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遠賀町誌 第七編 信仰と生活 第五章 史蹟と口碑伝説

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第七編 信仰と生活 第五章 史蹟と口碑伝説 [PDFファイル/2.1MB]


第一節 遠賀町の史蹟

一 島門駅

 中世の頃の宿駅として知られているが、その跡は何処であるのか不明である。江川のほとりと言う比定のほか、多説があり、遠賀町内に於ても島津であるといい、若松附近だとも考えられ、または船郷あたりか、尾崎あたりのようでもある。「うまや」の在ったことは歴史書によって確証されているもので、殊に「駅馬」廿三疋「船」二艘という記録から考えて、遠賀川の西であることも当然であろう。このことは次の「三代実録巻廿三」や「類聚三代格太政官符」などに見ることができる。

「三代実録巻廿三」(貞観十五年五月十五日戊寅)
 先是、大宰府言、筑前國司偁、天長元年六月廿九日格曰、諸國渡船廿年已上為期買替、而嶋門渡二艘、不始置之時、今既朽損、利渉失便、況復河岸頽欠、渡口闊遠、公私往還、累日逗留、望請、次正税稲乃早充、依請許之。

「類聚三代格太政官符」(貞観十八年)
 応筑前国島門駅家付当國修理
 右参議権帥従三位在原朝臣行平起請你、件駅家在筑前国遠賀郡東太宰府二日程、去肥後国

 駅家は筑前遠賀郡の東にあり、太宰府より二日の行程という、遠賀郡の東とは郡家のあった所の東という意と考えられるが決定的なきめ手は今のところない。

二 城跡

1 五郎城址

 島津にあり里人は五六山という。島津バス停より島津区に向うとき右手に突出した小丘で上部は平坦となっている。昔猪股五郎左ヱ門の居宅の址と言伝えられている。(アシナカ踊参照)またこの丘には箱式石棺もある。

2 マルビ砦址

 「福岡県地理全誌」及「遠賀郡誌」に「堂塔寺山の左右をマルビと云う砦ありし由言伝う」とある、南台上は高さ三メートル、直径十メートルの円形で一段と盛上っているのでマルビというのであろう。見張所の址ではないかと思われる。北側にもあったというが今はない。

マルビ砦

3 千代丸城址

 千代丸の山上にあり今に城の辻と呼んでいる。昔小早川隆景が筑前を領したとき其臣、安増甚左ヱ門に命じて監視哨的な山城を作らせたものであろう。

 千代丸城址については、「福岡県地理全誌」に「城ノ辻城址――千代丸ニアリ、小早川隆景其臣安増甚左衛門ト云者ヲ入置レタリト云」とあり、「遠賀郡誌」島門村今泉神社の項に「(前略)小早川隆景筑前を領せらるるに及び、其臣安増甚左衛門を千代丸に居らしめ、神社をも修造せしめて、養子秀秋の代に至り、国を没収せらるるに至りしかば、安増氏に遂に此に止まりて農に帰せりと云――以下略」、また、浅木村山崎神社の項にも、「(前略)小早川隆景筑前を領せらるるに及び、其臣安増甚左衛門を千代丸の城に居らしめらるるに至り、安増氏当社の衰頽を嘆き、之を隆景に申けるに、やがて社殿を再興し、太刀一振を奉納せらる、安増氏も祭田を寄附せしかば云々」と記されている。

 「筑前国続風土記」「太宰管内誌」などにはこの城についての記載はない。

 当地を中心として東南一・二キロメートルのところに「城ノ越」という地名があり、北一キロメートルにも「城ノ越」がある。いずれも小高い山を控え、その鞍部である。

 この地が千代丸城との関わりがあるか否かは証し難いが、「城ノ越(腰)」とは腰曲輪があったのではないかと考えられる。

 山上の現状標高四七・二の山上は東西八メートル、南北二〇メートル位の平地がありその西に東西三メートル南北一五メートルの段となり、僅か下の西側に東西三十五メートル南北八メートル位の平地がある。今では高圧線の鉄塔が立ち、その西は「きりとおし」と呼ばれ丘陵を掘切ったように断崖となっている。このように山の三面は急傾斜で石塁はないが東南に数段の帯郭のような段丘となっている。古老の話によると、城ノ辻とも呼んでいる。数十年前までは瓦も散乱し祠もあったというが今では何も残っていない。

