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遠賀町誌 第七編 信仰と生活 第四章 祭りと信仰

ページID:0026920 更新日:2024年3月6日更新 印刷ページ表示

第七編 信仰と生活 第四章 祭りと信仰 [PDFファイル/1.86MB]


第一節 村の祭り

一 おくんち

 おくんちは元来「御九日」であり、飲食を神に供えて直会をするが、それには必ず新米を用いなければならないので、風土や稲の品種の都合もあり旧暦九月九日に直会ができず、十九日・二十九日に秋祭をするところもあった。それを一様に九日といい、一般には宮日・供日とかき、親族朋友の交際の場となった。

 以前は、くんちあるきといって親族の者が今日は甲家、明日は乙家と、連日の宴であった。くんちには餅・甘酒がつきもので、各家庭の井戸端からコッコッと鶏や肴を捌く音が聞えてくる。

 各区では青年達が数日前から各家庭の置座を借り集めて掛小屋を作り芝居をする。子供達は早くからゴザをしいて桝とりをする。

 地元の青年男女の素人芝居で時には台詞を忘れ、相手役が小声で教えたりすることもあり、その愛嬌に拍手喝采であった。また他区の背年が弥次り、時にはけんかになることもあった。昭和三十五年諸行事の簡素化から本町公民館提唱により「おくんちの日、村内統一」の議がおこり、十月十四・五日と定められた。

 以来おくんちあるきが少くなり主婦などの多忙さは緩和された。しかし昭和五十年頃より「親睦融和」の面から、くんちを元に戻す話が巷間に聞かれるようになり昭和五十四年浅木、同五十五年上別府が以前のくんちに復した。くんちには神社の参道入口に幟がハタハタと白く飜える様は農村ののどかな秋祭り風景を醸し出している。

町内旧くんち

 幟は昇旗の略称で室町時代までは、軍陣用の旗は旒旗を用いたが、一四五六年畠山政長が戦場で旒旗の裾が樹木などに絡むのを防ぐため乳をつけて、竿に通して用いたのが始まりと伝えられている。

 神事・祭礼などに用いるのには竿の先に、杉の葉や竹笹をつけ、これを神霊の依り代として広く用いられている。

 一日の中に幟を仕上げることを日旗、或いは日幟りさんといって神社の祭礼に立てる所もあったというが本町では、その例はない。

 おくんちには各神社前の幟石に幟が立てられ祭礼気分をもりたてる。現在用いられている各神社の幟の辞句は第7-1表の通りである。

第7-1表左第7-1表

二 いろいろの小祭

1 お日待

 日待ちで特徴的なことは、庚申待ちと同じように一夜を眠らずに籠り明かし、日の出を拝し祈ることである。日待ちの本来的意味は原始信仰の太陽崇拝にあったのではないかともいわれるが証拠だてることが不可能に近い。

 日待ちの本義は精進潔斉にあるというが、大正以降各所でおこなわれた日待ち行事やその他の諸行事には殆んど鶏が料理の犠牲となっている。

 高家では、十月の不定日の日待ちには朝、当座の家に集り買物や料理のあと、宴会、夜は博奕などに興じ、朝四時頃から餅搗きをして昼前に解散したという。

2 子祭

 木守では、享保初年疫病大流行の折、御霊神社に祈願した処、霊現あって忽ち平癒したので井手神社境内に勧請して木守の住人が三人になる迄、子祭を続けることを万年願とし、二月及び十月の初子の日に宮籠りをしていたが最近取止められた。

3 亥の子祭

 十月(新暦では十一月)の亥の日に行う刈上げ行事で、中国にもこの日に餅を食う習慣があった。

 日本でも平安時代から貴族の間に、この日に餅を贈答する風があったといわれている。

 亥の子祭は玄猪ともいい、猪は子を多く生むので子孫繁栄・五穀豊穣の感謝と予祝の祈りから、各地区でおこなわれた。秋に田の神が山に帰る行事でもある。広渡では一番亥の日を亥の子様といって祭をした。

