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遠賀町誌 第七編 信仰と生活 第六章 称誉者と記念碑

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第七編 信仰と生活 第六章 称誉者と記念碑 [PDFファイル/2.87MB]


第一節 称誉者

 藩政時代、孝子、節婦、良民、長寿者、勤行者など、藩主廻国のたびに、その沿道に特別な座を設け一般の奉迎者と区別された扱いをうけ、時には「お言葉」を賜ることもあった。このように特別な待遇をうけることで、この人達の感激は大きく、そのことが村の風俗をよくすることにもなった。遠賀町関係の称誉者と言われる人々を「孝義録」および「良民伝」「筑紫遺愛集」に見ると次の通りである。

第二節 記念碑と頌徳碑

一 記念碑

1 神田川碑(老良)

内務大臣従二位勲一等男爵 山本 達雄題額
遠賀川ハ筑豊ノ平野ヲ貫流シ灌漑スル所七十余方里ニ及ブ而シテ我遠賀村ハ其河港岡港ニ接スルヲ以テ夏秋ノ候河水自ラ減シ千余町歩ノ良田灌漑ノ便ヲ缺グ・寛政年中島津村与十郎等相謀リ樋閘及砂堰ヲ垣生塩田ニ設ケ渠ヲ鑿ツ廿余町漸ク其旱害ヲ免ル蓋当時ノ一偉業ニシテ所謂塩田堰及神田川是ナリ然レ共其漏洩決潰鹹水混入及漕路開闔等障凝ノ為メ村民ノ悩苦ハ実ニ甚シカリシ、明治卅九年八幡製鉄所用水ヲ此河ニ取ルヤ灌漑水益匱乏シ。
稲田枯渇殆ト毎歳ニ及ブ、村当局深ク之ヲ憂ヒ苦訴折衝頗ル勗メ終ニ貲ヲ製鉄所ニ仰キ数々砂堰ヲ修築セシモ尚導水足ラス旦鹹水混入シテ村民其堵ニ安スル能ハス昭和二年製鉄所長官白仁武氏深ク茲ニ見ルアリ依テ土木部長沼田尚徳氏永久不変ノ導水工事ヲ計劃ス案成リ現長官中井励作氏之ヲ容ル乃チ底井野村土手内地先ノ河床ニ盾堰ヲ築キ又神田川ヲ延長スル約廿四町日夜精励僅ニ三閲年其工ヲ竣ル実ニ昭和五年七月也堰長二百米工費廿余万鋼矢板深ク地ニ入リテ伏流ヲ遮リ復漏洩決潰鹹水混入ノ憂ナク漕路ノ開闔極テ易ク渠水溶々永遠ニ旱害ヲ絶ツ往時ノ悩苦ヲ回顧スレハ真ニ隔世ノ感アリ而テ製鉄所ハ用水難ヲ緩和シ若幡戸三市モ亦沼田氏ヲ介シ本村ト協約シテ洽ク河水引用ノ宿志ヲ達ス今ヤ塩田堰ハ已ニ廃サレ新ニ沼田堰ノ称自ラ起ル嗚呼此宏遠ナル恵沢ト往時ノ悩苦トハ豈之ヲ諼レテ可ナランヤ茲ニ村民胥議リ碑ヲ建テ偉績ヲ不朽ニ伝フ仍テ其梗概ヲ勒シ以テ後昆ニ諗クト云爾
正六位勳一等 井手伊親 謹撰
太田精一郎 謹書

2 老良尋常小学校記念塔(老良)

