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遠賀町誌 第八編 村落と生活 第四章 村の芸能

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第八編 村落と生活 第四章 村の芸能 [PDFファイル/3.6MB]


第一節 芝居興業について

一 藩政時の規制

 元禄十六年(一七〇三)十一月七日福岡藩よりだされた「達」によれば、祭礼の節、小芝居物御免諸社定めの事がある。宰府・箱崎・紅葉八幡宮・警固大明神・櫛田宮・遠賀郡芦屋祇園宮以上の六社に限り、祭礼のとき今迄通り小芝居物興行の許可がされた。夜芝居はいけないがお祭りの当日と、その前夜に限っては、夜四ツ時(十時)までは差許すというのである。小芝居物とは寺社の境内にたてた宮地芝居と同様のことであろう。官許以外の芝居小屋は原則として認められないが、寺社の開帳、祭礼の寄進、余興の名義で臨時に百日に限り許可されたという。宝永元年六月祭礼の節芝居物他国の芸人は呼ばざるようとの達がある。さらに宝永三年四月は踊・操惣て慰事はしてはいけないと達しが出された。空也・一遍により始められたという踊躍する踊(踊り念仏)は全国的に流行し、風流舞踊化し娯楽的なものとなり、地方でも芝居役者が発生し、民衆の底辺にまで楽しみを催すようになった。

 遠賀町は北に芦屋寺中、南に植木寺中があって、これらの娯楽を与えてくれた。「筑前国続風土記」芦屋の項に「此所の東側に一村あり、民屋数十戸あり、是を寺中町といふ。聖福寺の側に居る俳優と同じ類なる故、寺中と称す。その始は専九品の念仏を以て其業とす。故に今に至るまで国俗是を芦屋の念仏と云」と、また、鞍手郡植木の項に「町の後なる所に、倡優のすむ町あり、家数三十軒程あり是空也上人を祖とし、専九品念仏をのみ修業せり、今は歌舞傀儡を以て其業とす」とある。これによってもこの地方が遊興には恵まれた土地であったことが判る。

 歌舞伎芝居が当地方一般に普及したのは享保の頃であろうか、「年暦算」によると、享保二十年芝居諸々にありとされている。「福岡藩町役所記録(41)」によると正徳四年六月四日(一七一四)「一、江戸表寺社内にて芝居物等御停止に付於御国元も寺社内にて芝居物等停止之事」という達しが出ているが、二十五年後の元文四年九月(一七三九)になると町、在、寺社共興行税を上納すればお構いなしという達しである。

芝居願御免地主銀上納定の事
芝居願近年御許容無之候、此以後町・在・寺社共に勝手次第御免、左の通り地主銀可相納事
旅相撲二貫目、御国相撲一貫目、旅歌舞伎一貫五百目、御国歌舞伎四百目、旅操七百目、御国操二百目右日数十四日追出見世物 百目 右日数十日以上

 御国というのは藩内をいい、旅とは藩外をさす、このように藩内の座は旅のそれに比して優遇している。

 「福岡藩郡役所記録」(県史資料)によれば、延享二年八月廿日(一七四五)「村々願成就等の節、踊等興業一切御停止之事
 氏神祭礼宮座之儀是又御停止之事
一、村々にて風祭虫祈祷等願成就一切神楽執行可仕候。其度々願出に不及候。此以後踊操之類一切停止に候事

 とある。これは前年、八月には大風が吹き民家倒屋六二二軒、田畠損毛七八九八三石、またその前年には捨子禁止令も出され、当年は僧帆牛が捨子禁制につき廻郡し捨子教試のことを始めたという位であり、このためいままでの奢侈遊惰の戒として風止祭や虫除、願成就のための踊や操などをやめ神楽に切りかえさせている。

 ついで二年後の延享四年三月朔日には、

一、芝居相願候時節、月限被相極、遠在は時節御構無之候事、
 芝居相願候時節、四月より七月迄の間御免被成候、御参勤年は御留守之間も御免被成候、十月以後翌二月迄之間たるべく候、遠在は時節構無之候、尤みだりに相願候儀許容無之候、先年極候法之通たるべき事。

と定められている。

 芝居興行は四月から七月迄の間は許可され、また参勤交代の年は十月から翌二月までは許される。但し城下をはなれた遠い田舎では時節はお構いない。だから芦屋などは上方役者が興行している。因みに当時参勤交代は一年は江戸、一年は在国となっており、黒田藩主は九月江戸に出発され、三、四月頃下国が慣例となっておるところから殿様不在中の興行は殿様のお情けからであろうか。

 芝居などに対する取締りは以前に比し大分緩和されたようである。

二 浄瑠璃と操

 歌舞伎は市民の芸術として生まれ、時代と共に変化し、新しいものを加えて常に生成発展する柔軟な生命力をもっておるため、現代にも受入れられる普遍的な魅力をもっているといわれる。