千代丸城址をのぞむ

4 高家城ノ越

 高家城ノ越は坊頭山といい、丸い草原山であった。明治三十八年、浅木村の日露戦争戦勝祝賀会はこの山上で行なわれ、児童や一般村民は日の丸の小旗を振って参加したと古老は語ってくれた。

 明治三十九年室木線布設のため土取りがあり、いまでは偏平な台地となっているが、その昔は砦か見張所があったと口碑に伝えられている。この附近から古銭・刀剣・人骨などが出土したこともある。

三 伝説地と口碑

目洗井 堂塔寺址の西の井戸をいう。伝説によれば昔、月軒長者の一人娘が失明したため長者夫婦は悲嘆にくれ、堂塔寺の薬師如来に一心に祈ったところ、この井の水にて目を洗うべしとの現示があった。そこで早速目を洗い祈願を続けたところ数日を経て開眼治癒したという。別名目そそぎの井ともいう。

目洗井

鳥見山 若松区の上の丘陵をいう。伝説によれば神功皇后征韓を終えられ、宇美で誉田皇子を御降誕の後、御東帰の際、この丘に登られ当時入海であったといわれるこの附近に飛びかう水鳥を眺められたので、この山を鳥見山と名付けたという。この丘陵には古墳も多い。

湯の口 鬼津区井口絹子さん宅にある井戸で昔、湯が出ていたので湯の口と呼んでいたが、のち井の口と呼ぶようになったと。

茶屋の下 鬼津区の西小鳥掛近く今「虚空蔵尊」が祀ってあるあたりに昔茶屋があったので、「茶屋の下」と呼んでいる。このあたりは中世の官道が通っていたところとか聞く。

馬場の久保 鬼津の茶屋の下に続く道筋に「馬場の久保」という地名があるが、これもその昔の島門駅の駅馬を養っていたところではないか、と言う人がある。

首塚 尾崎区城ノ越の山上、八合目附近に大小無数の岩がある。里人は岩立と呼び、首塚とも呼んでいる。また小石を集めたところが随所にあり、昔宗像合戦のときの戦死者の首塚ではないかともいわれ、また山上には当時、見張所があったともいわれている。この山上に立てば一望千里、遠く対島を望むことが出来る。また千把焚きも、この山上で行われていた。

古銭出土地 尾崎の安部卯一郎氏が昭和四十五年五月十一日同家前の畑の畦で石除け作業中、中国の唐代の開元通宝を始め、宋代の政和・皇宋・正元・元豊・元祐各通宝など、多くの中国古銭や、日本古銭など約五千余枚が出土した。開元通宝は唐の高祖の時代である西暦六二一年発行した。
 これは我国における最初の鋳貨として知られる和銅開珎のモデルになったものといわれている。中国銭出土地は近隣では岡垣町手野小塀がある。同所は昔、芦屋釜全盛時代の鋳物師の頭領で大富豪であったといわれる須藤駿河守行重の邸宅があったという所であり、いま一ケ所は同町野間、岡垣中学校々庭北東隅出土である。
 これらの関係については詳ではないが、平安末期から鎌倉中期にかけて日宋貿易が盛んになったこともあり、隣接の古くからの貿易港であった芦屋に関係のある商人の屋敷址ではないかといわれている。

舩繋松 別府―虫生津線道路より高家に入る三叉路(小字汐井掛)に今では小さい松があり、人々は「汐井掛の松」と呼んでいる。
 大正時代までおこなわれていたお汐井取(海の砂を藁ツトに入れたもの)の砂を、この松枝につりさげ悪疫侵入を防ぐための呪をしていたことから汐井掛の松と呼んだ。
 船繋ぎ松の名は、延喜の頃、菅公筑紫に下られた時、海上が荒れ、船の航行が困難になった為、船を此の地まで寄せられこの松に繋がせられたという伝説がある。代々植え継がれ明治中期頃は、周囲二メートル四〇センチ位あったが、明治三十八年虫害で枯れたため、其跡に植樹した。こうして松喰虫の喰害と植樹が繰返えされ、今も若松が植えつがれている。

