといわれる。古書にも観音堂ありと誌されている。明治二十四年の大洪水にはすぐ横の堤防が決潰したが、この石は動じることがなかったので、村人は益々畏敬の念を深くして参拝者が多くなったといわれ、大正五年矢野良吉等有志相謀って現在の堂を再建した。

淡島大明神 長岸寺境内にあり、享保の初年頃勧請すという。昔から腰から下の病に霊験あらたかといわれ、婦人の参詣者が多い。明治二十四年の大洪水で御堂が大破したのを修覆し、大正十五年再建したが老朽したので昭和五十四年新築した。
淡嶋大明神の御由来
そも/\淡嶋大明神の御由来を尋ね奉るに勢州渡来郡豊田ケ原に鎮座まします伊勢神明天照皇大神宮の乙之姫幡お女天女と申す姫なり御歳八歳の時摂津の国住吉大神宮に来らせ給ふ御歳十二歳の時四位の御位にならせ玉ひ其時上歯十六枚下歯十六枚合せて三十二枚の歯を染められけるか是れ即ち女カネ付の始めなりと御歳十六歳の時住吉大神宮の一の后と成らせ給ひ緑の黒髪を垂れ桂の眉墨青く紅粉の粧をこらし御身には十二一ト重に裶の袴を召し鉄漿黒々とふくまれて住吉の御神前を清め給ふに御歳十七歳の折神の身にも浅ましき白血赤血の業病を患らひ給ひ上十五日は白血の病下十五日は赤血の病此の血を捨つるに所なく山に捨つれば山神のとがめあり地に捨つれば地神の畏れあり川に捨つれば水神の障りあり海に捨つれは大海神の咎めあり是非なく住吉神社の乾の角に桑の大木一本ありけるがその根を三尺四方掘り起し白紙三十二枚を敷きつめて彼の血を流し埋め玉ひしが不思議や日数立つ程にその桑の木枯れければ住吉大神宮大に怒り給ひけがらはしき事かな斯る不浄者は一時も置くべからすと申されければ是非なく住吉の浜辺に仮小屋を建て数多の神々御詮議の後彼の桑の木を切りはなち穴虚船を出来へて姫を乗せまいらせ浪華が浜より流されけるが一度流せば突き返し二度流せば吹き返し三度流せばゆり戻し四度五度六度流せども突き戻しければ是非なく七度目には住吉の綾の巻物と神楽太鼓を浮子として流し給へば難なく沖へ流れけりこれにより住吉宮の御神與洗ひは毎年六月十四日と定められ尚住吉神宮に綾の巻物と神楽太鼓の無きも此の因縁なり哀れ姫君は波にゆられ風にもまれながら船の中にてひいな一対を祭り綾の巻物を取り出し伊弉諾伊弉冊の尊を念じつゝ流れけるが明る三月三日の大汐に無事紀州加太ケ浦に流れ着き玉ふに数多漁人等は此の不思議なる船を陸に引き上げたるに中より美しき姫君現れければ皆々恐れを成して何人なるかと問けれは姫は言葉しづかに吾こそは伊勢神明天照皇大神宮の乙の姫幡お女天女と申す者なりしが神の身にも浅ましき白血赤血の業病に罹り是非なく穴虚船にて流されたり女の身には月に七日の不浄あり即ち一年に八十四日の不浄あれば若し吾を念ずる者あらば白血赤血腰より下の病気一切を清め取らせんと御誓願ありければ皆々喜び姫君を此の地に祭りたしと言上しけれは姫は淡路嶋の一字を取り今日より吾名を淡嶋大明神と称ふべしと宜給ひて此の地に勤請せられたり是れ三月三日上巳の節句に「ひいな祭り」する因縁とはなりぬ其後神威を仰ぎて御利益を蒙むる者其数を知らす享保初年の頃明神の御霊告を感じ茲に遠賀川の辺り弘法山長岸寺境内に御分身を勤請し奉り爾来普く度生の縁を結び玉ひ愈々御神徳あらたにして抜苦与楽の御利益に浴する者日に多く神前に跪づく者常に絶へずして今日に至れるものなり
御縁日 毎月  三日 十三日 二十三日
大祭日 毎年 四月十三日(但シ新暦ナリ)
                    長岸寺

重広地蔵 重広にあり。道路より入込んだところにあり、判りにくい。境内は徳王家の墓地であり古墓も多い。本尊は木仏であったものを老朽のため明治維新の頃に今の石仏に改められたもので、以前の木仏はかなり古仏であったといわれている。