 浄瑠璃と操は元禄の頃、竹本義太夫が最も有名であったから浄瑠璃のことを義太夫ともいい、江戸中期から明治にかけて大流行した。

 本町にも老良などを始め、浄瑠璃の同好者が多かった。これらの発表会は、夜間個人の家などで一段高い語り場を設け、裃姿で見台を前に語る姿は、いかめしかった。

 このような時は、入場料や花代もいらない。むしろ聞いてもらうことを楽しみにした人の集りであった。

 広渡字井地の墓地に、「豊竹成駒太夫」の墓がある。歿年などがないので生存中に建立されたものと思われる。名を入江卯作という

 老良妙雲寺の過去帳によれば明治三十六年七月十九日歿旧五月二十六日と記されている。浄瑠璃の師匠であったそうであるが、詳しいことは判らない。

 農村などで浄瑠璃を語る人は富裕者が多く、当地でも大正初期頃までは各区に一~二名の同好者があったようである。

 操は浄瑠璃の語りに合せて演じる人形劇で人形浄瑠璃ともいい、現在では専門劇団の「文楽」がこれである。

 これら人形芝居や歌舞伎などの芸能が、どれ程昔の人々にとって笑や涙を誘い、人生の転変に感情の高揚を呼んだことであろう。

三 三味線墓について

 鞍手町猪倉に通称「三味線墓」がある。これは三味線を型どった墓で生前に建てたものであるから歿年が刻まれていない。

 彼は姓を藤村、名を信常字と弥蔵という、西流鶴沢太夫といい、「三弦を嗜み、その曲において窮究せざるはなし」と碑文にみえる。

 「鞍手町誌」によれば「弥蔵は幼少より学問を好み、かたわら三味をたしなんだ。はじめは手習師匠をしていたが、三味の方で有名になった」と述べている。さらに、彼は竹本義太夫と時を同じくして活躍した三味線の名手であると。この墓の笠は、こま、下は胴となっているので、三味線墓と呼んでいる。弥蔵は享保三年四月歿、門人は三百有余人といわれ、墓碑にみえる人数は一三七名であり、そのうち本町関係者は○鬼津 藤吉 ○広渡 善三郎・善八 ○尾崎 甚兵衛・久右衛門・宗吉 以上六人の名がみえる。

 これらの人達が如何なる活躍したかは、詳かではない。

第二節 地芝居

 芝居とはもともと、芝の上に座ってみるものであったといわれる。

 農村で百姓若者の演ずる素人芝居が狭義の地芝居(地狂言)で、旅役者の一座を招いて行うものを買芝居(請芝居)という。地芝居は在地の民俗習俗と結合して都市の歌舞伎とは違った独自の展開をみせた。ことに、雨乞祈願芝居の習慣などがよくその性格を示している。

 地芝居の上演は、本来、村という共同体の催しであり、それ故に神社祭礼を上演の機会ともしたものであった。地芝居の流行は、やがて文化文政期を迎える頃には、そのための舞台を生みだすことになったが、これも氏神と無関係ではありえず、次第にこれら舞台にふさわしい形態を整えたところもある。

 浅木神社の下の旧浅木尋常小学校に使用したという芝居小屋は全木造の堂々たるものであったと、有吉誓は著書「米寿にあたり」の中にのべている。

 神社などの勧進芝居は祭礼を賑やかにすることもあるが、修理費の捻出が大きな目的であった、明和三年神社主催の芝居興行記録が「高家天満宮記録」の中にある。

願上口上之覚
遠賀郡高家天満宮御社、元禄六年光之公当社参被遊候間、御願申上候而、遠賀・鞍手・宗像三郡奉加仕、造営仕申候、其後段々御繕申候ヘ共、最早御神殿破損申候条、修覆仕度奉存候へ共難自力候に付、追出芝居御免被仰付候て、御蔭を以て御神殿修覆仕度奉存上候(以下略)

 これに対し町奉行から次の「許可状」が出されている。

聞届候、見世物類之儀は容易に難為免候得共、当年は格別之御年忌に付願之通、来廿三日より同廿九日迄一七日法会中、一通之見世物御免被成候。尤囲等を付、追出芝居に似寄候儀は、堅不執行様可被申付候。町奉行

 このように追出芝居は執行はざるようにとあるが度々追出興行をしている。追出しとは数回の興行をやり、その都度見物人を入れ替え回転率により収益をあげる方式であろう。

 以下芝居・見せもののことについては「年暦算」(年)及び「伊藤家事雜記」(雑)その他の古記には多くの記録がある。次にそのなかの一部を記す。

○享保二十年  芝居諸々にあり(年)
○元文元年  春中諸々歌舞伎芝居多し(年)
○延享三年  四月遊行上人芦屋金台寺ニ宿坊ニ成ル。
六月神武社に豊前蟹五郎座芝居有之(年)(以下四年間記録がある。)
○寛延二年  宝暦ノ比、古門村浮州に上役者若野座の芝居ということこれあり。平四郎、次郎市、市三、虫生津村フウガ浦善市なり。芝居は大当りにて遠方は前日より近村に入込み見物致ス。役者一人死去ス。円覚寺に葬る。
年号月日は過去帳に委しく記せり、芝居は本田義光阿弥陀ケ池、天神記、返魂香也。博多芝居の引取りがけ也。――
※前記人名と若野座の関係は不詳、「円覚寺過去帳」には宝暦ではなく、寛延二年七月。若野座は和歌ノ座とあるという。