 臼の上に箕を置いて祭壇とし、一年十二ケ月を意味する一二個の餅や団子を枡にのせて供えた。本来は依代の榊・御神酒・おはぎを供える。農家では農作業も早くやめて休養した。夕方より男の子と女の子と別れて、手頃な石に子供達の人数だけの縄をくくりつけ、其の年に生れた男の子の家を廻って「亥の子餅つけつけ、つっころ山の小僧が、いも焼いて食いよったら、ちんぽの先に火がついた、あつっもつっ、もう芋は食わんぞ、亥の子餅つけつけ、つかんもんにゃ、鬼生め、邪生め、角の生えた子をもたそ」、

 と大きな声で唄いながら、庭先に穴のあくほどその石で搗いた。すると、その家では団子やお菓子や餅などを子供たちに配った。

 このように次々と集落の中を廻った。第二亥の子の日は、女の子の生まれた家を廻ったが、今では農家も少なく、これらの習俗もなくなった。

4 社日祭

 今は社日祭を続けている地区は無くなったが、戦前までは春秋の彼岸に最も近い戌の日を社日といい、土の神を祀って豊作を祈った。戌のツチと土を結びつけたものであろう。

 昔は宮座といい、社日といい、神の座には必ず汐井とりはつきものであった。三浦汐井・七浦汐井という。今のように車のない時、七浦の汐井をとることは大変な役目であった。

 こうして海岸の清浄な潮砂をとり組内各戸に配った。

5 駄祭

 初丑の日うるち米の粉に少量の餅米の粉をまぜ、半分は牛馬の飼料(ハミ)に入れ、残りは川に流した。また川と牛舎には御神酒を供えそのあと戸主は座元でお籠りをした。(広渡)

6 種浸し

 花園では、昔は花園庚申(毘沙門天の下)の前の小さな池に、種籾を浸すと、発芽もよく、病害虫にもかからず作柄がよいといわれ、この池に種を浸したという。

7 宮座

 宮座は村の祭りで最も古い形を伝えているといわれている。宮座は村の内に神の宿(神家)を設けて神を迎え、饗応し秋の収穫感謝と翌年の家内安全を祈っている。本町内でも宮座を続けている所は上別府・木守・老良・広渡・今古賀などがあり、餅搗きなど二日がかりである。

 以前は汐井取、〆おろし等もあったが、これらは今では省くところも多い。

 宮座での神饌・饗膳の献立や作法、直会における盃、当番渡しの儀式などは厳しい。

老良では今でもこの儀式を守っている。茲に老良西組の例を記す。(十一月三十日―十二月一日)
1、当番あいさつ
2、年長者あいさつ
当番渡しの行事次第
イ、お神酒毒味(年長者)
異状ありません。有難うございました
ロ、当番お神酒
ハ、打込み
ニ、神様送り
ホ、お流れ頂戴
へ、神前へ太鼓打
ト、祝詞奏上
老良は宮座を毎年七月三十日――十二月一日の間
お日待十二月一日――七月三十日の間執行
従来は男だけの座であったが、戦後は男女の参加で賑わっている。

広渡の宮座
 広渡の宮座には必ず菰實(通称こもぐろ)を膳につけることになっている。それには次のような伝説がある。
 水巻町立屋敷は寛永の頃までは今古賀と共に広渡村の枝郷であった。でも神社は立屋敷にあった為、当時の広渡村の人はお宮詣りは立屋敷の八剣宮まで行かねばならなかった。河を渡ることの不便さや、或る動機から広渡の村人は夜陰に乗じて、立屋敷八剣宮の神体を盗み出したが里人に見つけられ追跡されたので神体を菰池に投げ込んだ。この事件が収まって数日後、菰池に行くと御神体は菰の實に抱かれた如く支えられていたという。この古実から毎年十二月十七、八日(今ではこの日に近い日旺日)の宮座には菰黒を神に供えた後、一戸に二個宛を膳につける。また神の膳や鏡餅・三浦潮(広渡では芦屋・柏原・山鹿の浜の清潔な潮砂)お饌米・お神酒は各組各戸毎に供えられる。
 神官は、それぞれ御祓をして家内の無事息災を祈る。昔は神の膳は、女は赤封事といって作ってはならない。また当座は年内に死亡者のあった家は黒封事といって之を避けた。また当座宅の女性は家をはずし、男性ばかりの神厳なお祭りであったという。現在では古来の風習は廃止され、むしろ大半は婦人の参加者のようである。
 宮座に供へた菰黒は熱が出たとき、額に塗ればよくなるとか、髪の薄い人はこれを塗れば毛が生えるといわれた。

