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本文
遠賀町年表・参考文献・資料等提供者・編集後記 [PDFファイル/3.65MB]
西暦 |
年号 |
事項 |
|
旧石器時代 |
○鞍手郡若宮町汐井掛遺跡 ○北九州市若松区椎木山遺跡 |
|
縄文時代 |
○山鹿貝塚 ○夏井ケ浜遺跡 ○夏井ケ浜貝塚 ○大城遺跡 鬼津貝塚 虫生津貝塚 ○古月貝塚 ○新延貝塚 ○糠塚貝塚 ○榎坂貝塚 ○黒山遺跡 |
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弥生時代 |
菜畑遺跡 蟹喰遺跡 黒松遺跡 老良貝塚 妙雲寺貝塚 花園遺跡 由良之池 虫生津遺跡 金丸遺跡 小古野遺跡 小鳥掛遺跡 高田神社下遺跡 |
|
古墳時代 |
杉木遺跡 城塚遺跡 矢倉遺跡 力間口遺跡 天神遺跡 金丸遺跡 牟田神社遺跡 慶ノ浦遺跡 先ノ野遺跡 上ノ越遺跡 別府遺跡 千代丸遺跡 芙原遺跡 野中遺跡 由良之池遺跡 土取池遺跡 |
|
仲哀 八 |
○1・1日本書紀に「岡県主の祖熊鰐」の名出る |
六〇九 |
推古 一七 |
○4・1日本書紀に「筑紫大宰」の文言出る |
六六一 |
斉明 七 |
○7・1斉明天皇朝倉宮に崩す |
七〇一 |
大宝 一 |
○軍団制成立、筑前国に四軍団編成、遠賀軍団・御笠軍団が存在 |
七〇三 |
大宝 三 |
○10・20「遠賀郡山鹿林東山 壱処」官所施入(41) |
七一三 |
和銅 六 |
「筑前国風土記」(逸文)に遠賀郡の古名「塢舸県」出る |
七二〇 |
養老 四 |
○観世音寺の所領に「山鹿島」がみえる |
七四〇 |
天平 一二 |
9・3大宰少弐藤原広嗣大宰府に挙兵 |
八一八 |
弘仁 九 |
山鹿荘立券 |
八二六 |
天長 三 |
○軍団制廃止 |
八七三 |
貞観 一五 |
5・15嶋門渡船二艘朽損、公私往還不便につき、正税稲をもって買充てを許可 |
八七六 |
貞観 一八 |
3・13嶋門駅家の修理を肥後国より筑前国に担当変更(41) |
九〇一 |
延喜 一 |
○菅原道真大宰府に配流、同三年2・25没、五九歳 |
九〇五 |
延喜 五 |
○観世音寺の塩焼山として「山鹿林東山」出る |
九二七 |
延長 五 |
「延喜式」に駅馬「島門廿三疋」出る |
九三五 |
承平 五 |
「倭名類聚抄」に遠賀郡の六郷「埴生・恒前・山鹿・宗像・内浦・木夜」出る |
一一二〇 |
保安 一 |
○観世音寺、東大寺末となる |
一一八三 |
寿永 二 |
10平氏一門大宰府を追われ、内浦・芦屋・山鹿を経て豊前柳ケ浦、讃岐屋島へ赴く |
一一八五 |
文治 一 |
○嘉麻兵衛尉、源氏の軍と芦屋浦で戦い敗れる(吾妻鏡)。平家滅亡。守護・地頭設置 |
一二四七 |
宝治 一 |
○鎮西小鳥庄を結城入道拝領、小鳥庄の所在地不明(吾妻鏡) |
一二四九 |
建長 一 |
○6・26麻生資時、父二郎入道西念より山鹿庄内麻生庄・野面庄・上津役郷の地頭代職を譲らる。麻生氏初出 |
一二五〇 |
建長 二 |
11山鹿庄が源雅光領より尚侍殿(藤原全子)の新御領に加えられる(鎌倉遺文) |
一二六九 |
文永 六 |
宇佐八幡宮、大宰府に到る路次国々の郡司駅家長に対し宇佐使の送迎に勤仕すること、殊に筑前国島門駅家の祇候を促す(小山田文書) |
一三三三 |
元弘 三 |
○5鎮西探題北条英時敗死 |
一三三四 |
建武 一 |
1宗像大宮司帆柱城攻撃。3小弐頼尚帆柱山攻撃 |
一三三九 |
暦応 二 |
1開田佐渡次郎、一色範氏に属し菊池・阿蘇の軍勢と戦う |
一三四五 |
貞和 一 |
12・27開田佐渡次郎父より譲り受けていた底井野郷を足利直義より再安堵 |
一三四九 |
貞和 五 |
○足利直冬九州上陸、探題方・佐殿方・宮方に九州三分、探題方(北朝)は観応、佐殿方(直冬)は貞和、宮方(南朝)は正平の年号を用いる |
一三五一 |
観応 二 |
11・2足利尊氏、「遠賀庄頼尚跡」等を大友氏泰に宛行う(大友文書) |
一三五二 |
文和 一 |
1筑後左近将監の本領注文事に遠賀庄あり。 ○11足利直冬九州を去り佐殿方解体 |
一三五四 |
文和 三 |
開田佐渡次郎鞍手郡若宮圧に侵入し濫妨。 2筑前国遠賀荘を大友氏時に給付(大友文書)。11足利尊氏、山鹿家直・同氏久・同家勝跡地頭職を麻生筑前守に宛行う(105) |
一三五五 |
文和 四 |
○10・21足利尊氏筑前国賀伊田次郎五郎跡田地三〇町地頭職を麻生五郎に宛行う(105) |
一三七一 |
応安 四 |
○2今川了俊九州探題に任命され、同年暮門司に上陸 |
一三八四 |
至徳 一 |
9麻生義助知行目録写に「嶋律(津)村三十町、別野別当平、号若狭介知行」出る |
一三九一 |
明徳 二 |
1浅木神社記録(正徳六年写)に同社饗膳・社役次第之事・たつけのきやうの次第・年中祭礼等出る |
一三九四 |
応永 二 |
6・6麻生義助庶子山鹿仲中・同麻生資家等の所領を悉く義助の知行とする(105) |
一三九五 |
応永 三 |
○3・15渋川満頼九州探題に就任、四月着任(福岡県史) |
一四二五 |
応永 三二 |
7・10幕府は御牧郡河上の地を九州探題渋川満頼に宛行う。 12・27底井野郷を底井野治部少輔へ返戻 |
一四四八 |
文安 五 |
8麻生弘家知行惣庄郷村浦浜所々目録写に「弐十七町 嶋津村」あり(105) |
一四五〇 |
宝徳 二 |
8・29開田(底井野)備中入道知行を安堵 |
一四五一 |
宝徳 三 |
3・21大内教弘より開田備中入道底井野郷安堵を通達。この年作製の「山鹿系図」に「別府郷内」の文言あり(105) |
一四五九 |
長禄 三 |
この頃遠賀庄代官安富宗貞(安富家証文) |
一四六〇 |
長禄 四 |
御牧郡川上の地闕所となり、大内氏の九州出陣に伴い兵糧料所となる |
一四八〇 |
文明 一二 |
須藤駿河守行重広渡村松ノ本に地蔵庵を建立、尾崎村上田三段歩を寄進するという。10・4飯尾宗祇内浦より芦屋に向う(筑紫道記) |
一四八三 |
文明 一五 |
12・13御牧郡川上正税につき給人種々訴訟、来年より一万疋の年貢となる |
一四八四 |
文明 一六 |
3・4御牧郡川上の地(広渡・底井野・上津役・香月・頓野)が足利将軍家の所領として出る |
一四九二 |
明応 一 |
明応年中に別府に天台宗行満寺開基という |
一五〇五 |
永正 二 |
広渡長岸寺開基 |
一五五一 |
天文 二〇 |