「鞍手町誌」
○安永七年  天満宮十五ケ年間芝居興行御免「菅原神社記録」
○享和三年  三月山鹿に市の川座操芝居有り以下略   芦屋には角力芝居有り大関柏戸、四車等也。(年)
○文化六年  春若松永宗寺薬師開帳に付操有り、大当り(年)
○文化九年  四月中頃芦屋祇園社にて寺中芝居初る。十右エ門座とて上み役者かわり入多し(年)
○文政十年  霜月芦屋に虎来る。是は豹と云て虎よりは細し、朝鮮より渡る、同国の者山を焼しに虎の子二つ、目の明かざるをとらへ対馬侯へ献ず、夫より江戸に献上なりしに、御受不被成、博多にて見せ物にす。夫より諸所々に見世物にす。虎来る事は昔より今迄珍らし。(年)
○文政十三年三月中頃三吉村(岡垣町)薬師開帳始る。中津の小供組参る。鬼市・勘太郎・友市・森吉・女形浅太郎と云は身障者にて上手、鬼市は取わけ上手也西郷中、大のぼせ 衣裳・幟・金子等皆々花に出す(年)
○文政十四年九月八日今夕浅木おどりあり(雑)
○天保六年三月 山鹿芦屋に芝居有り、上役者中山新九郎、七百両取の役者也、五十嵐座も芝居致す。皆是御救方より御免也七月末に又芝居有る。此度は千両取、岩井半四郎是は老人なれ共上手、若女形、姫役も致す也。市川𩹨十郎其外嵐歳十郎、萩野錦子、市川鶴蔵、嵐成芝、中村蘭九郎杯上手多し(年)
○天保六年五月中旬より芦屋に芸子芝居初ル。女ながら敵役・立役も能く致す、芸子芝居というは芦屋にては初めて珍らしき事也(年)
○天保十二年四月十八日 今夕虫生津に若人組おどりあり(雑)
○天保十三年 虫生津に掛踊あり(雑)
○嘉永六年四月中頃尾崎村に芝居有り、中国田辺役者、日和悪く不当(年)
○万延 元年潤三月十九日当所(鬼津)に触踊あり(年)
○慶応二年四月朔日、山田村に触踊有り、其外吉木、今古賀にも有也、五十嵐座也(年)
○慶応四年当年正月、節踊村別一座御免に相成候事、諸国騒動に付、百姓人気居合のためなるべし(年)

 時正に世情騒然の時為政者は百姓等庶民の娯楽である、踊や歌舞を「ぜいたく」として指止め続けては一揆・暴発につながる惧がある。

 そこで百姓庶民の勢力を娯楽に発散させると共に御機嫌とりの政策であろうと年暦算の筆者は読んでいる。

○明治元年四月 直方に大象・虎来る。夥敷見物人也、是は珍しき事也、芦屋にも参る筈なれ共、底井野郡役所より指留に相成、此辺甚不念也。(年)
○明治五年正月中頃触踊西郷松原、川筋別府也、去年末よりの御免也、惣て踊、操皆御免也(年)
○明治五年三月郡町諸芝居御免、此辺山鹿操芦屋は中津芝居、尾崎は地役者也(年)
○同年   盆賑一統夥し、春は芝居、見世物、盆踊秋も神事等賑敷事なるべし(年)

 明治十年の福岡県の興業税は第7-5表の通りである。「仕組芝居」とは村の同好者や若者組が一時的に一座を作って行なうもので、金儲けが目的ではないが見物人は寸志を包む、これを花という。

 「節踊(劇)」とは浪花節(浪曲)を祭文といい、浪曲の間合に踊や芝居をすることを祭文芝居とか節劇ともいう。

 「チンコ芝居」とは子供芝居のことであり、「芸子芝居」とは女ばかりの芝居をいう。

 昭和九年金丸炭坑が古門に開鉱され、虫生津鳥喰の地に社宅が建ち並ぶと、虫生津の宝ケ浦に常設の千歳座(栗林貞雄経営)が開設された。歌手村田英雄は前名雲坊時代、酒井雲一座員とし来演したこともある。