 我等が母校老良尋常小学校は遠く明治三十五年の創立に係り、昭和八年村財政の故に廃封せらるるまで年を閲すること三十有二年、卒業生を出すこと亦百五十有余名人材数多輩出せり。
 回顧すれば創立当初、民家を借りての授業或は中途火難により校舎を烏有に帰し之が再建に就いては故添田寿一博士を煩はす等、幾多の辛酸を嘗めり、其の間、雄々しくも育成の任に当たられし、小野伝七先生、沼口嘉十郎先生、上野俊松先生、仲野団作先生の拮据精励、心血を注いでの御薫陶は想ふだに感激の涙滂沱たるものあり。
 嗚呼、思出多き其の学舎も今や無し、我等が母校を偲び恩師を慕ふの情や愈々切なり。乃ち茲に礎固く記念塔を建立し而して我等が童心を培ひし母校の地を永遠に記念すると共に師の高恩に報ゆるの象徴となす所以なり、栄光、塔上に在れ。

3 耕地整理記念碑(浅木)

総工費 三拾万壱千六百弐拾七円
起工  大正十年一月竣工大正十三年十月
耕地整理組合長 有吉又一 有吉藤蔵
〃 副組合長  有吉亥平 有吉暦太郎
評議員     有吉克己 芳賀倉平 一田彦太郎

4 鉱害復旧記念碑(浅木)

碑文
 この地遠賀川の左岸にありて美田なり昭和九年金丸鉱業鞍手炭坑を虫生津に開く以後東邦鉱業を経て三菱鉱業鞍手炭坑となり昭和三十七年終山す
 堀採のため耕地の大半は荒廃し耕作に難渋復旧の議起り三菱鉱業と復旧に関し協議臨時石炭鉱害復旧法に基き復旧に著手す。
第一期工事(本工事)
 一、復旧面積 三十八町七反四畝
 二、復旧費 二千七百三十万壱千円
 三、関係炭鉱 三菱鉱業株式会社
 四、工事施行者 九州鉱害復旧事業団
 五、施工年月 昭和二十九年=同三十年
第二期工事(追加工事)
 一、工事面積 十六町七畝
 二、工事費 六千二百六十万八千円
 三、工事施行者 石炭鉱害復旧事業団九州支部
 四、工事年月 昭和四十三年=同四十五年
 今復旧工事の完了にあたり三菱鉱業株式会社の善意と石炭鉱害事業団の復旧意欲並に地元関係者の協力を称え碑に刻み次代に遺さんとす
昭和四十八年一月吉日
浅木区鉱害復旧委員会

二 頌徳・顕彰碑

1 彰義柴田次左衛門林惣右衛門之碑(今古賀)

遠賀郡長正六位勲五等 田中慶介書
抑遠賀郡為川筋之地往古為入海古書所徴也爾後遂為陸地然旧藩祖黒田長政就封之頃今古賀猶為沼池元和八年開拓之為村始時里正柴田三郎左衛門有三子長子新五郎承家襲職二男次左衛門三男彦次郎俱分家於村内既而新五郎病歿嗣子弥右衛門年甫十六継遺跡襲職以故叔父次左衛門及惣右衛門以組頭役為後見寛文三年癸卯会凶荒願免租於是検田吏来検之遇発見畑中有稲株検田使大怒詰責里正次左衛門言里正未丁年不肖某等二人為後見諸事皆出二人指示其責有二人旦曰本村元来開拓沼地者故雖畑実水田也因称田者糵泥淖莫適播種地故不得止以有畑之名称耕地為秧田伏冀賜寛恕検田吏恕去二人追至宗像郡赤間駅及之百方陳謝検田吏言若欲完了検見汝等不可不殉二人之命如何二人曰謹従命但願某等聊有所思経伺藩庁俟其指令然後受刑検田吏不可遂處斬其十一月十四日也次左衛門時乎三十七惣右衛門年若干既而指令至其文曰従令雖畑秧田植稲無妨而事既去矣二人之死実冤罪也二人之将就刑也村民悲哀誓約可不断永世祭祀以故其後毎年七月七日村民尽集宝樹庵行祀莫其資藩政中得郡衙之許可以公費弁之維新以降以区費充之地主農民各供米壱舛云吁戲二人死誠雖可悲人誰無死死而有余栄此之徒留一片之碑無識者其径庭果如何哉況於如斯者乎茲明治壬子殖二百五十回忌辰酉有志胥謀建碑欲伝之不朽以慰二子之霊於泉下使余叙其事乃際之以銘銘曰 服勤忠実 授命為民 臨事勇敢 成義取仁 其跡也頗 雖病酸辛 遺名千載 永寿不淪
林次敏撰并書

