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遠賀町誌 第八編 村落と生活 第三章 年中行事

ページID:0026925 更新日:2023年6月23日更新 印刷ページ表示

第八編 村落と生活 第三章 年中行事 [PDFファイル/1.5MB]


第一節 正月の行事

一 大正月の行事

 元旦は男(主人)が一番先に起きて井戸水(元日の水を特に若水という)を汲み神柴を捧げ手水盥に水を汲み洗面の後、東西南北の八百万の神に向い拍手をうって新しい年の家内安全と五穀豊穣の御加護を願った。このあと神酒を捧げるなど神事はすべて男の役目である。主婦は雑煮など飲食の用意をする。用意といっても準備は大晦日にしてあるので湯を沸かし、汁をあたためる位である。雑煮汁はスマシ汁のダシ汁と具をかける。具は、蒲鉾・焼豆腐・かしわ・ぶり・するめ・牛蒡・人参・里芋・蓮根・昆布・かつを菜などを入れるが家により多少異なることは言うまでもない。雑煮のほか、黒豆、数の子、酢の物、がめ煮など縁起がよいといわれるものが付けられる。

 師走の十三日、正月準備のため箸などを作っていたというが二十四日に作るところが多かった。今では栗箸を使う家も少なくなった。栗箸は弾力があり、折れにくいことのほか繰合がよい、やり繰がうまいなどの縁起をかついだものである。

 お雑煮は丸餅で自分の歳の数は喰べなければと若い人は数を競ったものである。

 朝食が終ると晴着を着て氏神様を参拝した。学童は学校で四方拝の式があり、村の有志も紋付、羽織袴姿で之に参列した。「年の始めの例しとて、終りなき代のめでたさを、松竹立てゝ門毎に、祝う今日こそ楽しけれ」とオルガンの伴奏により合唱した。元日をはじめ、紀元節・天長節・明治節の四大節には天皇・皇后両陛下の御真影拝賀と教育勅語奉読があり、直立不動の姿勢で拝聴した。

 二日は仕事始め。農家の男は牛馬の口綱や曳綱など牛馬のための諸道具を作り、女はひき初めといい木綿糸をつむぐ、学童は書ぞめなど、その職に応じて仕事始めをした。

 嫁入りして初めての正月を迎える嫁は昔は丸髷・歯をオハグロで染め(人妻の証)晴着姿で夫と共に里の親元に挨拶に行った。「初あるき」という。医者・お寺・宮司の家には米一升をもって新年の挨拶に行く。

 四日は僧の年始。四は死に通ずといい、一般の年始は忌嫌われ、僧侶が年始廻りをする。そこで一般の家では僧が年始に来ぬうちにと、朝早くお鏡餅やお飾りをおろすところもある。

 七日は七草粥。セリ、ナズナなど七草を入れて喰べると病気にかからないといわれ、七草粥或いは福入雑炊ともいわれる。熱いのでフーフーと吹いてたべると福を追出すから「吹いて喰べてはいけない」と教えられていた。

 この日は庚申の誕生日でもある。各所で庚申講が催される。ほつけんぎょう(左義長)。この日は各集落の随所で、パンパンと竹のはじける音がする。これは用意していた青竹を屋根型にたてかけ、藁屑や神社の古いお札、正月の注連飾り、元日からのゴミ屑も外にだせば福を出すといって各家毎に貯めていたものも、この際焼く。青竹は威勢よくはじける。その音の大きい程威勢がよいとよろこばれる。この火で平年は十二個、閏年は十三ケの餅をやき、或いは目刺イワシなども焼く。この焼き餅を神様に供えてたべるとアカギレやヒビができないといわれていた。「成木責め」もみられた。果類の木の下で斧や鉈を振り上げ「なるかならぬかならぬと切るぞ」と木をおどすまねをした。

 十日は十日蛭子といって祝った。またこの日は、徴兵検査で甲種合格者の入営日であり、入営者は友人の見立てをすませ氏神様に参詣し武運長久を祈り、区民より祝福をうけ、遠賀川駅で万才三唱にて盛大な見送りをうけた。明治中頃までは長男(後継者)は徴兵免除をされていたので、他家に入籍して兵役の義務をまぬがれた。これを徴兵のがれという。十一日、この日を帳綴ぢの日として、大福帳など新しい帳簿はこの日に作った。また牛の使い始めとして形ばかりの田鋤をした。村の初寄合もこの日にしていた。