4朝木大明神大宮司職藤原長吉所補。 4・26長徳寺伊佐越後守朝木大明神社領三町三反寄進 |
一五五六 |
弘治 二 |
大内義長、渡辺主計に御牧郡広渡村一〇石を給付(大内氏実録) |
一五五九 |
永禄 二 |
若松堂島寺・別府今泉社・高倉宮ともに大友義鎮の兵火により焼亡という |
一五六〇 |
永禄 三 |
若松栄宗寺開山 |
一五六二 |
永禄 五 |
3・14麻生隆実、佐野宮菊丸に父内蔵大夫跡底井野郷大宮司職を安堵す(105) |
一五八三 |
天正 一一 |
12・13麻生統春、佐野宮千代丸を大宮司職に補任(105) |
一五八七 |
天正 一五 |
3・2船津三河守底井野郷宮内分一町地を寄進。 ○5豊臣秀吉九州平定、筑前には小早川隆景を封ず。この頃小早川隆景臣安増甚左衛門別府千代丸に築城 |
一五九二 |
文禄 一 |
○豊臣秀吉、文禄の役に芦屋の港(三頭・猪熊)より渡海さす、池田備中守総司(47) |
一六〇〇 |
慶長 五 |
○12黒田長政豊前中津より筑前に入封、福岡藩成立 |
一六〇二 |
慶長 七 |
12平松金十郎鬼津村で七〇〇石宛行わる |
一六〇三 |
慶長 八 |
黒田長政、杉又左衛門に底井野村内の牟田開田を、竹森岩見に木守大曲りの沼池の開立を命ずる |
一六〇四 |
慶長 九 |
9・21平松金十郎夜須郡へ知行替え |
一六〇八 |
慶長 一三 |
虫生津長楽寺建立。 8広渡村検地 |
一六一三 |
慶長 一八 |
1・5遠賀川改修工事を命ず、垣生うらの山掘切、底井野山の掘切を企図 |
一六一五 |
元和 一 |
○閏6一国一城の幕命により筑前六端城破却。島津村より猪熊村分村 |
一六二〇 |
元和 六 |
此年大雨、洪水あり農民困窮(16) |
一六二一 |
元和 七 |
○1・14吉田堀川着工 |
一六二二 |
元和 八 |
広渡村境の沼地を開き今古賀村開立。広渡村より立屋敷村分離(16) |
一六二三 |
元和 九 |
○8・4黒田長政没、忠之遺領相続、秋月五万石・東蓮寺四万石分封 |
一六二六 |
寛永 三 |
老良妙雲寺開山 |
一六二八 |
寛永 五 |
東は中間より古賀まで、西は垣生より広渡まで御牧川(遠賀川)両岸に築堤、島津と若松の間を古賀の下より三頭の下、仏松の前まで新川を掘る |
一六三四 |
寛永 一一 |
○10・12井上周防之房没、八一歳 |
一六三七 |
寛永 一四 |
○10・25島原の乱起る |
一六三八 |
寛永 一五 |
この年まで下見孫右衛門小烏掛を知行地とする(53)。○2・28原城陥る。9・20幕府キリスト教を厳禁。○忠之底井野御茶屋設置(38) |
一六三九 |
寛永 一六 |
○7幕府ポルトガル船の来航を禁止、鎖国完成 |
一六四一 |
寛永 一八 |
上原団右衛門、尾崎村の内二〇〇石を知行地とする |
一六五五 |
明暦 一 |
浅木大明神旧社坊を再興し西光寺とする |
一六五六 |
明暦 二 |
植木渡場の川上に堰樋の設備をなす、花ノ木堰の嚆矢 |
一六五八 |
万治 一 |
山田川用水路掘削着工、翌々三年に竣工 |
一六六三 |
寛文 三 |
11・14今古賀村柴田次左衛門・林総右衛門愁訴し死罪となる |
一六六四 |
寛文 四 |
御牧郡を遠賀郡に改称。遠賀川土手外荒牟田浮洲壱作開に指定(16) |
一六六九 |
寛文 九 |
○2幕府京枡に統一、閏10古枡の使用を禁止。遠賀は一二年より実施とも |
一六七三 |
延宝 一 |
小鳥掛村新高免となる |
一六七四 |
延宝 二 |
9遠賀・鞍手両郡水損、田方損毛 |
一六八四 |
貞享 一 |
若松住吉神社建立 |
一六八七 |
貞享 四 |
今古賀村八剣神社を立屋敷村より勧請 |
一六八八 |
元禄 一 |
鬼津村常楽寺開山、一村総且那となる |
一六九三 |
元禄 六 |
6・25別府村・虫生津村の参宮同行一行の内七名が長門国本山にて大風に逢い遭難死亡 |
一六九五 |
元禄 八 |
土御門神道陰陽道許状を遠賀郡日下民部に発給(吉川文書)。2黒田光之浅木八剣大明神へ参詣(62) |
一六九六 |
元禄 九 |
3山田溝植木井手水掛村々受持間数決まる |
一六九九 |
元禄 一二 |
別府村庄屋権九郎、高家天神社を建立、遍照院社僧として奉仕(62)。芦屋町太田喜兵衛筑豊貢米の蔵元仰せ付けらる |
一七〇三 |
元禄 一六 |
木守村源六妻貞烈を賞し、その二子に米各五俵を給さる。 12・11木守村寡婦縊死 |
一七〇七 |
宝永 四 |
広渡村長江に立屋敷村八剣神社を分祀。○冬藩にて堀川工事再開が発議されるも中止 |
一七二〇 |
享保 五 |
貢米積立所、芦屋より修多羅村石崎の地へ移転。 ○直方藩廃止。6・21遠賀川水害破損所多し |
一七二三 |
享保 八 |
○触口役号を大庄屋と改称 |
一七二六 |
享保 一一 |
5・23~29霖雨洪水、国中田畑損耗 |
一七三二 |
享保 一七 |
閏5・10遠賀川水害。此年蝗害により大飢饉、餓死者・病死者多数、町内各寺死者数、若松栄宗寺三八、鬼津常楽寺二六、別府行満寺一四三、虫生津長楽寺六三、浅木西光寺一〇一、木守法雲寺二八、老良妙雲寺一七、広渡長岸寺一一二、糠塚西光寺三四(遠賀町報) |
一七三三 |
享保 一八 |
9宗旨改め鬼津村死者七〇余人、若松村死者九〇余人 |
一七三四 |
享保 一九 |
○7堀川関係村々より古来の覚書を添えて吉田村抱苗代谷の掘り通しを出願 |
一七三七 |
元文 二 |
○1苗代谷繰り貫き工事着工、石こわく、翌三年四月工事中止 |
一七三八 |
元文 三 |
福岡藩郡方夫役、高役より面役になる(7) |
一七三九 |
元文 四 |
8黒田継高浅木神社に永世米10苞を寄進 |
一七四一 |
寛保 一 |
福岡藩櫨実植立を奨励(41) |
一七四二 |
寛保 二 |
頭百姓の呼称を組頭に改称 |
一七四四 |
延享 一 |
遠賀川河口付近大改修、喜太郎土手出来。8堂塔寺山より芦屋浜に芦屋道を普請。○10奉幣使飛鳥居雅重下向 |
一七四六 |
延享 三 |
白水道築切り閉鎖。延享四、寛延元ともいう |
一七五〇 |
寛延 三 |
○古賀村前新土手、願いにより築留 |
一七五一 |
宝暦 一 |
○1吉田車返切貫試掘着手、堀川工事再開 |
一七五三 |
宝暦 三 |
木守村藤作賞誉 |
一七五五 |
宝暦 五 |
5洪水にて広波村上本土手切れる。7中旬より田方一統大量に蝗発生(16)、鯨油使用者あり |
一七五七 |
宝暦 七 |
垣生村抱通り裏より老良の方へ新溝掘り通し(団七堀) |
