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遠賀町誌 第八編 村落と生活 第二章 人の一生

ページID:0026924 更新日:2023年6月23日更新 印刷ページ表示

第八編 村落と生活 第二章 人の一生 [PDFファイル/1.82MB]


 人の一生には折り目があり民俗習俗の節を通り、最後には切れ目に至る。これを四大儀礼とし、冠婚葬祭という。

第一節 出産の風習

一 出産の前後

 妊娠して五か月目の戌の日を選び、産育最初の祝がある。「帯祝い」である。祝いは長子のみの場合が多い。出産の無事を祈り、ヘソババサン(産婆)や、嫁の母親や近所の極く親しい人を二~三人位呼び嫁の里から贈られた晒木綿の腹帯(岩田帯という)をしめ祝をする。祝といっても小豆飯を炊いて簡単な料理を作る位で大げさな祝はしない。これはお産が軽くてすむように祈るもので、戌の日を選ぶのもそのためである。腹帯は岡垣町山田の氏森神社・八幡西区永犬丸の榊姫神社・宮田町中有木の釘抜地蔵様などに参詣し腹帯を借り、出産後は新しい腹帯をお返しする習わしである。

 出産は初産のときは、産婦の実家、二回目は婚家で出産することが多かった。お産は同じ家屋内の納戸を産室に使った。またたび(マタタビ科)の木皮を産婦の寝床の下に敷くとお産が軽いといわれた。

 子どもが生れると産湯は嫁入道具として母親が持って来た「たらい」を使う。最初のお産のときに父親がいると、それが習慣となり以後のお産のとき父親がいないと難産となるので、お産が終るまでは父親は姿をみせてはいけないという。

 出産すると、早速小豆飯を炊き、茶碗に小豆飯を山盛りにつぎ、その上にダゴ石を一個のせて産の神へ捧げる。これは赤ちゃんの鼻が高くなるようにとの呪で産飯という。

 後産の処理については土瓶か壺に入れて(1)床の下に据える(2)墓場の人の踏まない所に埋める等、家により異なるが人にふまれない所に処理したものである。

 三つ目には小豆飯を炊いて祝った。この日に名付けする家もある。八つ目、この日に名付けする家が多い。里方でのお産の場合は嫁ぎ先の両親を、夫方で出産した時は里方の両親を招き名付祝をする。

 出産十一日目をヒアケという。この日に産婦の床上げをする。産婆はこの日迄湯浴せにくる。赤飯を炊き産婆を饗応する。

 男子は生後三一日目、女子は三三日目に宮詣りをする。いづれも母親の里方から贈られた宮詣り着物をきせ、姑が抱き、産婦も一緒に参詣する。

 途中親しい家に立寄り、イリコをなめさせてもらう。宮詣りは氏子入りであり、子どもの健全育成を祈願する。この日から赤不浄がとかれ夫婦同衾してもよいとされる。

 百日―百日目の祝を百日(ももか)という。赤飯を炊き組合中にも配る。赤ン坊には三粒食べさせる。これが食初めの儀となる。

 初正月には男子には破魔弓、女子には羽子板や手まり、柳つりなどを里方から贈る。産婆には紅白鏡餅一重・手拭・とび米一升・金一封(米一俵代位)を贈る。これが産婆に対する謝礼である。正月がすむと里方の両親や近親者を招き、羽子板おろし、或は、弓開きといってお祝をした。

二 子供の祝い

 誕生祝には紅白一升餅(男は白、女は紅のところもある)の上にユリ(浅い桶)をかぶせてその上に、祖父が作った草履を子どもにはかせてのせ「〇〇ちゃん(子どもの名)百まで百まで」といいながら踏ませる。また踏んだ餅を子どもの背に負わせて歩かせる。これを突倒し餅という。そのあと、物指し・そろばん・筆・鋏などの品物をならべて、これを子どもにとらせる。最初に取ったものにより、その子の将来の職業を占うのである。また誕生祝に紅白の餅を親族や近所に配る。これには砂糖を使わず塩あんとする。それは、この子が甘くならないようにとの願いからである。