今古賀の宮座
 今古賀でも同じようなケースがある。同所では毎年立屋敷八剣宮に参詣して宮座に座るのを例としていたが或年、座元の人々から、差別的待遇をうけたので大いに慣り、同社の御神体を盗み出した。それを立屋敷の人に発見されたので後難を怖れ神体を川に投げ込んだ。この争議も漸くおさまり二夜三日川辺に仮屋を作り御神楽を奏したところ、神体が浮び上った。その所を舞見といい、今では前見とかく。一説には神楽は弓の神楽とて品のなきものは梓弓・真弓・樟弓云々と、この真弓と発音したとき神体水上に浮び出で給ふ故に此処を真弓の渕というと古書にある。
 今古賀では舞見の渕で捕った魚を宮座の神前に供えたが、今ではその慣習はなくなった。

  昭和五十三年度
   御宮座雑用帳 座主 柴田貫蔵
宮座の日 十二月十七・八日
米切り  末森利房・柴田晴喜
肴買   柴田直良・松本親子
野菜買  柴田誠太郎・末森清子
菰黒取り 柴田盛彦・川崎寅猪
宮座のための手順
十五日  寄 当番きめ
十七日  午後 餅つき
十八日  宮座
料理 神ノ膳 三ぜん 準備
 内一膳 座主 外二膳 くじ引き
   鏡餅 四重
 内一重 神官 一重 きり膳につける
 外二重 くじ引
   鯛 二
二人立 米五合・餅米一升
次回 末森利房  助役 柴田誠太郎

籤当り
餅上 何某  小餅 何某
〃下 〃      〃
掛鯛 〃      〃
お膳 〃      〃
〃  〃      〃

 これは広渡一組合の雑用帳であるが組合毎に定めを作っている

こもぐろ

三 万年願

 願かけとは神仏に対し願事をして約束をすることが多い。願が叶えば願解きといって神仏との約束事を実行してお礼を申上げる。万年願は殆んど組合や集落など村ぐるみといった祈願が多く、村人三人になるまで実行しますというのが普通である。

 遠賀町域でもかつては多くの万年願が存在した。各地のそれを示すと次の通りである。

(1)若松・鬼津では共に六月二十八日区民一同神社でお籠りをするというものであるがその起源は詳ではない。
(2)今古賀では稲に病虫害の入らないようにとの願から土用入りに「五郎七権現祭り」といって籠をしている。五郎七権現とは如何なる人か、里人のいいつたえによれば、貴船の社地を提供した人と云い、柴田家の系図中にも、その名がある。
(3)千代丸では数百年前同所に疫痢病が大流行した時に平癒の万年願をかけた由で毎年六月十五日宮籠りをしている。
(4)上別府 風止祭として同所豊前坊社に対し毎年九月一日に山崎神社に於て宮籠りを実施している。
(5)尾倉 昔、悪疫流行し尾倉山上に祇園社を勧請し之が平癒の万年願を立て毎年六月九日祭礼を行なっていたがこの祇園社は大正十四年山崎神社に合祀され石祠も同社に運ばれた。ところがある年、尾倉に軒並赤痢が伝染し、その翌年再び伝染病が流行したので占をたてたところ、石祠は移転したが神霊はもとの地にあるから霊地を粗末にするなという現示により毎年清掃し旧五月七日尾倉婦人会でお籠りを続けている。
(6)虫生津の婦人会では、数十年前、大干魃の時、同所倉谷権現に雨乞いをなし、婦人会員が三人になる迄参詣を続けますと、万年願をかけたところ、霊験著しく降雨に恵まれた。以来毎年七月二十五日参詣を続けている。
(7)木守 子祭を万年願としている。(子祭の項参照)
(8)老良 文政四年及び、同六年の両年六月村内に悪疫大流行のとき、病気平癒と農民の無病息災祈願のため、毎年山笠をたてること“若し、山笠を建てない時は花火を打上げる事を万年願とした。これは今でも守られている。
(9)広渡 春の例祭として菰筵の上で神楽をしていたことがあるが、今は麦藁くんちとして社籠を行っている。この由来については、むかし八剣神社の社殿も老朽したので再建しなければと村民は材木の調達を心がけていたとき、大洪水があり川上から多くの材木が流れてきたのを村民が総出で拾い上げた。折柄役人が調査にくることになり村人は大いに驚き、何処にかくすか、それとも申出るか、など村中協議で大騒動のところ、一人の娘の言により夜半畑を掘り材木を埋め、その上に菜種を植えて素知らぬ体でいたところ、不思議にも翌朝には花が咲き、役人も深く疑うこともなく無事済んだという伝説がある。この時、もしも事が発覚すれば村人は咎人となるところを、神の霊験の有難さに村人三人になるとも、この宮籠りはやめまいと万年願をしたといわれている。(一夜で咲いたナタネの花として民話で残されている)

