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遠賀町誌 第二編 水に生きる 第四章 西川

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第二編 水に生きる 第四章 西川 [PDFファイル/4.58MB]


第一節 藩政時代の西川

一 河道の変遷

 西川は鞍手郡鞍手町室木に源を発し、鞍手町を南から北に流れ、遠賀町内で戸切川、前川、吉原川などを集めて芦屋町の祇園崎で遠賀川の河口に注いでいる。流路は一八・一キロメートルにすぎないが、流域で農耕がはじめられて以来、流域の排水・水運・灌漑に利用され、沿岸の生活、産業に特に関係の深い川である。

 江戸時代初期の西川流域は、遠賀川の項で述べたように、遠賀川の本流が蛇行して流れており、雨期には上流よりの莫大な流水で、氾濫を繰り返す洪水の多発地帯であった。黒田長政によって始められた改修工事で寛永五年(一六二八)には遠賀川の本流が垣生と広渡の間は現在の河道に改められた。これにより西川を流れる水量は大幅に減ったと思われる。沿岸は葦や菰が生えた排水の悪い低地が多く、開拓(農耕地の造成)には西川の水吐を良くすることが最大の課題であった。

 西川は元禄の頃には島津川とも呼ばれ、「筑前国続風土記」には「島津川鞍手郡新延村、中山村二筋の川、及木屋瀬川、小牧村より西に派分れ、末は島津村に出、芦屋に至海に入る。島津村辺にて広さ廿間、深さ三尺五寸。陸渡りす。」と書かれている。この時はまだ小牧村から、西に分かれて西川に注いでいた木屋瀬川(遠賀川)の旧河道が残っている。そのことは「元禄十四年筑前図」でその詳細を知ることができる。この川は白水道と呼ばれ、当時は洪水のときの遠賀川の水吐川であったが、その後下流の治水工事が行なわれて遠賀川の水吐が良くなり、延享年間には分水口が塞がれ、その後川も埋められた。白水道のことは「福岡藩民政誌略(41‐1)」に「此遠賀川は昔は幅百間或は八十間より狭からず。洲沙稀にして、流水滞らず。且川西上木月村に、白水道と称する支流を開き、洪水には水を分ち、其下流は芦屋の祇園崎にて、本水と合せしに、寛文中川東楠橋、下大隈二村の地に、幅三十間、長五百三十間の渠を鑿ち、本支二流となし、延享中彼白水道を塞ぎしに、東の支水本水と合ひて、一流となれり」と書かれている。

元禄14年筑前図常貞に残る旧河川の堤防

 「元禄十四年筑前図」の西川は、下底井野村より下流は二股川となっており、この状態はその後も永く続き、江戸時代後期に書かれた「筑前国風土記拾遺」「木守村」の項に、「西川、鞍手郡室木・長谷の溪水、古門・木月等を経て当郡に入、虫生津村と下底井野村との間を流て大曲より水派東西に分れ、東流を千間川(新川とも云)、西流を西川(又古川とも云)と云。是むかしの大川也。昔は大曲の辺より本村の南を流れて西に轉して北に流しか、近代其上流別府村の内花園の前より田間を堀て直に北に流す」とあり、「廣渡村」の項にも「昔立屋敷村・今古賀村も當村の内也。後に別村となれり。立屋敷村と當村はしめハ一続きの地なりしに、寛永年中に遠賀川堀替ありて當村の間に通せり。今の本川筋是なり(中略)此村境内に川五筋有。東遠賀川、西に井地川(此水上ハ硲川□(古カ)門川ニ流也)観音免川・木唐戸川、其西に千間川(新川とも)、井地川以下の四流末ハ一になりて芳原川といふ(嶋津村にての名也)(中略)。千間川ハ西の方今古賀村に境ふ、是木守村大曲川の東派にて、下ハ嶋津村に至る。芳原川ハ底井野より村西に流れて嶋津村に至る大川、西川といふ是也」と説明している。時代と地区により呼称を異にしている。

 西川は流域の新田開発が行なわれ、それに伴って排水改善のための改修工事が繰返し行なわれた。

 天明五年(一七八五)鞍手地区の排水を良くするため、千間川の拡幅が行なわれた。この普請について「岡郡宗社志」は「同(天明)五年春、鞍手郡水引御普請として木守村より下、千間川御廣メ(以前宝暦年中ニモ一度川廣アリ。是よりして一名新川ト云。以後通船仕候。)ニ付、鞍手郡より出夫夥敷、三月廿六日より廿八日迄三日之間別て出夫多ク、四千人程ニて御普請被仰付」と記している。

 下流も遠賀川との合流地点で西川が急に曲っており、水吐が悪く、被害を受け易い若松・鬼津・尾崎地区の排水改善のため、文化五年(一八〇八)西川を遠賀川の河口近くまで延長する工事が行なわれた。この開削工事については「筑前国続風土記拾遺」は「新川文化五年はしめて堀たり。是洪水の時若松、鬼津、尾崎等の田畠澇水に浸りて数日干ることなし。仍て此地に新川を堀りて直に芦屋の海に達せしむ。島津村の西川尻所江と云所より当村(芦屋村)寺中町の東に至る。其間長三百三拾間巾拾弐間なりしかとも、此地白砂土なれは川岸流水に崩れて年ゝ巾広くなり、今は十八九間弐拾間許ニ至る」と述べている。「年暦算」にも「文化五戊辰」の条に、「二月十日頃芦屋浜口より寺中町迄の間、新川堀通し御普請、凡夫数壹万人夫髙之由、頃日珍らしき日和也」とあり、当時の河川普請は、農民にとって、大変な負担であったことが窺える。

 同じ文化五年に、上流鞍手地区の水吐を良くするため、元禄十四年筑前図で見られる今の木守橋近くから西に大きく曲っていた古川の一部を、花園から直線で流れる川に掘替えた。そのことは「筑前国続風土記拾遺」木守村の項に「昔は大曲の辺より本村の南を流れて西に転して北に流しが、近代其上流別府村の内花園の前より田間を堀て直に北に流す故に本編に川の形大に曲れりといへる所は今は埋りて田となり其跡のみ残れり」と記している。このとき西川の河道を堀替えたあとの取り扱について、郡奉行永田伊左衛門より藩に伺い出た文書の控が木守区に伝わっている。この文書で当時の川の規模などを知ることができる。

