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遠賀町誌 第六編 開けゆく郷土 第六章 教育と文化

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第六編 開けゆく郷土 第六章 教育と文化 [PDFファイル/6.66MB]


第一節 教育委員会

 教育委員会法が制定されたのは昭和二十三年七月十五日である。はじめこの制度は大都市がその適用をうけていたのであったが、昭和二十七年十一月一日を期して全国の市町村にも教育委員会を設けなければならなくなった。この制度は教育基本法により、教育の民主化、自主独立性、地方分権化を中心として実施されたものである。

 越えて昭和三十一年六月、地方教育行政の法律が改正され、教育委員会制度も新しく発足し今日に及んでいる。この制度では、教育委員は町長がその候補者を議会に提案し、同意を得て任命する。教育長は教育委員の中から県教育委員会の承認を得て任命する、となっている。

 昭和ニ十七年以降の教育委員・教育委員長・教育長は次のとおりである。

(1)教育委員

青柳 成利 石松 秀雄 石田 金久 旗生 静登 半田  徳 田中初太郎
重広  新 小川登一郎 吉田 利世 筋田 純夫 秦武右工門 伊藤 輝雄
織田タメノ 太田  渚 安増 茂実 土師  晋 高椋 一利 吉田 英雄
吉永 定孝 坂田亀次郎 小松範三郎 村田  薀 縄手  勉 松井 義巳
旗生 重己 矢野 定岳 原田統之介 柴田  凉 高崎  昇 陣内 明子
大場 芳郎 小川  聡 柴田  開 青柳 元成

(2)教育委員長

青柳 成利  昭和二十七・十~昭和三十一・九
秦武石工門  同 三十一・十~同 三十七・九
土師  晋  同 三十七・十~同 五十二・三
高崎  昇  同 五十二・四~同 五十六・四
柴田  開  同 五十七・十

 土師晋氏は福岡県教育委員長をも務められ、教育界に力があった。(名誉町民)

(3)教育長

小野周太郎  昭和ニ十七・十一~昭和二十八・三
吉田 利世  同 二十八・ 四~同 二十九・五
石松 穂積  同 二十九・ 六~同 三十一・四
小川登一郎  同 三十一・ 十~同 三十四・十
吉田 利世  同 三十四・ 十~同 三十五・九
太田  渚  同 三十五・ 十~同 三十八・二
安増 茂実  同 三十八・ 三~同 三十九・九
坂田亀次郎  同 三十九・ 十~同 五十五・十
大場 芳郎  同 五十五・十一~

第二節 学校教育

一 私塾と寺子屋

 藩政時代の終りごろから明治初年にかけては、寺子屋や私塾が唯一の学問の機関であった。別府村の占部家(柳枝軒)高家の上野家、浅木村の門司家(貞光館)木守村の梅溪家(梅柳堂)などがそれであるが、どれ程の人人がそこで学んだのか詳らかでない。又周辺の村の塾に通った人もあったのであろう、それについても詳らかでないので別表に明治初期の寺子屋と藩末ごろの私塾などを示す。

 それらの内占部家に伝わる文書「海妻門下生名簿」には遠賀町関係者では次の名がある。

別 府  占部稜威男  別 府 仲野 敬巳
今古賀  村田 駿男  鬼 津 田中 滝造
高 家  筋田 純一  高 家 筋田 耕蔵
木 守  小林 只次  若 松 室井 之水
若 松  伊豆 喜助  下底井野有吉 玄平
下底井野 有吉 百郎

 別府村高家上野家もその頃私塾が開かれていて、門下生二百名とも言い伝えられているが、同家の文書からその一部を次にあげる。

私塾生左の面々今般入込居申候、猶又増減御座候はゞ追々御届申上候  上野 芳草
那珂郡安徳村在住                    備三弟  岡沢 三中
〃    岡沢 四郎
〃    岡沢 朋成
養巴の町                             鶴原 定吉
上座郡志波村在住                    敏 伜  土生純一郎
表粕屋郡新長者原在住                    伜  柳  七郎
御堀端木付屋敷住居                     伜  白土  至
遠賀郡戸切村神職真道彦                   伜  石田 溪雲

 この文書は年月の記述がないので詳細は不明であるが、上野芳草は明治元年に福岡藩学問所指南加勢役勤務を命ぜられ、同四年には教官となっているので、それ以前のものであろう。

周辺の私塾
所在     開塾    科目 塾主     師系
遠賀郡香月村 安政初年  漢  安広  訥
  立屋敷村 元治年間  書  安宏 一郎  梁川 星厳
   浅木村                 池田 陶所
同  吉木村 慶応初年  國  海妻 甘蔵  井土 周盤
同中底井野村 天保十四年 漢書 月形  健  月形  質
同  島門村 明治初年  國  占部稜威男  月形  健
                       海妻 甘蔵
同  芦屋村 慶応三年  漢  櫛田 駿平  竹田 定夫
       明治三年            古賀 侗菴
同  芦屋村 天保十一年 漢  林  謙助  亀井 昭陽
   本城村 明治四年            宮川代次郎
同  吉田村 明治二十年 漢  岡山 直道  奥山 弘基
鞍手郡新入村 明治三年  漢  秦   厳  佐藤 一斉
同  古門村 亨和年間  國  伊藤 常足  青柳 種信
       安政五年            本居 太平
同  植木村 嘉永三年  漢  月形 深蔵  古賀 精里

 「福岡県教育史」が掲げる周辺の私塾は右の通りであるが、これがすべてではない。右掲の範囲でも、岡山辰五郎(直道)は明治四年に香月村で余力学舎を開校、同十五年には本城村で岡洞校を開いている。本城村には明治初年に芦屋の黒山敏行が萬翠堂を開塾する。逆に、芦屋には明治初期に臼井浅夫の鳴学舎も存在する。

明治初年頃の私塾及寺小屋(「福岡県の歴史」より)
柳枝軒 別府村   文政七年~明治五年  占部 重監
貞光館 下底井野村 文政六年~明治四年  門司 盛実
楳柳堂 木守村   嘉永  ~明治五年  梅溪 法城
文栄堂 戸切村   天保七年~明治四年  石田真道彦
醸英堂 山鹿村   文久元年~明治四年  猪口 見敏
養素堂 芦屋村   安政三年~明治五年  妹尾  斉
松風館 二村    慶応三年~明治五年  安日 養元
砧里軒 立屋敷村  慶応元年~明治五年  永沼 澹一
光雲堂 吉木村   安政  ~明治五年  麻生 宗貫
佳止舎 吉木村   慶応元年~明治五年  門司弥一郎
医五堂 永犬丸村  天保十年~明治四年  伊藤 健蔵
藤酒舎 植木村   安政元年~明治七年  田部 瑞穗

二 小学校の誕生

 明治五年八月、太政官の布告により学制を全国に頒布した。続いて九月文部省は学制実施の方法について、小学教則および中学教則を公布した。この学制は「邑に不学の戸なく家に不学の人なからしめること」を目標とするもので、国民皆学の実をあげさせるものであった。これは明治政府の「四民平等」の精神のあらわれであって、久しく続いた封建社会の打破に対する、大きな意義があった。「福岡県史資料」一輯の中、「明治初期の小学校」によると遠賀町域には次の三小学が挙げられている。

小学校

 各小学とも明治七年の創立となっていて三校合せて、男の教師三名。生徒は男二百二十六名、女十六名である。

 学制発布から数年は、地域的事情や職業に関わる理由から子弟の教育が意の如くできないなどのこともあった。明治十九年には小学校令の改訂により小学簡易科設置が可能となった。尋常小学校の修業年限四年のところを三年で代用する制度である。遠賀町関係では広渡小学校および鬼津小学校に簡易科が設置された。このことに関して「小野家文書」の中に次の様な資料を見る。

教育令改正に付私立学校設置協議会来る廿九日鬼津村に於て開設候條伍長組合より一名づつ純然たる人民惣代撰定廿八日迄当衛に届出相成度右は戸長内命に依り此段照会及候也
十九年十二月二十三日  戸長役場
鬼津村用掛御中

 この資料が小学校簡易科設置に関係したものであれば、明治二十年より鬼津小学校は鬼津小学簡易科となったことになる。簡易科は小学校令(明治一九年四月勅令第一四号)に「土地ノ情況ニ依リテハ小学簡易科ヲ設ケテ尋常小学科ニ代用スルコトヲ得、但其経費ハ区町村費ヲ以テ支弁スヘシ」と規定されたことに基くもので、尋常小学科の修業年限が四年のところを、三年で代用する制度である。尋常小学科が修身・読者・作文・習字・算術・体操を教科としたのに対し、小学簡易科は読書・作文・習字・算術を教科とする。修身・体操(唱歌を加へることも)を欠く。

 小学簡易科は明治二十三年十月の小学校令(勅令一一五号)改正により廃止された。この改正は町村制施行に伴い行われたもので、それに基き翌二十四年には「小学校設備準則」(文部省令二号)も公布され、校舎・校具についての基準が示された。これにより、今後は従来の如く、寺社や民家を利用した学校は不可能となった。

 遠賀町域の小学校は、前掲の通り、浅木・今古賀・鬼津の三小学が明治七年に創立となっているが、「遠賀郡誌」によると、明治七年一月に鬼津小学・広渡小学・今陸小学(今古賀村)・浅木小学の四校が創立され、明治十九年の改正により、鬼津小学と広渡小学が小学簡易科に改更されたことになっている。

 明治中期の小学校の授業料に関する資料を次に掲げる。

 高等尋常小学校授業料の儀は左記の通り

当徴収候様乙第百廿一号を以郡長より訓示相成候に付右諭示に及侯也
一、高等小学校授業料一人付 一ト月金二十銭
一家二名以上、就学の者は一名の外は十銭
一、尋常小学校授業料一人付 一ト月金十銭
一家二名以上就学の者は一名の外は五銭
右授業料は毎月十日限徴収
 明治十九年十二月十三日  戸長役場
各村用掛中
          (小野文書)

 明治三十一年浅木村予算書によると当時の訓導の給料は一ケ月十二円、準訓導は五円であった。(役場文書)