第二節 講と順礼

 現在では生活様式の変化や社会構成の変化、更には信仰感の変貌等により、その多くは失われているが、藩政時代以来、旧遠賀郡に於いては、各地に種々な信仰に基く講が存在した。例えば、観音講・大師講・念仏講・報恩講・地蔵講・恵比須講・庚申講・等々である。中には、伊勢講や牛講などのように、必ずしも信仰に基かない目的をもった仕組講もあった。当時にあっては、それ等は信仰の対象でもあるが、近隣相互の紐帯でもあり、一種のリクリエーションでもあったであろう。

 一方、神社や仏閣を廻る廻郷・勧化も少なくはない。その最も手近なものの一つが、札打ち、千人参り等と呼ばれる近郷の廻村でもある。そこには接待や宿などを通して、村外の人々との接触もある。これ等は個中心で、精神的にも肉体的にも多忙な現代には必ずしも適応しないかもしれないが、一面ではよき時代の風習であったともいえる。

一 地蔵尊信仰

 遠賀町内でも石造仏でもっとも多いのは地蔵仏である。村のはずれや辻などに赤いよだれかけをしたお地蔵さんが立ち、或いは肥満体の坐った地蔵様が、子供達の遊ぶのをじっと見守っている。或いは自動車の排気ガスをかぶりながら立っているお地蔵様は、交通事故で亡くなった人の冥福を祈って建てられたものであろう。地蔵の名のおこりは「大地はあらゆるものの命を育くむ力を包蔵しているように、この菩薩は人々の苦しみや悩み、願事を叶え、いつくしむ心を無限にもっている」ということからこの名がつけられたといわれている。

 地蔵信仰は平安時代に中国から伝えられたが、はじめは貴族の間で盛んであったが、この世の現世利益のみでなく、地獄極楽の思想と結びついて死後の冥土にも救いの手をさしのべて下さることで、阿弥陀信仰とも結びつき、広く民間に広まった。江戸時代に入ると、道祖神信仰と賽の神信仰とも結びついて、村の入口や辻に地蔵を祭るようになり一般庶民と更に深く結びついてゆく。

 賭博者が地蔵の首を身につけておくと勝負に強いというが賽の信仰から出たものであろう。また親子の縁がうすく、幼なくして死んだ子供が三途の河原で「一ツ積んでは母のため、ニツ積んでは父のため、三ツ積んでは古里の」と小石を積んでは鬼に崩される地蔵和讃がある。親にとっては身のちぎれる思いで見送ったわが子の行末を、せめて地蔵様にすがってお願いするよりほかに仕方がないという親心が地蔵信仰を更につよめ幼児の墓は地蔵墓をたてたものであろう。

