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遠賀町誌 第八編 村落と生活 第一章 村の組織と衣食住

ページID:0026923 更新日:2023年6月23日更新 印刷ページ表示

第八編 村落と生活 第一章 村の組織と衣食住 [PDFファイル/1.49MB]


第一節 村落共同体

 近世の村落社会を構成する人々の身分階層は、かなり複雑であったが住民の大半が本百姓として、ほぼ平等の立場に立つようになったことが、近世農村の特徴といわれている。

 住民達は農地という制約を受けながら、その中で生活し、発展・成長をはかるであろうが、旧来からの農村には、本家分家を中心に、いくつかのマキ(同一の血族団体)があり、当地方ではそれをイツトウ・イチモンなどと呼んでいる。

 このように村民は、なにかの、つながりをもったマキが、小共同体をつくり、それが重なりあって一つの村落共同体を作っている。これをムラウチ或いは、ジゲなどと呼んでいる。

 このような村落に於いては、同姓の家が多く、村内の住民を姓のみで表すことは難しく、ましてやマキ相互間の関係を姓で表すことは困難である。そのため、共同体内部では位置や職業、屋号などで表すことが多くの村でみられる。

 村のうち本家・分家を示す屋号は随所にある。本家をオモヤ、分家をシンヤ・シンタク・インキョ・サキノインキョなどと呼んだ。職業や所在地の特色を屋号として呼ばれることも多かった。

 その一例を記してみると、クラモトは藩政時代の上納米貯蔵倉のあったところの家で、かつての村々に一戸か二戸はあったことがわかる。

 住居の位置によりオキ、ソラ、ムカイなどや村の入口を指すものをキドとよぶ。昔の村の役職であった家を先役または副戸長など、そのまま呼ばれている家もある。

 職業を呼ぶ屋号ではコーヤ(紺屋といい染物屋をいう)・板場(蝋をしめる業)・むろや(麹屋)や醤油や酢など作った家もあり、殆んど村内で自給自足ができたことがうかがえる。酒屋は浅木・木守・広渡・鬼津・尾崎・などにあった。このほか多くの屋号が今も呼ばれている。

 村民はこのような大小の共同体、またはそれの補充の役目をする関係団体の中で生活をしていた。もしそうした関係を破壊しようとすれば生活ができなくなる。たとえば村の定めや慣習があり、それに背けば村八分など他の制裁をうけたものである。

 若松区で作られた村八分の協定書があり、明治年間の村の制裁を、かい間見ることができる。

 協定書
大字鬼津何 某ハ該区へ赤痢病流行ニ付、当区へ移転居住シタルニヨリ区民一同協議ノ上、速ニ皈区スヘキ様談判ヲ遂ケタルモ同人ハ徳義ヲ重セス談判ヲ肯セサルヲ以テ区民一同左之条項ヲ協定スルコト
 第一条
区民ノ意見ニ反対ナル以上ハ左之項目ニ拠リ絶対的絶交ヲナスコト
 第二条
尓今以後当区字丸之内へ居住ヲナスモノニ対シ生死其他客来等一切決シテ出入ヲナサゝルコト但本家屋火災之節ハ類焼ヲ為サスト認ムルトキ左マテ消防ニ尽力セサルコト
 第三条
何某及家族并ニ同宅地ニ居住スル者ニ対シ若シ交際ヲナス者アルトキハ右同様ノ処分ヲナスコト、但此場合ハ更ニ惣会ヲ開クコト
 第四条
本区民ニシテ此協定書ニ同意ヲ表セサルモノハ何 某ト同一意見ナルモノト見做シ第二、三条ノ処分ヲナスコト
 第五条
本協定書ニ署名捺印シタル者ニシテ若シ前二、三条ヲ犯シタル者ヲ発見シタル時ハ直ニ取締人ニ告知スルコト但本条違犯者ヲ発見シ取締人へ告知セサル者ハ前二、三両条ニ拠リ処分スルモノトス
右条々厳重取締ヲ謀ルタメ取締人拾三人ヲ設ケ各組合ニ各々弐名ヅツ及両隣ノ三人ヲ以テ充分ノ取締ヲナスコト
 第七条
取締人任期ハ一ケ年トシ毎年七月改撰スル事 但シ再撰スルハ勝手タルヘシ
右条項堅ク遵守スル為メ各自署名捺印シ各組伍長ノ許ニ各一本ヅツヲ備置ク事
取締人拾三名、各戸主五十六名署名捺印(略)

 村は、同族集団がいくつか集まって構成しているものが多いが、その典型が当所では鬼津であろう。

 鬼津の貴船神社の項に示したように、同社の裏に一門氏神社がある。同地では、お社様と呼んで、各氏ごとに集り一統の無病息災と繁栄を祈念し、おこもりをしていた。

 現在でも秦氏一統は毎年二月十三日及び九月十三日に七浦潮(波津・芦屋・柏原・山鹿・脇田・脇浦・岩屋)をとり、お社様及び各、秦家に分配して各家清めの行事とすると共に座元を定めて、おこもりを続けている。