唐戸地蔵 唐戸の遠賀川堤防上にある。この地蔵は昭和三十六年二月二十四日交通事故により、あたら若い命を亡くされた供養と、二度と交通事故を起させまいとする大悲願から人命地蔵尊と称し石田一利・本田薫両氏によって建立されたものである。

12 老良区

観音堂 妙雲寺境内にある。各家から持寄った諸仏であるが、上段中央が如意輪観音である。また弘法大師石仏がある。この石仏は元高崎六男家横の川からひき揚げられたといわれ、同家に祭られていたものを後にこの堂に移したという。袈裟の彫刻もある見事な仏像である。

お大師堂 高崎六男家屋敷内にある。石仏は地蔵菩薩であるが、里人はお大師さまと呼んでいる。前述の弘法大師像を観音堂に移したあとも前の呼名で呼んでいる。

馬頭観音仏 添田仁親家前、三叉路にある。三仏あるが、自然石仏を馬頭観音と呼んでいる。由来は詳かではないが、昔この近くから馬骨が出たことから供養のため祭ったと伝えられている。

地蔵仏 縄手源吾家の南にあるが由来一切不詳

13 旧停区

地蔵堂 里人は地蔵さまと呼んでいるが諸仏混在である。無住であるが常に掃除が行届き香花の絶ゆることがない。心配事・失せ物・物忘れなどの願事には御利益があり、病気は多少長引くが必ず全快するとの事が堂内に誌してある。

14 松ノ本区

地蔵堂 松風山延命庵という。庵主姫小路篤胤。当堂の地獄絵は有名で毎年八月十六日に掲げられるのは他の寺と同じである。いまの堂は明治二十四年改築されたものである。松の本の地名を残すかと思われる同堂の大松もいまは枯れ朽ち、その株跡が昔を留めている。伝説によれば仏像は加須雅(春日)の一刀三拝の作像といわれているが確め難い。堂の縁起は次のように記されている。
抑ゝ遠賀県広渡郷三本松延命地蔵菩薩結跡を尋ぬるに、往昔此地の老翁あり、有夜の夢に其身三とせが程京都に有りて遊歓喜楽いともありつりけるが、古郷忘れがたく、妻子の愛念俄に思ひ出し、再ひ古郷に帰らんことを願ふ折節、いつくともなく老僧一人来り給ひて告て曰ク、此度翁筑紫に下り給ハバ我も同道せはやと念比に物語りし給へは翁も悦喜乃於もひをなし、則吉日を撰ひ都を発足し、海陸恙なくうち連遙の古郷に帰り、三本松の辺にて彼老僧別れを語り、翁にかたみを得さすへしとて地蔵菩薩の尊像を授給へは、翁いたく喜悦し、老僧いつまても此地にしばし足をとゞめ、予か葎にて数日の疲を休め給へとて御衣の袂にすかり別を惜み、此尊体をいつれの地にか安置し奉るへきやと覚へて夢は覚にけり。翁不思議に思ひ、鶏鳴に草庵を開き三本松の辺に行見給ふに、松の本より一筋の光り有り。立寄見給ふに古き仏体より光を放ち給へは、信心肝に銘し、供敬礼拝して明るを待て尊像を能々拝み給へは延命地蔵菩薩なり。霊管の告露りはつりけれは別たす草堂を営尊像を安置して香華燈明を挺、朝黎暮詣懈り給ふ事なし。夫より名を松の本と云。大士は慈悲の御瞬に随喜の御涙をこほし給ひ、霊験日ゝにあらたにして、近隣の貴賤老若競集り私望私願其効数をしらす。誠に衆苦変易の大悲願のあるもの也。爰に文明の比当郡岡の郷県貴長福の仁あり名付けて須藤駿河守行重と云。此尊像を尊敬し給ひ願糸をかけ給ふに、こと/\く成就を頂くといふ、事(ママ)なく大士の利益いちしるしければ、御堂を建立し、仏供料として尾崎村にて上田三段寄附し給へは、霊験増ゝ新たにして、護益ゝ盛んなりけれは、行重善行を運ひ、尊敬拝謝懈事なし。遠地迫地の貴賤日夜を分す詣て応灌を仰さるはなし、濁り江の流れ永く潮の満干の尽せなく、御法の末の道広く、濁江川に橋を渡し、老若男女参詣の便りよく路次の煩ひ安からしめ給ふは尊くもまた有難けれ。天地は萬物の逆旅、光陰は百代の過客とかや。誠に頼り少きは浮世のならひ。爰に須藤駿河守行重岡の郷の農長たりしも、名のみ残して其源をしらす。流れに橋を渡し給ふ。其橋の柱のみ残りて此所をいまに穂の毛に濁り江といふ。実盛者必衰は世の習満れは欠くる世の有様、玉の簾、錦の帳も萬歳の粧ひにあらす。金の臺、銀の階も千秋の栖ならねは曽て由なし、宮も茅屋も果しなく、ただ蜻蛉のかりの宿なり。かくて年月を経て春宵一刻値ひ千金、花に清香月に影、実千金にも変かたしとは此時そかし。剣は箱に、弓は袋に納りて都鄙円満の雲の下、四つの海静に風も納る御代なれハ、大主君老之尊公齢花莚春の朝には色香に染紅葉の秋の名月に戯れ、千丈の海上には龍頭檄艫の遊船を浮へ、山林河海には徊し約し自ラ矢を飛せ給ひ、津ゝ浦ゝまで御領在ましまし、御遊行の折から当草堂の前に弓を伏て矢尻をかくし給ひ菩薩能尊像を見給ふに、霊光しきりにして、恰もよのつねの仏体にあらざれは、不日に影堂を再興なさしめ給ふは貞享四年の春とかや。君徳増ゝ盛んにして御代萬歳に栄へ、大士の利益四方に薫す。誠に妙覚果満の春の花は十方界の園に開き、大慈大悲の秋の月は六道穢処の濁水に宿り給へは、称仏一声の風速に吹、衆生妄念の迷雲を払ひ、六欲穢生の夢忽ち覚メ、正座十却の悟道を得ん事疑なきものなり。農長勝敏斯を語るに聞捨てがたければ筆を取て硯の海に向ふといへども、不才の波は高く薄智の棹は短く、書集ん言の葉も浅はかなれと、知る人のためにはあらす。薩陀の霊験感に堪へかたけれは其十か一を記すものなり浮学予が非を繕へ、希クは現世安穏抜苦与楽見聞の四衆をして古語の今に新たなるを知らしめ、且捨障度厄委地を満足し妙吉祥の光りを応わし給ふ事を希ふといふ事なり。
 当庵弘長二年開基 安政七申年迄 五百九十九年ニ成ル
 時之 宝暦十四甲申既望三月吉日
     遠賀県広渡村
       紫田勝敏 謹書