三 遠賀町の学校施設

1 浅木小学校     大字浅木下方一二〇三番地

 浅木小学校は明治七年に創立し、当時は下底井野、虫生津、中底井野の三村と、別府村の内尾倉、花園とを以て通学区とし、最初浅木神社の境内の建物を仮校舎として出発し、浅木地内に校舎を新築し公立浅木小学校と称したが、(木守村には非公認とおもうが、二年程小学校があった。)明治十二年学区の改正に依って、別府尋常小学と改称。この時別府村の内、尾倉花園及中底井野を割きて他に編入し、下底井野、虫生津、木守を以て学区域とした。

 明治二十三年町村制改革により、下底井野、木守、虫生津の三か村と別府村の内尾倉、花園、高家を以て浅木村となった、その範囲を通学区として公立浅木尋常小学校となった。その後遠賀郡組合立浅木高等小学校を、下底井野に新設し島門村及浅木村、底井野村を通学区域として明治三十一年五月に開校したが、明治四十年三月これは解散することになった。しかして浅木村に校舎を新築し、小学校と合せて高等科を併置し、浅木尋常高等小学校と改称することになった。

 これより先明治三十五年九月老良小学校を設立、昭和八年浅木小学校に合併し、一時小学四年以下を以て老良分教場としたが、その後昭和七年に廃止された。

 昭和四年四月島門浅木両村合併し、遠賀村が誕生した。その後昭和十六年四月浅木国民学校と改称、更に同二十二年浅木小学校と改称された。同時に高等科が廃止されて、遠賀中学校が開校することになった。

 その間昭和十年には遠賀村立浅木青年学校も併設され終戦まで続いた。昭和五十三年三月創立百周年を迎え、記念式典及記念事業が行われた。現在の教室数一八、その他の室八、教職員数二五名、

浅木小学校浅木小学校児童数

浅木小学校校歌
敷田慶造作詩
酒井義数作曲
一、はるかなり 福智の峯  空高く 白雲光る その空の 高き心を その空の 広き心を 朝夕に 仰ぎ学ばん 浅木 浅木 いざすこやかに

二、洋々たり 遠賀の流れ 野はあつく 豊けく稔る その地の あつき心を その地の 深き心を 朝夕に ふれて学ばん 浅木 浅木 いざたくましく

浅木小学校歴代校長

2 老良小学校

 明治三十五年九月から昭和八年まで三十二年間、老良尋常小学校として百五十余人の卒業生を生み出した。同校の紀念碑文からその栄光を仰ぐことができる。

「回顧すれば創立当初、民家を借りての授業或は中途火難により校舎を烏有に帰し之が再建に就いては故添田寿一博士を煩はす等、幾多の辛酸を嘗めり。其の間、雄々しくも育成の任に当られし、小野伝七先生、沼田嘉十郎先生、上野俊松先生、仲野団作先生の拮据精励、心血を注いでの御薫陶は想ふだに感激の涙滂沱たるものあり。
嗚呼、思出多き其学舎も今や無し。我等が母校を偲び恩師を慕ふの情や愈々切なり。」
(「浅木小学校百年史」より)

3 島門小学校     大字鬼津川埋一〇五八番地

 学校沿革概要。「遠賀郡誌」によると明治七年一月元鬼津村に公立鬼津小学校、元広渡村に公立広渡小学校、元今古賀村に公立今陸小学校を創立せらる。

卒業証書辞令

何れも寺院或は民屋を仮用し、時の教則により各修業年限四年の下等小学校たり。同十五年三月小学校教則網領改正せられ、小学校を初等中等高等の三等に分ち、各修業年限を三か年とし、一年を前後二期に分ち、毎期試験を行うて進級せしむる事となり、三校共に初中等小学科を置けり。同十九年四月小学令改正により鬼津小学校を鬼津小学簡易科、広渡小学校を広渡小学簡易科、今陸小学校を別府尋常小学校と改称し、一年一学期の編制となり、修業年限は簡易科は三年、尋常科は四年となせり。而して別府尋常小学校は位置を元別府村と下底井野村の二か所とし各民屋を以って仮校舎に充てたり、同二十五年四月小学校令の改正により、鬼津広渡両小学簡易科を各尋常小学校と改称せられ、修業年限四か年となれり、同二十六年一月別府尋常小学校通学区域の内浅木村を割きて浅木尋常小学校に合併し、別府尋常小学校の残区域と山田尋常小学校の一部なりし大字尾崎とを広渡尋常小学校に合併す、校舎は広渡別府の二か所に各民家を仮用して之に充つ。同三十四年六月広渡鬼津の両尋常小学校を合併し、村の約中央なる鬼津字川埋に校舎を建築し、大字老良は距離遠隔なるにより別に尋常小学校を設置す。同三十五年二月本校舎の新築工事に着手し同年八月竣工同九月に至り鬼津広渡両尋常小学校を廃し同日島門尋常小学校を創立す。同三十九年六月六日唱歌裁縫の二科加設認可を受け、同年十一月八日補習科設置の認可を受く、同四十年四月一日修業年限四か年の高等小学校併置認可を得島門尋常高等小学校と改称す。明治四十年三月より校舎二棟の増築工事を起し同年五月竣工、同四十一年四月小学校令の改正に基き修業年限二か年の高等小学校併置に改めらる。同四十三年八月二十日附属実業補習学校設立認可に付従来の夜学校を引直し、本校を島門尋常小学校に置き、若松広渡、尾崎、別府、老良に分教場を設け、本校及老良尋常小学校職員を以って授業を開始す、翌同四十四年一月二十五日校長以下職員の任命ありたり。
島門実業補習学校 本校は明治四十三年八月二十日島門尋常高等小学校に附属し、大字島津、広渡、老良、別府、尾崎の五か所に分教場を設け、老良分教場は同尋常小学校に附設せり、修業年限は八か年にして学年は毎年六月に始り翌年五月に終る、実業科として農事を課す。授業の時季は左の如し
 第一学期 自九月一日至十一月十五日
 第二学期 自一月十日至二月二十八日
 第三学期 自三月一日至五月十五日

 以上のように大変複雑な変還をしていることがわかる。

 大正の年代から昭和のはじめにかけては、教育内容の充実、学校施設の整備をはかると共に、国民道徳と建国の精神を徹底すべき学校教育に力が注がれ、大正九年六月には一棟三教室の増築をはじめ、昭和三年十二月には、講堂兼用校舎を移転、普通教室に改装、新に講堂兼用校舎四教室を増築した。

 昭和五年四月には、奉安殿を建立し、同九年には家事室を増築、更に昭和十三年には養護室、保健室を修築し、戦時下における学校施設を拡充整備した。

 昭和十六年島門国民学校と改称、同二十二年高等科を廃止、島門小学校と改称。同四十年七月に創立六十周年記念事業などが行われた。

 昭和五十二年四月、児童数の激増に伴い、広渡小学校を分離し今日に至っている。教室数一八、その他五、教職員数二二名。

島門小学校島門小学校児童数

 校庭には竹森啓祐氏の歌碑が建てられているが、氏は若松区の出身で医学博士、島門小学校遠賀中学校などに図書を贈られ、文庫として保存されている。また氏は農友会を結成し、郷土農業の振興に心されたことも知られている。

 原田隆氏は広渡の人で、原田奨学金を設けて郷土の人材養成に意をそそいだ人である。花田盛太郎氏は八幡市議会議長などを務めたが、六十周年事業として図書などを寄贈され、「花田文庫」として後進の指導に力を加えている。

島門小学校校歌
芥川静雄作詞
矢野勇雄作曲

一、遠き御代より 名にしおう 遠賀の流れ 清らかに つきせぬ姿 望みつつ 人たる道を いざや修めん
二、春は緑の あやにしき 秋は黄金の 千町田や
 豊けき実り そがままに 学びの業を いざや磨かん
三、長き歴史に 育まれ
 恵みに育つ 教え草 筑紫の花と 香るとき いよいよ栄えん 我等の島門

歴代校長

4 広渡小学校     大字広渡一九三〇番地

 現在の広渡小学校は同地区の急速な開発により、昭和五十二年四月一日開校された。鉄筋防音三階建で教室数十二、特別教室七、資料室その他五で、児童数三百二十三名、教職員十六名である。初代校長藤原守氏。創立後日の浅い学校ではあるが

福岡県教育委員会研究指定委嘱学校
福岡県福祉協議会ボランティア活動協力校
交通少年団結成校
体力づくり宣言校

 などのタイトルをかかげて前進をつづけている。

広渡小学校小学校生徒数歴代校長

 広渡小学校校歌
  三原朝雄作詞
  中林清治作曲
一、遙かに連なる 山々と 流れゆたかな 遠賀川 自然の愛に 恵まれて 心も体も 健やかに 明るく伸びる 子供達 わが 広渡小学校
二、古き歴史と 文化とを 守り育てた 故郷の みんなの愛に つゝまれて 母校と郷土の 創造に 生き生き伸びる 子供達 わが広渡小学校
三、希望は高く おおらかに 学びの道は 遠くとも 学びの道は けわしくも 強い子良い子 手をつなぎ 未来に伸びる 子供達 わが広渡小学校

5 遠賀中学校     大字別府三三ニ〇番地

 昭和二十二年四月、遠賀村立遠賀中学校として創立。昭和二十三年十二月新校舎落成。昭和三十九年四月遠賀町立となる。昭和五十二年十一月、創立三十周年記念式挙行。この間産業教育研究等にて度々表彰を受ける。

 昭和五十九年四月、生徒数の激増に伴い、遠賀南中学校を分離。現在の教室数一八、その他一〇。教職員数三四名。

遠賀中学校遠賀中学生徒数遠賀中学校歴代校長

 遠賀中学校校歌
  竹森啓祐作詞
   田中修作曲
一、朝うららに 晴れわたり 緑にはえる 遠賀台 強く明るく 清新の 希望に燃えて 進みゆく ああ向学の 意気高し 我等 遠賀中学校
二、流れつきせぬ 遠賀川 平和の光 うかべつつ うまずたゆまず 一筋に 誠の道を 歩みゆく ああ誠実の 風かおる 我等 遠賀中学校
三、歴史栄光ある 学園に 世界を結ぶ 文教の 高き理想を 目指しつつ 真理の扉 開きゆく ああ創造の この力 我等 遠賀中学校              