 しかし、炭坑の斜陽と共に千歳座も解体を余儀なくされた。

 終戦後の昭和二十九年頃から各区に公民館が設立されるや、旅役者による芝居興行が、利用した。わけても虫生津公民館は舞台も広く格好の場所として、常設館のように次々と興行が続けられていたが時の流れに抗しえず昭和三十二年頃には終幕をつげた。おくんちの行事として昭和四十五年頃までは青年団による仕組芝居や相撲が盛んであったが之等も次第に衰退した。

 町民の文化意識も次第に高まり、昭和四十七年頃より民謡、民踊が盛んになり昭和五十一年これら各グループの横のつながりをもち親睦を図ろうと遠賀町文化芸能連絡協議会を結成し今日に至っている。

 現総数三四〇名、グループ三三

第三節 伝統の民俗芸能

一 あしなか踊

 本町には、これといった伝統の民俗芸能のないことは残念であるが、永享の頃(一四三〇年頃)島津の村老に伝わった伝説のなかに「あしなか踊」がある。

 「筑前国続風土記拾遺」によれば、

「村老伝に永享の頃、此村(島津)に猪股五郎左ヱ門といふ者有、一人の娘を持てり、容色甚だよし、又、古賀村に足谷四郎と云者ありて、この女を強いて娶らんとす。猪股これを許さず剰へ足谷を殺せり、其後足谷の霊たたりをなしければ、村民など戯をなして寃れいを免れんことを祈りけり、此例により今に至りて毎年此社に参り此躍をなすとなん。また島津村と古賀村との男女今に婚姻を結ぶことなきも此古事によれりと云」とある。また、「太宰管内誌」には「島津村□社に足中踊と云事あり。是は○月○日の祭に足中をはきて、おかしき節の歌うたひておどる事なり。是も今に到って一年も欠ぐることなし」と記されているが、今では知る人もない。

二 思案場所踊

 盆踊思案橋のことを遠賀町内の古老や、数地域では今に思案場所と呼んでいる。ばしとばしょとは発音がよく似ていることから、このように呼ばれていると思われる。

 一般に、思案橋のおこりは、遊里に行こか、行くまいか思案することからこのような唄ができたといわれているが、松本久蔭の「岡郡宗社記」によれば、

 思案場所踊と云踊始りけるも近世の如し、思案場所と名付けしは、天下国家にて大赦行はるる事ある時に、遠島流罪の者、籠舎の者等、免されて追放抔に逢へる時、多くの罪人追放の場所にて、各行衛を思案し、且は悦び踊りけるを、餓鬼の供養によりて、盆母の悦の因縁仏となりなんと云説に附会、踊り賑ふ故、思案場所踊と云、其唄に“行こか戻ろか思案場所”といへるは、追放場所にて罪人の思案しけるを云、筑後国久留米城下近き所に思案橋村とて、いささかの小村あり、此村に橋あり、その橋の辺、久留米罪人追放の地なりと云も、かかる故有て名付けしなるべし――とある。実際に思案橋村という小村のあったことも確認した。歌詞のように「ここが思案の石土橋」である。

 う蘭盆会に寺の境内や村の広場、各戸のつぼ先で老若男女がこぞっておどり、精霊を慰めるための「魂鎮メ」の行事とされているが、一つには村の共同娯楽とし、また秋の豊年の祈りも込められている。「思案場所踊」は今では思案橋といい、各地の盆踊りにある仏の供養唄とされている。古老は思案場所という人が多い。

三 相撲

 我が国では古くから庶民の間に発生した相撲が、農耕儀礼としての神事相撲や相撲節会となり、武士や農民の鍛練として行なはれ、技術的に長い伝統をもち、独特の発達をとげた。

 全国各地の神社に伝承された神事相撲が取入れられ年占いの独立した儀式にまで発展した。さらに、これに刺激され山間の鎮守社のお祭など野相撲、草相撲などといわれるものが行われ、今日もなお盛況をみせている。

1 記録にみる相撲

 かつては“おくんち”や放生会など各神社において相撲や芝居などで賑やかであった。

 浅木神社役次第之事ノすまひ次第として十番勝負の番付がある(神社篇浅木神社の項参照)

 「伊藤家事雑記」に天保十四年九月二十八日高家天満宮に相撲見物「年暦算」によれば、「天保十年八月十七日神武社放生会に珍事あり、角力半ば有し処に、山鹿伝吉と云、小角力取、芦屋市場の武右ヱ門と云者を柿店の庖丁にて脇腹に突込む。武右ヱ門は手をいながら角力場に逃込、早速医者衆治療有之間に伝吉は行衛知れず逐電す。

 武右ヱ門其頃、吟味方の手先に相成、其前伝吉不埒致し意見し叱り、角力を封しける故、其恨にてのことゝ知られける、武右エ門は程なく死す拙者共も角力場にて武右ヱ門疵は血流るゝを見る。恐ろしき事也」。などの記録が見られる。