2 占部先生之碑(別府)

是為占部君景徳之碑、蓋所以有此拳者、豈偶然乎哉、君名威重、称稜威男、考諱祐重君、妣高氏、君其長子也、以嘉永元年四月十三日生、累世以高倉神社祝師、住於別府邨、兼仕其今泉神社、旁設私塾、教授子弟、君自幼好学、受家学、及長師事月形健介、学於余翁、頗有造詣、特講究古史及和歌、襲家塾如故・若冠設神社文庫也、集紀記史伝其他数十百巻、今見蔵之於家、及明治革政、解襲職、六年更任其祠掌、九年転三小区副戸長、十年辞之、尋任今陸小学校訓導、爾来任数校々長、或任訓導、前後、十有五年、或挙本県教育会議員、又撰郡之学務委員、尽瘁於教育事業、不浅少、先是、為今泉神社外数社之祠掌、補中講義、挙神職、所長、兼監事、推挙其全国神職大会、関西聯合会議員也、数上京、関神祇官設置、府県社以下神職待遇、神饌幣帛料、供進等之事、周旋最力焉、後其事皆成矣、爾後社務之余暇、專尽心力於子弟之教育、神官之養成、是以村民益嚮学、敬神之風亦大興、実君誘掖之力也、於是、卅八年、河嶋本県知事、表彰君之功労、其文曰、卅有二年終始如一日、為斯道尽瘁、操行較著、可以観其為人、質性謹厳温厚、□事切実、節用好施、為民衆所敬愛、頃者門人信徒胥謀、将建碑、伝以其徳不朽、使余銘之、余与君有旧誼、以不文不可辞之、乃叙所知之□略、遂係辞曰、
奉職之粛、修学之孜 尊重国體 崇敬神祇 教人不倦 処事無私 千孝千悌 一家雍熙 令名高挙 門樹表旗 学徒景徳 遂建斯碑
大正元年十一月新嘗祭前一日建之
己百斉海妻直縄撰 瑞穂舎占部威重自書

3 烈婦源六妻碑(木守)

筑前孝子良民伝曰 烈婦名曰徳代地農源六之妻而能奉事于夫源六尽婦道有貞操之誉元禄十三年源六病死為徳守操能養兄弟二子為人縫裁澣濯耕作田畑為活母子煢々貧窶逼骨以故親族説入夫再三勧告不肯然陽諾之即強近喜三郎者令再醮迺執婦節則及禍於遺子苟全貞操則欠心於親戚赤縄緑短十二月十一日遂自刃而斃黄泉路悠心苦割二子之愛不屑息嬀子言偏慮紅薄顏命傷兮薫裏殷憂けい枯蘭折垂涙躊躇非惜代恩之身吞声欷歔那堪隔生之怨難奈人之無恕歎以悲終須知物之有彩華唇柳眉多称閨秀麗汝水清玉染世人独欽嬀人貞名其事達于国主上聞黒田藩公大感賞其貞烈給兄弟各米五俵亡父遺産田畑令耕作于村民其産物悉与之千兄弟成長之後令返納矣噫自古婦人殉節者多而宗勝者慶長十年九月自宗像郡大嶋村転住于此地称安部氏現代喜右衛門与有志胥謀将刻石以伝不朽余為記其梗概銘曰
汪洋西川 厳然遺跡 芳名馨今 貞婦稀古 遺沢永孚 寿考無彊
大正五年一月 社司 岡 直起撰
天外高儀書

4 有吉南耕先生寿碑(浅木)