6 遠賀南中学校     大字上別府花園六五二番地

 昭和五十九年四月、遠賀中学校の生徒数激増に伴い上別府字花園六五二番地に分離開校。同年四月新校舍落成。普通教室一二、特別教室一五。同年八月体育館・武道場落成。十月プール完成。

 現在の教職員数、校長国広修以下一八名。

 五十九年度の生徒数 男一九一、女一七四計三六五。

 遠賀南中学校校歌
   栗原一登作詞
    石丸寛作曲
一 (男)「お早よう」(女)「お早よう」 (男)「お早よう」(女)「お早よう」 朝の遠賀は さやかに明けて 新たな日日が 窓に呼ぶ 君よ わが友 誠実を愛し 学ばん常に 故郷の丘
二 風よ 光よ 福地の山よ 遠賀南は われ等の誇り 先史を秘めし 地に立てば 漲る力 確な実践 喜び充ちぬ 木犀の丘
三 川は豊に 遠賀の流れ 夢も はろばろ 灘行く雲よ 明日を目ざし 胸張れば 剛健く生きよと 希望の歌が 今日も湧き立つ 花園の丘

7 遠賀高等学校     大字上別府二一一〇番地

 明治四十四年四月、遠賀郡立遠賀農学校として当時の折尾村則松に創立。遠賀郡十五町村を中心に通学区とした。最初は乙種農学校だったが、度々制度変更の後昭和二十三年四月学制改革により修業年限三か年の農業高等学校となる。その後併置中学や定時制等も設けられ、水巻分校、岡垣分校等、更に別科制度などを経て農業高等学校となる。校名もそれに従って遠賀郡立農学校から、福岡県遠賀農学校、福岡県立遠賀農学校、福岡県立遠賀農業高等学校、県立遠賀高等学校となり、昭和三十年四月から福岡県立遠賀農芸高等学校と改称された。

遠賀高等学校

 昭和四十六年四月現在の遠賀町大字上別府二千百十番地に移転、新校舎にて授業を始める。

 昭和四十八年九月、新築落成並びに創立六十周年記念式挙行。

 昭和五十年四月福岡県立遠賀高等学校と改称。

 現在の学科は園芸科、食品加工科、生活科、普通科などで、施設は次頁の表の通りである。

 遠賀高等学校校歌
   持田勝穂作詩
   森脇憲三作曲
一、山あり 楓杜 雲と高く この道 遙けく みなぎる抱負 田園豊かに 国の基 限りなき行進 ああ われ等 遠賀高校
二、水あり 遠賀の 大きな流れ 
この土 潤す 自然の恵み 実習 たのしく 共に学び 新しく建設 ああ われ等 遠賀高校
三、丘あり 則松 みどり深く この業いそしみ 中堅たらん 風雪 厭わぬ 若き力 勤労の精神 ああ われ等 遠賀高校
四、海あり 洞海 潮青く 
この雛はぐくむ 希望の胸に 真実掲げん 清き理想 薫しき栄冠 ああ われ等 遠賀高校

土地建物職員生徒定員及び現在員歴代校長

8 遠賀中央幼稚園     大字別府

 昭和四十三年四月幼稚園として発足、同五十二年八月一日学校法人遠賀学園として設立認可。遠賀町大字別府四四四六の二に鉄骨コンクリート二階建の園舎が同五十三年三月落成、これを記念して創立十周年祝賀式典が行われた。

遠賀中央幼稚園

 各室の明細は次の通り

園舎 八四一平方メートル
講堂兼体育館 二一〇平方メートル
屋外運動場 二、〇三六平方メートル
園地総面積 三、二一七平方メートル
認可定員 二四〇名
職員数 一〇名
園長 信行和子

 遠賀中央幼稚園園歌
    矢野洋三作詩
     原田季作曲
一、帆柱山から 朝が来て 赤いお屋根の すずめがチユン つくしの坊やも 顔出した みどりの草の芽 ぐんぐん伸びろ ぼくとわたしの 広場です 遠賀中央幼稚園
二、こぎましよブランコ一、二、三 お空のひばりも 降りといで 小川のメダカも よつといで みんな仲よく ぐんぐん伸びろ ぼくとわたしの 広場です 遠賀中央幼稚園
三、花いつぱいの この道を 歌をうたつて 肩くんで 青いぞお空は どこまでも 夢は大きく ぐんぐん伸びろ ぼくとわたしの 広場です 遠賀中央幼稚園

9 遠賀町学校給食センター     大字広渡一九五一番地

 遠賀町内小中学校の給食は従来単独に各校に於て行われていたものを、今回その落成により一元化された。同センターの運営は、教育長、所長、小中学校長、同PTA会長、学識経験者等一一名の構成にてなされている。対象学校は島門、浅木、広渡、と遠賀中、遠賀南甲で、同センター一日の給食能力は約三、〇〇〇食である。職員は所長外一二名でなされている。給食費は一食当り小学生一六七円強で月額約二、九〇〇円、中学生で一食当り二〇一円強で月額約三、五二〇円の内、それぞれ一部を町で補助している。

この施設の敷地は二、三五一平方メートル
     建物面積は七六五平方メートル
     総工費一二、四七一万円
     昭和五十二年三月十五日完成

第三節 社会教育

 昭和二十四年に社会教育法が制定され、戦後の社会教育に大きな一線が画された。また同二十六年には公民館法の成立によって更にその推進がなされ、遠賀町に於ても公民館による住民自身の教育が進められることになった。

 昭和二十六年五月二十五日発行の「遠賀村情報」によると「郷土の躍進は公民館から」という呼びかけのもとに

一、村内一部落も洩れなく公民館(分館)を設置しよう
一、私達お互の社会を明朗にしてあかるい郷土を建設しましょう
一、分館をつくって延びゆく青少年の保護育成につとめましょう
一、分館の出来た部落が文化環境の醸成と生活文化の向上が早くおとづれるでしょう
一、建物設置のない部落でも早く組織をつくって活動しよう

 と立ち上った。それから数年、当時の公民館主事中山司氏の努力で着実にその実績を重ね、昭和二十八年三月には広渡、遠賀川、今古賀、別府、千代丸、尾崎、鬼津、若松、島津、上別府、木守、浅木、虫生津、老良などに分館が設立されたのであった。その後もこの運動は続いて遠賀川、旧停、松の本、道官、東町、西町などにも建物ができて、地区に於ける公民館活動は、中央ならびに県からの呼びかけに呼応して活動の度を加えたのであった。その当時の公民館活動で主な行事としては

一、結婚の簡素化を図って、公民館結婚を提唱
一、学童の作品展示会
一、営農振興に関する諸事業
一、青年学級(青年を対象)
一、家政学級(主婦を対象)
一、成人学級(社会教育をなす)

 などであった。

中央公民館

一 社会教育の施設と機関

1 遠賀町中央公民館

 地区公民館については、古くは各集落にそれぞれ集会場などとしてあったものや、青年団の会場等が流用又は兼用されて、それぞれの時期に社会教育の場として使われて来た。

 昭和三十年に初めて中央公民館と呼ばれる建物ができ(現在の別館)、公民館活動の中心としてその役割を果して来たが、昭和五十年八月新たに役場庁舎横に、鉄骨コンクリート三階建の遠賀町中央公民館が建てられた。

建物概要歴代中央公民館長

 中央公民館に於ける社会教育は、婦人学級、家庭教育学級、乳幼児学級、高齢者学級、栄養教室、洋裁教室などで次の通り開かれている。

和裁教室(月曜日)
洋裁教室(水・土曜日)
料理教室(第一・第二木曜日)
栄養教室(第四水曜日)
生花教室(寿大学)
水墨画教室(第二・四水曜日)
ママさんコーラス(土曜日)
茶道教室

 その他公民館別館に於ても次の様に開かれている

3B体操(月曜日) 琴(火曜日)
生花(火曜日)  書道(火曜日)
民謡(木曜日)  三味線(木曜日)
民誦(木曜日)  詩吟(金曜日)
レクレーション研究会(一月、三月) 山友会(第一・三木曜日)
郷土文化研究会(第三土曜日)

 会員数約三十五名、毎月一回研究会を開き、会員相互の勉強をしている。その他春秋各一回バスハイクを催し、近郊から近県までも調査研究のため足を延している。

2 類似公民館(地区公民館)

 昭和四十年頃からは、新しく地域毎に地区公民館として再出発することになった。それまでは分館であったのが、類似公民館として、各地区毎に独立した存在となった。

地区公民館一覧

3 遠賀コミュニティセンター

 多様化しつゝある経済社会において、人間疎外と地域連帯性が問れているなかで、地域づくりのための社会教育活動の場として、豊かな人間性の創造と教養文化の向上をはかる目的で昭和六十一年三月完成した。

遠賀コミュニティセンター施設概要

 このコミュニティセンターは、町民は勿論であるが、町外の人にも広くコミニケーションの場として気軽に利用されるよう、軽喫茶の店舗を設け、室内での飲食もでき、調理も自由にできる厨房施設を有している。

 また、青少年の非行化が社会問題となっているなかで、青少年の健全育成を目的とした宿泊研修の場として、浴室(2室)を備え、隣接の体育センター、総合グランド等との有機的利用の効用が考えられている。

4 社会体育と施設

 昭和四十年代以降、経済の安定と国民生活の質的向上が促され、社会体育のニーズが高まり、本町においても人口の急増、余暇の活用、高齢化社会への対応など、社会環境条件の変化に伴ない、健康づくりとスポーツ活動が盛んになった。

 まず体育施設としては、住宅団地の開発計画のなかで、運動広場の確保、各地区内にある公有地及び河川敷等の整備、更に遠賀川駅南にある民有地約十六万平方メートルを取得し、総合運動公園として位置づけ、体育施設の総合機能の場として、勤労者体育センター、弓道場、グランド、テニスコート、等の完備が行われた。

 また、地域間においては、地区公民館体育部、スポーツ少年団、各種スポーツクラブ等組織化が行なわれ、学校施設の開放と相まって、各種スポーツの普及と技術の向上により、社会体育の底辺が広がってきた。