一七六二 |
宝暦 一二 |
○4遠賀堀川完成。10福岡藩郡方五役所に掛り分け、郡代を廃止、遠賀・鞍手郡役所を上底井野に設置 |
一七六三 |
宝暦 一三 |
1堀川正式通船開始 |
一七六四 |
明和 一 |
遠賀・鞍手両郡人馬仕組採用。6・13より11・1まで殆ど降雨なし。○六宿駄賃改訂 |
一七六七 |
明和 四 |
6・7垣生土手一〇〇間余破損、郡中困窮 |
一七六八 |
明和 五 |
遠賀・鞍手両郡の内極痛み村三か年間お救いとして下免仰せ付け(2) |
一七七〇 |
明和 七 |
○9惣郡村々軸帳出来(41)、面役一人につき壱貫弐百文宛夫銭上納懸る、百姓中困窮(2) |
一七七三 |
安永 二 |
水車はじめてこの辺にはやる(2) |
一七七七 |
安永 六 |
植木山田唐戸惣仕替。6・1四〇年来の大雨(2) |
一七七九 |
安永 八 |
8・4~5大雨。本川筋大洪水、広渡村抱土手三か所決壊、今古賀村屋根まで水あがる(須恵古野文書)。10桜島噴火の音聞ゆる(2) |
一七八〇 |
安永 九 |
6・5より8・11まで六五日旱魃 |
一七八一 |
天明 一 |
閏6・21より7・9まで四二日、9・7より11・13まで降雨なし、所により井戸枯れる |
一七八二 |
天明 二 |
別府村小仏丁池築立 |
一七八三 |
天明 三 |
夏大雨、大風、田畠痛み甚だし、秋作劣り、投免村々多し |
一七八五 |
天明 五 |
木守村より下、千間川拡幅、これより別名新川ともいう、以後通船 |
一七八八 |
天明 八 |
○4黒崎鶏卵座崩れ郡中弁、村々軒別より負担(2) |
一七九〇 |
寛政 二 |
5・24老良本土手五〇間程破損。別府村高家に牛馬悪疫流行し豪士社石祠建立 |
一七九二 |
寛政 四 |
蝗害、油入数へん、除蝗に鯨油使用普及。国中田畠損耗、秋免願の村多く郡々一統下免許下。五役所・郡奉行・下免率は次の通り。怡土・志摩・早良三郡=花房佐兵衛=六六%、宗像・両柏屋三郡=富永軍次郎=五〇・七%、嘉麻・穂波・上座・下座四郡=櫛田甚内=四〇%、遠賀・鞍手二郡=坂田新五郎=四七%、那珂・席田・御笠・夜須四郡=天野弥一兵衛=一九・五%、筑前一六郡=四四・四%(2) |
一七九六 |
寛政 八 |
○底井野御茶屋廃止(38) |
一八〇一 |
寛政 一三 |
3今古賀村彦五郎御仕組馬吟味役就任。6波津湯川山牧に牛馬追込始まる |
一八〇四 |
文化 一 |
○4奉幣使四辻公説下向。5・15大雨、島津本土手四〇間程決潰、底井野・大隈大破損 ○堀川河口を楠橋村寿命に変更 |
一八〇六 |
文化 三 |
10大庄屋毛利喜八郎、遠賀・鞍手大川水吐工事の功労により称誉 |
一八〇八 |
文化 五 |
○芦屋浜口より寺中町まで新川堀通し普請、出夫約一万人。蓮角新川堀直し |
一八一一 |
文化 八 |
○5降雨九日間続き芦屋浜口土手決潰。7・14大雨洪水 |
一八一二 |
文化 九 |
7・24~25伊能忠敬、山鹿・芦屋・島津・岡垣方面測量(41)。○9底井野御茶屋再興 |
一八一七 |
文化 一四 |
1広渡村孝子甚作賞誉 |
一八一八 |
文政 一 |
○牛馬牧仕組中止。○9・18郡奉行五掛制廃止、惣郡奉行制となり郡代復活 |
一八二〇 |
文政 三 |
若松村で村騒動、この年カ |
一八二一 |
文政 四 |
「筑前国統風土記拾遺」編述のため長野種正西郷回村(遠賀郡回村覚書) |
一八二二 |
文政 五 |
広渡村孝子仁助賞誉。○祇園崎本川尻波戸できる(2) |
一八二三 |
文政 六 |
下底井野村神官門司盛美家塾貞光館を開設(福岡県神社誌)。○6郡代号廃止、郡奉行制復活 |
一八二四 |
文政 七 |
別府村神官占部重監家塾柳枝軒を開設(同前)。7広渡村神官松本久蔭「岡郡宗社志」を誌す |
一八二八 |
文政 一一 |
8・9古来稀な大風、鬼津村転家四、五軒、他村は多数。8・24再び大風転家多し(2) |
一八二九 |
文政一二 |
老良前本川に旱魃備石井手、川西一〇か村にて仕居、下流村は広渡下も本土手井樋より取水、吉原川・千間川・今古賀水引川底樋工事は三年を経て完成(2) |
一八三〇 |
天保 一 |
○4・5文政一一年の凶作により遠賀・鞍手・嘉麻・穂波四郡の農民救助のため焚石の旅売を出願、二か年間許可になる(御仕立炭山定)。4底井野に郡講始まる |
一八三四 |
天保 五 |
○4福岡藩御救方仕組始まる(2) |
一八三五 |
天保 六 |
○2・1筑豊四郡焚石取り発し一〇年間御救方受持になる(御仕立炭山定)。○6・22郡代号廃止 |
一八三六 |
天保 七 |
5・6月多雨、一統凶作、冬遠賀・鞍手両郡に御救米一万俵渡る。○伊藤常足「岡県集」を編纂。○9福岡藩御救方大崩れ、関係役人を解任 |
一八三七 |
天保 八 |
6米穀窮迫、郡内え米一〇〇〇俵永蔵より渡す |
一八三八 |
天保 九 |
4巡見使下向。6・26~28大風雨、川筋洪水、老良土手決潰 |
一八三九 |
天保 一〇 |
○江戸西丸類焼、農民一割増年貢米上納、困窮(2) |
一八四〇 |
天保 一一 |
6・4大雨降り出し洪水となる、九日より再び大雨被害甚大 |
一八四一 |
天保 一二 |
2・24高家天満宮焼失。○伊藤常足「太宰管内志」成る。○惣郡奉行設置 |
一八四二 |
天保 一三 |
○商売免札改正。7野田屋切手引上げ(25) |
一八四四 |
天保 一五 |
○福丸・底井野・内野・大隈町・甘木・畝町・今宿の郡家廃止(25) |
一八四六 |
弘化 三 |
閏5・4高倉宮雨乞一七日執行、九日神伝院袈裟流(波津城瀬記録) |
一八四七 |
弘化 四 |
7・22~23大雨、本川筋出水(2) |
一八四八 |
嘉永 一 |
木守法雲寺僧海谷義順家塾楳柳堂を開く |
一八五〇 |
嘉永 三 |
4遠賀郡中新四国八十八ケ所創設。5・28~6・3大雨、植木中ノ江土手決潰、町域湖となる。6・26大雨、再度浸水。7・3大雨、尾崎・小鳥掛・別府浸水。7・11台風、別府・小鳥掛・今古賀で家屋倒壊。8・7台風、中ノ江土手再び決潰、上底井野より広渡まで冠水、下底井野触・別府触総漬り、返免村出来、一統困窮。虫生津村孝子藤三、今古賀村孝子文助表彰さる |
一八五一 |
嘉永 四 |
2別府触では村々仕向金として日田金一〇〇〇両借用、本城・蜑住両触は觸預手形発行 |
一八五二 |
嘉永 五 |
7高倉宮雨乞、神伝院袈裟流、川筋水下水争熾烈(25) |
一八五三 |
嘉永 六 |