正四位勲一等 安広伴一郎書
浅木小学校前校長有吉生三先生 号南耕浅木村下底井壄人考諱彦五郎世業農君其第二子也幼穎悟好学従安広紫川櫛田千里宮本竹墩等諸先生修漢学十有余年諸先生皆碩学鴻儒而門下多俊才君与之頡頏不相下明治之初本県創設師範学校君応本郡推薦入校講習新教授法管理法卒業後補浅木小学校長当時本郡教師修師範科者除君之外無一人故君受郡命集各小学教師開講習会以授新教授法管理法郡命君以巡回試験委員爾来浅木校遂為各校之模範矣君立講堂臨生徒有時則示厳父之威有時則垂慈母之愛或寛或栗両得其宜故生徒視君如父母能奉其命受其教師弟互親和気靄然其後君転底井野別府板櫃等各地之訓導補校長在職三十有余年生徒亦能受其感化為有為之士者幾百千人或有攀桂者数人其功績之大莫出君之右者明治十五年本県嘉其功績賞以那然氏教育論明治十七年文部省賜玉篇硯函教育会亦贈賞品頃門人胥議欲建寿碑頌其功徳徴余銘余与君有旧交不可辞乃作之銘曰
底井之水 深涵天光 浅木之梅 遠薫四方 律哉夫子 徳威宜揚 徳与井深 名与梅香 生徒建石 以代甘棠
大正五年夏五月載次丙辰
黒山敏行 撰文
安広 亥三郎書

5 柴田直敏翁寿碑(旧停)

逓信大臣正四位勲二等野田卯太郎書
柴田姓名直敏弘化四年二月一日生於遠賀郡嶋門村字広渡焉資性仁慈而豪毅寡言而深慮幼時毎縁土木与計数為嬉戲屢使父老驚歎矣及壮嗣父業為里正当其為治持己廉潔厳粛導下温厚歓倹郷里以緝和安寧隣村以慕風化徳矣越明治七年選拝遠賀郡吏在職九年鞅掌土木交通灌漑及耕地整理等業務悉禰宜当明治十五年夏遠賀川提防破壞洪水氾濫翁案救急之工神算不違奏治水之功危機一髮之間免挿秧枯死之厄実及十有余村村民歎喜頌其奇績矣降於同二十四年七月遠賀川提防再決潰洪水狂濫翁乃挺身投渦中指揮衆人督励防禦甚勉禰而水勢猛烈不得志遂遠賀郡西部一千五百余町歩同東部香月村及鞍手郡之一部一千余町歩等之耕地悉帰荒疇災民之慘憺不可名状而地租依然故農民逾困憊翁同情熱涙不忍黙過慨然奮起首唱翕合同志東奔西走具陳村民之状況於当該官衙請免租至切也官諒旨考査荒疇従軽重二年乃至十五年間得鐲免者一千五百余町歩也又憂遠賀川沿岸旧製木造樋堰腐朽不為排水之用請願幹旋官民之間更新石造使数村無後患旦改修堀川倍加筑豊炭之搬出雑貨運送之便等皆實翁之偉績而其功永不可没也及施自治制則官民認識翁技倆卓行推舉木守下底井野嶋津鬼津朳外七箇村之戸長及嶋門村長等在職數年翁愈勵精図治堅忍不撓多所釐革上以錄其功賜賞慰勞下以服其徳望風敦俗翁雖齡躋耳順不貪春花□月塵外之楽報国之忱益世之志未銷熄改易乾斡巽旋席不遑暖伏臘一貫以到於今名聲籍遠近矣乃斉志者盡策欲建碑勒績囑撰文於余余贊此舉不敢辞乃□述爾
 大正七年七月 眉山 岡野正雄選併書

6 村田登七郎君之碑(別府)

君幼ニシテ頴悟事ニ處スルヤ敏活明治八年邏卒ニ任シテヨリ戸長村長郡会議員トシテ公職ニ勉ムル事一日ノ如シ 水利土木等公益事業ニ於ケル功績顕著ナリ 仍テ茲ニ之ヲ表彰ス
 正四位 勲一等 法学博士 添田寿一