ア 遠賀勤労者体育センター

 所在地、大字広渡一四一二-二。昭和五十五年十二月十九日に着工し、翌年七月十日に竣工。総工費三億四千四六六万五〇〇〇円を要した鉄筋コンクリート二階建の体育館で、第6-89表の施設を有している。

体育センター体育センター概要

イ 遠賀町武道場

(1)第一武道場所在地、大字今古賀五一九-一。建築面積四七七平方メートル。昭和五十四年三月三十日落成。使用団体は、空手、柔道、剣道が使用している。
(2)第二武道場所在地、大字浅木一〇二八、建築面積三九〇・六三平方メートル。この施設は、旧浅木小学校講堂兼体育館としていたものを別途体育館が新設になったため、武道場として昭和五十六年四月に所管を移し、主として少林寺拳法を行っている。

ウ 遠賀弓道場

所在地 大字広渡一三九九-三(遠賀総合運動公園内)
構造 木造平屋建(一部鉄骨造)
施設面積
射場 一五六、三六平方メートル
的場  四四、二八〃
矢取道 三五、四〇〃
計  二三六、〇四〃
完成年月日 昭和五十九年十月三十一日

エ 遠賀総合運動公園グランド

 昭和五十三年に民間デベロッパーから遠賀町土地開発公社が取得し、これを町が制度事業に乗せ、昭和五十八年度から、野球、ソフトボール、サッカー、ゲートボール、ラグビー、陸上競技等多目的グランドとして利用。面積は二万五、二〇〇平方メートル(東西二一〇メートル、南北一二〇メートル)を有し、四〇〇メートルのトラック、夜間照明の施設(昭和五十九年三月完成)を備えている。また、当施設に隣接し、テニスコート(六面)が昭和五十九年十一月にオープンし、屋外スポーツの中心施設として広く利用されてきた。

5 社会教育機関及び団体

 社会教育は、学校教育課程を除いた部門を総称し、生涯教育を主目的として青少年、婦人、成人、高齢者等の組織的教育活動に対して常に附属機関、団体等により、客観性を求め、また住民のニーズをもとに諸計画の立案、意見具申、諮問更に実践を通じて社会教育の推進に果す役割は大きくなってきた。

ア、社会教育委員会

 委員七名をもって構成し「急激な社会構造の変化に対処する社会教育のあり方」について研究調査し、新しい視点に立って社会教育に関する諸計画を立案し、また、教育委員会の諮問に応じ、意見の具申を行うなど社会教育の総合的機関として期待を担っている。

イ、青少年問題協議会

 青少年の非行化に対応する附属機関として、昭和二十四年に法制化されたが、この非行化現象は、昭和四十年代以降経済の安定成長と相まって、都市化、情報化、高速化、や物質主義、受験競争などのなかで、質的に尖鋭化し、大きな社会問題となっている。

 本町は、昭和三十九年に条例化し、本協議会を発足させ、町長を会長に委員十一名をもって構成、青少年の非行に対する総合的調査審議機関であるとともに各種団体等を網らし、連絡調整をはかり関係行政機関に意見の具申を行なうなど、活躍の分野が広まってきている。

ウ、公民館運営審議会

 社会教育法のなかで、公民館については、地域住民の学習の場であると共に、各種団体が提携して地域の環境改善や青少年教育の場とし、更に地域連帯意識の醸成のために果す役割を示しているが、この公民館事業の企画運営に対する調査審議機関として、昭和三十八年八月規則を定め、七名の委員で構成されている。

エ、体育指導委員会

 社会体育の振興という立場から、スポーツ教室の開設、スポーツクラブの育成・指導など住民に対し、スポーツの実技の指導・助言を行い、体育・スポーツの活性化をはかるため、体育指導委員十二名を配し、新しい社会体育の視点から期待が望まれている。

オ、地区公民館連絡協議会

 町内地区公民館長二十三名で連絡協議会をつくり、急激に変転する社会構成のなかで、地域連帯性を呼び起し、豊かな人間性を求め、社会教育の側面からの推進役として、地域活動の旗手として活躍の分野は多様。役員構成として各校区から二名あての計六名と会長一名で理事会を構成している。

カ、豊かな心を育てる施策推進協議会

 遠賀町では、昭和五十五年に「青少年育成町民会議」が発足し、青少年問題に取り組んできたが、昭和五十九年には文部省より「豊かな心を育てる施策推進モデル町」に指定され、町を挙げて青少年健全育成活動を推進することとなった。その組織は推進協議会・推進委員会・推進実行委員会・推進部会からなっているが、町内のあらゆる組織を網羅したものであった。

 指定年限は二ヶ年であったが、青少年が自然と親しみ、地域活動を通して、たくましく豊かな心を持って、二十一世紀を背負って行く基盤作りと、この精神は、学社連携のなかで受け継がれて行かなければならない。

キ、青少年育成町民会議

 青少年の非行化が社会問題となり、明日を担う青少年の健全育成を主目的に昭和五十五年五月結成。当初、行政主導で町長を会長として運営をされたが、昭和五十九年に民間主導に切換え今日を迎えた。

 活動内容は、啓発活動が主で、組織に健全育成・家庭・補導環境の三部会からなり、関連団体として区民会議、青少年問題協議会、青少年補導員連絡協議会、PTA、子供会育成会などで構成されている。

青少年育成町民大会決議文
あすの郷土を担い、日本の将来を築くものは青少年である。青少年が健康で、広く正しい見識を養い豊かな情操と、高い徳性を磨き、有為な社会人として、成長することは、青少年の誇りであり、使命であると共に、青少年の発展に力を尽くすことは、町民全ての大きな責任である。
我々は、この認識のもとに青少年に対し、限りない愛情と、信頼を寄せ、国・県及び町の施策に呼応し、青少年育成の為町民総ぐるみの、長期的運動の根強い展開を決意した。
ここに青少年の皆さんの、自奮・自励を請い願い、町民各位の積極的な参加推進を呼びかけるものである。
右決議する。
 昭和五十六年二月十五日
      遠賀町青少年育成町民会議

ク、遠賀町体育協会

 発足年次は明らかでないが、昭和二十年代の中ごろ陸上競技を主体にできたようで、三十年代になると軟式野球、卓球、バレーボールを加え、町内各区対抗競技を主催し、スポーツの普及に努め、その後、剣道、柔道、空手、などの武道が少年を中心に普及し底辺を広げた。現在、水泳、バスケットボール、バドミントン、庭球、ソフトボール、ゲートボール、弓道、相撲など十六団体で構成している。

 昭和六十一年度には、体育協会の拡充強化がはかられ、体育施設の部分的管理と各種大会行事など行政部門からの委託を受けた。

ケ、遠賀町婦人会

 婦人団体の発足については明らかではないが、戦中・戦前を通して、主婦会、母の会、国防婦人会、愛国婦人会の呼称で、婦徳を練磨、銃後の守りを固めるかたわら、地域の生活組織の機能を果すにない手として、位置づけられてきた。

 戦後、民主的婦人団体のあるべき姿が打ち出され、本町としては、昭和二十八年頃、地域婦人会として発足をみている。

 昭和六十年には婦人会支部十二。会員数五〇〇名で、婦人の地位向上をはかることを目的にかかげ、教養講座、ボランティア・広報・スポーツ・生協活動及び視察研修など広範に亘り、地域社会の近代化を目ざし活動が進められてきている。

コ、子供会育成会

 各地区公民館を母体とした子供会育成会は、地区全体が一体となり、次代をになう青少年がたくましく、豊かな人間性の創造を目的とし組織されたもので、事業内容としては、地区毎に独自の活動が実施されるほか、地区のPTAと協力して野外活動講習会、親と子の集い、ジュニァリーダ研修会、少年少女球技大会、子供まつりなど行っている。

6 同和教育研究協議会

 同和問題は、現代社会において「もっとも深刻にして、重大な社会問題」であり、「その早急な解決こそ国の責務であり、同時に国民的課題である」と同和対策審議会答申に述べられている。

 同和問題に関する今日までの取り組みの経過について考えると、行政施策および教育実践の面では、一定の発展と定着の実績はあげられているが、まだ各地において、差別事象が依然として発生しており、これらの背景には同和地区に対する歴史的・社会的な偏見が根強く存在していることを、見落してはならない。

 本町においても、町民ひとりひとりが、本当に同和問題を自分自身のものとして、全町民ぐるみで解決していくためには、みんなの力で研究組織を作り、もっと真剣に取り組みをすることの必要から、遠賀町社会教育委員全員による発起人会をつくり、昭和五十二年十二月八日「遠賀町同和教育研究協議会」が結成された。