三 一字一石(葉)塔

 法華経やその他の経文を一個の石(河原石が多い)か紙、葉に一字づつ書写し土中に埋納して経塚とする。このほか、蛤などの貝類に書写したものもあるというが、これ等はみな祖先の冥福と自己の現当二世の利益を祈らんがため、土中に埋置したという。遠賀町には現在わかっているものに次のものがある。

 碑面のなかに血盆経という文字がある。これは我国でも江戸時代によく読まれた民俗的な宗教行事として血盆会がおこなわれた。今日でも曹洞宗の寺院の法会の塔婆にも見るが、女人血盆経は女人は不浄の血を流すことにより神々を汚すため種々の苦悩をうける。

 よってこの経を転読し書写して懺悔すれば救はれるというもので、疑経といわれている。

 なお、血盆経のことは「仏教大辞典」に「血盆経又、女人血盆経。「地蔵本願経」に飲血地獄を説けるを以て、支那の人、目蓮正教血盆経と云ふを作り、本朝古代の禅僧亦之を擬作して、女人血盆経と名つけ、曹洞宗の授戒会などに之を女人授与す。「孝感冥祥録上」享保十九年鹿谷賢洲注に世に杜撰の女人血盆経あり、誰人の妄造せるにや、文義俚賤にして用ふるに足らず。又唐の建陽の書林范氏が板本にて大乗法宝諸品経咒となずくる二策の書あり。其末巻に目蓮正教血盆経と名くる少紙の経を載す。即ち世流布の本に比すれば文義稍稚に近しと雖、是亦偽造の経なり。もとより大蔵の経録にも載せず。然れども異朝にも久しく行はると見えたり。諸経曰「誦といへる唐の書にも亦此経を載す。又地蔵本願経に説き給へる飲血地獄是なり」と。現行の血盆経は応永の頃下総国我孫子町正泉寺の和尚の感得せし由、彼寺の縁起に見ゆ」とある。

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