 初節句は長女は三月三日を桃の節句として紅白黄緑の丸餅、及び桃の枝を添え、更に菱形の、のし餅をつけ組合中に配った。長男は端午の節句(五月五日、但し当地は五月二十七日、旧海軍記念日)に里方から武者幟・鯉の吹流し或いは武者人形・兜などが贈られ、一か月位前から庭先で幟や吹流しがハタハタと威勢よく青空に泳いでいる光景は、育ちゆく子どもの前途が元気で栄光多かれと願うものである。

 この日は男の節句ともいわれガメギ餅やチマキを作る。

 現在の七五三は髪置、紐とき、褌かきであるが髪置は既に行われていない。

 紐ときは遠賀地区では幼児が三才の十一月十五日、いま迄、付け紐だけで着物を着ていたものを、その付け紐を除き、この時、帯にとりかえる祝である。里方から紐とき着物(四ツ身)一重・紅白餅一重・栄重が届けられる。

 褌かきは男女七歳になると行う。男子は褌をしめ、女子は赤い腰巻(ゆもぢ又は、へこともいう)をつけさせる。これらも里方から贈られるが、これは男女のけじめをつけさせる為で、衣類を新調させ氏神に詣り子どもの無事の成長を感謝し加護を祈ったものである。

第二節 結婚の風習

一 若者組

 十四・五歳になると若者組に入る。尾崎観音堂横に若者組の名を連ねて寄進した石祠がある。昭和八年頃までは高等科を卒業すると酒一升さげて青年会に入会していたが、徴兵検査が済むと一人前と認められ、酒や煙草も公然とのめるようになった。

 現在は満二十歳になると成人式がおこなわれ、成人としての義務と権利が認められる。

二 結婚

 結婚の様式には婿入り婚・足入れ婚・嫁入り婚などがある。昔、男女間の交際が制約的な時代は村内など近い区域内がその通婚圏となる傾向が強かったが、地位・家柄を尊ぶ者達は次第に遠くに縁を求めるようになってきた。いわゆる村内婚から村外婚に広まっていった。

 従前の嫁入婚にいたる迄は通常次の通り。

嫁女見――我が家の息子に適した娘がいると、父親は仲人と息子同伴で「厩をみせて下さい」といって牛馬にかこつけて娘・家・親を蔭見に行く。仲人の配慮で娘にお茶を出させることになれば決心も早いが、数度も通わねばならぬことも多かった。

済み酒――仲人は数回となく嫁もらいに通ううち、話が成立しそうだという時には酒一升瓶を門口の隅にかくし置き、交渉に入る。

話がうまく成立すれば逸早く、その酒をもって固めの盃をかわす。肴はあり合せのお頭付き「イリコ」などですませた。

仲人――媒酌人をいう。嫁方、婿方の双方を知る人であれば一組でよいが、双方に一組ずつの仲人を立てることも多い。

結納――お茶ともいい近時では仲人夫婦は大安・友引などの吉日を選んで結納の品を当日の午前中に届ける。すべて祝事は午前中に済ますというのが慣しとなっているようである。
 結納目録
 寿留女 壱連 寿恵広 壱対 御带地 壱筋 子生婦 壱台 友白賀 壱台 勝男武士 壱連 家内喜多留 壱荷など奇数の品に限られる。この他、茶一組 鯛 二尾(夫婦鯛の意で二尾とする)結納金、現代では指輪などを添える。
 嫁方では結納がすむとお茶開きといい、近親者や近所の親しい婦人を呼び披露をする。

結婚準備――前日より親族や組合の婦人は加勢人として、婿方は黄手拭(きなさるの意より)嫁方は赤手拭を腰にさげ、或いは首にまいて威勢よく料理のために立働く。
 料理人はその道にかけてのベテラン婆さんやプロの料理人を雇ったものである。