 この会は、町内各種の機関、団体の参加によって構成され、全町民の理解と協力のもとに、同和教育の研究と推進を図る自主的な団体である。

 組織は、社会部会五十二、学校部会八で計六十二の機関、団体が参加し、運営に当っている。

 この目的を達成するため、本協議会は、町と一体となって、昭和五十三年以来、講演会や刊行物の配布などにより啓蒙と差別意識の除排絶に努めてきた。

 その活動の具体的な例として、昭和五十九年度同和研究協議会社会科部会の事績は次のとおりである。

町同研五九年度事績 社会部会
○五九・五・一五 事務局部会
 ・五九年度の活動方針及推進計画の具体的な策定
○五九・五・二二 理事会
 ・活動方針・推進計画・決算・予算・規約改正・役員選出
〇五九・五・三〇 評議員会
 ・五九年度の事績及び決算について
 ・六〇年度の予算及び計画について
 ・規約の改正、役員の選出と承認
○五九・六・八県社会同和教育担当者協議会総会(於福岡市)
 ・社会同和教育担当者の心構え
 ◎同和問題啓発強調月間……(七月)
 ・街頭啓発活動――チラシくばり(七月二日)  駅頭及目抜きの場所
  啓発立看板懸垂幕(中央公民館)による町民への呼びかけ
 ・社会部会企業部門会研修会(七月一〇日)
  「同和問題と企業の社会的責任」
   県企業同和問題研修指導員 馬場 猛 氏
   県八幡公共職安統括指導官 安村文雄 氏
 ・強調月間講演会(七月二一日 於中央公民館)
  「宗教と同和問題」元社会同和教育担当者会長 原田重明氏
 ・強調月間筑豊地区講演会(七月二六日 於飯塚市)
  「部落差別解消にむけての啓発と教育」宇都宮大学教授 横島章氏
 ・同和教育研修会(七月三〇日 於中央公民館)
   学務課・給食センター職員研修「同和問題解決のために」
○五九・八・二七~二八 県社会同和教育担当者会合宿研修会(於芦屋町)
 ・市町村社会同和教育担当者の同和教育推進上の課題解決に向けて
○五九・一〇・一九 社会教育関係団体リーダー同和教育研修会
 ・地域交流懇談会の実践と今後の課題
○五九・一一・一 理事会
 ・同和教育の充実強化、同和教育研究大会、について
○五九・一一・一九 評議員会
 ・同和教育研究大会について
 ・同和教育の充実と同和問題の学習
○五九・一二・八 同和教育研究大会
 ・私達の生活と人権問題 法務省人権擁護委員 加藤正夫氏
○六〇・二・六 社会啓発研究会(於福岡市)
 ・部落差別の現実に学びながら社会啓発を深めよう
○六〇・二・二三 婦人会同和教育研修講座(於中央公民館)
 ・人権学習と同和問題
○六〇・二・二八 社会教育担当職員同和教育研修会(於中央公民館)
 ・行政として、今、取り組むべき同和問題
○六〇・三・六 北九州教育事務所管内 社会同和教育担当者研修会
 ・同和問題に対する社会教育職員としての責任と課題
○六〇・三・八 事務局部会
 ・本年度のまとめと来年度の展望
○六〇・三・二九 理事会
 ・本年度のまとめと来年度の展望
 ◎広報による啓発活動――(もっと考えようみんなの同和問題)
 ・原点にかえって
 ・同和問題とは
 ・基本的課題としての同和問題

第四節 遠賀町の文化

一 「岡県集」の人々

 「岡県集」は文政十一年に鞍手郡古門の神官で国学者の伊藤常足が編集したもので、その後天保六年に橘尚平と共に再選している。更に林次敏により校訂されたものが、大正四年に活字本として刊行された。

 伊藤常足門下には遠賀関係の多くの人が知られていて、当時の文化が偲ばれる。同集から遠賀町出身者及び居住者の作品とその略歴をしるす。

花似雲  広渡 釈道一
木の下によりてぞ花としられける山より山にかかる白雲
真宗本派西京本願寺末広渡村妙雲寺住職且道弟締道の子で、寛政七年鞍手郡植木村真宗蓮照寺住職、両度賞誉をうける。

待恋  広渡 柴田知道
待詫てまどろむ夜半の手枕は夢うつつとも知られざりけり
本名新四郎広渡村柴田弥三次知則の子、同村の実弟林吉知の養子となる。

山家  広渡 松本久蔭
世をうとむ山里ながら花もみじさかりの比は人ぞ待るる
初め主計後に郡頭大夫と改める。広渡村神職松本大和清躬の長男、家事をつぎ神職となる。文政九年立屋敷村保食神社を再興。「北陸志」未稀のまゝ歿。

神祇歌  広渡 松本清信
うけもちの神のみたまを祝はすは青人草の飯に飢そせん
通称掃部助初名は帯刀、広渡村神職因幡清直の子、本姓野上氏宗像大宮司家臣の裔という。

初雁  今古賀 柴田勝友
さびしやと思ふ秋にも初雁の鳴渡るこそうれしかりけり
通称重兵衛、今古賀村柴田兵三郎勝成の嗣子、農に力む。

鶯  木守 土師守善
わが植えし梅をねぐらとさだむらん軒端ゆかしき鶯のこえ
通称源吉木守村大里正小林弥一郎成文の長子。父成文同村土師甚作守躬の養子となり、後故あって本姓に復す。守善土師家をつぎ、文政十一年里正となる。

松風如秋  木守 小林成文
涼しさにあかぬふけひの浦なれば秋かと思ふ松のゆふ風
初め才助後弥一郎と改む。木守村小林只次成信の子、同村里正土師甚作守躬の養子となり文化八年養父の職里正をつぐ。十三年兼岩瀬觸普請方、文政三年芦屋町保正になる。以て其子源吉守善土師本姓に復し六年木守觸大里正。

故郷虫  木守 土師武伴
浅じふに人まつ虫の声きけばなみだの雨もふるさとの庭
通称茂八、埴生村里正土師甚五郎武則の子、武則埴生に移住後木守に留り農を営む。

河御秡  木守 土師武則
立よりてけふの御秡の川なみの音にも夏の別れをぞしる
通称甚五郎初名宅右衛門号不伐、木守村里正土師宅平致隆二男、文化四年若松村里正、十一年芦屋村里正、文政三年居村里正兼普譜方、晩年埴生村里正となる。

題しらず  木守 久野養圭
渡るべき浅瀬も深くなりにけり藤戸のせとの五月雨の比
木守村の人、父寿庵兄養市、家業をつぎ医となる。

夏月  木守 木村善友
夕風にひるのあつさも忘れつつすずしき月の光をぞ見る
通称治右ヱ門木守村農折尾作次善近の子、勤農の名あり、島津村里正、子孫木村と改む。

関時雨  木守 僧洞岩
杉村を過ぎもあへなで神無月しぐれのあめにあふ坂の関
木守村村田弥助五男、山鹿村浄土宗大願寺の弟子となり、文政四年師の跡をつぎ住職となる。

暁鹿  木守 僧仙路
あかつきは小田を離れて山ふかく入野の末のさを鹿の声
豊前小倉平井宗定の子、長門国萩禅宗大照院、木守村直指庵に住む。

三月盡  浅木 毛利行房
花ぞめの衣の色ぞ惜まるるけふをかぎりの春ぞと思へば
下底井野村の人、後福岡にて商業を営む商号飯塚屋。延宝年中に歌集一軸を浅木神社に奉納、本姓森。豊後国玖珠郡に出る。

野萩  浅木 有吉直徳
秋の野に賤もあわれと咲萩の花を残してまぐさかるらん
初め長平後與右ヱ門と稱し、下底井野村即ち浅木の人。里正有吉喜平長男。文化十四年九月別府村里正、文政四年普譜方、七年八月更に御成方を兼ね九年十二月嗣子の代迄姓と帯刀を許される。天保三年下底井野大里正、五年二口糧を賜ふ。七年木守觸大里正となる。

浅木 門司成道
水茎の岡の港はかわらねどうき瀬に落し身はやつれつゝ
初名右京陸奥介と稱す。下底井野村神官佐渡守成徳の子、安永八年京都にて上柳四明の門に入り三年後帰国神官となる、寛政十年六月従五位、陸奥介十一年社家頭取、天保二年歿七十三歳。

雪中若菜  別府 筋田稲雄
深かりし昨日の深雪とけ初て霞むあなたに若葉をぞつむ
通称文四郎号楚石、別府村字高家筋田儀平次広常の子。
やまいあつくなりける比師とたのみ聞
ゆる人のもとによみてつかわしける            別府 占部長世
ながらふるかひはなけれど君ますと思へば惜き我命かな
通称主税、別府村神官和泉安弘の子、家を継ぎ学才があったが文化十二年六月十五日病歿、享年二十四。

富士山  中間 仰木茂生
みな月の空目とばかり思ふまで照日に匂ふふじのしら雪
初名五郎八寿作と称す。中間村里正仰木弥作維敬長子。文化十年居村里正、文政三年頃末村里正に転じ天保二年居村里正に復す、続いて別府觸大里正となり治績多く褒賞数回に及ぶ。

山路花  二村 船津則行
足柄の山路につゞく花見れば雲の中ゆくここちこそすれ
文化七年下二村兼広渡村里正、さらに養育方を兼ねる。

桜  猪熊 江藤信行
たをるべき枝こそなけれ山桜さかりを惜む我こころより
文化五年広渡村里正。

呼子鳥  吉田 一田敬民
花散りて人なき暮の呼子鳥かへらぬ春をねにやなくらん
初め平蔵通称平一郎、木守村里正土師宅平致隆四男。吉田村大里正一田與市直彦の養子となる。寛政九年頃末村里正、享和二年吉田觸大里正として治績がある。

山花  吉田 一田歌子
たぐひなや峰もふもとも桜戸のあけくれかかる花の白雲
吉田村大里正一田與市真彦の女、その養子平一郎の妻。大友遠霞の母。

深夜虫  芦屋 黒山須磨子
秋の夜もふけゆく野べの白露を涙にかりて虫のなくらん
木守村里正土師甚五郎武則の女で、芦屋村黒山長門守吉雄の妻。

寄糸恋  芦屋 安部安任
年をへて逢事だにもかた糸のいかにくるしき契なるらん
通称仁平尾崎村安部仁六の長子、芦屋にて商業を営む。

二 上野芳草と「涙余編」

 上野芳草は名を良秀といい、修験者上野宗秀の長子である。現遠賀町高家に生れ、修験の業を修め、和漢の学を講し、皇典の研究につとめた。

 安政二年から十数年間、家業の傍ら、家塾を開き地方の子弟の養成につとめ、その数二百余人に及んでいる。明治元年福岡藩学問所指南加勢役勤務、四年教官となり、且士籍に列せられた。その後同五年大宰府神社禰宜を拝命し、後宗像神社権禰宜に補せられる。同八年再び大宰府神社禰宜兼少講義を拝し、同十年中講義に補せられた。その後改革により職を去ったが、神職に六年、教職に在ること二十年に及んでいる。

 芳草の逝去を悼む知友などによって追悼集として明治十四年四月に「涙余編」が編まれた。「涙余編」は宮本茂任の編首にはじまり、月形健、植木養寿、松田丈一郎、宮本茂任、月形順、村田訥郎、小林義縄、宮本保、黒山敏行、梅沢隆、ニ村嘯庵、高橋藤一郎、藤田謙、小林芳三郎、千手政一、沖直敬、吉嗣拝山、大城谷桂樵、岡山直道、有吉生三、桑原徳郎、大賀半農、土師八郎、等の追悼文と宮本茂任、海妻甘蔵、山路重固、石松元善、平川一波、水野迂叟、江藤正澄、占部稜威男、林次敏、石田一、末永茂世、板垣清子、嶺常広、阿部勘内、石田真道彦、土師武貞、岡部東三郎、青木精一、新用五、千手政一、桜井元保、辛島並樹、辛島秋津、辛島久、東野重利、吉田成樹、安部莵道彦、筋田純一、甲斐一彦、湯屋基守らの和歌を集め、附録として「梅屋先生詩歌」を更に跋は友人月形順が記している。その一部を次に示す。