 大正の初め頃までは正月早々獅子舞・猿まわし等の旅芸人がやってきた。芸人にとっても正月の収入は多かった。

二 小正月の行事

○十三日―使用人の入込みの日である。
○十四日―元旦を中心とするものを大正月というのに対し、十四日夕から十五日を中心とするものを小正月という。

 この日はもぐら打ちをする日で夕方になると各家から、ボテッ、ボテッと地面を打つ音がする。長い青竹の先を藁で包み、これを小縄で堅く巻きつけたもので“十四日のもぐらうち、隣の屋敷へとんでいけ”と大声で屋敷の廻りを打ってまわった。もぐらにとっては厄日である。

 十五日は嫁の尻叩きの日である。みかんの半分切りに小縄を通して長い綱をつけ、物陰から飛び出て新嫁の尻をたたいた。早く子を孕め、という一種の祝の呪いである。

 夜は生目八幡の祭日といい、長い竹竿の先へ鎌を結びつけ、その下に弓張提灯をつけて庭先に立て、眼病にかからぬよう祈願した。

三 二十日正月と旧正月

 二十日は骨正月・女の正月などともいう。これは正月用に使った肴が骨だけになったということから、骨正月といい、また正月行事で多忙をきわめた主婦が、充分に休む日として女の正月ともいう。

 旧正月旧暦元日の前後、農家では寒餅搗きが始まる。大寒に入って搗いた餅は長く保存に耐えることから餅米一俵~二俵搗く家が多く、近所二、三軒が共同で早朝から夕方まで搗いたものである。搗きたてのオロシ餅や、小豆餅を食べることも楽しみの一つであり、平らにして塩饀をつけ近所に配った。これは稲素穂で切って食べることから素穂切餅といった。

 年取りなおし―女三十三才・男四十一才その他四と九のつく年令は厄年といい、年取り直しをした。これは餅をつき、も一度正月を迎えようとする行事である。

 駄祭―初丑の日におこなった(祭りと信仰の項参照)

 節分は冬と春の季節を分けるという意味で福は内、鬼は外と叫びながら追儺の豆撒きをした。

第二節 春の行事

 二月八日は針供養。裁縫を休み、針箱の整理などをして、この一年間に使った古針を供養し、豆腐にさして川に流した。

 二月十一日は紀元節、四大節の一つで、学校では拝賀式が行われ「雲にそびゆる高千穂の......」と紀元節の歌を歌った。

 三月三日は桃の節句。女の節句ともいう。初めて娘が生まれたときは里の親元から贈られた雛人形を飾り、白酒をつくり菱餅を搗く。

 菱餅には桃の花をそえて組合に配っていた。農家には日曜も祭日もないが、節句は殆んどが休む。平素働かない者が時たま働くと「ノラの節句働き」と悪口をいわれた。

 やいとどえ―三月四日は灸すえともいい、灸の効果が多いと、女性は互に灸をすえあった。

 春の彼岸―暑さ寒さも彼岸までということばがある。春分・秋分を中心にその前後各三日を彼岸といい、彼岸の入りとさめには団子を作り中日には餅をついた。“入りさめ団子に中日餅”とはこれらのことを言ったものである。

 三月二十五日から遠賀川西四国八十八ケ所及び西国三十三ケ所の札打が始まり三十日に打納めとなる。(民間信仰の項参照)

 四月四日は厄払い。四十四歳男女は梅の木の下で宴をひらき厄払いの祝をした。

 四月八日は釈迦の誕生日で、各寺院では花祭り(灌仏会)がおこなわれた。れんげそうなどで飾られた花御堂の釈迦の誕生像(右手人さし指を高く天をさし、左手人さし指をさげて地を指した天上天下唯我独尊の姿)に甘茶をかけ帰りに甘茶をもらって帰った。

 各区では四月十五日を中に前後して春祭りが鎮守の神社でおこなわれ、お籠りが催された。

第三節 夏の行事

 五月二日頃が八十八夜。立春から数えて八十八日目で「夏も近づく八十八夜、野にも山にも若葉が茂る」と子供ののどかな歌声がきける季節となり茶摘み、苗代作りなど植付け前の準備で多忙な季節となった。

 五月五日は端午の節句。男の節句ともいわれ「五月の節句はイツカーネ、五月の節句はイツーカータイといって節句を待った。しかし、明治三十八年五月二十七日日露戦争に於いて海軍は大勝をはくした。そこでこの日を海軍記念日と定められたので、遠賀町の地区は節句もこの日として休むようになった。このときはガメキ(山帰来)餅やチマキ(菖蒲や菰の葉で寒晒粉を水でねったものを包んでまいたもの)を作った。

 端午の節句は長男の初節句に母の里方から贈られた家紋入りの幟や、鯉のぼりが五月空にハタハタと泳いでいるのは「男子よ、鯉のように威勢よかれ」と子供の成長と立身出世を祈ったものである。このほか、床の間には鎧・兜などを贈られることは、近時益々盛んになってきた。広渡の子供は菖蒲で鉢巻をして対岸の水巻の子供と石合戦をした。