見立――送別会の意であり、友人から祝福してもらうもので、祝儀が夜間行われるので婿方も嫁方も、当日の昼中に若者や友人を招待する。

お宮参り――見立客の友人達が付添って氏神参りをする。友の一人は最寄りの川に竹笹をもって“お汐井とり”に行く。これは川の水に笹を浸して氏神社でお祓い行事をする。お宮まいりの往復は同じ道を通ると不縁になるといわれ、道を違えて帰る風習がある。

婿入り――婿は宮参りが済むと嫁入りに先立って婿入りをするが、これは婿入り婚の名残りであろう。婿入りは仲人・親族のほか、婿どんまぎらかしといって婿と同年輩位の男性を連れて行く。

荷取り――一方、嫁方、婿方双方の若者たちは嫁の荷運びに当る。婿方は嫁方から示し合わせた所まで酒肴をもって出迎え、嫁方からの荷物を受取る。この荷物運搬の責任者を荷宰領と呼び、年長者がこれに当る。荷物の授受が終ると双方の若者は酒を酌み交す。その後若者達は元気にまかせて荷物を担いで帰る。
 馬車が出来ると、馬車で直接嫁方まで荷取りに行くようになる。このときは荷取りの者も酩酊して馬車にゆられて帰る者もあった。

嫁入り――花嫁は見立客・宮参り・婿入りなどを終え、夕方には仲人の案内で本客(嫁方の両親・兄弟姉妹・親族など結婚式に参加するものをいう)や嫁女まぎらかしと共に家を出るが、この時は門火を焚き、門出には茶碗を割る。離縁して帰ることのないようにとの願いである。明治の終り頃から人力車・馬車・乗合馬車など時代の乗物を利用した。
 馬車などにのるには長い裾が汚れるので尻をからげ、草履や草鞋をはいて出かけることもあった。
 このようにして婿方の近くの中宿に入り、化粧をなおし、衣裳を改めて仲人の迎えをまつ。仲人は中宿に案内すれば直ちに婿の家に行き、打合せを終えると中宿に嫁迎えにくる。婿方では箱提灯を門口にさげ、花嫁をまつ。
 花嫁は仲人カカサン(媒酌人の妻)に手をひかれて婿方の裏口から入り、勝手元から姑さんに手をひき上げられる。この時、敷居に手をついてはいけない。これは暇乞いをするときの作法といわれ嫌われる。花嫁は勝手元で姑さんからお茶をいただき納戸で出番をまつ。
 本客は縁側か、切縁からあがる。床の間には島台に手作りの松竹梅・鶴亀・高砂の爺婆、三宝には水仙を塩(花塩)で盛り立て、巻鰑及昆布を根本に並べた水仙台が準備され、他の三宝には土器杯及雄蝶・雌蝶の銚子が準備されている。

結婚式――仲人の指示により三三九度、親子・兄弟親族の盃の順で進められ、巻鰑及び昆布をいただき式は終る。この間、村の若者達は縁側からこの花嫁をみようと、指につばをつけ障子に穴をあけその動作を見たものである。前日張り替えたばかりの障子も翌日には穴だらけになり、穴の多い程縁起がよいとされた。
 本客も限られた民家の座敷ゆえ極く少人数であった。
 嫁女まぎらかしは嫁の側につきそう。出来る限り親族か極く親しい女性を選んだ。式が終ると少憩ののち披露宴に移る。

披露宴――婿方の中で顔ききの叔父などが、相伴人として選ばれ接待長として采配をふるう。
 本客が上々の機嫌で帰るか否かは、この相伴人の双肩にかかるというので大役である。相伴人の指示により婿方の親族の者や婿の友人達若者も次々と、うつり替りに出て本客の接待につとめる。