 同族的傾向の強い共同体社会では共同の生活や作業も多々みられる。共同をモヤイと呼ぶこともある。次はその一例である。

モヤイ田 二戸ないし三戸、或いは、組合・青年会などが会の運営費捻出のため耕作した共同田は各所にみられた。ユイと呼ばれる相互援助作業もある。

モヤイ風呂 組合が共同で風呂を管理した(水汲み・風呂沸しなど輪番制をとっていた)ところもあるが、大正末期頃には各戸に風呂をもちモヤイ風呂も解散した。裸のつきあいという言葉がある。こわれかかったモヤイ風呂の中のぬくもりに、村の社交性があらわれたようである。

共同井戸 昔は各地区に数か所の共同井戸があった。それらは水量豊富で水質の良いものが利用された。別府の王池、虫生津のお池などと呼ばれるものは大池という意で現在までも利用されているものもある(別府大池)。高家の茶の水井戸なども、地名と共に残されている。このほか各地にも婦人に親しまれた井戸は残っている。しかし、全般的には遠賀町の井戸水は水量は豊富ではあるが、水質は金気を含んだものが多かった。これは第三紀層の地質や金気を含む西川の関係もあった。これらは木炭と砂をもって作られた簡単な濾過装置を据えつけて水を使用した。

 共同井戸は数人が一緒に利用することが多く、世間話に花が咲くという主婦たちの社交の場でもあった。俗にいう井戸端会議という言葉が生まれた。飲料水や風呂水は水たごで運ばれたが、大正初期頃より各家庭に井戸をもつようになり、主婦の作業も大分緩和された。

共同水道 鬼津の高地地帯では飲料水の便悪く、毎年夏期には疫病の流行が絶ゆることなく、福岡県より伝染病の流行指定区とされていた。

 そこで関係住民は、大正末期より秦唯壮を中心として、毎日鶏卵一個宛寄附してその売上金を基金の一部として蓄積し、また関係者も寄附金を集めるなどして上水道の施設をなし、遂に伝染病の流行をくい止めるなど、共同して自己防衛につとめた。この簡易上水道は水源を鬼津字山ノ下の低地に求めているが、附近住民に今でも使用されている。この水槽には沿革が記してある。(第六編参照)

第二節 村の衣食住

一 衣

 庶民の平素の着物は木綿の手織で丈夫である、二代も三代も使え終りにはボロを織って作業衣ドンザやボロ帯として使った。第8-1表は別府高家に於ける明治末期より大正初期頃の庶民の衣について纏めたものである。

二 食

 庶民の食生活は次に記するように、洵に粗末な食生活がうかがえる。

 山行きには柳行李弁当や竹の皮・しんげん弁当などを用いた。魚類などは主として芦屋や波津からの行商の魚屋から買ったが、平常は鰯や鯖などが多く、鯛など赤物の魚類はハレの日に買う位であった。神社の祭典には、家族総出でワリコにご馳走をつめて、おこもりに行ったものである。

 昭和初期から終戦までは食糧資源逼迫時代といっても過言でなく、日支事変・太平洋戦争により、農家は米穀強制出荷命令発動をうけ、消費者は米穀配給通帳実施により大人は一日、米二合五勺(その後二合一勺)、肉なしデーなど生活必需食品の切符制による配給などにより、生活は、ますます窮屈の度を加えていった。

 戦後の高度成長時代から現代までは自給率の低下と輸入食糧が急増の時代である。戦争末期から終戦直後にかけて、日本人は飢と混乱をきり抜け飽食へ、和食から洋食へというパターンで変化している。インスタント食品が増え、コンビニアンス・フード(冷凍食品など簡便食品)が家庭に入り込み、今日では夕餉の料理まで家庭に配達せられるようにまでなっている。

三 住居

 村の住居については、近郷のそれと別に変った屋型ではなく、直屋の田型が殆んどであるが、各地区のうち二、三戸位はハナレと呼ぶ隠居部屋を鍵型に作ったものや、建増したものも見うけられる。

 明治年代の当地方は郡下を通じて瓦製造業が多かったせいか、藩政時代の藁屋根から瓦屋根にかわった家が比較的に多いといわれている。

 この中から「福岡県の民家」所載の別府・泉原憲太郎家を紹介しよう。同家は四ツ間取(田字型)の標準型であるが、農家には珍らしく入母屋造り・本瓦葺の中二階屋で周囲に半間幅の棧瓦葺の下屋を廻らす。以前は下屋の屋根も本瓦葺であったが、近年の修理に棧瓦葺に改めたという。中二階の外周りは白漆喰で仕上げ、小さな窓には防火戸を嵌めこむなど、外観は町屋風で草葺屋根の普通にみた農家と違う。建築年代は不詳であるが相当の年代を経過しているものと思われる」と。屋根には煙出し小屋根があるが、最近雨洩りのため丸瓦も取除き棧瓦葺とするなど大修理が行なわれ、かつて本瓦葺の威容が見られなくなったのは、残念である。

 昔は家を新築する場合、方位の禁忌などト占師に方位図の作製を依頼した。

 大東亜戦後、農家に於いては、農機具の大型化と農作業の大変革にともない、従来の納屋を大型に改・新築せざるを得なくなった。農家特有の広い土間のある家も殆んど姿をけし、廊下や応接間をもった和洋折衷型の家へと変貌しつつある。

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