永田伊左衛門奉仕覚

永田伊左衛門奉伺覚
一遠賀郡西川水吐不宜候ニ付、去年奉伺候通、古川筋堀直メ・浚方等仕遂候普請惣成就ニ相成申候。然ル處、別府村抱下ニ大曲与之所御座候て水行不宜候ニ付、川長弐百八拾壹間餘、幅八間、両岸弐間之新川、別府村古田畠之内ニて堀直メ、大曲リ古川之方長弐百三拾五間、横拾間無用ニ相成候ニ付、埋上ケ、苗指為仕可申、追ゝ遂詮議候處、古代之川床ニて何村抱と申義難相決御座候。尤別府村・木守村両村抱二續居申候間、此両村再應吟味仕候得とも、両村より申出候事ゝ不分明、難取上御坐候。右ニ附、御免帳其外旧記・諸帳面等相調子見申候得共、いつれ之村抱と申義、曽て相分り不申候。御國續風土記、木守村始メハ大曲りと唱、此邊都て溜ニて有之候を、長政公御代御開立被仰付、枝村ニ大曲と申所有之、川之形り大ニ曲り候故、大曲りと唱候訳ケ相見申候。風土記ニ寄相考申候得は、木守村抱ニ可相決哉共被存候得共、右西川は木守村御開發以前より之川所ニて、古代之水吐川と相聞、慶長年中以後之村居ニ候得は、古川床ニ掛り申立候次第有御座間敷奉存候。若又慶長以後西川出来仕候は、木守村田畠之内二川床御徳引可有御座候得とも、左様之費地も相見不申候。別府村之義は古田畠之内三町程永川成御徳引有之候。乍然是迚も西川床と申義は相分り不申候、旁以何れ之村抱と申義何分決定難仕御座候。尤此節堀直メ申候新川床別府村田畠新ニ費居申候ニ付、代地ニ相渡候得は不相済義共と存候得共、根元別府抱地と申義も不分明ニ候得は、是以難取斗御座候。彼是右古川床別府・木守両村へ方角切地所當分ニ分ケ相渡候様仕度奉存候。右ニ付、起立地所居合ニ相成候上ハ新壹作ニして御物成帳ニ加え、反別米上納為仕、當時ハ秋反別ニて御所務ニ相成候様可仕候。此段御聞置可被為下候。
一右大曲古川床、此節起地ニ相成候分、埋上ケ、田壹作ニ仕立度段、鞍手郡新延・古門・中山・木月・新北・上木月・猪倉・小牧・植木九ヶ村□(より)相願申候。此九ケ村西川之川上ニ村居有之、村ニ寄候てハ田畠共ニ西川添ニ多分有之、此川水吐不宜候てハ年ゝ損毛強御座候ニ付、右大曲リ堀直メハ九ケ村ニ掛り申候普請ニ御座候間、別府村田畠堀直メ申候新川床御年貢米・大豆、井田畠抱主作徳共四拾三俵余九ケ村より年ゝ別府村へ相弁候筈ニ御坐候。根元九ケ村水難を遁レ申候普請ニ附、右之米・大豆相弁候義ハ九ケ村承知之前ニ御座候。乍然、際限も無御座弁ニ付、古川起立之上、相應之反別米上納仕、其余作徳之分を以別府村之弁米・大豆之内相償、尚又新川堀上ケ土置所費弁も古川埋土ニ相用、其跡起立申候得は、彼是弁方余程相甘キ可申奉存候。其上、別府・木守両村へ起立申付候てハ、急ニ苗指相成候様博取申間敷候。九ケ村へ受持候ハゝ、村中ニ掛り候事ニ付、明年よりも苗指出来可仕、乍聊御所務ニ相成候事ニも御座候間、別府・木守両村ハ古川起地を當分ニ受持申迄ニて、開立は九ケ村へ可申付奉存候。御聞通被為下候は早ゝ普請申付、成就之上畝数相改書可申候。右之趣奉伺候事。
巳七月

二 灌漑と水運

 西川は昔から上流地方の水吐川であるとともに、稲作の生命線である灌漑用水としても活用されていた。遠賀町は河口に近く平坦地が多いため、西川の水を灌漑に利用するには、海水の逆流を防ぎ、水を貯めるための井堰や、水を田に導く圦樋、水門、水路が必要であった。これらの利水設備は開拓と並行して建設され、耕地の拡張に従い、井堰なども改造され、大型化していったと考えられる。

 西川の井堰は、はじめいつ頃造られたかわからないが、文政四年(一八二一)の「鬼津村明細帳(10)」には千間川と西川の板井手で、流域の水田約二七〇町歩の灌漑に利用されたことが左の通り記されている。その頃すでに大掛りな堰や水路が完成していたことがうかがわれる。

西川板井手壱ケ所 長拾間打流弐間半
凡古田二百六拾三町余養、鬼津・若松・小鳥掛・尾崎・別府・今古賀・広渡七ヶ村催合

 大庄屋仰木寿作の控帳(19)にも、左記の通り記されており、西川と千間川が二股川で、当時(天保十一年頃)から西川井手と千間川井手が併用されていたことを示している。

千間川板井手水下割
一田数弐百七十九町
内六拾四町
五拾町 別府村
五拾町 尾崎村
弐拾壱町 小烏掛村
五拾町 鬼津村
四拾壱町 若松村
九町 廣渡村ノ内松ノ元
四拾三町 今古賀村
拾五町 木守村

鬼津板井手水下割ハ千間川板井手水下田数ニ同シ

 諸普請にかかる出夫割や水下割銭は右の田数に比例して配分される。文政十年(一八二七)四月十五日より五月十三日にかけて、鬼津村抱の板井手(長拾壱間・打流四間)を惣仕替した際には、工事に三六一三人七歩五厘の出夫をしている。その内、二九二四人八歩四厘は郡夫に立てられたが、六八八人九歩一厘は「水下出捨り」、つまり労働奉仕である。六八八人余を水下田数二六四町歩で割ると、一町歩につき二六人一歩に当たる。それを前記の田数に掛ければ出夫数となる。材木出夫も二三一九人七歩を要しており、その内、六九五人九歩一厘が郡夫、一六二三人七歩九厘が水下夫で賄われている。普請中の雑用として丁銭一〇〇貫六四六文を要した。それを水下田数二六四町歩で割ると一町歩につき三八二文宛となる。この普請では木守村は除かれている。木守村は千間川板井手(長拾壱間・打流四間)を抱えているためであろう。木守村は「板井手掛村ゝ田数割」に加えられたり、除かれたりしている。安政六年(一八五九)の場合は「鞍手より除ケ願出候ニ付、木守村ハ又除ケ候得共、水下割銭ハ出財二相極ル」とされている(38)。

 川や井手の維持・保繕・管理については、他の場合も同様に田数に比例した歩割(歩取)がなされている。藩政期のものについては第V-11表に概略示している。

 西川はまた年貢や雑貨などを運ぶための重要な水路でもあった。年貢を納めるときは、村の蔵入れ、津出し、船の上乗り、村役の出方などをこまかく定めた納方仕法に従わねばならなかった。津出しの船場も村ごとに定められていた。天明七年(一七八七)の「御年貢納方(51)」より遠賀町関係の村を拾うと第V-32表の通りである。村蔵(蔵元)より積場までの岡出し(津出)は歩行出しで行われる。その距離は村により異なるが、広渡村町、老良村二町、木守村一町余、鬼津村四町、若松村四町、虫生津村一町余といずれも遠い距離ではない。貢米積の川船(米場艜)の入る川が近くにあることを意味する。