料理の一例――明治十七年木守小林家の祝儀献立帳によれば、料理は次の通りであった。

一、御熨斗      田作り      人参       さし身     水仙台
一、御茶       開豆       青味       花鰹男         巻鰑
一、御菓子      鯛切身      冷酒       数の子         花塩
   香の物     椎茸       三ツ組盃     煮豆      土器
〆          寿留め   
一、吸物 鯛鰭    寿杯       雄蝶
一、雑煮       昆布       木具      蓬萊 松竹梅       雌蝶
   小舟紙     牛蒡       花生姜        鶴亀    本膳
  鱠        へき生姜     木具      丼  肴         蓮根
   鯛平作      角半ぺん     焼鳥        有合        香升
   鯉糸作     飯         釜ぼこ    〆            山いも
   金地玉子    干盛        浅倉     翌朝           牛蒡
   寿のり      鯛てり焼    御湯       汁           氷昆蒻
   白髮大根     扇地紙     曳テ         松茸      むし
   岩たけ      あり平      御茶        半べん      茶碗
   みしま      山芋       箱菓子       しんきく      小鳥
   青味       香茸      温酒      皿焼肴          ぎなん
   けん       蓮根   一、吸物        飯           くわい
  汁         引渡し     わさび      芋茶          牛蒡
   花まさ     茶碗        鯛かき落し  〆            木くらげ
   焼豆腐      雉子       莫太     温酒           椎茸
   椎茸       松茸     陶器 三ツ組盃  五ツ組盃         青味
   里いも      人参     三ツ盆      味噌         大鉢
   青み       牛蒡     大平 小竹輪   口 ひりうす       錦鯛
  猪ノ口       蓮根        松茸  一、吸物 鯉         切身
   梅肉あへ     くわい       里いも   硯蓋           せん玉子
   百合根      氷昆蒻    平鉢 肴      むし玉子        鯨のり
  平         中水        有合     半べん         戸板
   ねり寒天     里いも      せん牛蒡    丼 きんぴら
   青み      丼鰭煮        青み       牛蒡
  すまし      丼鮒       大鉢       丼 里いも鶏
一、吸物 口 生姜   かきあへ      生姜醤油     からせあへ
     肴      味噌         浜焼    平鉢 鮑
     さより  一、吸物 口    早糠       長皿 塩ふり焼
  三ツ盆          肴  一、吸物鯛    一、吸物 口わさび
   大平 雉子       あこ   五ツ組         鯛しん寿
      蓮根    大鉢 大口あん掛 大平 鶉肉   大押江見合
      氷昆蒻 一、茶碗          松露   千秋萬歳
      牛蒡     雉子         青み

 こうして宴は朝まで続く。
 翌日、本客が帰るときには「たちがらけ」(たちがわらけ)といって飯碗に酒をなみなみとつぎ、門先で立ったまま飲ませる。このように婿方は嫁方に対し、サービスをして失礼のないよう気をつかう。嫁方でも、判らない娘だが嫁としてよろしく頼むとの心情をつくした。

ありつけかかさん――嫁の叔母か年長の姉などがこの任にあたる。他人の家に唯一人残された嫁の身の廻りや相談相手になって世話をする。現今のように、結婚式場での披露がすむと直ちに夫婦二人で新婦旅行に出かける時代とは雲泥の差がある。

お茶のみ――翌日は親族や近隣の婦人を招待する。嫁は「お熨斗」出しの作法があり、嫁入前に練習を重ねたものである。

まないた流し――いろいろの宴が三日乃至四日位で終り最後の洗片付も済む頃、これまで陰になって働いてくれた料理人を中心に台所の裏方さん達に対し総さらえの意で慰労の宴がもたれる。これは互に気心の知れた者同志でエプロンがけでの大賑いの宴であった。

初あるき――結婚後のいろいろの披露宴が終った四、五日目の適当な日を選び新婦は新郎及その両親と共に里方へ日帰りの初あるきをする。このとき紅白の餅を栄重につめて持参する。里方ではこれを初あるきの土産として、近隣にくばる。新婦の方でも同様にして新郎方に持参すると、之を近隣に配っていたが後にはこれら交換の無駄を省き、双方で餅をつき土産として配ることにした。これを「カワセ」といった。

二番あるき――新婦は新郎と共に二回目の里あるきをして一泊するのが習わしであった。新婦は他家に嫁ぎ姑、小姑の中にあり、気苦労が多く、里あるきが唯一の楽しみであった。