寄梅懐旧
文好むあるし訪ひしも夢なれや梅の香のみは家に残りて    宮本茂任
はからずも別れし主し忍ばれぬ軒端さびしく梅の咲るに    海妻甘蔵
梅の花かをり斗を記念にて散りしなげきを残す宿かな     山路重固
去年まで祭詞の花を咲かせつる人をこひてや梅も咲らん    石松元善
梅の屋の花よりもろく露霜と消にし人ぞ忍ばれにける     平川一波
咲やこの花は散りても幾千とせいろ香を残す人は君かも    水野迂叟
梅の屋の香細しき名は残れどもおもかけ見えぬけふの夕暮   占部稜威男
梅花常なき風に散りしより世をうぐひすのねにのみぞなく   林次敏
鶯の来つつ鳴にも慕かな梅屋の君のまししむかしを      石田一
なき人の為にとをれば白露にぬれぬ葉もなし野辺の秋草    末永茂世
きみが身はいつしか消えて秋草の露にぬれそふわが袂かな   板垣清子
秋の野に匂ふ千草のいろいろに過しむかしを忍ぶあわれさ   嶺常広
花すすき秋はきのふと過ぬれどほに顕れし名とそ朽せぬ    阿部勘内
秋草の葉毎における白露はなき人忍ぶ涙なるらん       石田真道彦
秋風に野辺の尾花の招きてもかへらぬ人ぞ悲しかりけり    土師武貞
残る名を今はかたみの花薄ほにあらはれて忍ばるるかな    岡部東三郎
名も高き籬のきくに置露のこほれて世にも匂ひぬるかな    青木精一
玉の緒の結ひもとかぬしら露のまさへ忘れて忍ぶ古事     千手政一
高かりしその名はいまにきえねども消えて悲しき露の玉の緒  桜井元保
人しれずぬるるたもとやおもふ事いはれて森の秋の白露    辛島並樹
秋風のふくたびひとに思ひつる露と消にし玉のゆくへを    辛島秋津
かくはしきその名残して草の上の露ときえにし人をしぞ思ふ  辛島久
年ふれど悲しき秋の忍ばれてつゆよりそふる我涙かな     江藤正澄
秋の夜の露とき遊れど紅葉のいろふかき名は匂ひさらめや   東野重利
世を清く雪と消ても残れるはあつめし方との光やけり     吉田成樹
ことにつけものにつけつつゆきあたるそと目育の心地こそすれ 筋田純一
はるこまの鈴鹿の山に振りかかる雨もわびしき夕くれの空   甲斐一彦
やや寒くなるをの里にさよ更て秋のあはれを打ちぬるるかな  湯屋基守

追悼

三 伊藤常足と遠賀町

伊藤常足と遠賀町との関連については、神社系列の流れとして深いつながりがあるが、それに加えて常足が歌の指導等に、芦屋などに度々出向いている。その往復に徒歩で木守へ下り、木守から舟便を利用していたようである。文政から天保の間の同家の「家事雑記」から遠賀町関係のものの一部を抜書すると

 文政十四年一月六日
浅木門司陸奥介殿礼に見ゆる也――浅木は急ぎにて茶菓子、盃斗出す也
 同二月四日
魚沖、虫生津曽八見廻に行く
 同八月二十四日
魚沖、山鹿に帰り今古賀又助に寄り肴少し持参也、夕同人底井野大神の神楽出勤、其夜直に引取
 同九月二十六日
浅木大宮司に装束借りに原の栄蔵遣す
 同九月二十七日
木守村より底井野迠利三郎遣す、神楽面借る
 同九月二十八日
今夕人数は今古賀、広渡、底井野、黒崎、香月、此人数也
 同九月二十九日
山鹿、朳、芦屋、広波、上底井野、今古賀、此人数也
 同十月四日
今夕浅木日待にて大弐参る。兼て浅木より借用の装束数事付返す
 同十月八日
広渡郡頭大夫来る、今古賀の義に付来る。
 天保五年六月二十七日
魚沖芦屋より帰りがけ、木守源吉方にやすむ、夕帰る。
 天保六年六月十日
村中、虫生津堺の役目参る。右に付又助今日のつとめは朝の間ぎりにて引取役目に参る由、昼の前浅木大宮司見え「年波草」一冊持参。
 同九月九日
大弐方は今古賀より猪熊の神に参る。魚沖方は郡頭大夫同道にて今古賀より木守に寄り浅木まで来て、今夕浅木の神楽。
 同九月十九日
父子共に朝飯後嶋津まで参り、浅川にて神楽。
 天保七年一月四日
虫生津曽八殿見ゆ、大弐方は大谷より虫生津浅木まで年礼に至る。鬼津商人より鯨買代銭直拂。
 同三月九日
木守小林弥一郎より使来る、鰹一連持参る、之は酒屋名改め度由にて頼に参、親父他行し供申出す。弥一郎出状は下関に送出す。
 同四月二十五日
別府村千代丸の商人見えびん付一本買、外に玉子五個買。
 同十月一日
別府村大庄屋来る。大鯛二枚持参、茶酒本膳出す、帰りに柿少し出す。
 天保八年八月二十五日
高家天満宮に参詣仕晩方帰着仕る。
 同十月十六日
高家村文四郎見ゆる、菅家真筆の目ききなり同人あしやに参る由に付書状相認親父手元に頼む。
 天保十年八月二十三日
倉谷石屋甚介石すえに来る。
 天保十一年一月八日
別府大庄屋源作子に「世説」十冊合本返す。
 同三月十一日
親父あしや行、今夕別府大庄屋弥助殿方に止宿、久助別府まで荷物持参り夫よりあしやへ買物。
 天保十二年九月十八日
広渡より老良神楽出勤。
 天保十三年四月十四日
別府大庄屋三兵衛殿より出仕参る。

 このように遠賀と常足との関係は深く、ことに浅木宮並に門司家との風交も多く同家に残された遺品を見ることができる。その一部を

 寄千鳥祝   伊藤常足
浜千鳥むかしのあとをたづね鳴く君を八千代とまたいはうかな
 暮春     青柳種麿
よし野川きしの山吹花さけばこがねをあらふ滝つしら浪
 広渡落雁   有吉真徳(与右衛門)
さす船の竿になれて空とても広き渡りに落つる雁金
 寄雪神祗   (土師)甚五郎武邦
みつかきにつもれる雪も神さびていともたふとしふるの宮居は
 寄千鳥祝  (土師)武貞
行帰り友よぶ磯のちどりさへたゞ君が代をちよとなくらむ
        伊藤道保
家づとに折かざしてよ位山のぼる高根の八重桜花
 至誠    吉田千渓
天地もつひに動きて眼に見えぬちからは人のまことなりけり
 社頭榊   原田房太郎
神垣に生えし真榊日のはえてうつる鏡に朝日さすなり

四 占部稜威男と今泉神社八景

 別府の占部家の記録によると、同家十五代の当主占部稜威男は大正十三年一月二日歿となっていて享年七十七歳というと、逆算して弘化四年頃の生れということになる。家業の神職を勤めながら家塾「柳枝軒」を開き、子弟の教育に力をそそいだ。又今泉神社の昇格にも同氏の努力に負う処が多かった。

 占部家に伝わる文書に「瑞穂舎家集」がある。この大部分は占部稜威男の歌であるが、別に「今泉大明神社々記」の中に「御社は東に向ひて土地高く清潔なり。遠く東南を望めば遠賀川を隔てて鳥野杉山帆柱の諸山蜿蜒として、春は遠霞たなびき、冬は積雪の眺め実に云ふべからざる佳景なり。当社の八景を掲ぐれば、社頭古松、南山秋月、松林山晩鐘、千代丸夜雨、高瀬落雁、今古賀夕照、遠賀川白帆、檣山積雪、等なりき」とある。この八景の和歌があったが、いまは次の四首だけが知られている。

 南山秋月   占部遜民
松が枝にかゝられるほとやすめる夜の くまとみなみのやまの端の月
 高瀬落雁   仰木綏郷
いをしろの穂の上に落つるはつ雁の こえもたかせのさとの夕ぐれ
 今古賀夕照  占部稜威男
千町田に夕日のひかりさしそへて ゆたけき秋の色ぞ見えける
 檣山積雪   仰木維馨
しら波の花やかゝると見るまでに 雪ふりつもるほばしらのやま

 この神社記は元文三年戊午二月八日、占部宿禰市太夫という人が、柳野五三郎主の請により記すと書かれているが、四首はずっと後のものである。

 前述「瑞穂舎家集」から数首を掲げると

 社頭月
おやしろの御垣の松にすむ月の きよきを人の心ともがな
 芦屋に宿りて
物部の矢さきの浦にあさりする 小舟のかゝり波間より見ゆ
 五月雨
さみだれにみかさまさりて川の辺の 柳の糸にうをもよりつゝ
 若木梅
移し植し若木の梅はことしより いく春かけて花や匂はん
 山家梅
とひ来ませ垣根つゝきに咲匂ふ この山里の梅のはつ花
 碪
秋の夜をあまた重ねてから衣 しろくも打つやせとのしづの女
 宮地嶽神社に詣でて
かしこくも三つのから国したがへし 神のみいつの世にしるき哉
 心
山川の清きながれをなべて世の 人の心となすよしもかな

五 吉岡禅寺洞の来訪

 文化人の来訪した記録の少ない遠賀町だが、昭和十八年二月(一九六六)俳人の吉岡禅寺洞が虫生津を訪れた。それは大東亜戦争さなかであった、古野繁実少佐の墓参のためこの地を訪れた禅寺洞はここで次の四句を作り、その中の一句が高田宮境内に句碑になっているものである。