5・15~18大雨洪水、島津抱本川尻決潰。5・23~8・2七〇日の大旱魃、7・13~15雨乞の火立の火、石炭の露頭に入り永谷山より出火、古門・虫生津・戸切・尾倉山・別府山まで燃える。遠賀川筋水争い、7・29遠賀勢鞍手勢に対し実力行使し鞍手井手破壊、塩田堰掛りの村々総出夫(7) |
一八五四 |
嘉永 七 |
10・11西郷の者大勢黒崎送り夫に出夫の途中、古賀渡しにて渡舟転覆四人死亡(2) |
一八五五 |
安政 二 |
上野芳草、別府村高家に家塾を開設。5・18~19大雨洪水、植木下、島津尻土手決潰(2) |
一八五六 |
安政 三 |
○安政の改革始まる、郡奉行三人にて惣郡受持となる。宗旨奉行廃止、山方役所惣郡一役所になる。○11吉木村騒動勃発、福岡へ直訴(2) |
一八五七 |
安政 四 |
○宗旨改城代頭担当になる。○11山奉行復活(25) |
一八五八 |
安政 五 |
○宗旨奉行復活。当秋より年貢米俵拵え大縄仕立てになる(25)。○11・9伊藤常足没 |
一八五九 |
安政 六 |
夏~秋コロリ病流行、鬼津村にも患者発生。6鬼津・若松両村下底井野触より別府触に変更 |
一八六〇 |
万延 一 |
○3桜田門外の変。4・7~8大雨洪水。○12島郷畠田騒動発生 |
一八六一 |
文久 一 |
1別府触で救民救備仕組設立 |
一八六二 |
文久 二 |
5~6月にかけハシカ大流行、田方根浚大荒れ。夏中旱、水論多し |
一八六三 |
文久 三 |
○6芦屋・山鹿両所台場築立、7・25惣棟上、村々残らず加勢に出夫、石火矢五挺設置 |
一八六四 |
元治 一 |
○6奉幣使梅溪通善下向。○8第一次長州征討 |
一八六五 |
慶応 一 |
○1五卿長州より筑前に移転。11小烏掛講仕立、触中村々加入(2) |
一八六六 |
慶応 二 |
4小烏掛村仕組にて他村へ永代売の田地買戻。8小倉平松浦の漁民戦火をさけて現遠賀町・岡垣町に避難。9夫銭仕組を廃し現夫仕いとなる。○9浦方を廃し郡方に編入。10小鳥掛村を鬼津村に併合 |
一八六七 |
慶応 三 |
2波津湯川山馬牧再開、別府触よりも堀廻しに出夫、農民中困る。6・12~18大雨洪水低地の田地大痛み(2)。○10徳川慶喜大政奉還。○12・8五卿復位、12・19太宰府を去る(2) |
一八六八 |
慶応 四 |
1農兵発足。1福岡藩家中登京支度銀を郡町より借り入れ、○3・12神仏混淆を禁止。6大庄屋を触口と改称。6農兵人数倍増。○9・8明治と改元、一世一元となる |
一八六九 |
明治 二 |
○6・17藩籍奉還。○8官職名を通称に使用を禁止。○家老を執政・郡奉行を郡令・郡役所を郡局と改称、7月家老を大参事と改称、秋惣郡令を置き五役所に郡令助役を配置。秋作大凶 |
一八七〇 |
明治 三 |
1郡令助役底井野に着任、郡局を大属所と改称。3上底井野触西郷村々に廻文、不穏の動きあり、○3芦屋・博多に通商会所設置さる。○5福岡司民局開局。○6貨幣贋造発覚。山鹿村で小作争議。○弐歩判廃止が通達され、御国二分金の回収が始まる。閏10二分金一〇〇両上納者に永年米二俵半授与の通達あり。12庶民の佩刀を禁止。秋庄屋惣髪となる |
一八七一 |
明治 四 |
2衣食住の制度廃止。2底井野大属役所廃止。3触口役号を大庄屋に復す。○4戸籍法改正。○7藩知事長知贋札事件により閉門、有栖川宮熾仁親王福岡藩知事に任ず。○7・14廃藩置県により福岡藩は福岡県となる。○8・24政府解放令を発布。○8武士の散髪・廃刀を許可。○11・14筑前一国の福岡県誕生、県内を三四区に分かち各区に戸長を置く、遠賀郡は8・9・10区に属し村々境に榜示柱杭建つ。大庄屋格・庄屋格廃止 |
一八七二 |
明治 五 |
○6大庄屋・庄屋を廃し戸長・副戸長を置く。○7貢納を四斗俵仕立に統一、秋地券調始まる。○12・1徴兵令公布。○12・3政府太陽暦を採用、新暦六年元旦とす |
一八七三 |
明治 六 |
3大小区制実施、遠賀郡を第五大区とし二四小区に分かち、調所を芦屋に置く。副戸長惣退役、組頭を廃し保長を置く。○6・14嘉麻郡で農民騒動勃発。6・26党民本城・中間・中底井野・浅木・虫生津を襲撃、27日党民解散。7地租改正令布告。8旱魃、雨乞 |
一八七四 |
明治 七 |
1鬼津小学・広渡小学・今陸小学開校。3第五大区二四小区を三六小区に改組、組頭取を伍長と改称。秋貢租半高現米・半高石代、石代米大豆一石六円五五銭 |
一八七五 |
明治 八 |
春田畠現反歩竿入、鬼津では5月に官員検査実施、○5・25金札引上げ。○6・20旧藩札引上げ。地租改正に伴い若松村を鬼津村に併合 |
一八七六 |
明治 九 |
1遠賀郡は第四大区となり一三小区に改組、小区役場を扱所と改称、。8豊前六郡・筑後全域を福岡県に併合、12区内一三小区を七小区に改変 |
一八七七 |
明治 一〇 |
○2西南の役勃発、○9・30第四大区第一回大区会開催、○10第一回県会議員選挙 |
一八七八 |
明治 一一 |
7大小区制廃止、10第四大区調所を遠賀郡役所と改称、各区に公選戸長を設置、○10府県会々則による第一回県会議員選挙実施 |
一八七九 |
明治 一二 |
浅木小学を別府小学校と改称 |
一八八一 |
明治 一四 |
○2・1県内を一区一三郡に区分、遠賀郡役所を廃し遠賀鞍手郡役所を鞍手郡木屋瀬村に設置。○11・14郡衙併合失敗しすべて旧に復す、遠賀郡役所を芦屋町に再設置 |
一八八四 |
明治 一七 |
○6町村分画改訂、鬼津・中底井野に戸長役場設置 |
一八八六 |
明治 一九 |
4鬼津小学・広渡小学を簡易科に、別府小学校を別府尋常小学校と改称、今陸小学校を廃止 |
一八八九 |
明治 二二 |
4町村制実施、島門村、浅木村誕生 |
一八九〇 |
明治 二三 |
7・3長雨のため遠賀川氾濫洪水、10別府尋常小学校を浅木尋常小学校と改称。11・15九州鉄道遠賀川・博多間開通 |
一八九一 |
明治 二四 |
2・28九州鉄道遠賀川・黒崎間開通、○4・1九州鉄道門司・黒崎間開通、7・21遠賀川大洪水、広渡長岸寺横の本川堤防決壊。○8筑豊興業鉄道若松・直方間開通 |
一八九二 |
明治 二五 |
4鬼津尋常小学校、広渡尋常小学校と改称(簡易科廃止)。12島門村役場を鬼津丸ノ内より広渡六十歩に新築移転 |
一八九三 |
明治 二六 |
1鬼津尋常小学校を廃し広渡尋常小学校に合併。浅木尋常小学校教室不足のため浅木神社拝殿を借り入れて仮教室とする |
一八九六 |
明治 二九 |
○5・23遠賀郡農会設立。島門村農会・浅木村農会創設 |
一八九八 |
明治 三一 |