 川艜の運賃については「文政五年小鳥掛村の明細帳(10)」に「御年貢若松迄川艜運賃米壹俵ニ付六合二勺充」とあり、「文政四年鬼津村明細帳(10)」には「御年貢諸上納若松御積立所江上納仕。但し、積場若松村前川迄陸出、道法三歩、同村より船中五里、運賃壹俵ニ付六合壱勺七才宛」と記されている。

三 川浚え

 西川、千間川は流れが緩やかで、流砂によって川の中央や、周辺に砂丘ができ易く、そこには菰や葭が繁殖し、水中には藻の発育も盛んで、それが通水を防げ、洪水の原因となる。川艜の運行にもさしつかえるため、川浚えや藻切は毎年欠かせなかったが、大変骨の折れる仕事であった。そのため西川に関係ある村々には、昔から千間川、西川筋の川浚、諸普請の出役割や、費用の分担割がきめられていた。

 触状写や改替帳によれば、西川は鞍手地区から下流の別府村字木垂まで、千間川は広渡村字六十歩近くまで小牧村・猪倉村・上木月村・新北村が担当していて、その丁場割は何年かごとに割り変えが行なわれていた。

 西川定格浚は別府村柵ミより上流、及び、千間川の合計四六〇〇間は鞍手郡の木月・新延・古門・中山・小牧・新北・植木・上木月・猪倉の各村が担当する。別府村抱柵より鬼津板井手までの七九八間は遠賀郡の担当で、郡夫一〇八人が当てられている(19)。西川尻の大浚は、嘉永二年(一八四九)の場合、遠賀・鞍手両郡催合にて出夫割方が行われており、歩合は田数割で定められている(38)。

明治初期の西川絵図

第二節 明治以降の西川

一 明治時代の水利組合

 明治初期の四川の運営は、旧来の慣行に従って行なわれていたが、明治二十二年には町村合併が行なわれて諸制度も変更された。それに伴い、明治二十六年四月、遠賀、鞍手両郡で西川に関して協定が行なわれた。この協定は江戸時代の西川丁場割、定夫割などの慣行を、合併した新らしい村に引継ぎ、遠賀郡と鞍手郡の分担を明確にしたものである。

西川に関する遠鞍協定書抄
西川全線に係る将来浚渫及所属工事を規定する為め左の条項を議定す。
一、西川線中施行し来りたる定格浚及定期藻浚は慣行に依り其郡々て負担する事
一、島門村大字鬼津字鶴の前幹支落合より芦屋末流に至る干寄及所属工事は旧例により三分ノ二遠賀郡三分ノ一鞍手郡の負担とす。
但し遠賀郡関係村負担は旧例の歩割を新村にて負担する事。
一、該川路中定格浚は春季一回(五月一日より同月六日まで)施行し、干寄浚は三ケ年毎に春季(四月中)に実施する事。
一、旧慣により定期藻浚は夏季二回(七月八月)施行す、藻立の都合に依り臨時浚をなす事。
一、該川上流西川村大字新延字小柳より下流芦屋河口迄の全線工事ケ所及支川支流を詳記する実測図を製し将来の紛議を生せざる証佐に保存する事。
但目下土木改正の参考に要する図面は、十六年中調製したる分を謄写し代用する事。
一、該川監守人は両郡各一名を設置し年手当等は該郡の負担とす。
一、千間川西川尻共に従来浚渫の旧例詳ならず仍て今後千間川尻落合迄は鞍手郡、浚方を負担し西川尻落合迄は遠賀郡関係村より郡長へ請求して浚渫を為さしむる事。

 此の協定書は浅木、島門、西川、古月、剣、植木、底井野の各村長と人民惣代が署名捺印している。

 翌明治二十七年四月には、西川だけでなく、山田川、花の木堰等を総合した取り決めが、遠賀郡全町村組合と鞍手郡全町村組合で結ばれた。この契約書には両組合連帯土木の個所と、経費分担を定めた土木軸帳も附属している。その概要は次の通りである。

一、西川は遠賀郡が主担で同郡組合長が管理する。但し島門村大字鬼津の数川落合より上流の浚渫工事は鞍手郡が主担で同郡組合長が管理する。
一、用水使用の区域及配水通水停止等に関する方法は、すべて従来の慣行による。
一、新築増築または変更を要する工事は両組合長の協議に因り各組合会の決議を経て施行するなどが定めてある。

 此の契約書は遠賀郡長中里丈太郎、鞍手郡長龍岡篤敬両郡長の外に鞍手郡三名、遠賀郡二名の交渉員の署名捺印が見られ、遠賀郡は古野矢八郎、金子勝太郎両氏の名がある。

 山田川水利組合所蔵の「西川関係軸帳」には「浚渫之部」として次のことが記されている。

一、西川長凡五千四百七拾四間
 鞍手郡古月村大字木月西川村境より遠賀郡島門村大字鬼津の数川落合まで、及同支川浅木村大字別府字蓮角より島門村大字別府字竹ケ鼻まで鞍手郡の負担。
一、西川長凡千三百七拾五間。
 遠賀郡島門村大字別府宇木垂より同村大字鬼津の数川落合まで遠賀郡の負担。
一、西川長凡千百九拾六間。
 遠賀郡島門村大字鬼津の数川落合より同郡芦屋町字所江まで、及支川新川より同町字東町まで、右工事に関する費用負担如左。
 三分ノ二遠賀郡
 三分ノ一鞍手郡

明治26年西川に関する遠鞍協定書遠賀郡全町村組合、鞍手郡全町村組合契約書

二 西川の水運

 前節に述べたように西川は江戸時代には年貢や雑貨を船で運ぶための重要な水路であった。明治時代になり上流に炭坑が開発され、出炭量も明治二十年代になって急速に増加した。それに伴い、西川を下って若松や芦屋に石炭を運ぶ川艜も増加する。

 明治十九年一月に、遠賀・鞍手・嘉麻・穂波・田川の筑豊五郡川艜乗同業聯合組合が発足し、一月末には川艜同業組合聯合、二十一年には筑豊艜業組合と改組されて行く中で、遠賀郡西川方面川艜もそれに加盟。当初は植木方面の組に所属していたが、明治二十三年三月には「西川村二於テハ近来艜非常二増加シ(6)」、同年七月には「西川筋ハ三間・四間ノ艜合算シ、艜数凡百六十余艘ノ多額二昇」ったため、西川方面の一方面が設けられ、植木方面より分離する(6)。明治二十二年までは江川にのみ付けられていた艜業組合としての浚泥費が西川にも予算化され、年間八〇円が計上されてくる(6)。