腰掛石 上別府公民館前にあった。一メートル五〇センチ平方の平らな石で菅公上陸の際、この石に腰をかけ休息されたと言伝えられ、菅公の腰掛石といわれている。(神社篇菅原神社の項参照)打てば響あり、ただの石に非らずという。昭和二十九年、上別府公民館建設のため上段に移転した。毎年執行されている天満宮の御神幸には、この石を御旅所(おかりや)として、御神輿を置き、祭典をおこない往時を偲んでいる。また、この側に「菅公御遺跡」の碑もある。

碑

川端砦 虫生津川端、貴船山をいう。「遠賀村誌」に、「宗像大納言が盛んなりし時、山鹿城主麻生氏の動静と西遠賀郡の情況を見張りのため置かれたものである」という。
 その真偽の程は不明であるが、同所は村の鬼門というので貴船社が祀られていた。(今は高田神社合同)また山頂には箱式石棺がある。
 「福岡県地理全誌」に、「神功皇后御船を繋かせ玉ひし所と云、古来林中に大なる杉二株あり、一株は元禄年中枯朽し、一株も近年枯れたり」とあり。いま大きな鉤栗一株がある。

榊の神木 虫生津宝ケ浦、旧大庄屋毛利与八郎家(今は畑)の庭園であったところに今尚、焼けた大株は残っている。その昔、黒田継高は底井野別邸に狩猟に来られた際、当毛利家に立寄り「栄えよと神や植えけか、この庭の、むかし覚えし榊葉のかけ」、また「池広み厳に根さす松蔭の、亀もこころに、かなひてやすむ」と詠じた短冊を賜り、同家は家宝としていたようであるが、明治六年の百姓一揆の暴火に罹り、神榊なども家屋もろとも焼失した。同家は当時郡内でも筆頭大庄屋をつとめたこともあり有力者で古記録等も多かった筈であるが灰燼に帰し当時の庭園と思われる所のみが昔をとどめている。

船津長者屋敷址 「遠賀村誌」にこの名があり、虫生津嶺正夫家の旧屋敷をさす。船津とは船着場や渡し場をいう。昔の渡し場は浅木山渡り――虫生津観音前であったが渡し守がいたという記録はみえない。伝説によれば、この屋敷から一年中毎日欠かすことなく米搗きの音が聞えていたという。当屋敷西南の隅に桶井戸があり、鉱水は年中絶ゆることなく湧水しており、皮膚病に効能ありというので徳利をもって水もらいに来る人もあった。なぜ船津というのか不詳である。

竜ヶ洞 倉谷権現の南の谷、大谷川の水淀むところ深渕にして水常に青く、まさに竜ケ洞という名にふさわしい所である。

箙の梅 「筑前国続風土記附録」に「紅梅一株あり胡箙の梅といふ。光之公寄附し給ふといふ」とあり、今も植え継がれ香気を漂よわせている。(浅水神社の項参照)

狩衣梅 昔の森家の屋敷跡といわれるところに梅の大古樹が再生している。「筑前国続風土記拾遺」に「民家の庭に白梅一株有り千葉にして匂殊に勝れり。そのかみ江龍公(光之)此辺郊遊し給へる序に御覧有って賞し給いしとかや其後功崇公(継高)も花盛にここに逍遙したまい江龍公の愛させたまいしをきこしめして「狩衣袖にうつしてかへらばや浅木の梅のあさからぬ香を」と詠みたまへり。当国君(斉清)文政七年の正月にこの花を御覧有て先公の賞でさせ給ひしをきこしめしてさきの御歌によせられ給いて花名を狩衣とつけさせたまへり云々」とある。
 さきの民家とは森家でその後裔森紀弘雄家(現在小倉北区在住)にある書によれば、「前分欠…………らるゝも狩に出けるに浅木といふ村里に休、此庭の梅をあるじに尋ければ、是も光之公の御時御尋有、古木なるよし白梅の香すくれたり」と書かれ筑前国主少将御筆“嘉永元年迠百年至る」と後記されている。
 これにより民家の庭にある白梅を狩衣と称し、社側にある紅梅を箙の梅ということを記しておく。

森家に伝わる書

竜の渕 木守井手神社のご神体は、渕から揚った竜神であるとされている。旱魃の年によく水争いがあり、昔井手神社の側の古川の堰で今にも血の雨が降らんばかりの大喧嘩のとき水中から竜の化身が現われ、忽ち大雨を降らせ堰をあふれる程の水を流してくれた。
 霊験あらたかな神というので堰の底の石をご神体として祠ったといわれている。