○2遠賀郡役所を芦屋より折尾に移転。5遠賀郡組合立浅木高等小学校を下底井野に開校。○6東筑尋常中学校飯塚で開校。此年、花の木堰と山田川を共同管理するための底井野村・浅木村・島門村・古月村・劔村五ケ村組合設立 |
一九〇一 |
明治 三四 |
6広渡・鬼津両小学校合併。○11・18八幡製鉄所作業開始式挙行 |
一九〇二 |
明治 三五 |
6別府蓮角に浅木村隔離室を新設。鬼津に島門村隔離室及び火葬場を設置。9広渡・鬼津両校を廃し、鬼津川埋に島門小学校を創設、9老良小学校を設置。島門村戸口六七九戸・四一二九人、浅木村戸口三八四戸・二二七七人 |
一九〇四 |
明治 三七 |
○2日本ロシアに宣戦を布告 |
一九〇五 |
明治 三八 |
1虫生津で耕地整理起工、6月竣工。7遠賀川大洪水。11島門村是調査開始。12遠賀川河川法の対象となる。 |
一九〇六 |
明治 三九 |
3遠賀川改修工事計画が国会を通過。此年西川郡営河川より県営河川となる。烏門・浅木両村合併の胎動始まる |
一九〇七 |
明治 四〇 |
3遠賀川駅公衆電報取扱開始。4島門・浅木両小学校に高等科を併置。5遠賀川駅舎旧停より現在地に移転。○7・1九州鉄道国有化。○10岡垣村発足 |
一九〇八 |
明治 四一 |
3浅木高等小学校廃止。4・1浅木尋常小学校・島門尋常小学校に高等科を併置。4・26遠賀川改修工事起工式を直方町で挙行。7・1室木線開通 |
一九〇九 |
明治 四二 |
4島門村青年進農会結成。9島門・浅木両村合併問題協議。11・3欽道遠賀川・赤間間複線開通 |
一九一〇 |
明治 四三 |
○2・6海老津駅開業。8・20島門・浅木両小学校に実業補習学校設置認可 |
一九一一 |
明治 四四 |
4遠賀川郵便局開局。○4遠賀農学校則松に創立。 |
一九一二 |
明治 四五 |
8浅木村是上梓 |
一九一三 |
大正 二 |
4島門村是上梓。此年島津で一四町七反余土地改良事業実施。下底井野信用組合設立。12遠賀川・赤間駅間複線化 |
一九一四 |
大正 三 |
此年蟹喰で二〇町四反歩の土地改良事業実施 |
一九一五 |
大正 四 |
4芦屋軽便鉄道創立。4遠賀川駅跨線橋落成。此年島門・浅木両村合併発議 |
一九一六 |
大正 五 |
此年島門青年会結成、虫生津信用組合設立 |
一九一七 |
大正 六 |
2遠賀川共進講組織 |
一九一九 |
大正 八 |
8島門・浅木両村議会合併を決議。遠賀川商工会結成。自警団共衛会結成。島門村役場を広渡旧停に移転 |
一九二一 |
大正 一〇 |
虫生津・別府で再度耕地整理、一〇七町七反余。 |
一九二二 |
大正 一一 |
○3・3全国水平社創立宣言 |
一九二三 |
大正 一二 |
2公設島門村消防組設置。4・1郡制廃止、合併の気運醸成 |
一九二四 |
大正 一三 |
3遠賀川橋・西川橋完成。今古賀地区で四〇町歩耕地整理実施、虫生津辛子畑で六町六反余耕地整理実施 |
一九二六 |
大正 一五 |
8神田川分水について八幡製鉄所と覚書成立。入江タクシー遠賀川で開業 |
一九二七 |
昭和 二 |
此年乗合自動車(大和バス)遠賀川・木月間に開通。尾崎地区で一〇町歩余耕地整理実施 |
一九二八 |
昭和 三 |
浅木村公設消防組結成。4浅木小学校に実科女学校を併置。10島門・浅木両村村会で合併を決議 |
一九二九 |
昭和 四 |
3・9島門・浅木両村合併を県公報で公示。4・1島門・浅木両村合併し遠賀村誕生。4・1大字老良誕生。4・9遠賀村青年団結成。8・1大字上別府誕生。10・5遠賀村消防組結成。神田川延長と導水工事着工 |
一九三〇 |
昭和 五 |
7神田川導水路延長工事完成、下大隈堰より取水開始 |
一九三一 |
昭和 六 |
6遠賀村役場今古賀九一番地の一〇に新築移転、総工費一三、〇〇〇円。此年国道三号線完成。西川浚渫船西川丸就航。花園箱式石棺発掘。10・27芦屋軽便鉄道事業不振のため廃止 |
一九三二 |
昭和 七 |
8西川改修期成会設立。9老良小学校を浅木小学校に合併、四年生以下を以って老良分教場を設置 |
一九三三 |
昭和 八 |
3・21~22九州馬耕競技大会を浅木村で開催。3老良分教場廃止。此年遠賀川産業組合設立。西川改修工事着工 |
一九三四 |
昭和 九 |
6大旱魃、塩田堰仮設・寿命ネコ掛け。○12金丸鉱業鞍手鉱業所開坑 |
一九三五 |
昭和 一〇 |
4島門村と中間町の間で神田川水利権問題発生。6・15神田川水利権問題で福岡地裁飯塚支部にて判決。6・27~7・2豪雨洪水、稲苗腐蝕し宮崎・鹿児島より苗を移入 |
一九三六 |
昭和 一一 |
9・27~10・2北九州南鮮防空演習に遠賀村も全面的に参加 |
一九三七 |
昭和 一二 |
○4新東邦炭坑、金丸鉱業鞍手炭坑を買収。○7・7蘆溝橋事件・日中戦争勃発 |
一九三八 |
昭和 一三 |
4合村一〇周年記念式挙行。5農村振興道路建設 |
一九三九 |
昭和 一四 |
3・31虫生津炭坑野上鉱業に経営移管。8旱魃、8・31寿命ネコ掛け。此年木守板堰撤去の代替施設として西川に伏越を設置し神田川の水を山田川に導水 |
一九四〇 |
昭和 一五 |
1・26佐貫耕一により鬼津炭坑開坑 |
一九四一 |
昭和 一六 |
4島門・浅木両小学校を国民学校と改称。6・25~29豪雨、役場庁舎基礎嵩上げ。○12・8太平洋戦争勃発。此年遠賀村農会役場横より現在地に移転 |
一九四二 |
昭和 一七 |
5・6古野少佐遠賀村葬 |
一九四三 |
昭和 一八 |
12島門国民学校四教室に陸軍部隊駐留。遠賀村健康保険組合設立 |
一九四四 |
昭和 一九 |
5鞍手炭坑、三菱鉱業に併合。此年河口より虫生津橋まで西川改修工事完了 |
一九四五 |
昭和 二〇 |
○8・15第二次世界大戦終戦。此年遠賀村健康保険組合解散 |
一九四六 |
昭和 二一 |
6遠賀川駅に特別待合室(RTO)開設 |
一九四七 |
昭和 二二 |
3・3占領軍用として芦屋線開通。4遠賀中学校開校、浅木校に三学級、島門校に四学級を分散設置。5遠賀中学校が県より週五日制実験校の指定を受ける。6西川改修期成会を廃し西川改修期成同盟会に改組。7・2農地改革による第一回農地買入。12遠賀川駅全面改築 |
一九四八 |
昭和 二三 |
4・20遠賀村農業協同組合設立認可、6・20同設立登記。8・14遠賀村農業会解散。9遠賀中学校第一期工事竣工。此年遠賀川郵便局・電報電話局今古賀字新川九六に移転 |
一九四九 |
昭和 二四 |