 明治八年頃の遠賀郡の川艜は「福岡県地理全誌」によれば一五四隻(芦屋一〇六隻、芦屋浦七隻、木守四隻、楠橋二隻など)であった。その後急に増加して西川筋だけで、明治二十三年二七三隻、明治三十三年三二八隻となり(60)、明治四十年頃の状況は「遠賀郡誌」の航路一覧表に「室木川(西川)、自鞍手郡西川村新地、至芦屋町祇園崎、距離四里、炭坑の重要水路なり、三百五十隻の大小艜常に往来せり、浅木村木守以上は小艜以下は大艜とす」と記載されている。当時石炭は馬車や車力で川岸の積場に運ばれ、そこから艜で西川を下っていた。

 用水期には木守板井手が閉ざされていて、その期間は小型の上船で木守まで運び満潮時に芦屋から上って来る大型の下船に積替えられていた。

 堰に大切な養水を頼っていた水下の村々にとって堰を境に舟を止めて、取水口附近で大量の石炭の積替が行なわれることは、大変気掛りなことであった。その取締りを目的として、次の定約書が交されていた(5)。

定約証
一西川筋木守邨字浮洲板洗堰両側地所及石炭米穀積越ノ儀水下村々人民ニ代リ左ニ連署ノ人名后後該堰枠修繕迄左ノ通決約候事。
第一條
石炭積越料ハ是迄ノ通炭数壱万斥ニ付金五銭ヲ井手越受持人有吉又三郎・小林謙三郎ヨリ受取、八月・十二月両度エ水下村々総代及有吉又三郎・小林謙三郎立会ノ上左割ノ通配当スルモノトス。
金高 弐歩 水下村々
〃〃 四歩 今古賀村
〃〃 四歩 木守村地主小林謙三郎
下底井野地主有吉又三郎
第二條
石炭惣斥数ヲ見ルハ坑主仕切通、幷ニ勘場帳ヲ以計算スルモノトス。
第三條
上舟板堰エ到着ノ節今古賀村水路口ニテ石炭悪水ヲ汲出シ、又ハ船ヲ掃除シ其他水路ヲ閉塞シ、養水流通ヲ妨ルト見認ムル時ハ小林謙三郎・有吉又三郎幾重共其責ヲ受ベキモノトス。尤両人二於テハ其妨害防ギノ方法勝手可為モノトス
但シ水路口ニテ壱艘交代二テ積越スルハ此限ニ非ズ
第四條
堰枠左右木守村小林謙三郎・有吉又三郎所有地凡七畝歩水下ニ貸渡ニ付、洪水旱魃等ノ時右堰ニ係り土ヲ堀取時ハ木守村戸長及地主エ引合、板堰且積越ノ差障ニ相成サル様注意シ該土堀取モノトス
但非常ノ節ハ此限ニ非ズ。
第五條
分秋後耕地養水肝要ノ時ハ板洗堰ヨリ凡壱間川上ニ船除ケノ標柱ヲ建込ミ侯ニ付、其杭内ニ入舟致候得ハ塗土洗落チ、堰板目ニ漏水ヲ生シ候ニ付、右杭内ニ猥ニ入舟不致様有吉又三郎・小林謙三郎両人ヨリ屹度見ケ〆可仕候。万一此件定約ニ違イ板堰破損ヲ生シ候歟、塗土ヲ落シ候得ハ右両人ヨリ自費出財シテ旧ノ如ク仕戻シ可致候事
第六條
板堰両側前件記載ノ水下該地弁米ノ儀ハ水下村々総代幷ニ地主村役人ト実地検査ノ上不日定約スルモノトス。
第七條
此約定書三本ヲ製シ、一本ハ水下五ケ村エ所有シ、一本ハ今古賀村エ所有シ、一本ハ有吉又三郎・小林謙三郎両人手元エ所有スルモノトス
第八條
此定約書取結ヒ候上ハ無違背屹度履行可致候。若此定約ヲ違背候者ハ其者ヨリ名義金トシテ五拾円出財為致、定約書連名歩割ノ通割当リ受引可申候事。
右之通此節立会協議之上相定候処相違無之候為後日定約書如件。
明治十三年四月十八日
木守村地所所有主 小林謙三郎
下底井野村同   有吉又三郎
今古賀村人民総代 柴田源兵衛
吉田弥作
別府村人民総代  占部治三郎
村田登七郎 代判
尾崎村人民総代  高崎武八郎
鬼津村人民総代  秦源五郎
広渡村人民総代  柴田伊七郎
芦屋町保正人   村田登七郎
木守村保正人   土師篤太郎

 明治二十年代には西川上流の西川村には三笠炭坑(二六年一〇月)・松山炭坑(二八年七月)、室木炭坑(三〇年一〇月)が創業する。三坑では三笠炭坑が最も大きいが資本金七万円である。鞍手郡では笠松村の満ノ浦炭坑、新入村の新入炭坑(第一坑)をはじめ資本金一〇〇万円以上の炭坑が少なくとも九坑はあり、特に大きな炭坑とはいえない。松山炭坑・室木炭坑は共に資本金一万円である。

 三笠炭坑の鉱業人から明治三十八年十一月、木守村字浮洲一二二八番地・一二二九番地・一二三〇番地・一二三一番地で船積場と積越用の運河を造るため土地使用許可願が次の通り鉱山監督署に出されている(古月村文書)

一、使用目的 石炭置場及船積場並ニ其運送上下船通行ニ要スル運河設置。
一、使用ノ時期及期間。
土地使用ハ許可当日ヨリ三ケ年間常時使用ス。
設計書
一、運河ハ幅弐間三尺トシテ延長五十五間堀削シ其両側ハ帯梢柵ヲ以テ根囲ヲ為ス。
一、西川浚渫ハ幅平均弐間トシ深サ水面以下平均三尺迄延長五十二間七歩トス。
一、浚渫跡ハ河岸ニ沿フテ延長五十四間ノ帯梢柵ヲ以テ根囲ヲ為ス。
一、運河ト西川トノ間隔地ヲ以テ石炭積込及置場トス。

 木守で積替えるため運賃も板井手までで、取決めが行なわれていた。木月大橋から木守大井手までの運賃は明治三十年三笠坑の記録によると石炭一万斥につき一円三四銭九厘であった(59)。

 明治二十四年九州鉄道(現在鹿児島本線)が開通して、明治三十一年頃には室木炭坑の石炭が木月から川艜で西川を下り、木守で陸上げされ、遠賀川停車場から汽車で輸送された記録もある。

 明治二十五年頃より、石炭ブームに支えられ炭坑は好況時代となり、純農村地帯であった鞍手、遠賀地方では、炭坑や川艜関係の仕事をする人も多くなった。「島門村是」「浅木村是」によれば明治三十九年七月の調査で島門村六九四戸、内艜業四三戸、浅木村三四七戸、内艜業一五戸とあり、かなりの人が水運業に従事していたようである。明治四十年の西川筋の水運送炭量は第Ii-28表の通りである。当時は、明治三十年前後に殷賑を極めた堀川の運炭艜は既に減少期に入っていた。