7 古野矢八郎翁碑(虫生津)

正四位勲一等 法学博士 添田寿一
古野矢八郎翁ハ嶺貞壮ノ三男ニシテ嘉永四年ニ生レ出テ古野家ヲ繼ク資性硬直ニシテ事ニ當リ遂ゲザルナシ明治維新庶政ノ改革セラルルヤ翁年歯少壮而モ衆民ノ推ス所トナリ獻替苟モセズ郷党為ニスル所少カラザルニ爾来或ハ郡村ノ公吏或ハ議員或ハ總代トシテ常ニ剰ス處ナキ渾身ノ努力ヲ以テ公共ノ事ニ鞅掌ノ職ヲ重ルニ従ヒ功績愈高シ晩年最モ居区ノ事ニ盡瘁シ耕地ノ整理基本林の植栽溜池ノ改築無格社ノ合祀村社基本金ノ蓄積等一トシテ翁ノ盡策ニ成ラザルナシ又近時区民ノ財政次第ニ衰微スルヲ慨シ産業組合ヲ組織シテ救済ノ道ヲ拓キ自ラ其業務ヲ管シ専心区民経済ノ向上ヲ期スルガ如キ翁ノ労ヤ蓋多大ナルモノアリ翁ヤ矍鑠壮者ヲ凌グモ齢已ニ古稀ニ近シ区民ハ翁ノ徳ヲ頌スルト共ニ永ク其範ヲ後晁ニ傳ヘンガ為メ茲ニ碑ヲ建テ其功績ノ一半ヲ錄ス爾云
大正八年五月

8 法学博士添田寿一君寿碑(老良)

君ハ老良組頭添田新三郎氏ノ三男元治元年八月十六日ヲ以テ生ル幼ニシテ頴悟神童ト称セラレ書ヲ能クシ山濤ト號ス刻苦精励孜々トシテ倦マス東京帝国大学ニ入リ政治経済ノ学ヲ修メ大ニ造詣スル所アリ明治十七年旧藩主黒田長成侯ニ従ヒテ英獨二國ニ留学スルコト三年帰朝シテ大藏省主税官ニ任セラレ累進シテ大蔵次官トナリ専ラ力ヲ各種銀行法ノ制定殊ニ金貨本位ノ実施ニ盡ス尋イテ台灣銀行頭取日本興業銀行総裁鉄道院総裁トナリ勲功ニ依リ正四位勲一等ニ叙セラル又帝国大学学習院高等商業学校等ノ生徒ヲ教授シ経済財政ニ関スル書ヲ著シ学界ニ貢献スルコト大ナルヲ以テ法学博士ノ学位ヲ授ケラル君平生深ク意ヲ育英ノ事業ニ注キ郡中ノ青年ニシテ君ノ指導ヲ受ケ有為ノ材トナリタル者尠カラス老良小学校ノ今日アルハ全ク君ノ賜ナリ
乃チ永ク功績ヲ伝ヘテ郷人敬慕ノ至衷ヲ表センカ為メ茲ニ此ノ寿碑ヲ建ツ
大正九年一月 従四位子爵黒田長敬撰併書

 添田寿一翁は碑文の通り、本町老良の出身であるが、碑文以外の若干を紹介すると、彼は官庁エコノミストの草分の一人であり、英国のエコノミック・ジャーナルに追悼文ののった唯一人の日本人である。追悼文はJ・M・ケインズが書いている(西川俊作「添田寿一」)。

 明治二十年遠賀郡郷友会を結成、同三十五年には東京小石川に遠賀郡寄宿舎を創立し、両者を主宰した。郷友会二十五周年・寄宿舎十周年の祝賀が行われた大正元年当時で、郷友会々員中、島門村会員七四名、浅木村会員五十一名を数え、東筑中学校会員中では、島門村二十二名、浅木村五名がある。寄宿舎には島門村三名、浅木村四名の名前がみえる。翁の郷党に居すところ極めて大なるものがある。碑文以後では大正十年にワシントン会議にオブザーバーとして出席、大正十四年九月には勅選貴族院議員となり、同年十二月には台湾銀行監査役となったが、昭和四年七月四日長逝した。