 明治末の炭坑盛んなりし頃、旧、西川村(現鞍手町)の永谷などの相撲場では、荒くれの川筋男の斬った、突いたの刃物三味が続くなど、相撲に喧嘩は付き物であった。

2 遠賀の三大相撲

 水巻の河守神社、岡垣の高倉神社、高家の天満宮を遠賀の三大相撲と呼ばれ相撲が盛大であったことを知ることができる。

 ただ、高家天満宮文書に相撲に関する記録がみえないのは残念である。

 昭和四十五年頃までは、草相撲が「おくんち行事」として各神社で催されていたが、現在では子供相撲が主体となり、また遠賀町地区公民館対抗少年相撲が体力向上推進のため、毎年十月中旬の日曜日、木守相撲場に於いて盛大に行われている。なお、同相撲場には木守出身の相撲力士の名が掲げられ、昔日の面影を偲ばせている。

3 木守区の歴代力士

  木守区歴代力士名(順不同)         初代 井手勇  安部政之助 明治
槙ノ戸 幕末期に黒田侯家老          弐代 〃    芳村 正道 昭和
    加藤司書の御抱力士          初代 玉川   松井軍太郎 明治
    槙ノ戸(上津役出身)を         弐代 〃    吉村 菊雄 明治
    安永正右ヱ門が受ける         参代 〃    白石 耋夫 大正
弐代 槙ノ戸  安永正右ヱ門 明治      四代 〃    白石 利夫 昭和十年
参代 〃    安永正兵衛 明治       初代 井手ケ関 高崎勝太郎 明治
   今 槙  白木 貞雄 昭和       弐代 〃    木村冨士夫
初代 井手ケ森 折尾 常吉 明治       初代 鷹ノ矢  小林寿一郎 明治
弐代 〃    村田 與市 明治       弐代 〃    堀  鷹藏 明治
参代 〃    折尾佐七郎 昭和       参代 〃    石井 保太 大正
四代 〃    福田  弘 昭和十年(十九才) 初代 初桜   村田幾次郎 明治
初代 赤猫   松本 福蔵 明治       弐代 〃    村田 俊哲 明治
弐代 〃    柴田 一廣 大正       参代 〃    白石 與三 昭和七年
初代 白藤   白石 藤敏 明治
弐代 〃    白木 藤喜 昭和
初代 井手ケ嶋 島田 國弘 明治
弐代 〃    小川 與壮 明治

 前記歴代力士名板に「槙ノ戸」の名がある。

 槙ノ戸は本名を加来長次郎といい、現八幡西区上々津役の出身、幕末における福岡藩の家老で有名な加藤司書の御抱力士となり、十六俵の手当をもらい大坂相撲の花形力士となる。将来は横綱を約束されていたという。

 明治初年廿九才で角界を引退し地方相撲界に尽力した。その功績により明治四年三十三才で吉田司家から九州頭取の免状をうけた。

 槙ノ戸が初代梅ケ谷に「黙れ梅ケ谷、腹をたてるより、自分の弱点をどうすればよいかなぜ考えぬ」と大喝したというエピソードは有名である。以来梅ケ谷は自分の非を悟り槙ノ戸に教をうけ、それからは連戦連勝の勝名乗をあげたという。梅ケ谷は後、東京相撲に入り明治十五年十五代横綱を張り、九州巡業のたびに槙ノ戸を訪れたという。

 安永正右ヱ門が槙ノ戸を襲名したといういきさつについては詳かではないが、何か深い関係があったものと思われる。

四 民謡

 盆踊りは、盆に迎えられるという精霊供養と精霊送りの踊りといわれているが、古くは念仏踊にお伊勢踊などが加えられたものといわれている。

 遠賀町内で共通して唄う盆唄は「思案橋」があるが、筑豊地方をはじめ他の地方でも普及しており、歌詞も殆んど同じである。思案橋は遊里に行こか、行くまいかと思案することから始まったといわれている。

 盆唄としては、このほか、島津に「はねそ」がある。島津は芦屋と隣接であり、むかし、芦屋役者の影響で普及したものであろう。また、尾崎に伝わる「扇子ぼん」は「思案橋踊」の変形である。

 労働唄・童謡なども特に遠賀町特有のものは少く、他の地方のものと共通のものが多い。

1 思案橋

○盆の十三日におどらぬ者は 棚にこきあげて水祭り

○盆の十三日におどらぬ者は 木仏金仏石仏

○盆の十三日に観音様の坪で 踊る片手に後生願う

○西へ西へと尋ねて行けば 西は西方弥陀如来

○先の折編笠チョイトこちをおむきあれ 少しお顔がみとござる

○去年盆まで踊りをしたが 今年しゃお墓の水まつり

○行こか戻ろか思案橋こえて こゝが思案の石土橋

○咲いた桜になぜ駒つなぐ 駒が勇めば花が散る

○ついて来なされこの提灯に 消して苦労はさせはせぬ

○今宵十と五夜有明なれど 様がござらにや暮のやみ

○老良日が照る伊佐座はくもる あいの遠賀川雨が降る(老良)