 西川のにぎわいも、明治四十一年七月室木線の開通により段々淋しくなり、唯一の輸送手段であった水運の地位は次第に失なわれていった。

西川筋水運送炭量

三 西川改修期成会

 前に述べたように、遠賀郡、鞍手郡の協約も確立して、上流の植木、剣、西川、古月の四か村は、西川大囲組合を創り、遠賀郡の村々も分担個所の管理に務め、藻浚えなども引続き実施された。

 郡営河川であった西川は、明治三十九年には県営河川となり、折尾土木管区事務所の所管に移された。上流で採炭量が増加し、それに伴い、炭坑排水に混る泥土の堆積、水の汚染による被害が出始めた。大正のはじめ頃を境に荒廃が急速に進み、従前程度の川浚えでは河床はますます隆起し、災害は年々増加した。水質も悪化し、養水に使用していた農村は困却し、県や国に対し川の根本的改修を繰返し歎願せねばならなくなった。土砂の堆積が増し、水流を阻害することについて種々の対策が考えられたが、西川組合の記録によれば、県費(一部地元負担)で西川専用の浚渫船西川丸が建造された。建造費地元負担費は第Ii-29・30表の通りである。西川丸は昭和六年より就航し、西川を上下して草の根や河床の泥土を撹拌し、放流させる仕事をした。専用の浚渫船としてサンドポンプによる川浚へに大きな期待が寄せられていたが、昭和七年八月の記録によれば、堆積泥土が厖大で、西川丸だけでは到底解決できないとして「西川改修期成会」設立の協議が行なわれ、西川の改修を強力に関係方面に請願する目的で、昭和七年九月十四日期成会の設立を見た。その「規約」の概要は次の通りである。

一、目的 西川改修事業の促進を図る
一、西川村、剣村、古月村、遠賀村で組織し事務所を古月村役場に置く。
一、役員 会長一名 副会長一名 幹事四名 評議員十名
一、幹事は現職村長とする
一、評議員数 西川村一名、剣村一名、古月村二名、遠賀村四名
一、会の費用は関係村の負担とする。
 但し十分ノ六 鞍手郡 三ヶ村、
 十分ノ四 遠賀郡遠賀村

 昭和二十二年六月、従来の西川改修期成会は廃止され、剣村、西川村、古月村、遠賀村、三菱新入鉱業所の五者で西川改修期成同盟会が結成された。会則も改正され、会の目的も西川改修と鉱害復旧工事の促進を図ることとなった。理事も三菱鉱業所よりの一名を加え、三名となり、評議員も三菱二名、鞍手六名、遠賀三名となった。

 昭和四十七年四月には三菱鉱業所が閉山にともない退会することとなる。鞍手町も誕生し、規約は改正され、理事二名(遠賀町長、鞍手町長)、評議員鞍手町六名、遠賀町三名で運営することになり現在に至っている。

西川丸建設費と負担金地元負担金分担西川改修期成会設立当時の流境町村

四 昭和初期の西川

 昭和初期の西川は、当時の遠賀村の字図によれば、川幅は約一六~三〇メートルで、水流のすぐ傍に小さな土堤があり、現在高水敷や堤防になっている所には、川に添って田畑や道が細長く続いていた、「遠賀郡誌」に「千間川幅平均十二間平水二尺、満水七尺」とあり、明治時代の姿が大きく変ってはいなかったことがうかがわれる。

 当時、水害に悩まされていた地元と県の要請で、西川沿岸鉱業被害地救済と耕地整理補助の件で、農商務省が大正十一年八月より西川流域の調査を行っている。調査結果と改良計画が「福岡県鞍手郡西川村外六ケ町村農業水利改良計画」(旧古月村役場文書)として提出されている。その計画は次の通りであった。

昭和初期の西川木守区の西川西川

1 排水幹線西川の概況

 一般に断面不足でありその上、上流の炭坑より排出される多量の土砂等で川底が埋り、明治初年頃に比較すると、三尺~四尺浅くなっている。そのため豪雨の度に氾濫して、支流との合流点の状態も悪く、沿岸の耕地は年々浸水の害を蒙っている。

 西川の流水を灌漑用として木守堰と鬼津堰で引水して、浅木村で四八町歩、島門村で二四三町歩に使用しているが、炭坑排水の鉱毒水を含んでおり、稲作に害があり、土壌も次第に悪変している。石灰等を使用して礦毒の中和に努めているがそれだけでは完全に鉱害を防止することはできなかった。

 木守堰については、可動堰であり、洪水の際一時取除くことになっているが、構造の関係で完全に操作することが難しく、洪水の疎通を甚だしく害していた。

 西川流域の浸水と礦毒水に依る被害状況について第Ii-31表を見ると大正元年から同十一年までの間に、収穫皆無五〇〇反歩を初めとして、可成りの被害が示されている。

西川流域の浸水と鉱毒水の被害状況

2 改良計画

 洪水を安全に流下出来る程度に、築堤と掘削拡幅を行って断面を拡大する。洪水の際支流への逆流を防止するため各支川の吐口(西川との合流点)をコンクリート製暗渠に改造して逆水止設備をつける。浅木村地先で分派している古川は廃止する。などが挙げられている。

 用水計画については立案にあたって、西川流水の使用を止め、木守堰と鬼津堰を廃止して、水源を遠賀川(神田川)に求めた場合の水量の緬密な調査が行われた。それによれば、渇水時の遠賀川余剰水量を、西川用水の代りとして使用する場合、必要なだけの水量はあるが、そのためには遠賀川を横断して固定堰を設置する必要があり、多額な工事費を要することと、堰が遠賀川に及ぼす影響など問題もあり、この計画では木守堰廃止の代りに「チェーンブロック」人力捲上機を使用する可動堰に変更する計画である。附帯工事としては、西川が拡幅されるのに伴い、島門橋、今古賀橋、木守橋、虫生津橋を、長さ二十四間一尺(四三・四メートル)・幅二間の石橋に改造することが考えられていた。

 この改良計画は、総工費九九万円を必要とし、受益面積は田一一六六町歩(浅木村一一三町歩、島門村五二六町歩を含む)、農作物の収穫増加で利益は毎年一三万五五〇〇余円となっている。この計画は実施されなかったが、当時の西川流域の状況を示している。

五 西川の改修

西川改修期成会事跡

 毎年の水害に悩まされ、流域の村々は関係方面へ改修工事の促進運動を続けて来たが、永年待ち望んでいた本格的な改修工事(高水工事)が着工されることとなり、昭和八年八月廿四日、折尾土木管区事務所所長から、西川改修期成会に、改修工事の概要の説明と関係村々の協力の要請が行われた。「西川改修期成会々議録」によれば、