4島門小学校体育保健の県の実験校に指定。6・20~21デラ台風により西川堤防決潰。10遠賀中学校校舎第二期工事竣工。此年木守法雲寺、別府行満寺に併合 |
一九五〇 |
昭和 二五 |
2・10芦屋線一般日本人の輸送を許可。○6・25朝鮮動乱勃発。○8警察予備隊創設。10遠賀保育園設置 |
一九五一 |
昭和 二六 |
3特別鉱害復旧事業で老良・高家に排水機場を設置。7・15連続豪雨で西川の堤防が決潰、この水害で被害を受けた浅木・島門両小学校は改築に着手 |
一九五二 |
昭和 二七 |
3RTO廃止。3虫生津排水機場設置。12浅木・島門両小学校改築。此年城ノ越貝塚発掘調査 |
一九五三 |
昭和 二八 |
6・26~28記録的な豪雨により26日植木町中之江堤防決潰、全村ほとんど水没、大被害を被むる。7頃商工協同組合設立、一株五〇〇円。此年虫生津地区で鉱害復旧事業始まる |
一九五四 |
昭和 二九 |
3遠賀川郵便局舎役場横より広渡字柳田農協前に移転、電通業務を分離。此年浅木地区鉱害復旧工事始まる。12合村二五周年記念式挙行 |
一九五五 |
昭和 三〇 |
2遠賀村簡易水道浄水場完成、3・15簡易水道事業認可。3遠賀川大橋(下り線)落成。4山びこ保育園開園。5現公民館落成。10・1国勢調査一八四八世帯・一〇一一五人 |
一九五六 |
昭和 三一 |
3川西排水樋門設置。此年農山漁村振興計画特別指定地域となる。北部丘陵地区畑地灌漑施設落成稼働開始 |
一九五七 |
昭和 三二 |
此年老良地区土地改良工事始まる。青年研修所開設。4南部保育園開園 |
一九五八 |
昭和 三三 |
3遠賀中学校体育館落成。○3・9関門国道トンネル開通。○11・1中間町市制施行 |
一九五九 |
昭和 三四 |
○1・1国民健康保険法施行。○11・1国民年金法施行 |
一九六〇 |
昭和 三五 |
8遠賀静光園開園。9遠賀川駅RTO閉鎖。10・1国勢調査一八六一世带・九五〇五人。此年島津地区土地改良事業実施 |
一九六一 |
昭和 三六 |
6・1芦屋鉄道廃止、国鉄電車開通。7遠賀村商工会設立認可、事務所を三原氏宅に置く。7九州で初めて第一回航空防除実施 |
一九六二 |
昭和 三七 |
○2三菱鉱業鞍手炭坑閉山。鞍手遠賀水道組合発足、虫生津地区へ給水。12山手線道路改良工事着手 |
一九六三 |
昭和 三八 |
8島門小学校防音校舎建築着手。10遠賀川駅前信号機設置。10虫出生津団地造成始まる。○11・29三菱鉱業新入炭鉱六坑買上げ交付決定 |
一九六四 |
昭和 三九 |
4・1遠賀町制を施行、浅木・島門両村合併三五周年。4・1郡内農協が合併し遠賀郡農業協同組合発足。4・1商工会、遠賀町商工会と改称。4国土調査事業開始。8遠賀町戦没者慰霊塔落成 |
一九六五 |
昭和 四〇 |
8遠賀中学校防音校舍建築開始。10・1国勢調査一八九三世带・八五九二人。10第一回町民体育大会実施 |
一九六六 |
昭和 四一 |
2農村集団電話開設、三一七戸加入。2町道友田線開通。3有線放送施設完成。3遠賀川水系を一級河川に指定。8町北部水道布設事業開始。12遠賀町北部地区に西鉄バス折尾・海老津線開通 |
一九六七 |
昭和 四二 |
4遠賀中学校防音校舎落成。4遠賀川駅前団地造成開始。8浅木小学校防音校舎建築着工。8・5花火大会開催。9町道重広線開通 |
一九六八 |
昭和 四三 |
3西川湛水防除事業広渡排水機場完成。3町北部上水道事業開始。3県道直方・芦屋線立体交差完成。4遠賀中央幼稚園開園。5遠賀郡農事センター広渡に落成 |
一九六九 |
昭和 四四 |
3浅木小学校防音校舎落成。6・11建設省遠賀川河口堰計画の第一回説明会を芦屋で開催。8遠賀川自動電話交換局完成。10・18遠賀町商工会館落成。11・19遠賀川河口堰対策協議会発足 |
一九七〇 |
昭和 四五 |
3旧停に「ははこばし」完成。8夏まつり実施、年中行事となる。10・1国勢調査二六六七世帯・九三六八人。此年浅木地区鉱害復旧事業第二期完工 |
一九七一 |
昭和 四六 |
3河口堰設置後の影響調査実施。3鬼津地区学習等供用施設落成。4・1遠賀郡消防組合設立。4高家地区排水機場完成。4遠賀農芸高等学校八幡区則松より遠賀町上別府に移転。4・23花の木堰大改修着工。5水道事業中間市に併合。5若松鬼津より独立、大字若松となる。5国道三号線遠賀バイパス工事開始。6花園排水ポンプ場設置。6遠賀郡農協本所庁舎落成 |
一九七二 |
昭和 四七 |
3尾崎地区学習等供用施設落成。3県道宮田・遠賀線立体交差完成。4・25遠賀町庁舎落成。4遠賀町町章決まる、公募五三点のうちより北九州市若松区入江通開氏の図案を採用。4・25遠賀郡消防署落成。7河口堰影響調査終了。10遠賀町を農業振興地域に指定。 |
一九七三 |
昭和 四八 |
6虫生津排水ポンプ場完成。6一市四か村火葬場天生園完成。11中牟田第一土地区画整理組合設立認可。11島津地区公民館落成。12遠賀町、都市計画用途地域に指定される |
一九七四 |
昭和 四九 |
1・21国鉄室木線専用SL姿を消す。3・30老人憩の家落成。5遠賀川郵便局移築落成。6鞍手町・遠賀町水道組合解散、中間市に移管。○6水巻町立屋敷の遠賀川河川敷で河口堰反対の農民大会。11・22町制施行十周年記念式典挙行。11・23農業祭式典挙行。12国道三号線遠賀バイパス片側二車線開通 |
一九七五 |
昭和 五〇 |
1SL機関車門司鉄道局より貸与、町内新町区に設置。○1建設省遠賀川河口堰の建設に着手。3・1浅木小学校創立百周年記念式典挙行。3若松地区学習等供用施設(地区公民館)落成。○3花ノ木堰改修工事竣工。4国道遠賀バイパス(現国道三号線)開通。4遠賀農芸高等学校を遠賀高等学校と改称。9・23遠賀中央公民館落成。10・1国勢調査二六六七世帯・一〇三三一人 |
一九七六 |
昭和 五一 |
1遠賀都市計画道路決定。3木守集会場落成。7町道芝原・江通線開通。10遠賀中央公民館民俗資料室開設。12浅木簡易郵便局開局 |
一九七七 |
昭和 五二 |
3・15遠賀町学校給食センター落成。3遠賀川保育園改築落成。4・1広渡小学校開校。11遠賀町土地開発会社設立。12・8遠賀町同和教育研究協議会発足。12遠賀川駅前にユニードマート開店 |
一九七八 |
昭和 五三 |
3南部保育園現在地に移転改築。3遠賀中央幼稚園落成。3別府集会所落成。7広渡小学校ナイター施設完成。8浅木に遠賀ショッピングタウン開店。11広渡地区学習等供用施設落成。11今古賀地区学習等供用施設落成。12・1鞍手町の一部を遠賀町に編入 |