9 頌徳上野俊松先生之碑(老良)

 上野俊松先生は明治四十一年老良尋常小学校に奉職され、大正十五年退職されるまで終始一貫確固たる教育信念をもって我々子弟を薫陶されるとともに区の教化に献身され、老良区の発展に寄与せられるところ極めて大であった。
 先生逝かれて三十年謹厳端正な先生の風姿は今なお我我の眼前に彷彿として浮かび、うたた敬慕の情に堪えない。ここに顕彰碑を建設して感恩の意を表わし遺徳を偲ぶ所以である。
昭和四十一年三月二十日
子弟一同

10 戦歿者慰霊塔

建立のことば
本町出身者で西南の役以来幾多の戦役に従軍して戦歿された勇士に対し町民斉しくその功績を称え、ここにその英霊を奉祀して永く勲功を偲び戦禍のみじめさを銘記する。
茲に町制施行の機に、いよいよ平和郷建設の礎とするため、この記念塔を建設するものである。
昭和三十九年五月建之
遠賀町

戦没者芳名
島津区
池田 広満  大場  練  大場  誠  大場 邦雄  大場 八郎  柴田 恵木
古見 直基  矢野喜九郎  矢野 徳雄  矢野 芳種  矢野與三郎  矢野 順一
若松区
安高 信行  入江 幾夫  伊賀 精一  池田  茂  岡村  盛  小野 基光
川端 峰男  竹内 数雄  南部 徳雄  西野 光雄  浜松  薫  舛添  清
舛添 延雄  舛添干代蔵  舛添 正人  舛添 隆久  舛添 豊重  丸井  剛
山科  英
鬼津区
井口  巌  井口 一政  今土 敏男  太田 知親  太田 文男  太田 義夫
太田 保利  大西 灘雄  永田 喜敏  秦  延重  秦  勝平  秦  種実
二村  誠  三原 潤蔵  門司九州男  山田 一男  吉浦 嘉郎
尾崎区
安高 岩雄  安高猪七郎  秋武 清美  秋武  光  石松 浩気  石松 尚光
大村 清春  高山 七郎  田中 滝夫  中西 勝美  林  正樹  旗生 良景
旗生 徳男  広田  栄  松井  勇  三島  □  森田 博美  門司 重信
吉田 長生  林 猪七郎
別府区
安藤 武義  安部 政行  麻生鹿之助  泉原 豊作  泉原 正司  奥田 春美
河内 健一  河原 國雄  小林 明徳  佐藤 盛茂  谷口 豊次  高杢  悟
高田 政徳  内藤 哲也  仲野 正義  中村 守衛  永田 信義  永田 正明
永田 正助  花田 百郎  花田 常雄  花田音次郎  花田 利壮  花田 松男
花田 寿雄  原田 庚道  秦  正義  花川 孝雄  藤原 久義  松本 一貞
森 仁一郎  柳野 恒已  柳野  隆  柳野  稔  山中 重樹  吉田 敬行
和田 正人  村井夘太郎
木守区
安棲 安雄  石田  武  石田源三郎  占部 弥壮  太田 絹夫  大村 秀雄
白木 藤喜  白木 秀夫  柴田 友好  白石 和郎  藤井 重男  藤岡  勇
村田 黙音  村田 俊実  村田  茂  山崎  孝  芳村 正道  松本  競
遠賀川区
麻生 良雄  浅川 辰夫  庵原 芳男  安藤 正元  井上 武雄  柴田 博明
白石 一男  杉本 隆利  谷口十七八  谷口善次郎  高島 三郎  時松 三助
西内 高一  福本 正治  安永 保吉
今古賀区
加藤 忠蔵  加藤 知雄  加藤 房夫  柴田 俊郎  柴田  薫  柴田 一政
柴田 孝敏  柴田  力  柴田 徳已  永田 與助  永田 正行  永田 忠三
吉田 秋種  原田 秀清
上別府区
安藤 清人  石松 正春  石松 武喜  石松 源二  植村 治郎  浦川 嘉弘
高  正人  佐々木一郎  筋田  旱  筋田  進  筋田 清美  筋田 正実
杉塚 辰巳  中島  正  松下 末雄  大和 四郎  高椋 辰巳
虫生津区
相川 菊一  大山 又男  北楯 幹男  坂本  進  坂本  勇  白石 司郎
柴田三千人  篠田 道秋  重松 俊海  杉浦 義長  杉浦 義治  鈴木 壽光
田中 光男  津崎 真行  縄手 謙作  縄手 可夫  縄手 恒実  縄手 種可
中村 久次  原  徳次  古野 一友  古野 竹樹  古野 繁実  古野 文生
嶺 律一郎  嶺   久  毛利 武夫  毛利  高  毛利富士夫  毛利 丈一
毛利 俊彦
東町区
小川 忠信  沖川 初男  西  英彦  波多野光男  日高 慶男  山本  悟
山下 高治
西町区
青木松次郎  岩本 正人  太田 常雄  渡辺與曽夫  渡辺 鹿蔵
浅木区
有吉 敏彦  一田 繁夫  瓜生 甚作  岡崎 浩十  岡崎 時雄  寒竹 辰雄
白石二三太  中西 新次  新田 信年  森  三郎
老良区
有吉 金光  添田 東行  添田 義貞  添田 耕作  田中  豊  高崎 嘉治
高崎  博  高崎 正風  高崎 義人  縄手  穰  浜崎 正人  船津三千秋
松ノ本区
柴田 正見  柴田 憲行  柴田喜久雄  柴田 秀一  谷 久七郎
広渡区
伊藤  徳  織田  林  幸田 重行  幸田 為樹  幸田 三郎  柴田  作
柴田 謹二  柴田 次郎  柴田 正敏  柴田 勝国  柴田 悦生  柴田 勝実
柴戸 高人  高橋 芳秋  中島  清  長野  渡  原田 乾治  松本 一三
松本 重次  三浦  栄  森  正行  安松 虎雄  安松 武士  矢野 一美
山本 喜壮  吉永 恭仁  吉永 恭臣  吉谷  久  荒牧 春夫  治部田左門
水上 良忠
若葉台区
木村 喜信  豊沢 仁一