御茶屋跡 木守近松一好家の南(今は畑)がその跡といわれている。寛文七年(一六六七)黒田三代藩主光之公が御茶屋を造営し、御遊猟の度毎に、ここに休憩されていたという。
 この地は小林大庄屋跡といわれ、酒屋も営まれた所である。

御茶屋床 「筑前国続風土記拾遺」に、広渡の項に「安丸と云所に高樹公江龍公功崇公の御茶屋有しと云。今其跡を御茶屋床と云」と、藩主御遊猟のときの休憩所である。別名安丸城ともいい、その跡は青柳病院の南、松本家付近といわれている。

軍畠 広渡浮州江の上(今では遠賀川の中にあり鉄橋の上、下附近にあたり河敷が少し残っている)を軍畠という。昔、水巻の古賀城主と宗像家とが合戦したところといわれている。当時は今のような川ではなく水巻の豊前坊山の下から猪熊、三ツ頭の間を流れる曲川の水路を流れた形であったので、田や畠があり戦場となったことに不思議はない。
 いま広渡八剣神社境内にある先防神社は、この時の先陣を守って戦死した人を祭った社と伝えられている。

金の茶釜 上別府区花園では、むかし、ある大へん金持の家が西川の川沿にあった。当家には金の茶釜で湯を沸かしており、昼どきになると、ジャーンジャーンと湯の沸く音が花園中に響き渡り、野良仕事にいっている人も、これによって昼どきを知って家に帰ったと言い伝えられている。

霊樹 上別府区天満宮に伝わる話に或る時、神社の近くに住む人が家を建てる為、伸び出している梅の枝が邪魔になるので伐ろうとして、翌朝見るとその枝は反対側に向いていた。そこでこれは神木であると言い伝えられている。

唐戸風 享保十八年(一七三三)三月といえば大飢饉の年で、広渡墓原下池にかくしてあった籾種子を盗んで食ったという伊勢松(離水信士)勘蔵(水還信士)岩七(友消信士)(※長岸寺過去帳による)の三名を広渡前田の新田という川辺で責め殺し、梯子に屍体を縛りつけ川に流したところ横土手の唐戸に流れついていた。この怨霊が風となって往来の人々を悩ました。これを唐戸風といい、この風にあって死んだ人数しれずという。そこでのち圧屋嘉右ヱ門、組頭六太郎はこの三名を、あつく供養し、唐戸口に念仏柱をたて、長岸寺地内にも地蔵をまつって供養した。
 また、例年四月十八日お獅子祭があり、松の本の人は、お宮より帰る途中、なおこの風にかかるものが多かったため、更に広渡八剣神社境内に今宮神社として石祠をたてて祭り、それよりやむと「松本家記録」にあるが、明治のはじめ頃までその風に屢々悩まされたと古老は伝えている。

楢葉石 島津字塚の元道路傍にあり、石に楢の葉の形がみえるので楢葉石という。酒・醤油・味噌など自家醸造をしていた頃、この石を蓋の上におけば腐らないといわれていた。今では探すことも困難である。

鬼門除 鬼津区の東西南北に観音、虚空蔵、石仏(庚申塔)観音があり、中央に地蔵が安置していて、鬼津では四方鬼門除けと言伝えられている。一般に集落の東北にあたるところに貴船社を祭ったところは多いが、四方鬼門除けをしたところは珍らしい。

九十九谷 尾崎の愛獄山、首塚を頂上として大小の谷が九十九あるという。古老の伝説によると、百谷あるのだが百谷は弘法大師の霊場となるので狐狸が一谷隠したため九十九谷というと。

正月飾りをせず 正月に際して歳神を迎へ祭るために松・注連縄その他、家の内外を飾るのが一般の習慣であるが、別府北浦の西組合のうち十数戸は、その昔、十二月の歳末に官人が別府に来られ、民家では頗る多忙をきわめ、正月の注連や松飾りなどする暇がなく、これらの飾りをせずに正月を迎えたが、其年は特に豊作で吉事が多かったので村人はこれを吉例として、其後正月飾りをしないようになったと伝えられ、今でもこれを続けている。