○紫檀黒檀唐木の三味を 様に引かせて妾しゃ小唄

○あれわいさ、これわいさで 沖こぐ舟は 楽なごとして苦がござる

2 島津はねそ

エエーヘーイエヤナ ソコ

○そろたそろたよ 踊り子が揃うた どれが踊りの頭やら/\

○踊り踊るなら品よく踊れ 品の良い子を嫁にとる

○竹に短冊七夕祭り 想い想いの唄をかく

○松が繁りてお宮が暗い 下ろせ小松の一の枝

○一の枝より二の枝よりも 三の小枝が影をなす

○私しゃ浜の松寝入ろとすれば 磯の小波がゆり起こす

○磯の小波が何というて起こす それはそなたの心から

○花の咲かずに実のなるものは 山じゃ石ずき里じゃわし

○いとし殿ごと並んだもよいが あいをへだてゝ見るもよい

○山が高うて馬関が見えぬ 馬関恋しや山憎くうや

○わしが思いにやあの山のけて さまの出入りが見とござる

○恋にこがれて泣く蝉よりも 泣かぬ螢が身を焦がす

○あなた百迄妾は九十九迄 共に白髪の生える迄

3 扇子盆(扇子をもって踊る) 尾崎

唄い出しに必須 一、揃うた揃うたよ踊り子が揃うたどれが踊り子の頭やら
        二、今年は豊年穂に穂が咲いた道の小草に米がなる
        三、富士の白雪は朝日に溶ける娘島田は寝てとける
        四、庭の泰山木なぜ駒つなぐ駒がいさめば花が散る
唄い終りに必須 五、扇子盆霊千尺の玉を修めまするぞ今ここに

 尾崎の盆踊りは手踊と扇子盆二つ踊るのが慣例で始めに手踊りあとに扇子盆を踊る

手踊り
唄い出しに必ず
○一つ出しましょかはばかりながら唄の文句はしらねども
 (かえし)
唄い終り必ず
 西え西えと尋ねて行けば西は西方弥陀如来

 どちらも唄の中途は共通ではない

 曲は思案橋と大差はない

4 遠賀婦人会の歌

 玉井政雄 作詞
 角 幸作 作曲
一、遠賀の土手に 草萌えて
  土は命よ ふる里の
  花のおみなが スキ鍬とって
  春は緑の 麦畑
  美わし 遠賀婦人会
二、光かゞやく 西川の
  紅のすげ笠 田植歌
  西玄海の 潮風うけて
  強くやさしい おみなぶり
  磨く 遠賀婦人会
三、黄金色ずく 福智山
  秋は祭だ 氏神の
  笛や太鼓に 実もゆたか
  踊る手ぶりも 村の幸
  祈る 遠賀婦人会
四、霜ふる夜も 風の日も
  母は力よ はらからの
  冬も楽しい 一家のまどい
  われらが村は 栄えゆく
  讃えよ 遠賀婦人会

5 産業組合歌

 農業協同組合の前身である産業組合時代盛んにうたわれた歌である。

○深山の奥の杣人も 磯に釣する蜑の子も 聴くや時代の暁の鐘 共存同栄と響くなり

○朝風たかく飜る わが組合の旗じるし 老いも若きも手をとりて いざ諸共に進みなん

○時の潮は荒ぶとも 誓はかたき相互扶助 愛の鎖に世をまきて やがて築かん理想郷

6 遠賀道々案内

 これは一-一〇九まであり、旧遠賀郡の道々を案内した唄で明治三十五年十二月当時若松町(現北九州市若松区)居住の林繁樹氏の作であるが、そのなかから当町関係を拾ってみよう。

1、元筑前は十五郡、中に遠賀は最大郡 西は宗像北は海、東は豊前に隣して 南鞍手に境せり
2、抑々此地に行幸の、古書に見えしは神武帝 仲哀神功斉明や、天智、安徳、日本武、 懐良、嘉仁二親王。
3、明治の初年三十と、又大小区村かずは 九十三と呼ばれしを、町村制の実施にて 十九とこそになりにけれ
4、境内開け土地広く、平地つゞきて山遠く 河の運漕亦宜くて、名所旧跡いと多し いざ行き道のしるべせん
29、御代の栄を今古賀や、鬼津尾崎を廻りつゝ 緑深まる若松の、里打ち過ぎて名に残る 嶋門の古駅たずねけり
30、跡に戻りて広渡、山野草木いと稀に 只平田のみ渺々と、木守の里に打続く 手間土手は此処なるぞ
31、此処を流るる遠賀川、又国中の第一と 呼びなす大河源は、嘉穂より発し流末は 芦屋の海に入りにけり
36、上下二村左に見て、伊佐座の渡り老良浜 浅木の宮に詣でつつ、朝霧の梅の香を訪いて道場原につきにけり
37、頃は天正八年に、毛利鎮実道雪の 勧めによりて宗像の、家臣こもれる此の城を 攻めて敗れし跡ぞかし
38、秋告げ顔の虫生津や、折しも夕日傾けば 中底井野を廻りつつ、底井野村に宿かりぬ 此処猫城は古戦場。