一九七九 |
昭和 五四 |
4浅木小学校増築落成。3・30今古賀に第一武道場落成。4・1遠賀中間地域広域行政事務組合発足、事務所を遠賀町役場庁舎内に置く。4西町町営住宅落成。4道官集会所落成。4蓮角土地区画整理組合設立。6・23町営遠賀霊園オープン |
一九八〇 |
昭和 五五 |
3遠賀中学校校舎増築落成。3遠賀川河口堰本体工事完成。3木守地区学習等供用施設落成。4老人ホーム遠賀静光園移転改築。4広渡曲手排水機場完成。4前川排水機場完成。5・13遠賀町青少年育成町民会議発足。10・1国勢調査三八二三世带・一四一八八人。此年地域相研究会島津丸山古墳測量調査 |
一九八一 |
昭和 五六 |
2今古賀土地区画整理組合設立認可。3島門小学校校舎増築落成。3旧浅木小学校体育館を第二武道場に改変開設。3神田川護岸改修工事完成。6中間市水道尾倉(上別府)配水池完成。7・10遠賀勤労者体育センター竣工。此年尾崎高山池瓦窯跡発見 |
一九八二 |
昭和 五七 |
3老良区公民館落成。3島津排水機場完成。4遠賀総合運動公園グラウンド整備着手。7・1電話北九州市外局番統一化。7・10遠賀川架橋御牧大橋完成、県道北九州―芦屋―福間線開通。10・1島津地区で芦屋町と境界変更。此年上別府波打古墳二基・石蓋土壙墓一基調査 |
一九八三 |
昭和 五八 |
3・13旧停島田橋完成。5・18遠賀町商工会館新築落成。5馬頭岳ハイキングコース完成。8・21第一回子供まつり開催。10第一期ボランティアスクール開講 |
一九八四 |
昭和 五九 |
1・1浅木楠渕地区で中間市と境界変更。2遠賀総合運動公園グラウンドオープン。3浅木区公民館落成。3遠賀総合運動公園ナイター施設完成。4遠賀南中学校新設開校。5豊かな心を育てる施策推進町として文部省から指定を受ける。8・26町制二〇周年記念式典を行い、町民憲章を制定。町民音頭・町歌発表。第一回水上カーニバルいかだ競争開催。10・15総合運動公園にテニスコート六面オープン。10・31遠賀町弓道場落成。12・27東和苑区公民館落成 |
一九八五 |
昭和 六〇 |
3・27遠賀川駅前自転車駐輪場完成。3・31国鉄室木線廃止。4国鉄遠賀川駅手小荷物取扱廃止。4・2新町区公民館落成。6・3中央区公民館落成。8・7馬頭岳ハイキングコース展望台完成。10・1国勢調査四四二三世帯・一五九九四人。10・23社会福祉法人遠賀町社会福祉協議会発足。11・25花園橋完成、儀王・花園線開通。 |
一九八六 |
昭和 六一 |
10・1国勢調査四四二三世帯・一五九九四人。10・23社会福祉法人遠賀町社会福祉協議会発足。11・25花園橋完成、儀王・花園線開通。1・21前川排水路事業竣工。3吉原川サイフォン工事完成。3島門サイフォン工事完成。3・22福岡県植樹祭遠賀町町民の森(総合運動公図)で開催。3遠賀川駅前広場バス発着場完成。3遠賀コミュニティセンター竣工。6遠賀川漕艇場竣工予定 |
備考1、本文記載事項は典拠不記。
2、本文に記載されていない事項には典拠を示す。
3、現代の事項は典拠を省略している。
4、明治六年以前の西暦は便宜上、年号の年初が属する年を掲げている。
番号 |
文書又は書名 |
略所在地又は著編者 |
番号 |
文書又は書名 |
略所在地又は著編者 |
1 |
有吉文書 |
北九州市八幡西区 |
18 |
惣社宮文書 |
中間市 |
2 |
井口文書「年暦算」 |
遠賀町 |
19 |
仰木寿作控 |
所在不明、コピー |
3 |
小野(邦)文書 |
遠賀町 |
20 |
山田川水利組合文書 |
中間市 |
4 |
小野(勝)文書 |
遠賀町 |
21 |
仰木文書 |
福岡市 |
5 |
小林文書 |
遠賀町 |
22 |
佐藤文書 |
八幡西区 |
6 |
土師文書 |
遠賀町 |
23 |
杉野文書 |
八幡西区 |
7 |
一田文書 |
八幡西区 |
24 |
田代文書 |
八幡西区 |
8 |
柴田文書 |
遠賀町 |
25 |
大和文書 |
八幡西区 |
9 |
中野文書 |
遠賀町 |
26 |
宇都宮文書 |
八幡西区 |
10 |
浜崎文書 |
遠賀町 |
27 |
末松(俊)文書 |
八幡西区 |
11 |
占部文書 |
遠賀町 |
28 |
末松(九)文書 |
八幡西区 |
12 |
矢野文書 |
宗像市 |
29 |
中野文書 |
宗像市松崎文庫 |
13 |
門司文書 |
遠賀町 |
30 |
嶺文書 |
松崎文庫 |
14 |
木守区文書 |
遠賀町 |
31 |
吉田文書 |
岡垣町 |
15 |
土師文書 |
中間市 |
32 |
刀根文書 |
岡垣町 |
16 |
岡郡宗社志 |
松本久蔭(九州大学) |
33 |
秋武文書 |
岡垣町 |
17 |
有田文書 |
水巻町 |
34 |
高崎文書 |
北九州市若松区 |
番号 |
文書又は書名 |
略所在地又は著編者 |
番号 |
文書又は書名 |
略所在地又は著編者 |
35 |
船津文書 |
水巻町 |
53 |
松本集録 |
松本久蔭 |
36 |
松尾文書 |
八幡西区 |
54 |
古田文書 |
福岡市 |
37 |
高木文書 |
福岡市 |
55 |
菊池六朔日記 |
八幡西区 |
38 |
小林文書 |
中間市 |
56 |
小田文書 |
松崎文庫 |
39 |
太田文書 |
福岡県立図書館 |
57 |
早良郡誌 |
早良郡役所 |
40 |
秋子文書 |
福岡市 |
58 |
筑豊沿海誌 |
筑豊水産組合 |
41 |
福岡県史資料1-10 |
福岡県 |
59 |
鞍手町誌 |
鞍手町 |
42 |
福岡県史資料叢書1-10 |
福岡県 |
60 |
直方市史補巻 |
直方市 |
43 |
福岡県史近世初期史料編 |
福岡県 |
61 |
済民草書 |
内野荘 |
44 |
福岡県史第2巻 |
福岡県 |
62 |
増補改訂遠賀郡誌 |
同書刊行会 |
45 |
福岡県史第3巻 |
福岡県 |
63 |
筑紫遺愛集 |
伊藤道保 |
46 |
筑豊石炭砿業史年表 |
同書編纂委員会 |
64 |
鞍手郡誌 |
鞍手郡教育会 |
47 |
筑前国続風土記 |
福岡県資料続第4輯 |
65 |
行満寺過去帳 |
遠賀町 |
48 |
筑前国続風土記附録 |
福岡県古文書を読む会 |
66 |
福岡県農地改革史 |
福岡県農政部農地課 |
49 |
筑前国続風土記拾遺 |
同書刊行会複製本 |
67 |
遠賀村誌 |
和田泰光 |
50 |
福岡三藩分限帳 |
福岡地方史談話会 |