(一)西川改修の全長は十三・一五八キロメートル
(二)事業費総額百六万五千円
 内訳
 用地費二十六万円 労力費五十万円
 材料機具二十五万円 事務費五万円
 工事施行年度割(第Ii-32表)
 改修年限四ケ年継続
(三)川幅の拡張 下流の川幅を一〇〇~六〇メートルに拡張する。上流は二四~二〇メートルに拡張する。
(四)堤防の増強 堤防の高さを現在より二~一メートル平均一・五メートル高くする。堤防の幅は五~三メートルとする。勾配は二割とする。
(五)遠賀村に属する主な附帯工事(1)木守堰を廃止して神田川より引水する(工費概算二万五千円)。(2)蓮角川の改修。屈曲幅員は大体原形の儘とし、主として川床掘下浚渫を行う。
(六)西川改修工事に伴う関係地元負担割合。
 四七・四パーセント(端数切捨) 遠賀村
 一七・一パーセント 古月村
 二一・三パーセント 剣村
 一三・九パーセント 西川村

 以上の発表が行われ、その後、遠賀村、西川村、古月村、剣村の各村長および期成会委員で地元負担金の各村の負担歩合と、木守堰撤廃をめぐって数回協議が行われた。この地方にとって一〇〇年以上も昔から、二〇〇町歩以上の水田の養水堰として、守り続けて来た堰を撤去することには、神田川との関連などもあり、反対が多く、なかなか同意が得難かった。木守板井手は「土木軸帳」によると次の通りとなっている。

遠賀郡浅木村大字木守字浮洲
一、板堰幅拾壱間
木柱拾本立八寸角(内弐本高九尺六寸六本高七尺弐寸)押笠木附、但中間開戸四枚立両端堰戸板拾六枚
此板堰総仕替ノ節ニ限リ工費負担法如左
八歩七厘五毛 遠賀郡
壱歩弐厘五毛 鞍手郡
堰ノ開閉ハ慣行ニ拠ル

 木守板堰撤去の事情に関しては、役場文書「今古賀伏越修理陳情書」の中に「昭和八年以来西川大改修工事が施工されるに当り、大字木守に従来から設置されていた木守板堰幅二一・六メートルの施設撤去(今古賀用水路への通水堰は存置)につき県からの要請があり、当時の事情としては凡そ至難のものでしたが、町は関係部落(今古賀・木守・松の木・別府・尾崎・鬼津)と何回となく協議の結果、木守板堰の代替施設として、神田川用水を山田川に引き入れ、西川に伏越を通し、今古賀地区にポンプ施設(当初一〇馬力昭和二十四年現在三十五馬力)を県が施工する事を条件として承諾を得、昭和十四年本施設が完成し今日に至ったのであります」と記されている。板堰に代るポンプと伏越が完成して、昭和十四年頃には撤去されたものと考えられる。この伏越の設備もその後破損して洩水が多くなり、昭和四十八年伏越に変えて右岸にポンプ場と西川の上を越す送水管が設置され現在に至っている。そのポンプ場の概要は次の通りである。

ポンプ仕様書
竪軸斜流 一台 三〇キロワット電動機付
揚水量 二六立方メートル毎分
口径 四五〇ミリメートル

 西川改修工事は昭和八年に着工されたが、戦時下で、資材、資金、労働力等の不足で工事は大幅に遅れ、昭和十九年までに河口より虫生津橋までが一応終り、昭和二十二年に虫生津橋から上流の工事が行われた。この工事で川幅の拡張、堤防の増改築がなされたので、それに必要な川添の用地が広範囲に収用された。そのうち第Ii-13図に示す鬼津地区の字千間川、広渡地区の字千間川西、字千間川、今古賀地区の字松ノ元川内、字正境川内、は字の全域が収用され河川敷となっている。

 下流では島津附近が昭和十年頃、広渡、今古賀間が昭和十二年頃拡幅・浚渫・築堤工事が進められ、堤防は一~二メートル嵩上げが行われた。工事前の姿が偲ばれる設備はほとんど残ってないが、広渡の島門橋より約二〇〇メートル下流に、神田川用水を鬼津方面に送水していた伏越が、干潮の時に姿を現わす。この伏越は、昔は木製の底樋であったものが、昭和五年にコンクリートになり、同十二年の拡幅で不要になったものである。狭くて浅かった改修前の川の姿を想像させる。

工事施行年度割現在の今古賀揚水機場西川の旧伏越

六 鉱害と排水機場の設置

1 排水ポンプ場

 終戦後も炭坑排水に依る土砂の堆積で河床の上昇が続き、又所によっては土地の陥没も起り、流域の水害は増加した。

 昭和二十五年特別鉱害復旧臨時措置法(特鉱法)、続いて昭和二十七年臨時石炭鉱害復旧法(臨鉱法)が制定され、国庫補助により西川流域の湿田化した地区や、湛水し易い地区の嵩上げ工事が行われた。県に於いても二十八年の災害以後改修工事を実施した。又支流と西川の合流点に水門を設けて逆流を防止し、排水ポンプで湛水を西川に揚水する排水機場も各地に建設された。遠賀町内で昭和三十一年までに設置された排水機場、自然排水樋門は第Ii-33表の通りである。その後昭和四十六年六月に花園排水ポンプ場、同じく四十八年六月に虫生津排水ポンプ場が建設された。

虫生津排水機場排水機場と排水樋門

2 広渡排水機場

 西川上流で自然排水困難な地区から西川に揚水する排水機場が九か所、ポンプ一九台が設置されている。降雨時にはこれらのポンプが一斉に揚水するため、西川の水量が急増し、西川・吉原川・戸切川・前川の合流点で流水が停滞し、満潮と相俟って、湛水時間が長びき、広渡、鬼津、尾崎、今古賀、木守各地区の水田の被害が増大した。これを解消するため、昭和三十九年に県営湛水防除事業で広渡に排水機場が建設されることになった。吉原川に逆流防止樋門を設け、洪水時西川よりの逆流を防ぎ、吉原川区域、戸切川区域、前川区域(合計受益面積九六四ヘクタール)の湛水を広渡に集め、排水機で遠賀川へ排水する設備の新設である。資金、排水機、排水樋門計画は第Ii-34・35表の通りである。

 昭和四十三年に工事は完成し、関係地区の湛水による被害は除かれることとなった。

広渡排水機場及び樋門資金計画表排水機と排水樋門

七 西川筋鉱害復旧全体計画

 鉱害復旧事業で、土地改造、揚水機場の設置などが行なわれて、水害をうけないですむ地区も多くなったが、西川を本格的に掘削改修して排水能力を増さないと湛水防除の問題が解決出来ない地区もあり、改修工事を促進する要望も多かった。「西川改修期成同盟会」の記録をたどると、西川は低地部を流れる緩流河川であり、その上鉱害で河床が隆起していて流れが悪い。しかも川沿いは機械排水に依存しているので、排水を必要とする降雨時には、堤防内が満水となり排水が困難となる。昭和四十六年七月の豪雨では、鞍手町の中心部で多くの家が床上まで浸水し、耕地も広い範囲で冠水する被害を受けた。この災害は西川を改修しなければ除去できないのである。そうした状況の下、昭和四十七年より十か年計画で改修工事がはじめられた。その計画は次の通りであった。