7 水踏み唄

○嫁に行くなら遠賀にや 行かぬ 遠賀大根飯ゃ腹がせく

○嫁にやるなら遠賀にや やるな 田圃の水踏みゃ 日にやける

○いとし殿御さんは桧坂登る 足もだるかろ ねむたかろ

○なにをくよくよ川端柳 水の流れをみてくらす

8 臼摺唄

○臼はすりともなし 夜食は欲しい 茶碗がらめきゃ目がさめるキヤツコン/\

○臼はすりともなし 夜食は欲しい 臼が廻はねば 米ゃ出来ぬ

○臼は廻え廻えキリキリシヤンと 臼がおゆるかと言うてござれ

○臼はまえまえキリキリシヤンと いとし殿御のすりござる

○臼の頭ずりや肩こる手こる すいた殿御にさせはせぬ

○臼の頭ずりや なり振りやいらぬ 頭こきあげて 尻をまわせ

○様はござるなら 夜臼の晩に ごめんなされと言うてござれ

9 田植唄

○腰のナア痛さよ この田の長さ 四月五月の日の長さ ヤレコシヤレコシ

○いつも五月よう さつきならよかろ いとし様ちやんの手苗とる

○さつき雨ほど恋しうがられて 今ぢや明日の通し水

○さまの三度笠 こきあげてかぶれ すこしや お顔がみとござる

○妾が唄うたら 隣からつけた 心届いた 友達が

10 石臼挽き唄

○臼をひきゃこそ お手にもさわれ あいにゃ見もすりゃ思うばかり

○臼のかるさよ 相手のよさよ 相手かわるな あすの夜も

○臼をひく夜にゃ 必ずおいで うすの手ごしょと 言うておいで

○臼をひくときゃ とろとろまなこ 団子くうときゃ 猿まなこ

11 俗謡

○長い土手ばな 遠賀の土手は 忍びなりやこそ 夜通う
※ばなは方言 ですよの意

○老良名物赤い飯 喰べる、土手が切るれば 其侭川底尻洗う、半切り盥に乗廻る
※赤い飯は大唐米をいう。遠賀川改修工事以前は川畔の村々は、度重なる大洪水により堤防の決潰のため大水害に悩まされた。その時の光景を唄ったものである。

○古賀の向いの広渡、大唐ごぜんの炊きおきは、いっとき さませばパラリパラリ
※ごぜんはままと同義で飯の意、大唐米は水に強いため遠賀川一帯の土手外など浮洲に多く植えられた。

○尾崎ヨイトコネー愛嶽山の麓、牛馬の詣りを、ねちょつてみちょつた。
※尾崎の愛嶽神社は牛馬の神として各地から牛馬を曳いて参詣する情景を唄っている。

○生涯於婆さんは焼餅すき、宵に九ツ夜食に七ツ、朝の茶の子に四十五喰べた。この於婆(島津の俗謡・遊興の項参照)

五 わらべうた

天然現象

○お月様いくつ、十三七ツ 七ツにや若いナ

○お月様えらいナ、お日様の兄弟で、櫛のようになったり、鏡のようになったり、春夏秋冬、日本国中照らす。(明治38・39年頃)

○一番星みつけた 二番星みつけた 三番星みつけた

○大寒 小寒 こうさん方によつて 雑炊喰うて ぬくもった。

○夕焼け小焼 あしたァ天気になアれ。

植物

○勝つてうれしい花一匁、負けてくやしい花一匁、○○さん取りたい花一匁 ○○さんやられん花一匁(遊び唄)

○開いた開いた 何の花が開いた 蓮華の花が開いた 開いたと思うたら いつの間に つぼんだ つぼんだと思うたら いつの間に 開いた。

○坊さん坊さん あんたの屋敷に梅が三本、桜が三本、合せて六本、唐竹唐梅唐かづら、からすカア!

○一ツひよどり、二ツふくろう、三ツみみづく、四ツ夜がらす、五ツ石たたき、六ツむくどり、七ツなかどり、八ツ山どり、九ツこがらす、十ォとんびの羽ひろげ、十一からすの糞あせり トント一つのいた。

○とろすことうこ、はなくぞ喰うぞ 山ィ行って泣いてこい(幼児を嚇す時)

○鴉、鴉、勘三郎 お前の家が焼けよるぞ 早う帰って水かきィ(夕方、子どもをあやすとき)

○きちきちもうずの棚さがし 棚から落ちて胴こいた。

動物

○十四日のもぐら打ち、隣の屋敷え とんで行け。

○ほうほう螢こい、あつちの水は苦いぞ、こっちの水は甘いぞ、ほうほう螢こい。

○一がさした、二がさした、三がさした、四がさした、五がさした、六がさした、七がさした、八がさした、九まん蜂がさした。ぶん ぶん ぶん ぶん

○泣き虫、毛虫、山ィ行つて泣いてこい(なぶり唄)