三 歌碑と句碑

 遠賀町内には古い句歌碑はない。町内大字若松出身で大阪に於いて病院を開業されていた医学博士竹森啓祐が昭和四十年三月に建てた歌碑を始め、吉岡禅寺洞・片山花御史等の句碑並びに浅木校歌々碑などがある。

島門小学校々庭  竹森啓祐歌碑

永遠に咲くや 心の花さくら
匂ふ島門の 学びやのには

※昭和四十年三月島門小学校改築記念

虫生津 高田神社 境内  吉岡禅寺洞句碑

野の果に貝塚はあり 虫生津春日

※昭和四十三年四月建之。(詳細教育文化の項参照)

木守 江ノ上墓地  片山花御史句碑

十三仏 この秋空を ささえて立つ

※昭和四十五年九月建之

若松 住吉神社境内  竹森啓祐歌碑

学びやのゆききに仰ぐ鳥見山
ぬかつ喜まつる 住吉の宮

※昭和四十六年十一月為感謝奉献

浅木小学校々庭  (校歌の碑)

(表面)
遙なり 福智の峰 空高く 白雲光る
その空の 高き心を
その空の 広き心を
朝夕に仰ぎ学ばん
浅木 浅木 いざすこやかに
いたずらを幾多のこせる浅木校
つぶさにおもふ 古き師と友

※昭和五十年三月浅木小学校百周年記念事業として建之

若松 小野敏行家庭園 竹森啓祐

揺ぎなき つつじの庭の 巖かな

※昭和五十五年春

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