苗代ごもり――苗床作りが終ると、これ迄の慰労と、稲苗の成育祈願のため、お籠りが催された。

 六月十日は時の記念日。大正九年に制定されたもので、天智天皇の水時計の故事によったものである。

 植えみてをさなぶりという。「済民草書」に「稲苗を植るに貧民冨民の差別なく出精をなす。早苗下(り)といふて田の植へ終りを祝す。俗に誤りて、さなほりといふ也」とある。村中植付けが終った時を見はからい区長は「さなぶり」の触を達す。さなぶりには洗った苗と御酒を田の神に捧げて豊作を祈った。

 永い間の植付けで泥のついた着物などの洗濯に婦人は半日の休養位しかとれないが、もっとも重労働の田植直後の「さなぶり」が一番休み甲斐があるものである。

 子供達は水鉄砲で通りがかりの娘や新嫁などに水をかけたり子供同志で水のかけ合いをして楽しんだ。

 田植が終ると植上り籠りが催される。

 七月に入ると祇園祭がある。須賀神社(祭神素盞嗚命)の祭礼で、割子に料理をととのえ、お籠りをした。祇園には山笠を建てるところも多かったが今では老良と島津が毎年たてている。虫生津では祇園に御神幸をしていたが最近は四年に一回となった。山笠の通るとき道筋の上にさしかかった木を切ることには、何の抵抗もなかった。

 お獅子祭りが七月不定日に行われる。俗にお獅子さまといい、麦の脱穀が終り一段落ついた日曜日などにこの行事がある。

 獅子祭りは本来は水無月祓の行事である。各家庭の悪魔祓いの行事であり、笛や太鼓の音に和し、多くの子ども達は長い旗のついた竹竿や鉾をかつぐ、大きな子の中から一人は牡獅子面、一人は牝獅子面をもち、各家の門口でカツカツと獅子面の口を開閉させ、鉾方はヤアヤアと鉾で突く所作をする。神官は、お祓と祝詞奏上をする。このとき大人(歩役つき)は雑餉ざるをかつぎ、麦一升宛をもらって廻る。これを麦の初穂という。

 お汐井とりは六月から八月のお日待ちの日。当番制により芦屋の海岸から清浄なお汐井砂を持ち帰り、組内の各戸へ配って廻った。各戸には、藁ツトがさげてあり、これにお汐井砂を入れる。夏患いをしないようにとの願からである。お獅子祭り、お汐井とり、夏越祭と、夏は病気の蔓延する時であり意を使った。

 夏越祭は旧来では六月晦日となっているので、現在では七月三十日おこなわれる。

 本町では、若松・上別府・浅木・遠賀川の各区が現在でも続けている。なかでも浅木神社では、茅の輪を三度くぐって罪・穢を祓い・悪疫・はやり病が蔓延する夏の季節を無事夏越しができるようにとの願から、輪越しをおこなっており、遠近の参詣者で賑わっている。茅の輪は、蛇を形どったものともいわれ、茅を身につけていると災難を免がれるというので輪くぐりのあと、茅を一本宛持ち帰り門口にさしている。このように夏越は身の不浄を祓い、災を防ぐため大祓が行われ、民間行事としては、祓よりも禊の要素が強いともいわれ、昔は牛馬を川で一日遊ばせるというのが一般的な風であったようであるが、これは人間の禊祓が家畜にまで及んだ風習だと考えられている。

 土用の丑の日、この日に採り草をすれば、薬効があるといわれ、ゲンノショウコなどを採集し、陰干にした。

 七夕は本来は旧暦七月六・七日であるが、当地方では八月六日夕・牽牛・織女の故事にならい七夕祭を行なっている。六日早朝子ども達は稲葉や蓮の葉についた露をとって神に供えたあと、墨をすり「天の川・七夕祭」など思い思いの願事や文句を、色紙の短冊にかき、竹の笹につけて立てる。これに対し夕方には西瓜・瓜・唐きび・茄子・団子などを供えて文字の上達を祈願した。

 また、この短冊をつけた竹を物干竿として使うときは、その本・末両端から着物を通して使用出来ると言われた。この時季が竹の性が一番よいといわれているからである。翌七日は七夕節句というが「七夕節句は何でもない」といって特別のご馳走はしない家が多い。農家では多忙な時期ではあるが「七夕の日に稲葉で目をつくと盲目になる」といわれ田の草取りはしない。