野の果に貝塚はあり虫生津春日
貝塚は見えねどそのかみの日に逢へり
祖国これ麦生の麦の虫生津や
椿光り竹なごみ遺影にまみえもどる

 吉岡禅寺洞のことは「福岡県の歴史」(昭和五十六年刊)に次の様に書かれている。

―――一九一七年(大正六)福岡を訪れた高浜虚子は十月十八日、大宰府に行き同夜都府楼跡にたたずんだ。そのときの感懐を句にして、虚子は次のように詠んだ。
天の川の下に天智天皇と臣虚子と
この句を誌名にした俳誌「天の川」は一九一八年(大正七)七月、吉岡禅寺洞が創刊したものである。禅寺洞はのち一時、門司の門司新報に勤めたが、一九二四年(大正一三年)一月辞職して福岡に帰り、今泉に住んで無季俳句に専念した。――

 古野繁実少佐の辞世の歌は、昭和十八年十二月八日の前日、厳父彦市氏に宛てたハガキに書かれている

君のため何か惜まむ若桜
散つて甲斐ある命なりせば
いざ行かむ綱も機雷も乗り越えて
撃ちて真珠の玉と砕けむ
靖国で会う嬉しさや今朝の空

 古野少佐の竹馬の友であった楠繁実も、高名な歌人ではないが、その歌は真実を咏ったものが多い。木村盛夫編の「楠繁実遺稿集」から次に

月今宵ひとりし行けばそこはかと 軍神古野のことぞ偲ばる
恋も捨て名誉も捨てて身も捨てん 水底に散りし君を慕いて

六 高家天満宮献納額の歌

1 菅廟十二勝

菅廟十二勝図  慶応紀元乙丑季上澣 菊圃藤圭謹写
  高家梅林  謙信  高家 筋田六郎
 東風吹けばむかしの匂にそにほひける天満神のみつかきのうめ
  片坂紅葉  広蔭  別府大庄屋 仰木廉助
 秋くればこゆるもかたしかたさかのもみぢの錦たつ心地して
  千代丸霞  春道  別府村 江藤坦作
 けさみればまつのみどりのさかぬまで霞こめたる千代丸の里
  潮懸孤松  守信  木守村 庄屋土師新作
 吹く風の音たつ夜半は汐懸の松にも波のよす音ときく
  別府晩鐘  利貞  虫生津村 嶺隆次
 山寺の夕くれ□□□□□鐘のねききなれ□もののかなしさ
  仮殿霊石  良秀 高家(宮司) 上野良秀
 よろづ世を経るとも朽ちし仮どのの石よりかたき神の誠は
  花園春月  利和  野面村 枩尾又六
 春の夜の月はおぼろに見ゆれども匂さやけき花園の里
  小倉鹿鳴  敏慎 鬼津村庄屋 仰木藤次
 うすひさす都ならねど小倉山なにこそたてれさを鹿のこえ
  檣山積雪  正心 福岡(画巧) 安藤菊圃
 ほばしらの山の高根につむ雪は豊けき年の貢とぞみる
  洞海晴帆  伯綏  別府(廉助嫡) 仰木猷蔵
 くきのうみのあしまにさぎのあさるかと見ゆるは舟の帆かけなりけり
  古賀夕照  伯忠  高家 筋田恕平
 草も木ももみぢやすると見るまでにこがるる里の秋の夕映
  花園春月  和義  別府村 村田延兵衛
 花園のはるのしずくもたちはいておぼろに見ゆる花園の里
  木守落雁  信生  小烏掛庄屋 小林才作
 □□かへて立つ秋風を□□□□□みゆるは□□□木守かりがね

2 法楽和歌大額

法楽和歌大額
 別府村大庄屋 仰木 廉助広蔭
 福岡画巧   安藤 菊圃正心
 宮司     宮本院上野良秀
 木守村庄屋  土師 新作守信
 小鳥掛庄屋  小林 才作信生
 鬼津村庄屋  仰木 藤次敏慎
 廉助嫡    仰木 猷蔵伯綏
 当所     筋田 六郎謹信
 虫生津村   嶺  隆次利貞
 野面村    杢尾 又六利和
 別府村    村田延兵衛和義
 同      江藤 坦作春道
 当所     筋田 如平伯忠

 慶応乙丑元年冬日、これら十三氏によって歌学研精のためこの篇額を庿前に掲げたものである。その中から地元関係の人々の歌を次に拾う。

いかばかり心やいそぐうめの花もえゐつるはを待もあらずて   伊藤保親
さくら色に雲もかすみもそめにけり嵐の山の春のあけぼの    伊藤直江
さきわけし花と見るまで呉藍の小染の梅にゆきのつもれる    上野良秀
いとと見し尾上はあともなくなりてふもとにつもる花のしらゆき 土師守信
こうこうとのほる旭の山のはに匂い添えたるはつさくらかな   仰木広蔭

 その他嘉永七年寅正月に吉永茂七氏の願成就のための献句額があり、この中に地元の聴雨、の句もある。

風のなき日当眠たけな柳かな  聴雨

 又明治四十二年九月吉日奉納の大きな句額がある。これは上段に「遠賀郡知足庵蘭甫宗匠評」下段は「東京市ニ柳庵如石宗匠評」となっていて、総数二百数十句が書かれている。その中から地元広渡の織田三甫(三平)氏と、高家の胡蝶氏の句を拾ってみる。

紐とけば嬉し月雲花の友   三甫
筧から来るや小萩の花いかた 同
香に曇る月に風情や梅の花  同
寒月や草木をけづる風のおと 同
明月や海は桂のはなむしろ  同
有明の月ほど白し梅の花   胡蝶
波風の中に声すむ千鳥かな  同
水明り程の月夜やほととぎす 同
世に遠き思や雪の一軒家   同
明月や人の波打つ須摩の浦  同

 評者の一人知足庵蘭甫については文久元年(一八六一)に版行の「満理爾波集」にその作品が掲載されていることも知られている。

3 野村望東尼

 明治維新のころ、勤皇の志士の活動をたすけて、その偉業を達成させた、と伝えられる野村望東が、高家の上野家にひととき隠生したといわれ、その納屋も現存している。

短冊

 望東尼の筆蹟をはじめ、数葉の短冊なども同家に所蔵されているが、当時のことを記したものはない。

夏山の松は老木もなかりけり ただわかみどりのぶばかりにて 望東
山桜やまと心の清ければ 散るも開くもなづむなくして    同

七 広渡八剣神社奉納額

広渡の里十五勝地

  八剣神社
日本尊神のみいづは剣大刀光まさりたりすえの代までも
  神殿川鯉魚
千早振る神のはなちし鯉なれば末の世までもつきせざりけり
  遠賀川鉄橋
遠賀川広き渡りも安らけく開けてかよふくろがねのはし
  安丸城趾
いつの代に城は跡なくなりにけん名のみ残れる安丸の里
  長岸寺の鐘
遠賀川の堤を来れば古寺のむかし恋しき入相の鐘
  遠賀川艜舟
高瀬舟数も知られず遠賀川のぼりくだりに運ぶみつきは
  老良暮雪
袖はらふ影だにもなし千町田に老楽の里の雪の夕ぐれ
  砧里襦衣
おのづからそゞろ身にしみ音ふけぬきぬたの里の夜半の月かげ
  今古賀の夕立
行く人のかげふきくらし時の間にいたちわたる今古賀の橋
  松本庵の古松
吹く風も松もむかしのまゝならずいくよ経にけん古寺の松
  吉原川の蜆
あされどもつきせざりけりみもつゆも吉原川に生れし蜆
  遠賀川駅
古の島門の駅ぞしのばるゝいまはたおなじ遠賀川の駅
  井地川の大渕
ふる寺は流れしまゝに○○○となほしのばるゝ井地の大渕
  柿の木屋敷旧蹟
末の世も名に残りたる柿の木のやどのむかしのしのばるゝかな
  重広の夕汐
さす汐のかげもみちきて重広の川瀬によどむ月のさやけき
  明治三十八年仲春 岡部東三郎種之

 作者岡部東三郎は底井野村助役など勤めた人で、本町と何らか関係のある人のようで、上野芳草追悼の「涙余集」にもその名が記されている。

八 松琴亭聴雨と浅木句会

 聴雨こと二村秀実は、安政三年八月十五日福岡市大名町に父清水重右衛門、母カモの長男として生れる。幼少の頃父に死別、母の再婚に従って浅木在住の医師二村玄甫の養子となり、玄甫の死後養父の跡を継ぎ医を開業。本業は勿論、漢詩、俳句、書道等もよくして村人達の指導や交遊に精進した。

 旧八幡市黒崎藤田に移り住んでからも、俳句の指導などで余生をたのしんだ。昭和十二年三月二十八日八十二才で世を去った。浅木に残った数人の俳人等によるその追悼記録も残っている。芳賀喬一氏所蔵の「故松琴亭聴雨宗匠追悼折発句集御巻」中秀二百章、奥秀三百章から三秀を

人 月の雪解けてか飜す竹の露 円志
地 節約に心緩めな熟るる稲  柳花
天 星のふる様に太るや時雨雲 春山
  加章 弔聴雨居士の霊
  時雨誘ふ空慕はしく仰ぎけり 其葉

 この柳花は芳賀倉平で、この頃の浅木句会の世話などされたことと思われる。

 その他に俳句会関係では千代丸の吉田千溪、らとも交流があった様であるが、あまり資料が残っていない。

 虫生津峯一二氏所蔵の先代峯石松追悼句会の撰句集があるがその中から町内作家を求めると

帰られぬ道に傾く寒さかな       石松
事足りし竃や秋の夕煙     虫生津 竹翠
夕風やこころにかゝる鴉哺   虫生津 竹仙
亡き人の魂ある如祭りけり   尾倉  天外
証言の曇りも晴れて梅の花   虫生津 農夫
無双とした足あり月の天津富士 花園  零外
紅梅や家貧なれと刀鍛冶    浅木  聴雨

 これは大正三年如月のことである。

折発句集

九 遠賀洗心会の人々

 如水庵千溪こと吉田利七は明治四年七月島門村に生れ、若い頃は家業に専念した。同三十一年から一期島門村収入役、同四十年から村農会創立以来永年に亘り議員として産業に貢献された。

 昭和四年遠賀村となってからも村会議員として奔走、村事に尽力された。師系は不明だが歌道、俳諧に長じられて、現在町内にもそのことを知る人は多い。昭和三十年六月、八十四才で逝去された。