忌事と施餓飢 今古賀では昔より操人形をしてはならないといわれてきた。その理由は寛文三年(一六六三)同所の組頭次左ヱ門、総右ヱ門が無念の斬首された事件(記念碑の項参照)以来操人形をすると人形同志が斬り合い、首から血が出るとさへ伝えられた。明治初年今古賀の組頭豊七・長吉が、こっそり木守で操人形を興行したが、伝えられた通り大揉めになり長崎控訴院迄出るような騒ぎとなった由で、それ以来今古賀の人は決して操人形はやらないようになったといわれている。同区では前記次左ヱ門、惣右ヱ門の両名が村民のために犠牲となったため、いまでも毎年七月十七日公民館に於いて区民あげて施餓飢を施行し、両名の冥福を祈っている。
 なお、今古賀での次左ヱ門・惣右ヱ門の斬首事件については顕彰碑説の他に一説がある。その異説は「検田使と百姓が稲の検見中に近くの農家から煙が出ていたので検田使は「ソレ、火事だ早く行って消せ」と百姓に命じると共に、おっとり刀で駈けつけ、煙の出ている納屋をあけてびっくりした。納屋の中には青い稲を刈って積みあげてあるので、稲が焼けて煙をふいていた。年貢が高いため隠匿して、その軽減を図ったものであるが検田使に発見され、二人が犠牲となり下ノ堂附近で処刑されたという。記念碑にある碑文と、いずれが正か否か不詳であるが、言伝ではこの説が多い。因みに、戸切(岡垣)では「今古賀のようなことがあっては大変だ。戸切が三軒になるまで証拠山に登り、夜おこもりをしてお日待ちをしよう」と申しあわせ、お日待ちが始まったといわれている。