 そこでこの日に墓掃除をする。終ると戸主は田賞めをする。田の周囲をまわり「ようでけて、つかさいました」と繰返し田をほめる。

 盆前のことで何彼と多忙なときであるが井戸浚えもこの日が多い。井戸浚えが終ると井戸側の上に塩イリコを一つまみずつおき、神酒数滴を井戸の中に落して井戸の神に供える。

第四節 秋の行事

 盆は八月十三日―十五日。暦の上では既に秋である。

 十三日夕方には提灯をつけ墓に精霊迎えに行く。「コーゴザレ、コーゴザレ」といって仏をつれて帰る。当夜からは盆踊り。初盆の家、その後個別を廻った。このようにして盆踊りは十五日まで続く。若い娘たちが厚化粧に赤い腰巻の裾を出して踊る姿は、なまめかしく若い男女の恋のささやきの場でもあった。十五日の夕方には送り火を焚いて精霊を墓に送る。

 八月十七日は観音様、二十日は大師様二十三日は地蔵様とそれぞれの縁日には盆行事の延長で各お堂では盆踊りが奉納された。

 子供達は各戸から灯明銭をもらってローソクを求め千灯明に灯をともした。

 九月に入ると風止祈願が行われる。本町内の神社の約半数は一日に風止祭を実施している。九月始めの二百十日から二百二十日にかけては台風のシーズンであり、稲の出穂期でこの時期の台風は農家にとっては最も恐れられる。そこで風止祭をして神の御加護を祈っている。

 高家の天神さま。九月二十四日・五日は天満宮の秋祭で年中の大祭であり、また郡内でも盛大な祭や催物として有名であった。多くの催物や夜店、芝居などもあり、また、ここの草相撲は遠賀の三大相撲として有名だったので遠近の老若男女が集まった。

 十月は「麦に百日の種しほ(好適期の意)十日の苅しほ、米は十日の栽しほ、百日の苅しほという」とあるように収穫の月、祭りの月、そしてスポーツの月である。

 神あるきは本来は旧九月三十日であるが、新暦となり十月晦日。若者達は鎮守の社に集り鍋釜を囲み料理に舌鼓をうちながら夜を徹して籠った。これは翌日から十月晦日まで全国の神々が出雲大社に参集されるため、その旅立ちを見送るための送別前夜祭といったものである。この日に使う野菜や果物は無断で取っても罪にはならぬといわれていた。

 神戻りは十月晦日、神々が出雲より帰られるための歓迎会であり神あるきと同じ行事である。十月を神無月というのはこの出雲参集によるためをいい、出雲ではこの月を神有月という。

 おくにち(おくんちの項参照)

第五節 冬の行事

 十一月の亥の日は亥ノ子祭。一番亥ノ子、二番亥ノ子と行事があった(祭と信仰参照)。

 七・五・三は十一月十五日。七歳五歳三歳になった子どもの成長を祈願して神社に参詣した。

 十二月は一年間の総てを清算して新年を迎えようとするため、慌しい年の暮であり師走とはよくいったものである。農家では平素は現金収入がないので一年間の買物はツケ(借り)が多く、米の販売金をこれにあてる者が多かった。医者や伯楽どん(獣医)には常礼米といい、その年に受診の有無に拘らず年末には米を届けた。大正の頃貧富により多少の差はあるが、医者に米二斗、獣医には馬の場合五升、牛は三升位を届けていた。宮座も各地で催される(宮座参照)。

 恵比須講は十二月二~四日。商家では商売繁昌の神として恵比須・大黒の掛軸や置物の前に膳を据えて祭った。また農家の者も北九州市若松の恵比須神社に参詣する人も多かった。

 十二・三日は奉公人の暇とりの日であった。「なたなげ」という。当地方は天草や波津(女)の人が多く、この日は一年間の給金をもらって親元に帰るいちばん嬉しい日である。

 正月準備は十二月十三日を正月事始めとして新年の準備をする日であったが、当地では二十四日より栗箸を作り、餅搗きの薪とり、注連作りなどにとりかかった。家の煤払いや新しい年を迎えるのに多忙な歳末である。

 冬至冬夜、この日は一年間で日が一番短かく夜が一番長い日であるが、この日、ボーのつくものを喰べると幸運を招くといわれ、ぼうぶら(南瓜)、くねんぼう(みかんの一種)などをたべたものである。

 餅搗きは九餅をつけば一生苦労する、丑の日に餅を搗くと火事にあうなどの迷信があり二十九日や年末の丑の日はさけた。

 大晦日は一年最後の日で正月飾りや、正月料理作りなどいそがしい。「ゆづり葉にもろむき、ダイダイ添えてござった」といい来年こそよい年でありますように、と祈りながらお鏡餅を飾るのであった。

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