68 |
福岡県碑史 |
荒井周夫 |
51 |
御年貢納方 |
甘木市図書館 |
69 |
学制百年史 |
文部省 |
52 |
田圃志 |
福岡大学 |
70 |
岩波講座日本歴史 |
岩波書店 |
番号 |
文書又は書名 |
略所在地又は著編者 |
番号 |
文書又は書名 |
略所在地又は著編者 |
71 |
福岡県の歴史 |
文画堂 |
88 |
白石文書 |
遠賀町 |
72 |
中原嘉左右日記 |
米津三郎 |
89 |
鬼津区文書 |
遠賀町 |
73 |
世界農業センサス福岡県統計書 |
農林省統計調査部 |
90 |
島津区文書 |
遠賀町 |
74 |
遠賀川改修工事概要 |
建設省九州地方建設局遠賀川工事事務所 |
91 |
伊豆神社明細帳 |
遠賀町 |
75 |
遠賀川の概要 |
〃 |
92 |
東路日記 |
小田宅子 |
76 |
太宰管内志 |
伊藤常足 |
93 |
添田寿一君小伝 |
広渡四郎 |
77 |
浅木村役場文書 |
遠賀町 |
94 |
想い出 |
嶺 乾一 |
78 |
島門村役場文書 |
遠賀町 |
95 |
日本農耕社会の形成 |
杉原荘介 |
79 |
遠賀町役場文書 |
遠賀町 |
96 |
庚申信仰の研究 |
窪 徳忠 |
80 |
古月村役場文書 |
鞍手町 |
97 |
屋敷神の研究 |
直江広治 |
81 |
遠賀村農業の姿 |
遠賀村役場 |
98 |
日本生活変遷史 |
日本風俗史研究会 |
82 |
長岸寺文書 |
遠賀町 |
99 |
民間信仰・絵馬 |
山崎義洋、岩井宏実 |
83 |
高家上野文書 |
遠賀町 |
100 |
日本の赤米 |
嵐 嘉一 |
84 |
筑前芦屋駅沿革史 |
|
101 |
日本の古代米 |
佐藤敏也 |
85 |
遠賀西国三十三ケ所御詠歌集 |
|
102 |
遠賀川 |
杉原荘介 |
86 |
芳賀文書 |
遠賀町 |
103 |
遠賀郡の実態 |
遠賀農業振興連絡協議会 |
87 |
古野文書 |
遠賀町 |
104 |
福岡県の民家 |
太田静六 |
番号 |
文書又は書名 |
略所在地又は著編者 |
番号 |
文書又は書名 |
略所在地又は著編者 |
105 |
麻生文書 |
九州大学九州文化史研究所九州史料刊行会 |
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(遠賀町)矢野智・小野邦雄・小野敏行・小野勝・井口絹子・秦一利・信行雪鴻・浜崎ナス・高崎博愛・旗生良徳・内藤哲也・占部進・永田トクノ・柴田隆助・上野ナミ・長崎真叡・古野繁樹・門司成重・芳賀喬一・有吉寿・有吉正・仲野丈・木村盛夫・土師晋・中原厥・小川泰・小林義明・高崎清子・添田仁親・柴田貫蔵・原田統之介・吉永定孝・原田芳之助・今橋由助・三村威・水口孝行・豊沢朋次
(遠賀町外)田中幸夫<田主丸町>・松崎武俊・矢野春雄<宗像市>・木村俊隆<福間町>・工藤久<中間市>・有吉日出夫・森士郷・中村修身<北九州市>・上野英信<鞍手町>・福崎隆亮<岡垣町>・岡直文<水巻町>・仰木晤郎<福岡市>
(諸機関)建設省九州地方建設局遠賀川工事事務所・遠賀中間広域行政事務組合・航空自衛隊芦屋基地・国鉄遠賀川駅・遠賀川郵便局・岡垣町史編纂室・中間市史編纂室・遠賀郡農業協同組合
当初、遠賀町誌の近世編の執筆予定者が中途で辞退されたため、急遽その代わりを担当することになり、近世編、就中、藩政時代のみを担当・執筆する筈であったが、一次原稿の段階で、適任でないにも拘らず、編集と監修の大任を依頼され、最後まで関係することになってしまった。
一次原稿の段階までは、遠賀町教育委員会の中に町誌編纂室が設けられ、資料収集や執筆に当っていたが、一次原稿成立後は解散状態であったため、編集室を自宅に移して、担当することになった。
一次原稿は昭和五十六年までを対象にして記述されていたので、昭和六十年度までを補填することより始め、その間に改訂・補充・改稿を進め、統一を計らざるを得なかった。第一編は新しく書き直している。従って、その部分に関する文章上の責任は編者にある。凡例に示している通り、三・四・五編は提出原稿をそのまま使用している。七・八編も略提出原稿のままである。
遠賀町誌には資料編が附されない。そのため、町内に存在する遠賀町関係の資料は、できるだけ多く原文のまま採録したかったが果し得ていない。時間と紙幅の都合もあるが、「読み易い町誌」と「遠賀町の記録としての町誌」の奈辺に主点を置くかの問題もあり、それを模索しつつも、結果的には、後者の傾向が強く、しかも網羅的でないので、いわゆる郷土史的興味は満たし得てはいないかもしれない。町誌としては、当用漢字、ないしは、常用漢字以外には読みがなを付すべきであるが、若干の初出に付したにとどまり、不統一に終っている。資料は資料集等よりの引用以外には書き下していない。遠賀町としての主要な資料の紹介の目的もある。それでも多くは採録することができず、大半は部分的引用にとどまっている。引用文献と同様に、何等かの方法で、典拠を示めしているので、必要な場合は併せて参照戴ければ幸甚である。
妥協を余儀なくされた点もなくはない。その上、資料の存在を確認していながら、諸般の事情より利用し得なかったものもあり、逆に、必要であるにも拘らず、未調査のものもある。遠賀町は位置的に、過去に水害が多く、必ずしも多くの資史料が残っているとはいえない。判明分については誠に残念ではある。
茶道の千宗旦は「千人に讃められんよりも、数寄者一人に笑はれん事を恥ずべし」と言ったという。そうあり度いと願ってはいたが、能力を超えたことであり、理想に過ぎない。孫引きを排し、できる限り原本主義を取っているが照合が間に合わなかったものもある。殊に行政関係の資料にその傾向が強く、教育委員会の室井氏が窓口となって努力して戴いたにも拘らず、庁内に事務局や編纂室が置かれていない弱点を、表面的には判明しないが、含有している。編者の非力・菲才の露呈でもある。
昭和六十年七月七日に第三編・第四編・第五編を入稿して以来、編ごとに入稿する結果になり、印刷の第一法規出版へは一方ならぬ迷惑をかけ、とりわけ、九州支社の山川和雄・荒井彰・関義明の三氏には大変ご心労と厄介をかけた。厚く御礼申し上げます。
協力者名簿や参考資料に示めすように、遠賀町誌の準備以来、多くの方々の協力を戴いている。貴重な資料の提供も快くして戴いた。資料を提供して戴いたが、採録しなかったものも少くない。協力戴いた方々に深く感謝申し上げます。
昭和六十一年三月
能美安男識