二 庚申信仰

 庚申信仰の起源は中国の道教ともいわれる。これによると人間の体内に三彭(彭踞・彭躓・彭□)という三尸虫がいて干支の庚申の夜(六〇日に一度)人が眠っている間に人体から抜け出して天に昇り天帝にその人の罪過を告げる。天帝は、その罪の軽重により命をとったり、病気にしたりするから其の夜は、眠らずに身を慎しまなければならないと説き、その禁忌を守庚申といい、夜半、南方に向って「彭候子・彭常子・命見子」と三度ずつ唱えてこれを祭る。これが道家の法であり、三尸の説は普代から説かれ、以後盛んに信じられて禁忌や三尸虫の昇天を防ぐ法など多く案出された。

 三尸の説が日本に伝わり、奈良時代の末頃から官廷中心に守庚申が行なわれたが宴遊が主であった。室町時代に僧侶によって「庚申縁起」が作られてから仏教的になり、江戸時代には修験道や神道でも独自の庚申信仰を説きだしたので全国的に盛んになり、各地に庚申堂が建てられ庚申講が組織された。

 庚申講は六十一日目毎にくる「かのえさる」の日の夜、座元に集まり、庚申の御神号や画像の掛軸を奉齊した。このあと飲食、夜話などや昭和初期頃までは賭博に夜を過すこともあった。

庚申掛軸

 天孫降臨神話に猿田彦神が道先案内をつとめたことから道路や村の境に祭られ、塞ノ神・幸神・賽ノ神・道祖神・久那戸神・岐神など同類で、また猿田彦命の鼻の大きさに比し鼻低面のアメノウズメが結婚することにちなんで男女の幸福をとりむすぶ生殖神として多くの名がある。

 高家の塞の神(現公民館前)をはじめ、大きなワラジや男根をかたどった木や石など、それぞれの願いをこめて供えられていたが今では塞ノ神も移転し面影もない。

 青面金剛は「陀羅尼集経」によると、一身四手、左の上手に三股叉、下手には棒を右の上手の掌には輪、下手には羂索をもつ。身体は青色で口を大きくひらき、目は血のように赤く三眼である。髪はほのおのように聳立し、どくろをいただいている。胸にはどくろの首かざりを、首腰・両手・両足には赤い大蛇をまきつけ、棒にも大蛇がまきついている。両足の下には、二鬼を踏み、本尊の左右には香炉を持った青衣の童子が一人ずつ侍立、また右側には刀・索をもつ赤・黄の二薬叉が左側には矛をもつ白・黒の二薬叉が立っている。このように青面金剛はインドの土俗神であるが江戸時代には庚申さまとして各地に祀られた。

青面大金剛尊

 遠賀町内の庚申塔は別表の通りであるが、尾崎・小鳥掛にある青面大金剛、尊塔はいずれも刻字塔である。天台密教者などの影響からであろうか。

 別府今泉神社境内にある「庚申神者天穂日尊」と刻まれた庚申塔がある。もと別府字宮ノ前「庚申塔」と呼ばれるところにあったもので猿田彦神が庚申神者として、広く一般に定着する前の神であったのであろうか。或いは、この地方の神道家の特性に依ったものか、珍しい庚申塔である。

庚申塔一覧表庚申塔一覧表左町内庚申塔の分布数

 庚申信仰は一般的には庚申尊天から猿田彦尊塔に移行したのは延享の頃からが多いが遠賀町では一部を除いて宝暦以後のものが多い。

 庚申講も昭和初期までは盛んに行われていたが、今では極く一部の地区のみとなった。

庚申の俗信
○庚申に雨なくば我この国を立除かんと思へ(庚申の日には必ず雨が降るという)
○話は庚申の晩に。
○庚申の日には同衾してはいけない。(この日に妊娠した子は盗人になる)
○庚申に餅なくば荒仕子この家を立退くぞ
○庚申真言 オコウシンデ コウシンデ マイタリマイタリ ソワカ