○こうさん こう こうこにこう しらみがこう 三匹こう はいよるこう こうこうこう(なぶり唄)

なぶり唄

○言うちやろ 言うちやろ 〇〇さんに言うちやろ

○お前の母さん 出べそ。

○いっぽ鉄砲 ならっぽ 水昌のかん袋

彦山権現 さむらい、ちんぽの毛

○鋸ひき婆さん 鋸屑くんない やるこたァやるけど 旦那んどんが二階で 障子はり 障子はり

「願い事」

○照るてる坊主 てる坊主 明日天気にしておくれ

「遊び唄」

○あんたがた どこさ あたしゃちんがさき ちんがさきや どこな 甘木の近所 商売ゃなんな 元結びんつけ つけ油 つけてみなさい上等舶来 まけて なんぼな 一銭八厘 一銭にまけない アカチョコベェ

○しかしか何本、○本(繰返し)当った時は「もげた」といって交替、当らない時は、当るまで台にのって指で数を示し、これを繰返す。(男子の遊び)

○一二とりやん かまくらせ ちんから ほけきょうの とんがん寺

○指きり 金きり かじやのむすこが、指きって、死んだ。

○かごめ かごめ かごの中の鳥は いついつ出やる 夜あけの晩に 鶴と亀がすべった後の正面 だァれ

○座頭さんえ座頭さんえ お茶を一杯 のましやんせ まだまだ まだというのは おまえの後に誰が居る(主として女の子)

○達磨さん だるまさん にらみぐっちょ しましょ 笑うたらだめよ うんとこどっこいしょ

○盆来りゃ うれし 正月くりゃうれし うれしの花はどこに咲く どこにさァく 山にも咲かぬ 川にも咲かぬ 石山寺の門にさく 門にさく

「しりとり唄」

○さよなら三角 また来て四角 四角は豆腐 豆腐は白い 白いはうさぎ うさぎははねる はねるは蛙 かえるは青い 青いはバナナ バナナはむける むけるはちんぽ ちんぽは長い 長いは煙突 煙突は黒い

かぞえ唄(お手玉あそび)

一番始めに一の宮 二また日光東照宮 三に佐倉の宗五郎 四また信濃の善光寺 五つ 出雲の大社 六つ村村鎮守様 七つ成田の不動様 八つ八幡の八幡様 九つ高野の弘法様 十でとうとう信願寺

○一かけ二かけて三かけて四かけて五かけて六かけて 十七八の姉さんが、片手に花もち線香もち お前はどこかと問うたれば 妾しゃ九州鹿児島の西郷の娘でございます。

明治九年の戦争で、討死なされた父さまの お墓参りもせにゃならぬ お墓の前で手を合わせ 南無阿弥陀仏とおがみます

○一れつ談判破裂して 日露戦争が始まった サッサと逃げるはロシヤの兵 死んでも尽すは日本の兵 五万の兵をひきつけて 六人残して皆殺し 七月八日の戦に ハルピンまでも攻めよせて クロバトキンの首をとり 東郷元帥万万才

○ずいずいすっころばし ごまみそずい 茶つぼにおわれて とっぴんしゃん ぬけたらどんどこしょ 俵のねずみが 米食ってちゅちゅちゅちゅ お父さんが呼んでも お母さんが呼んでも 行きっこなあしょ 井戸の廻りでお茶碗かいたの だぁれ

「羽子つき唄」

○一助妹は いなかにゃやらんで うちおいて むことって なんな やーこー この一個でヒーヤフーヤミーヤょ いっやのむーさしゃなーんなやー こーこの一個でヒーヤフーヤミイヤょー。

○三月三日のわらびがり、武夫は浪子の手をひいて 浪さんこけるな あぶないぞ 心配なさるな武夫さん 武夫がボートに移るとき 浪子は白いハンカチを 打ち振りながら ネェあなた 早くかえって ちょうだいね 父は海軍中将で 長女に生まれた浪子さん川島武夫と生き別れ 泣いて血をはく時鳥

六 子守唄

1 子守唄

一、うちのごりょんさんな びたこたびたよ 夜着も ふとんも 丸洗い

二、うちのごりょんさんな がらがら柿ょ 見かけよけれど 渋ござる

三、うちのごりょんさんな ビタこたビタよ うらの柿の葉で 尻のごた

2 遠賀の子守唄

(一)ねんねしなされ ねんねをなされ ねれば ごてんの花がさく よーい よーい

(二)ねんねしなされ ねた子は かわい ねれば 子も楽 守も楽 よーい よーい

(三)守のしきせ※は できたこた できたが 豆のもるよな あさぎしま よーい よーい

※しきせ=着物

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