御歳暮――新郎方では年の暮になると大きな鰤及酒をつけ仲人及嫁方へ贈る。このほか新婦の親が健在である限り大きな鏡餅紅白一重を贈った。これを据り餅といった。

 このように結婚して二十五年を経ると銀婚式、五十年も夫婦健在であると金婚式となり多勢の子や孫によって祝われ、塗物の盃や記念品を親族や近隣知己に贈った。

三 厄祝い

 厄年といい、その年は慎しむべき年とされているのは多いが特に女三十三歳・四十四歳男四十一歳・四十四歳といわれる。

 女三十三歳のときは里方から帯を贈ってもらうことにより二月朔日厄をのがれるので厄祝といい、小宴をはる。男の四十一歳は餅をついて親戚、近所に配った。男女とも四十四歳の厄のがれには四月四日に同年の人、相寄り梅の下で祝宴をはった。

 そのほか、七難九五死といい、特に九の年は死に対し警戒するよう言伝えられた。

第三節 葬送の風習

一 死亡

 顔にタオルか晒で覆う。頭を北か西枕にする。死者が着ていた羽織などを上下逆に覆う。その上に刄物を魔除けとしておく。枕もとの屏風も逆に立てる。一本花・一膳飯その上に箸を一本立てる。ダンゴ一皿を供える。これを枕団子といい、左臼で粉をひいたもので作った。枕飯別竃で炊いて茶碗一杯の盛切りにした。猫は魔物ということで死人の部屋には入れない。神棚や玄関には白紙をさげる。これらは喪に服したので神と隔離を意味したものであろう。このように死の場合は、すべて平素と逆のことをする。そこで平素は死の場合にすることをすると縁起が悪いと忌嫌われる。

告げ人――今では電話や電報があるが、以前は到来といい、組合の加勢人は檀那寺に行き枕経を依頼する。枕経を神式では枕直しの儀という。これら加勢人の到来に行く人は、必ず二人で死を告げに行くものとされた。一人で行けば便り負けをするといわれ(死する)た。

湯灌――枕経が終ると近親者において湯灌をする。座敷の中央の畳をあげ、床板の上に藁を敷きタライを据え縄襷・縄帯をかけて間越しで盃をした。さて、タライには先づ水を入れ次に湯を灌ぎ、ぬるめにした。
 死者を立膝とさせ、藁で洗い清め頭髪を剃る。その剃髪したカミソリをオコウゾリに使う。湯は頭から柄杓で逆にかけるが拭かない、湯は床の下に捨てた。

納棺――湯灌がすむと甕棺・桶棺などに納棺した。これには棺底に番茶を敷いて死者を立膝にさせ膝上で合掌させ数珠をかけさせる。
 頭には三角形の布をつけ、着衣の上に経帷子をきせ、白足袋、草履か草鞋を、首に頭陀袋をかけさせ、これに銭六厘を入れる。死者の着物は老女三人で襟のない白衣を縫うが、このとき糸尻はとめない。また着物は左胸をつくろはせ、帯は三尺三寸で前結びに結んだ。死者の着物、脚絆、白足袋など布で作るものは鋏は一初使わず引裂いた。棺内には故人が生前好んだもの、杖、めがねなどを入れる。これで黄泉の国への旅立ち仕度ができたことになる。

講組――死者が出ると、その組合では一戸から男女二人宛のほか友人も加勢に出る。男は到来や買物葬儀準備やツボトリ。女はお斎料理などがある。買物は芦屋や底井野で賄っていた。お斎は死者と最後の別れの食事の意であり親族の人や極く親しい友人も席につく。組内や村内の人も香典と斎米一升をもってお斎についた。斎米を持寄って葬儀をすることが講組の名残であろう。この習慣は今も続いている地区もある。