西川筋鉱害復旧全体計画(昭和四十八年)
一、事業施行場所(区間) 遠賀郡芦屋町大字祇園橋より鞍手郡鞍手町大字八尋地内まで
二、事業概要
 左岸右岸工事長 一四、九〇〇メートル
 浚渫及掘削 一四三万八一一六立方メートル
 護岸工事 一五万四〇三六平方メートル
三、復旧事業費 四七億四四五六万円

 遠賀町内は、建設省遠賀川工事々務所と福岡県北九州土木事務所で工事が進められ、昭和五〇年度までに西川河口から八五二〇メートル上流の鞍手町境まで暫定掘削(約四二万立方メートル)が終り、引続き護岸工事、本掘削工事が行なわれた。西川は昭和五〇年に、河口堰との関連により、遠賀川との合流点より五・五キロメートル(左岸大字今古賀字正堺一五七番地の一地先 右岸大字木守字長江口九五九番地地先)の区間が建設省直轄管理区間に編入され、建設省で工事が行なわれている。建設省担当区間は鉱害復旧と護岸工事の両面で工事が進められており、これより上流は福岡県の管轄区域として鉱害復旧工事の改修が進められている。工事完成後の西川の標準断面は第Ii-17図の通りである。また、これと関連して松の本地区の西川河道掘削に伴ない、同河川内既設の伏越二ケ所(神田川用水路、湛水防除事業排水路)を一ケ所にまとめ改築することになり、昭和五十九年一月に着工、同六十二年三月完成予定。水路延長九十八メートル、工事費四億四千万円。構造は三連式伏越工(排水一、六×一、六×二門 用水一、六×一、二×一門)

西川筋鉱害復旧標準断面図

第三節 戸切川と前川

 戸切川は岡垣町戸切から流れてくる西川の支流で、別府区今泉神社の前を通り、今古賀境で昔の古川に落合っている。さらに今古賀区の西を蛇行しながら緩かに流れ、島門小学校前の鬼津堰を通り、若松区の鶴の前で西川に合流する。流路全長八・二キロメートルの短かい川である。「遠賀郡誌」には「門前川、水源大字戸切字戸田山より発し区の東南を過ぎ島門村大字別府字南にて西川(古川)に入る」となっている。以前は今古賀境までを門前川と呼んでいた。

 門前川は藩政時代より流域の村々で農耕に利用されていて、共同で川普請や川浚らえなどを行い、水利慣行もあったようで、次の通り歩取が定められている(19,38)。同一の歩合が「土手築立、幷川廣メ普請」にも適用されている。門前川に関する歩取ということができる。

別府村抱門前川五ケ村催合
イ、此外四歩九厘 戸切
一、夫九人五歩壱厘
 内
 壱人九歩九厘 別府村
 壱人六歩 小鳥掛村
 三人四歩 尾崎村
 壱人九歩九厘 鬼津村
 五歩三厘 若松村
 〆

 「此外四歩九厘 戸切」の記入は小鳥掛村庄屋であった小林家文書にあり、仰木寿作(当時、弥兵衛)の控にはないが、これを加えると定夫は都合一〇人となる。同年代のことであり、後者は省略されていると見てよい。

 現在の門前川は、別府行満寺前にて戸切川より岐れ、再び戸切川に合する僅かの間のみを指しており、蓮角川(古川)に合するまでを指していた旧前とは異なる。

 戸切川自体も、前述の通り、下限は旧西川(古川)である。戸切用水の灌漑面積は第Ii-36表の通りである。旧西川部分を含まない旧門前川部分の灌漑面積であろう。

 現在の戸切川の灌漑範囲は旧西川、及び、神田川の水を合せて灌漑しており、九百数十町歩に及んでいる。

 殊に門前川の対象地区となっていた別府・小鳥掛・尾崎・鬼津・若松の地区は前川(西浦川)の水下でもある。藩政時代より若松住吉前には唐戸が仕居されている。この唐戸は嘉永元年四月に「石屋積」に改められている(38)。「年暦算」はそれについて「四月若松前唐戸弘メ御普請有之、戸前観音開キニ成ル」と記しており、拡張されたことを示している。前川の水下田数は第Ii-37表の通りであるが、嘉永元年の「石屋積」普請は「此節壹度切、以後ハ先年夫割之通」の条件で、四一町五反分を役所より助合して行われている(38)。

 若松村鶴ノ前には更に板井手が設けられている。前川最下流であろう。小林才作と仰木弥兵衛の控では数字が異なっている。鶴ノ前板井手は、前者によると、天保八年三月に惣仕替が行われている。これにより灌漑面積が増加したものか、他の原因によるものかは判明しない。鶴ノ前には吹上樋が設けられている。吹上樋とはサイホンのことである。住吉宮前の唐戸と鶴ノ前板井手の僅かの間で一八~二八町歩の差が生じている。若松村で増加している。堂塔寺方面の灌漑が増大するのであろうか。

 「年暦算」の天保三年の条に「西川土手尻若松鶴ノ前との間小畝土手出水シ、度ゝ西川水すりホき、壹作へ水打込、住吉前唐戸水引ニ相障候。是又西川土手尻使夫築切御普請御願申、水下ニて築立。右ニ付、西川水前川水引ニ相障らす、鬼津・小鳥懸・尾崎田甫水引大ニ吉シ。是當村庄屋正三郎洪水之度ゝニ水引見繕、存立れし事也。此普請と江去新溝ハ庄屋正三郎の能き仕置也」とある。鶴ノ前井手は西川尻の洪水対策として当初は設けられたものかもしれない。庄屋正三郎は立屋敷村よりの入役で入江氏。

 戸切川(古川=旧西川)と前川は灌漑用水路で旧前より連絡しており、灌漑用水としては相互に関連している一方、西川が洪水の際の治水対策も不可欠であったといえる。

鬼津堰戸切用水灌漑面積前川水下割

第四節 遠賀町の溜池

 遠賀町内の溜池は、大小併せて二二か所あり、主として西部の岡垣町境に連なる丘陵の山麓に点在している。築造が判明している溜池は、山田川の開削より遅く、享保十年(一七二五)より後一〇〇年位の間に築造されている。

 西部地区は、平坦地では神田川、山田川の用水を利用するようになっても、虫生津、上別府、尾崎などでは灌漑用水の主体は溜池にあったようである。明治末期の記録「島門村是」「浅木村是」には、虫生津・別府の二大字の灌漑は溜池に依るとあり、島門村一六三町歩も溜池によっていたことが書かれている。溜池を一覧表にすると第2-38表の通りである。