今泉神社花園尾崎

三 千人参り

 四国八十八ケ所霊場は弘仁六年(八一五)弘法大師の開創といわれ、それらの中には弘法大師と直接のゆかりのある寺や足跡を残したところも少くないが、実際には平安中期以後弘法大師信仰が盛んになってから霊場を定められたものが多い。

 遍路については平安末期に行われたことが「今昔物語」によっても知られているが、鎌倉初期に衛門三郎が子女の急死に無常を感じて、四国霊場を順逆二一度巡回した話(愛媛県松山市道後石手寺伝説)は有名である。八十八の数は人間の八十八の煩悩を断滅して八十八ケ所の霊場を開き、もって浄土を現し、来世濁悪の衆生をして、この霊場のお庭草を踏ましめ八十八尊の功徳を成就するためといわれている。菅笠に同行二人と書くのは弘法大師と二人連れという意味である。また西国三十三ケ所霊場は観音菩薩が三十三種の化身となって衆生を救ったという観音経にもとづいた民間の信仰習俗で、平安時代中期から始まったといわれ、当時はまだ、霊場も順位も一定しておらず、江戸時代になって今日のものにほぼ固定した。長谷寺の開祖といわれる徳道が西国三十三ケ所霊場巡礼を広めたことになっているが、じつは、二七〇年後、花山法皇が巡礼されてから次第に隆盛になったと云われている。

 旧遠賀郡内では帆柱四国(八幡方面)・島郷四国(若松方面)・中央四国(折尾中間・水巻方面)・遠賀川西四国(遠賀川以西方面)の八十八ケ所の巡礼などがある。

 このほか、当地域で遠賀川西西国三十三ケ所霊場があるが、八十八ケ所巡礼と同時に行われている。これらは、郡中の他方面の巡礼にも互いに参加している。

 かつては、遠賀郡中新四国八十八ケ所や、西国遠賀霊場順礼があり、また、当町にはその霊場こそないが、筑前国中三十三霊場や西国九州霊場順礼なども行なわれた。

 当地方の霊場順礼の時代は詳かではないが次の供養塔が虫生津川端観音堂にあり、これらの信仰が盛んであったことがうかがえる。

西国三十三ケ所順礼供羪塔元文三戊午年(一七三八)六月十七日
当村 峯次八

 井口家「年暦算」によれば、「嘉永三年四月(一八五〇)遠賀郡中、新四国八十八ケ所出来る。当村(鬼津を云)も寺に大師堂建、新四国発起は芦屋千光院世話人 今古賀・喜一郎・文蔵」との記録がある。

 昭和初期頃までは、延々長蛇の列といっても過言でなく、千人参り(札打とも云う)といわれたのも、その故であろう。

 現在続けられている遠賀川西四国八十八ケ所は明治三十六年二月次の人々により発起され、昭和二十年(終戦の年)不催のほかは今日に至るまで毎年続けられている。実施は毎年三月二十五日より同月末日迄五泊六日の日程である。この順礼記録によれば

開眼供養導師 芦屋町 海雲寺住職
松尾見洲・ 島門村若松 慶順坊法務
田中慶順・ 島門村鬼津 行徳院法務 二村正盈
発起大志願主 芦屋町 中西勘助・同町 柿木利平・同町 柴田半六・同町 小曽我善右ヱ門・同町 泉原武ヱ門・同町 草場惣兵衛・遠賀村鬼津 井口作治郎・同所 二村文平

 また宿泊料は事前に役員により取決められる。一泊すれば、夕食・朝食は勿論、昼の弁当まで整えてくれる。その他に殆んどの宿ではお酒や肴も夕食に出され歓待されることが多い。これは全く信仰者に対しての布施である。第7-4表に宿泊料の変遷を示す。(永田秀広氏記録による)

宿泊料の変遷

 遠賀町における礼場は次表の通りであるが、遠賀川西礼場は従来から存在した堂に八十八番を付けたものであり、四国八十八ケ所の本尊と、遠賀川西四国八十八ケ所の本尊とは齟齬するものがある。

 なお、同番が重複したところもあるが、これ等は世話人会で番を追加付与したためであろう。そこで表には地区順毎に記入した。

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