 一子利世も教育委員、教育長、公民館長などをされ、歌や俳句にも精通されていた。

 遠賀洗心会については、その前身ともいうべき行満寺十七世大勧住職の頃の「友話会」に続くもので、友話会を中心に昭和十二年に千溪らが発起人となり、十八世住職嶺外を会長として出発した。世話役としては吉田千溪、織田一、柴田十久夫、柴田隆助らが当り、昭和五十五年で一応解散している。

句会報

 吉田千溪の主な作品を拾ふと

 合併十週年祝賀会
栄え行むらのありさまかへりみてととせのむかし偲ぶけふかな
檣の山のは昇る月のせて遠賀川くだるふねの涼しさ
檣の山はま白く見えながら雪晴渡る遠賀の長橋
家々のけぶりは空に棚ひきてゆきに晴行く遠賀の千町田
霧深み姿はみえず遠賀の橋わたれる人の声ばかりして
  皇孫殿下御誕生奉祝
寒菊や目出度旭さす御園
  其極翁の追悼会にて
春の旅出る永却の別れかな

 柴田十久夫氏が生前まとめられた「洗心会歌集」の稿がある。その中に洗心会のおこりについて書かれている。

昭和十六年十月、竹化翁を主として玄月、千溪、洞海、東峰、昇月、観山等同郷の交詢を温むる為年毎に七回輪番にて雅筵を張り書画吟味をなし、終日俗塵を離れ清談観遊を恣にす、偶竹化翁墨竹を画き洗心会席上と書く、爾来「洗心」の二字を以て会号となし、本会を組織し広く同好の士を求め、毎月一回衆と共にその楽を斉うし自己洗心を目的となす。又撰者は矢賀部恒雄、内柴御風、石松寿、岡沢隣太郎、谷守功、正木恩、仰木実、の七名の諸先生の御指導を乞ひ今日に至る。因に本会は年を重ねること四十余年、会報(月一回)五百回を突破記念として追悼会を催し故人の霊を慰める歌会と致したいと存じますと共に、先覚者の歌の記録を残し、保存に努める所存であります。因に会報に掲げし歌の数は勿論無慮四万余首に達しています。
先輩の詠まれし歌の万余首ひもとくほどによむほどに胸せまりくる
読後の歌  十久夫書写

 三巻の歌集、昭和十六年より同五十一年九月までのものの中から次に収録する。

水底も春めきぬらし萌え出るせりの若葉のみどり見え立つ    嶺外
くだかけの声もきこえてたかだかと暁の空からすなきゆく    国松
米俵庫に収めて冬ごもる賤がふせ家のゆきのしづけさ      鶴吉
あさもよし木曽の檜原の暁の木遣賑ふ宮木ひくらし       南峰
老人も子供等ひきつれて小川辺に若菜つみけり心のどかに    信義
千木高き神のみいらかほのぼのとあけゆく空に鴉なくなり    一
春の雨はれて見渡すみよしののかすみて匂ふ花の白雪      藤九郎
市に出て妻木とふるる小原女の声のあわれを誰か聞きしる    利七
鯉のぼり風におどれる家の軒ふくやあやめ雄々しかりけり    茂十
川越えになやまされてし大井川今は昔と語りてぞすぐ      久太郎
五月雨をよろこびかわし握る手に御代をうたいて競ふ玉苗    房太郎
折よくも一夜明石の波まくら浦さやかなる月を見るかな     義夫
ほのぼのと白むみ空もうちかすみ春や立つらん鶯の鳴く     恭山
賤が里いさゝ小川の波もなくむつみて暮らすみよぞ長閑き    青城
山をぬき橋を渡して国々のつなぎも近しくろがねの道      茂
神代より瑞穂の国の名にしおひてみ糧ゆたけき豊秋津島     猛壮
秋風も露にも色はなけれども錦色どる八千草の花        仲太郎
明らけくこの世照らせと禱るなるこころうけませ伊勢の大神   定司
万代のさため誇りて年々にみどり弥増す庭の老松        荒五郎
初秋の野辺の千草の白露をいのちとすたく虫の声かも      末子
山畑に誰かすてけん古鞋真白における今朝の初霜        敏造
それそれの政党論議戦かわし再び国を建てんとぞする      すゑ
風もなく雲もなくして七星の輝く夜空たゞ平和なり       文生
田人われ疲れし馬の鞍とりて背の汗をふき伺葉与へり      貞清
世とともに移らせ給ふ大君の行幸を拝し胸ぞふさかる      貞
日の丸の旗に野山もれたり筑紫の旅の陛下迎ふとて       正彦
朝風に若葉そよける街路樹は復興都市の象徴と見ゆ       直行
畠を打つ土にも春の香りあり吹く風ほゝにあたたかくして    源次郎
思出の若きいのちの盛りあがる日記ひもとき妻とほゝえむ    有太郎
深緑おい茂りたる神苑に戦時をしのぶ正中の宮         ための
妹と共に月を眺めて夕涼み昼の暑さもともに忘れぬ       知策
朝鮮の地下にねむれる吾子かなし永久に詣てん日たになくして  富久恵
犯罪の人は多くそなりにけりこころの紐のゆるみたりけむ    信次郎
青山の常盤の色にさかゆらむたてし新室木の香りして      久雄
さくら散る夕の庭を訪ふ蝶の疲れやすめて翅ととむる      善六
新婚の祝ひのむしろはれやかに喜びにみつ妹背の顔       一枝
若松の出船入船にぎわいて気笛は町に響き渡りぬ        隣太郎
冬服に着かえし今朝のポケツトにひやりとさわるパチンコの玉  春江
無沙汰せし恩師の行末幸あれと久方ぶりに年賀状かく      十久夫
戸畑港かもめとび交ふ鯖あじを満載したる船をかこみて     宗敏
寒餅の中にいれたる新海苔のかほりもうれしうすみどりして   房子
一枚の書簡箋にも一国の政治動かす力秘めたり         源太郎
旅人の昼餉に憩ふ野辺の茶屋茂る樗のかげを涼しみ       乙吉
いまこそときほひほるらむ炭山の納屋の灯昼をあざむく     初己
秋風の吹くにつけても真葛原かへらぬ人ぞいよよ恋しき     肇見
遠賀川流れはいかににごるとも清くすすまむ洗心歌会      くに子
早苗取り一休みして畦ふちに母かもて来し壮丹餅味あふ     なるみ
病院の渡り廊下の壁際に誰か置きにけむ一鉢の花        遠里
さわやかに月のあかりにひきて来し畑の大根把にたはぬる    たつ子
中秋の空はすみつゝ静かなり月見のむしろ虫の音のして     照一
福禄寿かけし弓矢に仇はなく毛利の家は千代にさかゆらし    谷守功
初孫の初誕生の祝餅神に供へし今日のうれしさ         喜茂
いつ見ても姿気高き富士の山わきてうるはし雪晴れの朝     利世
海の幸山の幸ともとりそろえ湯豆腐かこむ今日の倖       すえの
何事かささやきながら口よせてにこやかに笑ふ孫のか愛ゆき   達代
庭のかけつりたる篭のカナリヤは声うつくしくさえつりにけり  由紀
いかにして種こぼれけんたわむれか古木の朽穴に生ふる宿り木  敏蔵
つゝじ咲く岳より見ればヂーゼルカー音ひゞかせて鉄橋走る   とみの
鉄輪の近くなりけり車窓よりあがる湯けむりおちこちに見ゆ   房江
わが国の誇なりけり冨士の嶺は来光拝む人波の山        寿壮
豊かなる趣味に生きつゝ健やかに喜寿迎給ふことのめでたき   正木恩
めでられし年を重ねて君がたのほきまつらばやたけなはの春   祝部
十字架の生きたる話説の天草に更に名をなす天草五橋      次郎兵衛
幾度となく自慢話をくり返し聞かせて一人ほこり顔なり     種敏
工場のうらの空地の水たまり水鳥二羽が啼きつゝ遊ぶ      斌
農業の夕をさきてケース作るクリスマスの夜も我が疲れいて   絹子
久々に訪れし友と向いあい重ぬる盃つきぬ語らい        隆亮
花重ね又重ねてぞ花まつり釈尊にくむ甘茶幾度         隆助
ブロックを積む職人のひたいより噴き出る汗を拭ふともせず   那須
今日もまた訪ね来ぬやとこころまつ酒豪の友の賀状手にして   勝利
帰省せし次男も共に新年の三社詣に暁にたちぬ         すみ子
かつて炭坑の撰炭場なりし壁朽ちてハゼの木一本紅葉しており  八重
梅林の花の香漂ふ神苑にかけろうたちて霜とける音       吉太郎
うかららに看とられにつ姉の意識いまだもどらず春寒き日よ   その
斉読の声小さくて息つまるが如き英語の授業を終へぬ      三和子
吉田利七翁の霊前に供へる十六首の内
敷島の道のしるべとそびえ立つ遠賀老松枯れてさびしも     隣太郎
塵の世の心洗いて清らけき永久の眠りにつき給ふらむ      政子
美しき山の桜を見し人は散りての後もしのひこそすれ      石松
いのちあるうたを数えて詠みのこし眠れる大人悼まむ      定司
短冊をみ霊の前に供へんとかきつゝ偲ぶ友の面影        信次郎
朝露は消えともあすはおくものをゆきてかへらぬ大人かなしき  久雄
としふればまたゝきもせむほととぎす永久にきかれじ君のみ声を 藤九郎
うつくしき八十五歳の世の旅を終へて往きにし君そ尊き     嶺外
歌の道悟るも夏のみしか夜にあかつきまたでゆくそかなしき   恭山
歌に句にひしりの君のゆきましてにわかに淋し遠賀の集ひも   善六
遠賀の野に歌の道よくふみわけし吉田翁逝きて悲しき      知策
言の葉の庭の翁逝きませと薫りは高し遠賀に残らむ       直行
千代八千代松の翠は変らねど人の命の限りかなしき       松雄
遠賀の野に輝く明星失せゆけば昨日も今日も亡き人思ゆ     宗敏
面影を偲ばかなし千代丸の里のあたりにほとぎす啼く      一
敷島の輝く明星逝きまして遠賀の集ひも暗となりぬる      一枝

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