二 野辺の送り

出棺――土葬は殆んど甕や桶を使用したので荒縄で棺をくくった。これは担ぎやすいためであるが、一つには死者の霊魂の行動を束縛する意もあった。出棺のとき、棺を担ぐ近親者は草履をはいたまま土間におりる。また玄関の敷居をまたごすと同時に茶碗を土間に投げつけて割り、土間と座敷を同時に掃き出した。棺は右廻りに三回廻わす。これは死霊が再び帰ってこないようにとのことからである。

葬列――組合の人々により準備された葬儀道具もと台を先頭に六道・竜頭・灯籠・野机・四花などに続いて僧侶・喪主(位牌を持つ)棺前には白木綿の善の綱をアコ屋に結んで遺族がこれをひく。近親の女性は三ツびんをとり根元に白い紙をまいて白の元結で結び綿帽子をかぶっていたが、これら近親者ほど棺の近の綱を引いた。また近親の元気のよい若者達四人によって担がれた。アコ屋には天蓋が差しかけられ、妙鉢が打ち鳴らされ、そのあとを五色の帛旗や会葬者が続き、おもむろに墓地に向った。

土葬――わが国では古来からの黄泉国の観念と合致して古くからもっとも広くおこなわれた。土葬の穴を掘ることをツボトリと呼び穴は甕の倍位の大きさにほる。掘方は講組で順番に数人一組で掘る。ツボとりの弁当は丸い握飯にきまっていた。
 葬法については、まず死者の顔が西向きになるよう棺桶にまいた縄をもって穴に入れこみこの縄は棺の上にて蓋のあかないよう、しっかりと結ぶ。周囲に土を入れるには近親者の一人が穴の上を股越して北南西東の順に入れ、また棺の上にも蓋が焼けないよう土を少々おき、その上に平な石をおく。葬儀に使った幡竿や、旗などを立てこれを藁でまき、モト台の火で焼く。暫くすると青竹が焼けてパンパンと竹のハジケル音がする。これであの世の扉があいたので安心して行けるという。一同引上げ翌日家族親族が来て土を盛り、アコヤをおいた。墓標は取上げが終って之を立てる。

火葬――わが国の火葬の風習は、仏教の影響ともみられ、西暦七〇〇年僧道昭の遺言によってはじまったといわれる。その後、儒教主義者の、火葬禁止論が台頭し行政上、禁止措置がとられたこともあったが、むしろ火葬を奨励する立場もとられた。
 明治六年墓地が官許制になると共に、火葬禁止令がだされたが同八年には廃止され火葬も自由になった。明治十七年には「墓地及び埋葬取締規則」が定められた。明治三十年伝染病予防法が制定され、伝染病による死者は必ず火葬をおこなうようになった。墓地埋葬等に関する法律により火葬は火葬場以外の施設では、おこなってはならない等が定められている。
 火葬場ゆきも担ぎから馬車になり、リヤカーなどからマイクロバス、神社型の自動車などと豪華なものになった。

三 死者への供養

 故人の死後、七日目ごとに中陰の追善供養をし、四十九日目に満中陰の法事を営むことが一般化している。この習慣はインドから伝えられたもので、意識を持ったものが死んでから次の世に生を受けるまでの中間期を「中陰」または「中有」といい、七日を一区切りとして徐々に縁が定まり、七回目の四十九日に果報を感じて完全に次の世に落着くという。この期間中には近親者、遺族は忌中といって喪に服し、ひたすら身を慎しみ、心を整え、善行をなして故人の徳を偲ぶならわしになっている。

 故人の命日に親族縁者が集り僧侶を招いて追善供養することを年忌とか年回と呼ぶ。インドでは四十九日の中陰までで供養を打切るが中国では百ケ日、一周忌、三回忌が行われ、吾が国ではさらに七回忌、十三回忌が加わり、鎌倉時代以後は今日のような十七回忌、二十三回忌、二十七回忌、三十三回忌、五十回忌、百回忌が行われるようになった。

 以上が仏式であるが神式では御霊社祭といい、期日が五と十の倍数となっている。翌日祭、十日祭、五十日祭、一年祭、五年、十年、十五年、二十年、三十年、四十年、五十年、百年祭となる。

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