浅木六部塚 鞍手町「亀甲山長谷観音縁起」に、その外伝として「香井田くずれ」の物語が鞍手町の古老の口伝としての記録がある。「香井田くずれ」とは現香井田龍徳ケ岳城(龍徳城とも香井田城とも云う)の落城物語である。以下要点を抜すいして記す。
 この物語の時代的背景は室町幕府の末期、将軍足利義輝の威令が行われず、群雄割拠の時代、わが筑前に於ても周防の大内義隆と豊後の大友宗麟との勢力争いのため明けても暮れても戦の連続であった。山鹿城主麻生与次郎元重は、花尾城、岡城をはじめ諸方に出城を有し、遠賀郡を平定して後、鞍手平定の足掛りとして、まず粥田庄勝野村御徳に支城を築いた。ところが粥田庄には名城主と謳われた杉権頭連並がいた。杉氏は永満寺村に高鳥居城をもち、ついで龍徳に支城の龍ケ岳城を築いていた。杉氏としては自分の領土内に山鹿の支城ができたので大変である。勝野の山野で大戦の後、杉氏の大勝利となった。これを根にもった山鹿方はこの仇を報ぜんと永い間虎視耽々としてその時を窺っていた。杉氏は一時は大内氏について勢力を振っていたが、後に高鳥居城を島津氏に攻められて落城し、ついで龍ケ岳城も天正の末年山鹿麻生氏に攻められて遂に落城の悲運に泣くことになった。「香井田くずれ」とはその龍ケ岳落城裏面史である。
 この物語の主人公は長谷観音の申し子、長谷川左近である。左近は遠賀郡山鹿城主麻生氏の家老で名臣・忠臣といわれた人である。
 この頃、山鹿城の家老長谷川家には既に長男は生れているが、戦国時代のことだから武将となるような子が欲しいと長谷観音に三七、二十一日の願をかけ、その満願の日に妊ったのがここに登場する左近である。左近は小さい時から才智腕力共に衆にすぐれ普通の子供と全然ちがっていたという。
 そこで父の家老としては左近が人並はずれ賢いのは喜しくもあるが、兄弟げんかでもして家名を傷つけることでもあればと、又一面心配でもあり、元服すると早速鞍手五万石をつけ封入した。この時、名臣香井田十郎並緒を家老としてつけたという。
 これより先、山鹿城にいる左近の兄は彦山の城主の娘をめとり、一人の子供まであったが杉氏方の計略により、山鹿地蔵の呪咀にかかり急死した。後に残った左近は若輩ながらうまく城を切りもりして、敵の乗ずる隙がなかった。そこで敵方は又々一策をめぐらし、毒酒を盛って長谷川一家の皆殺しを企てた。左近の兄の法要に毒酒を供養として供え、一家の者に飲ませようとしたのである。左近の兄嫁は何の気なしにこの酒を飲もうとした時、怪しんだ左近は、やにわに持っていた扇子で兄嫁の盃を打ち落したのである。兄嫁はびっくりして、且つ侮辱を感じ、左近をうらんだが、後で事の真相をきき、試しにその酒を子犬にやってみると、果せるかな犬はみる間に死んでしまった。この様子を盗み見した敵の廻し者は、陰謀の露見したことを知り早馬で一目散に逃げ帰り、時を移さず大軍を以て攻めてきたのである。余りにも急のことで城方は僅かの手勢で防戦も意にまかせず苦戦であった。そこで早速兄嫁の里の彦山城に援軍を求めたが彦山の方でも急のこととて大軍を集めることができない。取あえず屈強の勇士六、七人を選んで山鹿に立たせた。この先発の一隊が早馬で遠賀郡の浅木まできた時、山鹿の方に火の手の上るのをみて落城とさとり、一同の腰もくだけてしまった。彼らは主命にそむき急援の間にあわなかったことを詫びて、切腹してここに果てたという。
 今でも浅木に六部塚というもののあるのは、この勇士を祭った墓ということである。
 この落城のとき、兄嫁と子供は福岡をめざしてのがれたが、すぐに追手がかかり、山田村の近くまできたとき捕えられ田圃の中で殺されてしまった。今でも山田のその田圃の中にものを植えると、その時の母子の流した血の名残りでそれが赤くそまるといわれている。この母子は今に山田地蔵にお祭りしてあるという。この時、左近は身体一つで越中富山にのがれ、数年間薬売りの修業をなし言葉も身なりも富山の薬売りになりきって九州に下った。復讐の念にもえた左近は、見破られないように、片目をつぶし、ひそかに敵状をさぐったのである。或る日、鶴田村馬場崎にある龍ケ岳城の乗馬練習場のところに来た折、乗馬の格好があまりにも未熟であったので思わず笑ってしまった。すると武士たちは商人の分際で笑うとは不礼千万とばかり左近を打擲した。そこで耐えかねた左近は怒って奥の手をだすと、一同は歯がたたない。このことから片目の薬売りは強い奴というので大評判となり、やがて城主杉権頭の耳に入った。権頭は山鹿勢の復讐を怖れ、腕のたつ武士をと考えていた際でもあり、早速お目通りの結果召し抱えられることになった。左近の勤務ぶりといい武芸といい彼に叶ふ者もなく、城主の気に入り娘、小笹の婿養子に迎えられた。
 ところで龍ケ岳城は難攻不落といわれたがそれは城中の池に守本尊がいて、その怪物の使う妖術のためといわれ、左近はその秘密を知るため妻、小笹の前に尋ねるが、その儀ばかりはお許下さいと断るばかりであった。
 その後、二人の子供もできたので、もうこの秘密も打ち明けてもよかろうと、左近に打明けた。秘密とはこの池の守本尊司生虫といわれ、いもりのような虫で平素は胡椒のように小さいが、米のとぎ汁を池に入れ呪文を唱えるとこの虫があばれて、一里の山が二里の高さにもなり登れど登れど頂上につかないという。又虫があばれると雨や風を呼ぶという。このために城を落すことが出来なかった。この秘密を知った左近はこの虫を捕えんと池に入ったが怪物となった司生虫は仲々強く、さしもの豪傑の左近も命を落すようになった。この時念じたのが長谷観音であったという。ところが怪物は神通力を失ってもとの小さな虫となり、たやすく左近に討たれた。そこで左近はそのまま城を出て山鹿城の同志を糾合、軍勢を整え、龍ケ岳に攻め入り見事本懐を遂げたという物語りである。
 いま、この浅木の六部塚が何処にあったかは詳かでないが、土手外に墓地が四ケ所ありまた土饅頭形基地が東西に六基並んでおり、そこに行くと風にあうといわれていた所もある。ここにいう六部塚がどれを指したものか判らないが、土手添にあった三ケ所の墓も含めて浅木西光寺納骨堂に納められている。

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