ため池一覧

第五節 西川と戸切川の橋

一 西川の橋

 遠賀町内を南北に流れる約七キロメートルの西川には一〇基の橋が架設されている。上流から各橋の記録を拾って見る。

(1)虫生津橋

 明治の初め頃までは船で渡っていたようで、そのことは「福岡県地理全誌」に「虫生津村、西川幅十五間平水二寸満水一尺、渡場一所堂の前」と記されている。

 明治末期には板橋ができて「遠賀郡誌」には「虫生津橋、板橋長十三間」とある。この橋がいつ頃まで使用されたか明らかでないが、現在の橋は昭和四十年三月に県道宮田遠賀線として造られた長さ六六・一メートル、幅八・五メートルの鉄筋コンクリート橋である。

虫生津橋

(2)花園橋

 明治末期ごろ地域の要望で板橋が架けられた。「遠賀郡誌」には「板橋一所、花園橋長十二間」とある。昭和三十三年三月に長さ四五・九メートル、幅三・一メートルの鉄筋コンクリート橋に改築されたが、昭和六十年十一月に長さ五三・六メートル、幅七・五メートルの新橋が開通した。

旧花園橋

(3)木守大橋

 ここは昔から交通の要路にあたり、天保十五年(一八四四)にすでに橋があったことが知られる。伊藤常足の「高瀬日記」に「木守村と大曲りとの間に長き土橋あり」と書かれている。

 明治初期の状態については、「福岡県地理全誌」に「土橋一所、千間川筋庚申前、長十二間四尺、幅二間三尺五寸」と記している。この土橋も明治末期には石橋に替わり朝日橋と呼ばれていた。この橋の橋頭が井手神社に保存されている。それによって明治二十三年十一月架設されたことが知れる。「遠賀郡誌」には「千間川石橋一所朝日橋長十四間」と記されているのがこの橋である。

 その後昭和三十一年三月に長さ四七メートル、幅三・二メートルの鉄筋コンクリート橋に改築され、更に昭和五十七年九月現在の木守大橋、長さ五一・六メートル、幅七・五メートルの鉄筋コンクリート橋に架替が行なわれた。町道今古賀・木守線に属している。

旧木守橋朝日橋橋頭木守大橋

(4)西川大橋

 昭和四十七年三月に役場近くから、鉄道と立体交叉し更に西川を渡る県道宮田・遠賀線が新設された。それに伴って昭和四十八年三月に架設された長さ六八・一メートル、幅九・六メートルの鉄筋コンクリートの橋である。

 旧前は西川大橋と西川橋の間に新川橋があった。遠賀川駅前広場から商店街を通って西に行く古くからの道がある。明治時代の初期西川には長さ十二間、幅一間二尺の土橋が架っていた。明治二十三年十一月、遠賀川駅が営業を始めたので、この道は交通量も増して郡道となり、西川の橋も明治末期には石橋に架替えられていた。「遠賀郡誌」に「新川橋(石橋)十二間三尺」とあるのがそれである。その後木橋に替り、永い間人々に親しまれていたが、昭和二十八年の大洪水で流失してしまって、今は橋に併設されていた水道管だけが西川を渡っている。

西川大橋

(5)西川橋

 大正十三年に遠賀川橋が完成し、引続き福岡へ向かう国道三号線の工事が進められた。それに伴い昭和四年六月に西川に鉄筋コンクリートで架設されたものである。その後昭和四十六年に改修されて、長さ五四・九メートル、幅一一・三メートルとなる。国道三号線の路線が変更されたので県道岡垣・遠賀線に属している。

西川橋

(6)西川高架橋

 国道三号線の交通量急増に対応するため、遠賀町広渡島田から岡垣町戸切岸本までの区間に三・七四キロメートルの新路線が建設された。広渡地区は高架橋で進みこれに連続して西川に、昭和四十八年に新設された長さ一二〇・〇メートル幅、八・二メートルの鋼橋である。

西川高架橋

(7)島門橋

 ここも昔から交通の要路で天保時代既に土橋のあったことが「高瀬日記」に「六十歩の橋とて土橋あり。このはしは、広渡のかたより芦屋にかよふみちすちにしてそこを松の本といふ」と記されている。

 明治初期の橋は「福岡県地理全誌」に「土橋一所千間川筋六十歩、長十三間幅一間三尺」とある。明治末期頃は「遠賀郡誌」に「島門橋(土橋)長さ、一二間二尺」となっている。その後橋の老朽や西川の拡幅などで改築が行なわれ、昭和四十一年頃には写真のような長さ六二・六メートル、幅四・五メートルの木橋が架設されていた。此の橋もその後老朽化して昭和四十八年頃には一部陥落する事故も発生した。

 現在の橋は県道黒山・広渡線の改修に伴って昭和五十二年三月に架設された長さ七〇・〇メートル、幅一〇・四メートルの鋼橋である。

旧島門橋島門橋

(8)道管橋

 明治初期の頃は「福岡県地理全誌」に「板橋一所千間川尻長十二間幅一間三寸」とある。明治末期頃は「遠賀郡誌」に「道管橋(板橋)長十一間幅一間」とある。昭和二十九年頃には長さ六〇・〇メートル、幅二・四メートルの木橋が架っていたようである。

 現在の第二道管橋は昭和五十一年に建設された長さ六二・七幅一一・〇メートルの鉄筋コンクリート橋で町道芝原・江通線に属している。

道管橋

(9)島津橋

 この附近は河幅も広く遠賀郡一六渡しの一つとして、昭和の初め頃まで渡舟が利用されていた。「遠賀郡誌」には島門村大字島津字峰浦の渡口があげられている。

 昭和十二年橋長九二・八メートル、幅三・二メートルの橋が新設されて地域住民の生活に大きく貢献した。この橋も昭和二十八年の大洪水で一部が流失するなどの事故もあり、老朽化が進み、昭和五十七年七月長さ一〇一・六メートル、幅六・〇メートルのコンクリート橋と架替えられた。

旧島津橋島津橋

(10)新西川橋

 県道北九州・芦屋・福岡線が芦屋町内の混雑を避けるため路線の一部が変更されることとなり、御牧大橋の新設と関連して昭和五十六年三月西川に架設されたもので長さ一二三メートル、幅一二・五メートルの永久橋で、遠賀町内の西川の橋では最大のものである。

 以上の橋を表示すると第2-38表となる。

新西川橋西川の橋

二 戸切川の橋

 戸切川の下流は古川と呼ばれていた。明治の頃国道には古川橋という長さ一二間五尺二寸の石橋があり、郡道にも古川橋という長さ一〇間の石橋があった。その後道路も改良され、古川も戸切川と改められた。旧国道三号線に昭和四年に新設された橋も、それより一・五キロメートルほど下流の県道に昭和四十九年に架設された橋も共に古川橋と命名されて昔の川の名残を止めている。

 戸切川には町内に大小九基の橋が架設されているが、主要なものは第2-39表の通りである。

戸切川の主な橋

 

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